ひもろぎ逍遥

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カテゴリ:神社(イ)( 5 )

到津八幡神社・神功皇后の御座船が着いた


到津八幡神社
いとうづ
北九州市小倉北区上到津
神功皇后の御座船が着いた 

さて、神功皇后の足跡を辿るコースもいよいよ終盤です。
神功皇后は飯塚市の大分宮で倭国連合軍を解散すると、福岡県を横断して周防灘に出ます。
そして、再び北九州市に戻って来ますが、この経過は記紀には書かれていません。

今回の「到津」(いとうづ)という神社の名前は神功皇后が「津に到った」という事から付いた名でした。

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ここは内陸部にあるのですが、やはり当時は海が迫っていて、船を付ける事が出来たそうです。
神社のすぐ前には板櫃川が流れていて、そこから上陸すればこの坂が待っていただろうと思われます。
と言いながら、石段上りがだんだん快感に…。

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御祭神は
息長帯比売命(神功皇后)・品陀和気命(応神天皇)・宗像三女神・豊日別命(豊前国の守り神)
です。
豊日別命がついに出て来ました。ここは豊の国なのですね!
豊日別命は豊前国の国魂なので、ここが重要な津だった事が伺えます。

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神殿が少し見えます。
境内にあった由緒書きを写します。
御事跡
神功皇后は御征韓の後、宇美の里で応神天皇をご出産なさいました。長門豊浦宮に遷幸の際、御船をこの所の津(港)にお寄せになりました。これが到津(津に到る)という地名の起源であり、千古の霊跡を伝えるものでございます。

後に一祠を建て、皇后の和魂をお祀りいたしましたのが当社の始めでございます。
神功皇后は身重のまにまに戦場に赴かれましたが、その大いなる御神力にて胎中の応神天皇を守護され、お導きになられました。以来人々は安産を祈り、社前の川の水を産湯として汲み用いてきました。
因って川名は産川(ウブカワ)とも呼ばれています。(現在の板櫃川)

文治4年(1188年)宇佐神宮より宇佐八幡大神を勧請しました。
『豊前国誌』には次のように記されています。
「宇佐八幡宮御分社中においては第一の御社柄といひつべし」
また細川氏、小笠原氏の尊崇も厚く企救郡大社と称せられ、現在に至ります。
神功皇后の和魂(にぎみたま)を祀ったという宮なのですね。
ですから、安産を願う人々に篤く慕われました。

宇佐神宮の分社の中でも第一だと書いてありますが、『福岡県神社誌』の方にも、
天慶2年(939)の頃、藤原長光が宝鏡を宇佐宮と当社両方に奉納したとあるので、
両社は深いかかわりがあるのが分かります。

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境内社です。背景が空で、小高い所に立地しているのがよく分かると思います。

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稲荷社もありました。これはまた華麗ですね。

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御神木です。

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地形図を見ると、神社の鎮座地は岬の上に当たるようです。
すぐ南の入江なら大きな船も入る良港のように見えますね。
さて、ここに神功皇后の御座船を招き入れたのはどんな氏族でしょうか。
その伝承は南西部の篠崎八幡神社に伝わっていました。
次回はそちらへ行きましょう。

地図 到津八幡神社









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by lunabura | 2012-03-22 20:18 | 神社(イ) | Trackback | Comments(0)

雷神社・盤座と記紀にはない歴史の記録


雷神社
いかづちじんじゃ
福岡県糸島市雷山
記紀にはない歴史の記録があった
盤座の聖地
 

前回の三坂神社から、雷山(いかづちやま)へ向かう登山道路があります。
ぐんぐんと高度を上げながら車を走らせると、休憩所が左手に。
次に出て来るのは雷山千如寺大悲王院
それを通り過ぎてしばらく行くと右手に雷神社が出て来ます。
駐車場があります。

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車を降りると目に入ってくるのは巨大な杉たち。
その間を通って参道に向かいました。自然と人間が作り出した聖地です。

