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カテゴリ:高良下宮社と周囲・久留米市( 13 )

高良玉垂宮神秘書 麓の一火 八咫鏡の威力 秘すべし


 麓の一火 

高良玉垂宮神秘書
八咫鏡の威力 
秘すべし


さて、高良山にもたらされた三つの玉、「神璽の玉と干珠と満珠」の霊力「一火」は上宮の神殿から駆け降りて八葉の石畳を巡って再び神殿に戻る不思議な力ですが、麓にも「一火」がありました。

それは三種の神器の一つ、「八咫鏡」の霊力でした。

麓の「一火」というものがある。

その神威は大祝居屋敷を出て南の丘に出、馬場の堀、下宮、本躰所を巡り、阿志岐、不開(あけず)を行き、朝妻を渡り、矢取の前を通り、瓦礫場に上がり、元の丘に留まった。

この謂われは玄孫大臣が異国を攻められた時から皇宮に行くまで内侍所を預かられたのを、御子の日往子命へ譲られたので、当山までも随身されたので、今に大祝職の家に伝わっている。

(神霊が)この鏡に現れて入られたので、麓の一火となった。スイ体である故に、自然に人の目に掛かる事もあるか。かの丘と申すは大祝職日往子命の廟である。

山上の一火は金剛界、麓の一火は胎蔵界、火タイ、水タイのフニを表している。秘すべし、秘すべし。神秘なり。(高良玉垂宮神秘書215条)

(カタカナは原文のまま。漢字不明…候補の漢字、募集します^^)

まずは、言葉の解説をしましょう。
○「大祝居屋敷」(おおほうりいやしき)-大祝家の屋敷があるところで、大鳥居から参道に入って約500メートル、右手にあった。


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(大鳥居)

○南の丘―祇園山古墳がある所。方墳で、頂上のみ発掘されているが、横穴式古墳という記録がある。また、濠があったという記録もある。現在一部が高速道路になっている。玄孫大臣の子・日往子(ひゆきこ)尊の廟。


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(祇園山古墳。右は高速道路の塀)




○玄孫大臣(げんそん・ひまこ)-第一条では物部連で、日往子(ひゆきこ)の父とするが他の系図と矛盾がある。三種の神器の内、鏡を預かったまま高良山へ随行する。

○内侍所(ないしどころ)-三種の神器の一つである神鏡を安置した所。ここでは神鏡そのものを指す。八咫鏡。神功皇后から預かったものだが、子供の日往子命に譲った。そして、その鏡の霊力が「一火」となった。

○「一火」が回るルートの地名は現存している。参道の大祝居屋敷からいったん祇園山古墳に行き、下宮などを巡り北麓から朝妻(味水御井神社)を巡って丘に留まる。五十年に一度の勅使祭の前半ルートにほぼ重なっている。



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(下宮で挨拶をする神輿)


○「秘すべし、秘すべし」-有名な文言で、本書の数か所に出て来る。

以上、かなり、マニアックというか、地元の方にしか分かりにくい話でもありますが、「一火」は初めて知る話なので紹介しました。

仲哀天皇の崩御後、三種の神器は剣を神功皇后が持ち、八尺瓊の玉は高良大菩薩が、そして八咫鏡は玄孫大臣が預かり、凱旋後にそのまま高良山にもたらされたということです。

そして、玉の霊力は干珠満珠と合わせて上宮の「一火」となり、鏡の霊力は麓の「一火」となりました。のちに仏教思想によって「山上の一火」は金剛界、「麓の一火」は胎蔵界を表すということになりました。

この「一火」が高良山を照らしていますが、火が消える時、高良山は滅亡すると書かれています。

さて、ガイドブックでは高良玉垂宮・高良下宮社(上巻26)、味水御井神社(上巻27)を紹介しています。回る時には、三社とも回る事をお勧めします^^





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湧水量が復活していた味水御井神社の泉。中央の石が御神体。



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by lunabura | 2015-07-27 23:40 | 高良下宮社と周囲・久留米市 | Trackback | Comments(4)

安曇と高良山と百済王子


安曇と高良山と百済王子

高良の神=竹内宿禰。
高良玉垂命=海神とそれを奉斎する安曇磯良。
として話を進めています。

『高良山雑記』には安曇のことも書かれていました。
(安曇の表記は阿曇でなく、安曇となっています)

安曇磯良と末裔たち
①干珠満珠社 
神代村安国寺境内にある。玉垂命干珠満珠を納め祭られた所と言う。社司は神代氏(高良山略記)。
神代は「くましろ」と読みます。地名でもありますが、「神代家」が存在しています。
次は以前書いた高良山の武内家の系譜。そこに神代家が出てきます。

②武内宿禰三十二代孫
美濃理麿保続―― 武良麿保義・・・・・・大祝家の祖
       - 武勢麿保続・・・・・・神代家の祖
       - 武見麿保依(隆慶)・・坐主家の祖
       - 武賀麿保通・・・・・大宮司家の祖
小祝安曇姓、権大宮司安曇姓、神官八人、乙名十二人、士分百廿、勾当五人、惣仙当、検校、鍛冶番匠等の諸役人があった。
美濃理麿保続の四兄弟が四家になった時、神代家が生じています。
他の家は神仏に関わる家ですが、神代家は筑後川から高良山に向かう湊にあって、
警護を司る家だったようです。

その神代に安国寺があり、その境内にある干珠満珠社は
玉垂命が二宝珠を納めて祀った所だと伝えていました。

ネットで見ると、安国寺は今も立派に残っていますね。
干珠満珠社が伝わっているかどうか、現地の方に教えていただければと思います。


神功皇后伝承地を並べながら、磯良の足跡を推定したルート上にこの高良山があります。
当ブログでは既に、また『神功皇后伝承を歩く』の下巻でも展開しますが、
神功皇后の誠意に心打たれた安曇磯良は皇后の船の舵取り、即ち船長となって、
新羅に赴き、帰路は皇后とは別船で風浪宮に向かいます。

