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カテゴリ:天照神社・あまてる・宮若市( 3 )

天照神社(1)ついにニギハヤヒの宮へ行きました!


天照神社(1)
てんしょうじんじゃ
旧福岡県鞍手郡宮田町磯光字儀長
現 宮若市
ついにニギハヤヒの宮へ行きました


祭神は天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊
(あまてる・くにてるひこ・あめのほあかり・くしたま・にぎはやひのみこと)
古代史を紐解くと必ず登場する「ニギハヤヒ」。
それを祀る神社があるというので行って来ました。
古代史ファンの心を掴むニギハヤヒっていったいどんな存在なのだろう。

前々回紹介した高倉神社は遠賀川が海へ注ぐ辺りにありました。
その遠賀川を上流に遡っていくと、右手に物部氏の本貫地である鞍手が見えて来ます。
八剣神社や古物神社、六嶽神社などを紹介しましたね。
そこの神奈備山・六ケ岳の南側に入りこむ支流をさらに遡ると
目指す天照神社が見えて来ます。
まるで川に浮かんだ島のように神社の杜がこんもりと見えました。
「あれじゃない?」
民家が神社を中心に集まったような川沿いの集落の中にありました。

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折しも銀杏の絨毯が境内を埋め尽くしていました。
小さな太鼓橋の上を子供がすべりながら落ち葉を集めています。

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狛犬の周りは黄葉で輝いていました。

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なんと美しい日に来たのだろう。
この日でないと出会えなかった光景。
でも、曇り空の為に今日の写真の色は暗くて残念です。

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このお宮は珍しく平地にありました。石段はこれだけです。
重厚な趣と楠の巨木。七五三の赤い旗が華やかです。

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拝殿です。御祭神は
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊
八幡大神、春日大神、応神天皇、天児屋根命

この祭神を見ただけでも、いくつもの謎が…。
今日こうしてお参り出来た事に感謝して、少しずつ紐解いて行きましょう。

神社の由来が看板に書かれていました。
犬鳴川右岸の宮田町磯光(いそみつ)に鎮守する天照神社は、
古代から中世に栄えた粥田荘(かいたのしょう)の惣社(そうしゃ)として
古くから人々の信仰を集めた神社として知られています。

そうか、この川は犬鳴(いぬなき)川なんだ。
そしてここは「粥田の荘」。
天照神社の由来は、貝原益軒著の「鞍手郡磯光神社縁起」によれば、饒速日尊が垂仁天皇16年に宮田町の南に聳える笠置山頂(425m)に降臨し、同77年に笠置山頂に奉仕した事に始まります。

その後、千石穂掛谷、明野(脇野)と移り、延慶元年(1308年)に、白き鶴の住む里に廟を遷すべしとの神託があり、西国探題惣政所(そうまんどころ)玄朝(げんちょう)の造営により、現在地に移されました。

これが、ニギハヤヒが笠置山に降臨したという話のルーツなんだ!
最初は山頂で祀ったいたのが、だんだん麓に下がって行って、
現在地に移されたという事です。

垂仁天皇16年っていつ?
垂仁天皇  生没年未詳
第11代。崇神天皇の代皇子。崇神天皇の死により、翌年即位。
崇神-垂仁―景行―成務―仲哀―応神―仁徳
          
よくこのブログに出てくる神功皇后の子供の応神天皇より
ずっと前の時代なんですね。弥生中期かな…。
次回は境内を歩きながら、伝承をもう少し詳しく見てみていきましょう。

(つづく)
地図 天照神社 笠置山






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by lunabura | 2010-12-13 21:16 | 天照神社・あまてる・宮若市 | Trackback | Comments(5)

天照神社(2)奉納された稲穂の由来


天照神社(2)
奉納された稲穂の由来


あっ、稲穂だ!
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拝殿で目に飛び込んで来たのが左右の柱に掛けられた稲の束でした。
なんだかワクワク嬉しくなりました。
左は「奉 鶴田稲」 右は「奉 脇野稲」と書いてあります。
脇野鶴田で採れた一番最初の稲穂を奉納するんですね。
これこそ本当の祀りの形。それが今なお継承されている。

