「ほっ」と。キャンペーン

ひもろぎ逍遥

lunabura.exblog.jp ブログトップ

カテゴリ:桜井神社・糸島市( 4 )

櫻井神社 岩戸開き


櫻井神社 

岩戸開き


7月2日は毎年櫻井神社の岩戸開きがあります。御神事は早朝4時に行われ、午後七時まで拝観できるということで、参拝してきました。

その前に、自分のブログで復習^^。




c0222861_22322029.jpg

まずは二見が浦で禊(みそぎ)の参拝をしてから、櫻井神社へ向かいました。






c0222861_22331939.jpg






c0222861_2233442.jpg

黒田長政の二代目黒田忠之の創建になる與止姫神社が明治二年に櫻井神社と改称しています。







c0222861_22353025.jpg

今日は参拝と同時に、岩窟とは古墳ではないかという自分の予想を確認してまいりました。

実見しまして、古墳に間違いありませんでした。写真はもちろん遠慮しました。当てずっぽうで、目測しました。

入り口は高さが160センチほど。ひさしになる石は見事な石が選ばれていました。幅は二人が並んで肩が触れる程度です。

羨道は長さは120センチほど?

玄室は左右が二メートル弱?奥行きは布が下げられていて不明です。左右には巨大な一枚岩がそれぞれに設置されています。これほどのものは初めて見ました。

天井は持ち送りで、畳を縦に半分にしたような岩を少しずつずらしながらドーム状にせり上げています。とても高い所に天井石が長方形に見えました。

貝原益軒の記録、「高さ二間半(460センチ)」というのは、玄室の高さを示しているのが分かりました。桜井神社(1)で私が推測した「奥行きと高さとが入れ違っているのでは?」という点は私の間違いだと判明しました。

古墳の開口は慶長15年(1610)旧暦6月1日で、これによって黒田忠之公が社殿造営を発願しています。副葬品はどのようなものだったのか、漏れ聞くことも有りません。黒田家に奉納されたかもしれません。





c0222861_22342279.jpg

これは墳丘のようすです。石段の下から右手を見ると、まだ封土があり、前方後円墳だったのではないかと思われました。ホタテ貝式程度の前方部だったのかもしれません。

石室はとても丁寧な造りでした。被葬者に関しての想像は全くつきませんが、専門家なら石室の形状から時代が推測できるでしょう。

信仰の対象はここから出現された霊験新たな神さまです。
神社のHPには櫻井神社は神直日、大直日、八十枉津日(やそまがつひ)とあります。

『福岡県神社誌』によると、岩窟の方の祭神は大綿津見神となっています。龍宮への神扉として信仰されていたと思われます。

龍宮、龍の都と言えば、志賀島。安曇の聖地です。


一度書きましたが、忠之公はこの櫻井神社も含め、領地の各地で神社を創建したり、再建したり、鳥居を奉納したりしています。福岡の繁栄のための結界を張られたのではないかという思いが今日もしました。

古墳の被葬者は、当地の豪族の長です。死してもなお、この地を守ると誓われたのでしょう。黒田公が筑紫に来るのを待って再来されたのかもしれません。

私たちはその恩恵を今でも受けているのだと思いました。






櫻井神社 糸島






いつもポチっと応援ありがとう。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2015-07-02 22:38 | 桜井神社・糸島市 | Trackback | Comments(3)

桜井神社(1)嵐の中で岩戸が開いた


桜井神社(1)
さくらいじんじゃ
福岡県糸島市志摩桜井4227
嵐の中で岩戸が開いた
かつては與止姫大明神と号す

福岡市の北西部にある糸島半島はかつては島でした。
その奥の方に桜井神社はあります。
創建は江戸時代で、当時の姿がそのまま残っているお宮です。
さあ、では、江戸時代にタイムスリップしましょう。
c0222861_21461640.jpg

