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カテゴリ:神社(エ)( 8 )

永尾剱神社(4)ザビエルの前に筑紫に入っていた聖母マリアの信仰


永尾剱神社(4)
えいのおつるぎ
ザビエルの前に筑紫に入っていた聖母マリアの信仰

「聖母」を「しょうも」と読めば神功皇后ですが、「せいぼ」と読めば聖母マリアです。
この地方は天草四郎で有名なように、キリシタンの信仰が栄えた地。

キリスト教が簡単に受け入れられた背景として、
キリストの死後200年までには、その信仰の人たちが九州に入って来ていたために、
1000年以上経って再び耶蘇教が入ってきた時、
容易に受け入れられる文化的土壌があった事を真鍋氏は示唆しています。

それでは、続きを読みましょう。
遠く『山海経』の頃から「女を以て主となす」が倭人の家の習いとして大陸に知られていたところを見れば、神代の昔は(双子座は)二人の兄弟姉妹よりも、母が我が子を抱き、子を負う姿に託していたと思われる。妹背星(いもせほし)ともよばれていた。

聖母とは神功皇后で、応神天皇の生母であった。近世までは聖母様、あるいは聖母大明神として仏堂の観音像とならんで神祠の聖母像の女人の懐胎出産の祈りの対象であった。

聖母の字はキリスト(紀元前4~30)の母なるマリヤを直観させる。

聖書が倭人に伝えられたのはザビエル(1506~1552)に始まるが、当時の人に宣教師の説くマリヤがいかに映じていたかは不詳である。

しかし、西海でキリシタン禁令の出る慶長17(1612)年までに、あれだけの爆発的多数の信者を集めた背景には、古来の聖母信仰が潜在的基盤を形成していたのかもしれない。

基督(キリスト)教の信仰の自由は明治6年(1873)年から再開されたが、昭和16年(1941)年から同20(1945)年の大東亜戦争の間は、事実上の耶蘇教禁止にほかならなかった。

そして終戦の冬には神道仏教のいかんにかかわらず、九州はどこの僻地もありあわせの食膳でささやかながらも聖誕祭を祝ったことは、今なお記憶に新たなところである。

聖母の名は島原の乱以後の近世の神社からは聊(いささ)かも抹殺されなかった。
宗門改め(しゅうもんあらため)の認定尋問が年毎に行われていても、聖母様の祭日なる陰暦12月14日には神官氏子こぞっての団欒がお火焚祭(おひたきまつり)の形で続いていた事実は史家の気付かぬところでもある。

後半は「聖母」が神功皇后を指すのか、マリアを指すのか分からなくなりました。
これが口述筆記の難しい所です。

「聖母様の祭日なる陰暦12月14日」というのが問題の所です。
そこで調べてみると、陰暦12月14日は応神天皇の生誕日なんですね。
だから、この聖母様とは神功皇后の事でした。

筑紫の人々が双子座を見て、「仲の良い双子」を思い浮かべるのでなく、
「神功皇后が皇子を抱く姿」を思い浮かべるのは、
その潜在意識に「聖母マリアがイエスを抱く姿」があったからだと氏は示唆します。

そう言えば、キリストが生まれたクリスマスの12月25日に近い14日に
ホムダワケ皇子が生まれたという季節感も、
イメージを重ね合わせる助けになったのかもしれません。

イエスは紀元前4年生まれ。(と真鍋氏はベツレヘムの星から計算)。
応神天皇は紀元200年生まれ。
この間、200年の差しかない事に注目すると、聖書が編纂されるよりもずっと前に
「子を抱くマリアの姿」が筑紫に入っていたという計算になります。

中東からいろんな民族が日本にやって来たという事は分かっているのですが、
こうして具体的な祭や信仰の背景を教えて貰うと、
「物や人」と共に、「心」もまた伝わっていた事を肌で感じる事ができます。

これは弥生時代の話ですよね。
伊都国で発見されたビーズのネックレスがインドより西の方でしか
生産できないものだと言う事が科学的に証明されましたが、
「物と人と心」、
これらは分かち難いものだと改めて考えさせられます。

さて、その「心」はどのように根付いているのでしょうか。
氏はさらに詳しく述べています。

邪宗門は隠れキリシタンの形で西海の離島ならずとも、特に筑前肥前の山間僻地で人しれず占星術の形にごく醇朴に率直に守られてきていたところをみると、遠くはるかな悠久の昔に、中東で景教や回教の経典が完成する以前の姿が筑紫に根をはっていたものと推定される。

山里の人々はキリシタン禁令に対して宗教信仰にこりかたまった狂信的信徒によくある対抗的反抗的意識もなければ、諦観に似た寂莫の無表情もなく、ただ何事のあるかをしらず、何事のあるかをしらず、何事の坐(い)ますかを疑わず、星座に一心に合掌していた。

よく信仰の団結を誇張するあまり、いわゆる歴史家が殉教に生々しい描写を連ねるのを常識としているのは、度をはずれた波の飛沫の如き一瞬の描写にすぎないことを銘記せねばならぬ。

この「筑前肥前の山間僻地」というのは背振山系を指していると思われます。
ここには人知れず占星術が伝わっていて、
それは景教などの経典が完成する以前の姿だと氏はいいます。

背振山の北では中臣氏が北の星空を観測し、南では物部氏が南の空を観測し、
吉野ヶ里の人々は高度な青銅技術を花開かせていました。

ところで、景教についても確認しておきましょう。wikiから
ネストリウス派とは、古代キリスト教の教派の1つ。コンスタンティノポリス総主教ネストリオスにより説かれ、431年、エフェソス公会議において異端として排斥された。唐代の中国においては景教と呼ばれる。のちアッシリア東方教会が継承した。

