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カテゴリ:神社(ウ)( 9 )

宇奈岐日女神社・湯布院


宇奈岐日女神社

湯布院

昨日は湯布院へ。



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にゅっ。



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雲がどんどん長くなって、龍の姿に。眼も見えています。


旅の目的は湯布院の宇奈岐日女神社です。
湯布院は霧の多い盆地で、この日も霧が立ち込めて高速が通行止めになっていました。

迂回路を通って辿り着きましたが、その山際の道が正面の古代からの参道のようでした。




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一の鳥居です。




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紫陽花が参道を彩ります。





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御神門。赤い色が龍宮を思わせます。
この宮はぐるりを水が廻る、水の宮でした。







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あれ?この子たちが空から迎えに来てくれたのかな^^





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本殿です。御祭神は六柱。

国常立尊 (くにとこたちのみこと)
国狭槌尊 (くにさつちのみこと)
彦火火出見尊 (ひこほほでみのみこと)
彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊 (ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)
神倭磐余彦尊 (かむやまといわれひこのみこと、初代神武天皇)
神渟名川耳尊 (かむぬなかわみみのみこと、第2代綏靖天皇)


宇奈岐日女の名前は見当たりません。上書きされたのでしょうか。

彦火火出見、ウガヤフキアエズ、神武天皇、綏靖天皇と、連なる名を見ると、玄界灘で展開した姫神たちとの恋を思い浮かべます。

この男性神やその父と結ばれた姫神たちは伊都国や奴国などで輝く女神たち。
木花咲耶姫、豊玉姫、玉依姫、奈留多姫。

ここにニニギノ命を加えると、皆さんに御紹介したいと思っている姫神たちのお相手の面々なのです。


日女神の宮で男神たちに出会うとは思いもよりませんでした。
海から遠く、今でも車や汽車でないと訪れることのできないような地でも、地層のように積み重なった歴史があることに気付かされます。

ここ湯布院に名を連ねる歴史の始まりの神々。
また一つ、古代から連綿と息づく歴史の地を知りました。





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この日はついに由布岳は二つの峯を見せてくれませんでした。
かつて登山しようと前日から泊まったのですが、翌日はあいにくの雨で登山を断念したことがあります。
今回も雲が頂上に残り、その全容は見せてくれませんでした。
これもまた心象風景なのでしょう。

湯布院は行くたびに違う表情を見せてくれる街でした。
宇奈岐日女のことも、少しずつ調べてみたいと思います。
その時、由布岳はほほえんでくれるのでしょう。






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by lunabura | 2015-07-20 21:32 | 神社(ウ) | Trackback | Comments(2)

宇佐神宮6・呉橋と大善寺 暗号をどう解けというんじゃい

宇佐・安心院トレッキング(16)

宇佐神宮6 

 呉橋と大善寺 
暗号をどう解けというんじゃい
  

上宮参拝の後、下宮を参拝して、今回のテーマの一つ、呉橋へ行きました。

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よ~く見て下さい。これは社ではありません。橋です。
しかも開かずの橋。十年に一度、勅使を迎える時にだけ開くそうです。

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ちょいと横から。川面が見えます。この呉橋は県の重要文化財です。
宇佐神宮HPには
「鎌倉時代より以前からある西参道の屋根が着いた神橋です。
昔、呉の国の人が掛けたともいわれ、この名があります」
と書かれています。

出ました!「呉の国」の人が架けた?
呉の国といえば、二つあります。紀元前と紀元後。どっちだろう。

ちょっと、ウィキペディアで確認しておきましょう。

呉(春秋)
(ご、拼音:wú、紀元前585年頃 - 紀元前473年)は、中国の春秋時代に存在した君国の一つ。現在の蘇州周辺を支配した。君主の姓は姫。元の国号は句呉,勾吳。

呉の成立については詳しいことはわかっていないが、司馬遷の『史記』「呉太伯世家」によると、以下のような伝説が載っている。

周の古公亶父(ここうたんぽ)の末子・季歴は英明と評判が高く、この子に後を継がせると周は隆盛するだろうと予言されていた。長子・太伯(泰伯)と次子・虞仲(仲雍)は末弟の季歴に後継を譲り、呉の地にまで流れて行き、現地の有力者の推挙でその首長に推戴されたという。
後に季歴は兄の太白・虞仲らを呼び戻そうとしたが、太伯と虞仲はそれを拒み全身に刺青を施した。当時刺青は蛮族の証であり、それを自ら行ったということは文明地帯に戻るつもりがないと示す意味があったという。太伯と虞仲は自らの国を立て、国号を句呉(後に寿夢が呉と改称)と称し、その後、太伯が亡くなり、子がないために首長の座は虞仲が後を継いだという。


呉(三国)
(ご、拼音:Wú、222年 - 280年)は、中国の三国時代に孫権が長江流域に建てた王朝。姓は孫(そん)氏で、首都は建業(現在の南京付近)。孫呉、東呉とも呼ばれる。

222年というのは、それまで魏に対して称臣していた孫権が黄武と言う新しい元号を使い始め、魏からの独立を宣言した年である。正式には呉の建国としては孫権が皇帝に即位した229年を採る場合もある。しかし孫権が勢力を張ったのは父孫堅・兄孫策が築いたものを受け継いでのことであり、この項では孫堅の代から説明する。


