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カテゴリ:高倉神社・遠賀郡( 3 )

高倉神社(1)日本書紀そのままの古社・神功皇后の船を止める男女の二神


高倉神社(1)
福岡県遠賀郡岡垣町高倉
日本書紀そのままに残る古社
神功皇后の船を止める男女の二神の宮

今回は日本書紀の記載のままの地にある高倉神社へ行きましょう。
この神社への道筋をどう案内したらいいのでしょうか。
北九州市と宗像市の間にある町で、三号線の海老津辺りから
海の方に向かいます。坂を上ったり下りたりしながら、案内板に従っていくと、
人家が途絶え、果樹園の山あいを走り、道は山に向かいます。
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何度か訪れるうちに、そうだ、周りの山の形を確認しておこうと
気をつけていると、おおっ、ここにも神奈備山が…。
神社とは関係あるのかな。ワクワクです。

大きな鳥居が右に出て来てそれをくぐるとブドウ畑。
なんとも、のどかな田園風景の中を走るのですが、
低山の間を縫って、古代の道がそのまま残るような趣に
心は古代へといざなわれます。そして、すぐに着きました。

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桜の木の下の駐車場に車を置いて鳥居をくぐると、楠の巨木たちが迎えてくれました。
この道をまっすぐ行くと、出口です。本殿は写真の右の方にあります。

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神門には、たくさんの御神灯が掲げられて、小粋な感じです。
石段の脇の樹々がどれも巨木で、苔むしていて、歴史の古さを感じさせられて、圧倒されます。

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すぐに拝殿に着きました。左右に布があり、正面にまた鳥居があります。
土台を見ると八角形のような印象です。

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拝殿の中です。
ここの御祭神は天照皇大神・大倉主命・莬夫羅媛(つぶらひめ)です。
夫婦の神で、仲哀天皇と神功皇后をここに招いた神です。
古代から現代まで場所を変えず、地元の人々の崇敬を集めています。
参拝を済ませて目に入ったのがこれ。

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珍しい神紋です。

さて、この神社の謂われを紐解きましょう。
まずは始まりから、境内の由緒書きを意訳します。
当社は日本書紀に書かれている、古い社で、第14代、仲哀天皇が8年春一月に筑紫に行幸された時、岡の縣主(あがたぬし)の祖である、熊鰐(くまわに)が周防サバ浦にお迎えに行きました。海路を案内して山鹿岬から廻って岡の浦に入ろうとした時、神異がありました。天皇は舵取りの倭国・莬田の人・伊賀彦命を祝(はふり)とされました。
神功皇后の摂政二年5月にここに神祠を建てて、神田千町を定めました。すなわち、大倉主命、莬夫羅媛(つぶらひめ)の二神の本宮です。

これは仲哀天皇が都・山口県からいよいよ九州に入った時の話です。
熊鰐と言う人が迎えに行って海路を案内して行く途中、
船が進まなくなったので、その理由を尋ねると、
熊鰐は「私の罪ではありません。この浦の口に男女の二神がいて、
その神の御心ではないかと思います。」と言います。
その神がこの社の祭神の大倉主と莬夫羅媛です。
そこで天皇が、大倭から連れて来ていたウダの人・伊賀彦
祝(はふり)として祀らせたら、船が再び進んだという話です。

この伊賀彦を祀る祠も残っています。
いろいろと境内を廻りながら、この二神がどうして船を留めたのか、
また伊賀彦がここに祀られているのか、ずっと考えていました。
(つづく)
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地図 高倉神社





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by lunabura | 2010-12-03 22:37 | 高倉神社・遠賀郡 | Trackback | Comments(2)

高倉神社(2)弥生の風景そのままに・伊賀彦は水銀産出の国から来て、ここに留まった


高倉神社(2)
弥生の風景そのままに
伊賀彦は水銀産出の国から来て、ここに留まった


伊賀彦社
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本殿の左の方に歩いて行くと、いくつもの祠があります。
一つずつ辿って行くと、「伊賀彦社」という扁額が目に留まりました。
わあ、すごい。ここに祀られている!
この伊賀彦は「舵取りで、倭国の莬田の人で祝として祭らせた」
と日本書紀に書いてある人、そのものです。

