ひもろぎ逍遥

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カテゴリ:織幡神社・おりはた・宗像市( 7 )

織幡神社にごあいさつ


織幡神社
 


今日は「森のオアシス」さんと、武内宿禰命に御挨拶してきました。


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竹内宿禰が仲哀天皇を慕って植えた銀杏の末裔は青々と茂っています。




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空気が清澄で、山も海もくっきりとしています。




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海も波がキラキラ。




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漁から戻って来る船が次々と港に入っていきます。

島々の名前が分からなくて、残念。
調べると、正面は勝島。左の岬は神湊のある所。
そうか、そこから「みあれ祭」を撮影したんだ。

「ご祭神のことが分かって参拝するのはいいですね」
そんな話をしながら、竹内宿禰の話をポツリポツリ。




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数年前は何も知らなかった、るなですが、
その方の事を知って参拝すると、また新しい世界が広がりました。







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by lunabura | 2014-09-16 22:00 | 織幡神社・おりはた・宗像市 | Trackback | Comments(0)

織幡宮(6)竹内宿禰は異敵の襲来から守ろうと言った


織幡宮(6)

竹内宿禰は異敵の襲来から守ろうと言った


今日は原稿をメール便で送付。
ちょっと一息ついています。
山笠が終わるとついに夏本番か!というイメージですが、今日、ようやくワシワシが鳴き始めました。
ニイニイゼミからワシワシへという循環は無くなって、最近は、いきなりワシワシからです。

今日は、久し振りに織幡宮へ。
手前で湊が見えたので、寄ってみました。
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鐘崎漁港から織幡宮のある山を見て、そうだったのか!!
竹内宿禰がここをとても気に入ったという理由が分かりました。
見事な神奈備山だったんですね!!
海から戻る時、この山はまさしくナビゲーション。

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ここから織幡宮はすぐそこです。一の鳥居に着いて、あれ?
光景が変わっている?
新しく石段が付いています。
向こうに見えるのがさっきの神奈備山。

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この宮についていろいろ学んだ後に撮る写真、すっかり視点が変わりましたよ。


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かつて見えていなかったものが見えるようになりました。
それは、右端に見える小さな石囲い。
沓塚です。
竹内宿禰が沓を残したまま昇天したと言われる聖地のしるしです。


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シキハムさま。
これは宿禰の名前なのでしょうか。

分かっているのは、竹内宿禰がここに御魂を鎮めて日本を守ると誓ったということ。
まさか三年前は、こんな時代になろうとは思ってもいなかった。

祭神の意味を知って、今日は参拝に来ました。
我が国を守ってくださいと。

そして沢山の縁をいただいて、ガイドブックが書けたお礼を。

神功皇后は自分の支援者の聖地におもむいて祈りました。
どんな山でも島でも厭わなかった。
そして事が成就すると、お礼参りをしました。
自分が行けない時には代参をたてたのでしょうね。

皇后と竹内宿禰の生きた時代とその前の時代、異敵が日本に上陸しようとして、
玄界灘沿岸では各地で戦いがあっていたことを知りました。
それを筑紫の国々の人たちは連合して守り抜いたのですね。
こんな大事な歴史を知る事ができた。

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沓塚で参拝すると太陽がキラリと光りました。
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下りて行くと、再びキラキラと輝きました。


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こちらでも。




今日の木漏れ日はすごい。


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ありがとうございます。


織幡宮




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by lunabura | 2013-07-14 21:44 | 織幡神社・おりはた・宗像市 | Trackback | Comments(0)

織幡神社(1)風と海と空の中の宮は海の神様が勢揃い


織幡神社(1)
おりはたじんじゃ
福岡県宗像市鐘崎字鐘岬
風と海と空の中の宮
海と勝利の神々が勢揃いだよ


玄界灘に突き出た岬に鎮座する神社。
それは風と海と空の中にありました。

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今日はいい天気。鳥居の先、左の方に丘が見えます。
その頂上にお宮はありますよ。さあ、では参りましょう。
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ほどなく階段です。すぐに拝殿の屋根が見えますが、あわてないで。
もう一つ石段が隠れています。
かつては鳥居を一歩くぐると、照葉樹林の原生林の中にはいる風情でしたが、
今は陽光がさんさんと降り注ぐ宮になっていました。
海の風と光を浴びて行きましょう。
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参拝をすませて境内をぐるりと廻ると、ここは岬の頂上部。
こじんまりとした広さの境内です。
樹木の間に踏み分け道がありました。ついつい覗きたくなります。
あっ。海が見えた!
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だから海辺の神社は大好きです。この踏み分け道はしっかりと固まっています。
2000年以上前から、ここに座って、海上の船を見たんでしょうね。
監視するのにもってこいの場所です。