ルートは長崎の西沿岸沿いです。
そして風浪宮に到り、大善寺玉垂宮に着きます。
一番の仕事は弓大将の国乳別命を送り届けることだったと思います。

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(対馬あたりは左から右へとなっているようなので、いずれ書き換えます)

大型船だった船は大善寺でストップ。
さて、磯良はそこからどのルートを辿ったかと考えた時、
三瀦族の帆掛け舟に乗って高良山に向かったと考えました。

その推測がついに神代村安国寺の干珠満珠社に繋がりました。
まさか、るなの推論の証拠が出てくるとは思わなかったです。

これで、②の「小祝安曇姓、権大宮司安曇姓」の起源は明らかですね。
安曇族の祭祀官が当地に残ったと考えらます。

るな的には、この船には竹内宿禰と妻の豊姫も乗船していただろうと思っています。
豊姫は神功皇后の影武者(ダミー)だったと考えているのです。

そして、赤司八幡宮で出産したのはこの豊姫。
だから、赤司八幡宮は「豊比咩神社」という社号だったというストーリーです。

③高良社仕人 
高良社草創以来の仕人は
丹波氏(俗体大宮司法体坐主兼宮師職、武内宿禰嫡流)、
物部氏(祝司、大祝、小祝職、武内宿禰乳母の子孫)。
安曇氏(磯良の子孫、筑前磯鹿浜の辺に住む、三韓征伐の時の梶取なり。その嫡孫は安曇氏を称す。後、三潴酒見村の風浪宮神主となる)、
百済氏(百済王子、降人)、前田氏(下宮大宮司)、草部氏(御供所、三毛郡司)等、此の外仕人多数なりしも中古に至り滅ぶ(高良山日記、千手院文書)。
高良社仕人の中に「安曇氏」が出てきました。
「磯良の子孫で、三韓征伐の時の梶取」が高良山にいる理由もこれで納得です。
そして、後に「風浪宮の神主となる」とあります。

風浪宮は筑後川~有明海を納めるのに重要拠点。
磯良の船には子供も乗っていて、当地を掌握させたと考えています。

この嫡孫たちは玉垂命の嫡孫でもあるわけですが、「九躰皇子」とは違うような気がしますね。



百済王子
さて、③には百済氏が仕人の一員として書かれています。
百済王子で、「降人」と書かれています。
秘密書では「かうじん」?と書かれているらしく、あれこれと論があるようですが、
こちらには「降人」と書かれています。降伏した人ですね。

百済氏についてはこんな話が伝わっています。


④犬の舞 
玉垂宮、毎年正月十五日社人を集め、天神地祇を奉幣、祭事を奏す。又三韓征伐の神楽を奏す。降人百済氏は犬の面を被り、三韓の王は犬となって、本朝の御門を守る役を勤める。これを犬の舞と言う。新羅、高麗の降人は御帰陣の砌(みぎり)、舟中で死す。何れも三韓の王子也(高良山日記)。
神功皇后の戦いは三韓攻撃と書かれていますが、
この時、新羅・高麗・百済の三国の王子を人質として連れて帰ったと解釈できます。

そして二人は死去。百済王子だけが高良山に連れて来られたということになります。
そうすると、当時の都は高良山にあったのでしょうか。

また、新たな謎が生まれました。


安曇から阿曇へ
⑤極楽寺の草創 
極楽寺は阿曇広麻呂が仁寿年中草創の由言い伝えているけれども、中頃退転して、元禄二己巳年草堂房舎を造る。こうして三井寺恵信僧都作の彌陀を遷す(太宰管内志)
極楽寺の場所は調べると御手洗池の下辺りにありました。
この寺を阿曇広麻呂が創建したとあるので、安曇族はずっと高良山にいたようですね。
安曇が阿曇に変わっています。
カッコイイ漢字に変わったのだろうと推測しています。





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by lunabura | 2014-05-03 19:00 | 高良下宮社と周囲・久留米市 | Trackback | Comments(0)

受取り手がいなかった秀吉の位牌


受取り手がいなかった秀吉の位牌



只今、NHK大河ドラマ『軍師 官兵衛』では播磨での戦いが描かれていますが、
九州では島津が九州統一を図っていた頃でしょうか。
(詳しくは知らないのですが)

神社巡りをしていると、神社を焼き払った人物の名に、
キリシタン大名大友宗麟島津の名が出てきます。
そして、秀吉もまた複数の神社を焼き払っています。

この時、多くの書物が焼かれ、由緒が失われ、民力は減退して行ったように思われます。

『高良山雑記』には「秀吉」に関する記録もいくつか書かれていました。

① 旗崎 旗崎は景行天皇の御旗の影の映した所と言い、又一説には武内宿禰が三韓より帰朝の時、旗を建てられた所、又関白秀吉が旗を建てた所とも言う(柏葉抄)。

旗崎は神功皇后の旗を立てたという伝承も残っています。
「旗崎」とは地名で、味水御井神社の近く、山寄りの所にある丘(小山)です。

①を見ると、景行天皇、竹内宿禰、そして関白秀吉もまた陣営としたようです。
太宰府方面が見渡せる重要拠点だったのでしょうね。

② 関白秀吉着陣 (略) 十一日、関白秀吉、高良山に御着陣(太宰管内志)。

③ 吉見岳城址 太閤様、薩摩へ御下向されるとき、御一宿の御城跡の由、申し伝えてございます。(略)