静かで広々とした境内の小さな石橋を渡っていくと楼門の古さと重厚さに目を奪われます。
c0222861_21465182.jpg

楼門の近くから見上げました。
これは江戸時代のもので、扁額には「正一位與止姫大明神」とあります。
ところが裏側にも扁額があって、それには「桜井神社」とありました。
ここは桜井神社と普通呼ぶのですが、與土姫(よどひめ)の名前が!
楼門の表と裏の二つの扁額の名前が違います。大変珍しいです。
どのような事情なのでしょうか。
c0222861_2148146.jpg

楼門を通るとすぐに拝殿があります。彫刻が素晴らしいです。
拝殿の中には奉納された絵馬が沢山かかっていました。
二見が浦の絵馬が多いです。二見が浦はこの神社の北側の海にあります。
昔はそこでミソギをしてから、この神社に参拝したそうです。伊勢神宮の風習とよく似ています。
c0222861_21493267.jpg

扁額を見ると、手前が「桜井神社」。奥には「與止妃宮」と書いてあります。
やっぱり、二つ。どうなってるのでしょうか。

神社の説明書きがあります。読んでみましょう。

桜井神社略記と祭典案内
慶長15年(1610)旧暦6月1日から2日暁にかけ、桜井の里を中心に雷鳴轟く大豪雨の中、岩戸神窟の口が開き、霊験あらたかな神さまが出現されました。
それから、奇瑞多く、ついに筑前二大国主・黒田忠之公も聞き及ばれ、自ら参拝し、おおいに稜威を感じ、御社伝造営を発願されました。

寛永6年着工、寛永9年(1632)に桧皮葺三権社流れ造りの絢爛豪華で極彩色豊かな御本殿と御社伝及び境内整備が壮麗を極めて完成しました。
この神社の始まりは江戸時代の初期で、
大豪雨の中、岩戸が開いて、霊験あらたかな神が出現されたと言う事です。
しかも、不思議な事が沢山あったので、黒田藩主・忠之公までも訪れて、その神威に感じ入り、
ついには社殿を建てられました。この神社は黒田のお殿様が建立されたお宮でした。

この件については貝原益軒が大変詳しく書いていました。
今日はそちらを訳しながら紹介したいと思います。
この里は山谷の間にあって、志摩郡の中央にある。その境内は広くて、東西4キロあまり。
桜井と名付けたのは、圓光寺という枝村の民家の後ろに、桜井という井戸があって、その名を付けた。
井戸は深くはなかったが清らかだった。昔この井戸のそばに大きな桜の木があって、その木の傍から水が出たので、桜井と言うようになった。昔の桜は枯れたが、先の藩主忠之公が、井戸の側に桜を植えさせられた。
今もその木がある。
桜井というのは桜の木のそばに清らかな水が出たのが起こりでした。
それが地名となりました。

さあ、続きは桜井神社についてです。
この里の藍園という所に與土姫明神の社がある。與土姫は社号で、神直日、大直日、八十枉津日の三神を祭っている所だ。社殿の後ろの小高い所に岩窟がある。
これを岩戸という。瓦屋根を作ってその上を覆っている。
岩戸の入口の間の長さ一間二尺(250センチ)、横5尺(165センチ)、高さ二間半(460センチ)ばかりだ。
(奥行きと高さと入れ違っている?…ルナ)

この社の創立を尋ねると、慶長15年の6月1日の暁からこの岩窟の当たり十町(1キロ)ばかりの間、風雨が激しく、雷電もしきりに鳴って、終日やまなかった。翌2日の暁までそうだった。この時、岩戸の口が初めて開いた。これを聞き及んで、遠近の人が大勢見に来た。

この村に浦新左衛門と言う者がいた。浦という邑に住んでいた。その妻に神が懸かって、参詣の人が吉凶を尋ねてみると、間違いがない。その他、様々の神の霊異が数え切れないほどあった。

