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カテゴリ:人丸神社・ひとまる・新宮町( 3 )

人丸神社(1)景清の娘が父を尋ねて京からやって来た


人丸神社(1)
福岡県粕屋郡新宮町下府
景清の娘が父を尋ねて京からやって来た

国道三号線の、新宮町大森信号から、海の方に向かって走ると、
左の方に鳥居が見えます。
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人丸という名前がずっと気になっていました。
ついに今日は雪交じりの中、行ってみました。
道路のそばに駐車場があり、階段を上っていきます。
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300メートルの参道は遊歩道になっていて、桜がずらりと植えてありました。
ここは春には桜の並木道になるんだ。いいとこ、めっけ。
こんな天気の悪い冬の日に撮った写真を掲載するのは神社に申し訳ないなと
ついつい思ってしまいます。
でも、枝だけだから見える景観もあるんだよと自分で慰める…。
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気持ちのいい散歩道が終わると二の鳥居に出ました。神殿が見えています。
神社の由来が書いてありました。読んでみましょう。(一部変更)
人丸神社は源平合戦の哀史にまつわる神社で、平景清の娘「人丸姫」を祭神とします。
景清の妻は子供がないことを悲しみ、神仏に祈り続けました。治承二年(1178)3月15日に、朝日(旭)が上る時、懐妊を覚え、女の子を出産しました。「旭」という字は「日」「丸」と書くことから、「人丸」と名付けたと言われています。

その後、平家は壇ノ浦の戦いで源氏に敗れ、景清は源頼朝暗殺を計画しましたが、事前に発覚し、捕われて両目をつぶされて日向の国の匂当に流罪の身となりました。後に景清はこの地で亡くなりました。

人丸姫は幼くして母と死別し、京都北嵯峨の叔父の家で育てられました。13歳の時、父景清に会いたい一心から乳母とともに京の都を旅立ち、はるか西国の日向の国を目指しました。

その旅の途中、筑前院内村(立花口)独鈷寺の末院に父の旧友である僧を訪ねました。そこで父景清の噂を聞き、一日でも早く会いたいと思いましたが、僧が思いとどまるように言い聞かせているうちに、長旅の疲れから病気になり床に伏せるようになりました。周りの人々はいろいろと手を尽くしましたが、建久3年(1192年)11月9日に人丸姫は亡くなりました。

死ぬ間際に人丸姫は、「父に会えずに死ぬことは心残りなので、私が死んだら塚を築いて印に松を植え、日向に向けて葬って下さい。と頼みました。その遺言に従い、ここ飛山に葬りました。

幼少の頃、父を慕ってはるばる京都から下府(しものふ)まで来て、病没の身となった姫の心情から、この人丸神社は世の親として子供の無事成長の祈願参拝の場となっています。

平成18年  新宮町教育委員会

なるほど、源平合戦の時代のお話でした。13歳か…。
中学一年生の年ごろですね。そんな人丸姫が、京から九州までやって来たとは。
ここ新宮町から宮崎に向かうとしたら、かなりの無理があります。
ルートを考えると、また北九州に戻って、南下しなくてはならない。
船で?徒歩で?途中の食糧なんかどうする?僧が思いとどまらせるのも無理ないです。
しかし彼女は残念な事に、この地で亡くなってしまいました。
この神社はそんな人丸姫が御祭神でした。
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石段を少し上ると拝殿です。お神酒などが供えてありました。

参拝を済ませて、ぐるりと廻ってみました。
この神社の境内は狭く、後はすぐ崖のようになっています。
しかし左の方だけ、フラットになって、地続きになっていました。
例えれば、前方後円墳の円墳の上に建っているような感じです。

ここに人丸姫を埋葬したとしても、もともと古墳あとか何かじゃないか。
あるいは、もともと人々が神聖視した場所だったから埋葬したんじゃないか。
そんな疑問が浮かんできました。

緩やかな傾斜の参道を戻っていくと、左右は崖だという事に気づきました。
右側は住宅地の屋根が見えます。左は下の方に畑があります。
この地形、よくあったよね。そう、ルナが勝手に弥生の風景と呼んでる地形。

