ひもろぎ逍遥

lunabura.exblog.jp ブログトップ

カテゴリ:宗像大社・むなかた・宗像市( 15 )

沖ノ島の海底遺跡 巨大な柱と螺旋階段 再掲



今日は歴史カフェでした。
ご参加の皆さまありがとうございました。

少しずつ研究がまとまってきたなと思いますが、
真鍋大覚のエジプト人渡来の話などは、
まだまだ全体はつかめていません。

他にもフェニキア人やソグド人、ヒッタイトなどなどなど
一部理解できているのですが、それも部分的です。

少しずつブログに挙げながら
全容をつかんでいきたいと思っています。



さて、あとからの話題に沖ノ島の海底遺跡が出てきました。

以下は過去記事です。

この元になる動画は何故か削除されたといいます。
再び復活しているのならいいのですが。

この記事は数年前の記事です。

※※※


宗像・沖ノ島海底遺跡
福岡県宗像市沖ノ島
『海底神殿の遺跡の謎に迫る』から
海底の巨大な四本の石柱―ラセン階段が付いていた



1999年にFBS福岡放送局開局記念番組で、
福岡県の宗像大社の沖ノ島付近にある海底遺跡が放送されました。

しかし、この番組を見た人は少なく、あまり関心が持たれずに
埋没しそうなので、今日はその映像のシーンを紹介します。
タイトルは『海底神殿の遺跡の謎に迫る

レポーターは東京芸術大学助教授(当時)日比野克彦
第一発見者 ダイバー森山俊一郎






c0222861_16483422.jpg

沖ノ島のすぐ近くにその遺跡はあります。
日比野克彦氏の船の下がその現場です。







c0222861_16493188.jpg

地図で見ると、沖ノ島の北東部にあたります。






c0222861_16501250.jpg

今ダイバーが遺跡の柱にあるラセン階段を泳いで登っています。
石の階段は人間が歩いて行けるサイズです。






c0222861_16504817.jpg

切り立った崖と直角にある石段は人工のものだと分かります。







c0222861_16512812.jpg

さらに昇っていった所です。







c0222861_1652442.jpg

第一発見者森山俊一郎氏が説明をしています。
石柱らしき崖の横に階段が彫られていて、頂上にも何かあります。







c0222861_1652497.jpg

この遺跡は地元の漁民の人たちにはよく知られていて、
それを聞き取り調査した結果、
このような四本の石柱の存在が分かりました。
ラセン階段が付いているのは一本だけです。
さっきの写真はこのラセン階段を昇って行った事が分かります。







c0222861_16532524.jpg

この写真は現場付近の一般的な海底のようす。
波によって、岩が丸く浸食されています。
比較するとこの石柱が特殊だという事が分かります。

この付近は流れが大変厳しく、一般のダイバーは潜れません。
さらなる調査報告があるのを待っていたのですが、
与那国島の海底遺跡のように専従で研究する人が出て来ないと、無理かな。

「あんな深い海が陸上の時代があったんだろうか、地質学的な資料が欲しいな」
とずっと思っていたら、NHKで旧石器時代の番組があっていて、
この辺りが陸上だったのが分かりました。








c0222861_16541646.jpg

この遺跡がいつの時代の物かはこれからの研究に委ねられるのですが、
誰もこの番組見ていないから、忘れ去られてしまいそう。
ルナは10年以上この遺跡の事を忘れないでいました。
今日の記事を見て、誰か研究してくれたらいいのにな。
みなさん、そう思いませんか?

 







いつもポチっと応援ありがとう。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2017-03-09 21:34 | 宗像大社・むなかた・宗像市 | Trackback | Comments(4)

(1)宗像大菩薩とは男神だった


 
(1)宗像大菩薩とは男神だった


平安時代以降、歴史が絶えたという筑後の水沼族(みぬま)。
宗像では、いずこからかやって来たのか分からない宗像族
宗像市の宗像大社に関しては平安時代以前に遡る記録をまだ見つけていない。
両者には三女神を祀るという共通点がある。

ミヌマカタとムナカタ。多分これは同一氏族。
そんな仮説で、解決しなければならない問題が有る中に、「宗像大神」がありました。
それは福津市の縫殿神社に祀られる縫姫の兄媛を引き止めた神です。
この宗像大神はいったい誰だろう。


呉から連れて来たの縫い姫は四人いたのですが、宗像大神がどうしても一人置いていってほしいと言われたんですね。それで兄媛が福津に残ったのですが、この「宗像大神」とは誰なのか。
 これは応神天皇の時代の話です。すなわち神功皇后の御子の時代です。

そして、別件で「御長手」を調べていた時、『宗像大菩薩縁起』に、次のような文があることが分かりました。
「宗像大社の無形民俗文化財」 森弘子 より
http://www.okinoshima-heritage.jp/files/ReportDetail_22_file.pdf

「御長手」の起源について『宗像大菩薩御縁起』(以下『御縁起』)「強石(ごうせき)将軍(今宗像大菩薩)依神功皇后勅命三韓征伐事」14)の項に、次のように記されている。
神功皇后出兵の折、一人の老翁が「御長手」を捧げて出現し、自分は瑞穂国の帝であり、天照大神の御子である。これまで夷敵征伐7度の棟梁を務めた「高礒(たかいそ)強石(ごうせき)将軍である」と名乗った。強石将軍は今の宗像大菩薩である。

『御縁起』によると、宗像大菩薩とは高磯強石将軍という人物で、神功皇后の新羅の役に参加している男性でした。三女神ではなかったんですね。老翁の姿だし、天照大神の御子なので男神に間違いありません。

アマテラスの五人の子の名前は「正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命、天之菩卑能命、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須毘命」。この中の誰かということになります。でも、今日のテーマはこの中の誰なのかということでなく、ミヌマとムナカタに関しての考察でした。

引用文の先にはこんな文が載っていました。
武内大臣は赤白二流の旗を織り持ち、強石将軍(宗像大菩薩)の御手長19)に付け、これを軍の前陣に捧げて進んだ。軍が旗を指すことはこの時より始まった。

