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カテゴリ:宮地嶽神社と古墳・福津市( 29 )

筑紫舞 2016



筑紫舞 2016





天気予報では一日中、雨だったが、
今年も奇跡的に午後から回復。


宮地嶽神社で筑紫舞が舞われた。


「光の道」が参道に出現して秋祭の始まりを告げると、

九州王朝に伝えられたという筑紫舞が

あでやかな和の彩りを添える。

ご覧になる神は

神功皇后。
勝村神。
勝頼神。



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「千代の友」
千代の友とは菊の事。









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千代に八千代に、国が豊かであるようにと祈る。












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「鑑の曲」かんのきょく
筑紫秘舞。











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浮き立つ春の曙に 白み渡れる山の端の
雲の衣も紫のうら珍しき春の香










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「千鳥」










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梅が枝にこそ 鶯は巣をくへ
風吹かばいかにせん 花に宿る鶯











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「橘」










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雲居の庭に色変えぬ 花橘にほととぢす
千代を鳴らして久方の 空にぞ声の聞こゆる










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浮神(うきがみ)
芸能の祖と言われる阿曇磯良が舞ったという。

天上神が磯良に舞い降りて舞う「つくし神舞」の秘舞。










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イソラ神はここにもおはす。

鞨鼓を持ちて舞いたもう。







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by lunabura | 2016-10-22 20:34 | 宮地嶽神社と古墳・福津市 | Trackback | Comments(2)

「光の道」テレビ取材



「光の道」テレビ取材





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嵐のCMですっかり有名になった宮地嶽神社の「光の道」。

今年はNHK福岡が取材されます。

先週、宮地嶽神社から連絡があり、
「NHKが取材されるが、光の道だけでなく、それを熱く語る女性を」
という話をいただき、および腰でしたが、話をすることにしました。

スタッフが九州に来られて間もないとこのことなので、
土地勘がないのに歴史を聞くのは大変だろうと思って、
前夜に急遽パワーポイントを作りました。

いただいたテーマは
「宮地嶽神社と相島をつなぐ光の道」
 
そして安曇であること。


話したのは

宮地嶽神社
磐井の末裔
筑紫舞
相島
志賀島
奈多の浜
磯良の舞

などなど。



当ブログの訪問者は「またか」というほど馴染みの話ですが(^^;
まだまだマイナーです。



「熱くは語らないぞ」
と思って話し始めましたが気付くと2時間経っていました。

熱くはなかったけど「長~く」話してしまったのでした。

厭きずに聞いて下さってありがとうございます。

この日は顔合わせでした。

テレビに出るのはチョット苦手だなあと思っていましたが、
今日連絡があって、
出なくて良いとのこと!
安心しました。(笑)


「光の道」は天気次第なので、取材は何日にも及ぶことでしょう。

渾身の「光の道」を楽しみにしています(^^)/

放映はNHK福岡 ロクイチ 
6時10分からの番組で21日前後だそうです。

時間は4分程度。
歴史は無しです。
多分、筑紫舞も写されるでしょう。


飛び込みニュースが入ったらずれるでしょうから、
数日間、要チェックですね。



なお、「光の道」は18日の前後一週間が見ごろですが、
参道の石段は時間帯によって締め切られて、
車道を歩いて参拝するようになるそうです。

地元の方によると、昨年は近くの道路が正月よりも混んでいたということです。
正月は入場制限が掛かって正面から入れなかったから、
すごかったんですね。

「光の道」は天気次第です。

宮地嶽神社のHPで確認してから参拝されると安心ですね。

他のテレビ局のクルーも見かけたので、
あちこちの報道で「光の道」が出現しそうです。






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by lunabura | 2016-10-10 20:59 | 宮地嶽神社と古墳・福津市 | Trackback | Comments(2)