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ここはパワースポットです。
石段の左にある巨木はイチョウの木。一本でこの大きさです。
今から黄色に染まろうとしていました。

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石段を上がるとすぐに拝殿です。参籠出来るような広い拝殿です。

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拝殿の右にまわって正面付近を撮りました。
人々が見上げているのは先程紹介したイチョウの木。

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そばに立つとこんなふうです。樹齢900年。県指定天然記念物です。

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拝殿前から参道を撮りました。
どのアングルでも、深山のしめやかな趣に満ちています。
神功皇后たちがここに滞在したと麓の宮々で伝えていました。

由緒を福岡県神社誌で見てみましょう。(口語訳。一部変更)
祭神 火雷神、彦火火出見尊、香椎大神、住吉大神、応神天皇
社記によれば、第6代孝安天皇より第11代垂仁天皇の御代まで、異国から我が国に襲来する事が何度もあり、当社の神が大雷火となり異賊を降伏させられた。垂仁天皇がこの御神徳を畏こんで社殿を建てて、敵国降伏の神として尊崇された。

神功皇后が三韓征伐の時、武内宿禰に命じて宝剣宝鏡を供えて祈願された。
それより代々の天皇は勅願所として綸旨(天皇の命令)を賜い、将軍家は祈願所として御教書を下して数十町の神領を寄付された。

下って文永公安の役(元寇)にも御教書を下して敵国降伏を祈られた。永禄天正の際、九州は大いに乱れ、干戈日夜を継ぐに及び、神領はことごとく将士が略奪した。
(後略)
ここには孝安天皇の時代からずっと異国の襲来があったと書いてあります。
孝安天皇などは欠史八代と言って、具体的な歴史が書かれていない時代の天皇だそうです。
その謎の時代についてこの宮では異敵と戦っていたことを伝えています。

この異敵の襲来については、忌宮神社で新羅の塵輪が襲撃していた事が
記紀に書かれていないことが分かりましたが、
ほかに楯崎神社(福津市)や高良玉垂宮の「神秘書」にも書かれています。

「神秘書」にはイルヰという敵の具体的な名前まで書かれていました。
山口県の土井が浜の戦闘跡などはその名残だと思っています。
弥生時代の二重環濠もまた戦いの連続だった事を教えています。

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香椎宮に出した系図に孝安・孝霊天皇を追加してみると、
オレンジの丸に囲まれた天皇たちの世代は
ずっと海からの襲撃に備えていたという事になります。

仲哀天皇の時代は遂にこちらから海を越えて戦おうという展開だったのです。
彼の時代になって唐突に新羅と戦うのではない事が分かります。
だから仲哀天皇は先代の例にならい、この山に祈りに来ました。

祭神を見ると、
 火雷神、彦火火出見尊、香椎大神、住吉大神、応神天皇
となっていますが、香椎大神とは神功皇后です。
ですから、当時の神は火雷神と彦火火出見尊になります。

彦火火出見尊は高祖神社の祭神でもありました。
五十迹手(いとて)はここも守り続けたのでしょうか。

伊都国は天孫降臨の候補地としてよく名前が出ますが、
糸島の中心的な山、雷山と高祖山の神がニニギの命でないことが
心に引っ掛かりました。
ニニギノ命を祀る山はこの地方の何処かにあるのでしょうか。
現地の方教えて下さいね。

神域の素晴らしさに酔いしれながら、一の鳥居の前に出ると、
舗装道路を隔てて急に下がっていく石段を見つけました。
下りて行くと盤座がありました。

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岩陰(いわかげ)祭祀の痕跡があります。

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横から撮りました。このようなカーブは盤座の特徴で、よく見かけます。
この盤座こそ雷神社の奥宮で、
神功皇后が祈ったとしたらこの盤座なのだと思いました。
近くには清らかな小川が流れています。
古代祭祀跡として大切にしたいものです。

