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カテゴリ:宮地嶽神社と古墳・福津市( 33 )

宮地嶽神社 3月 古宮跡と桜と


宮地嶽神社 3月
古宮跡と桜と

今年の桜は例年より早いですね。
ずっと原稿に向かっていたので、リフレッシュしに桜を見に行きました。

古宮のことも、今まで認識していなかったので、改めて立ち寄ってみました。

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長い石段を上った正面に鎮座していました。

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近づくと「元御本殿跡」と書かれています。
ここだったんだ。
見えていて見ていなかった。
歴史を知ると、意味が分かって、豊かになりますね。

ここから奥にまっすぐ進むと宮地嶽古墳に行くようになっていました。
振り返ると海が見えますよ。
玄海灘に鎮座する神社の多くは海を向いています。

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この古宮跡から左に曲がると御神体山。



参拝を済ませて、桜の園へ。
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今日はしだれ桜が見ごろ。
つぼみがとても可愛らしい。


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八重だ。

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桜を見ると、一年が振り返られ、また頑張ろうという元気が生まれて来ます。
日本中で、桜は人々の心を癒して励ましてくれているんですね。


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世界中の人々にもこの喜びがあったら、
きっと、もっと穏やかな社会になるのだろうなあ。




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by lunabura | 2013-04-01 17:23 | 宮地嶽神社と古墳・福津市 | Trackback | Comments(4)

筑紫舞


筑紫舞

福岡県福津市
宮地嶽神社
 
平成24年10月22日 宮地嶽神社の御遷座記念祭で筑紫舞が舞われました。

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これは筑紫宮神楽の「神無月の舞」という秘舞です。
(リハーサルの写真です)

これもまた時間が取れるようになったら、ゆっくりと紹介したいと思います。

校正の作業もゴールが見えて来ました。
もう少したら、古代の筑紫にどっぷりと浸かれるなあ。





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by lunabura | 2012-10-23 22:51 | 宮地嶽神社と古墳・福津市 | Trackback | Comments(2)

宮地嶽神社・よみがえる筑紫舞


宮地嶽神社 7月
 よみがえる筑紫舞




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緑陰の美しい梅雨の宮地嶽神社。
3年前までは、ここで誰に祈っているのか、分かっていなかった。
ここは神功皇后が主祭神の宮だ。
正月に参拝する数十万人の人たちも殆どが誰に祈っているのか知らないだろう。

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主殿の裏につづく木漏れ日の中の参道を辿ると特異な地形に気づく。
山の斜面にいくつもの平地があって道がある。
ここは多くの古代人が代々営んでいた聖地なのだ。

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参道の奥の神社は古墳だ。
開口しているこの古墳は日本でも二番目の巨大さを誇る。
そこには抱えられないほど巨大な金銅製の頭椎(かぶつち)の太刀が埋納されていた。

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この提灯の紋は三階松。九州王朝の紋だという。

数年前、私はたまたま主祭殿の前で奉納されている舞を拝観した。
その中にコサックダンスのような動きの舞があった。
それがルソン足という事を知ったのは二年後だ。
筑紫舞だ。

かつて、この古墳の中で、その筑紫舞が菊村検校によって奉納された。
筑紫舞には被葬者の蘇りを祈る舞いが含まれていたという。
それを「棺の舞」という。
それが天皇家の血を引き継ぐともいわれる検校とどうつながるのだろうか。
まだ謎のままだ。

そしてこの光寿斎を支えた人の中に、もと光少年の祖母がいたという。
光少年はこの古墳の周りでムーダンの舞が奉納されたのも目撃している。
ムーダンは韓国から、舞手が名取になる時に舞を奉納しに来るのだという。