今の世の人はそれを聞き伝えたり、目の当たりにした人もいるので、それを詳しく書いても、嘘だとは思わないだろう。しかし、あまりに不思議な事が多いので、後世になって、嘘ばかり書いていると言われると残念だし、
怪しい事は書かないのが古聖の訓なので、これほど稀有な神異だが、ここには書かない。

同年、11月21日、かの新左衛門の妻にお告げがあって、5年間、五穀を絶って、ただ茶酒だけとって、穢れた食べ物を忌むようにとの教えだったので、それから5年間、五穀を食べずに、ひたすら茶酒のみ飲んでいた。

こうして、参談所といって、一間ほどの所を構えて、日々お参りして来る人たちの吉凶を尋ねるのを答えた所、いささかも違える事が無かった。

こうして霊験がある事が長く続き、遠近にまで評判が届いて、黒田藩主・忠之公がこれを聞き伝え、近臣に試させると、奇特な事が多くて、ついに忠之公みずからここに参詣されて、質問を試みられると、その答えが、みな霊験があったので、大いに感じ入り、信心を起こして、岩戸の前の山が岩戸と同じ高さだったのを、社を立てる為に土を取って、低くならして、神殿を作らせた。

この辺りにしては、壮麗を極めた造りだったので、数年かかって、寛永9年完成して、京都から吉田兵部少輔中臣治忠を招請して、社号を與土姫大明神として、あがめ奉った。
大変具体的に書いてありました。
この始まりは、豪雨のために古墳の口が開いたのではないかと思いました。
新左衛門の妻に神懸かりがあって、霊験がいろいろあるようになりました。
ついには黒田のお殿様の耳に届き、自ら訪ねて来られて、神徳があったので、神殿を作らせたという事です。

御祭神について考えました。


岩窟の方は奥宮・岩戸神社といいますが、
御祭神は大綿津見の神と『福岡県神社誌』に書いてありました。
三柱の海の神さまたちです。

また、手前の與土姫大明神の方には神直日、大直日、八十枉津日が祀られています。
(かむなおひ、おおなおひ、やそまがつひ)
この三柱は禊(みそぎ)の神さまたちです。

これらの六柱は志賀海神社で書いたように、
イザナギの命が禊をしたときに生まれて来た神々です。

社号の與土姫はヨド姫ともトヨ姫とも言います。(志式神社では豊姫となっていました。)
ヨド姫は厳しい禊をして神意を尋ねる巫女で、海神の妻とも言われています。
一生を海神に捧げた姫神さまです。

楼門の扁額が表は「與土姫大明神」で、裏が「桜井神社」となっている件については、もともと、與土姫大明神だったのが明治二年に桜井神社に改称されているのが分かりました。

與土姫大明神について考えました。

この神社の名前がかつては與土姫大明神という事から、新左衛門の妻に懸かられた神が與土姫大明神ではないかと思いました。

現代でも、このように神が懸かられる話や神示が降りる話がありますが、
神霊の言葉はエネルギーの状態なので、取り次ぎの神がいて、人間に分かる言葉に翻訳します。

新左衛門の妻にも、取り次ぎの神として與土姫が懸かられて、神々の言葉を伝えたのではないでしょうか。

岩戸神社の御祭神が大綿津見の神です。
志式神社の神楽では、海神は豊姫の言う事なら聞き届けられていました。

ですから、この宮でも、参拝する時は、まずは禊の神様に清らかにしていただいて、
與土姫さまに取り次いで頂いて、岩戸の神さまにお願い事をすると、
よく聞き遂げられるのかな、と思いました。(あくまでも、ルナの想像です…。)

拝殿でお参りを済ませたら、その真後ろに行きましょう。奥宮・岩戸神社があります。
c0222861_2159910.jpg

石垣が見えます。渡り廊下の下に神殿があります。
c0222861_2202481.jpg

振り返ると、神殿の裏側が見えます。平成になって、当時の極彩色が再現されました。
これを見ると、かつての楼門や拝殿の華やかさがしのばれます。

この奥宮・岩戸宮で玉串参拝が出来るのは、元旦から三日間と7月2日と書かれています。

(つづく)