紀元後の方は魏蜀の三国で、神功皇后や卑弥呼の時代です。
神功皇后の時代なら、竹内宿禰たちの土木工事の話などが伝わっている時代なので、
橋を作る事もできたでしょう。
これほどの装飾はなくても、当時の船を造る技術で作れたと思われます。

「呉の国」という表現は、まだ日本人に同化する時代の話なんでしょうね。

さて、呉の民といえば安曇族です。
安曇族が三国時代の呉人とすると時代が合いません。
紀元前の呉なのでしょう。そうすると太伯の時代となります。

紀元前の呉と紀元後の呉って同じなのでしょうか?
にわか勉強なので、わけが分かんない~。

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今回のポイントは「呉橋は勅使道に架かっていて、創建は倭の時代」ということです。
(のちに倭国と日本国の並立時代がやってくる)

呉橋(くれはし)には屋根がついていますね。勅使は右の鳥居から橋を渡るのでしょう。
私が建っている所は一般人の通れる橋で、神橋といいます。
川は寄藻川といいます。

で?何なのだ?これが何を意味する?

るなの頭はこの辺りで思考停止するのですが、
この呉橋の特殊性に気づいてツアーを組んだ古川清久氏はメンバーにどうしても見せたいものがありました。

それは呉橋のすぐ近くの大善寺です。
大善寺?
久留米市の人は「え?」て思うでしょ。
大善寺玉垂宮と同じ字のお寺が宇佐神宮の隣にあったのです。

私たちは迂回して川の上流に出ました。

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ここは「大善寺橋」の上です。
川の向こうに長い屋根の建造物が見えますが、それが先程の「呉橋」です。
この橋は白龍山大善寺の前に架かっています。

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これが白龍山大善寺の正面です。


古川氏は久留米市の「大善寺玉垂宮」の前に架かる橋「傘橋」も、
「傘」という字から、貴人しか通れない橋を意味していると言います。

宇佐と久留米の相似はいったい何を暗示している?

薦神社の呉橋と勅使道。
宇佐神宮の呉橋と勅使道と大善寺。
大善寺玉垂宮と傘橋。

この三つの橋は貴人しか通れない特別な橋。

U~NN.うまく書けない。
人の発見を、何で るなが苦労して解説しているんだい。 (-_-;)


勅使道というのは天皇の使いが通る道。
奈良・平安時代なら天皇の所在地は近畿なので出発点は近畿だけど、
呉の国の人が生きていた時代は倭の時代だから、勅使の出発点は近畿ではない。

そうすると、
出発点は同じキーワードを持つ大善寺玉垂宮だということでしょうか?
あるいは大善寺玉垂宮は通過点?
つまり、天皇あるいは王は筑紫の方にいた。

そんな理解でよろしいのでしょうか。

これについてしばらく考えていたのですが、まさか。
るなの仮説とつながってる?

るなの仮説は「三女神を祀っていた水沼の君が宗像の君となった」というもの。
つまり、水沼の君の三女神と宗像の三女神は同じ神。

大善寺玉垂宮は水沼の君の都にあります。
水沼の君の三女神と宇佐神宮の三女神もつながってる?

これ、やばくないっすか?


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地図 宇佐神宮の呉橋 大善寺


地図 久留米市大善寺玉垂宮と 傘橋




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by lunabura | 2013-08-21 22:24 | 神社(ウ) | Trackback | Comments(8)

宇佐神宮5・隋神 高良神と阿蘇神

宇佐・安心院トレッキング(15) 

宇佐神宮5

  隋神 高良神と阿蘇神


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上宮の正面です。この門は一般の人は通れません。
その華やかな建築は日本の美を堪能させてくれます。

誰かが質問しました。
「ところで、高良の神は当宮には祀られていますか」
「はい、こちらに祀られています」
そう言って案内されたのが右手の隋神像でした。

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威厳のある美しい神像です。
御顔を見ると、阿蘇の神に比べてずっと長老です。


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こちらが阿蘇の神。正しい名称は分かりません。

しかし、こうして守護神となられたということは、二神は宇佐の下になったことを意味しています。
どんな事情があったのでしょうか。

宝物殿で伺ったことばを思い出しました。
「高良山は第二の宗廟で、守る人がいなくなったので、こちらでお守りしました」
必死でメモをしただけなので、その内容は分かりません。
初耳で、時代もいつの事が分からず、驚くばかりでした。
何が起こったのでしょうか。

阿蘇の神と高良の神。
九州王朝を連想させます。
鷹居神社の「松と鷹のモチーフ」が再び出て来ます。
こうなると、金の鷹が鷹居神社に飛んで行ったという話にも深い謎かけがありそうですね。


黒男神社
高良の隋神像の御顔を見た時、長老だったので、竹内宿禰のことかと思ったのですが、
実は、竹内宿禰は鳥居の外に祀られています。

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黒男神社 御祭神 武内宿弥
武内宿弥は、景行天皇、成務天皇、仲哀天皇、応神天皇、仁徳天皇と、五代の天皇に二百四十余年もの間大臣として仕えたと伝えられます。数多くの功労があり、忠誠を尽くされたことをもってお祀りされています。
八幡大神にご奉仕された神であり、古くから大鳥居の外に鎮座になって大神をお護りされています。長寿、忠誠、奉仕などの高いご神徳を授けられます。
   (宇佐神宮Hpより)