この参道はもしかして古代の岬じゃない?
左の崖の下の田んぼは海?右も海?
神社からは木立ちで見えなかったけど、立花山が見えたはず。

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そう思いながら一の鳥居に戻って来ると、ずっと向こうに松林が見えました。
その向こうは玄界灘です。やっぱりそうだ。古代はここまで海だったんだ。

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道路から神社を写しました。神社正面あたりの森の中です。
参道は左の方に向かっています。
右の高台にあるビルの方には、古墳がかつてはありました。
古墳の名前は人丸古墳です。そして、この神社の名前は人丸神社。
実は「人丸」という字を見て最初に思ったのは柿本人麻呂の事でした。
何故こんな所にと思って確認しに来て、推測がはずれたのです。
けど、どうしてか、この神社の下には何かあるという思いが消えない。
都から来た少女を何故ここに埋葬したのだという疑問が残る。
普通なら、引きとめた僧の寺の方がよさそうだ。
鎌倉時代の下にもっと古い時代があるのでは。

と思いながら、帰ったのですが、
(つづく)



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by lunabura | 2011-02-08 23:03 | 人丸神社・ひとまる・新宮町 | Trackback | Comments(2)

人丸神社(2)かつては海のそばだったよ


人丸神社(2)

かつては海のそばだったよ

どうしても消えない謎がある。そんな心の中に残るこだわりを列挙してみると、
1・ここは古代には海へ突き出した岬ではなかったか。

2・景清の娘の名前が「人丸」という男の子のような名前だった理由について、「朝日(旭)が上る時、懐妊を覚え、女の子を出産しました。「旭」という字は「日」「丸」と書くことから、「人丸」と名付けました」と言っているのは何だかこじつけっぽい。きっと昔も、「娘がなんで人丸という名前なんだ」と問う人がいて、無理に作られた話に見える。

3・若くして死んだ娘を埋葬するには「寺」のほうがふさわしい。

4・人丸といえば柿本人丸(人麿)を普通は指す。
5.ここは古代の聖地の可能性はないか。

こんなものでした。これらの、どうでもいいこだわりを無視してもいいのですが、
るなさんはやっぱり調べ始めました。

1・ここは古代には海へ突き出した岬ではなかったか。
これは、HP「海辺の散歩」の管理人のYAMADA氏から提供していただいた
新聞の切り抜きのおかげで、すぐに解決しました。
海辺の社会科 新宮 二千年前は海底
【隆起した海岸】玄界灘に面して磯崎鼻から弧を描く砂丘、その上に茂る松林は博多湾周辺の砂浜のなかでも、とりわけスケールが大きい。

ところがこの砂丘も、その背面の新宮の家並みも、2000年くらい前までは海の底だった。むかし磯崎鼻は島で、この島と陸地との間には博多湾へ通じる水道があったという。

それが陸続きになったのは、九州北岸一帯の隆起と砂の積み重なりのためだと考えられている。この辺の土地は4000年の間に約10メートルの高まったというのだから、隆起は著しい。
(前九大教授山崎光夫氏の話) 朝日新聞 昭和34年7月31日
この切り抜きが人丸神社のまわりの地形の話です。

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前回出した写真です。やっぱり2000年前は、全部海の底?
なんとも壮大な海の景色が広がっていたんですね。
この人丸姫の時代は少し隆起していたのでしょうか。

この鳥居の前の道を左の方に向かって走ると、道は左にカーブして行きます。
その道が水道のなごりで、溝が今でも残っていて、海水が上がって来ることもあると聞きました。

現代人が古代の海路を想像するとき、宗像と博多の間は志賀島が
飛び出しているので、大変な遠回りをイメージするのですが、
古代にはここに安全な航路があったのが分かります。
この三苫水道(と仮に呼びます)の存在は、古代の交通を研究する人には
大切な情報だと思いました。

さあ、こうして第一の疑問は解決しました!
(つづく)
地図 人丸神社 三苫水道(左右の海をつないていた) 磯崎(かつては島)




開化天皇を訳しました。系図だけしか書いてありませんでした。
でも、ルナ的には謎がまた解けたよ。

※真鍋大覚氏の『儺の国の星』『儺の国の星・拾遺』は、 聞くところよると、売り切れたそうです。



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by lunabura | 2011-02-07 16:16 | 人丸神社・ひとまる・新宮町 | Trackback | Comments(2)