参道




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某所。
バレバレですね。

もうすぐ光の道が出現。

すると、祭が始まるのでした。



本日ご縁をいただいての参拝です。






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by lunabura | 2016-10-06 20:36 | 宮地嶽神社と古墳・福津市 | Trackback | Comments(3)

胸形君徳善は684年には生きていた



胸形君徳善は684年には生きていた



各地の考古学の専門家の一般向けの講座には出来るだけ足を運んでいる。
先日も話題の中に「宮地嶽古墳の被葬者は胸形徳善」という話が出た。

考古学会では全くこの説は疑われていないようだ。
聞くたびに悲しくなる。

宮地嶽神社は安曇族であり、宗像族ではない。



今日は中大兄皇子が天智天皇に即位した時期を年表にしていたのだが、
意外な所に徳善の名が出て来た。

岩波文庫で『日本書紀』を読んでいたのだが、
本文では天武天皇2年に
「胸形君徳善の女(むすめ)尼子娘(あまこのいらつめ)」
と出てくる。

その補注に、
「胸形君は天武天皇13年11月に朝臣姓を賜った」
という内容が書かれていた。

天武13年は684年だ。
宮地嶽古墳の築造は600年前後だ。

これで、完全に徳善説を否定する資料が出て来た。
646年には薄葬令が出ている。
徳善の時代にはあれほどの巨大な墓を造ることはなかったはずだ。



今日は宮地嶽神社に参拝したからかなあ。

思いがけない資料に出会った。






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by lunabura | 2016-09-26 23:36 | 宮地嶽神社と古墳・福津市 | Trackback | Comments(0)

宮地嶽神社 参拝


宮地嶽神社 参拝



先日、久留米で磐井君の末裔たちの話をするに当たって、
事前に宮地嶽神社に参拝する時間が取れず、
ようやく、今日、参拝することができた。








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菖蒲の花の盛りは過ぎたが、
社殿前に敷き詰められた花々を見ると、
祀られている神功皇后や勝村・勝頼神への祈りの思いが
伝わってくる。






神々が一番喜ばれるのは何か。
それは花を見て喜ぶ参拝者の笑顔ではないか。
そう考えたという宮司の話を思い出す。














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宮地嶽古墳へと続く小道。
いつも巨大なクスノキが迎えてくれる。

この小道は禊池(みそぎいけ)を造る時に、土取りのために作られたという。




宮地嶽古墳は宮地岳と不動を祀る山と、今は無いもう一つの山の
三つの山に囲まれた所に秘めて作られた。

もう一つの山は、池を造る時に削られて堤となった。







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古代にはこの岬に海がすぐ近くまで迫り、相島から巨大な石が運ばれた。
磐井の孫たちの世代はひそやかに日本で一番大きなものを作ってみせた。
そんな気概が込められていることを知った。








私はいつのまにか、この宮に祀られている
神功皇后の下関と筑紫での歴史を人々に伝えるようになった。




そして、ついに勝村・勝頼の歴史的位置づけを語り始めた。
筑紫君磐井の末裔たちの居城がここだ。


私の物語はすべてこの宮地嶽神社に立ち返ってくる。


思ってもいなかった。
私がそれらの歴史をしたためる日が来ようとは。








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この境内の美しさを記録にとどめられたら、と思った日から、
消された倭国の王たちの歴史が私の前に展開されていった。




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私は傀儡舞をジプシーのように伝えた安曇のように、
この歴史を伝えていくのだろう。

覚悟。

そんな言葉が響いてきた。




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by lunabura | 2016-06-15 22:13 | 宮地嶽神社と古墳・福津市 | Trackback | Comments(7)