大鳥居の外で大神を護っているという位置づけです。
この黒男神社の竹内宿禰と上宮の隋神は同神なのでしょうか。

さらに、その裏には仲哀天皇の祠があったそうですが、最近、神功皇后のおそばに祀られたそうです。
神功皇后の神殿の横には住吉神社があります。
これらの配置からは宇佐神宮の創建時の思想が伺えそうです。


ウィキペディアより
宗廟(そうびょう)とは、中国において、氏族が先祖に対する祭祀を行う廟のこと。中国の歴代王朝においては、廟号が宗廟での祭祀の際に使われる。台湾の台中にある林氏宗廟や、世界遺産に登録されている朝鮮王朝の李氏宗廟が有名。
または日本に適用して、伊勢神宮・石清水八幡宮のこと(二所宗廟)。



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by lunabura | 2013-08-19 22:19 | 神社(ウ) | Trackback | Comments(24)

宇佐神宮4・八頭の鍛冶の翁 宇佐と出雲 大神

宇佐・安心院トレッキング(14) 

宇佐神宮4

八頭の鍛冶の翁 宇佐と出雲 大神


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(菱形池への案内板―当日は行きませんでした (+_+))

今日は八幡神信仰の始まりについて縁起を見てみましょう。

欽明天皇の29(569)年、宇佐神宮境内の菱形(ひしがた)池のほとりの泉のわくところに、ひとつの身体に八つの頭という奇異な姿の鍛冶をする翁があらわれて、この姿を見た者はたちまち病気になったり死んだりしました。

大神比義(おおがのひぎ)が見に行くと老人の姿なく、かわりに金色の鷹(たか)が見えました。比義が『誰かによって鷹に変えられたのか、自分の意志で鷹になったのか』と問うと、鷹は金色の鳩(はと)となって比義の袂の上にとまりました。

神が人を救済されようとして自ら変身されたことを知った比義が、3年あまり断食をして祈り続けたところ、ついに欽明天皇32(571)年2月初卯の日に、この泉のかたわらの笹の上に光かがやく3才の童子があらわれ『われは誉田の天皇広幡八幡麿(ほんだのすめらみことひろはたのやはたまろ)なり。

わが名は護国霊験威力神通大自在王菩薩で、 神道として垂迹せし者なり』と告げられました。

そしてたちまち黄金の鷹になって駅館川(やっかんがわ)の東岸の松の上にとどまったといわれます。 そこに和銅元年(708)鷹居社をつくり八幡さまを祀り、のち霊亀2年(716)小山田の林に移られ、ここに小山田社を造営。

神亀2年(725)年に現在の社地、亀山(かめやま)(菱形山とも小椋(おぐら)山ともいう)に移されて八幡大神様が鎮座されたのが宇佐神宮の創立です。
(宇佐神宮HPより 一部変更)


鷹居神社で見た由緒が分かりやすく書かれていました。
金色の鷹は金色の鳩になり、三才の童子になり、再び金色の鷹になって
駅館川の松の上に留まりました。
それが鷹居神社の始まりになっています。

その前の存在は「一つの身体に八つの頭の鍛冶の翁」。
これを見ると、誰もがヤマタノオロチを思い浮かべます。
しかも「鍛冶の翁」なのですから、「鉄の出雲」を連想させます。

私はこれを書きながら、真鍋大覚の不思議な文を思い出しました。

神代の昔、出雲に大穴牟遅神、又の名を八千矛神と申す。
八幡の遠祖であったが、出雲と宇佐が別れ分かれになってからは、その由来をあえて語る人はなくなった。

祭祀は人の心の奥にはいつまでも続いていても、表面(おもて)立って儀式を行うことが遠慮せざるをえない時勢がある時は、いつか絶えはてることが多い。
神は人を護り給うも、人は神を守らぬのが世の常である。
『儺の国の星・拾遺』p200

いつかはこの文をものにしたいと思っていたのですが、今、この「鍛冶の翁」が解き明かしてくれました。

出雲と宇佐はもともと同祖だったというのです。

その証しとしては、両者が「二礼四拍手」という共通する作法を持っていることが
すぐに浮かびますが、それだけでは記事にはできませんでした。

しかし今、こうして宇佐の縁起に現れた「八頭の鍛冶の翁」を知って、
歴史の一部が謎のベールを開けた思いがします。

出雲と宇佐は土地が離れていたこともあって、別れ別れに祭祀していくうちに、
いつしか互いを語らなくなったのでしょうか。
何かはばかられる事情があったのかなとも思われます。


さて、その「鍛冶の翁」を見に行った大神比義とはどこの人でしょうか。

「大神」は「おおが」と読みますが、このブログでもたびたび出て来たので、
復習してみたいと思います。

朝倉市の大己貴神社は「おおがさま」とも呼ばれています。
七支刀を掲げた神像を祀る「こうやの宮」の地名は太神(おおが)です。
遠賀川の「おんが」「おが」「おか」は同じ言葉が音韻変化したもので、
「おおが」に通ずるのではないかと考えています。

