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カテゴリ:黒男神社・くろどん・粕屋郡( 2 )

黒男神社(1)武渟川別命の子孫・阿部氏が武内宿禰を祀る宮・古代の陣営あと

黒男神社(1)
くろどんじんじゃ
福岡県粕屋郡久山町
武渟川別命の子孫・阿部氏が武内宿禰を祀る宮
ここは古代の陣営あと


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久山町に久山トリアスという大きな商業施設があり、すぐそのそばにこんな山があります。
人工的にも思えるこの姿。地図を見ると黒男神社があります。
気になって仕方がない。ついに車を降りて探検に。
この車道の向こうに神社はあるだろうと思い込んで行くと、反対側だと教えられました。
この山裾を巡る道はなく、出発点へ戻って反対側へ。
でも、途中で、こんな姿が撮れました。見事な神奈備です。
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道路と山の間には川が流れています。

戻って川を渡ると大きな案内板が。(な~んだ。)
それに従って、新幹線のガードを二度くぐって、神社へ着きました。
参道の上には変電所らしき建物が建っていて、横には新幹線のトンネル。
神社は山の麓に肩を寄せるようにしてありました。

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鳥居は川の方にありました。
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神殿です。後は黒男山です。
これですべてなのですが、ここには驚くほど古い歴史が残されていました。
境内にあった由緒書きを現代語にしながら写します。
黒男神社由縁の概略
第八代孝元天皇―太彦命―武渟川別命阿部家祖先
           L 第九代開化天皇―第十代崇神天皇
           L 彦太忍信命―屋主忍男武雄心命―武内宿禰

筑前国粕屋郡山田村字カタ山という山麓に黒男神社という社あり。鎮座の由来は人皇の始め神武天皇より第十四代の帝・仲哀天皇の御代に始まる。

仲哀天皇の御代、日向の国に熊襲という賊がいて、勅命に従わなかったので、之を討伐しようと、都より筑前国香椎村に行幸され、大宮を造られた。

皇后(神功皇后)諸大臣と国賊討伐の議を計られ之を討たれたが、利あらず、仲哀天皇香椎宮で崩御された。討伐についてのご神託をお聞き取らなかったせいでと、皇后は深く悲しまれ、ご神託の報いなのだろうと考えて、罪をあらためようと香椎村の隣である山田村(昔は小山田村と言う)に斎宮を造られた。これが聖母屋敷(上山田)である。

この斎宮に三月一日を吉日として主ら神主となり七日七夜籠られた。この御神事の隙をついて賊が襲ってくる事をおそれ、2月29日より武内大臣(宿禰)を大将として、カタ山に陣を張った。昔はかため山と言ったが、中昔よりカタ山という。

この時、皇后に随っておられた太彦命の御子武渟川別命もカタ山に陣を張り、しばし足を止められている内に一子を挙げられ、その子孫が年月と共に繁栄し、数十戸に及んでいる。これが阿部家の先祖である。

このような由縁で武内宿禰の薨去後、同氏人たちは祖先である事とて御社を新築し、大臣の霊を祭祀して黒男神社と唱え、29日は由縁のある日として祭日とし、祭儀を怠らなかった。

昔は本殿、拝殿、石の玉垣、石の鳥居が完備して神社として繫昌していたが、天正年中の世の乱れの時、薩摩の軍兵が立花城を征したおり、兵火にかかり、焼滅しその後、幾多の災禍を経て、文政8年本殿を再建した。今日の本殿がこれである。

明治の代に入り、玉垣と鳥居も再進された。同氏の人々の敬神厚く、遠近の郡村より参詣する人が絶えなかったという。

武内宿禰は第8代孝元天皇の御孫の屋主忍男武雄心命の御子で第12代景行天皇の御代より成務、仲哀、神功、応神、仁徳の6代におつかえした名臣であり、百司を統べ、万機を司る国家の棟梁であった。

祭日
毎年2月29日は祈念祭
6月29日は全氏人の祭籠

一年間、周囲の神社を逍遥した今、この由来書に何が書いてあるのか、
私は理解出来るようになっていました。

この神社は仲哀天皇が筑紫に来た時に随っていた武渟川別命
子孫の阿部氏武内宿禰を祀る宮でした。
西暦200年の頃から1800年も連綿として祀り続けてきたという、歴史ある宮でした。
古代の道である川と、登れば遠望できる黒男山、そして、山に向かって祭祀する神殿。
この神社の廻りは古代の風景が変わらず残っていました。

そして、ここは聖母屋敷とも呼ばれる山田の「斎宮」を守るための陣営の跡地でもありました。
ここに陣を構えるまでのストーリーを追ってみましょう。

熊襲征伐の為にやってきた仲哀天皇は香椎宮で亡くなってしまいました。
理由は、三韓征伐を勧める神託を受け入れなかったという事です。
(これは、矢の傷の悪化の為だとも言われています。)
ご遺体は武内宿禰によって、下関市に船で運ばれましたが、
彼が戻ってくると、天皇の崩御の原因を知る為に再び神託を求めました。
それは、「小山田の斎宮」でなされました。
そうして、それが天照大御神の神意による事が分かると、
神託の通りに祭祀をして、無事に南朝鮮での戦いに勝利を収めました。

その「小山田斎宮」を伝える斎宮が二か所あって、
この黒男神社の由来書では、この近くの「山田の斎宮説」を取り入れています。
由来書から伺えるのは、熊襲などの反撃を恐れて、
斎宮へのルートであるここに陣を張って守りを固めたという事です。