秀吉軍が20万で九州征討に来た時の話のようです。
この時の宿陣が吉見岳城と伝わっています。旗崎より東南700mほどでしょうか。
山の中です。
行った事ないです。

④ 太閤在陣 太閤秀吉九州征伐の時の吉見岳在陣は、往路が天正十五年四月十一日、還りは同年六月六日である。

四月十一日太閤在陣の時、大祝保真、座主良寛、大宮司孝直が秀吉に謁見した。秀吉は3人がひそかに内甲を着けているのを見て所領を没収した(高良記)。

秀吉が最初に吉見岳に着陣したとき、出迎えた高良山を代表する大祝、座主、大宮司が
内甲を身につけていたのを知って、所領を没収しています。

高良山の三家は完全服従ではなかったわけですね。
いつ謀叛を起こすか、図りながら臨んだのでしょう。

没収ぐらいで済んだんだなあ。
秀吉は高良山とは戦いたくなかったんでしょうね。

そして、秀吉は2カ月後に再び吉見岳に戻ってきています。

⑤ 社領 高良社は北条高時没落後、天下大乱のため非常に衰微した。
太閤秀吉九州征伐の際、大祝保真、大宮司孝道、座主良寛、同心秋月種実に通じて秀吉に背きし故、社領没収された。
慶長元年小早川氏千石寄進あり。田中氏同様、有馬氏亦寄付あり。

これはもう一つの文です。
これには「背いた」とはっきり書かれていますね。
秋月種実と通じていたということなので、やはり機会あれば秀吉に対抗しようとしたのでしょう。

「秋月種実」をウィキペディアで調べてみました。

九州征伐
天正14年(1587年)の豊臣秀吉の九州征伐では、時代の流れを悟って秀吉に従うように諫言した忠臣・恵利暢堯を追放して切腹に追い込んだ上、島津方に与して秀吉率いる豊臣勢と戦ったが敗北した。そして籠城中に秀吉得意の一夜城作戦(益富城)により戦意を喪失し、降伏することとなったことにより秋月氏は存続を許された。

秋月種実は古処山、即ち秋月を居城としていて、秀吉と戦って負けています。
秋月か…羽白熊鷲を思い出しちゃいました。 
 
この頃、官兵衛の名も出てくるので、大河ドラマ、どう描くか楽しみですね。


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さて、秀吉はそののち亡くなりますが、思いがけない話が書かれていました。

⑥ 宗崎大宮司 (略) 田中筑後守吉政の時、京都より太閤秀吉の位牌を送り来たところ、皆々徳川家を畏れて受取りに行く者がいなかった。
宗崎大宮司、自ら進んで受取りに参り、これを良山の宝庫に収めた、(略)

いったいこれは?
秀吉の位牌が何故高良山に?

名乗り出たのは宗崎大宮司。
大宮司は初めて出てきますが、
高良山の武内家は大祝家・神代家・坐主家・大宮司家の四家に分かれます。

所領を没収されたのは1588年。
秀吉が亡くなったのは1598年。
わずか10年後です。
どうして、秀吉の位牌が高良山に送られたのだろう。

位牌が届けられたのは秀吉だけではありませんでした。

⑦ 家康の位牌 家康の位牌を神殿の中間の一隅に収めてあったが、後、宝蔵に移したと。

何と、家康の位牌も届けられていたのです。
高良山での供養を頼んだのでしょうか。高良山は仏教も盛んでした。
でも、「神殿」と書いてありますよね。
家康は神として祀られたということになります。

高良山はどれほど格式が高かったのでしょうか。
高良山の位置づけを考える資料がこれ。

⑧ 日本四座主 比叡山座主、高良山座主、石山座主、彦山座主を日本の四座主という。

⑨ 日本三大祝 高良山大祝、諏訪大祝、熱田大祝を日本の三大祝という。

⑩ 日本五大宮司 伊勢大宮司、高良山大宮司、熱田大宮司、宇佐大宮司、阿蘇大宮司を日本の五大宮司という。


高良山の三家はそれぞれに日本屈指の家でした。
とくに「日本五大宮司」では伊勢に並んでいます。

もしかしたら、亡くなった大名たちは位牌を高良山に届ける?
そんな、現代人が知らない習わしがあったのでしょうか。

全く分からないので、知っている方、教えてくださいな。







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by lunabura | 2014-05-01 16:59 | 高良下宮社と周囲・久留米市 | Trackback(1) | Comments(0)

竹内宿禰と高良山


竹内宿禰と高良山


『高良山雑記』には竹内宿禰のことも書かれていました。
るなと同じ説を発見!

① 下宮と上宮 
玉垂宮は下宮が先に祭られ、上宮は後に祭られたもので、中古より玉垂宮を武内宿禰とするのは誤りである。

民部省図帳残編に「天平年中、武内宿禰・荒木田襲津彦を祭って相殿とす」とあり、山城八幡にも「上の高良、下の高良」の二社がある。上高良は玉垂、下の高良は武内宿禰といえば別神であること疑いなし(矢野一貞説)。


おっ、また矢野一貞さん。気が合いますね。
「高良玉垂命と高良の神は別神なり」という、るな説と同じです。

るな的手法は、志式神社(福岡市)の神楽と高良大社の縁起を比較したもので、
その結果、「高良玉垂命」とは「海神とそれを奉斎する安曇磯良神」で、
「高良の神」とは「竹内宿禰」となりました。

そして、下宮社のかつての祭神が「高良玉垂命・武内宿禰・物部胆咋命」
となって、「高良玉垂命」と「武内宿禰」は別存在となっていることが、
その証しだとガイドブックでも述べています。

本当の気持ちを言えば、玉垂命には「海神・豊玉彦」の名も入れたかったのですが、
今回は見送りました。

安曇族の祀る神には「綿津見の神、豊玉彦、磯良神」が含まれています。
実は「豊玉彦」とは隠された神ではないかという思いがずっとしています。

糸島辺りを逍遥した時、それに触れた思いがしたのですが、その時に取り上げなかったので、
そのサインは「うたかた」のように消えてしまいました。

豊玉彦と豊玉姫の親子神。
いったいどうして隠されているのだろう。

ここに、陸に上がった安曇族が放浪する謎が隠されているように思われるのです。
神武天皇よりさらに遡った時代なので、見えにくいです。
でも、神功皇后の時代があれほどクリアに捉えられるとは思っていなかったので、
豊玉彦の時代も、もしかしたら、少しは描き出せる日が来るかもしれませんね。