異端とされたのが431年でした。景教と呼ばれた唐の時代は7世紀~。
背振山系の山里にはこれより以前の、教会組織化される前の素朴な信仰が
淡々と受け継がれていたようです。

さて、『儺の国の星』はこの後、白鳥座などの話になります。
今回はそれは省略して、その先を読んでおきます。
ウラルアルタイ民族は特に巫女の居室には鳥の首を象徴した彫刻を飾り付ける習慣があったから、その遺風にしたがって、天鳥船が往来を守る神として、あたかも鶴の頭と鵞(かも)の首に似た竿を立てたかの如き石塔を港や岬に安置した。この遺物が十字架の風波に削られた姿と見る学者が多い。

歴史は傜(かさみ)の長い柱をキリストの死に際の体を支えた十字架に置き換えたのであるが、この時代は近世のわずか200年の出来事にほかならなかったのである。

耶蘇教が神代の天原(あまのはら)、倭人伝の頃の末廬(まつりょ)今の松浦(まつら)の人々に支えられたのは、胡人の血液が西域の聖人の教えをすなおに吸収するだけの素質がまだ乾き切っていなかった証拠であったと思われる。「血は血を呼ぶ」なることわざがこれであった。

「天原」が久し振りに出て来ました。
古代の北部九州は「ありなれ川」(御笠川~筑後川)で左右の島に分かれていて、
左の方は島が多くて海人(あま)が多かったので、「アマノハラ」と呼んでいました。
(そういえば倭国の王家もアマ氏でしたね…。)

当然ながら沿岸には異国からの船が到達するので、
西域の人たちがそのまま残って倭人に混ざっていく歴史も有ったことでしょう。
日本に定着した人々の事を考えると、
西暦200年頃と言えば、キリスト死後、まだ数世代目なので言い伝えもあるだろうし、祖先の信仰を受け入れる血はまだまだ濃かったという事です。

「ゑいのを」(セントエルモの火)から、思いがけない古代の世界を垣間見ました。
「マリア信仰」と「神功皇后信仰」が「聖母の星」を通して繋がったのは驚きです。
いつかは、自分の目でこの聖地から不知火を見たいものです。

それでは、ゆるりと永尾剱神社の細長い参道「エイの尾」を歩いて帰りましょう。

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参道は両側が崖です。
「弥生の道」と私がこっそり呼んでいる地形です。





地図 永尾剱神社






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by lunabura | 2012-11-04 01:03 | 神社(エ) | Trackback | Comments(2)

永尾剱神社(3)「双子座」を筑紫では「聖母の星」と呼んでいた・背振山と神功皇后


永尾剱神社(3)

 「双子座」を筑紫では「聖母の星」と呼んでいた
背振山と神功皇后の祭祀
永尾剱神社に冬至ライン?
 
今日は前回省略した「二つのセントエルモの火」についてです。

「セント・エルモの火」の説明文をもう一度読み直しておきましょう。wikiから
悪天候時などに船のマストの先端が発光する現象。

大プリニウスによれば、古典期のギリシアでは、発光が一つの場合「ヘレナ」、二つの場合「カストルとポルックス」と呼んだ。

アルゴー船の神話によると、同船に乗り組んでいたカストルとポルックスの頭上に光が灯ったところ嵐が静まったので、この双子は航海の守護神とあがめられ、船乗りの間ではセントエルモの火が二つ出現すると嵐が収まると信じられたという。

ここに双子の「カストルとポルックス」が出て来ますが、
これは明らかに双子座の二つの星の名前です。

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この双子座は日本では「聖母の星」と呼ばれていました。
「聖母(しょうも)」とは誰?
それがこのブログでお馴染みの神功皇后の事なんです。
ホムダワケ皇子を抱いた神功皇后の姿を「聖母の星」に見立てていました。

今回はその辺りを『儺の国の星』で読んで行きましょう。p186
(読みやすくするために一部変更しています)
聖母の星(しょうものほし)
筑前国続風土記 巻21早良郡背振山の条に
山上の御社は、神功皇后三韓を攻めたまいし時、祈願のために是を立て祭り給いしという。神功皇后はこの国に七社を創立したまう。背振の社もその随一なり。

背振山は山岳信仰が盛んな山として、シンポジウムが最近行われたようですが、
そのずっと昔「神功皇后が三韓攻撃の勝利を祈願した」と貝原益軒が伝えています。
この山から玄界灘の航路を見定めたという話もありましたね。

真鍋氏は益軒の話を引用したあと、双子座について説明を始めます。
地中海民族はカストルとポルックスが一対をなす双子座ジェミニが船人の大きな目標であった。双子座は8月12日の暁に西に入り、6月26日の暁に東に上がる。

神功皇后元年の5月1日は陽暦6月18日であり、その前年、仲哀帝9年は5月1日は陽暦5月31日にあたる。歳差25日を以てすれば、月の3日に天を祈る儀式が西域の伝統に則して行われたことになる。

雲間の星影は一つだけではそれが何であるか判じ難いが、二つ相並ぶと、もはや疑う余地がなく、更には二つを結ぶ軸の方位で時と所を二つながら見定め得ることになる。

双子座の二つの星は、街の明かりで星影が薄くなった現代でも、
よく光っていて、色が微妙に違って並ぶので、すぐに分かります。

そんな双子座は地中海の船人の指針となりました。
双子座の特徴は6月26日には夜明け前に東から昇るのに対し、
8月18日の夜明け前になると西に入るという、大きな特徴があり、
時と所を教えてくれる大切な星座だったという訳です。