では、御祭神を見て行きましょう。

竹内大臣、志賀大神、住吉大神、
天照大神、宗像大神、香椎大神、八幡大神、
壱岐真根子臣

この顔ぶれは、「海と船と勝利の神々」ですねえ。
竹内大臣を祀る宮は初めてですが、これまでも、ブログ内でチラチラと名前は出ていました。

彼は神功皇后を支えて新羅と戦い、御子が生まれた後も母子を全面的に支えました。
神功皇后と別の船に乗った時にも、御子を預けられるほど、彼は信頼されていました。

光さんから
竹内の一族が宮地嶽の巨大古墳を祀っていたという伝承を伺いました。
この神社に武内大臣が祀られているのは、昔なら唐突だと思ったでしょうが、
その古墳がこの岬から10キロ離れた福津市にあるとなると、
それほど不自然ではなくなって来ました。
この説はまだまだ検証する余地があります。

この神社を祀った海人族たちは、どんな暮らしだったのでしょうか。
普段はそれぞれの入江で漁業を営んでいて、
天皇家から(言い換えれば物部氏から)依頼があると、船を出す。
そんな光景を想像しているのですが、彼らはエリアごとに、住み分けをしていて、
航海の安全を重視したネットワークを作っているように見えます。

その証拠がこの神社の祭神の組み合わせからも伺えます。
この織幡神社宗像族のエリアですが、
ここに祀られた神の名前に「志賀大神、住吉大神」があります。

この志賀大神志賀海神社の三柱の海の神です。
(底津綿津見神、仲津綿津見神、表津綿津見神)
阿曇族の祭神です。

住吉大神は表筒男、中筒男、底筒男の三柱。
ルナが想定している、オリオンの三ツ星です。
住吉族の祭神です。

どれもが海の神であり、彼らが心から安全を祈った神であるのが分かります。
その次の御祭神の宗像大神宗像三女神です。
宗像族の守護神です。

こうしてみると、この岬の宮には、この玄界灘の海の神様が全部勢揃いしていました。

他に、出てくる天照大御神は宗像三女神の母神ですよ。

そして、残ったのは三柱。
その中の「香椎大神、八幡大神、」はこのブログでお馴染みですね。
香椎大神は神功皇后です。
八幡大神はその御子の応神天皇
そして、初めて見る神さまは最後に残った壱岐真根子(いきのまねこ)となりました。

その結果、この宮の御祭神は玄界灘の海の神さまたちと、
新羅と戦った神功皇后と御子と重臣の竹内の宿禰
+壱岐真根子
という組み合わせになりました。

これらのキーワードは「海、船、戦の勝利」です。
これまで逍遥した神社の神様ばかりなので、よく分かりますね。
忘れた?

ん~。そんな方は
香椎宮、志賀海神社にもう一度行ってくださいね。

さて、この神社の名前は織幡(おりはた)です。
いったい、どんな伝承があるのでしょうか。
            (つづく)


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by lunabura | 2010-07-14 22:55 | 織幡神社・おりはた・宗像市 | Trackback | Comments(0)

織幡神社(2)紅白の旗がここで初めて織られたよ。


織幡神社(2)

紅白の旗がここで初めて織られたよ。
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今日は神社の由来について、『玄海町史話伝説』
(玄海町教育委員会)を抜粋しながら見て行きましょう。


平安時代からオリハタ宮と書いてあり、地元ではシクアン様と言われています。
正しくはシキハム様です。

シキハム様…不思議な名前ですね。これがオリハタ神社の別名だという事です。
なんだか気になりますが、これ以上は調べようがありません。
古い時代、この社は盛大な祀りが行われ、
特に平安時代は住吉宮以上の社格の高い神社でした。