キャンプをしながら宮地嶽で奉納した後、名島神社でも奉納する。
どうして、韓国人がこの古墳を知っているのだろうか。
それも謎のままだ。

そんな話をしてくれた、もと光少年は亡くなる前に、もう一度私に会ってくれた。
「長い夢を見た。3000年前の夢だった。」

それは縄文人と弥生人の出会いの夢だったと言う。

「縄文人は滑稽な踊りを披露してくれた。
それを弥生人たちは見て笑ったね。音曲が演奏された。
弥生人の足元はサンダルだった。3000年後にまた会おうと約束した。」
それが今の時代の事だったのだろうか。

私はその時、ムーダンの存在について尋ねた。
どうして韓国人が宮地嶽不動神社の存在を知っているのかと。
もと光少年は答えた。

「つい最近、ムーダンの協会の人がパーティーをするからと呼ばれたけど、
行かなかった。その人の名前はなんだったかな。電話帳に載っているんだが。」
福岡にその協会(教会?)があるそうだが、わからず仕舞いになった。

筑紫舞の事をもう一度尋ねた。
「弟子が『棺(かん)の舞』を『神(かん)の舞』と曲げて解釈したから、私は証言を止めた。
古田武彦さんも話を聞きに、2,3度、来られたね。」
往時の筑紫舞の伝承者は池に身を投げたという。

私はその時点で筑紫舞は消滅したのかと思っていたのだが、
幸いな事に宮地嶽神社で、その舞が継承されていた。
神社の方にもいくつか伝えられていて、認可された舞だけを舞っているそうだ。

その舞を舞う浄見宮司から聞いた話では、
かつて春日大社で十年間奉職した時に担当したのが偶然にも舞だったと言う。
しかも舞っていたのは「細男(せいのう)の舞」で、これは白布を顔に付けて舞うものだ。
白布を顔に付けた神といえば、志賀海神社の神と同じだ。
それは安曇磯良(アントンイソラ)。

志賀海神社の阿曇宮司が数年前に急逝されたが、
宮地嶽神社は志賀海神社をお助けする立場にあるという。
海人族として深い縁があるのだ。

宮地嶽神社の浄見宮司は筑紫舞を舞うために
春日大社で舞をとことん身に付けさせられたのではないだろうか。
こうして神仕組みはまだ生きているのだと思った。

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名島神社でも筑紫舞が舞われたという。
それは二人で舞うものだったそうだ。
聖洲さんによると、衣裳を着せられると、神が乗り移ったかのように舞えるものだという。

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そして、恵蘇八幡宮でも筑紫舞を舞うように神示が降りたと電話があった。

それは伝承者がまだ他にもいたという事だ。
その人は引退していたのだが、子育ても終わって、時期が到来したという事らしい。
実際に舞われたのかどうかは分からない。

筑紫舞は蘇ろうとしている。
神仕組みが働いている。

これは私には救いだった。
私たちは神々に見捨てられていない。

今、日本は窮地に立っている。
私たちは国土を失うかもしれない。

かつて新羅と言われた浜にある古里原発と伊都国の横の玄海原発。
そして福島原発は危機に瀕しているのだ。

日本政府は原発を止めようとしない。
十数万人が首相官邸を取り囲んで大飯原発の再稼働を反対しても、
ニュース報道もされない日本になってしまった。

日本政府はガレキを拡散して、放射能で国土を汚染させる政策を取っている。
神々が造ったこの奇跡の列島を。

日本の神々はそれでも私たちを守ろうとしてくれている。
神々もまた私たちが必要なのだ。
人間の祈りと清らかな大地が。

筑紫舞が復活しようとしているのはその表れではないかと思った。
少なくとも私は勇気を得た。
まだ神々に見捨てられていない。

私たちは神々に応えられるだろうか。
私たちは大地なしには生きていけないのだ。






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※ コメント欄で、一時、西山村光寿斎を西村検校氏と間違えたと書いてしまいましたが、やはり西山村光寿斎氏でOKでした。
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by lunabura | 2012-07-15 12:09 | 宮地嶽神社と古墳・福津市 | Trackback | Comments(26)

