ひもろぎ逍遥

lunabura.exblog.jp ブログトップ

カテゴリ:太宰府政庁跡・水城周辺( 13 )

水城の地下の木樋・ イタドリ


水城の地下の木樋

 イタドリ

1200mもの長さのある水城。今は樹木が生い茂って緑の森の土手となっています。

c0222861_192335.jpg

東門から撮りました。右手が博多湾側です。
見えている範囲に外濠があり、水が溜められるようになっています。水城の向こう側にも内濠が確認されています。



c0222861_1931782.jpg

これが水城の断面図。上の写真は右側から撮っています。博多湾側です。一般には敵が攻めて来たら土手の上から矢を射て防御するという説が主流です。

真鍋が伝えているのは左側即ち太宰府側に水を溜めていたというものです。それをどう捉えるか。土塁の地下に注目してください。水色の線があり、木樋と書かれています。これが水城の地下の導水管です。





c0222861_1934694.jpg

水城を断ち切って国道三号線が通っています。そのすぐ左手から導水管が発見されて、今はコンクリートで復元されています。実際は巨木で出来ていていました。

この木樋が現在、三ヶ所で発見されています。

土塁を築く前に木樋を数本(多分、均等な間隔で)敷設して、排水をコントロールしようとしています。





これに関して、真鍋はどう伝えているでしょうか。

イタドリが緑の葉に変る頃、瀦水塘(ちょすいとう)の閘門の板(いた)扉(び)を揚げて水を落とす。冬の間に蓄えた水が下手に移る。これを百姓はいたどりと言った。この時に南の空に明るく光る星が板取(いたどり)星(ぼし)(ブーテスα16アクチュルス)であった。『儺の国の星拾遺』p105


イタドリとは植物のことで、初めは赤い葉が出ます。それが緑に変わるのを合図に水を落としたといいます。
c0222861_1942460.jpg

(画像出典 ウィキペディア)


閘門(こうもん)が木樋と思われ、それには板の扉が付いていて、それを上げると水が外濠に流れ込む仕組みだったようです。

これがいったん外濠に溜められて、博多湾沿岸の水田に水が張られていきました。
その時に南に見える星を板取星と呼んで、これも合図にしていた訳ですね。




瀦水塘は上田(かみだ)ともいった。水(みな)雪(つき)田(た)、或は水盡(みなつき)(空)田(だ)ともいった。雪(ゆき)の古語は「つき」であって、冬分は雪積で水も氷も凍結しているからである。

夏分は下田(しもだ)に水を遣り果すから、水がなくなる六月の大雨なる水(み)無月(なつき)の由来がここにあった。

そして水(みな)漬(つき)星(ぼし)の名がここに生まれた。百姓がみな、箕を着けて水につききりの四ケ月であった。



「水城」以外に「小水城」がいくつかありますが、その話だと思われます。上の田と下の田をつなぐ導水管が発見されています。かつては福岡も冬は雪が厳しかったと聞きますが、雪を溜めて初夏になるとそれを下田に送っていたことになります。
蓑を着けて、つきっきりの四カ月。水田の世話をする人々の姿が目に浮かびます。



c0222861_196883.jpg

これは大土居小水城の木樋です。


この使用法が具体的に分かるのが次の文です。

万葉の頃までは、山の麓の平坦な谷間を上手(かみて)と下手(しもて)の二つに別けて、その堺の狭く縊(くび)れたところを仕切って、ここに堤と閘門(こうもん)を置き、冬場は上手に水を蓄え、下手に麦を播き、夏場はここに水を通して早生の水稲を植え、やがて上手の水が空(こ)閑(が)になると、そこに晩生(おくて)の陸稲を植えた。

貯水の観縁戚までが活用される仕組みであった。

この農法は今も大陸では保存されており、瀦水塘と今も呼ばれている。天平の昔までは、倭人はこれを「ゐみづ」或は「いほと」といった。さきほどに出た射水も那珂川の岩戸(いわと)も、かつての瀦水塘の和訓を教える地名である。

