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カテゴリ:斎宮・いつきのみや・粕屋郡( 3 )

斎宮の地図と猪野と銅


斎宮の地図と猪野と銅


ようやく上巻の推敲が終わって、一段落。
今日は資料の整理に一日を充てる事にしたところ、
行方不明になっていた地図が出て来ました。

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その地図は粕屋郡久山町の斎宮(いつきのみや)の字名を記したもので、
その地名の謂われが書かれていたものが添付されていました。
上の写真は地名と謂われを突き合わせたものです。

その地名の例を挙げてみます。

聖母屋敷(しょうもやしき)―神功皇后の屋敷
外園―斎宮の外苑、
尾園―斎宮の内苑、
古門(ふるかど)―斎宮の門、
堀之内―殿上人の住居があった所、
地下並(ぢげなみ)―神官、地下のいた所、
上ミ(かみ)ー神域、
下タ(した)ー一般庶民のいた所、
丁ノ坪(ちょうのつぼ)―官人が斎宮参詣の時に泊まった長路館があった所、
馬生免(ばしょうめん)―馬から下りる所、
片山―警護要衝の所

これは一部ですが、斎宮を皇宮殿として百官の配置が分かるような地名です。

当時の都は香椎宮でしたが、仲哀天皇の急死によって緊急事態になりました。
海岸沿いにあった香椎宮では危険が大き過ぎて、
一山隔てたこの地に遷宮したと考えています。

この斎宮が香椎宮から遷宮された宮だという歴史は忘れられましたが、
それを貝原益軒が発見しました。

私は、わずか一行の文に魅かれてその位置づけを探っていましたが、
コメントをくださる方から戴いた地図を見ると、
当時の官僚たちの住まいの場所も見えて来ました。

ここで武渟川命は地元の娘との間に一子を儲けた訳ですが、
それがどこなのかも推理できそうな気配です。(⇒サイドバー黒殿神社)

しかも、これは弥生時代の仮の都がどのようになっていたのか、
あるいは奴国(那国 儺県)の皇宮の構成を再現できるようなものになります。

審神者(さにわ)神社が南西200mほどの所にあるのですが、
もう一つの斎宮、小山田斎宮(古賀市)の方にも南西200mほどの所に
至聖所があることが分かりました。
聖なる地が同様な方角にあったのは、ガイドブックを書いていての発見でした。
これもまたきちんと地図を出したい所です。

この都と同時期のクニに吉野ヶ里があり、具体的な姿が明らかになりましたが、
この久山町もまた弥生の皇宮殿を復元する資料になるものだと思います。

ただ、この斎宮は数カ月しか使われませんでした。
神功皇后の出産が12月。
春になると、ここを発ってショウケ越えをして大分宮へ遷宮します。

のちに、この斎宮(いつきのみや)は伊野天照皇大神宮とセットで、
「外宮と内宮」として、「九州のお伊勢さん」と呼ばれるようになります。

この伊野天照皇大神宮の記事をUPした夜に夢を見ました。

それは「川崎町から来た男」の夢でした。
黒い服を着ていて、中肉中背の男が出て来ただけでしたが、
ちょうど川崎町の田原麻瑠の問題を不知火書房さんと話し合っている最中でした。

なんと、私が資料にした郷土史の記述そのものが間違っていたのです。
それを不知火書房さんが発見してくれて、その対処法を話し合っていた所でした。

田原麻瑠は仲哀天皇が筑紫に来た時に、川崎町から馳せ参じて従軍。
天皇の崩御後も変わりなく皇后に仕え、出産の時には南の門を守ったといいます。
その時の白い旗を大事に持ち帰ったそうです。
そして、大分宮で連合軍が解散した後、皇后を自分の屋敷に案内して
半年も滞在させるという忠義ぶりでした。

この男の存在を知らずに正八幡宮を訪れたのですが、大事なキーパーソンでした。
見えない世界から教えられたとしか思えない人物です。
この田原麻瑠を抜きにはこの後の皇后は語れません。

不知火さんが図書館に行って綿密に調査してくれて、
正しい歴史を復帰させたタイミングに夢に現れた川崎町の男。
まさしく、田原麻瑠からのメッセージなんだと思いました。

田原麻瑠は猪尻という所に住んでいたようです。
皇后を住まわせた所は位登(いとう)という所。
すぐ近くです。
地図をあれこれと眺めていて、
位登というのは猪頭(いとう)を好字で書いたのではないかというアイデアが生まれた。
田原麻瑠は「猪(ゐ)」の下(尻)の方に住んで、
「猪」の聖地(頭)に皇后の宮殿を作ったんじゃないかなって。