雷山は層増岐岳ともいいます。
「ソソキ」という山名から、羽白熊鷲と戦うための陣営の地という説がありますが、ここには羽白熊鷲はいません。
「ソソキノ」は朝倉市の「層増岐野」が該当する土地だと確信しました。
(⇒砥上(とがみ)神社・松峡(まつお)八幡宮にて詳細)

仲哀天皇の一行はこの雷山で過ごしたあと、
不動池や雷山神籠石を廻って下山したそうです。(糸島の宇美八幡宮伝承)
次回はその通り道の雉琴神社に行きましょう。

地図 雷神社







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by lunabura | 2012-02-21 17:55 | 神社(イ) | Trackback | Comments(0)

壱岐神社・壱岐真根子を祀る宮・九州王朝三階松


壱岐神社
福岡市西区下山門1―9-3
壱岐真根子を祀る宮
九州王朝の三階松があった

福岡市は北が海なので住宅がひしめいていても開放感があります。
大都会に残る松林「生の松原」は「いきのまつばら」と読み、
それに接して壱岐神社があります。

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祭神は壱岐真根子。(いきのまねこ)

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そう、竹内宿禰の身代わりになって死んだ人です。
その経緯は織幡神社(3)に詳しく書いていますが、
織幡神社は玄界灘の東・宗像市の岬にあります。
そこには壱岐真根子も祀られていて、その末裔が代々宮を守っているそうです。
そして、壱岐真根子を主祭神として祀るのは玄界灘の懐(ふところ)にあります。

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驚いたのが手水舎の「三階松」の紋です。
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これは九州王朝の紋だそうです。
これまでに見たのは宮地嶽不動神社(福津市)、剣神社(鞍手郡木月)・高良下宮社(久留米市)・
松崎天満宮(小郡市)です。そしてここで五社目。
松崎天満宮以外は竹内宿禰の名が見え隠れします。
この五社だけでも地図上にプロットすると、大変広範囲だった事が分かります。

九州王朝は神功皇后が立ち去った後の話になると思っていますが、
彼女の移動ルートを押さえると
彼女を援助した筑紫の豪族たちがどこに居たのかが分かるので、
こうしてコツコツと歩いているのです。
そうすれば九州王朝の基盤が見えて来ると思っています。

それでは、この神社の由緒を見てみましょう。(一部現代語へ変更)
壱岐神社
御祭神 壱岐真根子命
創立 延宝8年 明治梧5年11月3日村社
御神徳 仁愛開運
例祭 10月15日・9月1日・7月28日
由緒 壱岐真根子命は武内宿禰の身代りとなり、無実の罪にて死亡。信仰篤き黒田藩主はその忠魂を称え、松林4128坪を安永4年5月寄附された。近くに神功皇后さまの植えられた逆松は有名である。(戦勝祈願)
鳥居 安永年午正月 従四位源朝臣継高公寄附
壱岐神社宮司 菊池友久

延宝8年は1680年。江戸時代です。この宮は黒田藩主によって創建されました。
この広大な松林もその時に寄進されたものだと分かりましたが、
その前にはここには何もなかったのでしょうか。

この生の松原という地名の由来は神功皇后が逆さに植えた松が生きたと言う事から
ついた名だといいますが、この神社には「壱岐」の漢字がついているので、
長崎の壱岐との関わりがないのか、疑問が出て来ます。

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境内は不思議に古木がなく、この松だけが時代を語ってくれています。

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御神木ですが、神功皇后のゆかりの松なのかどうかは分かりません。

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古式の鳥居に惹かれてそのまま松林の参道を辿ってみました。
ここの松は元気ですね!

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そして、海!この宮は海から参拝するようになっていました。

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浜に立つと能古島(のこのしま)が見えます。
右の岬は妙見崎。岬の根元には小戸(おど)があります。
神功皇后の船が出港した湊です。ここからはわずか2キロ。
この距離からすると、あの湊を経営していたのは壱岐真根子でしょうか。
ここは壱岐真根子の息がかかった場所?