手光波切不動古墳・ここからも金銅製の馬具が出土した


手光波切不動古墳

てびか・なみきり・ふどう
福岡県福津市手光
ここからも金銅製の馬具が出土した

宮地嶽古墳の小型古墳と言われる手光波切不動古墳から
金銅製(金メッキ)の馬具が出土しました。

以前、このブログで簡単に触れた古墳ですが、
今回は在庫の写真で改めて見直したいと思います。

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この古墳は福津市の県道97号線沿いにあり、民家の間に参道があります。

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江戸時代以降に開口したそうです。

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石碑には「手光波切不動尊」と書かれていて、
入り口の左右には仏像などが安置出来るようになっていますが、現在は何もありません。

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腰をかがめて入ります。切石の一辺は1.5mほどです。
表面にはリズミカルなノミの跡が見られます。

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天井石のようす。きっちりと組まれています。

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祭壇がある所は両手を広げた位の横幅で、前室と後室に分かれていて、
後室の奥行きが2.1m。棺を置くのに丁度いい寸法です。

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前室と後室の境目のようすです。

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これが実測図です。

宮地嶽神社の古墳と基本構造が同じだそうで、
これを先に造ってから宮地嶽古墳を造ったという説と、
逆に後続の古墳で、小さく造らなくてはならなくなったという説があります。
龕(がん)はこちらにはありません。

今度「宗像・沖ノ島と関連遺産群」が世界遺産の暫定リスト入りした事を受けて、
この古墳を改めて発掘調査したところ、金銅製の馬具が出土したという事です。

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これを読むと宮地嶽古墳の被葬者が「胸形君徳善」と決まったような書きかたに
見えますが、如何でしょうか。
これを管理する宮地嶽神社はそれを否定していて、磐井の君の一族として祭祀しています。
近くには磐井の君の子の葛子以外の子供の古墳もあり、
全体の調査なしに「徳善」と決めてしまうのには私も疑問を感じています。

また手光波切不動尊-宮地嶽古墳を一緒に祭祀し続けた武内氏の一族もあります。
この手光波切不動尊を参拝してから宮地嶽古墳に参拝していたそうです。

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宮地嶽へは約1.5キロで、参拝道は現在とは違っていたそうです。

宮地嶽古墳には筑紫舞が奉納された記録もあり、多方面から総合的に調査した上で、
被葬者についてもっと論議を尽くして欲しいなと思っています。

いずれにしろ、これからの調査報告が楽しみです。




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地図 てびかなみきり不動神社

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by lunabura | 2012-03-21 20:14 | 宮地嶽神社と古墳・福津市 | Trackback | Comments(0)

宮地嶽古墳・副葬品が外にあったのは何故?・出土状況が明らかに


宮地嶽古墳
福岡県福津市
副葬品が外にあったのは何故?
出土状況が明らかに

宮地嶽古墳について書くのは何回目かな。
あの巨大な金銅製の剣や美しい鐙(あぶみ)たち。

それらが発見された時には古墳の外にあったという不可解な話について、
綿密に聞き取り調査をした論文を福津市の文化財課から提供頂きました。
「筑紫・宮地嶽古墳の再検討」池ノ上宏・花田勝弘著
(『考古学雑誌』第85巻 第1号 1999.12)

これによって、副葬品が古墳から一度外に出されて、外に埋められたのが、
次々に再発見されていった経緯が分かりました。
今回はその論文を片手に宮地嶽古墳の周囲を歩きます。

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梅雨の大雨が上がった翌日に行くと、古墳の中は雨漏りがして、
床には水が溜まり、祭壇の灯が写っていました。
この古墳が開口したのは江戸時代です。

寛保元年(1741)に大雨の後に古墳が開口し、
延享4(1747)年に奥壁部に不動尊を祭る。
当時は床は0.9mほど土砂で埋まっていた。龕(がん)はすでにあった。

龕とは、岩を直方体に切り取った謎の穴です。左右にあります。
上の写真でも、左の岩の下の方にチラッと見えますね。

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明治35年の絵。穴不動と書かれている。石室の前面が露出している。
盛土だけで、現在の列石はない。
昭和3~4年。国宝の一群が数回にわたり出土し、主要なものは山斜面に埋められた。


