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カテゴリ:太宰府政庁跡・水城周辺( 13 )

水城に思う


「水城」って


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今日は、水城(みずき)に関するシンポジウムに行ってきました。
中国や朝鮮半島など東アジアの全体像から、水城を捕えようとする試みです。

白村江の戦いの時代を中心に講演があり、その時代の状況が描かれました。
中には、百済で禰軍(ねいぐん)という人の(兄弟の)墓碑が
発見されたというホットな情報も。
この人は百済が滅んだのち、中国の高官になり、太宰府にも二回派遣されたという人で、
墓碑にはかなりの文字数で当時のことが書かれています。

「水城」に関しては、
るなは真鍋の言う「ダムとしての水城」を検証したいなと思っています。

「磐井が蘇我稲目と共に灌漑のために作った」
「573年の台風で水城が決壊して箱崎まで濁流にのまれた」
「天智天皇は水城を疎水式に切り替える工事をした」
この疏水式の工事を『日本書紀』では「水城を作った」ということにしている訳です。

心ある人は、たった一年で1200mの大工事は出来ないと分かっています。
何人もの人が最後にささやくんですね。
「たった一年では」と。

しかし、公の講座を聞くと、水城を天智天皇が作った防衛施設とする観点しか存在していないようです。
このままでは、話はどんどん逸れて行くんだろうなと危惧しています。

太宰府で直接、暦法に携わった物部の末裔の話が世に出る事はあるのでしょうか。

さて、水城の再発掘は100年ぶりだそうです。

今回、土塁の頃に砂の層が発見され、上下の製造法が違う事が指摘されています。
友人が現地説明会で質問したけど、答えは無かったそうです。
また、一年で出来るのかという質問にも答えはなかったとか。
多分、だれも答えることはないでしょう。分かっているんですね。

また、途中に砂の層があります。
砂の層があれば、土塁は脆弱になります。
しかし、これは考えられた工法だとされています。

るなは、この「砂の層」こそ、573年の決壊跡ではないかと考えています。

また、新しいイラストを見ると、
土手の下に流れる木樋(水を流すもの)が複数描かれていました。
灌漑するためにコントロールしながら水を通した設備だなと思われます。

あるイラストには唐の大型船が水城に迫り、
水城を切って船を沈めるような戦術が書かれているものもあります。

が、海底の浅い博多湾を大型船は入港できず、
ましてや三笠川を遡上することはあり得ません。
川は小舟ですよね。
もし、水城を切れば洪水となり、肥沃な田畑が住民と共に失われてしまいます。
そんな亡国の戦術を為政者が取るでしょうか。

「防衛施設」説があっても構わないのですが、
戦術も一緒に提案してほしいな。

と、考えながら帰路に着きました。

サイドバーの「針摺の瀬戸と水城」は一部ですが講演の資料を載せています。

今日は、とりあえず感想だけ書いておきますね。



水城






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by lunabura | 2014-08-23 20:53 | 太宰府政庁跡・水城周辺 | Trackback | Comments(0)

「水城」は磐井がひらいた


「水城」は磐井がひらいた


水城(みずき)。
天智天皇が作って水を貯えさせたという。

今でもグーグルアースにくっきりと写る土塁。
本当に防衛の為に作られたのでしょうか。

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川を堰きとめた土塁で軍事的にどんな作戦が可能なのか、いまだに理解が出来ません。
次は大野城市のホームページから。

水城の名前の由来
 日本書紀に「天智(てんち)三年(664) 対馬嶋(つしまのしま)、壱岐嶋(いきのしま)、筑紫国(つくしのくに)などに防(さきもり)と烽(とぶひ)を置く。また、筑紫(つくし)に、大堤(おおつつみ)を築きて水を貯えしむ。名づけて水城という。』とあります。その意味は対馬、壱岐、筑紫の国などに防衛のために兵士を派遣し、通信手段のためにのろし台を設置した。また、筑紫に大きな堤防を築いて、水を貯えさせた。水城という名をつけた。となります。

 水城の堤防は、大城山麓(おおきさんろく)から下大利(しもおおり)に至り、全長約1.2キロメートル、幅80メートル、高さ13メートルの人工の盛土(もりつち)による土塁(どるい)で、博多側には幅60メートルの濠(ほり)がありました。現在では「水」という文字を使うのか疑問に感じる人も多いでしょうが、当時は満々と水を貯えた濠と見上げるような大きさの土塁があったのです。

(筑紫は「ちくし」と思われますが、そのままにしています) この水城に関しては、過去記事で真鍋大覚の記述をまとめて、その一部を
「針摺の瀬戸と水城 古代、玄界灘と有明海はつながっていた」
http://lunabura.exblog.jp/16018354
というタイトルで既に紹介しています。

今回はその記事の観点を変えて、水城を造ったのは磐井であって、天智天皇ではないこと。
天智天皇は水城の改修工事を行ったことを確認したいと思います。

200年頃 太宰府の北西にあたる四王寺山(535m)は昔は潮路見山(しおじみやま)、或いは四明山(しみょうざん)と呼ばれた。麓の別院が安楽寺で、今は天満宮になっている。ここで南と北の潮目の満ち引きをみる安楽人の望楼観亭があったと伝えられている。(高良大社の絵巻物がこれを語る)