その後、神功皇后「元年」の説明になります。
???
「月の3日に天を祈る儀式が西域の伝統に則して行われた」という部分の
「月」は「何月」というのが欠落しているのでしょうか。

(歳差が25日ということなのですがよく分からない。誰か得意な方計算して下さい。)
文脈からは、神功皇后が背振山上で行った儀式は西域のやり方を採ったと解釈できます。

真鍋氏は続けて背振山の当時の夜明けを計算します。
航空自衛隊背振山基地の各位の測定によれば、社殿は南面して東寄りに17.0度となっている。これに磁石の偏差6.0度を加算すれば23.0度となる。

既に仲哀帝9(200)年より九州島の自転は5.31度に達しているから、当時の日の出は左手東より北に17.6度であった。

伝説によれば神功皇后は2月6日(3月8日)戊申の仲哀帝崩御から50日後の3月26日(4月26日)丁酉に御輿(みこし)を上げられたのであるが、双子座を西海(ここでは九州か)では聖母星と呼んでいた。

神功皇后(201~269)と応神帝(270~312)をみたてた名であるから、いつのころか八幡信仰が世人に守られて以来のことである。

真鍋氏は古社の向きは測量して決めていたと考えていて、
現代との角度の差を利用して創立年代がいつなのか、いくつかの神社で計算しています。
この背振山頂の古社についても、上記のように計算していますが、
私にはまだこの文の意味がよく分かりません。

それでも、この部分を読みこむと
双子座と地中海船人 ― 聖母の星と神功皇后・応神天皇 ― 八幡信仰
というラインが浮かび上がってきます。
これはいったい何でしょうか。
八幡様といえば応神天皇の事ぐらいは分かるのですが。
神功皇后は地中海の信仰を行った…?
う~む。
これを解き明かすにはまだまだ力不足だな…。

それはそれとして、これまでの神功皇后伝承から考えると、
神功皇后は竹内宿禰や中臣烏賊津使主・物部の胆咋たちと背振山頂に登って夜を明かし、
夜明け前に東に双子座が昇り出すと、航海の守護を祈る儀式をし、
次第に空が白んで太陽が昇るとその太陽を祭祀する。
そんな古代の情景が真鍋氏には見えていたのだろうと想像できます。

真鍋氏は計算に「磁石の偏差と九州島の自転角度」の要素を加えています。
九州島の回転は1800年間に5.31度に達しているのですね。
九州島は宮崎沖の日向灘に沈み込むようにして右に右にと傾いているので、
3.11以来さらに角度は大きくなっているかも知れないなと思ったりしています。

そして、この5・31度を知って、ハタと気づく事がありました。
それは、日拝塚古墳とか、平原遺跡とか、東西の祭祀線軸を意識した遺跡が
微妙にずれている理由が、
この「歳差運動と九州島の自転」によるものだったという事です。

この計算ができれば、いよいよ平原遺跡の年代とかが推定できるのになあ。
(私にはその技量がない…)
平原遺跡は既に約30日ほどのズレになってますよ。


そして、この永尾剱神社の岬からの眺望には冬至ラインが…?!。

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これは拝殿に奉納されていた「冬至」です。
え?という事は、あの岬は冬至ラインを意識している?
写真を見ると鳥居が微妙に傾いています。
歳差運動で傾いてる?

この神社には太陽祭祀線が組み込まれているのだろうか?
あわてて、先ほどの岬に戻ってみました。

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観察すると、この岬に対して鳥居と参道ラインは微妙にずれていました。
あの鳥居は新しいけど、古代からあった位置に再建されたのだろうか。
もし、きちんと冬至ラインを意識した仕掛けがあるとしたら、
むむ。ますますこの聖地は面白い所となります。
(つづく)








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by lunabura | 2012-11-02 21:11 | 神社(エ) | Trackback | Comments(2)

永尾剱神社(2)「セント・エルモの火」を筑紫では「ゑいのを」と呼んでいた


永尾剱神社(2)
えいのおつるぎ
 「セント・エルモの火」を筑紫では「ゑいのを」と呼んでいた


「St.Elmo(セント・エルモ)の火のことを筑紫では昔から「ゑいのを」とよんでおります。まさに泰西の言葉の万葉仮名的描写であります。語源はまったく共通であります。
  (『儺の国の星』p189 真鍋大覚)

この一文を理解するのに、3年の筑紫の逍遥が必要でした。
この永尾(えいのお)に辿りついて、不知火が見える事を知って、
ようやくこの文の成す意味を知ることができました。

「泰西」とはヨーロッパの事で、同じ「光の現象」を
ヨーロッパでは「エルモの火」、古代筑紫では「ゑいのを」と呼んでいたという事です。

「セント・エルモの火」とは、どんな火なのでしょうか。Wikiより
悪天候時などに船のマストの先端が発光する現象。

大プリニウスによれば、古典期のギリシアでは、発光が一つの場合「ヘレナ」、二つの場合「カストルとポルックス」と呼んだ。

アルゴー船の神話によると、同船に乗り組んでいたカストルとポルックスの頭上に光が灯ったところ嵐が静まったので、この双子は航海の守護神とあがめられ、船乗りの間ではセントエルモの火が二つ出現すると嵐が収まると信じられたという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%88%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%A2%E3%81%AE%E7%81%AB

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画像もwikiからですが、マストの先端から何カ所も火が出ています。
悪天候時に発光すると言われるこの現象は、
火が二つ出現すると嵐が収まると信じられていたんですね。

それでは「ゑいのを」という名を持つ永尾剱神社の地形を見てみましょう。
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氷河が削ったのでしょうか、リアス式海岸のようになっています。
中央の岬の先端に永尾剱神社がありますが、その左右には大きな岬が控えています。
川によって土砂が運ばれて平地が出来ていますが、
かつては神社の両脇は海だった事でしょう。
神社の岬は本当にエイの尾のように尖っています。

