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カテゴリ:志式神社・ししき・福岡市( 10 )

奈多の浜 玉垂たまたれ


玉垂
たまたれ






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福岡市の東区、海の中道の東に奈多の浜がある。










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神功皇后はここで軍議を開かれたという。


ここはかつて和白(わじろ)の一部だった。



安曇族の拠点だ。








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皇后はここを水軍の本拠地とされた。








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ここに祀られている三良天神(さぶろうてんじん)は荒ぶる神。

火明(ホアカリ)神、火酢芹(ホスセリ)神、豊玉姫神。






皇后は七日七晩神楽を奉納された。






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そこでここを神楽岸、躍坂(おどりざか)と呼ぶようになった。











久留米市の高良玉垂宮はこの様子を縁起に描いている。








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金の亀に乗った安曇磯良は鞨鼓を胸に下げて踊りながらやって来る。

磯良に向かって舞うのは八乙女たち。

ここで干珠満珠の秘法が授けられた。

左上、豊姫が武内宿禰に干珠満珠を手渡している。






海神豊玉彦の姫神・豊玉姫が荒ぶる神となってしまったのは、
子を育てられなかったからだろう。

泣く泣く帰る綿津見の宮は対馬にある。


手放した子の名前はウガヤフキアエズ。

自分の代わりに妹の玉依姫が我が子を育ててくれた。
そして後に 二人は夫婦となる。
母系制の名残と思う。

二人には子供がたくさん生まれ、その一人が神武天皇となった。


神功皇后はその末裔だから、豊玉姫の哀しみを深く受け止めたはずだ。







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連れていた八乙女たちを海神に捧げた。



七日七晩、奏上された神楽。






その誠意を受けて、同様に豊玉彦の神裔たる安曇磯良は
干珠満珠の秘法を神功皇后に渡す。






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神楽では海神が豊姫に渡している。

豊姫は武内宿禰にそれを渡した。

豊姫は神功皇后の妹だが、武内宿禰の妻となっていた。










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この物語の現場からは相島(あいのしま)が見える。













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豊玉姫と山幸彦はその島で出会った。

対馬を拠点とする豊玉彦と豊玉姫と玉依姫の出屋敷があったと考える。






ここは安曇の消された物語の舞台。

玉垂の浜。たまたれ。

奈多の浜。








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和布刈神事の舞台でもある。






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『日本書紀』も『古事記』もこの物語を消し去った。

しかし、こうして物語は蘇った。







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『神功皇后伝承を歩く』下巻72志式神社
上巻26 高良玉垂宮








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by lunabura | 2016-07-09 20:58 | 志式神社・ししき・福岡市 | Trackback | Comments(0)

三六九神示 彦火明命


三六九神示
みろくしんじ
 彦火明命
ひこほあかりのみこと


『三六九神示』 平成二十年六月二十四日

京都上賀茂の別雷神(わけいかづちのかみ)の母、玉依日女は力の強い神であるが、その母は丹波伊可古夜比女売(たにわのいかこやひめ)であるぞ。父は建角身命(たかつぬみのみこと)と申し、八咫烏の事であるぞよ。その玉依日女の神霊(みたま)は龍宮の玉依毘売命であるぞよ。

神代の神々の神霊(みたま)は血脈(ちすじ)の因縁の身魂(みたま)に宿りて働くのであるぞ。

別雷神は天橋立(あまのはしだて)真名井原(まないはら)に坐(ま)す彦火明命(ひこほあかりのみこと)と、異名同神と申してあるぞよ。

彦火明命は海人族(あまぞく)の祖であるぞ。

海人族は日の本の国開きに陰となり、日なたとなりて活躍し、日本の礎(きそ)を築いたのであるぞ。

ぐるりと海でかこみて守りてある日本の国、龍宮の守護を忘れてはならぬのであるぞ。天(あめ)の恵み海(あま)の恵みあっての日本であるぞ。
                     天橋道士龍華斎 修聖拝写
  
                 
三六九神示は籠神社に現在も降り続けている神示です。
籠神社といえば、元伊勢で有名ですが、祭神は彦火明命。

天照国照彦火明命の一部ですので、饒速日命(にぎはやひ)のことです。

この神を祀り続けているのは海部(かいふ)氏で、
その氏神は海神(わたつみのかみ)です。

海神が祖なら安曇族となるのですが、そう考えていいのでしょうか。

三六九神示には「彦火明命は海人族の祖」とあります。



「天火明命」と「彦火明命」は同神とされることもあります。
志式神社の荒ぶる神々の中に「天火明命」も含まれています。

龍の都は志賀海神社。
その祭神、玉依姫の神霊が血脈の玉依日女に懸って働いてあります。

海人族が日本を開いて、基礎を作り上げました。

「ぐるりと海でかこみて守りてある日本の国、龍宮の守護を忘れてはならぬのであるぞ。天(あめ)の恵み、海(あま)の恵みあっての日本であるぞ。」

志賀島と籠神社は深い縁で結ばれています。



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二つの極楽鳥花。
朝はしっかりと重なり合っているんですよ。





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by lunabura | 2014-10-30 20:41 | 志式神社・ししき・福岡市 | Trackback | Comments(6)

ちょっと



ちょっとパニックを起こしています。

昨日は友人に久しぶりに会ったら、
「許斐山が見えたのは糸島の白髭神社だったもんね。」
「あ、そう?覚えてたの?」
「ここが何処と其処と繋がってるとか言ってたよ。」
「あ、そう?」
私は何も覚えていない。

さらに友人
「光岡神社は宗像大社の元宮というからね。」
「え?そうなの?その光岡神社の元宮が許斐山らしいよ。」
光岡神社は文字通り岡が光ったらしい。
光の写真が取れる事でスピ系の人に人気。

まさか、こうして
許斐山―光岡神社―宗像大社と繋がる?
三女神が神威を顕したという神興神社も近い。

ついでに宮地嶽神社の在自山も、江戸時代の人は三女神だと言っている。
楯崎神社は何度も書くけど大己貴と宗像姫が力を合わせて戦ったところ。

もっと、ついでを言うと、宗像大社は「大国主」だという人が何人かいる。
探究して行くとどうしてもそのような部分が見えて来る。

そんでもって、まだブログには書いていないけど、
神武天皇社がそのエリアにある。

英彦山の縁起を読んでからこの福津市~宗像市のエリアを見ると、
大己貴と三女神が濃厚な分布をしている。

地図に書くと分かりやすいでしょうけど、只今混乱中。

そして、志式神社の三良天神の火酢芹神を訳している途中だけど、
もう一柱の祭神火明神とセットで英彦山の高住神社に祀られているという。

タカスミ
鷹のつながりで、久留米市の高樹神社、星野村。
そこにある御良神社は、御霊神社の好字だという説を発見。
そう、この志式神社の三良天神も、三霊天神だった可能性がある。