473年 ありなれ川で大洪水大氾濫が起こる。このころ、筑紫の東島(あかりのしま)と西島(いりのしま)が針摺で繋がれた。筑紫国造磐井は曽我稲目と共に洪水を修め、473年から523年の間に、水城の築堤工事を開始したと伝えられる。

現在の石堂川を中にして粕屋一体を灌漑して百姓を潤す目的であった。曽我稲目は怡土郡と那珂郡の間に新開の土地・早良郡を開いていた。

この頃は神功皇后が作った裂田(さくたの)溝(うなで)の水の勢いが新開の那珂・板付あたりでは減少していた。これを補給して、大洪水で干潟が進展した事に対処するためである。

527年 磐井の乱

573年 夏5月の台風で水城は徹底的に壊滅した。筥崎の砂浜の下に堆積している博多の家屋や調度の破片から推定すると、2万戸~10万戸が被害に遭って、玄界灘に漂没した。箸、下駄、椀が出土。瀦水塘が却って被害を大きくしたことから、この時から遺跡が急に陰をひそめる。

594~661皇極帝の御代に、磁鉄鉱で作った巨大な皇極が献上された。天智帝はこれを見て、指南車なる真方位補正済みの磁石を創案したと伝えられる。その磁石を水城に設置して、舟人にもその航法を授けられたと聞く。

659年と663年 新羅にて大地震が起こる。新羅の都慶州を震撼させた大地震の余波は玄界灘を渡って那の津を揺らせた。早良郡田隈野芥では津波高潮で倒壊漂没した家屋が出土している。斉明天皇(659)或いは天智天皇(663)年の頃に建てられた校倉である。天智天皇(626~671)は斉明天皇(594~661)と共に筑紫の長洲宮にあった。行宮の場所は那珂郡安徳村梶原。

天智天皇は磐井がひらいた水城(瀦水塘)を、玄界灘から有明海に疎水式に船を通す湖に切りかえる大工事を完成した。都府楼に自ら開発した時計を据え、玄界灘と有明海の潮時をみはからって、水城の上を往来する舟人に太陽暦の時鐘を響かせた。

後にこれは御母斉明帝の菩提寺・観世音寺に移されたとも聞く。

(参考 698年京都妙心寺に同型の梵鐘 粕屋の評・舂米(つくしね)連広国が鋳造。 鴻盧館に8世紀の鐘の鋳造あとが出土。)

かつて、博多湾と有明海がそれぞれ深く湾入して、互いに繋がっていたころ、
その川を「ありなれ川」と呼ぶ人たちがいました。

「ありなれ川」とは「広い川」という意味でもあり、
天にあっては「天の川」を指していました。

南北の海がが繋がっていた場所は「針摺」(はりずり)ですが、現在はもちろん埋まっています。

早岐(はいき)・針尾・針摺は同じような地形に付けられ地名で、
原型を残す「早岐瀬戸」をユーチューブで見ると、往時の「針摺の瀬戸」の様子も想像できます。
http://www.youtube.com/watch?v=d6qEGnI9--o

針摺では、時には博多湾の水が狭い水路を超えて、
蘆木川~千年川(筑後川)へ流れ込むこともあったといいます。

安曇族たちが九州王朝へ物資を運ぶのはこの水路を通っていたわけです。

しかし、473年の大水害で針摺瀬戸が埋まってしまい、船で運航することが出来なくなりました。


そこで筑紫君磐井は蘇我稲目と共に治水工事をしました。
ダムを造って、灌漑用水も確保したというのです。

土手の中に木樋による導管がある謎も
水の管理をしていたことを考慮すれば理解できると思います。

しかし、川を堰き止めたのですから、洪水で決壊すれば被害は甚大です。
実際、573年に大水害が起こっています。

そして、天智天皇の時代に疏水の工事をしたと伝えています。
天智天皇が「筑紫に大きな堤防を築いて、水を貯えさせた。水城という名をつけた。」(大野城HP)
というのは、磐井がひらいた水城が壊れたため、天智天皇が疏水式にしたということになります。

観世音寺の鐘はもともと水城の側で「玄界灘と有明海の潮時をみはからって、
水城の上を往来する舟人に太陽暦の時鐘を響かせ」るために利用されたものだと言います。

深く湾入していた当時の川は潮の満ち引きがあったので、
それを利用して川を遡ったりしていたそうですが、
月を見れば満ち引きの時刻まで船人たちは把握していました。
が、太陽暦はまた別物だったので、船人の利便を図って鐘を設置したのでしょう。

この疏水では通行税がちゃんと取られて、観世音寺の運営費に充てられたそうです。

水城が唐に対する軍事目的で造られたのでなく、
博多湾と筑後川を船で運航するための内政的なものだと観点を変えれば、
その不思議な形状への研究が進むのではないでしょうか。


 水城






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by lunabura | 2014-05-26 20:59 | 太宰府政庁跡・水城周辺 | Trackback | Comments(0)