第一は宗像大社ですが、その次がこの織幡神社だったそうです。
ここは大変重要な聖地だったんですね。

縁起が書いてありました。
『宗像大菩薩御縁起』に、
「金崎織幡大明神は本地は如意輪観音、垂迹(すいじゃく)は竹内大臣の霊である。
神功皇后の三韓征伐の時、紅白二流の旗を織り、宗像大菩薩の御手長
(神儀の象徴たる長い旗竿?)に取り付けられたので織幡の名がある。
異国襲来の海路守護のため海辺に居り給う」云々(うんぬん)とあります。

この話には、仏教の影響が見られますが、もともと竹内大臣が御祭神だという事です。
神功皇后が新羅と戦う時、紅白の二枚の旗を織ったのが始まりでした。
この旗を長い竿に取り付けて、船の先頭で振って勝利を導いたのですね。
そのお蔭かこの戦争に勝ったので、軍師とも称えられる竹内大臣の御霊を
異国の襲来から海路を守護するために祀った事情が分かりました。

さらに縁起が伝わっていました。
『織幡宮縁起』(天和3年)
神功皇后及び武内宿禰、洞の海より高津山に登られ、神々に祈られ、
次いで波津(はつ)の浦で軍(いくさ)の旗を織らしめ給い、
その所を名づけて「はたの浦、大旗、小旗という。
今のはつの浦とは言いなまりなり。
ここに織幡大明神とは号するなり。

この岬の東側に波津の浦はあります。
そこで旗を織らせたので「旗の浦」と言ったのが、「はつの浦」になまったのだそうです。

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岬の全景です。右側から登って行きます。
この神社を守るかのように、武人の石棺が麓や中腹にあるそうです。
江戸時代に人骨や鉄剣が出たのですが、ホリホリと崩れてしまったとか。

この「紅白の旗を織らせた」という事は、背景には機織りの出来る技術集団が存在したという事です。
ここは宗像大社のお膝元。
宗像族は、船や漁業だけでなく、高度な服飾文化を持っていたのがわかります。
衣服はもちろん、船の帆も必要です。

この集団に、紅と白の旗を織らせることが出来た竹内大臣は、ここと深い縁がある事が想像できます。

この「紅白の旗を織った事」は当時の人々にもよほど印象深かったのでしょうか、
この旗に関する神社と伝承が他にも二つ、近くにありました。
玄海町多礼(たれ)柚木(ゆのき)の指来(さしたり)神社の縁起書に、
「この神は神功皇后が異国に出兵の時、御旗を司った神なので、
旗指(はたさし)大明神と言ったのを、今は訛って指来(さしたり)明神という」
とあります。

なるほど、旗が出来上ると、それを采配する人が要るのですね。
この人は海の事を熟知して、戦うのも畏れぬ人だったのでしょう。
その人がこの指来神社で神として祀られているというのです。

面白い事に、この時、船の帆を縫った神さまも伝わっています。
津屋崎町奴山(ぬやま)の縫殿(ぬいどの)神社は、
「里民の言い伝えには、昔、神功皇后が新羅を征し給う時、船の帆を縫った神である、」
と言っている。
今、神名について思うに、これは兄媛を祀った神だろうか。


などと、『筑前国続風土記』にあります。 この伝承は厳密に見ると、時代の錯誤が見られます。
それはそれとして、帆を縫う人も必要です。
今回は、これが事実かどうかより、のちに兄媛の指導を迎え入れる技術者たちが
いた背景が伺われる点に注目したいと思います。

この兄媛(えひめ)については、『日本書紀』にこう書かれています。
応神41年2月、阿知使主(あちおみ)らが、
呉(くれ)の国から筑紫に帰って来た時に、胸形大神より工女を乞われ、
連れて来た兄媛(えひめ)、乙媛(おとひめ)、呉織(くれはと)、
穴織(あやはとり)のうち、兄媛を奉る。


阿知使主が中国まで行って、四人の織姫を連れて帰る途中、
宗像族の王がどうしても一人欲しいと望まれて、兄媛がここに残ったという話です。
その兄媛を祀る神社がこの縫殿神社です。
亡くなったあと、日本に機織りの技術を伝えた神様として祀られました。