星野村のハムヤ舞いの発祥は大和町の鷹尾神社の可能性が大きい。
やはり鷹。
ただし、ここの人たちは神功皇后ファン。
高良別宮として格別だったらしい。


そんなこんなで、英彦山を中心にバラバラなものが繋がり始めて、
パニック。
今日は余りに天気がいいから許斐山に行ってみようと思ったけど、
結局行かずじまい。

ネットで見ると、熊野神社に三女神の名前が残るが、
頂上はスサノヲらしい。大己貴は深層にあるのだろう。

まだまだ、つながる。
オオガ様 - 大己貴神社 - こうやの宮の住所は太神(七支刀)

という事で、分かりにくい内容となりました。

でも、忘れるから、メモしておきます。

地図 許斐山 英彦山 星野村




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志式神社 奈多の浜



カテゴリはどこに入れておこう。
やはり志式神社かな…。






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by lunabura | 2013-04-08 21:21 | 志式神社・ししき・福岡市 | Trackback | Comments(4)

志式神社(7)荒ぶる神 火酢芹神 大人になって読む海幸山幸


志式神社(7)荒ぶる神 火酢芹神

もう一人の海幸彦
大人になって読む「海幸山幸」

志式(ししき)神社に戻ってきました。

神功皇后の祭祀した神々を見て行くと、
天皇家の一員である皇后が畏れていた神々や、心の支えとした神々が分かり、
彼女の生きた時代より前の筑紫の神々の分布が浮き彫りになるという
思いがけない収穫がありました。

この志式(ししき)神社は、
神功皇后が神楽を舞って荒ぶる神々を御慰めした神社です。
   
当社の「三良天神」を改めて書いてみましょう。

 火明(ホアカリ)の神 (ニギハヤヒ)
 火酢芹(ホスセリ)の神 
 豊玉姫神

この「三良天神」(さぶろうてんじん)が荒ぶる神として祀られていたということです。
この神々は「天神」であり、しかも「良」という字が当てられています。
怒りを鎮めるためでしょうか。
この三柱は「まつろわぬ神」ではないのです。
「天神」なので天皇家の流れでもあるのです。

今回はその中の一柱、「火酢芹神」について調べて行きましょう。

3年以上前に「志式神社(5)哀しき神々たち」を書いたときは、
「火酢芹神」とは、山幸彦海幸彦の三兄弟の中の一人であり、
山幸彦と海幸彦の間で歴史に埋没した神だと認識していました。

「ホデリの命」だけを「海幸彦」と思っていたのです。
しかし今、改めて『日本書紀』を開くと、いくつもの異伝が載せてあり、
「火酢芹神」を「海幸彦」としたものも在るのが分かりました。
つまり、「海幸彦」は二人いたということです。

誰が誰だか、分かりませんよね。
ますは、久し振りに馬見神社に掲載した系図を引っ張り出しましょう。

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さて、この系図では「火酢芹命」は三人兄弟の次男として書いていますが、
これがオーソドックスな系図だと思います。

これはこれで間違いではないのですが、先程書いたように『日本書紀』の異伝には
「火酢芹命」を「海幸彦」とした話も記載されていました。

ですから「海幸彦」は記録によって、
「ホデリの命」だったり「ホスセリの命」だったりしていたのです。
どうやらこの志式神社では、この火酢芹神を「海幸彦」として祀ったようなのですね。

「山幸彦」と「海幸彦」の物語を大人になって読んでみましょう。
新しい発見があるかも。

では、別伝を訳してみます。 
ある本にはこう書いてあります。
兄の火酢芹命は海の幸をよく得ていました。
弟の彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)は山の幸を得ていました。

ある時、兄弟は互いにその幸を取り替えようと思い立ちました。
そこで、兄は弟の幸弓(さちゆみ)を持って山に入って獣を狩りに行きましたが、
獣の乾いた足跡さえ見つける事ができませんでした。

弟は兄の幸鉤(さちち)を持って海に入って魚を釣りましたが少しも釣れませんでした。
ついにその幸鉤を失ってしまいました。

そのあと兄は弓矢を返して、貸した幸鉤を催促しました。
弟は悩んで佩いていた横刀(たち)で釣り針を作って
箕(み)一杯に盛って兄に差し出しました。
しかし、兄は受け取らずに「やっぱり私の幸鉤がいる」と言いました。

彦火火出見尊はどこを探せばいいか分からず、ただ嘆いていました。
そうしながら海辺に着いて、たたずんで嘆きました。

その時、長老(おきな)が現れて、塩土老翁(しおつちのをぢ)と名乗り、
「あなたは誰です。どうしてここで嘆いているのです。」と尋ねました。
彦火火出見尊はつぶさに事情を話しました。

老翁はすぐに袋の中の玄櫛(くろくし・縦長の櫛)を取って地面に投げると、
櫛は五百筒竹原(いほつたかはら)になりました。
そこで、その竹を刈り取って、大目麁籠(おおまあらこ)を作り、
彦火火出見尊を籠の中に入れて海に投げました。

そうして彦火火出見尊が海の底にある小汀(おはま)に着くと、
海神豊玉彦の宮がありました。
その宮は城門が高く、楼閣は麗しく壮大でした。
門の外に井戸があり、その傍に桂の木がありました。

その下に立っていると、しばらくして一人の美人がやって来ました。
美しい顔をしていて、従者たちが大勢従っていました。
玉の壺で水を汲むと顔をあげて、彦火火出見尊を見つけました。

驚いてすぐに宮に戻ると、父の神に言いました。
「門の前の井戸のほとりの木の下に貴い方が見えています。
骨格が ただびと ではありません。

もし、天から降られたのならそれらしいクモリがあるだろうし、
地から昇って来たならそれらしいクモリがあるでしょうが、
この方はとても美しい。
虚空彦(そらつひこ)という人でしょうか。」

そこで、豊玉彦は人を遣わして尋ねさせました。
「客人(まろうど)はどなたですか。どうしてここに来られたのですか。」
彦火火出見尊は「私は天神の子孫です。」と答え、訪ねた目的を伝えました。

そこで海神は丁重に迎え入れてねんごろに仕え、
娘の豊玉姫を妻として差し出しました。
こうして海宮に留まって三年が経ちました。

こののち、彦火火出見尊がしばしば嘆くようになりました。
豊玉姫は「天孫は、もしや故郷に還りたいのではありませんか?」と尋ねると、
「そうなんだ。」と答えました。

豊玉姫が父神に
「ここにおられる貴い客は上国(うわつくに)に帰りたいと思ってらっしゃいます。」
と言うと、海神は海の魚をすべて集めて、釣り針を探しました。

一匹の魚が「赤女(あかめ)(あるいは赤鯛)が長らく口が病気だと言っています。
これが呑んだのではないでしょうか。」と答えました。
すぐに赤女を召して口を見ると、釣り針が口に刺さったままでした。
すぐに取り出して彦火火出見尊に渡しました。