さて、竹内宿禰に話題を戻しましょう。

竹内宿禰の墓所
『高良山雑記』にはその墓のことが書かれていました。
武内宿禰の墓 
武内宿禰の墓は大和葛城郡室という所に在り、武内の墓の傍に一つ倍塚があり「猫塚」と言う。これは武内宿禰が弟の讒言(ざんげん)に遭った時、身代りに死んだ壱岐の真猫の墓であろうと思う。云々(増田于信氏説)。 真猫の墓は早良郡生松原にも在り、猫塚と称す、そこに祀ったのが猫天神である。

高良山毘沙門に在る古墓は宿禰の墓と伝ふ(久留米志)。


二つの墓が書かれています。
一つは大和葛城軍室。ネットで調べると出てきました。

室大墓古墳(むろのおおばかこふん)は、奈良県御所市大字室に所在する古墳時代
中期前半の前方後円墳である。「宮山(みややま)古墳」、「室宮山古墳」ともいう。1921
年(大正10年)3月3日国の史跡に指定される。(wikipedia)


被葬者の候補に葛城襲津彦や竹内宿禰の名が出ています。
②の増田于信氏の説はこれを指しているのでしょう。
倍塚はあるのでしょうか。「真猫」って真根子のこととはビックリ。 (@_@;)

竹内宿禰の墓の二つ目の説は高良山の毘沙門にある墓だそうです。
毘沙門堂は奥の院にあるそうですから、そこに竹内宿禰の墓があるということでしょうか。

御霊(みたま)を祀る所

本体所 
「大祝家の宅地内に武内宿禰の霊を斉き祭る所を本体所と言う」と、高良玉垂神社々伝に在ると言う。
大祝家の邸宅内にその御霊が祀られていました。
当家は竹内宿禰の末裔だと言っていましたね。
今は高速道路の下。
その後、どうなったでしょうか。

④御廟と御本体 
御廟は高良神の尾靴を埋め、御本体には装束を埋めたとの説あり。又、大臣は美濃山を通行して大和に上られたとの説あり。


「高良神」も「大臣」も竹内宿禰のことですね。
これによると、墓には靴を、本体所には装束を埋めて、「しるし」としたのかも知れません。
美濃山とは耳納山のことでしょう。豊前方面に出て近畿に行ったということでしょうか。

宗像の織幡神社に和魂(にぎみたま)と荒魂が祀られていることも追記しておきましょう。

もちろん、高良大社の祭神は江戸時代より武内宿禰となっています。


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by lunabura | 2014-04-29 21:37 | 高良下宮社と周囲・久留米市 | Trackback | Comments(0)

高良内(こうらうち)


高良内


高良内。こうらうち。
これは高良山と明星山の間の川が作りだす扇状地付近の地名です。

ずっと前に「ウチ考」シリーズを書いて、
古田武彦氏の「内野=飯塚市」を探しに行ったことがありました。
(タグ<ウチ考>を開くとシリーズで読めます)

その近くには黒田藩の狩場があって魅力的な説でしたが、
残念ながら「内野」という地名は江戸時代からのものという事が分かりました。

その「内野宿」の代官様はこの方。モコミチ。もとい、母里太兵衛でした。

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母里太兵衛は名前が変わりますが、福岡にやって来て内野宿の建設に関わりました。

急に身近になりましたなあ。
お墓も嘉麻市鱗翁寺と書かれています。



さて、実は内野を探しながら、るなの心にあった「内の大野」は「高良内」でした。
ついに、この課題に取り組む時が来ました。



ところで、何が課題だったのか、かなり忘れたので、自分で読み直しました。(+_+)
(磯良の海さん、このシリーズは土師や野見の宿禰話題が沢山出てますよ)

次が話題となった万葉集の長歌です。自分のブログから引用してきました。


        ※※

2か所ほど古田氏と違っていますが、私なりに万葉歌を楽しんで訳してみました。
左が古田氏の書き下しで、右が私の口語訳です。
天皇 宇智の野に 遊猟(みかり)したまふ時、  天皇が内の野で狩をされるとき、
中皇命の間人連老(はしひとのむらじおゆ)をして 中皇命が間人連老に、献上するように
献(たてまつ)らしめたまふ歌          命じられて作った歌

やすみしし わが大王(おおきみ)の      八方を治める私の大王(天皇)がお仕えする
朝(みかど)には とり撫(な)でたまひ     朝廷―中皇命が 朝には撫でるように手入れされ、
夕(きさき)には い倚(よ)り立たしし      夕方には 寄りかかって立たれる
御執(みと)らしの 梓の弓の          手にされた 弩弓の
中弭(なかはず)の 音すなり          引き金の音がする
朝猟(あさかり)に 今立たすらし        朝狩に 今、立たれるらしい
暮猟(ゆふかり)に 今立たすらし       夕狩に 今、立たれるらしい
御執らしの 梓の弓の              手に取られた 弩弓の
中弭の 音すなり                 引き金の音が聞こえて来る

反歌                     反歌
たまきはる 内の大野に 馬並(な)めて    内の大野に 馬を並べて
朝踏ますらむ その草深野            朝 踏み分けて走る 草深い野よ

(第一巻 第3・第4番)

      
       ※※
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この現場が飯塚市内野だという古田説を確認しに行ったのが、「ウチ考」です。