ふ~ん。
ここは猪の国だったりして…。
と冗談をつぶやいていたら、「猪国」という地名が本当にありました。
読み方は分かりませんが。

そこから二キロ位の所には金国山という、鉱山を連想させる山がありました。
そして北の方を見ると、あれれ、
神功皇后が「タダならぬ山だ」と言って祀った山に連なっている。
そこでは連れていた金工に銅矛を作らせて祀っていました。
タダと言う地名は銅に関わる地名なんですね。

話は再び斎宮のある久山町にもどりますが、
「猪」といえば、伊野天照皇大神宮の伊野はもともと「猪野」なのです。
そして、伊野天照皇大神宮の後ろの山が銅山だという記述を見つけてびっくり。
また銅だ。
神功皇后と銅山は切っても切り離せない。

伊野大神宮の境内の整地の時、岩の下から銅鏡が出て来たと言う話に、
「神功皇后が置いたのかも」と冗談をコメント欄に書きましたが、
可能性はゼロではない様相。

後にこの久山町は首羅山を中心に仏教で栄えます。
斉明天皇が亡くなった時もここでも法要を営んでいるんです。

バラバラの話ですが、
私に起こったシンクロニシティをそのまま書きました。
理解しにくい話だったと思います。
普段なら、これを四回ぐらいに分けて地図をつけて記事にするのですが、
そうすると一週間は掛かってしまうので…。

これまでもこんな感じで、一瞬のヒラメキを地図に落としながら進んできました。
そうすると必ず関連性が現れて、そうだったのか、という事になります。

神功皇后の3年間を線で教えられたあとは、
古代の筑紫を「面」で教えられているような気がしています。

この話が前回の七支刀の「こうやの宮」と繋がっていくので、
このブログはだんだん、ややこしくなって行きそうな気配です。

ということで、今日も備忘録でした。

田原麻瑠は正八幡宮と位登八幡神社に書いています。(サイドバー)









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by lunabura | 2013-03-04 22:55 | 斎宮・いつきのみや・粕屋郡 | Trackback | Comments(18)

斎宮(山田)(Ⅰ)神功皇后の神懸かりの地を捜して    

 斎宮(いつきのみや) 山田(Ⅰ) 

 福岡県粕屋郡久山町山田

神功皇后の神懸かりの地を捜して  
 
 
 


二つの斎宮候補地


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さて、もう一つの「小山田斎宮」の候補地、「山田斎宮」へ。

福岡県の粕屋郡の集合商業施設、久山トリアスの近くの下山田の交差点に
「九州の伊勢、伊野皇大神宮」の案内板があります。

「斎宮」はその伊野皇大神宮に向かう道沿いにあります。
周りが開けた平野で、人家も少なく、周りの山々もよく見える場所にあります。

神社の名前は『斎宮』ですが、便宜上、ここでは『山田斎宮』とします。

「山田斎宮」は伊野皇大神宮に対して、「外宮」でもあり、
豊受大神も併せて祀っています。
そばを流れる猪野川の名も五十鈴川という名を持っていて、伊勢と同じです。
でも、「外宮」としてより、「斎宮」としての方が有名です。


まず、正面の脇に「斎宮 聖母屋敷」の石碑が目に入りました。
「聖母」とはここら辺では神功皇后の事です。
「しょうも」と読みます。


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堂々とした銀杏の巨木が二本並んでいます。

その間を通って本殿に行って、手を合わせました。

道路沿いに、分かりやすい由緒書きがありました。
書き写してみましょう。


 神功皇后と斎宮

 神功皇后は、『古事記』『日本書紀』に登場し、
日本史上はじめて朝鮮半島へ出兵したと伝えられる人物です。

『日本書紀』巻第九、神功皇后(オキナガタラシ姫)の章には、
夫である仲哀天皇がお亡くなりになられた香椎宮、
応神天皇をお産みになられた宇美八幡宮などとともに
斎宮の事が記されています。

 『日本書紀』によると神功皇后は仲哀天皇が香椎でお亡くなりになると、
小山田邑(むら)に斎宮を作らせ、天皇の亡骸を運んで安置し、
自ら神主となられています。

この斎宮の故地について、江戸時代の学者、貝原益軒が
『筑前国続風土記』のなかで次のように述べています。

「聖母屋敷 上山田村にあり。其の所に神功皇后のお社あり。
是、神功皇后の跡なるにや。」

「この山田村は、香椎に近ければ、この村にある聖母屋敷こそ、
まさしき斎宮の跡には侍るべき。」

 ここ山田の地に鎮座する斎宮は、日本最古の国史に記載された
「小山田邑 斎宮」の比定地とされる神社です。
千数百年の間、人々に深く信仰され、大切に守られてきました。

 町内には六所宮跡や審神者神社など神功皇后にゆかりの深い神社や、
神功皇后を描いた絵馬などが多く残っています。
  平成16年3月  久山町
                     久山町教育委員会
 