「おおが」を辿ると、古代の鉄の文化が重なって見えて来るのですが、
あくまで直観の域を過ぎませんでした。

当ブログによく登場した岡の縣主の祖・熊鰐。
この熊鰐もまた「おか」「おんが」の人です。

岡田神社(北九州市)に行くと、熊鰐は出雲神と共に祀られています。

(熊手宮)大国主命(オオクニヌシノミコト)
          少彦名命(スクナヒコナノミコト)
          県主熊鰐命(アガタヌシクマワニノミコト)

ご覧の通り、大国主神と少彦名命です。
神社では結びつきは定かではないとのことですが、地主神として祀られています。
この岡田神社のブログ名が「八咫烏の声」というので、その縁も尋ねたのですが、
はっきりとは答えられませんでした。

神代の昔、出雲に大穴牟遅神、又の名を八千矛神と申す。
八幡の遠祖であったが、出雲と宇佐が別れ分かれになってからは、その由来をあえて語る人はなくなった。   『儺の国の星・拾遺』p200


神代に八百万神、八岐大蛇そして八千矛神が出る。賀茂の氏人の祖先であった。
『儺の国の星・拾遺』p170


これらから熊鰐は八咫烏をトーテムとする賀茂氏と考えて大丈夫のようです。
賀茂氏は鉄器を作るけど、主に農具や大工道具の類だったと真鍋は書いています。

だから、熊鰐の館・仲宿神社では造船や修理が出来るほど鉄器を持っているのです。
未確認ですが、北九州市は古代の大工道具がかなり出土するそうです。

神武天皇がこの熊鰐の祖を頼りにしたのもうなずけます。
(サイドバー 岡田神社・仲宿神社・一宮神社)

熊鰐一族は遠賀水軍でもある訳ですが、
豊富な葦原を元にしたスズ鉄の製鉄を行っていたと思っています。
のちに砂鉄の製鉄が導入されて行ったことでしょう。

大己貴の伝承や出雲(飯塚市)という地名から
古代の遠賀川流域の出雲を探究している最中ですが、
大神比義は「おおが」という姓であることから、
遠賀(おか)の製鉄の民の祭祀者ではないかと思いました。

出雲のトーテムを持つ「八頭の鍛冶の翁」を祀るために同族の祭祀者が招かれた。
そんな気がしてきました。
そう考えると、縁起に、
鍛冶の翁の姿を見た者がたちまち病気になったり死んだりした、というのは、
冶金時に起こる中毒事故などを表しているのかもしれないとも妄想は広がって行きます。

縁起の一部だけで推定するのは危険なので、メモとしておきましょう。


八幡の道は銅の道と書きましたが、宇佐神宮へ来てみると、
思いがけず鉄の道が続いていたのでした。

前回ちょっと書いた国東の奈多宮近くの古代遺跡とは縄文製鉄遺跡のことなのです。
また、安心院には高度な製鉄技術が近代に伝わっていました。
のちほど紹介する予定です。



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by lunabura | 2013-08-18 00:01 | 神社(ウ) | Trackback | Comments(10)

宇佐神宮3 上宮 比売大神考

宇佐・安心院トレッキング(13) 

宇佐神宮3

 上宮 比売大神考


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瀟洒な西大門をくぐり抜けて、本殿へ。

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こんな角度から本殿前に出ます。勅使を迎える準備で修理中です。

御祭神は
一之御殿 八幡大神〔誉田別尊(応神天皇)〕
二之御殿 比売大神[多岐津姫命・市杵嶋姫命・多紀理姫命]
三之御殿 息長帯姫命
です。
その由来についてはHPにこう書いてありました。

御祭神である八幡大神さまは応神天皇のご神霊で、571年(欽明天皇の時代)に初めて宇佐の地に ご示顕になったといわれます。応神天皇は大陸の文化と産業を輸入し、新しい国づくりをされた方です。725年(神亀2年)、現在の地に御殿を造立し、八幡神をお祀りされました。これが宇佐神宮の創建です。

宇佐の地は畿内や出雲と同様に早くから開けたところで、神代に比売大神が宇佐嶋にご降臨されたと『日本書紀』に記されています。比売大神様は八幡さまが現われる以前の古い神、地主神として祀られ崇敬されてきました。八幡神が祀られた6年後の731年(天平3年)に神託により二之御殿が造立され、宇佐の国造は、比売大神をお祀りしました。

いよいよ話題の比売大神ですが、八幡神以前に「地主神として祀られ」ていたと書かれていました。
八幡神を祀った6年後に、二之御殿が造立されたということなので、
愛読者さんがコメントされたように、祟りを恐れての祭祀かもしれません。

この「地主神」という表現ですが、神社の境内マップを見ていると、
上宮内に北辰神社が見えます。そこにはこう書いてありました。
北辰神社
比売大神の脇殿といわれ、本宮の地主神と伝えられる造化三神を祀っています。上宮西中門の中に鎮座しています。