「武内大臣が紅白二流の旗を織り持」ったという話は織幡神社に出てきます。るなのお話会では毎回出てきますね(^_^;)

この紅白の旗を捧げて進んだのが強石将軍だというのです。


c0222861_22104620.jpg

宗像大社の「みあれ祭」紅白の旗がなびく

ガイドブックなら「4織幡神社」を見てね。そこに「この旗を戦の時に司った神を旗指大明神と言い、宗像市多禮(たれ)の指来(さしたり)神社に祀られているという」と紹介しています。

ここはまだ参拝していないのですが、捨て置けない伝承だったので本に書いておきました。どうやらこの神が宗像大菩薩だということになり、その拠点は宗像市多禮にあるということになりそうです。


ここまで考えていたところで急ぎのゲラ刷り校正が入って来て、この記事はストップしました。

そして本の校正のため、三女神を祀る久留米の赤司八幡神社の資料を見直していたとき、「宗形金己呂神」という名が出て来たのです。\(◎o◎)/!

この神は「キンコロ」と読むのでしょうか?「強石」と意味が通じそうな名前です。でも分からない。

分かるのは「宗形神」が筑後国に祀られていた。しかも数カ所もということ。
これは天慶二年(939年)、平安時代の記録です。これをどう解く?

平安時代の終わりごろ、筑後国では既に宗像神が各地に祀られていた。ということは水沼はすでに筑後で宗形に変化していた?

一方で、宗像には旗指大明神がいて、強石将軍と言い、のちに宗像大菩薩と称されるようになった。この一族が呉の縫い姫を留めた?

これらを時代的にどう解く?

「そうだね。今日は頭も働かないし、備忘録ということにしておこう。あとは訪問者諸君に解いてもらいたまえ。」 (-。-)y-゜゜゜
と、るな探偵は仰せになるのでした。

土地勘がある人でないと、多分さっぱり分からないテーマでした (+_+)
とりあえず、「宗像大菩薩とは男神なり」だけはクリア。



赤 宗像市 多禮   青 久留米市 赤司八幡神社




2015,02、27


いつもポチっと応援ありがとう。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2015-12-20 20:22 | 宗像大社・むなかた・宗像市 | Trackback | Comments(8)

(2)紅白の「なかて」と北欧神話フライヤとユール


(2)紅白の「なかて」とは神を先導する器

北欧神話フライヤとユール

今夜は獅子座が空を駈けながら木星を咥えようとしていました。

c0222861_2120637.jpg

今日は3月14日。三寒四温の波の中、暖かい日差しに騙されてコートを着ずに外に出ると冷たい風に身を縮めてしまいます。

そんな冬とも春ともいえない季節に夜空を駈けるのが「獅子座」。獅子座は占星術では7~8月生まれの人の星座なので夏を思わせますが、これは春の星座だそうです。

今日は真鍋を紐解きましょう。(『儺の国の星拾遺』p129)獅子座ヅール星
獅子座を軒轅(けんえん)といった。黄帝軒轅氏(前2698~2599)の御車のことである。(略)

軒轅とは早春の星である。これを古人は仲女星(なかてのほし)・中條(なかてのほし)といった。「なかて」とは長門(ながと・仲渡)とも書く。時間空間の無明未妙の状を形容した古語である。

「とりづぎ」或は「ひきあひ」など媒酌人的存在であった。宮中では三太夫(さんだゆう)という。能の舞台で三番叟(さんばそう)がこの主旨を生かした例である。

古代中国では獅子座は皇帝の車に例えられていました。これを日本では「なかての星」と呼んでいたと言います。

「なか」とは「時間空間の無明未妙の状」を表すのですね。それは、人と人との間、演目と演目の間、そして春と夏の間、そんな所にも使われていました。

時あたかも冬至から春分、或は立春から立夏までの夜空に輝く黄金の星であって、一年の終りと始めの季節である。

獅子座の腰あたりに輝く星をDuhr(ヅール)と言い、黄金色をしているそうです。春の星座、獅子座。この獅子座が象徴する季節を一年の終りと始めとする部族なら「春分の日」を年の始まりとしたのでしょう。あと一週間で春分の日ですね。

昨年末、朔旦冬至で極寒の中を走り回ったのは遠い昔のようです。まだ三カ月前の話だというのに。

つづき。
「なかて」とは竿に紅白の二条の布を螺旋状に巻いて、神を先導する器である。今も宗像沖ノ島にこの伝統が守られている。五十年程前は祝賀の祭典の会場では天幕を支える柱にこの様式が採用されていた。

子供の頃、運動会の入場門の柱は紅白で巻かれていましたが、もしかしたら地域的なものだったのでしょうか。今もそうするのでしょうか。ネットで調べるとこんな商品がありました。

c0222861_21211546.jpg


この紅白の「なかて」は、本来「神を先導する器」だったと言います。沖ノ島に伝わっていたそうですが、今はどうでしょうか。

この紅白こそ、竹内宿禰が織幡神社の近くの波津(はつ)で織らせ、宗像大菩薩が新羅戦の時に船の先頭で振ったものでもある訳です。

さて、「紅白」と言えば現代日本では、それだけで大晦日に行われる紅白歌合戦を表しますが、北欧でも「行く年来る年」を象徴する二神に現れていると木下祝夫は言います。

香椎宮司木下祝夫博士(1894~1980)によれば、北欧の神話に出る二神で紅Fraiya(フライヤ)であり、白はJuhl(ユウル)であり、紅が来る年、白は去る年である。

木下祝夫は50年かけて『古事記』のドイツ語訳を完成させた人で、香椎宮の宮司でした。その一族の方が当ブログにコメントを入れられたので、香椎宮で尋ねると、香椎宮の宮司は世襲ではないとのことで、木下の話を聞くことはできませんでした。