では、今回は貝原益軒の書いた由緒書きの方を訳してみましょう。
この御神霊は垂仁天皇16年に初めて笠城山のふもとに降り、長屋山筒男という人に託宣しました。その人は大神の勅命を受けて、その笠城山のふもとの川でしばしば人に災いした大きなナマズを切って災難を除いたという事です。
八剣大神という神がこの辺り8か所に鎮座するのもこの時、大神が授けた剣を収めた所です。
その後60年過ぎて、同じ帝77年の春、笠城山の上に初めて神殿を作って崇めました。秋ごとに初めて刈り取った稲の初穂を大神に奉納しました。秋の収穫の頃、民は暇がなくて峰の上まで登山するのに困っていたので、麓の谷に稲の穂を掛けて奉ったので、その谷を穂掛谷と名付けました。今佛谷というのは訛っているのです。

その後、允恭天皇の御世にこの社が野火に焼けてしまいました。人里から離れているのでこんな災いがあるのだろう。老人や子供たちが高い山に登るのも難行だしと言って、麓にある穂掛谷にあらためて作って移しました。その時、数千の石を集めてその上に神殿を建てたので、千石原と言うようになりました。

人に災いしたナマズを退治するように命じたのが最初のようです。
その時の剣が八剣神社の謂われになっています。
笠置山に神殿を作って初穂を奉納していたのですが、
農繁期には登山が大変なので、麓で奉納するようになりました。
上宮から中宮へと神社が下っていったようすが伺えて興味深いです。

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拝殿の左には三羽の鶴の像がありました。これは珍しい。
この鶴にも謂われがありました。続きを読みましょう。
その後、淳和天皇天長5年の冬、明野の里に宮殿を建てて、穂掛谷から移しました。明野は今は脇野と言うようになりました。

長屋山筒男は長寿でその御霊を明野に祀り長屋大明神と言います。この山筒男の末裔が天照宮の御祭を執り行い、今に続いています。

花園院の延慶元年、ある人の夢に大神が告げました。
「白い鶴が住む所にミヤシロを遷しなさい。」と。夢のお告げに従ってそのしるしを捜すと、今の鶴田の里に白い鶴の雄雌のつがいが棲んでいました。そこで、明野から今の所に移し、鶴田と名付けました。鶴が喜んで舞ったと言う事からその上の山を鶴喜山と名付けたと言います。

社殿は笠置山から穂掛谷、脇野、鶴田と移動していく理由が伝わっていました。
社殿の二つの稲穂は移動前の脇野と現在の鶴田から奉納されていたんですね。
鶴喜山(つるき)と剣(つるき)も掛けてある!

記録には、かつては三社ともに三日間神食(みけ)を祀ったりして、
たいそう盛大な奉納の祭りが行われたようすが書かれています。

貝原益軒はこの天照宮の由緒書きに大変、力を入れて書いていますが、
残念な事に、この御祭神を天照大御神と勘違いしています。
天地が別れた時からとうとうと書き起こしていて、名文なのですが、
天照大御神まで書いて、そのままこの神社の由緒に移っているのです。
私の読み違いではないかと、何度も読み返しましたが、
「鶴田の里におはします天照宮は則天照大神を祭奉る所也」と書いています。
勘違いしたようです。ニギハヤヒの正式名が
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊ですからね。まっ、こんな事もアリですね。
それ以上に、その記録の素晴らしさを称えたいと思います。

さて、神殿をぐるりと廻って見ました。
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これが神殿の裏側です。裏にもしめ縄があるのは珍しいです。
これを背にして外を見ると、四角く突き出た土地がありました。
塀の鍵が掛かっています。あれ、遥拝所じゃないかな。
木々が生い茂って見通しが利かないので、境内の外に出て裏に廻って見ました。
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それがこの風景です。一番高い山が笠置山かな…。
今日は全く人に出会わず、確認する事が出来ませんでした。