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昭和5年に不動神社は宮地嶽神社に合祀される。
当時、宮地集落の氏子150戸が知られ、不動信仰が江戸中期から行われる。
列石が置かれ、墳丘に盛土がされる

古墳の周囲にはこのように列石が置かれて、崩壊を防いでいます。

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この年から東の丘陵上に不動明王立像群が祀られる。
社務所の横から裏の方に歩いて行くと、不動明王や観音像など、
沢山の石像が置かれていて、現在でも信仰が行われていました。

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昭和9年3月。社務所建設に伴い、傾斜面を55センチほど掘り下げたところ、
馬具・刀剣類が出土する。再埋納である。
出土品は石室に納められたが、社務所へ移動する。

写真は復元レプリカです。

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写りが悪いけど、再埋納されていた状態です。
馬具と太刀などが、きちんと揃えて埋められていたので、
古墳内で発見されたものが丁寧に土の中に埋められたのがわかります。

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昭和11年に西山村光寿斎師は筑紫舞が石室内で取り行われていたのを目撃される。
石室内は立って歩けるし、大人が10人ぐらい入っても平気です。
筑紫舞は大変古くから伝わる謎の舞ですが、
何と宮地嶽神社に受け継がれていました!今でも舞が奉納されています。
私がある日たまたま拝見した舞がそれなのかな。
今年も秋に舞われると聞いています。

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昭和13年2月にガラス臓骨器が発見される。
植樹に伴う作業中、表面下約一尺で偶然陶質の合わせ甕の一方の上底を掘り当てて、
その中から蔵骨器一具を得た。
内容器のガラス臓骨器内には焼骨片が残っていたようだ。
12月には石室から得たガラス板2点・金環1点が寄贈される。(金環は後に盗難)

臓骨器については、古墳内の遺体が、
ある時期に火葬されたのではないかというのが神社の見解でした。

昭和11・14年に馬具・刀剣類・ガラス壺の一群が旧国宝に指定される。

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昭和26年金銅製冠をパラフィンで固定し取り上げる。

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これは古墳の右から宮地嶽山頂に登る登山口です。
この道の先あたりに冠は埋められていました。

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平成8年に、池ノ上宏・花田勝弘両氏によって最奥まで実測される。
全長23.5~24mで無袖の横穴式石室の奥に広義の横口式石槨を設ける。
石槨は幅1.75×長さ3.5m。
玄室は長さ11.7m前後で、奥壁幅2.5~2.8m。高さ2.2~3.1m
左右に龕があり、左龕は長さ1.9m×高さ1.5m、奥行0.7m。
右龕は長さ1.9m×高さ1.3m、奥行0.7m。石材は恋の浦海岸の礫岩。

祭壇の奥に存在していた石槨が、この時初めて測量されました。
宮司さんの話によると、中に入ったら空が見えたとの事。
人を埋葬するには狭すぎるという印象だったという事です。
るな的には、龕の大きさと比較するとサイズが大きめなので、
木棺かまたは直葬なら置けるかもと思いました。

図の左から3枚目の所にある切り込みが龕(がん)です。
ここには左右に遺体が置かれていたというのが神社側の見解です。
被葬者については、
「決して宗像徳善ではない。現在でもここでは磐井の末裔を祭祀している」
との事です。

出土場所
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社務所の裏手から馬具類、火葬墓、山に登る途中から冠が出土。

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上の地図の「古墳」と書かれた辺りから東側を撮りました。
左が古墳の入口の御堂。正面が社務所。その裏の山が不動信仰のある所です。

何故出土が伏せられたのか
明治元年の「神仏判祭令」により、神社統制が厳しかった事と、
古墳を無断で掘り下げたのが、治安維持法に抵触する可能性があったため
と考えられています。