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これは拝殿に掲げられたエイの絵。
この尾と同じ地形の岬と、その先に現れる不知火。
まさに「セント・エルモの火」を地上に降ろしたような奇跡的な地形が
この永尾剱神社の鎮座地でした。

この岬と不知火を発見した海人たちはどれほど驚き歓喜した事でしょうか。
航海を守る神が降臨した聖なる岬。そこにその光の現象の名を付けました。

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これは参道の中腹の横からの眺望です。
岬の突端に立つと八代海が広がり、不知火の火が見える聖地です。

この神社の主祭神は「海童神(玉依姫)」でした。
この神への信仰が当初から変化無いものだとしたら、
この地を祀ったのは安曇族の可能性も出て来ました。

「海童神(玉依姫)」という不思議な名称も、発光が一つの時はヘレナという女神の名で呼ぶとしたら、
その女神信仰の残照が残ったのかもしれませんね。
(発光が二つの時の話は次回にまわします。)

それでは『儺の国の星』の続きを読んで行きましょう。

筑前国続風土記二十三 志摩郡燈台背の条に
八月以後、晴天にわかに雨雪ふる時に、あかりが下より12條或いは3條上る。上りて後下の方より消えて、細くちらちらと光る。ゑいの魚の尾の如し。故に海人はゑいの尾という。
(一部口語訳)

一條=一丈なら約3m。12×3=36mの事でしょうか?
急に天候が荒れた時、光が40mほどの長さに立ち昇り、下の方から消えて細くちらちらと光る現象が志摩郡でも見られて、「ゑいの尾」と海人は呼んでいたというのです。
まさしくセント・エルモの火と同じ現象です。

相の島から可也山にかけて白山火山山脈に沿う火口が連なっております。

セント・エルモの火は、特に地震津波の前にはよく光りました。海底から噴き上がる地気の微細な気泡が波を静める作用がありますから、近代人はこの現象を活用して圧搾空気を港の岸壁の下から吹き上げて、波を消す方法を案出しました。

玄界の舟人は聖炎が燃えるのは、大風の中心と信じておりました。昭和32(1957)年7月25日に、諫早の豪雨の中にこれが点(とも)りました。

昔の神話も今の人がすこし胸をひろげて心を開いて考えれば温故知新、あまねく到る処に有りと思われます。
(一部変更)

福岡の北沿岸に火口があるという話も、萩沖で火口が発見された事から、
充分に納得できる話となりました。
過去記事
萩沖海底火山 http://lunabura.exblog.jp/18452452/

そして、約一週間前の事ですが、今年の10月22日に白山で謎の火柱が観測されました。

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 石川、岐阜県境の白山(二、七〇二メートル)で、二十七日夜から二十八日未明に群発地震が起きていたことが、気象庁の観測で分かった。いずれも揺れを感じない震度0の地震だったが、その数は約四時間で百回余りにも上る。識者らは「一過性の現象か、噴火に直接つながる可能性があるのか、注意深く監視する必要がある」と話す。

中日新聞 2012年10月29日 引用
http://www.chunichi.co.jp/hokuriku/article/news/CK2012102902000165.htm

白山の光の柱が観測されてから5日後に群発地震が起こりました。
真鍋氏はこのような事を伝えたかったのでしょう。

最近ようやく地震前の空模様や発光現象が地震の前兆として広く認識されてきましたが、
「地震雲」という存在を初めて世に発表した時、
真鍋氏に対する識者たちの偏狭な反応にどれほど心を痛めたか、
遠慮がちに書いては有りますが、その無念さがひしひしと伝わってきます。

気象庁は今でも地震雲を認めていないそうですが、
民間のツイッターなどでは、詳しい研究が進んでいます。
(つづく)






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by lunabura | 2012-11-01 00:31 | 神社(エ) | Trackback | Comments(0)

永尾剱神社(1)不知火が現代でも見える宮


永尾剱神社(1)
えいのおつるぎ
熊本県宇城市不知火町永尾
不知火が現代でも見える宮 

今回から、熊本県の天草北部の旅です。
久留米地名研究会主催の、
観光旅行では味わえないマニアックな古代の旅に参加しました。

最初は永尾剱神社です。「エイノオツルギ」と読みます。
「魚のエイの尾」を思い浮かべますが、
まさしく地形がエイの尻尾のように細長くなっています。

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これが神社の杜で、右の方から撮りました。
左端に一の鳥居があります。

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国道266号線沿いです。
しかし、社殿は海の方を向いているので、ここから登ると神殿の裏側に出ます。
そこで右脇の路地から杜の麓に沿って歩いて、裏というか、正面に廻って行きました。

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突端付近です。神社はこの崖の左奥に建っています。
地層を見ると波が岬を侵食しているのがよく分かります。
よほど激しい波が立ったのでしょう。上の方も侵食しています。
でも、ここは入り海です。八代海です。
津波でも入って来たのでしょうか。
津波は奥に入るにつれて巨大化するという話を思い出しました。
もう海のそばです。

海の中の鳥居が目に飛び込んできました。
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社殿が海の方を向いているので、こちらの方が一の鳥居かも知れません。
海から参拝するようになっています。
海の向こうに見えるのは九州島です。熊本県が見えています。

後ろを振り向くと
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海からまっすぐ上る急な石段がありました。

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石段を登りつめると、二つ目の鳥居がありました。

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境内に出ました。

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拝殿です。
御祭神は海童神(わだつみのかみ)(神武天皇の御母様)
    菅原道真公外三柱
です。