海神はその時、こう教えました。
「釣り針を兄上に渡すとき、呪って『貧窮のもと、飢餓の始め、困苦のもと』
と言ってから渡し給え。
また兄上が海を渡る時には私が必ず風波を起こして溺れて苦しめましょう」

それから彦火火出見尊を大亀に乗せて本国に送りました。
その別れの時、豊玉姫は
「懐妊しました。風波が強い日に海辺に出ます。
私のために産屋を造って待っていてください。」と言いました。



このあと、いくつか別伝が紹介されています。 

ひといき ^ ^


 (つづく)

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志式神社 奈多の浜




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by lunabura | 2013-04-06 19:24 | 志式神社・ししき・福岡市 | Trackback(1) | Comments(12)

志式神社(6)荒ぶる神 豊玉姫


志式神社(6)

荒ぶる神 豊玉姫


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この絵は青木繁の「わだつみのいろこの宮」です。
山幸彦と豊玉姫の出会いのシーンです。

山幸彦の顔をしげしげと見ると、
若くて迷いの多い年頃の青年として描かれているのが分かります。
桂の木の上にいますが、背景は海藻のようです。

豊玉姫は左の赤い薄衣の女性です。
横顔からは少し年上のように見えます。
いずれも下からの光を受けて独特の神秘性を醸し出しています。

右にいる白い衣の女性は侍女でしょう。
水を汲みに来てそこに若者の顔が写っていて、驚いて見上げているシーンです。

神話のストーリーでは、その後豊玉姫がやってくるのですが、
それを破綻ない構成で見事に描いています。

三人の髪の毛の色が茶髪ですね。
青木繁の生きた時代は黒髪の人しかいなかったので、
現代の男女を見るようで、不思議な感じがします。

日本であり、かつどこか異国の情景を見ているかのような
芳しく豊かな神話の世界です。

豊玉姫の右手から下の方に水の泡が描かれていて、
これが海の底の物語だと暗示しています。

私はこの青木繁の絵が好きで、小学生のころ、
一人で何度も美術館に行っては見たものです。
小学生…十歳の頃なんですね、この絵に出会ったのは。
今見たら、意外に小さく見えるかもしれないな…。



それから時が経って、今。
三年前、豊玉姫を現代語訳してブログにUPしたのですが、
訳をしながら上手く行かなくてハタと困ったことがあります。
私はこの絵の影響を受けて、海神豊玉彦の宮は海の底にあると
完全に思い込んでいたのです。

そろそろ自分の訳を見直さないとイケない時期なのですが、
ちょっと見直す気になれない。

豊玉姫の出産シーンは亀の出産シーンそのものです。
ワニの訳で悩みました。
通説のサメではなく亀で訳した記憶があります。
こんな訳をするのは私ぐらいですから、勇気がいりました。
ワニはバニに通じ、フトマニのマニに通じる。
亀の甲羅を焼いて占いをした時代のワニとは亀のこと。

亀は神。
豊玉姫は本来の亀の姿に戻って出産したことになっています。
しかし妹の玉依姫は人間として問題なく出産している。

どうして豊玉姫は山幸彦と添い遂げられなかったのか。
子を自分で育てる事ができなかったのか。
妹だけが何故留まったのか。

そこに倭国の始まりの秘められた政情があるのではないか。
日本の歴史はこの時代にも捻じれを起こしている。
その謎を解く事は出来るだろうか。

妹の玉依姫は志賀海神社に祀られているのに、
豊玉姫の名前がない。

そして豊玉姫はこの志式神社に祀られています。
荒ぶる神として。
いったい何が起こったのか。

それを神功皇后が七日七晩、神楽で慰撫したというのですから、
神話に残されない哀しい出来事が秘められているのでしょうね。


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ここがその舞台。奈多の浜です。
日本の海が何処も美しかった時代にあっても、
この浜の美しさは名をとどろかせていました。
左に見えるのが志賀島です。
(つづく)




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by lunabura | 2013-03-15 21:18 | 志式神社・ししき・福岡市 | Trackback | Comments(0)

志式神社 (Ⅰ)海と松林の宮

志式神社 (Ⅰ)
ししき じんじゃ
福岡県東区大字奈多字宮山
海と松林の宮


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福岡県東区の三苫の方面から志賀島に向かって車を走らせると、
右側に深い緑の松林がずうっと続きます。
その向こうには美しさで屈指の奈多の浜があるのですが、
豊かな松林のせいで、海の傍を走っている事も気づきません。

志賀島の海に向うゲートのようでワクワクして来る頃に志式神社の案内板が目に入ります。

志式神社はその豊かな松林の中にありました。
車を降りると、松の葉が砂の上に落ちています。


一歩踏み込むと、松の木の香りに包まれました。
ほの暗く、ほの明るい。
ここは白砂と青松の作りだす異界です。


鳥居をくぐって石段を上る所で空気が変わります。
見回すと圧倒的な高さを誇る松のドーム。
そして拝殿へ。
その中で手を合わせると、優しさに包まれるようです。


目を開けると、正面には板が渡してあり、不思議な盛り砂がいくつも。
どうやら、脇にある桶の砂を一掴み取ってお供えするようです


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説明板がありました。
お潮井
奈多では奈多浜のお潮井(真砂)をテボ(篭)に入れ、
家の玄関口に備え、外出の時、身に振りかけて、災厄からのがれる事を祈り、
家屋の新築の際には敷地を清め、田畑に撒いては豊作、虫よけを祈ります。

この起源は非常に古く、神代に神々が行われた禊払に基づくものです。
又、毎月1日、15日はお潮井汲みが今日も続けられております。
                      昭和59年厄除記念
                              41才同年中

お潮井は箱崎宮が有名ですが、そこに限らないのですね。
これについては、面白い話を見つけました。すぐ後ほどに、まとめて書きます。
さあ、有り難く、砂をとって、盛りましょう。


さあてっと御祭神はどなただろう。
上を見上げると、説明板がありました。現代語に書き換えます。

「神功皇后が三韓に進軍された時、この奈多の浜に鎮座される荒ブル神のお前で、
戦勝の神楽を奏して戦地に向かわれた。

ここを神楽岸、または躍り坂と伝え、当時神功皇后の料理に奉仕した祖先の意思が受けつがれて、
今日の早魚(はやま)神事として伝承されている。

いにしえは三郎天神と称えて、後に志々岐三郎天神と称えたのは
志々岐の三郎が勧請合祀した為だろう。明治の代になって志式神社と改称された。

祭神は
   ホアカリの神 ホスセリの神 豊玉姫
   十域別神 雅武王 葉山姫神   
で、火難、盗難、難産を免れ、家運を開く神として広く世に知られる。-略―


(あれっ、ここにも神功皇后が来てる。三韓に進軍された時?
なるほど、いよいよここで戦勝祈願をして、出征されたのか。

その荒ブル神がホアカリの神とホスセリの神?