出土品を見るには
現在、古墳の被葬者のものと思われる蔵骨器だけが神社に返還されていて、
残りは全部九州国立博物館に展示してあります。

以上のことから、
江戸時代に大雨で開口した時は古墳の中は土砂でかなり埋まっていて、
その土砂を掻き出す時に副葬品が一緒に出され、
立派なものは周辺に丁寧に埋められ、
細かいものなどは山積みされた土砂の中に埋もれていたのが分かりました。

頭椎の太刀がぐしゃぐしゃになっていたのはこの為だったと分かって、納得。
謎が一つ解けてようやく安心です。


宮地嶽古墳について
 
宮地嶽神社(5)奥の宮不動神社(1)
巨大古墳だった。3mの頭椎の太刀はどうやって持つのよ。
http://lunabura.exblog.jp/14559788/


宮地嶽神社(6) 奥の宮不動神社(2)
ここには独立したクニがあったよ
大王を祀っていた新たな氏族を発見
http://lunabura.exblog.jp/14574444/


宮地嶽神社(7)奥の宮不動神社(3)
奉納された筑紫の舞と韓国のムーダンの舞
光さんがこの巨大古墳に奉納された二つの舞の話をしてくれました。
http://lunabura.exblog.jp/14592489/




地図 宮地嶽古墳(宮地嶽神社)



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by lunabura | 2011-07-31 18:30 | 宮地嶽神社と古墳・福津市 | Trackback | Comments(2)

宮地嶽神社 サクラが咲いた sanpo


宮地嶽神社 3月
開運桜と寒緋桜

天気がいいけど、風が冷たいよ。
今年は桜を見に行くのが遅れちゃった。
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開運桜。
あいかわらずのピンボケで失礼。

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ちょっと遅かったけど、こんな姿もきれいだよ。

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次に咲くのは寒緋桜。
拝殿のすぐ横のとても大きな桜。

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どう?御神体山と一緒に、おすまし。

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まだ、一分咲きとも言えないほどだけど、
これから花が開くと、メジロたちが大集合します。

今年もみんなで開運~。




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by lunabura | 2011-03-09 18:01 | 宮地嶽神社と古墳・福津市 | Trackback | Comments(2)

宮地嶽神社 (Ⅰ)

宮地嶽神社 (Ⅰ)
みやじだけ
福岡県福津市宮司元町7-1

民家村自然広苑の夏(7月)

宮地嶽神社の本殿でお参りしたら、
右手奥の方から裏手へ行ってみましょう。
広い広い境内では、民家村と四季折々の花が
人々を迎えてくれます。

今日は夏の自然広苑を紹介します。

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緑陰の濃くなった桜の道をゆるやかに下ると、広場です。
ここに立つだけでいのちが喜ぶような所です。
木立の美しさに誘われて、左の方の小道をたどりました。

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あのベンチに座りたい!
なんて素敵な木立でしょう。

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ずっと左へ左へと行くと、藁ぶき屋根が。
アジサイがひっそりと咲いています。

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こんな素敵な古民家がいくつもあって、
中に入って見る事が出来ます。

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振り向くとこの神社の山、在自山(あらじやま)が正面に見えました。
烏帽子(えぼし)そっくりなので、烏帽子山とも言います。

神名備山(かむなびやま)です。
神様のナビゲーション。
なんて、偶然ですが、全くその通りです。
昔の灯台がわりの山です。

「え?この山にも神功(じんぐう)皇后が登ったんですって?」
なんと行動的な皇后さまでしょ。
伊野天照皇大神宮にも書いてます。)
(⇒ 右カテゴリからリンクしてます。)

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「ねえ、何してるの?」
写真を撮りまくるルナに鳩が興味しんしん。
「写真撮ってるよ。」
「私も撮って!」
「ええ、もちろん撮ってますよ。」
カシャッ。


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ホントは、こちらを撮ってたんです。
この小川が菖蒲園をうるおし、境内の湖に流れ込みます。


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とても穏やかな湖で、岸辺に降りて遊ぶことも出来ます。
向こう岸のフェニックスのシルエットが、
ここは南の地だよと教えてくれてます。