「磐井の乱後」-磐井の菩提寺と宮地嶽古墳―を話し終えて



「磐井の乱後」
-磐井の菩提寺と宮地嶽古墳―
を話し終えて



今日は久留米大学公開講座で
「磐井の乱後」-磐井の菩提寺と宮地嶽古墳―
の話をしてきました。

足をお運びくださった皆様、ありがとうございました。





パワーポイントの最初と最後の画像は最後に選んだのですが、
こんな風になりました。


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並べてみると、どちらも宮地嶽古墳です。

これは宮地嶽神社の境内にあり、宮地嶽神社の祭神が祀られて続けています。
被葬者は「勝村神。勝頼神」です。

二神は筑紫君葛子の子と伝えています。
ですから、筑紫君磐井の孫に当たります。




これが、ある日突然、宗像徳善の墓だ、と学者に言われて、
その誤解はいまだに解けずにいます。

宮地嶽神社側のショックはただならぬものがあったようです。




宮地嶽神社は安曇族です。

その証が欲しかったのですが、
ついに昨年、宮司だけが舞える秘舞として、
磯良の舞が再現され、発表されました。



こうして、安曇磯良の存在は
志賀海神社、高良玉垂宮、宮地嶽神社へと受け継がれていたことが、
平成になって明らかになりました。



安曇族の境内に宗像族が出かけて行って墓を作ることはあり得ません。
宗像族は自分たちの氏族の近くで眠るはずです。
わざわざ山の向こう、見えないところに作るはずがない。

こんなシンプルな理論も無視されています。



学者の論文に宗像市として堂々と書かれているのを見たことがあります。
正しくは福津市です。


宗像徳善は娘を天武天皇に差し出していて、
飛鳥浄御原宮の時代に外戚として娘の援助をしています。

飛鳥浄御原宮は672~694年です。
徳善はそのころ全盛期だったのでしょう。
孫は大臣に昇りつめています。
ですから、墓は700年前後に作られたと想定するのが理に適っています。

それに対して宮地嶽古墳は600~630年の推定。
両者には100年ほどの違いがあるのです。

もう、宗像徳善の名前を出すのは止めましょう。

「誰かが言ったから、そうだ。」
という発想が古代史の闇を深くしているのです。



今日は、この話や、磐井の菩提寺が作られた話、
また磐井の孫が百済王子と共に戦った話などをしました。


出版は、もうしばらくお待ちくださいね。








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by lunabura | 2016-05-21 23:32 | 宮地嶽神社と古墳・福津市 | Trackback | Comments(4)

とり急ぎ


マイペースで本(『宮地嶽神社と筑紫君磐井の末裔たち』―巨大古墳と九州王朝の謎―)を仕上げていたのですが、急きょ、推敲を仕上げなくてはならなくなって、ブログに手が付けられませんでした。

この事情は良い事情なのですが、内容に関しては、確実になってから書くことにしますね。

推敲を仕上げたとはいえ、さらに二項目ほど追加をするので、流れが途切れないように、もう一度推敲することになります。

今月中に終わったらいいなあ。



今日の宮地嶽神社の菖蒲です ^^

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菖蒲祭の準備が進められていました (^。^)



コメントを下さった方へ

いただいたコメントが内容があるものばかりなので、じっくりと読んでから返事をします。少しお待ちくださいね。





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by lunabura | 2015-05-25 18:24 | 宮地嶽神社と古墳・福津市 | Trackback | Comments(0)

散り初めの開運桜 宮地嶽神社


宮地嶽神社

散り初めの開運桜


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今日の宮地嶽神社の開運桜です。




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昨日の雨で、花びらが散り始めていました。




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この桜と出会って6年目。


今思い返すと、当社の御祭神のことが全く分からなかったのに、
いつの間にか本を出し、人に伝えるようになっていました。




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神功皇后。息長帯姫。ここには何度も来られ、宮地岳に登って神々に祈られた。
その女神の本がもうすぐ出来あがります。

阿部高麿神と助麿神。仲哀天皇と神功皇后を守って下関の忌宮神社で亡くなられた。
敵は新羅。



勝村神と勝頼神。この神々は筑紫の君・葛子の御子神。磐井の君の孫に当られる。勝村・勝頼神の二柱は宮地嶽古墳に共に眠られた。

鞍手の鞍橋(くらじ)の君はその御兄弟。百済の王子余昌と共に新羅を攻めて籠城し、王子の窮地を救われた。

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そして、もう一柱。謎の阿部相丞(しょうじょう)の神。
お尋ねします。
あなたは安曇磯良なのですか?
大善寺玉垂宮と宗像大社ではそう伝えていますが、それでよろしいですか?