伝承ではこれ以上は分からず、永井功氏の「神功皇后の戦略」を見てみると、
「姪の浜町の鷲尾山(蒙古襲来以後北條氏が築いた鷲尾城址があり、今愛宕山という)の東側浦山に、武内宿禰の出城があったという伝えがあり」
と書いてありました。

愛宕山の東に竹内宿禰の出城が?!
そうするとこの湊は竹内宿禰が経営していた?

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緑色の都市高速道が愛宕で曲がっているのは愛宕山を避ける為で、
計画では愛宕神社の上を通るようになっていたのが住民運動のお蔭で迂回するようになりました。

愛宕神社はもともと鷲尾神社と言い、景行天皇の時代に祀られた所だそうです。
その麓、川と海が接するあたりに竹内宿禰は出城を持っていたというのです。

竹内宿禰は壱岐真根子の娘の豊子を妻にしたという系図があります。
(妻はもちろん何人もいたはずで…)
そうすると二人は舅と婿の関係になり、壱岐真根子が見かけがそっくりだったというので、
同族の結婚ではないかとも思ったりしています。

近畿で竹内宿禰殺害を命じられた使者はどうやって彼を見つけ出すのでしょうか。
やはり出城や居城をまずは目指すでしょう。

壱岐真根子の死の現場を見つけると、そこに竹内宿禰がいたことがわかります。
その伝承は武雄市若木町の伏屍(ふし)神社(伏尺神社)にあります。
壱岐真根子の遺体を壱岐に運ぼうとしたが遺体が重すぎてそこに葬ったのだそうです。

竹内宿禰の本拠地で事件があったのかも知れません。
地図で確かめると「御所」という地名もあります。
この辺り、なかなか面白そうですね。またいつか探索したいと思います。

壱岐真根子は壱岐の直(あたい)の真根子。
壱岐真根子は壱岐国から百済や倭国(小戸や武雄)を自由に往来していた人で、
竹内宿禰は彼の情報を頼りにしていたと考えています。
愛宕山の麓の出城は留守の間は壱岐真根子に貸していたかも知れませんね。

織幡神社(3)祭神・壱岐真根子の悲劇
祭神・竹内大臣と壱岐真根子臣

http://lunabura.exblog.jp/14790197/



地図 壱岐神社 伏屍神社








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by lunabura | 2012-02-17 17:25 | 神社(イ) | Trackback | Comments(0)

一宮神社・神武天皇の磐境神籬・岡田宮あと


一宮神社 
北九州市八幡西区山寺町
神武天皇の磐境神籬が現存していた
ここは岡田の宮あと

今日から北九州市を廻ります。
仲哀天皇は下関の忌宮神社に約6年も滞在して、いったい何をしていたのか。
記紀はその事情を語りませんが、その答えは北九州の各神社の伝承に残っていました。
その期間は軍船を造っていたのです。

その数は48隻というのが志式神社や他の神社に伝わっていますが、
北九州市では材木調達と造船をし、船団を整えていました。
山口県や大分県の海岸沿いなどでも船を造っています。
船の帆や幡など布製品は宗像市や福津市です。

これで分かるのは、最初から新羅との戦いを準備していた事です。
記紀では「熊襲よりも新羅を」と神々が託宣したように書かれていますが、
造船をしたと言う事は明らかに最初から新羅戦を前提としていた証拠になります。
何故なら戦った熊鷲たちは山に住んでいたからです。

戦争の準備のために要求された武器の朝貢の数は膨大になり、
羽白熊鷲や夏羽たちにとっては過酷なものになった事でしょう。
ここに熊鷲の反乱や田油津姫による暗殺事件などが生じる原因がありました。

造船に数年かかる間、神功皇后が木材調達に出掛けた伝承もありました。
(これは全く想定外だった)
また仲哀天皇は皇后を伴って神武天皇の足跡を辿って祭祀していました。
皇祖への祈願です。
神武天皇のゆかりの宮として、これまで紹介したのは神武天皇社でしたが、
今回参拝する一宮神社は日本書紀に出てくる「岡田の宮」跡でした。