比売大神のすぐ横に祀られている地主神は比売大神ではなく、造化三神でした。

その三神の名は
天御中主神(あめのみなかぬし)
高皇産霊神(たかみむすび)
神皇産霊神(かみむすび)
です。

北辰とは北極星のことなので、星神が地主神だったということになります。

地主神が二組あります。これはどう解釈したらいいのでしょうか。

マップを見ていると、「大元神社遥拝所」があることに気づきました。
大元神社は御許山にあり、奥宮と言われますが、祭神は比売大神三柱で、
比売大神が降臨された神山とされています。
御許山山頂には磐座があり、禁足地となっています。

推測が許されれば、最初の地主神は造化三神だったのが、比売大神信仰に変化したと考えられます。
それは祭祀する氏族の変化によるものでしょう。

そして、三女神とは宗像三女神というより、水沼三女神という方が
時代的には上手く説明できると思いました。

「三女神」について、
宗像の君がもちいつく神とあるのは『古事記』。
水沼の君がもちいつく神とあるのは『日本書紀』です。
いずれも同じ三柱の女神です。

何度か書いていますが、宗像族という名称は比較的新しいのです。
(新しいといっても古代の尺度で、ですが)

私の仮説は「みぬまかた」が「むなかた」と変化したのだろうというものです。

神功皇后軍を支えた多くの海人族の中に、水沼水軍がありました。
当時三女神を祀っていたのは久留米市の赤司八幡宮でした。
景行天皇が祭壇を設けて祈り、わざわざ自分の皇子を天皇代行として残しています。

水沼君は神功皇后を迎え、有明海まで船で送り、田油津姫攻撃に参戦。
そのまま唐津に抜けて、安曇水軍の先導で新羅へ。

凱旋後に福岡市名島神社、北九州市和布刈神社に三女神が祀られています。
それは水沼水軍の湊の使用権・占有権の宣言でしょう。
それを宣言したのは神功皇后でした。戦いの褒賞と思っています。

この時、水沼族は筑後川流域から、玄界灘~響灘に出て来たと思っています。

その当時、祭祀者はまだ「水沼かた」と呼ばれていたのではないでしょうか。
それが「むなかた」と変化するのは容易です。
以上が私の仮説です。

そしてこの仮説を裏付けるものが安心院(あじむ)に見つかりました。
水沼の君が三女神信仰を持って宇佐に来ていたのです。
詳細は安心院にて述べましょう。

以上から、宇佐神宮の場合、当初は水沼君の三女神だったと思われます。
水沼三女神と書く方が、しっくりくるのかも知れませんね。

ただし、比売神そのものについては、別の神とする神社もあるので、
その時に検討したいと思います。

こちらに、三女神の伝承の宮を集めています。

三女神伝承の宮々
http://lunabura.exblog.jp/i203/


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by lunabura | 2013-08-17 10:40 | 神社(ウ) | Trackback | Comments(6)

宇佐神宮2 春宮神社 なぜここに莵道稚郎子命が?

宇佐・安心院トレッキング(12) 

宇佐神宮2 春宮神社 

なぜここに莵道稚郎子命が?

私たちは宝物館を拝観したあと、神域に入って行きました。

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そして、まず案内されたのが春宮神社でした。
「春宮」と書いて「とうぐう」と読みます。
源氏物語で習ったなあ。
東宮と言えば、皇太子の住まい。
南西北を夏秋冬の季節に割り当てて、東宮を春宮と書く平安時代の美的な感覚。

その麗しさをそのまま宮の名に付けられているのですが、
その皇太子とは莵道稚郎子命(うじのわきのいらつこのみこと)でした。

御祭神 
莵道稚郎子命応神天皇の御子神で、勉学に励み寵愛されていましたが、兄の大鷦鷯尊(おおさざきみこと)に皇太子の座を譲りました。学問の神としてご守護くださいます。(宇佐神宮HPより)
何故、莵道稚郎子命が宇佐神宮に祀られている?
この皇太子について二日前に記事にしたばかりだったので大変驚きました。

そう、志賀島の山の中で同じセリフを書いたばかりだったのです。
それが次の部分です。
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「稚郎子皇子命」と彫られています。
『日本書紀』では「菟道稚郎子皇子」と書かれている「うぢのわきいらつこのみこ」です。
なぜ、ここに!?

安曇族と志賀島(8)乙子神社の祭神は仁徳天皇の弟・稚郎子皇子命だった
http://lunabura.exblog.jp/20546895/


権禰宜さんにその理由を尋ねたのですが、雑多な中、るなの声は届かなかったようです。

理由なら、莵道稚郎子命は応神天皇の皇子なのだから、当然?
宇佐神宮は八幡神の総本宮で、八幡神とは応神天皇なのですから、
親子で祀られるのは当然ですよね。

ここで莵道稚郎子命に再会して動転しているのは、るなの個人的な事情なのです。
でも、シンクロにシティが起こった時は、立ち止まって考える必要がある時です。

今、振り返りながら思うのは、やはり安曇族がキーワードなんだと教えられているのではないか…。
そんな思いがしています。


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いよいよ石段を登って本境内へと進むと、
そこには亡くなった「菟道稚郎子皇子」の代わりに即位した
大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)が祀られていました。

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御祭神
大鷦鷯命(仁徳天皇)他四柱神

「仁徳天皇は厳しい神様ですので、忘れずにお参りして行ってください」
と言われましたが、はたしてこの宮に気づく人がどれだけいるでしょうか。

だって参道からは、振り返らないと気付かないような位置に建っているのです。
下宮に向かう時に気づく?
でも殆どの人は順路を示す案内板に気を取られて、素通りしているのではないでしょうか。