ところが、「たまきはる 内」という上の句を見て、るなにはある人物が思い浮かんでいました。

そう、竹内宿禰です。
古歌で「たまきはる内の大臣」と言えば竹内宿禰の事だからです。

「内野」という地名は日本各地にあるのですが、
竹内宿禰に関わる「内」なら「高良内」ではないかと推理していました。

それは「高良の神=竹内宿禰」だからです。

いつか現地調査をしたいと思っていましたが、なんと、『高良山雑記』に
るなと同じ説が書かれていました!
一部、考えが違うのですが、それはのちほど。
訳します。


地名の由来 
(略)矢野一貞はその著『筑後将士軍談』に、「高良内」は元来、高良山の一部で、「内」は武内宿禰の采邑であった大和国「宇智」鄕より起り、一ノ岳二ノ岳の内という意義であろうと説いている。(①)

其の所説は、
 昔、高良山と言ったのは今の社地より広く、高良内の諸山をかけた惣名であっただろう。その証明として、『肥前風土記』に「高羅山を梶山とす」と書かれた梶山は当山東北の方に当る山に其の名が遺っている。

この山は箕尾より山脈を発して高良内村に属している。今、鍛冶山と書くのは訓読が通じるので、そのまま訛って来たのだ。正しく梶山の遺名であることは論ずる間もない。(②)

『鈔』に「鍛治は鍛冶の誤りである」というが、カヂの仮字ではないか。カナウチを切りつめてカヌチと言ったのを又、略してカチとも言ったのだろう。

当時の名称は神領が他領となって別れた頃よりのことだろう。しかし、なお旧名を村名に呼んで高良内と言ったのだろう。

「内」とは如何なる意味だろうか。思いつかない。しいて言えば、これも武内宿禰の「内」に由緒があったと思われる。

それは大臣を武ノ内と言い、弟を味内(うましうち)と言うことから考えられる。「内」は大和国宇智鄕より起こった。この鄕は大臣の采邑であったことは、先哲も論じていた。(③)

又、一ノ岳二ノ岳の内という意味で言われたのであろう。(略)
一ノ岳と言うのが即ちこの岳(明星山)で、二ノ岳と云うのが今の高良山に違いない。云々。(④)
これが矢野一貞の高良内村名の考証論である。(高良内管見)



①「内」は武内宿禰の采邑であった大和国「宇智」鄕より起り

とありますが、竹内宿禰の根拠地は筑紫から肥前に掛けてですから、
大和国「宇智」鄕は移動した後の邑と考えられます。

しかし、江戸時代にはすでに発祥は近畿と考えられていたのでしょうね。
これがるな説が矢野一貞とは違っている所です。



②この山は箕尾より山脈を発して高良内村に属している

「箕尾」は「みのお」と読めるので、耳納山(みのうさん)のことだと思われます。
耳納山脈の西の果てに高良山があり、高良内に続きます。



③それは大臣を武ノ内と言い、弟を味内(うましうち)と言うことから考えられる。

これはるなの発想と全く同じですね。

二人は異母兄弟で、のちに争う事になりますが、「ウチ家」という有力豪族があって、
天皇家を支えていたと考えています。

玉垂宮を調べていて、この兄弟を祀っている神社が八女にありました。
争った二人一緒なので、ちょっと不思議な感じがしました。
でも、父母も一緒なのです。

もし、ウチ家の根拠地がここらへんにあるのなら、不思議ではなくなります。
「玉垂神社」。鎮座地は「八女郡水田村井田字宮ノ??」という所です。
地名が変化して分かりませんでした。
地元の方、是非教えてください。
そこには玉垂命の神社がいくつもありました。



④一ノ岳と言うのが即ちこの岳(明星山)で、二ノ岳と云うのが今の高良山に違いない。

これは重要情報ですね。
明星山を一ノ岳と呼ぶのは、八女の方からの発想です。
つまり、中心は八女にあったということになります。

筑後川の氾濫と潟の広がりを考えると、久留米市あたりは古代は住みづらく、
八女の丘陵地帯の方が安定して生活できたのでしょう。

その八女から見て北部に開けた扇状地で、
ウチ家の軍勢が軍事訓練をしていたのではないでしょうか。

もちろん磐井の時代にも。

そして、現在、高良内には陸上自衛隊があるのです。
軍事的に重要な所はいつの時代も同じですね。

多分、その地下には多くの遺跡が眠っているのではないかと想像しています。
神社があれば、少しは状況が分かるかも知れないなあ。


地図 久留米市高良内





お、「地図」を見たら「内野」もありますね。








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by lunabura | 2014-04-28 21:16 | 高良下宮社と周囲・久留米市 | Trackback | Comments(6)

武内姓を名乗る物部氏の不思議(2)


武内姓を名乗る物部氏の不思議(2)

乳母は幸大明神か?

ようやく、高良山の麓に戻って来ました。
るな探偵、何を追っかけていたんでしたっけ? (+_+)

そうそう、物部氏がどうして武内姓を名乗れたのか?
という話でした。

前回まで、『高良山雑記』に書かれていた物部氏に関する記述を集めた結果、
鏡山大祝家が祀っていたのは
「物部胆咋」と「その夫人・幸大明神」と「武内宿禰」ということが分かりました。

鏡山大祝家は物部氏なのに、邸宅内で武内宿禰を祀り、武内姓を名乗った理由は
物部氏から武内宿禰の乳母を出して、乳母が宿禰の子を懐妊したからだと推測しました。
そうすれば、生まれた子は武内姓を名乗っても矛盾がないからです。

それでは、その乳母に関して、何か分からないか?
そう考えるうちに、幸大明神として祀られている胆咋の夫人こそ乳母ではないか?
という推理が生まれました。

胆咋は娘を景行天皇に嫁がせているので、第一夫人は年配になっているはずですが、
若い夫人を何人も持っていたでしょうから、
乳母になったのは数番目の夫人と考えられます。

時代的にどうなのだろう、と系図を書いてみることにしました。

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緑色の丸が鏡山家が祀っている神々です。
幸大明神が乳母だとすると、鏡山家は三人の祖神を祀っていることになります。