さて、考古学的にアプローチすると、「笠置山」といえば、
弥生時代の「石包丁」の材料の輝緑凝灰岩の産地なんです。
この山の向こう側で石包丁に加工されたものが佐賀県や大分県でも出土しています。
そういう意味でも笠置山は興味深い山です。

さてさて、るなの推理コーナー。
この神社の横の川が犬鳴川だと知って、思ったのですが、
イヌナキーイナキなどは製鉄の工人の隠れ里を表す地名なのです。
ここが鉄器を作った物部の里だというのを合わせると、
山の上に掛けられた穂はもともとは葦の穂じゃないかな。
つまりスズ鉄の材料になる葦の繁茂を願って掛けられたのではないかなと。
ところが時代を経て水位が下がり、沼地が稲作地に代わって行ったために、
葦の穂が稲の穂の奉納に代わっていったのではないか、と。
この神社の伝承にそんな古代を重ねました。

さて、表層から伺えるのはこんな所でしょうか。
この神社を支える歴史の奥についての本があるので、
次回はそれを紹介したいと思います。

♪ ニギハヤヒの現代語訳を始めました。(『古事記の神々』)
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考える?牛

地図 笠置山・穂掛神社 脇野 鶴田 天照神社

 

ブログ「徒然なるままに、、、」で、スズ鉄について分かりやすくまとめられています。
わが国の鉄の歴史・スズについて
http://jumgon.exblog.jp/15138704/



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by lunabura | 2010-12-11 22:08 | 天照神社・あまてる・宮若市 | Trackback | Comments(9)

天照神社(3)九州の物部氏の分布図・日本の太陽神は二系統ある


天照神社(3)
九州の物部氏の分布図
日本の太陽神は二系統ある


さて、この鞍手郡や宮若市の神社と物部氏については、奥野正男氏が詳しく書いてあります。
(『日本の神々―神社と聖地―九州編』谷川健一編)

今日はそれを道しるべに、忘れ去られた物部氏を見て行きましょう。
福岡県の物部氏の分布
ニギハヤヒは『先代旧事本紀』で物部氏の祖とされ、その同族は全国にひろく分布する。九州北部では筑後国の三瀦(みづま)・山門(やまと)・御井(みい)・竹野・生葉(いくは)の各郡を中心として、筑前国では嘉麻(かま)・鞍手(くらて)両郡・西には肥前国の三根(みね)・松浦・壱岐(いき)へとひろがり、東には豊後国まで分布する。
さらに海を渡って伊予・讃岐を経て紀伊・大和にひろがる。

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さて、本に出て来た地名を赤い丸で描いてみました。
筑後平野を見ると筑後川を中心にしてその微高地にその地名があります。
(有名古墳群と結構重なってない?)
遠賀川(おんががわ)水系は丸が二つですが、面で捉えて下さい。
今回の天照宮は北九州市に近い赤丸の所です。
こうして見ると、福岡県では物部氏は遠賀川水系と筑後川水系を
中心にして集落を営んでいた事が分かります。

佐賀県からさらに長崎県に目を移すと、松浦市に赤丸です。
ブログで紹介した梶谷城があります。
このあたりの海が全部見渡せる、松浦党の根拠地でした。
左上にある壱岐も長崎県です。百済や新羅に渡るときには必ず泊まる所です。

こうして見ると物部氏が船舶と湊を掌握していたのがよく分かります。
葛城襲津彦があんなに簡単に伽耶なんかに行き来した時も、この航路を通っている訳です。
面白い事に、博多湾あたり、那の国には赤丸がありません。
阿曇族とは住み分けてたのかな。