由緒
天長元年(824)同7年、ご神託があって、仁寿2年(852)に造営使を派遣して造営創祀されました。応神天皇の若宮であられる大鷦鷯命(仁徳天皇)と皇子をお祀りしています。除災難・厄難の神様として有名です。(宇佐神宮HPより)

若宮神社もまた神託によって造営されたのですね。

「若宮とは誰が祀られているのですか?」
かつて、そんな質問をコメント欄に受けたことを思い出しました。
その時、私はどう答えたのでしょうか。

それからずっと気にかけていますが、これまでの福岡の神社ではほとんど「仁徳天皇」でした。
仁徳天皇は若宮。
それに対して莵道稚郎子皇子は「春宮」すなわち「皇太子」。

当宮の社名の付け方に、何らかの意思表示を感じずにはいられません。
莵道稚郎子皇子は皇太子だったんだゾって…。
失われた真実を知る人が付けた社名ではないでしょうか。


それにしても、宮の向きや配置が複雑なのは何故なんだろう。
狭い山の敷地に造営していったからだろうか。
本殿でさえ、脇から参拝するような構造になっています。

ちょっとばかり神様たちの名前とその関係が分かるようになった るなは、
宇佐神宮の複雑な空間形成に、とまどいながら本殿へと進みました。



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by lunabura | 2013-08-14 23:43 | 神社(ウ) | Trackback | Comments(16)

宇佐神宮1 大尾神社・和気清麻呂が託宣を受けた聖地

宇佐・安心院トレッキング(11) 

宇佐神宮1 大尾神社

和気清麻呂が託宣を受けた聖地

いよいよ中心的な宮、宇佐神宮です。
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ずいぶん久し振りで、かつて印象深かった北斗七星を掘った石や菱型池を
楽しみにしていたのですが、今回はどちらも見る時間はありませんでした。

それどころか、全く記憶のない境内のようすに、
るなは別次元の宇佐神宮を記憶しているのかと戸惑うほどでした。

本殿を見てようやく、やっぱりここに来ていたと安心しました。
今回は摂社がメインです。
読者の方も、いつもとは違う宇佐神宮に出会えるかも…。

最初に行ったのは大尾神社です。「おお」と読みます(@_@)

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参道から左に入って行きます。

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摂社と言えども、参道の広さと長さに驚かされます。


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田んぼの中に続く参道。山に向かっています。


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その駒犬や灯籠の大きさは並々ならぬ信仰を伺わせます。

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少し石段を上った地点で、メンバーに遅れが出てUターンを決定。
気温がうなぎのぼりで、体力温存を優先せねばならない状況でした。

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こうして今、宇佐神宮のHPを見ると、私たちは境内の一番左にいました。

位置的には護皇神社の前の四つ角にいます。

護皇神社の由緒
御祭神 和気清麻呂
銅鏡事件の際、八幡大神様の神託を受けて国の危機を救った和気清麻呂をお祀りしています。(宇佐神宮公式HP)


その上方にある大尾神社の由緒は次の通り。
大尾神社の由緒
御祭神 八幡大神
天平勝宝元年(749)八幡大神は比売大神とともに奈良に行幸、天平勝宝7年(755)
伊予の宇和に移り、10年後奈多宮を経由して宇佐に御帰還になりました。

その時、宇佐三山の一つ大尾山の頂上に御鎮座するとの託宣があったので、天平神護元年(765)に造営し、八幡大神様はここに約15年御鎮座されました。

この間の神護景雲3年(769)7月11日、和気清麻呂公が弓削道鏡の事件に際して勅使として参拝され、八幡大神様より国体擁護の御神教を授かった聖地です。
(宇佐神宮公式HP)

和気清麻呂が神託を受けた場所ということです。
託宣により、15年間、鎮座されたというのも不思議な話ですが、
当地は聖地として重要な場所だったのが分かります。

ここに鎮座する前に、八幡大神と比売大神は奈良へのご神幸があり、
その期間、天平勝宝4年(752)に奈良の大仏の開眼供養会が催されています。

伊予を経て帰還される時、奈多宮を経由しています。
再びの奈多宮。
宇佐から見たら、前回の鷹居神社の方がずっと近いのに、何故遠い国東半島を経由したのか。
そこにある古代遺跡。
これらが、次の摂社で出会った共時性を解く手がかりになるのではないか…。

そんな予感がしてきました。

宇佐神宮



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by lunabura | 2013-08-13 22:42 | 神社(ウ) | Trackback | Comments(2)

味水御井神社/今なお水が湧き出る聖地・天武7年の筑紫大地震の断層あと


味水御井神社
うましみず・みいじんじゃ
福岡県久留米市朝妻町
今なお水が湧き出る聖地
天武7年の筑紫大地震の断層が残っていた
  
交通量の多い久留米市322号線の千本杉~朝妻に、
木立ち一つ隔てて、全く別世界が昔のままに残っていました。
ずっと気になっていたけど、入口が分からなかった…。
思いがけず訪れた所は泉を祀った神社でした。