木下祝夫はドイツ語が出来るので、北欧神話にも詳しかったのでしょう。その神話にも「紅白」がありました。「紅」はフライヤという女神です。

ネットでは「フレイヤ」と検索すると出てきます。ウィキペディアを見てみましょう。

c0222861_212276.jpg

(画像出典 ウィキペディア)

美、愛、豊饒、戦い、そして魔法や死を守護する北欧神話の太母。美しい女性の姿をしており女性の美徳と悪徳を全て内包した女神で、非常に美しく、自由奔放な性格で、欲望のまま行動し、性的には奔放であった。

「太母フライヤ」その自由な生き方はウィキぺディアでゆっくり読んでください。

一方、「白」はユウルです。

ユールは、古代ヨーロッパのゲルマン民族、ヴァイキングの間で、冬至の頃に行われた祭りのこと。のちにキリスト教との混交が行われたが、北欧諸国では現在でもクリスマスのことをユールと呼ぶ。

ユールとは冬至の祭なんですね。のちにキリスト教に習合していきます。次はユール・トムテ。

c0222861_21225558.jpg

(画像出典 ウィキぺディア)粥をもらうユール・トムテ

北欧のサンタクロースは、ユール・トムテやユールニッセといわれる。ユール・トムテはスウェーデンのサンタクロースである。元々はノームで、赤い帽子に、白く長いあごひげを蓄えている。元々トムテは人間に善行を施す妖精で、家事を手伝ってくれたお礼として、クリスマスに椀一杯のスープまたは粥をもらう。

ユール・トムテはもともとノームですって。いろいろ手伝ってくれる小さいおじさん^^

ユール・トムテの帽子は赤。あごひげは白。ここにも紅白のシンボルがありました。その色にも「行く年来る年」の意味合いが込められているという事なのでしょう。冬至が新年の始まりなら「とひ族」かな。

春分や冬至をそれぞれ新年とする部族の話のようですが、真鍋の文には「時あたかも冬至から春分、或は立春から立夏まで」という不思議な表現があり、曖昧な季節感が書かれているのも、「なかて」の状態を表しているようですね。

そして先述のように、現代日本の「紅白」歌合戦も、まさに「行く年来る年」の祭典です。これは偶然なのでしょうか。それとも北欧と共通のシンボルが日本人の無意識層にあって、それが顕現したのでしょうか。

真鍋の話は心が地球規模に拡大し、また集合意識の深層を覗かせてくれるので、不思議な感覚になります。

さて、話は違いますが、今朝の新聞にフランス人の画家が「亡くなった仲哀天皇を偲ぶ竹内宿禰」という絵を香椎宮に奉納した記事が載っていました。日本神話の絵本を11冊も画かれたとか。

フランス人がどうして『古事記』を知っているのかと思ったんですが、木下祝夫がドイツ語訳しているので、ヨーロッパでも手軽に読めるのでしょう。この記事とシンクロして驚きました。



そして、明日は八幡東での下巻のお話会です。ガイドブックはあいにく間に合いませんでしたが、美しいフクオカ。画像でお届けします ^^


2015.3.14


いつもポチっと応援ありがとう。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2015-12-19 12:46 | 宗像大社・むなかた・宗像市 | Trackback | Comments(5)

(3)紅旗と白旗・古代の宗像の王と旗


(3)紅旗と白旗

古代の宗像の王と旗


「古代の宗像」
宗像大社の「みあれ祭」は正平23年(1368)の行事記録を参考に昭和37年に復興されたのですが、その船に掲げられている紅白の旗は宗像大菩薩が出現した時に捧げ持っていたものが由来でした。それを「御長手」と言い、この宗像大菩薩の時代は思いがけず神功皇后の時代のものでした。

当時の宗像大菩薩の名は「高磯(たかいそ)強石(ごうせき)将軍」。新羅戦の前にすでに七度の夷敵討伐の棟梁を務めたと自ら説明しています。

この紅白の旗は同じ宗像の織幡神社の縁起によると、竹内宿禰が波津(はつ)で織らせたと伝えています。波津とは神社のすぐ麓の入江の集落で、もともと「はた」と呼んでいたので、秦氏の入植地と考えています。

竹内宿禰に織らせる権限があったということは、宿禰が秦氏と通婚し、縁戚関係を結んだからではないか、だから竹内宿禰の長男の名が波多八代宿禰というのではないか。そんな仮説を以前書きました。

これらから、古代宗像のクニを治めていたのは高磯強石将軍で、応神天皇の時代に縫姫を留めた宗像大神とは、この将軍か、その子孫と考えられます。

その神を祀る宮は宗像大社の側を流れる釣川(つりかわ)の対岸にあります。

宗像大神はいったい、いつ男神から女神に変わったのか、新たな謎が出て来たのですが、これもまたいつか解ける日を待ちましょう。



「紅白の旗」
先日からターゲットにしているのは「紅白の旗」でした。
「御長手」とは「神を先導する器」で「紅白を巻いた竿」であり、そのルーツは北欧神話の女神フライヤと男神ユール。紅白は春分の、年の変わり目を表すものでした。

以上がこれまでの復習です。

そもそも「紅白」の始まりは源平合戦とされているようですが、織幡神社で「紅白」の概念が存在しているのを見て、実は違和感がありました。「紅組」と「白組」に分かれて戦うというイメージが染みついているので、「紅白」一緒に持っているというのが違和感の原因かもしれません。

しかし、それが「神を先導する器」という意味を持っていたのなら少し納得できます。

実はガイドブックを書きながら気にかけていたものがありました。
それが「八本の白旗」です。

神功皇后が新羅戦から帰国後、祭祀のアイテムとして登場したのが「白旗八本」なのです。紅旗の存在が見つかりません。いつか調べて見ようと思っていましたが、リンクしている「遠野物語」さんからの問いかけに触発されて、今、見直してみようと思いました。

ここに八幡信仰の謎解きのヒントがありそうなんですね。

旗の伝承を伝える神社を時系列に並べてみます。

●竹内宿禰は紅白の旗を織らせた。(織幡神社)