なんと道真公の名前がここにも。
前回まで飯塚市や嘉麻市の神社を書いたのですが、
そちらでも道真公がよく祀られていました。
「道真公信仰」は古代筑紫を見て行くのに、これまたキーポイントなんですね。

さて、何よりも主祭神の名前に驚きました。
「海童神(神武天皇の御母様)」です。
「海童神」(わだつみのかみ)といえば志賀三神・綿津見神でした。
なのに、「神武天皇の母」となっています。
母といえば玉依姫ですよね。むむ。
どうしてこうなっているのだろう。

玉依姫の父神は豊玉彦。豊玉彦といえば海神です。
その童だから海童神というのでしょうか。
これは興味深い名称に出会いました。

さてぐるりと境内を見回すと説明板がありました。

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神秘の火 不知火(しらぬい)
不知火は、今から千数百年前、景行天皇九州に御巡幸のとき、暗夜の八代海上に天皇を導き、無事火の国の海岸へお誘いした怪火がそのはじまりで、以来この主知らずの火を不知火と呼ぶようになった。(日本書紀)
不知火は毎年八朔(旧暦8月1日)の未明、干潮時に現れる。
今年の八朔は9月15・16日です。
不知火がここから見える!!しかも現代でも!
予備知識なしに来たので、驚きました。
ここはビューポイントなんだ。

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あいにくの曇天ですが、ここから不知火が見えるのでしょう。
しかも日本書紀の景行天皇紀に描かれた不知火です。
拝殿には不知火の写真がたくさん奉納されていました。

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景行天皇と不知火について、
取り敢えず、日本書紀から該当部分を読んでみましょう。
5月1日に葦北から船を出して火の国に着いたのですが、日が暮れてしまい、暗くて岸部が分かりませんでした。遥かに火の光が見えました。

天皇は舵取りに、
「まっすぐ火を目指せ」と言いました。
そこでその火を目指して行って、岸に着く事が出来ました。天皇はその火の場所を尋ね、
「何というムラか。」と言いました。国の人が
「ここは八代の県の豊村です。」と言いました。
またその火について、
「これは誰が焚いた火か。」
と聞きましたが、誰なのか分かりませんでした。
結局、人が焚いた火ではないことが分かりました。こうして、その国を火の国と言うようになりました。

6月3日に高来の県から玉杵名のムラに渡りました。その時、土蜘蛛・津頬(つつら)を殺しました。

16日に阿蘇の国に着きました。その国は野が広く遠大で、人家がありませんでした。天皇は
「この国に人はいるのか。」
と言いました。その時、二柱の神が出て来ました。
阿蘇都彦・阿蘇都姫と言いました。たちまちに人間の姿を取って現れて、
「吾ら二人がいる。どうして人がいないことがあろうか。」
と言いました。この事から、その国を阿蘇と名付けました。

「人が焚いたのではない火」
これが不知火(しらぬい)ですが、文面では5月1日になっています。
現代では8月1日です。
不知火の現象を伝承に取り込んだのでしょうか。
あるいは暦の計算の違いなのか、時代の差か、昔は毎月1日には出現したのか、
いろいろ想像すると、また謎だらけになりました。

(つづく)









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by lunabura | 2012-10-31 13:27 | 神社(エ) | Trackback | Comments(0)

恵蘇八幡宮と木の丸殿(1)えそ・筑紫で亡くなった斉明天皇のモガリの宮


恵蘇八幡宮(1)と木の丸殿
えそはちまんぐう・このまるでん
福岡県朝倉市山田151
筑紫で亡くなった斉明天皇のモガリの宮
中大兄皇子はここで喪に服した


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前回、斉明天皇の陵墓かと紙面を賑わした牽牛子塚古墳について書きましたが、
彼女が亡くなった場所は筑紫の朝倉橘広庭宮(あさくらたちばなひろにわのみや)だと
日本書紀に書いてあります。
この宮の場所についてはまだ特定されていませんが、
モガリをして、仮埋葬したと言われる宮は今も伝わっています。
今日はそこに行きましょう。

福岡から大分県方面に向かう386号線を、筑後川を右に見ながら行くと、
三連水車で有名な朝倉に出ます。
その先、大きく左にカーブする所に、この恵蘇八幡宮はあります。
楠の巨木があって、古い風情が残っているので、すぐに分かります。
鳥居は道路に面していて、石段を少し登れば境内です。
昔は筑後川から直接上がったのかもしれません。
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本殿は江戸時代に改築されました。
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お参りして天井を見上げると珍しい十二支の羅針盤がありました。

この恵蘇八幡宮のご祭神は斉明天皇・応神天皇・天智天皇です。

道路わきにあった由来を写します。
由緒によると、斉明天皇は661年、百済国救援のため筑紫の朝倉橘広庭宮(あさくらたちばな)に下られた。この時随行の中大兄皇子(後の天智天皇)は国家安泰と戦勝祈願のため、宇佐神宮(大分県)に奉幣使を遣わされた。使いの一行が恵蘇山麓に達した時、天上から白旗が降り、幡に八幡大神の文字が浮かび出たことから、天降八幡なる宮社が創建された。その後、天武天皇白鳳元年(673)に斉明天皇・天智天皇を合祀し、この頃社名を恵蘇八幡宮に定めたといわれている。
現在の本殿は安永元年秋9月(1772)の改築である。