子供たちにも分かるように、平易に書いてあります。
伝承をこうして伝えて行こうという地元の人たちの熱意が伝わってきます。

貝原益軒の考え

ここでは、「小山田斎宮」が「山田斎宮」である理由として、
貝原益軒の意見を採用してあります。
益軒の文には、省略されている文があるので、
それを加えて箇条書きすると、こうなります。

1、 上山田と小山田と似ているのでこの山田の地の可能性がある事。
2、 ここは香椎宮に近いこと。
3、 聖母屋敷の名が伝わること。
4、 小山田の方は、山越えをするので、地理的に無理があること。

などが理由のようです。

それに対してルナが考える事は

1、 山田と小山田は似ていますが、小山田がある以上、
   無理に山田にしなくてもいいのではないか。
2、 香椎宮にはどちらも一日あれば歩いて行ける。
3、 聖母屋敷の名がどちらにも伝わる。
4、 小山田にも山越せずに行けるが、益軒はそれを知らなかったようだ。

という事で、益軒の意見には賛同する理由が見つかりませんでした。

ではルナが「小山田斎宮(Ⅰ~Ⅱ)」の方で持った、
三つの疑問に対してはどうでしょうか。

 Q1 交通手段は本当に船なのだろうか。 
 西暦200年頃に道路網が発達していたとは考えにくいです。 
 地上を歩くと 川や沼が道をさえぎったに違いないと思うのです。
 
 ですから、昔の交通手段は船ではないかと考えるようになりました。
 この斎宮のそばを流れる川を見た時に、その想像は確信になりました。

 香椎宮から海に出て、左に舵を取り、多々良川の大きな河口から遡って、
 久山に向う支流に入って行けば、ここに出ます。

 香椎から右に行けば、「小山田」へ。
 左に行けば「山田」へ。という感じです。

 そのルートをずっと考えていた時、
 川を中心とした逆さまの地図があれば便利なのにと思っていたら、
 ありました、ありました。
 『香椎宮史』に載せてありましたよ。
 やっぱり、川のルートがあったよ。


Q2 移動時間はどのくらいかかったのだろうか。 
 どちらも一日以内で着きました。

Q3 何故この地が選ばれたのだろうか。  
 これについては、特別の理由がみつかりません。
 神功皇后たちにはこの時点では、ここは土地勘がありません。

 小山田が丘の上にあるのに対して、ここは平地の真っ只中です。
 目標がない所です。
 もし、ここを選んだとしたら、誰かよほど信用の置ける人の案内が必要です。

 いろいろ想像をたくましくしてみると、
 ここは船を出してくれた海人族の安曇族たちの
 特別な場所だったのかも、と思いました。

 その安曇族の長が勧めるこの地に
 ついて行ったというストーリーができます。

 本当に信用置ける人ならいいけれど、
 相手に主導権を与えてしまうので、
 ルナが当人なら、知らない所にノコノコとはついていかないなあ、
 と思いました。

 それでも、考えましたよ。
 ここにも何らかのメリットがあるはずだ、と。

 そうだ。川の上流にある伊野皇大神宮に近いぞ!


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この川の上流に見える山の麓に伊野皇大神宮があります。


伊野皇大神宮に神功皇后の伝承がある。 

伊野皇大神宮と神功皇后との間に接点があるのです。
彼女が伊野皇大神宮の裏の山の、遠見岳に登ったという伝承が
伝わっています。

このお宮は天照大神が祀られている神社で、かなり古いのですが、
原初の由緒が伝わっていません。
それでも、後の時代に、天照大神の神霊が自ら、この地に祀られる事を
望んだ話が伝わっています。

天照大神は神功皇后が神懸かりした時に最初に現れた神です。
(オキナガタラシ姫や小山田斎宮の所を読み直してみてください。)

彼女が何故、遠見岳に登ったのか、ずっと不思議だったのですが、
  (あまりに辺鄙な所だったので、です。
  現代人の視点は捨てないと。うん。)


仲哀天皇に死をもたらしたのが、天照大神だと名乗られては、
祀らないわけにはいきません。

この遠見岳を中心に考えると、この山田斎宮がずっと近距離です。

            ( Ⅱにつづく )
             
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by lunabura | 2009-11-05 12:27 | 斎宮・いつきのみや・粕屋郡 | Trackback | Comments(0)

斎宮(山田)(Ⅱ)二つの斎宮の謎が解けた

斎宮(いつきのみや)(山田)(Ⅱ)

二つの斎宮の謎が解けた


c0222861_1429476.jpg



もう一つ由緒書きがありました。
分かりやすく書きなおしながら、読んで行きましょう。
        (面倒くさい人は飛ばして結論へどうぞ)