気が向いたら、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2010-07-30 22:09 | 桜井神社・糸島市 | Trackback | Comments(4)

桜井大神宮・伊勢の内宮外宮が一緒に祀られている


桜井神社(2)

桜井大神宮
伊勢の内宮外宮が一緒に祀られているよ


c0222861_2113319.jpg

境内の反対側に、山があって、石段があります。
なんとも心惹かれる風情です。上っていきましょう。
c0222861_21161177.jpg

杜の中の参道は木漏れ日の中。そして、石段の上の鳥居を見て、あ!
お伊勢さまだ!
この飾り気のない簡素な鳥居はお伊勢さまだけの鳥居。足もとに立札がありました。

「伊勢神宮領賜 佐美長神社 一之御鳥居 第六十一回式年遷宮 平成5年」

やっぱりそうです。前回の式年遷宮の分がこちらに下賜されたのですね。
伊勢神宮では20年に一度、すべての宮が新調されます。
取り払われた宮や鳥居などはこうして、縁ある宮で見る事が出来ます。
この神さびた風情。ここにいるだけで心が洗われます。

これまた簡素な宮です。かやぶきの屋根。昔のままの建物。
c0222861_2124866.jpg

近づいて行きましょう。
c0222861_13315924.jpg


c0222861_1345465.jpg

苔むした扁額には「内宮源 外宮宗」と書いてあります。

この宮について、與土姫大明神の拝殿に説明がありました。
御本殿正面の石階段上約200メートルの所には、寛永2年の創建で、伊勢の内宮外宮の御分神を一宇に奉斎する桜井大神宮が幽遠森厳の中に鎮座しています。

與土姫大明神より数年前の建立です。ここは、お伊勢さまが、内宮と外宮一緒なんだ!
伊勢市のお伊勢さまに参拝する時には、外宮に参拝してから内宮に向かうのが順です。
少し離れているので、バスかタクシーで移動します。でも、ここは一度にお参り出来る!
しかも、こんなに近くに行ける。

どんな歴史を刻んだのでしょうか。これも貝原益軒が筑前国続風土記に書いていました。

本社の西南の光寿山のふもとの高い所に天照大神宮がある。これは本社創立の後、神託によって忠之公がここにお立ちになった所である。その後大神宮にも参詣する人が多い。が、今は絶えた。
こうして忠之公は與土姫大神に神領を寄付されて、祝人を多くおいて、祭礼を行わせた。その年、忠之公はひどく悩む事があって、この神に祈られた所、神のお告げとして、不思議な夢を見られた。それからは、さきほどの悩みの雲霧もはれて、なんのおそれもなくなったので、この神のちからだと言って、その夢想の句を自筆で書いて社に奉納された。これより、ますます信仰深くなられた。

黒田忠之公について調べると、当時、黒田のお家騒動があって、
藩が取りつぶされるかどうかという大変な悩みがあったのが分かりました。
その事件がこれに相当するのか分からないのですが、
忠之公にとって、ここの神々が心の支えになったのがよく伝わってきます。

なお、忠之公が亡くなった後は、島岡大明神としてお祀りされています。
c0222861_1336395.jpg




気が向いたら、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2010-07-30 13:36 | 桜井神社・糸島市 | Trackback | Comments(0)

桜井神社(3)21歳の藩主・黒田忠之公の悩みと神威


桜井神社(3)

21歳の藩主・黒田忠之公の悩みと神威


c0222861_21211941.jpg

この神社を創建した人が筑前福岡藩の二代目城主・黒田忠之公という事で、
今回は忠之公の人生を簡単に辿ってみようと思います。
(年齢は西暦から単純に計算したものなので、誤差があります。)