人丸神社(3)人丸は鍛冶の暗号だったよ


人丸神社(3)
人丸は鍛冶の暗号だったよ


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残りの疑問について考えました。

2・景清の娘の名前が「人丸」という男の子のような名前だった理由について、「朝日(旭)が上る時、懐妊を覚え、女の子を出産しました。「旭」という字は「日」「丸」と書くことから、「人丸」と名付けました」と言っているのは何だかこじつけっぽい。きっと昔も、「娘がなんで人丸という名前なんだ」と問う人がいて、無理に作られた話に見える。
3・若くして死んだ娘を埋葬するには「寺」のほうがふさわしい。
4・人丸といえば柿本人丸(人麿)を普通は指す。
5.ここは古代の聖地の可能性はないか。

ネットで「人丸神社」というキーワードで検索すると、一気に謎解きが進みました。

柿本人麻呂と人丸神社
柿本人麻呂神社は日本全国に人丸神社や人麻呂神社などの名称で多く存在します。この人麻呂(人丸)神社の性格を見てみますと人麻呂神社には四形態があるようです。その、四形態の分類とは、
   1. 和歌の聖としての柿本人麻呂神社
   2. 鍛冶や火事の人丸神社
   3. 客死(事故死)した人麻呂を鎮魂する人丸神社
   4. 祖神としての人麻呂神社
です。
最初の「和歌の聖としての柿本人麻呂神社」の代表は、兵庫県明石市にある明石柿本神社です。
次の「鍛冶や火事の人丸神社」は、全国の山村に分布する摂社としての人丸神社で、主に八幡神社の摂社の場合が多く見られます。
三番目の「客死(事故死)した人麻呂を鎮魂する人丸神社」の代表としては、島根県益田市の柿本神社です。
最後の「祖神としての人麻呂神社」の代表は、奈良県葛城市新庄の柿本神社です。
(一部略)
ブログ「万葉集 柿本人麻呂と高市皇子」より
http://blogs.yahoo.co.jp/dokatakayo/29144213.html

まず目についたのは「3. 客死(事故死)した人麻呂を鎮魂する人丸神社」です。
そのブログでは柿本人麻呂の伝承を詳細に追っていて、
人麻呂は海難事故にあって、海岸に打ち上げられ、
人々から祀られるようになった経緯を丹念に論証しています。

思えばこの新宮町の「人丸神社」も景清の娘が客死した訳です。
当時の人には、「人丸=客死」という共通認識があったのが伺えます。

そして、何よりも「2. 鍛冶や火事の人丸神社」というのを知って、
「ガッテン」という声が鳴り響きました。

先のブログによると、柿本人麻呂の集団は「銅の精錬の渡来系の技術集団
であったことを突き止めてあります。
30人程度の技術集団で銅の精錬が出来るのだそうです。
そんな形態で全国各地で生産している状況だったのが、奈良の大仏を
作る事になった為に、坑道を持った本格的な銅の鉱山を作らなくては
ならなくなり、柿本氏族はその指導者的立場に立ったそうです。
そしてその本格的な銅鉱山は山口県にあります。
山口県で出来た荒金がどんどん奈良に運ばれてさらに精錬された訳です。

このような背景があったために、山口県を中心に人丸神社が
沢山祭られるようになりました。そこには鍛冶の神を祭っていたけれども、
時代が下がると意味が分からなくなり、
鍛冶の神⇒かじのかみ⇒火事の神⇒火止まる⇒人丸
となったようです。詳しくはリンク先をみてください。

この事から、この人丸神社のムラにも鍛冶集団がいて、
この場所を聖地として祀っていたが、鎌倉時代には本来の意味も失い、
「ひとまる」の名前だけ伝わるようになっていた。
そこに景清の娘の客死が重なって、「人丸姫」が御祭神になったのでは
ないかと、結論づけました。

さあ、この仮定を裏付けるにはここに古代に製鉄か銅の精錬が
行われていなくてはなりません。そして思い出しました。
ここには製鉄の跡があったのです。
地元の鉄工所の経営者が古代の製鉄のようすを本にしていました。
この新宮町を調べて行くと、古代のハイテクランドだったのが見えて来ました。
少し、この神社の周囲をぶらぶらしましょう。

                              (つづく)



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by lunabura | 2011-02-06 16:47 | 人丸神社・ひとまる・新宮町 | Trackback | Comments(2)
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