太宰府政庁跡・速報・出土した大量の鉄器を見て来ました・ここは最強の風水地だよ~


太宰府政庁跡
福岡県太宰府市観世音寺4丁目
速報・出土した大量の鉄器を見て来ました
ここは最強の風水地だよ~。

「太宰府跡から大量鉄製武器―矢尻、刀など26キロ分」
12月3日付の西日本新聞にこんな記事が載っていて、
気分はそわそわ。さっそく行って来ました。

まずは、鉄器を展示してある「太宰府展示館」へ。
太宰府政庁跡」の名称は地元では「都府楼跡」の方が通りがいいです。
無料駐車場もあり、展示館はすぐ横に隣接していました。
館内は撮影禁止だったので、新聞記事からその鉄器の写真を。
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展示の量はこれの倍ぐらいで、約20点ほどでした。
写真の左が小札(こざね)で、3~4センチ。鎧の材料です。
右の細長いのが鉄の矢じり。その切っ先の部分です。
折れたものもあります。古墳時代よりも、現代の矢に近いですね。
右2列は矢じりが束になって固まっています。
単にくっついたのと、溶解したのがあります。
他にベルトの一部、刀など。そして、15㎝ほどの鉄滓(てっさい)。
7世紀後半から8世紀中ごろとの事です。
斉明天皇が来た時かなと期待したけど、その後だそうです。

そう、ルナが気になったのは新聞の写真にはない、鉄滓。(かなくそ)
(現地には行ってみるもんじゃ)解説ボランティアの方に尋ねました。

「これは、鉄滓ではないですか。」
「そうです。」
「それって、ここで鉄を作ったんじゃないですか。」
「そうですね。これが出土したのは、政庁跡のすぐ隣の蔵司(くらつかさー地名)ですが、そのまた隣の来木(らいきー地名)では、瓦や鉄を作っていました。」
「ここで、作ってたのですか。」
「はい。来木で作って、蔵司が倉庫です。倉庫は四王寺山の頂上にもありました。」
「倉庫…。その蔵司って、ここから近いのですか?」
「はい、すぐそこです。」
と場所を教えて貰いました。

(鉄滓については「武器や武具を溶かして再利用する溶解炉があったのではないか。」との説もあります。)

という事で、すぐ横の政庁跡へ。正面から行きましょう。

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じゃ~ん。何もない?いやあ、何もないのが一番好きなルナです。
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(太宰府展示館 リーフレットより)
でも、こんなのが建ってましたよ!

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これは右側の建物の跡。柱が巨大ですねえ。
正面が四王寺山(大野城)です。
そして、この左に出土した蔵司の森があります。

歩いて正面にまわりましょう。
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この森の中です。ここにかつては倉庫群がありました。
当時の税金である租庸調(絹や綿.他)はいったんここに集められて、
一部を残して、朝廷に運ばれました。
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ここから大量の鉄の武器が出土したという訳です。
8割が鉄の矢じりで、およそ2000本前後分があったと考えられるそうです。

出土状況
どれも高熱を受けて、半分溶けかかった状態である。
瓦も熱を受けている。
被熱した瓦に半分溶けかかった鉄の矢じりの束がくっついていた。
被熱瓦の外面には縄目の圧痕が確認される。
被熱した鉄の矢じりの破片が混ざった粘土でつくられた瓦がある。
瓦が割れた断面に鉄の矢じりが付着したものもある。この瓦の外面には格子目の圧痕や指でなでた痕跡がある。
これらから高熱を受けた時期は8世紀後半~9世紀前半の可能性がある。
高熱を受けた原因は調査中。

さあ、どんな状況で鉄が溶けたのか、瓦に矢じりが付着したのか・
これからの研究の発表が楽しみです。

藤原純友もこの倉庫に火を付けたとか。でもずっと後の事だそうです。

兵器製造は許可制になっていた
西海道(九州)の諸国では761年にはじめて兵器の製造が認可されたそうです。
そうか、いつのまにか自由に造れなくなってたんだ。
      

ここはイヤシロ地だよ。
さて、この大宰府政庁は風水で選びぬかれた場所に建てられています。
これまで案内した中でも、風水上ではトップクラス。
その気を浴びて、散策するのにもってこいの地です。
桜や紅葉や梅やアジサイ。これは季節ごとにも楽しめるゾ。

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横の疎水に並木がありました。

太宰府展示館では発掘された当時の溝をそのまま見る事ができます。
これは本物の迫力がありました。お勧めです。
予約すると、古都の案内もしてもらえます。詳しくはHPで。


太宰府展示館
〒818-0101 福岡県太宰府市観世音寺4丁目6番1号
092(922)7811
開館時間 9:00~16:30(無料)
休館 月曜日(ただし祝祭日の場合はその翌日)
年末年始 (12月28日~1月4日)

古都大宰府保存協会公式HP
http://www.kotodazaifu.net/
 

鉄器の展示は2011年1月30日までです。
Yさん、ありがとうございました。
地図 太宰府政庁跡




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by lunabura | 2010-12-06 13:12 | 太宰府政庁跡・水城周辺 | Trackback | Comments(2)
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