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境内には、水を利用するプール状の構造がいくつもあって、
今も清らかな水が湧き出ていました。

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奥の方にクロガネモチの巨木があって、その横に祠があります。
昔の写真を見ると、手前の石段の所に鳥居が建っていたようです。
なんだか不思議な空間に思えたのは、鳥居が無かったからですね。

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最奥に祠が祭られていました。
説明板があったので書き写します。

味水御井神社と朝妻の清水
(うましみずみいじんじゃ)(あさづま)
味水御井神社は天慶7年(944)の筑後国神名帳にも登場する由緒ある古社です。
「うましみず」の名が示すとおり、境内には現在でも清冽な水がこんこんと湧き出し、古来より崇敬を集めるとともに、「朝妻の清水」として多くの人々の生活に潤いと恵みを与えてきました。

また、近年は筑後一宮である高良大社で行われる川渡祭(へこかき祭り)の際の禊(みそぎ)の泉としても知られます。

味水御井神社の歴史的意義は深く、7世紀後半から12世紀後半にかけて高良山北麓一帯に営まれた筑後国府(筑後国を治める中心的な役所)の発掘調査においても、国府の長官の居館である国司館から当社に向けて延びる道路の跡や、当時の官人たちが朝妻の清水から導水し「曲水の宴」を楽しんだと見られる玉石式の人工的な小川などが確認されています。
(略)

この泉の近くには、かつては国府があり、
ここから小川が導水されて「曲水の宴」をしていたそうです。
多くの宮人たちが、着飾って風流な遊びをしていたのですね。

「へこかき祭り」といえば、赤いふんどし姿で高良山に参拝するお祭りですが、
現在もこの泉でミソギ行をしているそうです。

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水が透き通っています。

この神社の由緒について調べたら、御井町誌に御祭神と由来が書いてありました。
朝妻七社―仲哀天皇・神功皇后・国長明神・古母・妙見・乙宮・西宮
昔は七社ありましたが、どういうことか今は一社もありません。ただしここの清水は高良三泉の内の一つだと言い伝えています。

という江戸時代の文がありました。(現代語訳しました)今では水の神様が祀ってあるようです。
そして、続きを読むと、ここにも、神功皇后が…。
 
その昔、神功皇后が新羅を攻める時、産気づかれたが帰って来るまでは産むまいと、腹にしっかり帯をまいて朝鮮へ渡り、帰ってくるや誉田別皇子(ほんだわけのみこ)を筑紫の国で生む。

高良山に皇子誕生のお礼参拝の途上、朝妻のあたりで水を所望された。お供の者が矢尻で葦の茂みを突くと清水がこんこんと湧き出した。それが今の朝妻の清水であるといわれている。
「味清水神社」の名にある「うま」の意味も神功皇后が、「これはうまい。」といわれたことからついたものだと聞く。

神功皇后は、ここでは出産の後の話になっていますね。
鎮懐石八幡宮の話を思い出します。
その時には石を身につけましたが、ここでは腹帯の話に変化しています。
八月七日は「しっちゃら権現」の「夜渡(よど)の祭り」である。このよどの賑わいは大変なものであった。

「夜渡の祭り」がここで催されていたとは!
「夜渡七十」ということわざがあって、70年に一度の大津波が有明海の中を縦横に往来する事を教えていました。ヨドとは70という数字の古い読み方で、「高波」を暗示しています。この地にもその危険を伝えていた名残のお祭りです。

ここの「朝妻」という地名も「浅つ間」が語源で、「干潟」あるいは、「船が停泊できる溜りの港」という意味です。
昔はこの近くまで船が通い、清らかな泉の水を求めて人々が集まり、
役所があって、大変栄えた土地だったのが伺えます。
この神社はすぐ横が久大線の久留米大学前駅です。
そこに向かう急斜面が断層の跡だそうです。

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この写真は、断層の中腹あたりで撮りました。
前回、高良山神籠石が途中で消失した原因が
天武7年(678)の筑紫の大地震のためだという事を知りましたが、
ここが水縄活断層系追分断層の現場です。
日本書紀の記事を読んでみましょう。
天武天皇7年。12月。筑紫の国に大地震が起こった。大地が広さ約4m、長さ約6キロほどに渡って裂けた。人民の家が村ごとに倒壊した。この時、ある人の家は岡の上にあったが、地震が起こった夜に岡が崩れて移動した。しかし、家は全く壊れず、家の人は岡が崩れたのにも気づかなかった。夜が明けてから、分かって大変驚いた。

この時の地震の範囲はこの程度でなく、福岡の南北、そして東西がかなりの距離に分かって上下に分かれた断層が出来ています。その高低差は数mです。

この神社の近くの国府が長年発掘されていますが、日本書紀の記述を裏付けるように、
国府跡からは、すり鉢状窪地、逆断層、噴砂、液状化、地割れなどが発見されています。
断層からは土師器が発掘され、また家がそっくりそのまま出て来ています。
続きを読むと、その後、都でも次々に天災が起こります。
天武8年6月1日に氷が降って来た。大きさは桃の実ほどあった。
      6月23日には雨乞いをした。
      7月6日にも雨乞いをした。
      10月11日に地震があった。
  9年6月8日に灰が降った。
     6月14日。雷電がひどかった。
     8月5日。大雨。洪水。大風。
     9月23日。地震。