そこに立つと、海が見えますよォ。
海の写真?今日は無しです。<(_ _)>




いかがでしたか。
ルナのとっておきの宮地嶽神社の自然公苑でした。
お正月の初詣はすごい参拝客ですが、
雨上がりの夏の昼下がりは、こんなにゆったりと過ごせます。
季節ごとの神社のようすをこれからも折々に紹介したいと思ってます。

なんで本殿の写真がないのかって?
この神社は広いこと。広いこと。
テーマを絞って紹介しないと、うまく伝えられません。
今日は7月の自然公苑だけを紹介しました。

また別の季節に撮りに行ってきます。
何度行っても楽しい神社ですから。(*^_^*)  

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by lunabura | 2010-06-14 20:38 | 宮地嶽神社と古墳・福津市 | Trackback | Comments(0)

開運桜と神馬


宮地嶽神社(2)
みやじだけ
福岡県福津市宮地

開運桜と神馬(2月)

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拝殿です。日本一の大きさを誇る大しめ縄がかかっています。

今日は3月中旬の暖かさ。桜を求めて宮地嶽神社に行って来ました。(気が早いですねえ。)
やっぱりありましたよ。その拝殿から右の方に回ると、桜が咲いてました!

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家に帰ってみると、夕刊が届いていて、この神社で真っ先に咲く開運桜だと書いてありました。

じゃあ、この御利益を皆様にと、早速、お届けします。

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こちらは御神体山と狛犬。

今日のもう一つのお目当ては神馬です。民家村の左奥にいます。
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退屈そうに、ロープに歯をこすらせて、音をたてて遊んでました。
「ねえ、広い所で撮りたいんだけど。」と、言ったら、桜の木の下に移動して、しばらくポーズ。
三分ほどして、また戻って来ました。ホントに聞いてくれた?!

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この神馬は大祭の時に宮司さんを乗せて歩きます。もと、競馬だったそうです。
ステキな一枚を有難う。

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by lunabura | 2010-06-13 17:56 | 宮地嶽神社と古墳・福津市 | Trackback | Comments(6)

宮地嶽神社(3)6月の菖蒲まつり

宮地嶽神社(3)

福岡県福津市宮地
6月の菖蒲祭りに行きました。
今年の祭王に選ばれる女性歌手は誰かな


さあ、今日は、海岸の一の鳥居から神社に向かって行きましょう。
ここは玄界灘。津屋崎海岸です。宮地浜と言います。

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海から上がって、長い参道を歩きます。両脇は人家です。2キロほど歩いたでしょうか。
お店がたち並ぶ参道を通ると、ようやく境内の石段に着きました。

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今日は菖蒲祭りの最中です。石段の一歩目からずらりと、菖蒲が並んでいます。
すべて鉢植え!すごいおもてなしです。

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石段をいくつか登りきった所で左に曲ります。

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正面に御神体山が見えます。ここからは三輪山と同じような形に見えますね。
ここも左右に菖蒲が…。

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二つの鳥居を過ぎて、さらに右に曲りました。ようやく神門が見えて来ました。

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神門を入ると、広い拝殿前の境内にも、埋め尽くされた菖蒲。
ここは普段は玉砂利が敷き詰められているんですよ。
それを全部菖蒲で埋め尽くすなんて。なんとありがたい。
参拝者を迎えられる神社のもてなしの心に頭が下がります。

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拝殿です。しめ縄の大きさは日本一です。

神社の境内案内図がありました。
c0222861_15171366.jpg

現在地は左下、御本殿の前ですよ。


前回は右奥の「民家村、自然公苑」と「みやz00」を紹介しました。
今回から数回かけて、奥の不動神社まで行きたいと思います。

この綺麗な色の案内図には由緒書きも書いてあったので、書き写します。
御祭神
息長足比売命(おきながたらしひめのみこと)(神功皇后)
勝村大神
勝頼大神

御創建は約1600年前。当社の御祭神「息長足比売命」別名「神功皇后」は第14代仲哀天皇の后で応神天皇の母君にあたられます。

古事記・日本書紀等には渡韓の折、この地に滞在され、宮地嶽山頂より大海原を臨みて祭壇を設け、天神地祇を祀り、
「天命を報じてかの地に渡らん。希(ねがわ)くば開運を垂れ給え」
と祈願され船出したとあります。