唐門(からと)がひらかれ、浅い水位からしずかに流れ出る水は、二月かかって土を潤す。これを祖先は入水(いりみ)田(だ)といった。

その頃南の空に見えるのがこの浥(いみ)理(りの)星(ほし)(鷲座γタラゼット)であった。『儺の国の星拾遺』p140

この瀦水塘の巨大な構造物が大野城市の水城だということになります。





c0222861_1982628.jpg

大野城市HPより。
木樋から水が流れているようすが描かれています。この外濠は水量調節のためのプールではないでしょうか。






いつもポチっと応援ありがとう。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2015-07-16 19:11 | 太宰府政庁跡・水城周辺 | Trackback | Comments(2)

観世音寺2・初代管長 満誓沙弥・梵鐘と水城


観世音寺2

初代管長 満誓沙弥
梵鐘と水城


c0222861_2128292.jpg


満誓(まんぜい)沙弥は笠(かさの)麻呂の法名である。斉明帝(655~661)の菩提寺としてしられる太宰府観世音寺の初代管長であった。養老7(723)年2月のことである。鐘の銘文の上三之(かさの)麿(まろ)はその雅号である。
万葉集巻三 沙弥満誓(643~733)作
  世間(よのなか)を 何に譬(たと)へむ 
  朝びらき 漕ぎ去(い)にし船の 跡なきがごと
は、水城の上を島廻りする船を眺めての詠歌であった。
『儺の国の星』p72

この観世音寺の初代管長は満誓。旅人と同時代。
鐘の銘文は意見が色々あるようですが、「上三之(かさの)麿(まろ)」すなわち、笠麻呂の雅号だと伝えています。

さて、満誓を調べましょう。
大辞林 第三版の解説
まんせい【満誓】
奈良前期の官人・僧。俗名,笠朝臣麻呂(かさのあそみまろ)。右大弁のとき,元明上皇の病気平癒を祈願して出家。勅命により723年筑紫観世音寺を造り別当として太宰府に住し,大伴旅人らと親交。万葉集に短歌七首を残す。生没年未詳。沙弥満誓。


筑紫万葉歌壇にいたんですね。その歌には水城の景観が読み込まれていました。
  世間(よのなか)を 何に譬(たと)へむ 
  朝びらき 漕ぎ去(い)にし船の 跡なきがごと
世間とは男女の仲。
夜が明けて水城の門が開かれると船が漕ぎ出し、その跡もやがて消えてしまう。

朝になると二人の契もすっかり忘れてしまったかのように立ち去る男の後ろ姿が重ね合わされています。

そんな男のつれなさを僧が詠むのですから、僧と男女の恋―このギャップが歌壇では喜ばれたんでしょうね。

さて、この光景は水城の上流域に水が溜められていなくては詠めない光景です。

昔、水城が湖であった頃の渚に沿って沼あり丘あり、雑木の林あり、まことによい景観と展望の地が連なっていた。
『『儺の国の星拾遺』p202


現在、福岡での各研究者の公での発表を聞くと、水城は水を下流に溜めるという説が主流です。

が、水城の断面は上流域の水の圧力を分散させるようになっているので、上流域に溜めると考えるのが合理的です。

工学系の研究者には後者の意見を持つ方がいらっしゃいます。




c0222861_21291557.jpg

水城は人が立っている地点は中腹。ずっと下まで築造されている。左が博多湾側。右が都府楼側。勾配が緩くなって水圧を逃している。



さて、疎水の証拠を探していたのですが、水城の真ん中、道路が交差する辺りで石敷きが発見されました。瓦も出てきました。その上流域には矩形の遺跡跡も見つかっています。それが天智帝の造った疎水ではないかと睨んでいます。

c0222861_21294127.jpg




天智天皇(662~671)は、かつて筑紫の国造(くにのみやつこ)磐(いわ)井(い)(418~528)がひらいた水城なる瀦水塘を、玄界灘から有明海に疎水式に船を通す湖にきりかえる大工事を完成された。
『儺の国の星拾遺』p140


疎水式とはスエズ運河のように、水門で水を溜めて航行する方法です。



c0222861_21301248.jpg

イギリスではナローボートと言って、狭い水路を沢山の水門を通りながら旅をしていますね。




c0222861_21302785.jpg
 
この程度の幅で充分疎水の働きをします。



天智帝は都府楼に自らの開発に成る時計を据え、玄界灘と有明海の潮刻(しおどき)をみはからって水城の上を往来する舟人に太陽暦の時鐘を響かせ給うた。後にこれは御母斉明帝の菩提寺に建てられた観世音寺に移されたともきく。『儺の国の星』p68