地図の緑の▲ニニギの命の降臨の伝承の馬見山、
ニギハヤヒの命の伝承の笠置山です。いずれも遠賀川水系です。

太陽神は二系統ある
続きを読みましょう。
ニギハヤヒを祀る天照神社は、アマテラス大神を祀るものとは別な系統に属している。しかし、両者は日神(太陽)を祀るという天神系共通の性格をそなえており、弥生時代に鏡祭祀を発達させた九州北部に、その発祥の源を求めることが可能であろう。

また、古墳時代に入ると、近畿を中心にして鏡祭祀が新しい発展をみせ、それにともない、日神を祀る天照御魂神社が畿内に祀られるようになる。

大和国城下郡鏡作坐天照御魂神社(かがみつくりにます・あまてるみたま)などがそれで、いずれもホアカリ(=ニギハヤヒ)を祀るという伝承をもっている。

確かに、アマテラス大神が男か女かという問題を聞いた事があります。
古事記では女神になっていますが、世界中で見ると、太陽が男神で、月を女神とするほうが一般的です。
いろんな所から渡来人が来た事を考えると、日本における太陽神を男女のどちらかに決めるのではなく、
単に氏族によって、日神の性別が違ったという歴史があるだけだという事が分かります。

日神は男神だ、女神だと決めつけずに、文献や神社史を読めば、
氏族別の宗教観、自然観があるがままに受け取れるはずです。

さあ、続きを読みましょう。
また、谷川健一氏は『白鳥伝説』のなかで、神武天皇の東征軍を難波の日下(くさか)で苦戦させた長髄彦の背後には物部氏がおり、日下の地を中心に日神ニギハヤヒを奉斎し、ここを太陽信仰の拠点にしていたことを論証している。

さらに谷川氏は物部氏の祖神ニギハヤヒやその末裔が多く金属精錬にかかわる伝承をもつことから、金属工人集団を率いた物部氏が瀬戸内海を東に進み、摂津の三島に入り、そこから河内・大和に勢力をひろげていったことを(略)論及し、次のようにのべている。

「もともと遠賀川の流域に居住した古い物部がいったん東遷したのち、数世紀をへて磐井の乱の前後また故地にもどったと考えることもできる。」

まさにこの通りの世界が見えて来ました。
物部氏は鉄のみならず、金なども扱っていたと思われます。
それは笠置山に向かう途中に金生という地名があり、その山塊の向こうには金出という地名があるからです。
「人に災いしたナマズ」というのは「鉱毒の被害」の可能性がないかなと思っています。
高倉神社の話と同様に、水銀中毒の知識がないために工人たちが倒れ、
その害への対策を指南したのが長屋山筒男の可能性はないかと考えています。

物部氏は一元では捉えられなくなった
ただ、「長髄彦+物部氏 vs 神武天皇」という対決図には問題が残ります。
それは、この遠賀川系には神武天皇の皇祖を祀り続け、
駿馬を連れて迎えに行き、軍備を支えた物部氏の伝承があるからです。
日若神社、馬見神社
「長髄彦+物部氏 vs 神武天皇+物部氏」というのが近いかと思います。
すると、物部氏の中に内部分裂があったのかな…。
う~ん、一筋縄ではいかないな。

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広い境内の黄葉。木々の向こうに犬鳴川の土手が見えています。

さて、元宮大好きのるなは笠置山の穂掛神社を見てみたい、と早速探しに行きました。
場所は千石峡キャンプ場の中です。熊本の菊池渓谷を彷彿とさせる、
渓流沿いの自然道があって、その美しさに興奮。
そこを行ったり来たりして探しましたが、見つかりませんでした。
少し下流の人里で、やっと人を見つけて尋ねると、やはり渓流沿いにあるとの事。
鳥居はないそうです。「天照宮の元宮ですよ。」と聞いて、「やったね!」
今では稲穂は掛けないそうですが、大きなしめ縄を掛けるそうです。
とにかく、またトライします。
そして、その途中で、あの有名な装飾古墳に行っちゃいましたョ。次回はそれです。




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by lunabura | 2010-12-11 17:17 | 天照神社・あまてる・宮若市 | Trackback | Comments(4)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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