宇佐八幡宮の主祭神といえば応神天皇です。
中大兄皇子によって応神天皇が祀られたという由緒です。
応神天皇は母君の神功皇后のお腹の中にいた時に、共に新羅に渡って、
戦わずして勝利を得たので、それにあやかりたいと言う事で勧請したのでしょう。
白旗が降りたというのは宇佐神宮の神威を得たという事で、
シンボリックな話になったと思われます。
しかし、軍事的に考えると、宇佐は古来、造船などの技術が確かな所なので、
その援助を依頼したのではないかと思いました。
難波でも軍備をしたようになっていますが、
玄界灘を渡って戦うとなると、海路に詳しい水軍無しには戦えません。
天上から白旗が降りたというのは、宇佐の協力を得た印ではないかと思いました。

さあ、こうして、戦の準備が着々となされたのですが、
母の斉明天皇がわずか二カ月で亡くなってしまいます。
その年齢が68歳。
天皇が亡くなったので、そのモガリは、おろそかに出来ません。

木の丸殿

さて、亡くなった斉明天皇の御遺体はこの神社の上の山に移されました。
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神社の右の方にもう一つ鳥居があるのがそれです。上って行きましょう。
石段がいくつも続いて小高い丘の頂にでます。
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この頂きはぐるりと石垣が囲まれていました。
この中に古墳が二基あるそうです。説明板がありました。

日本書紀によれば「西暦661年5月、斉明天皇は百済救援のため朝倉橘広庭宮に遷られたが、病のために7月24日に崩御された。皇太子中大兄皇子は母斉明天皇崩御7日後の8月1日に御遺骸を橘広庭宮からこの地に移し、一時的に葬り…」と記されており、地元では御陵山と呼んでいる。
陵上には方2間(1.8m)の石柵が巡り、中央の塔石には「斉明帝藁葬地」(こうそうのち)
と刻されている。形態は前方後円墳ではないかという説もあるが、町では円墳二基としてみている。

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中には入れないのですが、目をこらすと、中央部にいくつかの石の柵が見えます。
そこに、斉明天皇の「藁葬(こうそう)の地」と書いてあるそうです。
藁(わら)の葬?
よく分からないのですが、かつて仲哀天皇が亡くなった時、
遺体はムシロで包んだという伝承を聞いた事があります。
ここも、戦争の陣営の事、遺体を包んだのは藁で編んだムシロだったのかも知れません。
ここで斉明天皇のモガリ(殯)が行われました。
遺体はどうしても腐敗の過程を通らなくてはいけません。
古代の人々は、その過程を大切にしていました。

中大兄皇子がモガリをする様子が伝わっていました。
皇太子中大兄皇子は、御母斉明天皇がお亡くなりになって、7日後の8月1日、御遺骸を朝倉橘広庭宮からこの地にお移しになり、その夕べ御陵山に仮に葬られた。そして、陵下の山腹に丸木の殿を作られ、一日を一か月にかえて12日間、母君の喪に服されたといわれ、この地を「木の丸殿」「黒木の御所」と呼ぶようになった。

この御陵山については恵蘇神社にも由緒が書いてありました。
斉明帝藁葬地 (こうそうち) 御殯斂地(ひんれんち)
山上には斉明天皇の御陵といわれる前方後円墳があります。斉明天皇は661年5月9日(新暦6月14日)橘広庭宮にお着きになり、7月24日(8月27日)病のため崩御されました。(御年68歳)中大兄皇子は御遺骸を一時山上に御殯葬され、軍を進め、後に奈良県高市郡越知岡村へ移される、と記されています。

木の丸殿遺跡(このまるでん)
天智天皇は斉明天皇御殯葬のあと御陵山に木皮のついた丸木で忌み殿を建て、12日間喪に服されました。後世の人々が「木の丸殿」と呼びました。

天智天皇御製
秋の田の刈穂の庵のとまをあらみ 我が衣手は露にぬれつつ (小倉百人一首)
朝倉や木の丸殿に我が居れば 名のりをしつつ行くは誰が子ぞ (新古今集)
具体的な部分は少しずつ差がありますが、
まさにこの地は斉明天皇の御遺体を一時的にモガリした場と言えます。
(つづく)


★ 教えてください ★
さて、この由緒を読むと、斉明天皇の御遺体はこのあと、
「奈良県高市郡越知岡村」に移されたと書いてあります。
この点について、奈良の方で、どうなっているのか、教えていただけませんか。
今、話題になっている、牽牛子塚古墳がある所の事なのでしょうか。
日本書紀では、飛鳥川原(行宮?)でモガリをされたように書いてあります。
その後、改めて埋葬されたと思われます。
土地勘がないので、どなたかこの恵蘇神社の伝承について、
奈良の方と照らし合わせて、分析して推理していただけたらと思います。

☆ 日本書紀の該当部分を現代語訳しました。
   筑紫の朝倉橘野宮で亡くなった斉明天皇・7世紀の東アジアの地図



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by lunabura | 2010-09-23 14:47 | 神社(エ) | Trackback | Comments(14)

恵蘇八幡宮(2)なんと縁起に斉明天皇陵の所在地が書かれていた。

恵蘇八幡宮(2)  

なんと縁起に斉明天皇陵の所在地が書かれていた。
「高市郡越知岡村」は
牽牛子塚か?車木ケンノウか?
 