この疎水の開通式の時にはきっと厳かな梵鐘の声が響き渡ったことでしょう。
それが、後に観世音寺に移されたと伝えています。


c0222861_21312317.jpg


長洲宮の行在所で、筑紫の観天望気にふかい大御心を寄せられた天智帝(662~671)と天武帝(673~686)は笠朝臣(かさのあさみ)の家系の叡才を信じたまい、もって有明海と玄界灘を結ぶ水城の監理を托されたと聞く。
(儺の国の星)p72

この水城の通行税で観世音寺が経営されたとも真鍋家では伝えていました。









いつもポチっと応援ありがとう。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2015-07-13 21:36 | 太宰府政庁跡・水城周辺 | Trackback | Comments(0)

観世音寺・菅原道真 「不出門」


観世音寺

菅原道真 「不出門」





c0222861_2210132.jpg

大宰府の古社、観世音寺。





c0222861_22134410.jpg

菅原道真は榎社からこの鐘の声を聞いたという。





c0222861_22142812.jpg

観世音寺から榎社はわずか800メートル。






c0222861_22145457.jpg

しかし、間には三笠川が無情に流れる。






c0222861_22151659.jpg

道真公はこの地を踏むことは出来ただろうか。







c0222861_22154534.jpg

道真公は榎社に蟄居し続けたのか。







c0222861_22161662.jpg

意外にも久留米市高良山の麓にその足跡を残している。








c0222861_22164112.jpg

飯塚市老松宮は道真を支援したという。





天智帝が母、斉明天皇の菩提を弔うために造られた観世音寺。

その鐘は今もなお妙音を響かせる。








いつもポチっと応援ありがとう。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2015-07-12 22:21 | 太宰府政庁跡・水城周辺 | Trackback | Comments(0)

6 国分松本遺跡と水城東門 またもや敗退


6 国分松本遺跡と水城東門

またもや敗退


木簡が出た国分松本遺跡に現地説明板が立った!
いざ現地へ。
と資料を手に入れて再びチャレンジしました。
が、あえなく敗退。
ネットの地図には住所が書かれていないので、
現地説明会の時の住所をナビに入れましたがその番号は存在せず。
車だと、一路地間違うと戻れない細道で、あきらめました。

残念でしたが、現地は筑前国分寺跡と尼寺の中間付近で、
川がかつては流れていたことを地図上で確認。
現地は傾斜のある坂で、
下ればすぐ水城に出るような場所だということが分かりました。

つまり、船着き場ではないことを確認できたのが一番良かったかな。
13点の木簡の中には廃棄するために折られたものもあり、
何らかの施設が在った所だと推測されています。


で、ここから、ちょっと下れば大伴旅人と郎子児島が別れた水城があるんですね。
c0222861_21371411.jpg



凡ならば かもかもせむを 恐みと 振りたき袖を 忍びてあるかも 
(おほならば かもかもせむを かしこみと ふりたきそでを しのびてあるかも)
大意 あなたが平凡なお方なら私の思うようにしますのに、
恐れ多くていつもならはげしく振る袖をこらえて振らずにいます   巻六 965 郎子児島

ますらをと 思へるわれや 水くきの 水城のうえに なみだ拭はむ
(ますらをと おもへるわれや みずくきの みずきのうえに なみだのごはむ)
大意 立派な男子だと思っていた自分も 
水城の辺りに立って涙を拭(ぬぐ)うことであろうか。   巻六 968 大伴旅人


c0222861_2138236.jpg

ここは水城東門付近。

木樋があった所で、コンクリートのレプリカ見えています。
これを造った人、そして行き交った人々。別れた人。
多くの思いが籠った場所でした。

水城は今年、各地で歴史講座があって、多くを学びました。
それは真鍋の伝える水城の姿を補う物ばかりでした。

通説の、天智天皇が一年で防御施設として作ったという解釈には
多くの誤りがあることを確信しました。

久留米大学公開セミナーでお話したことに加えて新たな資料も出てきました。
これらをどんな形で残そうかと思案しています。





いつもポチっと応援ありがとう。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2014-12-13 21:41 | 太宰府政庁跡・水城周辺 | Trackback | Comments(3)

