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カテゴリ:出目・袴着天満宮・久留米( 1 )

出目天満宮・袴着天満宮/御神体は天体石 菅原道真


出目天満宮・袴着天満宮 
久留米市御井町高良山
御神体は天体石 
菅原道真

祇園山古墳のすぐ手前に、小さな神社があります。
大きく書かれた「出目天満宮・袴着天満宮」の文字。(でめ・はかまぎ)
周りに何もない所での、そのアピール力は抜群。
それでなくても、神社好きにはたまらない。やっぱり寄りました。
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緑なす里山の中のたたずまい。

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拝殿が比較的新しいようです。

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拝殿の右では石の御神体を祭ってました。この祭り方は珍しいですね。おや?

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さらに、その右側にも石の御神体が。三角形の石です。
こちらには「袴着天神天体石」と書いてありました。
(はかまぎ・てんじん・てんたいせき。)
さすが地名研究会と一緒なので、口々に由緒を教えてくれます。

「袴着」の由来は、その菅原道真公が高良山にお参りするために、
ここで綺麗な袴に着替えたという事のようです。
「天神さま」といえば、福岡では菅原道真公を指します。

この三角形の御神体石には梵字も彫ってありました。
昔から信仰のある岩に梵字が彫られるのはよくある話で…と、行き過ぎようとした時、
「むむ。天体石?天体って星じゃない。星。星?石の裏に何か手掛かりがある…かも?」
と閃きが…。

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植木との隙間に身をよじって覗きこむと、おお!杯状穴が!いくつも…。
明らかに人工的に彫ってあります。
この写真でも、右半分にいくつもあるのが分かると思います。
上半分には穴がカーブを描き、かつ右下に向かってまっすぐ並んでいます。

この杯状穴の並び方は星座を表しているのかも。
半円になる星座って冠座かな、と野尻抱影氏の星の本を調べて行くうちに、
よく似た半円形のコップ座という変わった名の星座を見つけました。
これとうみへび座を組み合わせるとそれっぽいけどなあ。

でも特定できないな、と諦めて、次に眞鍋氏の本を開きました。
「うみへび座」なんて載ってるかいな、と探してみると、これがあるんですね~。
そこで読み進めると、なんと菅原道真の名前が出て来ました。何でここに?…
という事で、今日はその一部だけ。

うみへび座アルファド星飛廉(ひれん)の星と言う。
フェニキア人(比鸞人・ひらん)が日本に渡航したのは、エジプトの第6王朝ネコ二世(前611~595)が、喜望峰を東に船隊を派遣した頃から始まっていた。
プトレマイオス(前304~30)の世界地図に現在とほとんど変わらぬ極東の形が描かれているのがこの背景にある。

宮中の賢所(かしこどころ)では元来は日月星の神を祀っていた。
「かしこ」とは観星台、即ち琉球の「ぐすく」から派生した「ごしょ」を
平安時代の女官が改めた名前である。
神社の三光の流紋、三つ丸、三つ巴はこの象徴であり、
藤原時平(871~909)の顔色を伺いながら、延喜式の頃に創作されたと聞いている。

藤原氏は太陽神一つに信仰の対象を絞った。
それまで信仰されていた太陰神と石位(いわくら)神をことごとく、
イザナギ・イザナミ神の系統に合祀していった。
高木の神もその一柱で、タカミムスビの神を高木の神とした理由はわからない。
これに真っ向から対決したのは菅原道真(845~903)であった。

一つずつ確認して行きましょう。

エジプト人が渡来した話は南十字星の和名の所で書きましたが、
フェニキア人もやって来たという事です。
喜望峰はアフリカの最南端。スエズ運河がないので、航路は南廻りだったんですね。
プトレマイオスはアレクサンドリア図書館の管理者です。
古代の原資料をもとに自分の地図を作製したそうです。

紀元前の人ですから、ずっとその前に世界地図が存在している訳ですが、
その地図は20世紀の高度な測量法でしか描けない詳細なものだそうです。
(参考『神々の指紋』グラハム・ハンコック)

ピラミッド付近から出土した太陽の船を見ると、外洋の船旅も十分可能です。
(ピラミッドが作れるくらいの人たちですし。)
ネコ2世が派遣した記録があるのなら、紀元前600年頃。
日本では縄文と弥生の混在期です。
伊都国で出土したビーズが北アフリカ・西アジア・欧州でしか造られないものだったのは
昨年明らかになりました。(⇒三雲・井原遺跡
研究が進むに連れて、縄文・弥生の国際的な交流が見えて来ています。

さて、フェニキア人の名前は意外な所からも出ています。
与那国島の海底神殿は誰でも知っていますが、木村政昭琉球大学教授が
調査を重ねて、ついにフェニキア人の神殿だと発表されています。
これが3世紀付近らしい。
「ぐすく」が観星台で、それが宮中では「賢所」になったとすると、
古代史の研究法ももっと意識の変革を要する事になります。

暦を作るための観測資料が「日月星」だったのは三光紋として今でも残っていますが、
藤原時平はこれを「日」一つに絞ろうとしたという事です。

菅原道真を左遷させたのがこの藤原時平ですから、この政争は単なる政権争いでなく、
太陰・星暦VS太陽暦の採用の争いだったという事が読み取れます。
なるほど。これなら道真は絶対譲れなかったはずです。

筑紫に流された道真については伝承が沢山あり、天拝山で祈ったというのは有名です。
それに加えてこの久留米市でも祈ったという事が、
この袴着天満宮の伝承から伺えて来ました。

菅原道真の先祖はアメノホヒの命だ、と「新撰姓氏録」に書いてあって、
アメノホヒの命は熔鉄の神だそうです。
(この神は天照大御神の息子で、出雲制圧の為に最初に派遣された神です。)



さて今度は方向を変えて、もう一つの出目天満宮の方をネットで探す事にしました。
幸運な事に「御井町誌」が掲載されていて、由来が書かれていました。

この袴着天満宮はもともと近くの御井小学校の校庭のムクの大木の下にあったのが、
出目天満宮に移されたと書いてあります。
ところがその後、出目天満宮が高速道路建設に引っかかったために、
現在の地に二つとも移転する事になったという事です。

え?すると、椋の木の下にこの天体石があった?
これまで、このブログに何度も出て来ましたが、
隕石を使う鉄の民は隕石が落下した所に、目印として椋の木を植えていました。

すると、この御井小学校でも、古代に隕石が落下して、椋の木を植え、
天体石を据えて祀った可能性が出て来ました。
(現存する椋の木は当然、数代目のものです。)

すると道真公は、隕石落下の聖地の事を知って、参拝に来た可能性がある?
これが袴を着替えてまで祈った理由?ちょっと想定外の話になりました。

御井小学校では、まだムクノ木は残っているのでしょうか。
道真公は学問の神様ということで、袴着天満宮が敷地内にあった時は、
とても親しまれていたそうです。

(出目天満宮についてご存じの方、教えてくださいませ。)

地図 出目、袴着天満宮 御井小学校





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by lunabura | 2011-04-08 11:30 | 出目・袴着天満宮・久留米 | Trackback | Comments(2)
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