豊玉姫は海神の娘で自分のご先祖だし。この姫神に航海の安全を祈ったんだな。)

そう思いながらも、ルナのお楽しみの裏にある松林と海へ。

 お宮の右手に、海に続くその小道があります。
古いゆかしい鳥居をくぐりぬけると、そこは松林の中。
松の木でできた巨大な空間はまるでドームの中にいるようです。
ここは格別、松林の魅力にあふれた場所。

松林は見通しも明るく、心が高揚してきます。
足元の落ち葉と砂で出来た道は、今の時代となったら、
贅沢きわまりない、散歩道です。

平坦な道を歩くとすぐに道は下り坂になります。
その坂はコンクリートで作られていて、手すりまでついています。
きっとお祭りの日には、お宮からこの坂を通って、
お潮井を汲み取りに行くのではないだろうかと、想像しました。


「ここの砂は砂時計に使えそうな細かい砂だね。」
とルナパパ。
「そう言えばそうね。」
ルナはそう返事をしながら、沖縄の星の砂なんかを思い出していました。

その坂を下りる途中から、もう海が目に入って来ます。潮騒が呼んでいます。

松の木に遮られていた視界が一歩ごとに開けて行くと、
わあっ。きれいな海!
砂に足を取られながら、汀に立ちました。


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 そこは穏やかな海。
透きとおった海の色はベージュ色の砂が透けて見えて、
柔らかな空色です。
あちこちに市民が憩う姿が見えます。
海は入り江になっています。

左に志賀島。正面には相島(あいのしま)。
右手には三苫の磯崎鼻が見える。

そう、ここは奈多の浜。

格別に美しい海です。
神の杜として、昔から人々が大切に守って来た松林と砂浜。
人を受け止めてくれる、優しい表情の浜辺です。

私は左にある護岸によじ登って、とっ先まで行きました。
そこに座ると、水は透明で緑がかっています。
底の方には、波が作る砂紋が見えます。

波は一瞬たりともとどまることを知りません。

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そして水平線に目をやれば、船で漕ぎ出したら、すぐに届きそうな島々が見えます。

「こんな美しい奈多の地に鎮座される火明命とはどんな神様なのだろう。」
と考えました。

火に関する神様で、火難除けとして人々に祀られているのは、
もちろんのことでしょうが、もっと深い意味があるのだろうと思うと
真実を知りたいなと、つい考えてしまいます。

何度か足を運んでいるうちに思いがけなく氏子さんからいろんなお話が聞けました。
 

                        (Ⅱ)へつづく  

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by lunabura | 2009-11-23 14:46 | 志式神社・ししき・福岡市 | Trackback | Comments(4)

志式神社 (Ⅱ)万年願と早魚神事と神功皇后


志式神社 (Ⅱ)

万年願と早魚神事と神功皇后


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神社のお話が聞けましたよ。

 秋の日、朝からお参りに行くと、氏子さんが掃除をしていました。
そこでお話を伺いました。

「境内横の大きな穴はどんど焼きでもするのですか。」
「そうですよ。毎年決まった日にしています。
ここは、もともと、三良(さぶろう)天神が祀ってあって、祠の形でした。
昔、奈多の町が大火災に遭った時に、この神が助けられてから、
大きな拝殿を建てたそうです。」
といって、参道の左の足元にある、三良天神の鳥居の額を教えてくれました。


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「へえ、これがそうなのですか。」
聞かなければ、見逃してしまう所でした。

「それから、感謝の思いを万年後も伝えるために、7月19日~20日に、
踊りを奉納する「万年願」の祭りをしています。
神社に入ってすぐ右の方に建物があったでしょう。
そこで、踊るのです。」
「ああ、あれは舞台だったのですか。」
普段は閉まっているために、使っているとは思いもしませんでした。
志式座と言います。
明治時代に伊野天照皇大神宮からここに移籍して、
改築しなら大事につかってあるものだそうです。
(このまえ掲載したばかりの伊野皇大神宮から来ていたなんて、
嬉しくなっちゃいます。)


早魚神事が聞けたよ。

「また11月19日~20日は早魚神事をしますよ。
『はやま』と読みます。

真冬の夜中に、この下の海の中で禊をした若者衆が、階段を駆け上がって、
境内で着物に着替えて、網元の家に行って神事をします。

今ではそれが手狭になって、公民館になっています。
 公民館では夜7時から御神楽を演じて、神事を迎えます。
舞台には二匹の大鯛がおかれ、二人の青年によって、さばかれます。
そして、どちらが神に先に奉納するかが競われる神事です。」

「鯛はウロコを取ったりするのですか。」
「いえ、もう、ざっと二枚にするだけです。あっという間です。」
「そして、どうなるのですか。」
「神官がいて、その人にどちらが先に奉納するかを競うのです。
昔は、漁師がしていましたが、今では人が少なくなったので、地元の青年団たちがしています。」
というお話でした。

この神事で翌年の、漁場が決まるらしく、公平にするために、
当時の夜だけリハーサルをして、くじで決められたそうです。

この神事の由来は分からないという事でしたが、
その答えは、拝殿の上にちゃんと書いてありますよ。

1800年ほど昔、神功皇后に捧げた鯛のお話を神事として伝えているのです。
これはすごい事です。
神事のパワーはこんな所にあるのですね。
先人達がどうしても子孫に伝えたい事を、
こうして神事にしておけば、毎年その話を思い出す。
先人の知恵が、ここに、こうして実っています。

「早魚」を「はやま」と読ませるのは面白いです。
ルナは実は、これを見た時「はやゆ」と呼んでしまいました。
古文の授業で「魚」を「いを」とか「いゆ」とか読んだのを
覚えていますか?
奈良時代には「はやィゆ」と読んだんだろうなと思ったのです。

実は、中国語を三年前から習っているのですが、「魚」の発音の難しいこと。
口を「い」と「え」を発音する形にして、「ゆ」を言うのです。
なんだ、これって、古文の発音じゃん。
日本語で書こうとすると、「いを」「いゆ」「を」「ゆ」としか書けないのです。

現代人でも、発音が難しいのです。
ましてや、部族で言葉が違った大昔、
「はやィゆ」と言われて「え?え?」と聞き返しただろうなと思いました。
今でも、必ず「え?はやま?」って聞き返しますもんね。