こうして、オリハタに絞ってこのエリアを見ると、
弥生時代からすでに、華やかな織物文化があったのがしのばれます。

その伝承のある神社の位置関係を見てみましょう。
地図 織幡神社、波津の浦、指来神社、縫殿神社、宮地嶽神社、宗像大社


大陸や韓半島から技術者を連れて帰ると、
クニの王の所に挨拶をして、泊めてもらう事もあるでしょう。
お土産として布が献上されたと思われます。
それを見た王たちが技術者を欲しがる気持ちもよくわかります。

都に行く四人の織姫の一人を是非と言って置かせたのは権力の裏付けもありました。
織姫たちは、とても大事にされた事でしょう。
古代の人たちも、素敵な布で身を飾りたかったんですね。

「スセリ姫」の所に書いていますが、大国主の命は、妻と別れようとする時でさえ、
「何色の衣装を着ようか」なんて、歌っています。赤や青や黒など、色彩豊かです。

天照大御神は、神の為の布を織らせるために、精進潔斎した御殿を用意しています。

弥生土器の底に布の織り目が残っていたりするので、
織る文化はけっこう早かったのが分かります。
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これは、沖ノ島の女神に奉納された、金メッキの機織りのミニチュア版です。
20センチぐらいだったかなあ。奈良時代のものです。
実際に織る事が出来るんですよ。宗像大社の神宝館で見る事が出来ます。

(つづく)


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by lunabura | 2010-07-13 21:26 | 織幡神社・おりはた・宗像市 | Trackback | Comments(2)

織幡神社(3)祭神・壱岐真根子の悲劇


織幡神社(3)

壱岐真根子の悲劇
祭神・竹内大臣と壱岐真根子臣

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さて、一番最後に書かれている祭神の壱岐真根子(いきのまねこ)を
ネットで調べると、
中心の祭神・竹内大臣と深い関わりがあるのが分かりました。
その話は『日本書紀』に載っているので、それを現代語訳してみます。
応神天皇の7年の秋9月に高麗人(こまびと)、百済人(くだらびと)、
任那人(みまなびと)・新羅人が並んで来朝しました。
その時、武内の宿禰(すくね)に命じて、この韓人(からひと)たちを率いて、
池を作らせました。その池は韓人の池と呼びます。(場所は不明。)

応神9年の夏、4月に武内の宿禰を筑紫に派遣して、百姓(豪族たち)を監察させました。
その留守の間、武内の宿禰の異母弟の甘美内(うましうち)宿禰が、
この兄を落とそうとして、天皇に讒言(ざんげん)しました。

「武内の宿禰は常に天下を取ろうと思っています。
今聞いたのですが、筑紫に行って、密かにはかりごとをして、
『筑紫を分裂させて、三韓の王を呼んで自分に従わせて、天下を取ろう』
と言っているそうです。」と申し上げました。

すると、応神天皇はすぐに使者を使わして、武内の宿禰を殺すように命じました。
武内の宿禰は嘆いて言いました。
「私はもとより、二心(ふたごころ)は無く、忠義をつくして天皇にお仕えしていた。
いったい何のわざわいなのか、罪もないのに死ねというのか。」と。

そこに壱岐直(いきのあたい)真根子(まねこ)という人がいました。
その人は武内の宿禰と見た目がそっくりでした。
武内の宿禰が罪もないのに空しく死ぬのを惜しんで、言いました。

「まさに、大臣は忠義の心で天皇に仕えています。
はかりごとなど悪い考えがないのは、天下のすべてが知っています。
願わくは、密かにここを去って、朝廷に参内して、
自ら罪の無き事を伝えて、それから死んでも遅くはないでしょう。

また、誰からも『私めの姿かたちが大臣そっくりだ。』と言われます。
だから、私めが大臣に代わって死んで、大臣の清らかな心を明かしましょう。」
と言って、即座に剣で自分を刺して亡くなりました。

武内の宿禰はひとり大変悲しんで、密かに筑紫を去って、船に乗って、
南海を廻って、紀水門(きのみなと)に泊まりました。
ようやく帝に面会を許されて、罪のない事を弁明しました。

応神天皇は武内の宿禰と甘美内の宿禰の言い分の食い違いを尋ねました。
すると、二人は自分の言い分を変えずに争いました。
どちらが正しいのか決められませんでした。

そこで応神天皇は天地の神に誓わせて、探湯(くがたち)をさせました。
(探湯とは熱湯に手を入れて、ただれた方を邪とする審判法)
こうして、武内の宿禰と甘美内の宿禰は磯城(しき)川のほとりで、
探湯をしました。武内の宿禰が勝ちました。