北九州市にはもう一つ「岡田」の名を持つ岡田神社があります。
そちらに参拝すると「一宮神社が元宮です」と教えていただきました。
そこで日を改めて一宮神社に参拝しました。八幡西区にあります。
岡田神社はまた別の機会に報告するとして、今回は元宮の一宮神社です。

一の鳥居の右側に車道があって、上っていくと駐車場に出ます。
山の中腹に駐車場がある印象です。

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車を降りると、すでに拝殿の下の石段の所に来ていました。

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石段を上るとすぐに本殿です。
後ろには鬱蒼とした自然林が見え、空が広がっています。
ここは岬の上だったそうです。
案内板から(一部ひらがなに)
一宮神社
一 由緒
この地方の氏神、王子神社、大歳神社、諏訪神社の三社を昭和25年6月吉日に合祀し、社号を一宮神社と称します。

王子神社は神武天皇が日向の国より東征の途上、筑前のこのところにおいでになり一年間政務をみられた宮居の地で、境内には古代祭場など考古学的にも貴重な跡があります。

大歳神社は三代実録や続風土記にも表れている古くてかつ由緒深い神社であります。
諏訪神社は花尾城主麻生氏が信州の諏訪神社を御手洗池のほとりに分祀、厚く祭られた神社であります。

一 祭神
天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと) 神武天皇(じんむ)(元王子神社)
 大歳神(おおとし) 事代主命(ことしろぬし)(元大歳神社)
 建御名方神(たけみなかた) 仲哀天皇 神功皇后 応神天皇 (元諏訪神社)

一 祭礼
1月1日 元旦祭 4月17日 春季大祭 6月25日 道祖神祭 
7月21日 祇園祭 10月17日 秋季大祭 11月15日 七五三祭
この宮は三つの神社が集合したのが分かりましたが、
今回注目したいのは「王子神社」です。

これは神武天皇がまだ天皇に即位する前で、皇子だったのでその名が付いたそうです。
古事記には岡田宮に1年間滞在したと書かれていますが、それがこの一宮神社です。

祭神は天忍穂耳命神武天皇でした。
神武天皇が先祖を祀ったのだから、天忍穂耳命だというのは当然ですが、
ニニギの命ではない所にすごく興味を持ちました。またアマテラスでもありません。
天忍穂耳命って天孫降臨を遠慮した神です。

「天の忍穂耳命は英彦山に祀ってある神ではないですか?」
「そうです。しかも王子宮が英彦山とこの宮の線上に幾つも並ぶのです。」
「そうなんですか!」
凄い話だ。祭祀ラインとなるとつい興奮。
(遠賀川流域の皆さん、王子宮を探して教えて下さい!)
そうそう。忘れる所だった。

「神武天皇が祀った磐境(いわさか)神籬(ひもろぎ)が残っているという事ですが。どこにあるのですか?」
その場所を伺うと、駐車場から下った所にあるとの事でした。
教えていただいた方角を見ると鳥居と参道があります。
そう、車は中腹に止めたので降りて行かねばなりません。

やった~。石段だ~。降りて、また上るぞ~。
一旦、一の鳥居まで降りて、最初からの参道を上って行きましょう。

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一の鳥居です。
周囲は町ですが、一瞬で杜の中に入りました。植物相が豊かです。
扁額には「一宮神社」と書かれていました。

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杜が深まって来ると二の鳥居です。扁額には「王子神社」と書かれていました。

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潜ってすぐ左を見ると「神蹟山 王子本宮」という石碑が目に入ります。
この「王子」というのが神武天皇の事です。イワレビコ命(みこと)です。
奥に低い玉垣があります。

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正面に立つと本物の磐境神籬がありました!
初めて見ます。
こぶしより少し大きい石を積み重ねて円を作っています。
半径は一メートルより少し大きいです。奥にもう一つ。形や高さが微妙に違います。