5 筑前国分寺と天満宮


5 筑前国分寺と天満宮


御笠団印出土地から来た道に少し戻り、坂を上っていくと文化ふれあい館に出ました。
館内には御笠団印と遠賀団印のレプリカが並んでいましたが、
撮影禁止なので外の七重の塔だけ御紹介。


c0222861_2247272.jpg

これがこれから向かう国分寺に立っていた塔の十分の一のレプリカです。


c0222861_22475634.jpg

国分寺を目指して坂を下りて行き、開けた所出ると寺跡がありました。



現地説明板より。
国分寺は、奈良時代の中頃、諸国に置かれた官寺で僧寺と尼寺があった。
当時は天然痘の流行や内乱などの社会不安が続いたため、平安を願うべく、聖武天皇は諸国に国分二寺の建立を命じた。世に言う「天平十三年の詔(みことのり)」(741年)で、筑前国分寺は、大宰府政庁西北の見晴らしの良いこの丘陵上に建てられた。しかしその創建についての記録は残っていない。ただ、西海道の国分寺が天平勝宝8年(756)には建てられていた記録があるので、筑前国の国分寺もこの頃までには完成していたと考えられる。

創建当時の筑前国分寺は約192m四方の寺域に金堂・七重塔・講堂などの建物が整然と配置されていたが、律令体制の衰退とともに国分寺の役割も失われていき、っ建物も荒廃していった。
 発掘調査の結果、当時の講堂や塔・回廊の一部が確認され、その構造と規模が判明した。調査後は整備が施され、塔基壇や回廊の基礎部分が平面的に表示されている。

創建の記録がなく、その跡が残されて実態が掴めたという寺院遺跡です。
構造は航空写真の方が分かりますね。




c0222861_22564549.jpg


南の方から遺跡と山を一緒に撮りました。
ピークが大城山でしょうか?大野山、四王寺山とも言います。
(ということでOKでしょうか。異称が多いですね)
チェリーさんは「しおじやま」と言っていたとも。
真鍋は「潮路見山」(しおじみやま)といって、水城の潮の満ち引きを観測していたと言います。



c0222861_22523625.jpg

撮影地点からさらに南に行くと、天満宮がありました。


c0222861_22532334.jpg

敷地計画として、国分寺とセットなのかな、と思われるほど近かったです。



c0222861_22534014.jpg

その境内に万葉歌碑が。


大野山 霧立ち渡る わが嘆く 息嘯の風に 霧立ちわたる
                山上憶良
(おおのやま きりたちわたる わがなげく おきそのかぜに きりたちわたる)
万葉集巻五 七九九

大意 大野山に霧が立ち渡っている。私が無き妻を想って吐く、深い深いため息で、一面に霧が立ちわたっている。

大宰帥として赴任した大伴旅人は、着任後間もなく愛妻大伴郎女を亡くす。当時筑前守としてこの地にあった山上憶良は、神亀五年(728)七月二十一日、長歌に五首の反歌をつけ、「日本挽歌一首」として旅人に奉った。その反歌の最後に詠まれたもの。背後の大野山(四王寺山)にはよく霧が立ち、旅人の嘆きを現在に伝えている。

大宰府政庁裏の坂本八幡宮近くに旅人の邸がありました。
そこからここまで歩いてくると、写真のように大野山がよく見えます。

異郷の地で妻を亡くした旅人像はリンクしている「磯良の海」さんが切々と描いてあります。

私はそれを読んで、初めて旅人という人物を心に描くことが出来たのですが、
宇佐に行って知った、隼人を滅ぼした旅人像とギャップが大き過ぎて、
とまどうばかりです。


さて、この日、私たちは木簡が出土した松本遺跡の現地に向かいました。
案内してくれたタクさんが行ったことがあるとのことで、
地図を見ながら案内してくれたのですが、どうしても分かりませんでした。

その日はあきらめて蔵司に戻りました。

そこで学芸員さんにバッタリ会ったので尋ねてみると、
マンションが建っていて、遺跡を示す案内板もないので分からないだろうとのこと。
(´・ω・`)
全国版で賑わったあの遺跡の場所も忘れられてしまうのでしょうか?

残念な思いで、水城へと向かいました。

追記
アクアさんからの情報で、国分松本遺跡の現地説明板が立ったそうです。
見てきますね!