(孝成?)と二か所に書いているのは、
武内家の系図の一番目の人物が「孝成」と書かれているからなのですが、
どっちに書いたらいいのか不明だからです。
孝成が竹内宿禰だとすると大発見なんですがね。(るなにとって)

竹内宿禰は成務天皇と同じ日に生まれていて、日本武尊より年少です。
仲哀天皇は日本武尊の子ですが、武尊がジュニアの時の子なので、
竹内宿禰とは十歳も離れていないかもしれませんね。
筑紫を駆け巡っていた頃はまだまだ若かったのです。


だから、こんな顔にしないでね。
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(香椎宮不老水にてー仲哀天皇と神功皇后に頭を垂れているのが竹内宿禰)






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(乳山八幡宮にて)
これもダメ。あんまりじゃわい。







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これっくらいがちょうどいい。 ( ´艸`)

ドラマになってほしいと思ってるんですけどね (´・ω・`)





この人と。


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by lunabura | 2014-04-25 18:57 | 高良下宮社と周囲・久留米市 | Trackback | Comments(0)

武内を名乗る物部氏の不思議


武内を名乗る物部氏の不思議


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(高良下宮社 幸神社)

今回はあまりにもマニアックな話なので、高良山好き以外はスルーしてくださいな。

さて、るなの前に立ちはだかった難問。
と、おおげさに書きましたが、頭を悩ませた一文とはこれです。

高良社仕人 
高良社草創以来の仕人は丹波氏(俗体大宮司法体坐主兼宮師職、武内宿禰嫡流)、物部氏(祝司、大祝、小祝職、武内宿禰乳母の子孫)、(略)


武内宿禰の乳母の子孫
高良山の始まりは宝物館の縁起では仲哀天皇の時代と書かれていました。
つまり、神功皇后の時代ですね。
高良社が祀られるようになってから、奉斎する氏族は丹波氏、物部氏などがいました。
(他にも大勢書かれているのですが、テーマがずれるので今回はパス)

前回出て来た鏡山大祝家は物部氏でしたが、①を見ると、
物部氏は「武内宿禰の乳母の子孫」と書いてあります。

武内宿禰に乳母がいた!?

想像もしていなかったので、びっくりしたのですが、落ち着いて考えると乳母がいて当然ですね。
竹内宿禰の母は山下影媛ですが、父は武雄心命(日本書紀説)か、
あるいは祖父の彦太忍信(古事記説)です。

山下影媛は佐賀から小郡にかけてその足跡が濃厚に伝えられている人ですが、
身分が高いので乳母をつけたのでしょう。

その乳母が物部氏だということは、つまり、物部夫人の中に、山下影媛と同時期に
出産した人がいたので、竹内宿禰を預かってお乳を含ませたということになります。

高良山に奉仕する鏡山家はその乳母の子孫だということです。


武内宿禰の嫡流
また、①には、丹波氏は「武内宿禰の嫡流」とも書かれています。
嫡流って、長男の子ってことですよね。 (@_@

竹内宿禰の長男といえば「波多八代宿禰」(日本書紀)か、
はたまた「斯礼賀志」(九躰皇子)か、さんざん悩んだばかりです。


ここに、また丹波氏が名乗りを挙げた…。
いったいどうなっているのか、大きな謎にぶち当たって、ずっと考えていたんです。


『高良山雑記』には、こんな文も書かれています。

②大祝・大宮司・坐主其他諸家 
高良山大祝家は武内宿禰三十二代孫・美濃理麿保続の第一子・武良麿保義を祖とする。文徳天皇斉衡三年、大祝物部大継をして始めて笏を執らしむ。

大宮司家は美濃理麿保続の第四子・武賀麿保通を祖とする。
坐主家は武良麿の弟・武見麿が出家して隆慶と号して坐主と称する。
妻帯し、子孫相続き麟圭に至り数年断絶、麟圭の子・尊能が坐主となり、清僧にして坐主の血統が絶えた。


大祝家は武内宿禰の三十二代目の美濃理麿保続の第一子から始まったというのです。


その続きには分かりやすいように、次のように図示されていました。

③武内宿禰三十二代孫
美濃理麿保続―― 武良麿保義・・・・・・大祝家の祖
       - 武勢麿保続・・・・・・神代家の祖
       - 武見麿保依(隆慶)・・坐主家の祖
       - 武賀麿保通・・・・・大宮司家の祖


これは武内宿禰の三十二代目に四兄弟が生まれて、
それぞれが神道や仏教などの祖となったという事です。

時代がいつか、知りたくて思い出したのは隆慶の存在。
どこかで、書いていたぞ…。

そう、隆慶(りょうきょう)とは高良山で仏教を始めた人なのですね。
(ネットで検索すると当ブログが出てきた(+_+)。やっぱり書いていた…)

で、ですよ。
な、なんと『高良山雑記』には武内宿禰の系図がずらりと書かれていたのです。
(ホント驚いたけど、ここは隆慶だけに注目)

そこに、隆慶が出家した時代が書かれていました。

④武内家系 
孝成、孝知、孝基、孝鎮、孝豊、信件、成信、仲基、孝景、元隆、良基、孝英、行成、行政、良孝、信基、景良、成隆、孝義(天武天皇朱雀年中に大宮司孝義二男基隆蓬髪し坐主隆慶となる、社僧之より初まる)信英、(略)※32代は孝貞

(もっと書かれていますが、途中で息切れ。)

ここには隆慶が出家した年は天武天皇朱雀年中とあります。

ネットで調べると、朱雀年間は684~685年のわずか二年間です。
で、天武天皇の時代に武内家の子供たちがそれぞれ役割分担して、
各職の祖となったということが分かりました。