私は神功皇后の本を書きました。そこには阿部高麿・助麿神も含まれます。

磐井の君の末裔たる勝村神と勝頼神も原稿は出来ました。
そして、安曇磯良神の本も春になったら取り掛かります。


もし、安曇磯良神が阿部相丞の神なら、私は宮地嶽神社の六柱の神、すべての本を書くことになるのです。
今日はその御縁の不思議さに気づいて驚いています。





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by lunabura | 2015-02-21 20:31 | 宮地嶽神社と古墳・福津市 | Trackback | Comments(0)

測量体験 初!


縁とは不思議なもので、宮地嶽神社から相島に沈む夕陽を見た日、
隣の方に宮地嶽古墳の測量の企画を案内されました。

「伊能忠敬測量200年の会」主催で、古墳とその周囲を測量する企画です。

これはめったにない機会と、早速申し込みしました。


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桜の葉はすっかり落ちて、秋から初冬へのあわい。



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あの輝く春の日とは違う華やかさです。


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正面は奥の宮不動神社。古墳の前の拝殿です。
左が古墳。
拝殿の左がすぐに古墳の入り口ですから、
本来の墳丘は拝殿の場所に及んでいたということが分かります。
封土がかなり失われているんですね。

今回は九州産業大学の学生さんが測量法を教えてくれるのです。
「平板測量」という手法です。

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アリダードも初めて見ます。

水平に保つことから始めるのですが、私の頭の中は三角縁神獣鏡の使用法。

三角縁神獣鏡を見る時には必ず鏡面を見ましたが、どれもが凸面鏡なんですね。

そして、裏の窪みを見ます。
そこに水を貯めれば水準器になります。
ギザギザを北極星に合わせれば、方向バッチリじゃないかな。


そして紅白に塗られたポールを見て連想するのは
神武天皇のイラストには必ずついている杖。

もう一つのアイテムは巻尺。
巻尺は古代には紐を使うのでしょうが、長さがねえ。
せいぜい数十メートルが限度でしょうかねえ。


伊能忠敬は星を見て緯度を調べたとか。
九州歴史資料館で実物を見る機会があったのですが、
その大きさに圧倒されました。

このたびの測量会では、古墳の周囲をぐるりと七班に分かれて部分的に測量し、
出来あがった図を七枚、結合したのですが、驚くほど正確でした。


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小学生と一緒でしたが、測量ポイントをしっかりと把握する少年がいて、
才能って小さい時から現れるんだなあと舌を巻きました。

私もいつもキルトの製図をしているので、線を引くのが楽しかったです。


会の皆さまありがとうございました。

もちろん、古墳に埋葬されている磐井の君の孫の勝村・勝頼神にもごあいさつ。
ここには葛子の君と磐井の君のよすがとなる物も納められたと
確信しています。






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by lunabura | 2014-11-09 20:45 | 宮地嶽神社と古墳・福津市 | Trackback | Comments(0)

入り陽の贈り物 光の道


入り陽の贈り物

光の道


先日、第8回金印シンポジウムを聞きに行ったのですが、
講演者の一人、宮地嶽神社の浄見宮司が、当日10月18日は
夕陽が宮地嶽神社の元宮の正面の相島(あいのしま)に沈む日だと言われました。

10月18日。
思いがけない日付でした。
元宮は西を向いていて、相島にまっすぐ向かう参道が、いかにも日没ラインを思わせ、
くるま座さんが先年、野宿して確認しようとしたラインだったのです。