父君は黒田長政公。初代のお殿様です。
祖父の黒田如水と共にキリシタンでした。
長政公は関ヶ原の戦い(1600年)の後、筑前博多に来て、
すぐに福岡城の建設に取り掛かっています。
その城の瓦に十字架が刻印されていたのが最近発見されて、話題になりました。
長政公は1587年の秀吉バテレン追放令のあと、
キリスト教を捨てたと言われています。
城はその後に建設されたので、この隠された十字架は信仰を捨てていない事を
見えない所で示した証しだと言えます。

黒田忠之は1602年に長政公の長男として生まれました。
忠之が12歳の時には大阪の冬の陣、夏の陣がありました。
ところがその後、父長政公は忠之を見限って、
廃嫡(はいちゃくー跡継ぎをやめさせる)しようとします。
家臣の制止によって、それは実行されませんでしたが、
13歳の少年には大きな心の傷を残しました。

その年に徳川幕府がキリシタン禁教令を出して、長政公はそれに従い、
キリシタン弾圧を始めます。
そんな父の姿を忠之は見たはずです。

そして、忠之が21歳の時に父が死去。
若き忠之公が二代目藩主となりました。
21歳の若殿様です。危なかしくって当たり前の年でした。

父の家臣たちと、自分の新しい側近たちの葛藤が始まります。
27歳の時、長子が誕生しますが、夫人が23歳の若さで亡くなってしまいます。
31歳の時、家臣の栗山利章と対立。
栗山に「黒田氏謀反の疑いあり」と幕府に訴えられてしまいます。
これが黒田騒動です。
この騒動は結果としては、無事におさまりました。忠之公は53歳で亡くなりました。

その忠之公と桜井神社はどう関わったのでしょうか。

1610年に浦新左衛門の妻に神懸かりがあります。
この方は、それからは浦姫様と呼ばれています。
浦姫様の噂はお城まで届き、忠之公は家臣を使いにやって、よく当たるのを知って、
みずから尋ねるようになりました。

24歳の時に神託で天照大神宮を建立。
30歳の時に本殿を建立となっています。
この年に黒田騒動です。
やはり浦姫様のご神託を仰いだらしく、浦姫様はそばの榎木に登って、
江戸を霊視してアドバイスをしたそうです。

忠之公が夢で告げられた句も伝わっていました。
「しるへにや 雀の千声 鶴の一声」
(家臣たちの千のアドバイスより、神の一声が自分の道しるべだ)

忠之公は藩主となってから、ずっと浦姫様に相談しながら、政をしていったのが伺われます。
家臣のアドバイスより重視したので、
古くからの家臣たちとの軋轢(あつれき)を生んでいった可能性もあります。

彼の宗教観を考えると、父の長政公がキリシタンだったのに転向していった苦悩を
幼い時に目の当たりにして、神とは何かという事を誰よりも深く考えたと思われます。

自分で霊夢を見て、神の御加護を体験して、この岩戸宮の神を深く信仰しました。

浦姫様は黒田騒動が落ち付いた後、1636年に亡くなりました。
それからは自分の判断で前に進むしかありません。
晩年には真言宗に帰依して東長寺を建立しています。

戦乱の世が終わって、江戸時代に入ったとはいえ、まだまだ、戦国時代の延長にあった時代に、
この岩戸が開かれて、福岡藩の国造りの支えとなりました。
このタイミングの不可思議さを思わずにはいられません。
その神気は、今なお、人々を守っているように思いました。

c0222861_21283764.jpg

境内の賽の神神社 石は猿田彦の神

途中ですれ違った青年に話を聞きました。
「神社が初めてと言う人が何故かここに来るようですが。」
「そうですね。私も神社参りを始めたばかりです。」
「どうして若い人に人気があるのですか。」
「縁結びと聞いてます。」
なるほど。そうだったんですね。

いやあ、ここは八百万の神々が祀ってあります。どんな願いも聞き届けて下さるように思いました。
c0222861_21292470.jpg






気が向いたら、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2010-07-28 21:41 | 桜井神社・糸島市 | Trackback(1) | Comments(0)
line

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


by lunabura
line
クリエイティビティを刺激するポータル homepage.excite
カレンダー