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カテゴリ:鎮懐石八幡・ちんかいせき・糸島( 3 )

鎮懐石八幡宮3 夏至の日没が見える宮



鎮懐石八幡宮3

夏至の日没が見える宮


前回のバスハイクで鎮懐石八幡宮に参拝しました。

宮司さんに伺うと、現在の社殿は新たに遷したもので、
元の場所は陰陽石などが安置されている祠の所だそうです。

社殿の手前の見晴らし台が元宮の位置ということになります。
ここからの夕陽の画像をいただきました。
とても綺麗な夕陽が撮れるポイントなのです。
Facebookにも載せられています。

それを見て、(例のごとく)ここは天文観測所だったのでは、
という思いが生まれました。

鎮懐石八幡宮は北が開けていて、北西には姫島が三角形に見えています。

ここから、暦的にいつ日没が見られるのかチェリーさんに調べてもらいました。










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やはり、夏至の日没が観測されました。
が、姫島に沈むことはありません。
夏至が過ぎると、日没は左に寄っていくのです。









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チェリーさんも次のように説明してあります。
<海に沈む日の入りが見えるのは、夏ということになると思います。
夏至から一ヶ月後の7月21日の日の入りの画像を添付します。
北寄りに移ってきた日の入り地点が、左側に戻ってしまいますね…
日の入り地点の左側は、東松浦半島沖の島々です。>

以上から、ここは夏至を照準に観測できるポイントだとわかりました。


夏至の日取りの決定には星の観測も加味するので、
星没も調べると、面白いことになるでしょう。

ここは神功皇后が安産の祈りをしたというのですから、
支えた海人族がいたはずです。

このすぐ北の志摩には安曇族関連の宮があり、
皇后軍(連合軍)の出兵の地も伝えています。

元宮からは糸島水道に出入りする舟も監視できるのです。
高見台などを設置すれば、かなりの範囲が観測できるでしょう。

ここは夏至日没観測地として記録しておこうと思います。




さて、チェリーさんがさらに面白いラインを見つけました。
この鎮懐石八幡宮を頂点とした直角二等辺三角形の底辺ポイントに
神社があるというのです。






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それは壱岐島の女嶽神社と宗像大社の辺津宮です。
逆様の三角形になります。


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以下はチェリーさんのメモです。

<女岳(女嶽神社) → 鎮懐石八幡宮旧社地 南東134.96°距離 50.221km
女岳(女嶽神社) → 宗像大社辺津宮 東89.88°距離 70.874km
鎮懐石八幡宮旧社地 → 宗像大社辺津宮 北東44.98°距離 50.180km
鎮懐石八幡宮旧社地 → 縫殿神社 北東45.00°距離 48.002km

壱岐の女岳(女嶽神社)から宗像大社辺津宮の西側の山稜は見えるようです。
ただ、真東よりは、少し誤差があります(0.12°ですけど)。
でも、この誤差の範囲であれば、直角二等辺三角形と言えると思います。
(頂角は89.81°になります。)

ただ、その意味するところは、不明です。>

縫殿神社がライン上に乗っています。
この縫殿神社は江戸時代に遷宮して山の中に鎮座していますが、
元宮はすぐ近くの畑の中にあり、やはりラインに乗ると思います。


鎮懐石八幡宮からは壱岐の山も見えるそうですよ。






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<カシミールの判定では、壱岐の山が見えます。
200mm望遠相当の画像を添付します。>


チェリーさんのお陰で、古代の太陽観測地のデーターが
少しずつ集まってきました。
真鍋の本をより理解するためには、
神社と天文観測地の理解がとても役に立ちます。
いつも、ありがとうございます。

地図は国土地理院発行のものを、
立体図はカシミール3Dを使用しています。

『神功皇后伝承を歩く 下巻』62 神功皇后は石を腰に挟んで出産の遅れを祈った


<2017年10月21日>
<鎮懐石八幡宮><祭祀線>

糸島市二丈深江2310






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by lunabura | 2017-10-21 19:56 | 鎮懐石八幡・ちんかいせき・糸島 | Trackback | Comments(4)