それで御祭神の一人、「葉山姫」の「はやま」と関連付けて、
「ハヤマでよかたい」、となったような、印象を受けました。

追記
籠神社を調べていたら、笑原魚居神社というものを見つけました。
「えばらまない」と読むそうです。

そこで「まな」で辞書を引くと「真魚」で「まな」と読み、
おかずになった状態を、そう言うとか。
「いを」は生きた魚だそうです。

すると、「早魚」は「はやまな」とか「はやな」とか、
言っていたのかも知れませんね。

で、やっぱり、「はやま」でよかたい…?
と聞こえてきそうです。

さて、拝殿の正面に板が渡してあり、砂が一つかみずつ盛ってあります。

「このお汐井は?」
「家に皆さんが持ち帰って、清めに使うのです。」
「砂はここのですか?」
「すぐになくなるので、浜から私たちが取ってきます。」
あの急な坂を上り下りして、重い砂を取って下さっているんですね。
御苦労さまです。


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さあ、核心の神功皇后を聞いてみましょう。(ドキドキ。)
「神功皇后がここに来られたように書いてありますが。」
「そうですね。でも、この辺は神功皇后ばかりでしょうが。
私は信じません。」
「ほんと、このあたりはその話ばかりですよね。」

ルナも『ひもろぎ逍遥』で、神社の伝承めぐりをしているだけなのに、
なぜか、神功皇后の追っかけレポーター状態なのですから。
とにかく、ここら辺は神功皇后の伝説だらけなのです。
この伝承をつなげば、彼女がいつ何をしたか、日記にでも書けそうです。

氏子さんは「信じません」と抵抗されますが、それが却って、
彼女の伝説の多さを物語って、伝承に重みを加えていて面白いです。

「ここは、丘でしょうが。ここで神功皇后は軍の会議を開いたそうですよ。」
「え?ここで、ですか?」
氏子さんは境内をぐるりと指し示しました。
広い境内には松林がありました。

 正面鳥居から入ると、石段が十段だけで、平坦な地形だと思ったけれど、
ここは丘だったんだ。
確かに、裏の松原にでると、急勾配で海に降りて行くのを思い出しました。
そうか、海から発想するべきなんだ。


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(やったあ、もう見つかった!
日本書紀に和白(わじろ)で軍衆会議があったというのがここ?)

確かに、この広さがあれば、軍の要人たちや、兵士たちも駐屯できる。
神功皇后が軍勢を解散したといわれる、
大分宮(だいぶぐう)の広い境内を思い出しました。
(あの宮も広かったし、ここもそう言えば広い所。)
(大分宮については、別稿で。)

(でもここは和白じゃない。どうしたら解明できるのだろうか。)
と思いました。

ここは奈多です。

ところが、すぐその後、訪ねた公民館の方が何気なく、
「昔は奈多と三苫(みとま)と和白を合わせて、和白と言っていました。」
と教えてくれたのです。
それなら伝承どおり、ここで軍衆会議があったと取っていい。

拝殿は何故海を向いていない?

「もともと、祠の時には海の方を向いていたんですが、
拝殿を建てた時に反対向きに作られました。」
(なるほど。やっぱり昔は海を向いていたんだ。)
これも謎が解けました。

この玄界灘に面した大きな神社はみんな、海を正面にしているのです。
ですから、(この志式神社は何故海を背中にしてるの?)
と思っていたのです。これも謎が解けて、嬉しかったです。

「11月19日に早魚神事がありますから、見に来て下さい。」
「はい、是非行きます。」

氏子さん、いろいろとお話を聞かせていただいて、ありがとうございました。

という訳で、お祭りへいざ。

                         
                       (Ⅲ)へつづく
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by lunabura | 2009-11-22 00:00 | 志式神社・ししき・福岡市 | Trackback | Comments(2)

志式神社 (Ⅲ)早魚舞―乙太夫の天神尋ね―

志式神社 (Ⅲ)
ししきじんじゃ

夜神楽を見て来ました。

「早魚舞(はやままい)」―乙太夫の天神尋ね―

11月19日

夜の11時半から早魚神事があり、それまで、
8時から浦安の舞いや神楽があると聞いて、
9時過ぎに、奈多公民館に行きました。

玄関に立つと、敷き詰めたゴザが目に飛び込んできました。
気分はそわそわ。

舞台には紅白の垂れ幕があって、すでに神楽が始まっていました。
神楽を奉納するのは宇美神楽座の方々。
ここの神楽は明治時代に、宇美神社の氏子さんたちによる神楽に
引き継がれたそうです。

正面の紺の幕には「早魚神事」。
この神事を象徴する二匹の鯛が踊っています。

志式神社の夜神楽だァ。

一部ですが、写真とともにお楽しみください。
 

久米舞

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折敷に米を入れてぐるぐる廻って舞う。
折敷の米が落ちないのが見どころ。
舞い終えたら、その米は人々に配られました。
もちろん、ゲット。



オロチ退治

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スサノオノ命は嘆いている老夫婦に出会って訳を聞く。
すると、ヤマタノオロチがもうすぐ8番目の娘を奪いに来ると言う。


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「私がそのオロチを退治しよう。
その暁には娘を私にくれ。」


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スサノオは二人に酒を作らせて、オロチに飲ませて、
酔っ払わせて戦う。


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スサノオはオロチを殺して、クシナダ姫を妻にする。



 磯良舞      (武内神 豊姫神 磯良神 海神)
  いそらまい

神功皇后らが新羅へ進軍する時のお話です。
48艘の船団でいよいよ新羅へ。
その時、武内神が干珠満珠を貰い受けるお話です。

磯良神は大和で40万年、ひたちで40万年、
勝馬(かつま、志賀島)で40万年過ごされた神。


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いそら神が干珠満珠を海神のところに行って、貰おうとするが、
なかなかもらえず、豊姫が代わりに海神の所に行く。


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すると海神は「神楽を舞うならば、授けよう」と言う。
豊姫は神楽を舞い、海神から干珠満珠を授かる。


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豊姫はそれを武内神に渡す。



 早魚舞
(乙太夫 献魚包丁式 ひれ舞)



これは奈多だけで演じられる独自の神楽です。
『奈多の氏神様 志式神社 「お宮の由来」』から引用します。
いつものように口語訳します。

 「乙太夫の天神尋ね」 

乙太夫が舞いながら歌を詠む。

奈多の里  志志岐の宮の  七不思議
       神の御稜威(みいつ)と 仰がれにけり


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乙太夫

「天神様はいずれにおわしますぞ。
天神様はいずれにおわしますぞ。

三良(さぶろう)天神と称える神様は、
火難盗難を除き、安産を守られるご神徳がお有りになるので、
そのおかげをこうむろうと願うけれども、
何処に鎮座されているのか、全く分からない。

八雲立つ出雲の国は神々が集まる所なので、
そこに尋ねて行ったけれどもいらっしゃらない。
伊勢の国五十鈴川に詣でたけれど、いらっしゃらない。

尋ねあぐんでいると、一羽の雀が飛んできて、
「筑奈、筑奈(ちくな)」と鳴いて教えてくれた。
筑前、奈の里だろうかと、尋ねて来ると、
やっぱりこの吹上の地に鎮まられていたよ。
さあ、参拝してご神徳を頂こう。」