すると、すぐに太刀を取って、甘美内の宿禰を打ち倒し、ついには殺そうとしました。
応神天皇は勅命を出して、許させて、
武内の宿禰の母方の紀の直(あたい)の奴婢にしました。


壱岐真根子にはこのような悲劇がありました。

壱岐真根子をネットで検索すると、
佐賀県の武雄市若木町に伏屍(ふし)神社があり、
そこに壱岐真根子が祀られていました。
運んできた彼の遺体が重くて、その近くに埋葬されたらしいです。

また香椎宮の社家系図に、
武内の宿禰が壱岐真根子の娘の豊子と結婚して、子供が生れている
というのが掲載されていました。

これらを総合すると、武内の宿禰は、
百済など韓国の事情に詳しい壱岐の真根子の所に行って滞在した時に、
刺客が間違えて真根子の方を殺してしまった可能性が出て来ました。
すぐに刺客を捕えて、事情を知った武内の宿禰は、
応神天皇の誤解を解きに行った。

大まかには、こんな流れがあったのかもしれません。

銀杏の木に込められた思い。


境内に銀杏の木があり、立札にこう書いてあります。
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下関・忌宮神社・御祭神・仲哀天皇をしのんで、
武内の宿禰公が植えられた木の末裔だと伝えられています。

仲哀天皇が香椎宮で急に崩御されたあと、
下関の豊浦宮まで遺体を運んだのが、武内の宿禰でした。
仲哀天皇から信頼が厚かったので、命をかけて、
残された神功皇后御子を支えて来ました。
その御子が応神天皇です。
その応神天皇に誤解されて殺されようとした無念さはいかほどかと思われます。

竹内宿禰は靴を残して昇天した。
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この境内にはさらに、不思議な沓塚(くつづか)があります。
立札にはこう書いてあります。
祭神 武内の宿禰公
両沓(ふたつのくつ)を残して、昇天される。その沓を祀る。

この文からは肉体を残さずに昇天したという、神としての死に方を与えられています。
武内の宿禰がどれほど大切に思われて神格化されたかが分かります。

かれはこの近くで亡くなったのでしょうか。墓所が近いかもしれません。
この玄界灘を見下ろす丘陵地帯は、古墳だらけです。
その初期の古墳あたりに、探してみたら面白いなと思いました。

さ、では気分転換に神社から見える海の景色をどうぞ。
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(つづく)



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by lunabura | 2010-07-12 22:01 | 織幡神社・おりはた・宗像市 | Trackback | Comments(4)

織幡神社(4)武内宿禰の荒魂と和魂が祀られていた。荒魂・和魂とは何だろう。


織幡神社(4)

武内宿禰の荒魂と和魂が祀られていた。
荒魂・和魂とは何だろう。

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さて、『福岡県神社誌』を見ると、当社の始まりについて伝承が載っていました。

社記に曰く、当社の草創について、
履中天皇年中、武内大臣がこの岬に来て、肉体のまま昇天された所を、
和魂(にぎみたま)の表としてこれを沓塚(くつづか)と名付けた。
その霊地に荒魂(あらみたま)の表を立てて織機神社と名付けて、
壱岐真根子の子孫の人が伝えてこれを祀っている。

代々の帝がこれを尊崇して、毎年仲春4日に幣帛の勅使を下していた。
武内大臣の神変力にて、異敵退散のめでたき旗を織ったので、
代々の帝が毎年11月中のうの日には新嘗祭の手向けをして、
他と違った扱いをしていた。我が国守護の霊神という。


前回紹介した沓塚について、神社にこのような由来が伝わっていました。
武内大臣がこの岬に来て、肉体のまま昇天したとき、
靴だけ残ったので、それを沓塚と名付けて、和魂を祀り、
神殿を建てて荒魂を祀ったという事のようです。

「表」というのは初めて見るので、よく分からないのですが、
「和魂と荒魂」というのは、古神道に言う「一霊四魂」のうちの二つを指します。
これは人間の霊的な姿を表わしたもので、霊は四つの魂から成り立っているという考えです。
その四つとは和魂・荒魂・奇魂(くしみたま)・幸魂(さちみたま)です。
この織幡宮の場合、武内宿禰の四魂のうちの二つを表として留め置いたというのです。