鎮懐石八幡宮(1)出産が遅れるように願いを託した二つの石


鎮懐石八幡宮(1)
ちんかいせきはちまんぐう
福岡県糸島市二丈深江子負ヶ原(こぶがはら)
出産が遅れるように願いを託した二つの石

福岡県の東部の海岸沿いの神社を廻ると、神功皇后の伝承ばかりでした。
こうなったら、西の方の伝承も確認しよう。
という事で、前から気になっていた鎮懐石八幡宮を目指してやって来ました。
地図にも載ってるし、と思って202号線をやって来ると、
JRの向こうに鳥居が見えました。
ああ、ここは何度も通り掛かりに見かけながらずっと気になってた神社だ。
とてもゆかしい参道…。ここにこれたなんて…。と感激。

JRの踏切を渡ろうとすると、車は通れない!!
歩いてしか行けないようになってるけど、駐車場もない。どうなってるの?
ナビを拡大すると、道がありそうなので、西の方に迂回してみると、
だんだん道幅は狭くなり、農作業中のビニールハウスに突っ込みそうな勢い。

しかも、先の方は行き止まりかも。へたしたら、溝に落ちてしまう。
もしかしたら、このくねくねの細い坂道をバックで帰る?(汗)
とうとう車を降りて、道を確認しに行くと、あったあった、
駐車場もあるし、目指す神社がありました。

(このブログを見て行きたいと思った方、このルートを通るのは
お勧めしません。(;一_一)JRの踏切を歩いて渡りましょう。)

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ここは海に近い高台にあります。さっきまでのどしゃぶりも止んで、
曇り空ですが、光を集めたように明るく開けた境内でした。
ああ、ここも桜がいっぱい。花芽を含んで、充実しきった冬の枝もいいですね。

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拝殿に出ました。参拝して、右を見ると神社の由来に関する資料が
沢山貼られていました。それに、持ち帰り用の資料が置いてありました。
ありがたい…。資料館に行かなくていい。お礼を投入してっと。
この神社は古代史を調べる人は必ず押さえに来るんだろうな…。
そう。だって、日本書紀に書いてあるもんね。

まずは、拝殿にある由緒書きを見てみましょう。

祭神 神功皇后(息長足日女命)
     応神天皇(八幡大神)
     武内宿禰

おお、見事な組み合わせです。ずっと、この三人は一緒です。
母と子と重臣です。黒男神社では、武内宿禰がすべてをかけて、
この母子を守ったのが思い出されます。
では、この神社の「鎮懐石」って何?

由緒 昔神功皇后は応神天皇を懐胎しながらこの地を通って、新羅へ向かって兵を出された時に、卵形の美石2個を求めて肌身に抱き、鎮懐として出産の延期を祈られたのであった。願は叶って、帰国後、宇美にて応神天皇を御安産されたのである。

そこで皇后がかの経尺の璧石をこの丘の上に、お手ずから拝納されてより、世の人は鎮懐石と称してその奇魂を崇拝するようになった。

そうか、ここはいよいよ新羅への出兵の場所だったのですね。
でも、あれっ?出兵は志賀島からじゃなかったっけ?
そうか、当時は朝鮮半島に行く湊と言えば志賀島と松浦と二つあって、
そのどちらにも、伝承があるんですね~。困ったですね。
まあ、それはそれとして、西の方にはどんな伝承があるのか、
楽しみに見て行きましょう。

さて、神功皇后は夫が亡くなる寸前に、神託で懐胎を告げられています。
それから三輪町では戦をして、新宮町では訓練を見て、
古賀市では船団を待って、久山町や福津市など色んな所で祈願をして
忙しく過ごします。そうこうしている内に、産み月が近づきました。
そんなお腹で、戦闘に出かける?戦争中に船の上で出産する?
しかし軍備は整って、流れは止められない。