いつもポチっと応援ありがとう。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2014-12-11 22:55 | 太宰府政庁跡・水城周辺 | Trackback | Comments(14)

4 御笠団印出土地  御笠軍団と遠賀軍団


4 御笠団印出土地

 御笠軍団と遠賀軍団


坂本八幡宮を後にして、ゆるゆると坂を上って行きました。
山の麓に新しい住宅街が張り付くような地形になって、
別れ道を左に進むと空地がありました。

それがあの御笠軍団の銅印が出土した所でした。
c0222861_20231277.jpg


現地説明板です。
御笠団印出土地
701年の大宝令(たいほうりょう)に定められた軍団(軍隊)の印判が発掘された所である。軍団は全国に置かれ、普通一軍団は兵士千人で構成され、その兵士は成人男子から三人に一人の割で徴発された。平安時代初め筑前国には4軍団があり、この印にある御笠軍団はそのうちの一つだったと思われる。近くの水城小学校からは遠賀団印が出土している。  太宰府市



c0222861_20235585.jpg

これは銅印です。高さ5.2 印面4×4

c0222861_20241859.jpg

金印より大きい印象です。

昭和2年(1927)に桑畑の中で農作業中に偶然発見されたものだといいます。

しかし、発見者がこの印の鑑定を大学教授に頼んだら、
大学教授が所有権を主張したために争いになり、
喧嘩両成敗で国が漁夫の利を得たといいます。

この問題がずっと腑に落ちず、現地を見たかったのです。
鑑定した人が所有権を主張するのはおかしい、と今なら思います。

たとえば「何でも鑑定団」に鑑定を依頼したところ、本物だったから、
テレビ局が所有権を主張した、というようなことになります。

現代ならあり得ないことです。
昭和2年というのがそんな時代だったのでしょうが、
聞き取りをしていると、あちこちで、
鏡や剣などを大学の先生や歴史資料館が借りて行って
返してもらえないという話を聞きます。

そして売り飛ばした話も。
あるいは放置して、存在しなかったものとする。
あるいは遺跡を破壊したり、コンクリート漬けにしたり、などなど。

残念ながら調査する機関そのものが信用できない風景が見られます。

九州は掘れば何処からでも何かが出てくるような風土なので、
自宅で保存されているケースもあります。

個人収蔵されたものは代替わりしたあと、ゴミとなる可能性もあり、
各市町村の資料館がもっと機能するようにならないと
多くのものを失うのだろうなと思っています。

この対策として、市民の関心がもっと高まる必要があります。
一人ひとりが郷土の歴史を調べ、誇りを持ち、監視できるようにならないと、
九州の出土品は失われるのではないかと危惧しています。


さて、話を戻しましょう。
印鑑がもう一つあります。
この御笠団印より前、明治32年に水城小学校の敷地内で出土したのは遠賀団印でした。


c0222861_2025732.jpg

国立博物館の説明によると、
「天平尺で方1寸4分1厘に造られており、公式令で
方2寸と定められた国印よりも小型である」となっています。

天平尺で中途半端な数字なら、別の尺貫を使用した可能性はないでしょうか。
愛読者さん、この辺り、詳しそうだなあ。


印鑑を保管するのは印鑰神社だったり、祠だったりというイメージがあるので、
出土状況が分かればよかったのになあと思いました。

二つの軍団印がほぼ南北の位置から出土しているんですね。
御笠団印は勾配のある山の麓から。
遠賀軍団は古代の川沿いから。
あたかも、大宰府政庁を守るかのように。

出土地を御笠軍団と遠賀軍団の布陣地として考えることはできないのかな
と思いを馳せました。


遠賀軍団といえば、あの熊鰐さんの軍団です。
仲哀天皇と神功皇后の時代、古出雲系の熊鰐は遠賀水軍を取りまとめ、
洞海湾で船を作り、水軍を組織しました。

その拠点は仲宿八幡宮(八幡東区)です。
そして、同じ熊鰐の末裔が祭祀する豊山八幡神社の縁起には
仲哀天皇ののち、推古天皇の時代にも軍団が活躍したことが書かれています。
推古天皇の御代(飛鳥時代)、新羅国が任那に侵入したため、大和朝廷より境部雄麻呂、中臣連国を大将軍とし、神功皇后の故事に倣って洞の海より入港し軍団を整えていたが、にわかに霊鳩が夥しく軍艦に群がって御神託があった。(略)