その時、武渟川別(たけぬなかわわけ)命もいました。
この人は父の大彦命とともに四道将軍と呼ばれた人で、
記紀にも登場します。
この武渟川別と地元の娘との間に子供が生まれて、阿部氏の祖になったという事です。

この阿部氏は武内宿禰が亡くなったと聞いて、
この黒男神社に武内宿禰を祀り、現在に至っています。
1800年もの間、兵火に遭いながらも、
変わる事なく祭祀が行われていた事は驚きです。
調べると、黒男神社は宇佐神宮や大野城市などにもあって、
やはり武内宿禰を祀っていました。

この由緒書きのお蔭で、山田の「斎宮」を守るための
古代の陣営のようすがはっきりと見えて来ました。    (つづく)
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黒男神社の全容


この歴史を理解するためのお散歩コース

◆香椎宮 (1)古宮を訪ねて
     (2)古宮はスピカを祀る日振宮(ひふりのみや)だった
     (3)天皇の崩御をどうやって隠す?
◆小山田斎宮 オキナガタラシ姫の神懸かりの地を捜して
◆山田の斎宮 (1)神功皇后の神懸かりの地を捜して 二つの斎宮候補地
       (2)二つの斎宮の謎が解けた

『古事記の神々』 神功皇后 武内宿禰


地図 黒男神社 香椎宮 山田の斎宮 小山田の斎宮



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by lunabura | 2011-01-14 14:32 | 黒男神社・くろどん・粕屋郡 | Trackback | Comments(10)

黒男神社(2)武内宿禰がすべてをかけて守ったもの


黒男神社(2)
武内宿禰がすべてをかけて守ったもの

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この黒男神社の由緒を見ていて驚いた事があります。
それは阿部氏の人たちが祀っているのは
自分たちの先祖の武渟川別(たけぬなかわわけ)命でなく、武内宿禰だという事です。
武内宿禰はそれほど敬愛されていたのだろうか。

その時思い出したのが、「山田の斎宮」で「斎宮に係わりある上山田邑の古地図」を見かけた事です。
確かそこに、この黒男神社の名前があったぞ…。

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やっぱりあった!これがその古地図です。
ガラスで反射して見えにくいのですが、
「黒男神社」「武内宿禰を祭る」「片山(かための山)」と書いてあります。
すぐ横には「警固担当・武内宿禰」とあります。

これは、神功皇后母子を警固した時の陣容の地図だ!
面白い!地形が変わっていないなら、そのまま再現出来る!

こうして古地図を航空地図に載せてみました。
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地形を観察すると、聖母屋敷(斎宮)が盆地の中央にあるのが見て取れます。
聖母屋敷の廻りに堀川を巡らし、上と下を兵士で固めています。
そして、東西南北の眺望のきく山にも陣営を敷いています。
香椎宮との唯一のルートのど真ん中には黒男神社があります。
すぐそばで武内宿禰が警護しています。
いかなる敵の侵入も阻む覚悟が見えます。
陣営に詳しい人が見ると、緊急でかつ最強の布陣らしいです。

これから分かるのは、三韓や熊襲たちの反撃を想定して、
香椎宮から、より守りの固い奥の地に宮を移動した事です。

武内宿禰が守っているのは、神功皇后と生れたばかりのホムダワケの命

側近や百官たちも収容しないといけないので、広さも確保できる、この地形を選んだのがわかります。

私が一年前にこの聖母屋敷を記事にした時には、
この地を選べる人物は海人族の阿曇族だろうと思ったのですが、
今回、彼らを掌握していたのは武内宿禰だと分かりました。

神功皇后の立場を考えると、
冬に仲哀天皇が死に、次の冬に男の御子が生れました。
知る人はいなく、土地勘はなく、武内宿禰だけが頼りです。
戦争は終わり、子供を育てることに専念したい。そして、この御子を天皇につける策を練りたい。
それに、夫の仲哀天皇は下関の豊浦宮でモガリのまま…。

ここで話し合われたのは、ホムダワケ命を天皇にするにはどうしたらいいか。
そのために皇位継承権のある大和の二人の兄皇子たちをどうするか。
仲哀天皇の死をいつ公表するか。大和地方へ何としても行かねばならない。
100%安全なルートは海路か陸路か。徹底して戦略が練られ、雪の解ける季節を待って、
山を越えて周防灘に抜けて、そこから船に乗っていく事が決定されました。

武渟川別命も神功皇后を守って、この地を去って行きました。
残されたは妊娠中か、すでに出産していたのか、そんな話も阿部家には伝わっているのかもしれません。
神功皇后とその御子を心から大切にした武内宿禰は、阿部家の娘と子供のことも、気を配ったのでしょう。
だから、阿部家は武内宿禰が亡くなったと聞いて、ここに厚く祀りつづけたのではないかと思いました。

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黒男神社のそばの川です。この川をさかのぼると聖母屋敷に着きます。直線で1.5キロです。

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(1)風と海と空の中の宮 海と勝利の神々が勢揃いだよ
(2)紅白の旗がここで初めて織られたよ。
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(4)武内宿禰の荒魂と和魂が祀られていた。荒魂・和魂とは何だろう。
(5)沈鐘伝説と海女





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by lunabura | 2011-01-13 20:51 | 黒男神社・くろどん・粕屋郡 | Trackback | Comments(2)
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