そんな彼女を助けてくれたのが、この二つの石だったのです。
その石に願を掛けて懐に収めていたお蔭で、出産が延びました。
当然ながら、この件がいろんな本で問題にされています。
(さすがに、石を懐に入れただけで出産は延期出来ない)

神社史によると、神功皇后はこの湊に戻って来てから、
みずからその石を奉納しています。
なるほど。これは現地に行かないと分からなかった話ですね。

(つづく)
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獅子が睨む先には海が広がってます。


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by lunabura | 2011-02-20 22:20 | 鎮懐石八幡・ちんかいせき・糸島 | Trackback | Comments(8)

鎮懐石八幡宮(2)石の大きさの謎をルナもやっぱり考えた


鎮懐石八幡宮(2)
石の大きさの謎
ついついルナも…

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それではこの神社に関わる日本書紀のシーンを読んでみましょう。

新羅へ出兵する時、ちょうど皇后は産む月にあたっていた。
皇后は石を取って腰に挟んで、祈って言った。
「戦が終わって戻って来た日に、ここで生まれたまえ。」
と。その石は今は伊都の県(あがた)の道のほとりにある。

とあるのが、まさしくこの鎮懐石八幡宮の場所です。
当時は道のほとりにあったと書いてあります。この部分だけでも、謎だらけです。
石のサイズです。腰に挟めるサイズですから、小さいはずです。
でも道のほとりにあるなら、認識出来る、ある程度の大きさがあるはずです。
古来、この石のサイズの矛盾の謎解きと妊娠期間の計算から
神功皇后にハマる人が出て来ているようです。

この石は今はどうなっているのでしょうか。
神社に置いてあった資料を読んで見ましょう。
鎮懐石物語 白く光り輝く二つの石 (糸島伝説集よりーその一部を)

新羅遠征も勝利の中に無事凱旋になると、めでたく胎中の天皇が御降誕になった。後の応神天皇である。皇后の御安堵と喜びは一方ではなかった。その後、皇后はこの神意志を祈願した地・子負ヶ原(こぶがはら)の丘上に納めて永く祀られたのである。

その後この宮の前を行き来する者は下馬したり、ひざまづいて拝んだと万葉集にも書き残されているが、その頃からこの神石を皇子産石(みこうみ)とも鎮懐石とも呼ぶようになった。

帰国してから、無事に出産したんですね。そして、例の石をこの丘の上に納めたんだ。
万葉集にはこの宮の前を行き来する人が参拝している様子が書いてあります。
なんと、この万葉歌人って、山上憶良ですって!
筑前の守として、ここまでやって来たんですね。
彼の詞書きによると、この時の石は大小二つあって、サイズは
大が長さ1尺2寸6分(約40㌢)、周囲1尺8寸6分(約60㌢)
小さい方は長さ一尺一寸(約36㌢)、周囲1尺8寸(約60㌢)
(一尺を33センチで計算してみました。)
う~。大きい。どうなってるの?話が伝わる内に、
こんなに大きな石を袖の中に挟みつけたという事になってる。
無理ですね…。ま、つづきを読みましょう。
この石は寛文年間(1661年)まで残っていたが、いつの間にか盗難にあってしまった。ところが、天和3年(1683年)の夏、六郎という里人が卵形の珍しい美麗な一個の石を拾って家に持ち帰っていると、ある日、一羽の鳩が飛び込んで来て、床の間に据えていたその石に止まったので不思議に思い、ある博識の古老に話した。

するとこれは子負ヶ原から失せていた鎮懐石の一つに違いないと教えられたので、六郎も近隣の人々も、瑞鳥が飛んで来て止まったのも道理だ、もったいないことだと、子負ヶ原丘上に納めたのであった。そして、貞享2年(1684年)に社殿を新築して、これを御神体にしたという。