●宇美町宇美八幡宮では新羅からの帰国後も警護を怠らず、神功皇后の産所の四隅に八本の白旗を立てたことから八幡麻呂と呼んだ。(宇美八幡宮)

●その時に警護兵だった田原麻呂は大事にその白旗を持って帰った。(正八幡神社)

●飯塚市撃鼓神社に再訪した神功皇后は白旗八流を納めた。(撃鼓神社)

この通り、帰国後は白旗だけが登場します。
次に、二社の絵巻を比べてみましょう。



c0222861_21124379.jpg

これは大善寺玉垂宮。

紅白がありますが、水色っぽいのもありますね。




c0222861_21131986.jpg

これは志賀海神社。

いずれも白旗です。


どちらが正しいのか判定は出来ませんが、より現地に近い方の志賀海神社の「白旗だけ」が気になります。
絵巻の時代は14世紀頃で、すでに1000年以上経って描かれています。風俗は平安~鎌倉っぽいですね。

「紅」を染めるには染料と染めの技術が必要です。
かつては貝で染め、のちに「あかね」で染めるようになった?

紅旗は大変貴重なものなので「ながて」という神を示すシンボルのみに使われ、戦いに使われた旗は「白」だけだったのではないか。と今の所考えています。



2015年3月 投稿


いつもポチっと応援ありがとう。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2015-12-18 17:20 | 宗像大社・むなかた・宗像市 | Trackback | Comments(7)

(4)「なかて」はメイポールと同起源



(4)「なかて」はメイポールと同起源


「なかて」とは「神を先導する器」というテーマで書き続けていますが、まーりんさんからもコメントをいただきました。

「神を先導する」「紅白を巻いた竿」で、女神フライアに関係するといえば、メイポールがどうしても思い浮びます。
メイポールは世界軸または世界樹を模しているとも言われているそうです(wikiなど)。

いまどきのメイポールはカラフルなようですが、『メイポールは通常は白、よくあるのはさらに赤と青(red, blue)のストライプに塗られている』。

また、その周りを男女が『赤、白そして青のリボン』の端を持って踊りながら回ることで、リボンはポールに複雑なパターンを織り上げながら巻き付く。(The English Village: History and Traditions 著者: Martin Wainwright)


これを読んで福岡女学院のメイポールダンスを思い出しました。
youtubeを見ると、なるほど、紅白のリボンをダンスをしながらポールに巻いています。


c0222861_2195164.jpg

画像出典https://www.youtube.com/watch?v=ZPNQfLbXcss

これを見て思ったんですが、もし、「なかて」を作るとしたら、二人でそれぞれ紅と白の布を持ってぐるぐる回るのが一番合理的なんですね。始まりはそんな形だったのかもしれません。

のちにヨーロッパでは春の祭典としてリボンの数が増え、ダンスが加わって複雑化しながら発展していったみたいですね。


c0222861_21101217.jpg

ウィキペディアより イギリス



c0222861_21103842.jpg

画像出典 株式会社SPI あ・える倶楽部 篠塚千弘の「にこにこ日記」



春の女神フライヤの色は赤となったり、白となったり。冬の神も民族によって異なったりしています。それでも共通するのは春の祭典であること。



そして、Fさんから、メールが!

「福岡県筑紫野市山家の宝満宮で催される神楽。岩戸神楽なのに磯羅が出てきて、赤と青の玉も出てきます。https://www.youtube.com/watch?v=ea8X7hn5G_4
 この磯羅の持ち物が赤と白の「なかて」風なのです。ちょっと面白かったのでご報告まで。」



c0222861_21113286.jpg

画像出典https://www.youtube.com/watch?v=ea8X7hn5G_4

YOUTUBEを見ると、磯良は白装束なのですぐに分かりますね!その手には確かに「なかて」が。\(◎o◎)/!

これが古式を伝えているとしたら、意外にも「なかて」はハンディなサイズでした。もっと大きなものを想像していましたから。


宗像大菩薩が振ったのは「なかて」の方みたいですね!


そして、「なかて」は北欧から発して東西に広がり、サイズを変えながら地球を一周した♪







いつもポチっと応援ありがとう。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2015-12-17 17:42 | 宗像大社・むなかた・宗像市 | Trackback | Comments(0)

(5)古代の紅とシルク


(5)古代の紅とシルク


さて、旗を振ったという高磯強石将軍(宗像大菩薩)の旗は何色だったのか?
神を先導する器としての長手は紅白ですが、軍旗なら白旗だけではなかったかという仮説を出しました。

古代の貴重な赤色はどうやって染めたのでしょうか。
その材料としては貝と茜があるのを思い出したのですが、ぱらさんが詳しく書いてくれました♪

「古事記上巻八千矛神の歌に出雲の大神が山畑に茜の種を蒔き染木の汁の染め衣を着ることをうたっております。また延喜式には日本茜の貢進は太宰府の大茜だそうですよ。

古代エジプトのミイラを巻く麻糸は藍や茜で染められていたとか。古代エジプト→ペルシャ→インド→中国と渡り日本へ来たのは秦氏と共に。おっとお話しが近くなりましたね〜〜(^-^)

茜の煮汁で染めて椿の灰汁や明礬や硫酸鉄を使用した媒染技術を伝えたこの頃から鮮やかな染物になったそうです。蘇芳やべに花も赤色ですよね。

茜をそのまま擦り付けて染める方法が古い技法ですが、単一染めでは黄色褐色のまさしく茜雲の色になるようで、それをタンニンを抜き色鮮やかに染める技術を持つってイノベーション。 秦氏凄いわー通婚しとかなきゃですよ。

出来た赤旗は神様に捧げたくも成りますっ!!随分と目立つ旗だった事でしょうね。」
るな
「紅のレポ、ありがとうございます。なるほどですね!
そういえば、八千矛神の茜のこと、染色家に尋ねた事思い出しました。太宰府の茜も三郡宝満山にあったはず。」