その時は春分・秋分ラインを想定したのですが、
あいにく曇ってしまって、収穫がなかったという経緯がありました。

だから、神社の方でその日付を眼目に置いてあったのを知って驚きました。
この日没の日から遷座祭へと流れていく大事な日だったのです。


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19日、太陽は左手から相島に向かって斜めに降りて行き、
島の向こうのもやに隠れて行きました。

秋分より一カ月後、そして春分より一カ月前。
年に二回太陽が相島に沈んでいきます。

参道が赤く照らされて、人々の影が長くなる頃、
相島からはこちらの本殿の金色の屋根が輝いて見えたことでしょう。

この正面に積石塚があるのです。
宮地嶽古墳の巨石も相島から運ばれました。

そこには玉依姫と豊玉姫が姉妹一緒に祀られています。
これは珍しいことです。
豊玉姫はそこで山幸彦と出会った。
安曇の人々に取って格別な島が相島です。

さて、神社の石段から100m先では、地面を1m掘れば砂地だということで、
古代は海がすぐそこまで迫り、
光の道が直接、島と元宮を繋ぐ光景が見られたことでしょう。

この日、隣に座り合わせた男性に、
正面の参道は昭和14年に造られたものだと教えていただきました。

かつては神輿は石段を降りるとすぐ左の路地を通り、川沿いに下っていったそうです。
ですから、参道を貫く入り陽は昭和以降の光景です。

男性との話題は宮地嶽古墳になりました。
「宮地嶽神社は徳善でしょう」
「いいえ。徳善は100年ほど時代が違います。
この古墳では磐井の孫の勝村・勝頼兄弟が1000年以上も祀られてきているのです」
と答えました。

神社に生まれた人は人生を祭祀に捧げます。
1500年も祀り続けている所に、ある日学者が来て、その墓は隣町の人の物だ、
と言われたらどんな気分がするでしょうか。

この頃はそんな話も伝えるようにしています。

私は決心していました。
来年からは磐井の末裔たちの話をする、と。
特に、八女の人たちには伝えたい。
磐井の末裔たちは戦いました。

筑紫君葛子は決して命乞いのために屯倉を差し出してはいない。
父の筑紫君磐井亡きあと、武装蜂起して戦ったのです。

『日本書紀』が捏造した歴史―ではない真実を伝えよう。

そんな思いで参拝しました。
そして願わくは、まずは宮司にお伝えしたい、と。

何と、その願いがかなって、願ったその日に宮司に会えました。
この日、竹のロウソクを自ら点火してあった所に通りかかったのです。

私は沢山話をしました。
磐井の子供たちのこと、そして葛子の子供たちのこと。
古墳で舞われた筑紫舞にはもう一人の目撃者がいたこと。
出土したガラス板は決して素材ではないこと。
そこにガラス板がある理由は百済王子を守った鞍橋君の活躍があったから。

そんなお話をしました。
会えたタイミング。
これこそが今日のタイトルの「入り陽の贈り物」だったのです。


安曇磯良の名は正史から消えてしまっています。
一方で、同時代に生きた竹内宿禰はあらゆる氏族のルーツに持ち上げられ、
系図が不自然な場所に書かれています。

これらを比較すると見えてくるものがありました。
ここに「倭」と「日本」の原点があったのです。

竹内宿禰。
安曇磯良。
そして神功皇后。

これらを理解すると、磐井から末裔たちの時代も見えてきました。

九州の真実の歴史の構築。
その基本的なテーマを押さえることが出来た5年間は不思議な日々でした。

もうすぐ、ブログ5周年になります。
まだまだ小学5年生。
あと二日で6年生です。

こんなキャリアの浅い私が歴史の本を何冊も出せるのも、不思議な事件です。

皆さんもいつも一緒に古代を逍遥してくださってありがとうございます。


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by lunabura | 2014-10-23 19:59 | 宮地嶽神社と古墳・福津市 | Trackback | Comments(6)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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