このあとも地震は何度も起こっています。
降灰については、大正時代の桜島の噴火の降灰が東北まで届いたと言う記録がある事から、
この日本書紀の記録も、どこかの火山の噴火による降灰かも知れません。
こうして古い記録を見ると、天災との戦いの日々だったのが分かります。
それでも、人々は乗り越えて営々と文化を築いています。

今回の東日本地震も、必ず日本人は乗り越えて行きます。
一日も早い復興を祈ってやみません。

地図 味水御井神社


 



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by lunabura | 2011-04-15 10:59 | 神社(ウ) | Trackback | Comments(6)

浮嶽神社 筑紫富士と呼ばれる神奈備山・里人を守る女神たち


浮嶽神社
うきだけじんじゃ
福岡県糸島市二吉井久安寺
筑紫富士と呼ばれる神奈備山
里人を守る女神たち

長崎から202号線を通って、唐津の手前まで来ると、あれ、すごい!
ピラミッド型の山が!
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川の土手に出て、撮りました。
富士山のように綺麗な形です。手前の濃い部分は、別の山です。
台形の山の上にちょこんと三角形。見事なコラボ。神奈備山だ!
きっと何かあるに違いないと、地図を広げると「浮嶽神社」が中腹にある。
今日はそこに行ってみましょう。

唐津まで行くと、ますます山容は迫力を増して来ます。
そう、この山は「筑紫富士」と呼ばれていました。
まずは「まむし温泉」を目指して、そこから山に向かいました。
ところが、きれいな三角形は次第にぼやけて来て、山を見失いそう。
道はくねくねと集落の中をお邪魔します、という感じに。
そして、鳥居がありました。
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どっちが参道が分からずに、右手から入って行きました。
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いい風情のお宮です。


説明板がありました。
「久安寺(きゅうあんじ)跡。」
あとで調べると、聖武天皇の頼願でインドから来た僧侶(清賀男上人)が
ここに寺を建てたそうです。
立派なお寺になったのですが、豊臣秀吉が社領を没収して、
寺も焼き払ってしまい、そのあと再建が出来なくて、地名だけが残ったとか。
しかし、仏像が数体残っていて、重量文化財になっています。

と言う事で、浮嶽神社の本殿はもう一つの方だった?
最近は反対廻りばかり、やってます。(ぺこり)

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これが、拝殿です。いかにも氏神さまらしい風情で、歴史の重みを感じます。
この日は、御祭神が分からないまま、参拝しました。

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神殿です。
その裏手の境内の杜も何か謂われがありそうですが、
今日はこのくらいで、と神社を後にしました。
そして、一の鳥居を改めて見て、びっくり。
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扁額の上に…。一瞬、ナーガ(へび)?
よくよく見ると、亀でした。そうか、亀は神さまのお使いなんです。

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正面から見ると、左右には恵比寿さまと大黒さま
地元の人々が大切に祀り続けた神社でした。

御祭神
さて、帰ってから、御祭神を調べると、浮岳の山頂に上宮があって、
浮嶽大神が祀られていて、ここは中宮でした。
神社の創立は、神功皇后出兵の時、この山頂で戦勝祈願をして、
凱旋後に創建されたと言われています。
神功皇后はこの糸島にも沢山の伝承があります。滞在が長かったんですね。

この山そのものが御神体でした。海から帰って来る時に、目指す母なる山です。
後に、イザナミの命菊理姫が祀られるようになったようです。
この御祭神の組み合わせは、初めてですね。

イザナミの命は『古事記の神々』で訳しましたが、そのあらすじは
と共に日本の国土と自然の神々を生み、最期に火の神を生んで亡くなりました。夫がそ黄泉の国に追って行って、戻って来るように頼むのですが、イザナミの命は黄泉の国の食べ物を食べてしまったために、戻れません。

「それでも」と言われて、「黄泉の国の王に尋ねに行く間、見ないで下さい」と言ったのに、夫は死体を見てしまって、逃げ出します。

それを追って、黄泉比良坂に着くと、夫は岩で塞いで絶縁を言い渡します。
「いとしいあなた。そんな事をするなら、あなたの国の人々を一日に千人くびり殺します。」と言って、言い争いになります。その時、菊理姫がアドバイスをしたので、夫は納得します。
残念ながら、どんなアドバイスをしたのかが、書いてないんですよ。
しかも、菊理姫は日本書紀にしか出て来ません。

そんな二人の女神がここに祀られています。
イザナミの命は日本の国土と神々を生みだした女神。
菊理姫は、すべての命の母神さまとして、
また、物事をくくりつける結びの神として敬愛されています。
ここの御祭神は里人の人生のすべてを守って下さる神々でした。

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もと来た道を下り始めると、田んぼの向こうに島が見えました。
姫島です。前回の鹿家二丈パーキングから見えたあの島です。
まるで、浮岳を海の上に置いたように良く似た形をしています。
海の民にとっては、道しるべとなる、神の山と島です。

地図 浮嶽 浮嶽神社 姫島




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by lunabura | 2010-11-27 19:08 | 神社(ウ) | Trackback | Comments(4)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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