その後、神功皇后のご功績をたたえ、主祭神として奉斎し、随従の勝村・勝頼大神を併せ、「宮地嶽三柱大神」としてお祀りしました。当社は、全国に鎮座する宮地嶽神社の総本宮です。


御祭神は神功皇后でした。
この神社も神功皇后が来て、山に登って、天地の神々に祈っています。
この祈りが通じたのか、新羅攻撃は勝利をおさめて凱旋します。
このことから、この神社は開運や勝利などを願う参詣者が大変多く、
今年のお正月は、ついに入場制限があったと聞きました。

華やかな秋季大祭
秋季大祭では、歌手が祭王に選ばれて、十二単衣で牛車に乗って参拝されます。

初代祭王が奥村チヨ。そのあと、小柳ルミコ。五代マリ。小林幸子。
三沢あけみ。島倉千代子。八代亜紀。天童よしみ。石川さゆり。などなど。

選ばれた年には、必ず大ヒットするので、女性歌手は選ばれるのを心待ちにすると聞いています。
今年は誰なのか、楽しみですね。

2010年度
菖蒲祭り 6月13日(日)まで
秋季大祭 9月21日~23日
菖蒲はまだまだ三分咲きでしたよ。(6月5日現在)

(つづく)



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by lunabura | 2010-06-12 15:11 | 宮地嶽神社と古墳・福津市 | Trackback | Comments(4)

宮地嶽神社(4)御祭神の謎にチャレンジ

宮地嶽神社(4)

御祭神の謎にチャレンジしました
時代による御祭神の変遷


c0222861_1763112.jpg

(自然公苑の菖蒲園)

さあ、今日は御祭神について見て行きましょう。

現在は神功皇后勝村大神勝頼大神、となっています。
勝村、勝頼の二柱はどなたなのでしょうか。

まず、一番目の神功皇后はすっかりお馴染みになりました。
香椎宮から始まった『ひもろぎ逍遥』ですが、
半分ちかくのお宮は神功皇后関連だったでしょうか。
これまで、点と線だった皇后の行動が、だんだん「面」で捉えられるようになって来ました。

香椎宮から東の方では馬や船の軍事訓練をしたという伝承を
皇石神社で書きましたが、さらに東に行った
この宮地嶽神社でもその伝承を見つける事になりました。

宮地という地名そのものも、神功皇后が滞在した事が由来のようです。
どうやら、皇后の時代は都が定位置にあったのではなく、
天皇の居る所=みやどころ=みや(都)というイメージがあったように感じて来ましたよ。

さて、皇后がここに来られた時には、天皇の死は隠されています。
しかし、妊娠していたと思われます。

そんな皇后がここで宮地山(180メートル)に登って天地の神に祈ったと言い伝えています。
皇后はどの神に祈ったのでしょうか。
それが宗像三女神(むなかた・さんにょしん)でした。

昭和48年に発行された津屋崎町教育委員会の「つやざき」にその手掛かりを見つけました。
まずは、『神社帳』から抜粋します。

神社帳より
祭神
タキリビメの命、サヨリビメの命、勝頼神
タキツヒメの命オキナガタラシヒメの命勝村神

当社の縁起ではこう言っている。
宮地嶽大明神、勝村大明神、勝頼大明神、
それぞれの名前は、阿部相函、藤高麿、藤助麿云々。

伝説では、昔、神功皇后が新羅を征された時、宮地岳の山上にて宗像三柱大神を祭らせられ、
ついに新羅に勝って還幸されたことから、宗像大神を奉斎され、後に神功皇后を配祝した。
勝村大明神はすなわちこの方である。