八千矛神すなわち大国主神はおしゃれな神らしく、家出(?)する時の服の色を何にしようか、と歌に読んでいて、その時に茜色の服の話が出て来たんですね。それで染色家に茜染めの話を尋ねた事を思い出しました。特に絹は染めやすいそうです。

そこで思い出したのが吉野ヶ里遺跡で出土したシルク。

c0222861_2151897.jpg

実験復元されたシルクの紫染めです。美しいですね。
有明海にはこの色に染めてくれる貝が自生しているとか。本当に宝の海だったんですね。(諫早の水門、早く開けてね。)





c0222861_21513394.jpg


こちら機織りの実演会場かな。
色がきれいです。草木染めは退色が速いから、色を定着させる技術を持つ古代豪族は他からも一目置かれたことでしょう。



c0222861_21515857.jpg

現代でも草木染めの色の定着は難しいそうで、中東辺りで赤色が褪めない特殊技術を日本人が学んでいるという番組がありました。その技術を秦氏が持っているとしたら、重要視されたことでしょう。


「紫」については貝を直接布にこすりつけている部族のビデオを見た事があります。布一枚を染めるためにはかなりの紫貝が必要です。クレオパトラが帆を紫か紅に染めさせたという話がありますが、これが財と権力の誇示だったのかよく分かります。

しかも、船の帆はシルクでないと物にならないとか。濡れても渇きやすいのが特徴で、綿や麻では使い物にならないと、昨日、ウラさんが教えてくれました。


そして、その日、マミさんが、筑後川の鵜飼の網もかつては絹だったと教えてくれました。

c0222861_21523010.jpg


シルクの需要は王族の衣装しか想像していなかったので、筑後川や遠賀川を走る小さな帆かけ舟の帆や漁具が絹で造られたと思うと、全く新しい古代像が生まれてきます。

筑後川には太宰府の直轄の連絡船があったのですから、それは間違いなく絹だったことでしょうね。


福津市の縫殿神社の集落で縫われた神功皇后の船の帆もシルクだった可能性が高くなりました。

秦氏。
秦氏一族(2万人?)が加羅に留まっていました。

神功皇后が新羅に勝ったお蔭で加羅と交流が始まったという縫殿神社の縁起とようやく繋がりました。
その後、竹内宿禰の子の葛城襲津彦が秦氏を迎えに行きます。

また、応神天皇が招聘した四人の縫い姫の一人が宗像大神の頼みで福津の奴山(ぬやま)に留まったのも、美しい衣装だけでなく、軍事的な需要があった可能性が出てきました。

そうすると、宗像大菩薩の振った旗もシルクだったかもね。





いつもポチっと応援ありがとう。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2015-12-16 08:53 | 宗像大社・むなかた・宗像市 | Trackback | Comments(2)

今日は、みあれ祭だったんだね


数日前から、宗像大社の「みあれ祭」のキーワードで検索して、
このブログに来られる方が多かったのですが、今日、10月1日がお祭りの日だったんですね。

どんな記事を書いたのかな、と読み直しました。
2010年の祭なので、3年前になるんですね。

この日はすごくいい天気で、堤防沿いにずらりとカメラを持った人が並んでいたのが印象的でした。

祭の時間が近づくと、お巡りさんが来て、堤防から降りるようにと注意されていました。
「堤防に乗らなくても写真は撮れますよ」
と言ってね。

はるか遠くに船団が見えると、数十人が一斉に連写を始めて、びっくりした。
カシャカシャカシャという音が凄かった。
みんなアマチュアカメラマンなのに、装備がすごい…。

るなは、自分のカメラに連写モードがついていることも、知らず、
一本、一本、撮った。望遠もなく…。
三年経って覚えている事はそんなことだけ…(+_+)

自分で読みなおして、ブログに書いてて良かったなあと、あの日の祭りの感動を思い出しました。

何と言っても、姉姫様たちを待つ市杵島姫の神輿が一番心に残っています。
誰も気づいていなかったよ。
だって、写真を撮りに行ったのは るなだけだったもん。

それにしても、昔の記事は、写真、ちっちゃいね…。

長年、一度行きたいなと思っていたら、その年、良く見える場所を教えて下さる方があって、
早速、行動に移したのですが、やはりタイミングは大切ですね。
あれから、行くチャンスはありませんでしたから。

今フォルダを見直すと、百枚以上も撮ってた。
まだまだ、いいシーンがあるじゃん。

c0222861_21271882.jpg


c0222861_21273866.jpg


c0222861_21275683.jpg


c0222861_21281190.jpg


懐かしいな。でも、望遠でないので、やっぱりピンボケか…。




過去記事はこちら

宗像大社(6)みあれ祭
市杵島姫が姉姫さまたちを海上までお迎えに
秋季大祭は大船団の海上神幸から始まった
http://lunabura.exblog.jp/15221733/




いつもポチっと応援ありがとう。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2013-10-01 21:30 | 宗像大社・むなかた・宗像市 | Trackback | Comments(6)

宗像大社 辺津宮・千木が外削ぎなのは何故?結末編


宗像大社 辺津宮

千木が外削ぎなのは何故? 結末編 

福岡県の宗像大社は三女神を祀る宮ですが、
「辺津宮の千木が外削ぎなのはどうしてだろう」というコメントをいただきました。
神社の屋根にある千木は内削ぎが女神、外削ぎは男神を祀ると言われているからです。

c0222861_2253106.jpg

辺津宮の写真を見直すと確かに千木は外削ぎです。
祭神は女神ではないのでしょうか。
この謎をある人が宮司さんに尋ねたけど、答えが得られなかったという事でした。

何か隠されているのだろうか、などと噂をしていたら、
私たちのコメントのやりとりを見た方がその理由を宗像大社に直接、メールで尋ねてくれたんです!
なんと有り難い!