で、ですね。
話が逸れるけど、「朱雀年間」って、通説の年号にないんですね (@_@。
「二中歴」(にちゅうれき)という九州年号のお世話になって特定できたんです。

他にもこの本には、白鳳とか、朱鳥とか年号が出てきて、やっぱり二中歴でないと解けない。

これまで、二中歴をスルーしてきたけど、いよいよ目の前にぶら下がりました。
幸い、古田学の諸兄が、いろいろと研究してくれているので、年代が分かったんです。

古代九州には教科書に書かれていない暦がある (+_+)
それはどうしようもない事実。

暦を持つということは一つの国として成立するのに肝要な事なのです。
古代中国ではそれがシビアだった。

高良山は独自の暦を持っていただろうというのが、るなの考えですが、
この「二中歴」が該当するのかなあ。
(この辺り、愛読者さんに解説頼もう…)



で、話を元に戻しましょう。上掲の②③④には謎やら発見やらがいろいろとあります。

1 隆慶の父の名が④では孝義となり、②③には保続となっている。
2 隆慶は③では三男、④では二男となっている。
3 ④に書かれた「武内家図」について。普通、家系とは初代から書くものなので、「孝成」とは竹内宿禰のことになるのだろうか?
4 美濃理麿保続、武良麿保義、などのように和風と中国風の二種の名をつけている。
5 保続の四兄弟にはみな「武」の字が付けられている。これは「武内」一族を繁栄させたものだろう。

一つ一つ検討すべきでしょうが、論文ではないので、次の感想に留めます。

鏡山大祝家は物部氏でありながら、竹内宿禰の子孫でもあることは間違いないでしょう。
それは次の文からも伺えます。

⑤本体所 
大祝家の宅地内に武内宿禰の霊を斉き祭る所を本体所と云う、と高良玉垂神社々伝にあったという。

大祝家の屋敷では竹内宿禰の霊をも祀っていたのです。
つまり祖霊として祀っていたということになります。

さらに、時代が下がって、子孫の話が登場します。
鏡山保名が高良山を出奔するのですが、名を武内典膳と改めたというのです。
その資料を出しておきます。(スルーしてOKです)

⑥鏡山安芸守処罰 寛延二己巳十月六日、高良山鏡山安芸守神職御取上、此人高良山御血脉百廿五代断絶と申(同上=石原日記)。
延享寛延の頃は、神仏両派の軋轢極度の時で、御井寺の坐主と京都神道総裁吉田家に宗事した鏡山家とは、互に権勢を争ひたる結果、鏡山保名は延享六年(鏡山処罰の一年前)十月六日、高良山を出奔して京都に赴き、名を武内典膳と改め、右大臣二条宗基に仕へた、其子保高、後、母と共に、江洲星野勝右ヱ門に養われ、寛政七年本多家に仕へた(阿蘇宮司談)。


鏡山とは物部のことでした。その保名が改姓するのに、武内姓を選んだというのです。
好き勝手に姓を選べない時代、武内姓が名乗れたのは、
祖先が武内宿禰の乳母だったからということになります。

でも、変。
「乳母」なんだから、武内姓を名乗ることが出来るのは変。
「嫡流」とか、ますます変。

久々のるな探偵の推理コーナー
で、るな探偵は次のように推理したのでした。

「武内宿禰の乳母」という物部夫人の話に戻りますが、乳母のもう一つの役割を思い出したのです。
乳母とはその子が大きくなったら、夫婦のことも教える立場にあるんですね。

ということは、物部夫人は竹内宿禰の子を宿した。
そう考えれば、生まれた子は物部氏であり、かつ武内家の血族でもある訳で、
隆慶たちが、その末裔と自称するのは理屈に合ってきます。

竹内宿禰が妻を娶る前の話ですから、歴史の表に出てこない「長男」が存在したということになります。
これなら鏡山保名が改名する時、武内姓を名乗ることは許されるでしょう。


武内家と物部氏が血縁関係を持って協調関係を持った。
それを知った時、竹内宿禰が、あれほど縦横無尽に古代日本を動けた点にも
合点がいったのです。


鏡山家=物部氏=武内家
そんな構図が高良山の麓にあったということになります。


(つづく)


最後まで読んでくれてありがとう。



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by lunabura | 2014-04-19 22:33 | 高良下宮社と周囲・久留米市 | Trackback | Comments(2)

高良下宮社 物部胆咋の夫人


高良下宮社

 物部胆咋の夫人


ここは高良下宮社。
心配していた屋根が修理されていましたよ(^o^)/

中央の社を見て「三階松が無くなっている!」と大騒ぎしたのですが、勘違い。

「あった!あった!」
三階松が掲げられているのは右手のお社、「幸神社」でした。

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現在、幸神社の祭神は「孝元天皇」となっていますが、古くは「物部胆咋」だったらしい。
その辺り変遷の状況は、まだ未確認なんですが、
物部胆咋は当ブログにも何度も出てくる神功皇后の時代の人物です。

胆咋(いくひ)は仲哀天皇の崩御ののち、香椎宮で会議があった時の主要メンバー。

ガイドブックにもチラリと書いたけど、北九州では材木調達に神功皇后を案内した人。
現地には物部氏の稲荷があったので、胆咋は皇后に武器庫を見せて
軍備の状況を説明したのだろうと推測しています。



その胆咋が高良下宮社に祀られていたことから、新羅の役ののち、
久留米での支配権を掌握したのかな…と考えていたのですが、
『高良山雑記』には、何と、その夫人も出てきました!

①「幸大明神
 物部胆咋の夫人を祀る(馬淵庸五郎談)。」(高良山雑記)

物部胆咋のみならず、その夫人が高良山麓に祀られていた!
古代の人は夫人を連れて移動するので、もしかしたら夫人は当地で亡くなったのかも。

年配だと思われる胆咋と夫人の終焉の地・高良山麓に
末裔の物部氏によって祀られたという可能性も出てきました。

さて、「高良山雑記」には「幸大明神=胆咋の夫人」が何処で祀られているのか、
書かれていないんですが、「幸神社」の「幸」に連想されて、
もしかしたら下宮社に祀られているのかなと考えたりしています。


それというのも、「物部胆咋の木像」が高良下宮社に移されているという
記録も複数あったからです。

②「物部胆咋連の木像 
高良山鏡山神社御本体所に在った物部胆咋連の木像は、其後御井町下ノ丁高良下社の神殿に移る。」(高良山雑記)


なんと、物部胆咋に到っては木像が存在するのです!