四魂について辞書を引くと、和魂の中に奇魂と幸魂があるという説もありました。
すると、四魂を留めたと言っていいのかも知れません。

貝原益軒が採集した伝承によると、
武内の宿禰がこの山を素晴らしいと言って、
「自分が死んだら神霊は必ずこの地に安置せよ。異敵の襲来から守ろう。」
というのが始まりである。

という事でした。

伊勢神宮に行くと、拝殿の左側の杜の下がった所に
荒祭宮(あらまつりのみや)があります。
そこには天照大御神荒魂を祀っています。
こうすると、四魂を分けて祭祀するケースがあるのが分かります。

聖洲さんの話によると、
「その昔、亡くなった天皇の荒魂・和魂・奇魂を留める祭祀をする巫女(みこ)がいた」
という事です。
これらから、四魂についての定義はまちまちですが、死んでから神霊として留めるために、
荒魂や和魂を玉などに留めるような儀式が存在していたと想像されます。

多賀神社でも、イザナギの命の神霊を玉に留めたというのがありました。

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(NHK 「極める」佐野史朗のなぞの石学)

これは出雲地方の古墳で見つかった玉石です。
石には真っ赤な水銀朱が塗られて、棺の上に置かれていたそうです。
ルナの勝手な想像ですが、この赤い石には亡くなった人の和魂や荒魂などが留められて、
死後もその地を守る祈りがあったのではないかと思いました。


一霊四魂(荒魂・和魂・奇魂・幸魂)については、いろんな解説ありますが、
現代の武道家の興味深い体験談があるので、一部抜粋しながら紹介したいと思います。

「安藤毎夫 × 小山一夫」
(合気道家)  (ヨガ行家)

「安藤師範が一人稽古中に遭遇した神秘体験」

安藤 朝早く、4時頃に起きてひとりで稽古をしていたんですね。
    何日かやっていたんですが、
    あるとき、とても集中できるような感じになったんです。
    腰を落とした体勢で、普段は膝や腰が痛くなるのに、
    そのときは痛みが消えていったんですよ。
    それで、「これはなんかいい調子だな」と思ってつづけていたら、
    鏡に映った自分が消えていたんです。

増井 見えなくなったんですか。
安藤 そうそう。最後には目の玉だけを残して
    鏡の中の自分は綺麗に消え去ってしまった。
    それでふと我に帰ってみると、身体に感覚がない。
    皮膚と空気との境がないし、手の感覚がないんです。

増井 痺れているような感覚とも違うんですか。
安藤 違います。融けているような、空気と一体化しているような感覚。
    これは凄いぞ、何かあるんじゃないかと思って試してみないといけないと…。
小山 滅多にないことですもんね(笑)。

安藤 それで寝起きを共にしていた、現在は養神館高田馬場道場の
    千野進師範を起こして、稽古に付き合わせたんですよ(笑)
    それで彼に私の手をつかませてふっと動いたら、見事に吹っ飛んだんですね。
    しかも彼は何をされるのか全然分からないし、予知もできないという。
    自分でも、何かをしようという感覚じゃないんだよね。

小山 それが古神道でいうところの鎮魂の状態なんですよ。
安藤 そうなんですか。
    無心というか、空(くう)になっているという感覚ですね。
小山 ええ、最高に気が充実していながら、手や足の感覚がないんです。
    意識は非常にクリアだけど身体の感覚がない。
    無重力の空間に浮かんでいるようで、
    しかも自分がとても大きくなったような感覚になってくる。
安藤 そうです。そうです。
小山 それが鎮魂のできている状態なんです。

増井 その感覚は小山先生も体験なさっているんですか。
小山 それがないと審神者(さにわ)にはなれないんですよ。
    体験としてはほとんど同じで、
    自分の体が融けてゆくというのも、確かにそうです。

増井 どれくらいの期間、出来ていたんですか。
安藤 2~3時間で消えました。

小山 『延喜式』という平安時代中期に書かれた、
   律令の執行規則をまとめた文書があるんですが、
   その中に鎮魂の事が書いてあるんです。

   それによると、人間の一霊四魂というのは身体の中ではなく、
   肉体の周囲に浮遊しており、それを丹田に鎮めて初めて鎮魂となるんです。
   一霊四魂を丹田に収めるためには道ができなくてはいけないんですが、
   一度道ができると鎮まりやすくなります。
   ところがその道を断たれてしまうと、逆に鎮まりにくくなるんですよね。