神社から丁寧な返事があったそうです。
その内容を公表してもいいだろうかとその方と話し合いました。

神社が見知らぬ人に返答をくれたのは、「それが公になってもいい」という事を
含んでいるのではないかという結論を出しました。

考えてみると、何人もの人が同じ質問を神社に尋ねるより、
ここで公表した方が神社にも迷惑がかからないのではという事で、
今回のテーマは「女神を祀る宮に男千木と言われる外削ぎが何故使われているのか」
という件についての顛末です。

事の始まりは
楯崎神社(2)大己貴と宗像姫の連合軍が異敵と戦った の記事からでした。

楯崎神社は宗像市の隣町にある断崖絶壁の上の神社で巨大な盤座がある宮です。
その祭神は大己貴命と少彦名命。
この宮には大己貴命が宗像三女神の姉妹を二人、妻にした伝承があります。
(古事記では妻は一人なので、とても珍しい伝承です。)

その時、Bさんからコメントを頂きました。
まずはBさんと私のやりとりを一部紹介します。

Bさん
「宗像大社も謎が多いですね。以前ボランティアの方にお聞きしたんですが、
宗像大社辺津宮の千木は垂直に切ってあります。
一般的には千木が垂直の場合は、男神を祀ってあるんだそうです。
ちなみに沖津宮・中津宮両方とも千木は水平なんだそうです。
ひょっとして辺津宮の神様は男性なんでしょうか。」

るな 
「そうなんですか~!千木が垂直とは、大発見ですよね!!
宗像の御祭神は古くは大国主だという方がいました。
すると、この大己貴命がその人ですよね。
英彦山にも降臨したという話なので、これまでの神社史は大幅見直しが必要かも知れませんね。
なんだか大変な事になりました。」

Bさん
「千木のことを教えてくださったボランティアの方は、千木のことを直接大社の宮司さんに聞いたそうですが、結局何も教えてくれなかったとのことです。」

るな 
「写真の通り、垂直でしたね!!本当に驚いています。
宮司さんに訪ねても答えがなかったのなら、深い意味があるのでしょう。
これまでの宗像宮観が完全にくつがえる話ですが、これで深層に下りて行けるような気がしてきました。
教えて下さってありがとうございます。」

ま、こんなやりとりなんです。
気にはなっても、それ以上は踏み込めずにいたのですが、
このやりとりを読んでくれたTさんが宗像大社に直接質問をしてくれました!
そして結果を私に教えてくれました。(感涙)



次の文はTさんと私のメールのやりとりの一部です。
Tさんは「千木について」と「道主貴と道主命の違いについて」を質問されたようです。

Tさん
「宗像大社・辺津宮の千木の件ですが、宗像大社へ直接問い合わせてみましたところ、
以下のご回答をいただきましたので、ご報告させていただきます。」

宗像大社
メール有難うございます。
お待たせいたしました。折り返し御返答申しあげます。
まず、千木に内削ぎ外削ぎがあり、御祭神の性別を示すとの説があります。それを
以って男千木・女千木とも言いますが、それは俗説です。

全国の神社を巡ってもそれにあてはまらない神社は多くあります。別の角度から見た場合、たとえば夫婦神を祀る神社は片方が外削ぎ、もう片方が内削ぎとならなければなりませんが、その様な形の神社はありません。

・もう1点の「命(ミコト)」と「貴(ムチ)」について御返答申し上げます。
「貴」とは貴い御存在という意です。「命」とは別であると思います。よって、「道主貴」と「道主命」は別の神様と解釈致します。

ちなみに『日本書記』崇神天皇十年の条によると各地平定の為に遣された四道将軍(四人の将軍)の一方に丹波道主命の名がみえます。それが、玉置山の道主命と同一かどうかは分かりませんが、今ではその方を御祭神とする神社があってもおかしくありません。

他にも道主命と崇められた神様や功績のあった古代豪族が当時あり、その伝承を今に残しているのかもしれません。

何れにしても「道主貴」とは違うものと思います。道主命については、これ以上は当方にとって専門外となりますので重ねての御質問は御容赦願います。以上御返答申し上げました。   
宗像大社  祭儀部

Tさん
「私の妄想にまで、ご丁寧にお答えいただきました(笑)
内削ぎ=女神・外削ぎ=男神とは、研究していく上で
『もしかしたら、こういう事なのでは??』と考えた事なのかもしれませんね。
宗像大社側からご指摘いただいたとおり、全ての神社で性別と千木の形が
当てはまるわけではないようですし。

でも、沖津宮と中津宮は内削ぎなのですよね?
同じ宗像大社のお宮なのに、辺津宮だけが外削ぎなのって気になりませんか?
というわけで、お礼のメールとともに、早速質問してみました(笑)」


それから数日後。
Tさん
「宗像大社から再び回答が届いたのでご報告します。」
御返答申し上げます。
沖津宮は外削ぎ、中津宮は内削ぎとなって居ります。その理由については、特に伝承されて居りません。現在の御社殿(建物)は、沖津宮が江戸時代後期、中津宮・辺津宮が戦国時代後期でそれぞれまちまちです。
宗像大社  祭儀部
Tさん
「どうやら、宗像大社のご神殿は、中津宮だけが内削ぎのようですね。
沖津宮と辺津宮が同じ時代に建築されたのなら、実はその時代の流行でした~って
話も出るかもしれませんが、実際には中津宮と辺津宮が同じ時代ですから、
何故違う形にしたんだろう??と疑問に思います。
が、伝承されていないと言われたら、それ以上聞けないですね(^^;)」