前回、斉明天皇の筑紫でのモガリの宮である恵蘇八幡宮木の丸殿を紹介しましたが、
なんと、その縁起の中に斉明天皇の陵墓の場所がはっきりと書いてありました。
これが境内の中の説明板です。
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前回も書いたのですが、もう一度書き写します。
 斉明帝藁葬地 (こうそうち)御殯斂地(ひんれんち)
山上には斉明天皇の御陵といわれる前方後円墳があります。斉明天皇は661年5月9日(新暦6月14日)橘広庭宮にお着きになり、7月24日(8月27日)病のため崩御されました。(御年68歳)中大兄皇子は御遺骸を一時山上に御殯葬され、軍を進め、後に奈良県高市郡越知岡村へ移される、と記されています。
あまりにさりげなく書いてあるので、この史料の重要さを見逃す所でした。

これが「恵蘇八幡宮縁記図解」です。
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(『温古』第41号(甘木歴史資料館)に掲載)
「恵蘇八幡宮縁起」によると、斉明天皇が朝倉橘広庭宮にいたころ、中大兄皇子がこの地で戦勝を祈願したところ、八幡神の旗が舞い降りたと伝えられる。縁起書は福岡藩の学者である貝原益軒の書とされる。
と説明してあります。開いたページには貝原篤信の字が見えます。

そこで今日のテーマは
この縁起はどちらを指している?
斉明天皇陵は牽牛子塚古墳か車木ケンノウ古墳か?
 


牽牛子塚古墳は考古学者が推定している古墳で、
車木ケンノウ古墳は宮内庁が指定している古墳です。

 まず、地名を整理しておきましょう。
恵蘇八幡宮に書かれた所在地  奈良県高市郡越知岡村
車木ケンノウ古墳      奈良県高市郡高取町大字車木
牽牛子塚古墳        奈良県高市郡明日香村大字越

この「奈良県高市郡越知岡村」について前回「その場所を教えてください。」と書いたら、
ブログ「徒然なるままに、、、」の管理人のじゅんじゅんさんから、
情報を頂きました。コメント欄ではもったいないので、ここに紹介します。
(ブログはサイドバーでリンクしています。)
「牽牛子塚古墳の現在の所在地は、奈良県高市郡明日香村大字越ですね。
ウイキペディアのよると、越智岡村は昭和20年までは地名として存在しし、高取町に属していたこともあるようです。以後何回かの市町村合併の後、昭和31年には、高市郡明日香村越となっています。地図を見ていただければ分かりますがと、高市郡と高取町は隣どうしです。話題になっている、牽牛子塚古墳がある所はその境界線あたりに位置しています。
恵蘇神社の由緒書って、スゴイ情報ですね!
話題になっている、牽牛子塚古墳がある所の事に間違いないと思います。」

すごい事になりました。
越知岡村は現在、高市郡明日香村越となっているそうです。
そうすると、恵蘇八幡宮に書かれている斉明天皇陵は牽牛子塚古墳になります。
地図 
車木ケンノウ古墳      奈良県高市郡高取町大字車木
牽牛子塚古墳        奈良県高市郡明日香村大字越


それでは、どうしてはるか離れた朝倉で斉明陵の所在地を知り得たのでしょうか。 

由緒書きを順に並べ直すとその理由が見えて来ました。
661年5月9日 斉明天皇は朝倉橘広庭の宮に到着する。
?月?日 中大兄皇子は恵蘇八幡宮の所在地に、宇佐神宮の祭神応神天皇を勧請して、
     朝倉山天降八幡宮とする。
7月24日 斉明天皇は病のために崩御。68歳。
8月1日  中大兄皇子は朝倉山天降八幡宮の山頂に、遺骸を移して、一時的に葬る。
     その中腹に木の丸殿を急いで立てて、12日間喪に服した。
     後、奈良県高市郡越知岡村へ移される。
673年?月?日 天武天皇の勅命により、斉明・天智天皇の二霊を合せて、三柱として、
        恵蘇八幡宮と改称する。

斉明天皇が筑紫に来た時は天武天皇も一緒でしたから、彼も母のモガリに立ち会ったはずです。
兄の天智天皇が亡くなってから、このモガリの宮を思い出したのでしょう。
ここに二人を合祀し、朝倉山天降八幡宮の名前も恵蘇八幡宮に改称しました。

どうして、具体的な地名が伝えられたのか? 
それは祝詞の奏上がヒントになります。
現代でも正式参拝すると、祝詞の中に自分の住所氏名が読み上げられます。
当時、神社の名前を変え、祭神を斉明天皇にするにあたって、
「斉明天皇は越智岡村に埋葬されました」と、奏上されたのではないでしょうか。
こうして、この地に斉明天皇陵の所在地が具体的に残されたと思いました。

さて、ここまでがルナの推理です。
これを立証するには「恵蘇八幡宮縁起図解」の内容を検討する必要があります。
関係者の方々によって、詳細を調べていただけたら、この斉明天皇陵の所在地は確定すると思いました。

地図 恵蘇八幡宮と木の丸殿





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by lunabura | 2010-09-22 15:30 | 神社(エ) | Trackback | Comments(17)

恵蘇八幡宮(3)一筋縄では行かない地名の特定・明日香村の地名の変遷が分からない


恵蘇八幡宮(3)

越知岡村はどこ?
一筋縄では行かない地名の特定
明日香村の地名の変遷が分からない


前回、越智岡村という地名が特定できれば、牽牛子塚古墳
斉明天皇の陵墓になるという仮説を出しましたが、
明日香村と高取村の境にあるというこの古墳の地名が100パーセント
昔の越知岡村かと言うと、かなりの研究を要する事が分かりました。

問題点が絞られて来たと思うのですが、ウィキペディアでは
越知岡村が途中で高取村に合併されているようになっています。
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この表は私がウィキペディアを改編したものです。
この古墳の所在地を書き入れてみました。
謎があります。
1、まずこの表が正しいのかどうか。越知岡村は全域高取町になったのか。
   一部明日香村になっていないか。
2、牽牛子塚古墳の所在地「越」は越知岡村なのか。
3、車木けんのう古墳の近くにも「越智」があるので、越知岡村ではないか。
この三つが明らかになると、斉明天皇陵がどっちかが見えてくる。
あと一息です。