安藤毎夫 養神館合気道「龍」師範
小山一夫 クンダリーニ・ヨーガ 火の呼吸 主宰
増井浩一 取材・文 (「月刊秘伝」 2005年1月号 BABジャパン)

雑誌に掲載された対談の一部を紹介しました。
これによると、平安時代にはすでに「一霊四魂」が認識されていたのが分かりました。
肉体の周囲に浮遊しているんですね。それを丹田に鎮めるのが「鎮魂」。
「鎮魂」はとても集中した時に起こり、意識はクリアで身体の感覚がない状態。

「一霊四魂」は人が亡くなると、肉体から離れてしまうもの。
武内宿禰はこれが分かっていて、それを織幡宮に特別な神事で留めさせたのが分かりました。
それは死んでもなお、この国を守る為でした。
これを当時の人々はよく知っていて、それで歴代の天皇も、この宮を崇敬していたのですね。

この織幡宮は武内宿禰の神霊を留めたお宮なんだ。
武内宿禰については、調べていくと、日本の文化の基礎作りに関わる人だと分かって来ました。
それが千数百年のままの姿で残っているなんて、すばらしいですね。
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織幡宮のある佐屋形山と地島と大島。
ここは大変危険な海路で、これを見守るように織幡宮が祀られています。
(つづく)



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by lunabura | 2010-07-11 23:44 | 織幡神社・おりはた・宗像市 | Trackback | Comments(6)

織幡神社(5)沈鐘伝説と海女


織幡神社(5)
沈鐘伝説と海女

この神社の麓の参道は公園化されています。

沈鐘(ちんしょう)伝説

参道に入ってまず目に飛び込んで来るのがこの巨大な石。
これは、近くの海底から引き揚げられたものです。
昔から何度も試みられて、ついに炭鉱王が引き揚げました。
鐘が沈んでいるはずだったのに、石でした…。
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巨石のそばの碑文を書き写します。( )内を補っています。

沈鐘と巨石

昔の人は、金崎(という旧地名の本来の意味は)は鐘崎で、
ここには海の向こう(韓半島)から来た釣鐘が沈んでいると語りつぎ、信じて来た。
そして宗像興氏黒田長政など、その権力にまかせて
この釣鐘を引揚げようとしたが、失敗に終った。
ところが大正8年に山本菊次郎なる人が万金をつぎこんでこれを引揚げることに成功した。
しかし姿を現したのは釣鐘ではなくして、このような巨石であった。
人びとはがっかりしたが、いまでも本当の釣鐘は海底に沈んでいるとおの思いを捨てかねている。
このような話は沈鐘伝説といって諸国に例があるが、ここのは、そのもっとも有名なものである。
沈鐘と巨石。夢と現実。まことに面白い郷土鐘崎の物語である。
昭和49年10月  碑文 福岡県文化財専門委員 筑紫豊

ほんとうに鐘の形をしていますね。
嵐の時にはその鐘の音がすると言って万葉時代から恐れられていたものです。

この沈鐘伝説は各地にあるそうですが、
福井県敦賀市気比にもあると聞きました。これを聞いてびっくり。
何故なら、この宮の御祭神の武内宿禰と不思議な関わりがある所だからです。

その話を伝えるのは『古事記』です。『古事記の神々』の神功皇后から一部写します。

御子と気比の大神
さて、建内の宿禰の命はその御子(応神天皇)を連れて、
みそぎをしようとして、淡海から若狭の国へ行った時、
越前の国の角鹿(つぬが)に仮宮を造って滞在されました。
すると、その地の神イザサワケの大神の命が夢に出て来て、言われました。
「我が名を、御子の御名と交換したいと思う。」
そこで、建内の宿禰は言祝いで(ことほいで)言いました。
「畏れ多いことでございます。お言葉の通りに変え奉ります。」
と申すと、さらに大神が言われました。