現在、疑問を感じるのはこの石の大きさである。今の石は横7寸(約23センチ)高さ6寸(約20センチ)径5寸(約16センチ)と言。
われているが、古書では皆、長さ1尺2寸6分(約40センチ)、まわり1尺8寸6分(約60センチ)と記されていることである
貝原益軒は如何に長い年月を経たとて、大きな石が小さくなる事もあるまいが、神仏のことは常識を以て論じ難いと評論を避けている。

それにしても、このように大きな石を御腰に挿まれたとか、御裳の中にいれられたということは誰もが不審に思うであろうが、これも皇后に神力があったと考える外はない。

なるほどですねえ。
これはまた大変大きな石が盗まれたんですね。持ち上げればぎっくり腰間違いなし
ですが、後から奉納された小さな方でも、ラグビーボールぐらいの大きさ?
これを二つねえ…。妊婦が腰に挟んだ…。貝原益軒が評論を避けるのも無理ないな。

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これは、境内にあった白い石です。無造作に置いてるので、
何だろうと思って取り敢えず撮影したのですが、
古書にある大きい石がこのくらいの大きさみたいですね。
う~ん。ますますミステリー。続きをもう少し読んでみましょう。
なお、社前に御船をつながれたという「とも綱石」が
玉垣を巡らして残されているのも、珍しい。



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 境内にこんな石があって、これもまた何だろうと思って撮影しました。
 ほかには「とも綱石」らしきものには気づかなかったです。
この神社そのものが移動しているので、よく分からないです。
(地元の方で、これが何か分かる方、教えてください。)

さて、この「玉垣を巡らす」という言葉で思いだしたのが、
このような丸い石は堤防を作るのに一番いい素材だという事です。
古代には、せっせと海の底に潜っては積み上げて護岸した人たちがいました。
そんな作業中に海の底で白くて綺麗な丸石を見つけると、
神社にでも奉納したくなりますよね。
この浜にいた海人族たちも白い卵型の石を見つけると、神功皇后の伝承を思い出し、
ゆかりの神社に奉納したのではないかなと想像しました。
ここから近い唐津市の鏡山にも、白い丸石が沢山奉納されていました。
そこにも神功皇后伝説があります。

この石のサイズの問題について、ルナはこう想像しました。

「昔の神女は純白な玉石を紅袴の腰紐の中に入れていた。」そうです。
神功皇后も豊浦宮で綺麗な石を見つけて大事に拾ったりしています。
この糸島でも彼女が見つけた石は小さいものだったんではないでしょうか。
そして、出産が遅れる祈願の神事を大々的にしました。
もちろん、兵士たちへのパフォーマンスもこめてです。
彼女はその白い小石をみんなが見守る中で身につけた。

この出来事は人々に強烈な印象として残り、伝えられる内に石は巨大化していった。
それからは白い卵型の石が見つかると、人々は神社に奉納するようになった。
その内で特に大きな二つの石が道端に置かれて、道祖神のように崇敬の対象になった。
それを山上憶良が見聞して記録したのが、そのまま鎮懐石と呼ばれるようになった。
盗まれた最初の石は、きっと懐に入れられるほどの小さな石だったと思われます。

白い石は、次回紹介する唐津市の鏡山にも沢山たくさん奉納されていました。
この糸島から唐津にかけての海人族たちは白い石を見つけると、
「神様に奉納しよう。」という、ならわしがあったのかも知れません。
白い石については、もっと沢山の伝承を見通してみたいと思いました。

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境内からは海が見渡せます。左の方は今から行く唐津方面の海が見えています。

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神社はこの森の向こうにあります。
写真の左が海です。右には大きな道路が出来ています。

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昔の写真も資料にありました。
鎮懐石神社はかつては石垣を巡らした岡の上にあったそうです。
昭和11年(1936年)に現在地に遷りました。
風情がありますね。

地図 鎮懐石神社




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by lunabura | 2011-02-19 13:35 | 鎮懐石八幡・ちんかいせき・糸島 | Trackback | Comments(10)
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