以上、Tさんのメールの一部でした。
私もTさんと全く同意見なので、その感想の部分も掲載させていただきました。
Tさん。本当にありがとうございました。

宗像大社の説明では「男千木・女千木については俗説で、
辺津宮が外削ぎだという事について説明する伝承もない」とのです。

し・か・し、ころんでもただでは起きない、るなさん。
実際に「千木と祭神の関係はどうなっているのか」
これまでのストックから8神社ほど調べてみました。

c0222861_2257072.jpg

赤司八幡宮 
主祭神 道主貴 三女神 宗像大社と同じ女神たちです。同じように外削ぎでした。

c0222861_22571983.jpg

大善寺玉垂宮
主祭神 武内宿禰 もしくは 高良玉垂命とあいまいで、一部では女神だとも伝えられています。
外削ぎです。

c0222861_2257401.jpg

伊野天照皇大神宮
主祭神 天照大神 アマテラス女神で、内削ぎです。

c0222861_22581141.jpg

天照神社
主祭神は天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊。
いわゆるニギハヤヒで男神ですが、内削ぎです。

c0222861_225841100.jpg

宮地嶽神社
主祭神は神功皇后。内削ぎです。

c0222861_22593717.jpg

香椎宮
主祭神は仲哀天皇。千木はありません。

c0222861_2259473.jpg

志賀海神社
主祭神は綿津見三神。千木はありません。

c0222861_230174.jpg

風浪宮
主祭神は少童(わだつみ)命。千木はありません。

c0222861_2303878.jpg

現人神社
主祭神は住吉三神。千木は外削ぎです。

という事で、確かにバラバラで、法則性は見当たりませんでした。
宗像大社の辺津宮が外削ぎだからといって男神が祀られているとは言えません。
宗像大社の言われる通り、男女の千木は俗説だというのが分かりました。

Bさん。これで如何ですか?
Tさん。協力ありがとうございました。(^o^)/


この記事は
楯崎神社(2)大己貴と宗像姫の連合軍が異敵と戦った 

宗像と出雲
の続きです。


地図 宗像大社





ときどき、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif




[PR]
by lunabura | 2012-04-30 23:10 | 宗像大社・むなかた・宗像市 | Trackback | Comments(6)

宗像と出雲

宗像と出雲

宗像神社の辺津宮の千木は垂直だとコメントで教えていただいたので、在庫の写真で調べてみました。

c0222861_23182638.jpg

おおお。

c0222861_23184112.jpg

本当に垂直です。
と言う事は祭神は男神を示すという事になるのですが…。
三女神はどうなる?

前回の楯崎神社の祭神は大己貴命と少彦名神でしたが、
宗像神社とは直線で約7キロ。
大己貴命は宗像大神の姉妹と結婚したとなっているので、
ここにはその足跡が残っている可能性は十分にありますね。

それと関係あるのかどうか。
今日は朝から「出雲」が気になって写真を撮り直したいと思っていたんです。
「出雲」…福岡県の筑穂町にある地名です。

c0222861_23192529.jpg

これがその信号ですが、これだけではどこか分からないので、

c0222861_23194240.jpg

今日撮り直して来ました。
この信号は王塚古墳に近いので、王塚古墳館に地名の由来を尋ねに行ったのですが、今日は分からずじまい。

福岡の古代の出雲。
その姿は明らかになってくれるのでしょうか。






ときどき、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2012-03-20 23:24 | 宗像大社・むなかた・宗像市 | Trackback | Comments(27)

宗像大社(6)みあれ祭・市杵島姫が姉姫さまたちを海上までお迎えに


宗像大社(6)みあれ祭

市杵島姫が姉姫さまたちを海上までお迎えに
秋季大祭は大船団の海上神幸から始まった


2010年10月1日。よく晴れた青空のもと、神湊(こうのみなと)へ。
宗像大社 みあれ祭についに行って来ました。

例年10月1日はこの日は三か所に分かれて祀られている三女神が
辺津宮(へつみや)に集まる日です。
遠い沖ノ島には田心姫(たごりひめ)。宮司さんだけが住む無人島です。
大島には湍津姫(たぎつひめ)。ここまでは女性が行けます。
辺津宮には市杵島姫(いちきしまひめ)。いわゆる宗像大社です。
その三柱が三日間だけ集まって秋季大祭が行われます。
遠い島に住む姉姫さまたちをお連れするのは地元の漁師さんたちです。
みなさんが力を合わせて大船団を組んで神湊(こうのみなと)までお迎えします。
この海上神幸がみあれ祭です。
今日は、その祭りのレポートです。

9時半に御座船(ござふね)が大島を出発して、約一時間で入港すると聞いて、
神湊のフェリー乗り場の第一駐車場に入ったのは8時11分。
あと四台分開いていますよ、と言われて、ぎりぎりセーフ。
波止場の防波堤の上に陣どりました。左右にはずっと年上のお兄さまたち。
情報交換をしながら、楽しく待ちました。
c0222861_14174822.jpg

今朝の太陽のオーラは舞扇を広げたようで、気分が高まります。
海には光の道が出来てきらきらととても綺麗です。
8時38分。辺津宮の市杵島姫を奉斎したお神輿が神湊に到着しました。
ひとり静かに姉姫さまたちを迎えに出る時を待ちます。

c0222861_14183647.jpg

今頃は御座船2隻と150隻の大船団が大島に集結しています。

9時30分。二人の姉姫さまの神輿が御座船に乗って、大島を出立しました。
御座船に選ばれた船はその年一年の豊漁を約束されるとか。
今は、新造船がその名誉を担います。
この波止場からも、大島が見えていて、はるかかなたの水平線に、
真っ白な船が真横に走っていくのが見えます。
大船団は一直線に鐘の岬の方に向かいます。
そう、織幡宮がある鐘の岬です。

c0222861_14202169.jpg

すると、こちらの市杵島姫の神輿も船に載って、姉姫さまたちを迎えに出ました。

三女神が合流すると、船団は直角に曲ってこちらに方向を変えました。
何隻も何隻も。大船団です。正面からこちらに向かって来ます。
その迫力に胸が熱くなって来ます。

c0222861_1421119.jpg

「どれか分からん。」とルナが興奮すると、
「一番高いが立っているのが御座船。」と隣の人が教えてくれました。
みなさん、望遠レンズで三脚もバッチリ。連続シャッター音の響く中、
ちっちゃなデジカメで限界に挑戦。なんとか、遠い船団が写りました。