「明日の朝、浜辺に行きなさい。名を交換したしるしの贈り物をしよう。」
そこで、翌朝、浜に御子が行かれると、
鼻が傷ついたイルカが浜辺全体に打ち上げられていました。
御子が言われました。
「私に大神の食べ物の魚をくださった。」と。

こうして、大神の御名を称えて、ミケツの大神と名をお付けになりました。
これから、今でも気比(けひ)の大神と言います。
また、そのイルカの鼻の血の匂いが大変臭かったので、
そこを血浦(ちうら)と言います。今は都奴賀(つぬが)と言います。

不思議な話ですよね。
武内宿禰が幼い応神天皇をわざわざ近江から日本海へ連れて行っています。
それだけでも不思議な事ですが、その地の神が
「自分の名前と御子の名前」を交換しようと言って来たというのですから尚不思議です。

気比神社織幡宮武内宿禰でつながっています。
気比にも沈鐘伝説があって、気比の鐘は逆さまだそうです。
そこの地名は金ヶ崎。ここの地名は鐘崎。かなりの共通項がある。

その訳は「海女」の伝承を見ると見えて来ました。

ここ、鐘崎は海女の発祥の地
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筑前鐘崎海女の像
これも、参道にある彫像です。碑文を写しましょう。

海女発祥の地 鐘崎
ここ鐘崎は、古来風光明媚、海路の要衝として万葉の古歌に詠われ、沈鐘伝説で名高い。
先祖は鐘崎海人と呼ばれ、進取の気性に富み、航海術に秀で、各方面で大活躍をした。
特に潜水の技術に優れた鐘崎海女は「西日本の海女発祥の地」として有名である。
海女の出稼ぎ地であった能登・長門・壱岐・対馬には枝村(分村)ができた。
海女の使用した道具は、県の文化財に指定され保存されている。
功績をたたえ、航海の安全と豊漁を祈る。
平成7年4月吉日    筑前鐘崎海女保存会


この海女の伝承を追いかけた本があります。
それを見ると海女たちの具体的な暮らしが見えて来ます。
その中の一部を抜粋しましょう。
鐘崎の伝承には、済州島に行った地元の漁師が
島の海女と結婚して郷里に連れ帰り、海女漁をひろめたというのがある。

また、能登の輪島の海士町の人びとは、
数百年のあいだ、日本海を往来していた鐘崎の海女たちが、
仮小屋を建てていたのを、藩主があわびを買い上げて定着の地を与えたのがはじまりだという。
対馬の曲(まがり)の海女たちも似た経過をたどって、
対馬沿岸一帯の漁業権を受けて住みついたのだった。

それほどに海は共同のもので、漁法も海の信仰も彼我共通性があったのだろう。
鐘崎の海女の足跡は能登や対馬ばかりでなく、日本海沿岸の浦々にはそこここに残っているし、
また壱岐から東シナ海に洗われる五島列島から天草にかけても、
鐘崎の海女の出漁の跡がある。
さらに瀬戸内海づたいに、四国沿岸にも筑前鐘崎から来たという浦がある。
このように諸方面の海へ、数家族ずつが、長い期間漁に出かけていたのだった。

森崎和江『海路残照』

この海女の行動半径と、武内宿禰の伝承の重なりを考えると、
鐘崎と気比のつながりが深かったのが見えて来ます。
鐘崎の海女たちはよく似た地形を見つけて、鐘ケ崎と名付けて、古里の伝承を伝えたと思われます。

考古学的にも、弥生時代遠賀川式土器が、
山陰、若狭湾沿岸、福井平野へと伝わっているそうです。
こうすると、海女たちは漁法だけでなく、最新の土器をもたらして、
歓迎されていたのかもしれません。

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(弥生土器 飯塚市歴史資料博物館にて 一階は撮影許可)
飯塚市は遠賀川流域です。デザインも素敵な土器ですね。
こんなのを各地で作ったのかな。それとも、船で運んだのかな?
学芸員の人はすぐ分かるんだろうな…。

海人族たちはかなりの距離を自由に行き来していたのがよく分かります。
弥生時代って、今から2300年ほど前から1700年位前です!
弥生人の行動半径って、広いですね。


次回はずっと時代が下がって、この岬のそばにやって来た黒船の話です。



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by lunabura | 2010-07-10 14:11 | 織幡神社・おりはた・宗像市 | Trackback | Comments(2)
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