この神の名は新羅を征し、勝を得たという事からついた名前で、
社も昔は山上にあったのを、後に移転している。
また、近くの村、勝浦村にも勝浦岳神社がある。

祭神は神功皇后なので、勝浦という地名も、
異国を征したことから来たと、風土記拾遺にも書いてあるので、
勝村大神は神功皇后である事は疑いない。

あれあれ、「勝村大明神は神功皇后だ」と言っていますよ。

これはいつ頃の記事だろう。
明治時代に社殿が焼失した記事が載っていますから、明治以降の記事です。
この『神社帳』の意見を分かりやすくするために、
宗像三女神を赤に、勝村大明神と神功皇后を緑にしました。

なるほど、『神社帳』の著者が言いたいのは、
神功皇后が山頂でお祭りした神が宗像三女神なのだから、
宮地嶽の山頂の神は宗像三女神なのだという事なのですね。
(そう言われるとそうかも…。)

勝村大明神は、勝って帰って来た事から、神功皇后だと言う訳ですね。
(そうか。そう来るか。)

結構いい所をついてますねえ。現在の三柱と真っ向対立です。

このままでは、迷路にはまりそうなので、この人が参考にしたという
『筑前国風土記拾遺』の方を見てみましょう。これは江戸時代の本です。

宮地嶽大明神社
村中の小高い山の上にあり、石の階段、数十段を登る。昔は、宮地嶽の山上にあった。
今、その跡を古宮という。そこに清水があって、禊の池という。
昔、社があった頃には使っていたという。

『宗像宮社記』に書いてある。
「宮地嶽明神内の二社は宗像三女神と勝村大明神だ。」と。

社説(宮地嶽神社自身?)には中殿に阿部函相(宮地嶽大明神)、
左に藤高麿(勝村大明神)
右に藤助麿(勝頼大明神)
三座であるという。
この三神は神功皇后の韓国を討った時の功績があった神だという。

なるほど、参考にした宗像宮の由来と、宮地嶽神社の由来が微妙に違っていたんですね。

『神社帳』を書いた人のこだわり振りから見ると、古来、宮地嶽大明神は誰であるか、
勝村、勝頼の神は誰であるか、論争があっているのだけが分かりました。

どの神が誰であるかは、ここで決める事ではありませんので、
この神社の伝承のモチーフだけ、考えましょう。

まず、この宮地嶽に住んでいる豪族がいた。その縁で、神功皇后はここにやって来て滞在した。
その間に、古宮である宮地岳に登って戦勝を祈った。そこで祀った神は宗像三女神である。

皇后が凱旋してから後、ここには宗像三女神と神功皇后が祀られた。
一緒に活躍した地元の豪族も後に神として祀られた。
その豪族の一員が藤高麿や、藤助麿である。
この豪族には同じ時代の人や後の時代の人が混じっている。

こんな所のようです。

時代が下がって行くに連れて、祭神が追加されていき、
後世の人々には、どの神がどの人が分からなくなってしまいました。
数百年間の有名神・人が一緒に祀られているための混乱だと見ました。

ここには、神功皇后を招いた豪族がいた…。
ここは宗像国なのでしょうか、那の国なのでしょうか。
それとも第三の国でしょうか。

石井忠氏によると、「西郷川が那の国のその境目だろう」という事でした。
地図を見ると、この神社はそれより、ちょっと宗像よりになります。
那の国と宗像国の間の丘陵地帯…。

なんで、こんな小さな事にこだわるのかというと、ここに巨大古墳があるからです。
それは奈良の石舞台と日本1、2位を争う大きさなのです。
しかも、例の3メートルを超す、やけに長い金銅製の太刀。
この古墳は、日本の歴史に関わる巨大さなのです。

さあ、ではその古墳を見に行きましょう。

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本殿の右端から出て、奥へ奥へと木漏れ日の中を歩いて行きます。
(つづく)

地図 宮地嶽神社 西郷川 



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by lunabura | 2010-06-11 17:22 | 宮地嶽神社と古墳・福津市 | Trackback | Comments(0)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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