これは「神功皇后伝承を歩く」の下巻93から引用しました。
この軍団が大宰府の守りに付いたというのですから、懐かしい気分がしました。

遠賀軍団は水軍として、御笠軍団は陸軍として
大宰府の守りを固めていたのではないかと想像が広がりました。


さて、現物は地元では見られませんが、文化ふれあい館に行くと、
二つの団印のレプリカが見られます。
ここから二百メートル北にあります。
車で文化ふれあい館に行って、そこで地図を貰って歩いて行くのが一番いいかも。


地図に切り換えてみてください。



いつもポチっと応援ありがとう。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2014-12-09 20:30 | 太宰府政庁跡・水城周辺 | Trackback | Comments(0)

3 坂本八幡宮・大伴旅人の邸が近くにあるという


3 坂本八幡宮

大伴旅人の邸が近くにあるという

さて、時間が経ちましたが、再び蔵司(くらつかさ)あとの
歴史散策の話に戻ろうと思います。

政庁と蔵司の間の小道を北上していくと別れ道に標識がありました。

c0222861_17594579.jpg

道路は舗装されていますが、周辺に史蹟が分布しているようなので、
古代人の感覚を掴むために歩いていくのもお勧めです。

c0222861_1801188.jpg

ここは大宰府政庁の北西にある八幡宮です。坂本八幡宮。

大宰府政庁のすぐ近くという点で、気になりました。
寄ってみましょう。


c0222861_1804771.jpg

拝殿です。御祭神は応神天皇。
八幡宮ですから応神天皇を祀るのは当然なのですが、創建が新しいようで、
神功皇后ゆかりの宮にあるような、リアルな伝承がないのが、かえって新鮮です。

八幡神はどのような事情で勧請されたのでしょうか。
風水上、大宰府に関して、何らかの守護を願ったのでしょうか。

境内の説明板を読んでみましょう。

坂本八幡宮縁起
この坂本八幡宮は土地神‥産土神(うぶすな)として崇拝されている神社で応神天皇を御祭神としています。
「圓満山四王寺縁起」によれば「嵯峨天皇弘仁二年(811)辛卯二月勅宣にて四王院に釈迦仁の像を造立し有智山寺の沙門鳳詮法師行願具足の僧十一輩を移し開眼供養を遂げられ水田五十町を寄付し給ふ。鳳詮法師は坂本に住して善正寺と号す。又坂本坊と呼り。」とされ、平安時代にはこの坂本の地に四王寺の座主坊としての善正寺が成立していたとされています。
坂本にあったこの寺は中世は天台宗の寺院で、本山の比叡山に習い九州の天台系寺院には境内に八幡宮を祭る形が多く見られます。

四王寺山はすぐ北にあります。

嵯峨天皇の勅命で四王院に釈迦仁の像を造立した時、
鳳詮法師が開眼供養をして、有智山からここに移って善正寺を営んだが、
天台系だったので、例にならい、境内に八幡宮を祭っていた。
その名残で八幡宮がここに残ったということかな?

文脈がよく分かりません (´・ω・`)

つづきを読みましょう。
当社の勧請時期は「福岡県神社誌」(1944年刊)の記述によれば
「天文‥弘治の頃」(1532~1557)の戦国時代とされていますが、
おそらくこの頃に寺院が廃れ土地を経営する現在の坂本区の原型となる村落ができ、
その村の鎮守として寺の境内にあった社が再興されたものと考えられます。
戦国時代に廃れた寺にあった八幡神社が産土神として再興されたようです。

境内入り口南側にある「がらんさま」と呼ばれる立石は天台寺院の故地によく見かけられ、寺の中心地や結界となる境に置かれる事があるようです。

それがこれですね。

c0222861_182153.jpg

天台寺院の中心地や結界に置かれるものか…。
やはり、ここは寺が在ったあとの神社ということのようですね。

つづき。
この場所が大字の境で「辻」という小字であることも、当社の鎮守としての性格を現わしています。
 古代には大宰府や九州を守護する寺であった四王寺が形を変えながら、現在では坂本区の鎮守として生き続けています。

なるほどですね。
最初に疑問に思った大宰府政庁の風水には関係ありませんでしたね。


c0222861_1831645.jpg

境内には万葉歌碑がありました。
わが岡に さ男鹿来鳴く 初萩の 花嬬問ひに 来鳴くさ男鹿
(わがおかに さおしかきなく はつはぎの はなつまとひに きなくさおしか)
 万葉集 巻八 1541
大意 私の住む岡に牡鹿(おじか)が来て鳴いている。今年初めての萩の花が咲き、牡鹿がやってきて妻問いをしていることよ。