今思えば奥の磐境の形の観察をよくしなかったなと思うのですが、
写真で見ると四角に見えます。円と四角なら、天神と地祇だと、
確か奈良の神社に書いてあった記憶があります。(かなり昔の話です)
説明板がありました。
古代祭場跡 由緒
神籬(ひもろぎ) 神代時代、神霊の憑依する所として、清浄な土地を選び周囲に常磐木(ときわぎ)を植えて神座となしたもの。
磐境(いわさか) 神を祀るため磐石をもって築きめぐらした場所。

この磐境は古事記によれば神武天皇、御東征のみぎり、豊前の国宇佐よりこの筑前の国のこの地に御滞在された旧蹟と言われています。天皇が御滞在中、磐境を設けて天神地祇をご親祭された神座神処です。

昭和30年代の始め、伊勢神宮の造営局長で、神社建築史の大家、国学院大学教授角南博士が参詣され、この形式の遺跡は全国でも極めて数少ないもので考古学的にも貴重なものであり、当社がいかに古代からの社であるかを物語るものであります。

このたび、氏子崇敬者の人々の浄財により、一宮神社の御修築事業が執行されるに当り、磐境の復元に合わせ、玉垣などの新設がなされたものです。
   昭和62年5月吉日


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露天の祭祀は古代の祭祀場の特徴です。
二つの磐境を作って、神々が降りて来る聖なる形を作ったのですね。

磐境と言う言葉はよく聞きますが、このような姿をしていたとは!
これでまた古代祭祀のようすがまた分かりました。

時を越えて古代の姿を留めた古代祭祀場。

古代からの森も守られていて、私たちは神武天皇が立った地に立つ事が出来ます。
玉垣があるだけで、一般人が直接拝観出来るのも、とても珍しい事です。

神武天皇がここに滞在して、格別に清らかな場所を選んで祭祀しました。
それから数百年たって、仲哀天皇も神功皇后を伴って来て祭祀をしました。

こうしてその場に立つことの出来る奇蹟。
一宮神社に参拝の折は是非とも、この神籬(ひもろぎ)をその目で見て下さいね。

宮司さんは、ここまで来たなら「皇后崎」に立ち寄って下さいと、
アドバイスしてくれました。
「皇后崎」と書いて「こうがさき」と読みます。
神功皇后が上陸した岬で、地名になっています。

最初に上陸したのはいつなのか、各神社で尋ね、よく分からなかったのですが、
この宮ではじめて「豊浦宮の時代に船を作る為に来た時」だと教えていただきました。

仲哀天皇と神功皇后が豊浦宮の時代に北九州市に来たのは、
記紀では省略されていたのが分かりました。

それでは次回は皇后崎へ行ってみましょう。

(遠賀川流域のみなさ~ん、出番です。
王子宮が見つかったらコメントでもメールでも教えて下さいね。)

地図 一宮神社





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by lunabura | 2012-01-19 19:59 | 神社(イ) | Trackback | Comments(6)

位登八幡神社・神功皇后は田原麿の城に半年も滞在した


位登八幡神社
いとうはちまんじんじゃ
福岡県田川市位登681
神功皇后は田原麿の城に半年も滞在した

ここにはナビに電話番号を入力して行きました。
何と簡単なのだ。古墳探しとは別世界。
県道458号沿いに一の鳥居があって、灯籠などがあります。
そこから鳥居の示す方向へ進むとすぐに神社に着きました。
福岡県神社誌を見ていたら
社記に曰く、
「太古から豊日別神社があるのに、神功皇后は三韓凱旋からこの神社に年の半分も滞在された。」

この書き方がおかしくて、どんな所か見に来ました。

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真夏の昼下がり、緑陰を見てほっとしました。

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おおお。狛獅子の何と大きいこと!ライオンそのもの。
なんだかギリシアの宮殿みたい。
行った事もないのにそんな感想を持ったのは、
この石段の幅広さとゆったりとした勾配のせいでした。
そして日向から緑濃き杜の中を通って

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まぶしい本殿前に出ました。
茅の輪くぐりの祭りがあったばかりのようです。