斎宮
御祭神 
  天疎向津姫命(あまさかるむかつひめのみこと)(天照大神)
  武甕槌命(たけみかづちのみこと)
  事代主命(ことしろぬしの命)
  住吉三神(表筒男、中筒男、底筒男)
  息長足媛神(神功皇后)
合祀 六所神 (イザナギノ尊、イザナミノ尊、ニニギノ尊、速玉男命
   コトワケオの命、国常立の尊)豊受大神
境内社 祇園社

山田邑斎宮の由来記
 当宮は神功皇后が新羅征伐のとき、みづから神主となり、
神教を祈願された霊蹟の地であり、つぎのような由来を伝えている。


  第14代仲哀天皇は仲哀八年巳卯の春、
神功皇后と御一緒に熊襲征伐のために筑紫の香椎宮に行幸啓された。

そのとき皇后に
「熊襲が謀反するのは、新羅が後援しているからで、
本幹たる新羅をお攻めになると、枝葉の熊襲はみづから枯れるだろう。」
という神のお告げがあった。

しかし仲哀天皇は、神のおつげを無視して熊襲を討たれたため、
失敗されて、香椎宮に帰られ、翌年二月、病気で崩御された。

 皇后は非常にお嘆きになったが、密かに屍を納めになり、
喪を隠して、賊徒を征伐する業をお継ぎになった。

 そうして、香椎宮から群臣や百寮を率いて、小山田邑(上山田)に行啓され、
お住まいになったところが、聖母屋敷で、
聖母屋敷の西南にあたる六所の地に斎宮を造営され、
皇后みづから、神主となり、六所神を祀り、
三月一日から七日七晩戦勝の祈願をなされた。

神々のご加護により、国内も治まり、三韓を戦わずして、平定された。

 皇后が諸々の戦術と戦勝祈願をされた六所大明神は
慶長年中に大洪水で破損したので、村民は非常に恐れおののいて、
聖母屋敷に合祀した。
この社の跡を「ろくしゅう」と言って、六所田(神田)の中に
今も社の跡を残されている。

 なお、境外神社として審神者(さにわ)神社があるが
祭神は中臣烏賊津使(なかつおみ)。

「日本書紀」の神功皇后紀に皇后の祈願に際して中臣烏賊津使を召して、
審神者とす、とある。
審神者とは神の託宣請うてその意を伝える人である。(略)

 


この由来書は日本書紀から説を引用してあります。
実は、仲哀天皇の死因については、日本書紀にはいくつもの説が書いてあります。
記紀が書かれた時代にはもう、よく分からなくなっているのですね。

この山田斎宮では、熊襲征伐に行って、矢に当たったのが死亡原因だ
という説を採用してあります。

由緒書きでは、群臣や多くの長官たちを連れて移り住んだとあります。
大々的に移動して、それから、斎宮を営んでいます。

少し無理があるようです。
仲哀天皇の死を隠しているのですから。
時代が経つにつれて話が変化したようです。

何せ、1800年前の話です。
話が変わって当然です。

この斎宮のキーワードを考えました。
それは「戦勝祈願」です。
そこでこんな推理が生まれました。

二つの斎宮がある訳はこうだ?

さあ、ルナ流の謎解きです。

香椎宮で仲哀天皇が亡くなった後、
竹内の宿禰は亡骸を船で山口県の穴門宮にお移しし、
二週間後に戻って来た。

それから、古賀市の小山田で斎宮を営み、三人で神意を尋ねた。
その結果、天照大御神の御意と分かったので、香椎宮に戻って、
群臣らと協議して、新羅攻撃を決定する。

それから、群臣らを率いて、山田の斎宮の地に向かう。
そして、神宮皇后らが、久山町の神路山で、
祟られた天照大御神をお祀りする。
斎宮に戻って、六所宮の神々を呼んで、戦勝祈願の神事をした。


いかがですか。
こういうストーリーだと、二つの斎宮と聖母屋敷の地名が
今に残る謎が解けます。

まあ、また新たな発見があると、推理は変わるかもしれません。
それもよし、としましょう。    

あなたはどちらが斎宮だと思いますか?
コメント寄せてくださいね。

この「二つの斎宮」を楽しむコース
お勧め順路

1、全体のストーリーをつかむために…『姫宮さまたちの物語』 ⇒ オキナガタラシ姫
2、仲哀天皇の崩御現場に行く   … 『ひもろぎ逍遥』     ⇒ 香椎宮
3、神宮皇后が神懸かりした斎宮に行く …             ⇒ 小山田斎宮
4、戦勝祈願をした斎宮に行く(このページ)  …         ⇒ 斎宮 (山田)


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本殿の右後ろにある、鳥の姿をした木です。
そっくり!

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by lunabura | 2009-11-05 00:00 | 斎宮・いつきのみや・粕屋郡 | Trackback | Comments(0)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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