すると花火が鳴って興奮も最高潮。
「あの花火が船団の解散の合図ですよ。」と隣の方。
それから船たちは各地の漁港に帰って行くのだそうです。
その直後、船たちは派手なパフォーマンスを始めました。
急カーブを描いたり、蛇行運転をしたり。
べたなぎの海面がうねって白いしぶきがあがります。
波が高くうねって、船はまるで嵐の中のように波間に見え隠れします。
各船それぞれに派手な運転で御座船に別れをつげて離れて行きました。

c0222861_14221699.jpg

残った三隻の御座船が粛々と入港して来ます。
神官や奉仕の人たちの姿もよく見えます。
すると海上の船から再び花火。
廻りの島々に届けとばかりに入港を知らせる花火が轟きました。

c0222861_1423486.jpg

三艘の御座船が岸壁に横付けされて、それぞれの船から神輿が降ろされると、
一年ぶりに三姉妹が揃いました。
この神輿を奉斎した船の人々の見守る中、清め祓いの神事が催行されました。

c0222861_1424982.jpg

それから、神輿はすぐそばの高台にある頓宮(とんぐう)へ。
「おー~。おー~。」という清めのケイヒツの声を先頭に神輿が練り歩きます。
空の雲までも鳳凰のよう。
向こうに見える右の島は地島。左が中津宮のある大島です。
c0222861_1425361.jpg

頓宮には建物は何もありません。古式そのものです。
頂上のひもろぎにて、改めて御迎えの神事「頓宮祭」が行われました。
ここでは三女神が揃っていて、こんなに間近で拝観する事が出来ます。
ただ今11時半。このあと、いよいよ本宮への行列です。


天気も最高で、おだやかな秋の一日。お祭りの初日のレポートでした。
永年の憧れだった「みあれ祭」。縁あってようやく見る事が出来ました。
一生に一度は見たかったので感慨もひとしおです。

まだまだこれから3日間、神事が続きます。
港では、日程の分かるパンフレットが配られたんですよ。
ここにその日程表を掲載しておきます。
 みあれ祭について
宗像大社の秋季大祭に先立ち、9月中旬に大島より御座船(ござふね)を仕立て、沖ノ島の沖津宮に向かい、まず田心姫(たごりひめ)の御神霊を大島の中津宮までお迎えする「沖津宮神迎え神事」が斎行されます。
 そして、10月1日に大島の中津宮より神湊(こうのみなと)まで、沖津宮と中津宮の神輿をお運びするのが海上神幸「みあれ祭」です。
 神湊では辺津宮の神輿がお出迎えになり、一年に一度、三宮の御神璽がお揃いになります。このおまつりは古くから行われた御長手神事(長い竹に布を付けたもの)を神のしるしとして辺津宮にお迎えした神事を再興したものです。

秋季大祭日程表
10月1日     午前9時30分  中津宮出港(海上神幸)みあれ祭
           午前10時30分 神湊入港
           午前11時     頓宮祭(宗像市神湊)
           午前11時20分 陸上神幸
           午前11時40分 入御祭斎行(主基地方風俗舞奉奏)

10月2日     午前8時     流鏑馬神事
           午前11時    秋季大祭第二日祭(喜多流翁舞奉奏)

10月3日     午前11時    秋季大祭第三日祭(浦安舞奉奏)
           午前11時40分 高宮祭
                      第二宮・第三宮祭
                      宗像護国神社秋季大祭
           午後6時     高宮神奈備祭(600年ぶりに復活)
     日程は変更になる場合があります。

高宮神奈備祭 (たかみやかんなびさい)
高宮神奈備祭は、秋季大祭を締めくくる祭典です。みあれ祭でお迎えした宗像三女神に秋祭りの無事斎行を感謝すると共に、新たな霊力を戴かれた宗像三神の神威の無窮を祈念する神示です。高宮は宗像大神降臨の伝承地で、神奈備山・神奈備の杜と崇めれられてきました。
神奈備とは神々が降りてくる山や杜を意味します。

高宮神奈備祭のレポートは宗像神社(3)に書いています。

るなメモ
●みあれ祭に行く時は、日焼け対策、風よけなどをしておくこと。
●第一駐車場料金 12時間300円。(2010年時点)

●御座船は一隻と思い込んでいたけど、三柱にそれぞれの御座船があったのを知ったのはとてもよかったです。

●神輿の先導のケイヒツの声を初めて聞きました。源氏物語に出てくるのですが、本では分からない、生の声が今に伝わっていました。

●海上神幸の航路がいったん鐘の岬に向かって行ったのは、現場に行かなくては分からなかった事。そこは海路の難所ですが、その岬にはこのブログで紹介した織幡宮があって、竹内宿禰が祀られています。この海路の安全と国を守る為です。そして、「御長手(おんながて)」という竹に幟を付けた始まりの宮でした。
船団がまるでそこに挨拶するように見えたのも、とてもゆかしかったです。

●地元の小学校では、男子生徒全員が船に乗ってこのみあれ祭を体験すると聞きました。残りの人たちは浜に出て、知っている船に手を振るとか。子供たちに祭りを体験させるのは、文化の継承のために一番必要な事なんだと思いました。

●遠方の人がこのみあれ祭を見るためには、地元のホテルや国民宿舎、民宿に前日から泊まるのが一番です。バスなどで祭りを見に連れて行ってくれます。神代の時代からの風景がそのまま残る宗像路の旅はルナのお勧めの旅です。


《ブログ内で宗像の旅をするなら》
       三女神の元宮を訪ねる  六嶽神社⇒神興神社⇒宗像大社       
       海と祈りの宗像路    宗像大社⇒織幡神社⇒玄界灘の黒船騒ぎ  
  
地図 宗像大社 神湊





気が向いたら、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2010-10-02 14:46 | 宗像大社・むなかた・宗像市 | Trackback | Comments(6)
line

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


by lunabura
line
クリエイティビティを刺激するポータル homepage.excite
カレンダー