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乙太夫は天神様にお神酒を奉る。

天神様が盃をいただき飲もうとすると、「まあず、お待ちなされ。」
と止められて、盃を下ろされる。
「火難盗難、除きたまえ。」と乙太夫。

また、飲もうとすると「まあず、お待ちなされ。」
と制されて、再び盃を下ろされる。
「大漁、満足、守りたまえ。」
と乙太夫は二拍手拝礼してさがる。


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天神様は酒をいただき、盃と榊を持って正面に向き直り、歌を詠む。

千早振る 神代の手振り 奏でして
    御代を寿ぐ 奈多の夜神楽

右手には盃を。
左手には榊葉を添えて立ち上がり、
乙太夫の願いを聞き遂げて、上機嫌で
「あっぱれ あなおもしろし あなたのし あなさやけおけ」
と目出度く舞い納められる。





 これが「早魚舞」の中の「乙太夫の天神尋ね」です。 

乙太夫が天神さまがお酒を飲もうとするのを、
二度も制して、みんなの願いを伝える所が、
この舞の見せ所。

構成も、
乙太夫が舞って、天神とやりとりをして、上機嫌の天神様が舞を披露する、
という三部構成になっていました。


この奈多の浜を吹上浜と呼んでいたのですね。
(鹿児島の吹上浜しか知りませんでした…。)

宇美神楽座の方にお話を聞きました。 

「見事な舞を有難うございました。神職の方々ですか?」
「いえ、宇美八幡宮の氏子です。」

「何人ぐらいですか。」
「17人です。奉納は宇美八幡宮で年に二回。
この志式神社は年一回しています。」
「福岡県に神楽があったのですねえ。」
「はい、ここ以外にも福岡市内は数か所残っていますよ。」

神楽と言えば、宮崎しか知りませんでした。
もっと、福岡の人々に知ってもらいたいなと思いました。
マスコミの方が取り上げて盛り立ててくれるといいのにな。
そうして若い人たちに受け継いで貰いたいな。

この「乙太夫の天神尋ね」は全国でここだけのもの。
宇美神楽座の皆様、とこしえに、栄えてください。


さて、このあと、いよいよ早魚神事ですが、
12時をずっと過ぎてしまい、あえなく帰宅しました。
写真はなしです…。スミマセン <(_ _)>

また来年?
確約は出来ません…。
この神事の写真はネットで沢山出されています。
検索して見て下さいね。

                  (Ⅳ)につづく

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by lunabura | 2009-11-21 00:00 | 志式神社・ししき・福岡市 | Trackback | Comments(3)

志式神社 (Ⅳ) 磯良神・七不思議・お潮井とり


志式神社 (Ⅳ)
ししきじんじゃ
福岡県東区大字奈多字宮山1236
安曇族(あずみぞく)と奈多の浜
磯良神・七不思議・お潮井とり

いそら舞の神さま
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さて、いそら舞の白髪の神さま、インパクトがありましたねえ。
宇美神楽座の方の話によると、
「磯良神は大和で40万年、常陸で40万年、
勝馬(かつま、志賀島)で40万年過ごされた神という事で、御年120万歳。」
これはいったい何の暗号?

これは安曇の磯良神は大和と、常陸と、福岡の志賀島と
3か所で祀られていて、みんな同じ神の事をさすというニュアンスのようです。

 筑前国では  鹿島(しかのしま)大明神  
 常陸国では  鹿島(かしま)大明神、
 大和国では  春日(かすが)大明神    
     
と呼ばれています。

  (ルナはそれを知らなかったので、
   わざわざ常陸国の鹿島神宮までお参りに行った…。
   いえ、それはそれとして、とても良い所でしたが…。
   あとで、志賀島が元宮と知ってショックでした…。)

安曇族を辞書で引くと、 
 上つ綿津見の神の子孫。
 朝廷に仕えて、各地の海人(あま)を支配して、天皇の食事の事を司った。
とあります。

いそら神は安曇族の先祖であり、綿津見の神である訳です。
ですから、とても長生きなのですね。ナルホド。


豊姫は神功皇后の妹だそうです。  

神功皇后が新羅へ行く前に、干珠満珠を手に入れた伝説が、
いろいろ変形して、あちこちで舞われていたのですね。
そして、このお話は昔の日本人の常識だったようです。

ふうっ。
頭がだんだん混乱して来ました。浜で一服しましょ。


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この浜を昔は吹上浜と言って、有名だったんですねぇ。
左に見える島が志賀島です。
   
奈多の海 清きなぎさの 浜千鳥 踏み置く後を 波やたつらん   伊  勢
 
波風を おさめて海の 中ばまで 道ある国や 又も来て見ん    宗  祇
         
名にしおう 龍の都の 跡とめて 波をわけゆく 海の中道     幽  斎
 
                     
見て下さい。
古典の教科書に出てくる、そうそうたるメンバーが
この吹上浜で、鳴き砂や海の中道を歌ってます。

奈多の七不思議

「天神尋ね」でなぜか、いきなり雀が…登場した…
尋ねあぐんでいると、一羽の雀が飛んできて、
「筑奈、筑奈(ちくな)」と鳴いて教えてくれた。
筑前、奈の里だろうかと、尋ねて来ると、やっぱりこの吹上の地に鎮まられていたよ。
さあ、参拝してご神徳を頂こう。」

これは乙太夫のセリフです。

ここには「奈多の七不思議」のうちの二つが込められていました。
「雀が歩く」「砂が鳴く」
というのがその不思議です。

雀の足跡がくっきりと残る砂浜だという点と鳴き砂で有名だったのですね。
その七不思議の二つが神楽に込められていました。
ナルホド。

あとの五つの不思議は? 


奈多に火事がない。
盗難がない。
難産がない。
神社では波の音が聞こえない。
穴蜂がいない。

ということだそうです。

盗難の話を『お宮の由来』から 

天正14年8月、島津の軍、立花城を囲み、やがて退くとき、志志岐の社の阿弥陀仏を盗み去ったが、神罰のため、その兵は、途中で手足がしびれ、軍旅に従う事ができず、これを助けて薩摩に帰った者も、奇異な事ばかり起こるので、大いに恐れおののき、心から神に謝ったという。

これを書きながらルナはクスクス笑ってしまいました。

同じ話をこの前、伊野天照皇大神宮で書いたぞ。
島津軍はあちこちで御神体を盗んでは、さんざんな目に遭って帰ってるんだ。
それを何百年経っても、福岡でささやかれているんですねえ。
悪い事は出来ません。ハイ。

赤い岩がありました。 
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さて、この松林の奥にさっきまで居た、志式神社があります。
入り口が分かりますか?