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由緒書きに「伊賀彦命の古墳跡」と書いてあることから、
伊賀彦はここで亡くなったと考えられます。それが、神として祀られていました。
この裏の森の中にその古墳があるのでしょうか。
神社にお尋ねしたかったのですが、あいにく今日は七五三の参拝があっていました。

もし、この古墳が伊賀彦のものだと明確になれば、
日本書紀の名前と古墳が一致するという大変価値のあるものになります。
未盗掘だとすれば、西暦200年の頃の古墳の副葬品はどんなものだったのか、
年代特定の史料になります。よく考えると、すごい事だ…。

毘沙門天の銅像
そんな事を考えながら、山の中腹を縫うような小道をさらに先の方に辿ると、
思いがけない銅像がありました。
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銅製毘沙門天立像  福岡県指定文化財227、5cm
総高  193,5cm
制作時期 1491年(室町時代後期)
須藤駿河守行重を願主とし、大工大江貞盛により造られた。
とあります。ここは昔は鉄や銅などの生産が盛んな地でした。
そして、その後ろにある赤い鳥居は、もしかしてお稲荷さん?

稲荷社
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まさか。こんな所にイナリが…。そう、稲荷と言えば、志賀島の大嶽神社で調べたように、
イナ=鉄器。
武器や農具の鉄器庫の跡を表す可能性があるのです。

これを見て、ルナの頭の中に仮説が生まれました。
ここは高倉命とツブラ媛の住まいがあったクニの中心部で
稲荷社の所には武器庫があったのではないか。
ここのクニの王たちが仲哀天皇と神功皇后の船を止めて、
舵取りだったウダの伊賀彦を所望したのではないか。

じゃあ、ウダの伊賀彦にはどんな価値があったのだろう。
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その場で立ち尽くしていて、もと来た方向を振り返ると、神殿の屋根が見え、薄日がさっと差しました。
さっきまで、ポツリポツリと雨が落ちていたのに。神々しさに感動です。
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赤い鳥居を降りて行くと、最初の広い境内に降りて来ました。
振りかえって配置を考えると、細長い丘陵の中腹にずらりと神殿や伊賀彦社・稲荷が並んでいました。
やはり、この丘陵は古代の国王の住まいがそのまま神社になってる…。

ウダを調べなきゃ…。
まとまらない興奮を抱えて、家に帰って、ブログ「徒然なるままに、、、」
を訪問すると、「宇陀の水銀」の話がUPしてありました。
「ウダ」の隣は「伊賀」まである…。
そうか、ウダは水銀を産出する所なのだ!辞書を引くと
宇陀 奈良県北東部 古くは水銀の原料辰砂を産出していた。

辰砂とは水銀の材料の事です。
宇陀の伊賀彦は実際は金属加工技術者ではなかったか
という思いを裏付けるものでした。
それというのも、この神社をさらに西に行くと、
孔大寺(こだいじ)山があり、そこには金の採掘跡があるのです。
採算が取れないので、今では閉山されています。

金と水銀の組み合わせ
古代社会の金と水銀ってどう関係があるのか、理解を助ける例がテレビであっていました。
南米の金採掘のシーンです。

赤土の崖に大きなホースで水をかけて、土を崩し、それを川に流し、
フルイを使って、砂金を土砂の中から選り分けていました。
その時に、水銀を使っていました。水銀と金は簡単に結合するので、
小豆ほどの大きさになって、発見しやすいのです。
それを熱すれば、簡単に金が取れるとか。
しかしその時、水銀の毒を吸い込んでしまって、何人もの人が亡くなって、
ドラム缶の棺に埋葬されていました。
かれらは密入国のために、人知れずそこが墓となるのです。

これは現代の金の採掘現場のレポートです。
数分のシーンでしたが、金と水銀を理解するのに十分でした。

この高倉神社の近くでも金が採れるが、それを効率よく採掘したい。
あるいは、採掘者の水銀中毒があって困っていた。
そんな所にウダの伊賀彦が来たものだから、
金の採掘技術者として留まって指導するように依頼したのではないかと思いました。
その代償として、これから熊襲と戦う天皇への軍事援助を約束した。

この日は考えもまとまらないまま、もう少し、この地について調べようと、
郷土史を捜しに岡垣町図書館に向かいました。

(つづく)


鉄と稲荷⇒大嶽神社(5)



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by lunabura | 2010-12-02 15:27 | 高倉神社・遠賀郡 | Trackback | Comments(8)