この辺りは大宰帥(そち)大伴旅人の邸跡と伝えられている。旅人邸は「万葉集の華」ともいうべき梅花の宴が開かれた場所としてよく知られているが、赴任後間もなく妻を亡くした旅人の暮らしは心淋しいものであった。
萩の花が咲き初める初秋、牡鹿が牝鹿(めじか)を求めて鳴く求婚の甲高(かんだか)い声にも、妻を想う自分の心を重ねずにはおられないのであった。

大伴旅人の邸跡が周辺にあったとは。そこから大宰府政庁に通ったんですね。

c0222861_184361.jpg

右手が政庁です。
邸はすぐ目の前の平地辺りにあったのかなあ。

梅の木が見えますね。
大宰府政庁の背部に思いがけない彩りの世界があるようです。
早春に訪れてみたいな。








いつもポチっと応援ありがとう。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2014-12-08 18:54 | 太宰府政庁跡・水城周辺 | Trackback | Comments(0)

「蔵司」現地説明会


「蔵司」現地説明会
くらつかさ

2014年10月25日、大宰府跡・蔵司地区の現地説明会に行きました。

c0222861_032611.jpg

正面の森の中に大型建物跡が見つかっています。
写真の中央左手に見える生垣は当時の塀の位置を示すために造られています。

さらに、説明板の奥にもう一つの土手があり、蔵司は二重の塀で守られていたことが分かります。
右手は大宰府政庁です。蔵司と政庁は隣接しています。

前回、ここで焼けた矢じりなどが見つかった件を報告しましたが、
その時はこの森の中は立ち入り禁止だったので、ようやく入れる機会を得て、ワクワクです。

太宰府政庁跡 速報・出土した大量の鉄器を見て来ました
ここは最強の風水地だよ~。
http://lunabura.exblog.jp/15569107/

少し早く着いたので、人が少ない間に撮影することができました。


c0222861_05040.jpg

丘陵地帯の一番高い所のようです。そこが広々と整地されています。

c0222861_051969.jpg

いきなり柱座(はしらざ)を持つ礎石。円形の柱座は二センチほどの高さです。
江戸時代には133個あったことが確認されています。


c0222861_054220.jpg

礎石の下には根石(ねいし)が嵌め込まれています。


c0222861_065549.jpg

南北に5石×東西に10石あり、南北4間×東西9間の建物となります。
周囲には溝が掘られて、瓦が沢山落下している状態です。
その瓦かなどから、8世紀前半~中頃の建物と考えられています。


c0222861_071762.jpg

これは法隆寺伝法堂。このような建物が建っていたと推定されました。



c0222861_073676.jpg

説明の人の後ろに四角と丸の穴。
これは上記の建物の下にあった掘立柱建物の跡だそうです。
掘立柱の大きさは直径50センチもありました。

この穴からは焼けた鉄類は出ていないのですが、
その上の土から焼けた鉄類が出ています。

瓦の推定時期は老司二式?(8世紀瓦葺き?)(よく聞き取れなかった)
大宰府の一期頃の建物で七世紀後半~八世紀初頭に遡る可能性が高いそうです。

まずは掘立柱建物が造られて、少しずれた所に基壇を作って
二面廂構造の瓦葺き建物(法隆寺伝法堂のスタイル)が建てられたもよう。

焼けた鉄の矢尻などはまだ束ねられた状態で、そこら全体から出土していますが、
建物の下からは出土していないそうです。
ですから、蔵司の建物には武器を置かれず、
その南辺りに武器庫があった可能性があるようです。


c0222861_081850.jpg

説明の人が立っている場所は建物がある所。
奥の大木の後ろあたりから焼けた鉄の矢じりなどが見つかっています。

c0222861_083312.jpg

丘陵をぐるりと回って裏側から撮影しました。古代に自然の地形を整地しているそうです。
このポイントはそれがよく分かりますね。森の向こうは大宰府政庁です^^



現地説明会は面白いですね。
この日はさらに近辺を逍遥しました。


地図 蔵司








いつもポチっと応援ありがとう。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2014-11-08 00:13 | 太宰府政庁跡・水城周辺 | Trackback | Comments(2)