浜から見ると、入り口が全く分かりません。

神社への入り口は竹の塀より少し手前の所です。
外敵から見えない、安全な地形です。。

  (松林は江戸時代に植林されたので、当時はただの砂丘だった思われますが。)

ここは安曇族の本拠地の一部なのです。

ずっと砂浜が続く中で、海から船で戻って来る時、
この赤岩が目印だったのかもしれないなと思いました。

こんなに低い岩ですが、
この浜の反対側の三苫浜にも同じような赤岩があります。
興味深い事に、そこの赤岩の近くにも神社があります。

その赤岩が30年前には3メートル以上の巨岩だった頃の
写真を拝見しました。
その前は島だったそうです。
それを見て、この奈多の浜の赤岩もかつて巨岩だったんだろう
と思いました。

この重要拠点を安曇族は神功皇后に提供しました。 

新羅攻めに全面協力する安曇族は彼らなりに、
なんらかのメリットがあったのでしょうね。

船と言うのは、海岸があれば、どこでも上陸できるものではないそうです。
でも、ここはすぐ近くには漁港があり、当時も今も変わらず船が泊まれます。

大きな頃の「赤岩と鳴き砂」を紹介しているサイトがあります。
見たい方はコチラ ⇒ 『海辺の散歩』⇒「がんばれ、赤岩」
            ⇒「ぶろぐ 海辺の散歩」⇒「奈多の鳴き砂」
                             「三苫の鳴き砂」


 お潮井とりは、昔の天気予報だったよ。 
お潮井取りのルーツが分かりました。

真鍋大覚氏の本に由来が書いてありました。
『灘の国の星 拾遺』から抜き書きします。

「梅雨時になると、祖先は干潟の砂が濡れ潤うことを知っていた。
そして、土用が近づくと乾くことを心得ていた。
干潟の砂を掌にのせて海の風に吹かせ、もってその渇きを見る儀式が、
今に残る筥崎宮のお汐井とりであった。」

「今は『おしよい』は、門の柱に『テボ』を掛け、これに一年分を入れ、
外に出歩くごとに振って無事を祈る。
昔は手にした砂が乾いていたら、掌から風にふかれて、散っていた。
これが大水の事無きを告げる神の託宣と心得ていた。」


この神託をするのが、巫女や神官でした。

ですから、これをマネして、人々も自宅で出かける時に砂を取って、
手に残った砂のようすで、「今日は一日晴れるぞ。」
とか、判断したのですね。
いつのまにか、これが忘れられて、
今では、払い清めだけに使われるようになったようです。

北部九州では、いろんな神社にこのお潮井が置いてあります。

なるほど、確かにこの志式神社の拝殿前の板に砂を乗せた時、
曇った日には盛り砂がきれいに出来て、晴れた日には崩れました。

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写真の中央の分は昨日のもの。(くもり)
左端のは、今朝、私が置いたもの。(快晴)
置かれた盛り砂の状態も大事な天気予報でした。


この日は二羽の千鳥が遊んでました。
千鳥 「ルナさん。まだ浜辺にいるの?」
るな 「うん。もうちょっとね。
    ここの御祭神の事をお話しないとね。」

と言う訳で、いよいよこの神社の荒ぶる神の話に挑戦です。

                         (Ⅴ)につづく

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by lunabura | 2009-11-20 00:00 | 志式神社・ししき・福岡市 | Trackback(1) | Comments(0)

志式神社 (Ⅴ) 哀しき神々たち

志式神社 (Ⅴ)

哀しき神々たち

三良(さぶろう)天神 と 志志岐(ししき)三神


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『お宮の由来』の祭神の所を見てみました。
とても複雑なので御祭神の名を整理して書きます。

三良天神…三柱の天つ神 
               火明(ホアカリ)の神
               火酢芹(ホスセリ)の神 
               豊玉姫神

志志岐三神…神功皇后の関係者 
               十域別(トキワケ)の神 (弟)仲哀天皇の兄弟
               稚武(ワカタケ)王 (兄)仲哀天皇の兄弟
               葉山姫神


これが六柱の神々の大まかな関係でした。


天神とは神代の神々をさします。
志志岐三神は神功皇后と行動を共にした人たちです。

この二組の神々は時代も役割も違うので、
別々にお話していきたいと思います。


歴史の裏側の住人となった三良天神

火明命(ほあかりのみこと)

火明命はニギハヤヒと言う別名の方が有名です。
裏日本史のヒーロー的存在です。

火明命は、神武天皇が東征する前に、すでに大和で
平和な国づくりを済ませていました。
その国の豪族のナガスネヒコの娘トミヤ姫を妻にして、
子供も出来ていました。

しかし、そこに弟のニニギノ命の孫の神武天皇が
天孫としてやってきます。
いわゆる神武東征です。

神武はアマテラスがこの国を治めるように命じたという
証拠の宝を持っていました。
それを確認した火明命は、「それならば」と国を譲る事にします。
しかし、その後、悲劇が起こります。

妻の兄のナガスネヒコが反対したのです。
その結果、火明命は、ナガスネヒコを殺さねばなりませんでした。
こうして、国を譲り、臣下となって歴史の裏側へまわる事になりました。

この神は海人族の神でもありました。



火酢芹(ホスセリ)の神 

この神はコノハナサクヤ姫の子供です。
三人兄弟として、火の中で生まれました。
このうちの二人は、有名な山幸彦と海幸彦です。
二人は今でも語り継がれていますが、
この火酢芹神の話は全く残っていません。
歴史から消えてしまっています。

そんな神が安曇族によって祀られていました。
もう表舞台では忘れられてしまいましたが、
何らかの深い事情があったのかもしれません。


豊玉姫の神

豊玉姫は海神の娘で山幸彦と結婚して男の子を生みます。
しかし、その子を妹の玉依姫に預けて、
龍宮へ帰らざるを得ませんでした。
我が子の成長を生涯、見ることの出来なかった哀しい母なのです。

夫の山幸彦は歴史に燦然と輝きながら、
その妻は、歴史の片隅においやられてしまいました。

この三柱が三良天神です。


この三柱の共通項は表舞台から消えて行った事ですが、
この奈多の浜辺の里で、安曇族たちが大切に奉祭していました。

ですから、今から、この安曇族の水軍の世話になる神功皇后は、
ここで改めて、「ひもろぎ」をこしらえて三天神を招いて、
自ら祭王となって、神楽を奉納したのではないかと思いました。

ここにやって来た時には、髪の毛をみずらに結って、
男装をした、勇ましい皇后さまが、
長い髪を下ろし、美しい衣装を着て神を呼び、天女のように舞う。

そして、祭壇には、集落の人が釣って来た、
二匹の大鯛が供えられている。
そんな光景が目に浮かぶようです。

祭りの後、その大鯛は直会(なおらい)として、
ただちにさばかれて、皇后さまの御膳を賑わした。

この時の神事が今に伝えられている。
いかがでしょうか。

この三天神は、歴史の裏に回ったけれども、
神功皇后の先祖でもある訳です。

ですから、双方にとって、良いお祭りとなりました。

豊玉姫コノハナサクヤ姫の出産については
口語訳して紹介してます。⇒サイドバーからどうぞ。≫



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さて、この吹上浜を出立した船団は
安曇族の力を借りて、
志賀島から対馬を経て、朝鮮半島に渡り、
戦いに勝って凱旋しました。