高倉神社(3)草薙の剣を取り戻して造られた7振りの剣を合せて八剣神社とも呼ばれていた


高倉神社(3)
草薙の剣を取り戻して造られた7振りの剣を合せて
江戸時代までは八剣神社とも呼ばれていた


露天の遥拝所
さて、もう少しこの土地が知りたいな…そう思いながら駐車場に戻りました。
そこから見えた景色です。
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鳥居の正面に、(1)で紹介した神奈備山がどんぴしゃり。
この鳥居がまるで山へ向かう参道のようにも見えます。
三輪山にそっくりだなあ。
そう思いながら神社を後にして広い道に戻ると、斜め右に白い鳥居が見えました。
もしや、まさか…念の為に車を近付けると、高倉宮と書いてありました。
ここは神奈備山の遥拝所?
長方形の敷地だけで、周りは大木が囲んでいます。
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奥の方には何やら祭壇石のようなものが三つ見えます。
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近づいて見ました。しっかりと石で作られています。
誰かが祈ったのでしょう。新しい丸い石が置かれていました。
ふと、この高倉宮の女神・莬夫羅媛(つぶらひめ)のつぶら
丸いという意味だという事を思い出しました。
「つぶらな瞳」という言葉で今なお残っています。

位置関係からすると、やはり先ほどの神奈備山を向いています。
大木があって、直接見る事は出来ません。
伊賀彦はこの高倉宮の初代神主として祀られています。
この地に金採掘の技術をもたらしたとしても、まずはその地の神を奉斎し、
金属の神々を祀ったはずで、ここがその場所なのかも…と想像しました。
今でも、おまつりのときにはここで祭儀があっているのかな。
また、別の機会に神社にお尋ねする事にしましょう。

草薙剣が取り戻された
町誌を見るとその地の人しか書けない情報が書いてあります。
この高倉神社はかつて八剣神社と呼ばれていた事が分かりました。
天智天皇のころ、新羅国の沙門(僧)道行という者が、尾張の国熱田宮に祀られていた草薙剣を盗み取って、逃げようとした。筑前博多まで逃げたものの、ここで取り押さえられた。このとき奪い返した神剣を送り返すまでの間は、再び盗まれるようなことがあってはという配慮から、高倉神社が清浄で、とくに堅固な土地だからということで、剣はこの神殿に安置された。それとともに鍛冶工に命じて神剣と同じ剣を七振り作らせ、神社に別殿を建てて、八剣を納めた。そのため高倉神社のことを、八剣宮ともいったと書かれている。  (岡垣町誌)

あれ、ここにも草薙剣の盗難事件が書いてある。
以前紹介した鞍手郡の八剣神社古物神社とほとんど同じ内容ですね。
やはり、本州から九州へは船に乗らないといけないので、
この辺りに関所があったのでしょう。恵蘇神社でも書いたように、
ここも名乗りを上げないといけなかったのかも知れません。
道行はこの遠賀川流域で捉えられたのですね。

新しい情報としては、「草薙剣と同じ剣を七振り作らせた」とあります。
これが八剣(やつるぎ)の謂われでした。
地元に剣を作る技術があったのがこれでも分かります。
草薙剣って、鉄製かな…。
わざわざ別殿を立てて、八本の草薙剣が並んで置かれたようすは
壮観だったでしょうね。

物部氏とタカクラジと神武天皇
「ここは物部二十五部人のうちの嶋戸物部の居在地と見られ、」(奥野正男氏)
祭神の大倉主は「島門物部の奉斎する神が大倉主であった」(谷川健一氏)。
また高倉でタカクラジと読むことが出来る事から、
神武紀との関わりも示唆されています。(神武天皇はすぐ近くに滞在しました。)
この地は古墳がとても多く、かなりの出土品があるそうです。
まだ未公開のようですが、日本書紀と地名が一致する土地なので、
これからの公開が待たれます。
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左の丘の中腹に本殿はあります。
楠や杉・桜・銀杏の巨大な古木に癒されます。

高倉神社公式ホームページ
http://www.takakura-jinjya.com/


草薙剣の伝承を辿るコース
古物神社⇒八剣神社




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by lunabura | 2010-12-01 12:36 | 高倉神社・遠賀郡 | Trackback | Comments(2)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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