蔵司から水城への逍遥


蔵司から水城への逍遥
くらつかさ  みずき

今日は大宰府政庁跡の左手にある蔵司の現地説明会に行ってきました。

それから念願の御笠軍団印の出土地や水城東門などを見学。

古代の町は歩いていくのに調度いい寸法なので、
車を置いて坂道を登ったり降ったりしました。

本日のコース。


c0222861_1928674.jpg

蔵司現地説明会



c0222861_19282491.jpg

坂本八幡宮



c0222861_19283177.jpg

御笠軍団印出土地



c0222861_19284665.jpg

文化ふれあい館



c0222861_19291653.jpg

筑前国分寺跡と天満宮



c0222861_19293417.jpg

水城東門 

木簡が出土した松本遺跡は見つけることができず。
後で聞くと説明板も立っていないので、分からないだろうということでした。


12000歩のウォーキング。
探査後はやっぱりラーメン ( ´艸`)
(いえ、私でなく、ガイドさんの御希望で)

今から資料整理です。(^_^)



蔵司



いつもポチっと応援ありがとう。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2014-10-25 19:33 | 太宰府政庁跡・水城周辺 | Trackback | Comments(0)

水城現地説明会


水城現地説明会


今日は久し振りの天気に恵まれて、水城の現地説明会に行ってきました。

JR水城駅のすぐそばに、切断面があって、100年ぶりの発掘調査です。


c0222861_21545036.jpg

駅から行くとこのように見えます。
手前が博多湾側です。

高さは14~5m。
その断面が露出しています。


c0222861_215415100.jpg

灰色が問題の砂の層で、人と比較すると、2m近くあるのが分かります。
御笠川の砂です。

これが饅頭の餡をくるんだような形状になっているそうです。
(金太郎アメのような感じ?)
粘土と混じり合っていて洪水の跡ではないという話でした。

構造上不可解な場所です。
アンコのように中央だけ砂にするなら、どうやって構築したかという
問題も解決しなくてはならないでしょう。


洪水で決壊したとなると、一部だったでしょうから、
この位置が決壊していなければ、また別の所に求める必要があるでしょう。
これ以上は無理ですね。

一年で出来るのかという質問、やはり出ていました。
「文献上では」という答えでした。

たとえば、竣工してから完成するまで十年かかったとしても、
記録には完成した年を書くもんです。

天智天皇3年(664)に「筑紫に大堤を築きて水を貯えしむ。名づけて水城という」とあるそうです。

『日本書紀』のアバウトな書き方の癖からして、(ダイジェスト版の宿命)
この文を一年で作ったと解釈する必要はあるのかな…。

1・2キロの堤防。まっすぐ作ってますね。
畑で畝をつくると、ヒョゴヒョゴと曲がります。
測量だけでも、どのくらいの期間がかかったんだろう。
まっすぐですよ、まっすぐ。

とも思いながら。気持ちいのいい水城跡を一部ですが、一周しました。

c0222861_2155439.jpg

太宰府側の傾斜を写しました。
すぐ下に家が建っていますが、水が出ていました。
家の辺りは貯水池として水が蓄えられていたことになります。

これをまっすぐ切れる所まで歩いていって、反対側に出ました。



c0222861_2156161.jpg

今、博多湾側に立って、水城駅方面を向いて撮っています。
左の森が水城跡。
手前の土手もその延長ではありますが、削っているようです。

内倉氏の本に木樋が430年と出ていると書かれているそうです。
が、決して公では公表されないだろうと皆さんの噂です。

鴻臚館でも古いものが出ていますが、関連者の方が
「そんなの出ても公表しない」とはっきり言われた、とある人が憤慨。

水城の築造に当たって、一番下には木の枝や葉を敷き詰めています。
その状態から晩春から初夏にかけて伐採されて敷き詰められた事が分かっています。

その葉を炭素法で検査されるそうですが、公表されるかどうか分からない、
と聞いた人もいます。

真実が伝えられないなら残念な世界ですね。
複雑な思いで帰路につきました。

ちょっと辛口でした。

学芸員さんたちの笑顔の挨拶に癒されました。
ありがとうございました。



水城駅そば






いつもポチっと応援ありがとう。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2014-08-30 21:59 | 太宰府政庁跡・水城周辺 | Trackback | Comments(2)
line

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


by lunabura
line
クリエイティビティを刺激するポータル homepage.excite
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31