この時に神功皇后そば近くに仕えていたのが、志志岐の三神です。


志志岐三神…神功皇后の関係者 
             十域別(トキワケ)の神 (弟)仲哀天皇の弟
             稚武(ワカタケ)王   (兄)仲哀天皇の弟
             葉山姫神  山城の国出身



上の二人、十域別の神と稚武王が兄弟だというのは、
『お宮の由来』に書いてありました。
しかも、驚いた事に、この二人は仲哀天皇の兄弟でした。

仲哀天皇が崩御した後も、神功皇后を支えて、
武将として、新羅進軍に加わっています。

『お宮の由来』を整理しながら口語訳してみます。


筑前風土記拾遺によると、

奈多の浦の志志岐大明神は下松浦明神である。
仲哀天皇の弟の十域別王の事である。

稚武王も仲哀天皇の弟で、上松浦明神という。
肥前の国松浦郡の田島の神である。

志志岐神社の二人とも、仲哀天皇の弟であり、応神天皇の叔父にあたる。
神功皇后の三韓征伐の時に、武将としてお供した。

葉山大明神は日本紀に言う、摂津の国武庫郡西宮郷、広田大明神である。
天照大神の荒御魂を、山背の根子の娘の葉山姫に祭らせる。
(神功皇后のご神託によって)



この由来書から十域別王と稚武王と仲哀天皇が
三兄弟だったことが分かりました。
そのうちの仲哀天皇が神功皇后と結婚しています。

仲哀天皇が崩御してからも、二人の弟王は武将として、
神功皇后を助けて朝鮮半島まで共に行っていることも
これで分かりました。

そうして、その後、上松浦郡と下松浦郡で神として
祭られていたのをこちらに勧請したのです。

どうして、二人は松浦郡の神になったのでしょうか。

ネットで三人を調べてみました。

十域別(トキワケ)王

志志岐神社  長崎県平戸市野子古町251
         祭神 十域別王 
         創建 神功皇后摂政30(230)年


十域別王の陵墓がここにあるそうです。
神功皇后の命令で、対朝鮮半島警備のために、
この島に配属されたという話も載っていました。
そして、この地で亡くなっています。

ここは平戸島です。
後で、地図を出しますが、朝鮮半島を見張るには軍備上
有利な所には見えません。
これでは、まるで島送り状態です。

稚武(ワカタケ)王 

田島(たじま)神社  佐賀県唐津市呼子町の加部島にある。
          宗像三女神を祭る。
          大山祇神と稚武王尊(仲哀天皇の弟)を配祠する。


ここでは稚武王尊の事は伝承不明です。

ここも、島です。
この二人とも帰国の途中で、新羅を見張る名目で、
佐賀県の呼子の加部島と、長崎県の平戸島に配属されたと言うのでしょうか。

こんな、遠い島に。二人別々に。
これは、何か変です。




何が起こったのでしょうか。


ここからはルナの勝手な想像です。

この二人は仲哀天皇の兄弟だから、皇位継承権がある人たちです。

この時点では仲哀天皇の崩御はトップ・シークレットです。
しかし、都に戻れば、誰が天皇になるのか、
争いが始まるのは目に見えています。

神功皇后はまだ妊娠中で、生まれる子が男の子か女の子か
分かりません。
しかし、神託では男皇子と告げられています。
彼女は神託を信じて疑わなかったはずです。
(疑った夫はあのように急死してしまったのですから。)
(仲哀天皇の崩御の事情は『香椎宮Ⅰ』に書いています。)

彼女は、これから生まれてくる子供の地位を脅かす可能性の
ある二人を軍備上の名目で、上手に置いていってしまった。

考えすぎでしょうか。

葉山姫

日本書紀に彼女の名が出て来ます。
抜き出してみましょう。

神功皇后は新羅を討たれた翌年の春2月に海路を取って、
大和に戻られました。

しかし、御子の異母兄弟が軍勢を整えて待っているとお聞きになって、
武内の宿禰に、
「御子を抱いて、南に迂回して紀伊の国の湊に行くように」
とお命じになりました。

中略

神功皇后の方は直接、難波を目指しました。
その時に、皇后の船が海の中でぐるぐる廻って進むことが
できなくなりました。
そこで、武庫の湊に戻って占いをされました。

すると、天照大神が教えられました。
「私の荒御魂を皇后のそばに置いてはいけない。
広田の国に祀りなさい。」と。
そこで、山背根子(やましろのねこ)の娘、葉山姫に祀らせました。

中略

亦、事代主(ことしろぬし)の尊が教えられました。
「私をみ心の長田の国に祀りなさい。」と。
そこで、葉山姫の妹、長姫(ながひめ)に祀らせました。


天照大神を祀るために葉山姫を選びました。
続けて、妹の長姫にも事代主の神を祭らせる事にしました。

この後、この二人は今でもそれぞれの神社にお祀りされています。
この姉妹は大和に帰れたのでしょうか。
最期まで、この土地で祭祀をしたのでしょうか。

いずれにしろ、祀らせたという事は
その土地に置いて行ったという事です。
神功皇后は葉山姫と長姫姉妹を大和には連れて帰りませんでした。


こうして見て行った結果、
志式神社に祀られた三人の共通項は、置き去りにされた人たちだと分かりました。


この三人を船で送り届けたのは、安曇族の人たちです。
三人のそれぞれの嘆きを目撃しました。

この三人の悲しみをおもんぱかって、言い伝えていたのを、
時が経ってから、
志志岐三神として、合祀したのではないかと考えました。

こうして
神功皇后は自分の皇子のライバルになる人たちを
結果的に退けました。

このあとすぐに、皇位継承権のあるもう二人の、
香坂(かごさか)王と忍熊(おしくま)王が挙兵しましたが、
彼らは、これらの情報を手に入れて、神功皇后の手ごわさを知って、
行動を起こしたのかもしれません。

オキナガタラシ姫に詳しく、口語訳してます。⇒サイドバー≫

神功皇后の子を守るための母としての姿は思いがけないものでした。

こうして、この志式神社には
進軍する前にお祭りした安曇族の三柱の天神と、
凱旋しながら、置き去りにされて行った三人 

を神として祀っています。

まさかの展開でしたが、
安曇族の人たちはこの六柱を大切にお祀りして来ました。

その里の人々の優しい心を喜び、
ここの神々は人々を災難から守ってくれています。


(ずいぶん長く奈多の浜で遊んだなあ。
そろそろ家路につきましょか。)

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by lunabura | 2009-11-19 00:00 | 志式神社・ししき・福岡市 | Trackback | Comments(2)
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