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迫力のある注連縄です。
参拝すると自分の姿を巨大な鏡が写し出します。
平原遺跡の巨大な八咫鏡を思い出しました。
手を合わせるのは自分自身へ、なのですね。
参拝を済ませると、頭上の巨木がさわさわと音を立てました。
気持ちがいいな。
神功皇后が半年もここに滞在した気持ちが分かる感じがしました。

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周囲の森です。

さらに
欽明天皇31年誉田天皇(ほむた)の神霊宇佐の里に降りられた。その翌年8月25日、この位登(いとう)の里神瑞を顕わされた。時の官吏がその事を奏上した所、敏達帝3年に命令があって、八幡大神を位登宮に合わせて祭り、宮殿を新たに造った。

とあります。要約すると、
宇佐の神である誉田天皇がここに神のしるしを表わしたので、祀るようになったという事です。誉田天皇こそ神功皇后の皇子で、後の応神天皇です。

皇后は皇子が生まれてしばらくして移動を始めたので
この頃は皇子はハイハイを始めたでしょうか。可愛いさかりですね。
確かに子育てにはいい感じの場所です。
神社誌を書いた人が、
「なんでこんな所に半年もいたんだ。もっと由緒がある神社があるのに」、
と言っているのがおかしいんだけど、滞在した理由は
以前に記事にした川崎町の正八幡神社の伝承と組み合わせると見えて来ましたョ。

正八幡神社と言えば田原麿です。
仲哀天皇が遠賀川にやって来たのを聞いて馳せ参じた武将です。
天皇亡きあとも神功皇后と共に闘い、ここまでお伴をして帰国しています。

正八幡神社の方の伝承をまとめたものを再び書いてみます。
田原麿は近くの城山(もしくは位登郷の楠の森)に住んでこの地を治めていたが、神功皇后の三韓遠征の時に遠征軍に従って行って、(2年後には)戻ってきた。

それから600年以上経ってから、子孫の田麿に神託があった。それは応神天皇(誉田天皇)の神霊からのもので、
「私は宇佐八幡宮から本宮の大分八幡宮に行き通うたびに、母と田原麿の縁にちなんで、旅の途中に位登郷の楠の森で休息していたが、自分のために神殿を建ててくれたら、領民を守護しよう」
という内容だった。
そこで宮を建てて、のち1383年に現在地に遷宮した。

ここは田原麿の屋敷でした!
物資ともに豊かな屋敷で、共に戦ってきた戦友とも言える田原麿に
皇后は絶対の信頼を置いていたのがよく分かります。
だから安心してここで子育てして、心休まる時を過ごしました。

ここは宇佐八幡宮にずいぶん近い場所です。
誉田天皇(応神天皇)を八幡神として信奉する勢力が
こんな神霊降臨の神話をつくって、
地主神の神社を八幡神社に変えていくようすが具体的に分かる所でもありました。

そして、皇后がここに半年も居たのは、
豊浦宮へ帰るための旅程の手配の為だったろうと思いました。
何しろ遷都です。香椎宮へ向かう時も大人数だったので、海路は取れませんでした。
この帰り道はさらに大人数になりました。
兵糧、宿泊地の設定など、多くの準備が必要です。

ここまで来るために野営につぐ野営。
ここでゆっくりと休養して、次なる政治的課題への準備もした事でしょう。
一番の課題は、仲哀天皇の崩御の布告のタイミングです。
いとし子を皇位に付けなければならない。
仲哀天皇にはすでに皇位継承権のある皇子たちがいる。
彼らとの次なる戦いの準備も並行して行われたことでしょう。

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帰り道、二の鳥居からの眺めです。

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これは参道からの眺め。いいでしょ。空気も澄んでいます。
次は皇子が初めて立ったという生立神社へ行きましょう。

田原麿を祀る正八幡宮
http://lunabura.exblog.jp/16615951/


地図 位登神社 正八幡宮






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by lunabura | 2011-08-19 17:41 | 神社(イ) | Trackback | Comments(0)
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