今日、初めてブログを訪問して下さった方のためにこれまでの経緯を書くと、
斉明天皇は福岡県で亡くなって、その後、
朝倉市の恵蘇八幡宮の御陵山でモガリをされました。
その事については江戸時代に書かれた縁起に書いてあります。
そして、その縁起に、斉明天皇の御遺体はそののち奈良県高市郡越知岡村
移されたと書いてあるのが分かりました。
そこで、そこの越知岡村がどこにあるのかが分かれば、
斉明天皇の陵墓が特定できるかもしれないと言う事で、
土地勘のある方に情報提供を呼び掛けています。

恵蘇八幡宮に書かれた所在地 奈良県高市郡越知岡村
車木ケンノウ古墳      奈良県高市郡高取町大字車木 (宮内庁指定)
牽牛子塚古墳        奈良県高市郡明日香村大字越  (考古学者推定)

この表だけがその資料です。これはもちろん専門家の方が調査すればいい事ですが、
土地勘のある明日香ファンならこの謎が解けるのではないかと思っています。

前回は頂いたコメントを元に推理しました。
が、明日香村と高取町の町名の変遷が簡単には分からない事が明らかになりました。
地元の郷土史研究家で地名を詳しく調べている方にこの件を教えてほしいなあ。
福岡の方も、この「恵蘇八幡宮縁記図録」を調査するという次のステップが立ちはだかります。
何か新たな情報が入ったら続報を出します。
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境内の大楠です。樹高32m。胸高周囲9m。県の天然記念物です。




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by lunabura | 2010-09-21 14:10 | 神社(エ) | Trackback | Comments(0)

恵蘇八幡宮(4)こんな所に漏刻(水時計)があったよ


恵蘇八幡宮(4)
こんな所に漏刻(水時計)があったよ

恵蘇八幡宮の山は木の丸殿公園になって、散策できるようになっています。
お宮から頂上に行く途中、大きな水時計が目に飛び込んで来ました。

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説明板があるので読んでみましょう。
天智10年(671年)6月10日、天智天皇は漏刻(ろうこくー水時計)をつくって人々に時を知らせられたと伝わっています。実物は分かっていませんが、中国で用いられていた漏刻の形式を模倣したものと考えられます。
この漏刻は、4個の桶を段違いにならべたもので、第一番目を夜天地、第2を日天地、第3を平壺、第4を万水壺といい、万水壺の中にはが立てられています。
第1のつぼに水を注ぐと、水は管を通って順番に一番下のつぼである万水壺へと流れ込み、万水壺に水が溜まるにつれて、矢が浮き上がるようになり、矢に記された目盛りを読み取る事で時刻を知る仕組みとなっています。
現在、恵蘇八幡宮では6月10日(時の記念日)を記念して。毎年同日に式典が催されます。
矢が浮き上がって来るんだ。石油ストーブの灯油缶を思い浮かべました。
あんな風に浮きが上がって来るのかな。
それにしても、教科書に書かれている有名な漏刻(ろうこく)がなんでこんな所に?
書紀には天智天皇がまだ皇太子の頃に漏刻を作ったと書いてありました。
筑紫の国は中国や百済に近いので、珍しい文物があって、
大いに好奇心が動かされたのでしょう。他に磁針も作ったと言われています。

眞鍋大覚氏によると、中大兄皇子は漏刻を作って、
この神社の麓の筑後川が玄界灘と針摺(はりずり)の瀬戸でつながっている時代に、
都府楼(とふろう)に置いて、舟人たちに時を知らせる鐘を打たせた
と伝わっているそうです。
この実績が飛鳥の方でもお披露目になったのでしょう。
それにしても、6月10日の時の記念日がこんな昔の由来を持っていたとは知りませんでした。
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さて、ここで詠まれた歌。

朝倉や木の丸殿に我が居れば 名のりをしつつ行くは誰が子ぞ (新古今集)

上の句はこの朝倉の木の丸殿でモガリをするようすを歌っていました。
下の句の「名乗り」とは、この神社のすぐ下が山田の関と言って、関所があったそうです。
ここを通るには名乗りをしないと通れなかったとか。
名乗れない人たちは、あたりに沢山あった楠の巨木に夜になるまで、隠れていたと言います。
その名乗りの声が木の丸殿まで聞こえて来たのですね。
母を失ったばかりだったので、下の方から一日中聞こえてくる名乗りを聞いて、
この人も母や父がいるのだ、母親は元気なんだろうか、などと思ったようすが偲ばれます。
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江戸時代に描かれた縁起です。かやぶきの屋根に丸木の柱が描かれています。
服装は平安時代のようにも思われますが、江戸時代の人は
こんな風に捉えていたんだなと、イメージ造りの参考になりました。
この丸木の家は、現在の神社のある場所に建てられたそうです。

秋の田の刈穂の庵のとまをあらみ 我が衣手は露にぬれつつ (小倉百人一首)

これも天智天皇の歌だったんですね。
「秋の田」という地名が神社の近くにあって、その光景を読んだと地元の人びとは言い伝えているそうです。
そうすると、「衣を濡らす露」は、「亡き母を思って流す涙」だという事になります。
背景を知ると、歌の心がぐぐっと迫って来ます。
この後、天智天皇は大宰府に観世音寺を建立して母の菩提を弔ったとか。
お寺の跡に行った事はあっても、その心を全く知りませんでした。

『ひもろぎ逍遥』は「ルナの知らなかったぁ」とタイトルを変えた方が良さそう…。

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筑後川。この右に見える丘の向こうに
恵蘇八幡神社と山田の関があります。





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by lunabura | 2010-09-20 11:13 | 神社(エ) | Trackback | Comments(4)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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