もとの鎮座地は「鏡山神社」ですが、
哀しいことに高速道路の真下に当たってしまい、その存在は完全消滅しています。



あの日、高良下宮社から祇園山古墳に向かう途中、ガードの下で
「ここに鏡山神社があったんですよ」
と氏子さんが言われたことがどれ程重要な話だったのか…。

今、思い返すと、その石碑ぐらい遺されていてもよさそうだが…。
とも思われるのです。


失われた鏡山神社こそ物部氏の神社なんですね。
物部ファンなら、ここは絶対押さえるべき神社だと分かって来ました。


③「鏡山・宗崎両家の系統 
鏡山大祝の家は物部氏、宗崎大宮司の家は神部氏。」(高良山雑記)


高速道路下に物部胆咋とその夫人を祀る聖地があったということは、
その周辺は物部氏の営みがあったということになります。

次は同じ内容で、別の所から抜き出したところ。
④「下宮 
下宮の神体は物部胆咋連の木像であるが、もともと鏡山神社の御本大所に在ったと云う。

往年下社の境内整理中の出土品は六花弁の鏡一個、短刀一振、瓶一個、同社は白鳳二年の建立である。安政二年八月改築、大正年間村社に昇格。下社を祇園と云うのは、七月十四、十五日の夜渡に帰因する(馬渕庸五郎談)。」(高良山雑記)





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これは高良大社縁起です。
麓に赤い鳥居があり、右に大祝(おおほうり)屋敷、そして下宮社となっています。

高良山縁起の巻物を見ると、仲哀天皇から始まっていました。
つまり、文献に書かれた高良山の歴史は物部胆咋とその夫人の時代から
始まるという意味でもあります。
神として祀られるのも、うなずけますね。



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(下宮社説明板より)



そして、難問が、るなの前に立ちはだかりました。



高良下宮社









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by lunabura | 2014-04-17 20:03 | 高良下宮社と周囲・久留米市 | Trackback | Comments(3)

磐井の拠点


磐井の拠点


先日から『高良山雑記』をピックアップして整理していました。
今回は磐井に関する三文を考察します。例のごとく口語訳します。

① 磐井城址 磐井川の東川端に在る。
② 磐井城址 大祝(おおほうり)屋敷の前。

①と②は数回前に書いた磐井城のことです。

磐井城 二つ城だった
http://lunabura.exblog.jp/21985183/


①の「磐井川」とは高良山の登り口にある放生池の元の姿です。
その東川端ですから、水明荘の跡を指しています。

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(高樹神社より、磐井城全景)


②の「大祝屋敷」の位置はもう一つの磐井城の麓に当たります。
磐井城はツイン城だったのが分かったので、どちらも地形と一致しました。

①と②の関係については地形から①が本城ではないかと考えています。
②の地形はフラットな部分が多いので、軍団などが控えていたのではないかと考えました。
(あくまで想像です)

地図





さて、次の③は上掲書の附録「高良内管見」という部分から抜き出したもので、
「高良内」(こうらうち)について書かれたものです。
「高良内」は高良山から流れ出す丘陵と、明星山から流れ出す丘陵の間の扇状地です。

ですから「高良内」から見ると、左に高良山、右に明星山が見えます。
そこから見る明星山は円錐形をした美しい姿をしています。


地図 高良内 明星岳 八女



(写真をクリックすると、古代の地形のイメージがつかめますね)



③ 明星岳 
明星岳、一名般若方谷山(大祝家記)は高良内の主人公とも見るべき山である、頗(すこぶ)る有名であり、天嶮であり、又歴史に富む。

山は大般若、寺尾、マイラズ谷、ツクモジ等に到る。城趾もあり、寺跡もある。(略)

頂上より望めば(略)左右に回顧すれば筑前・豊前・豊後の諸峯が見える。大概四方が望めて隈なしとも言える。当山の形勢は自然の城塁をなして嶮岨だ。云々。

矢野一貞は更に当山の史跡につき、次のように述べている。

上古、天津赤星が此の要害に拠る。
武内大臣久しく此山中にて西海を監護す。

筑紫君も代々当山に処る。

磐井に至り、ますます要害を堅くしようとして、当山の東北カマ石谷と云う所より磐石を切り取って、今の社地の所に岩構えをなして住んだことから、岩井の名称は起ったようだ。

このカマ石は構石(かまえいし)に取れることより此名を残したのだろう。今も数百の磐が山中にあって、石鑿(のみ)のあとが所々に残っている。

こうして、この肥・豊の四つの国を横領し、六国の主となり、終に叛逆を謀(はか)る討手が下るに及び、天嶮を捨て広野に進戦し一戦にして亡びた。これは磐井の失策ではなく、天誅から逃れられなかったのである。

正中年中に菊地氏西征表軍宮を奉し、小弐大伴を征した時も、文中年中の時も、高良山を本陣として当山にも拠点を構えたらしい。

菊地の族高瀬氏二代居城。
原田親種籠城。

文中年間の事を記したものに、高良山は峯平らかで麓嶮しく、後は深山なので道もなく、前には筑後川を界にして東南水縄(みのう)山、柳坂、高良が岳といって三所の塁を構え、と云っているが、「高良が岳」即「当山」であること疑いなし(略)

天正十四年に薩摩勢が高良山を攻め取ったのは高良内の方より攻め上ったと聞く。(高良内管見)



明星岳は傾斜の厳しい山で山頂からは四方の眺望が効き、
筑後平野のみならず、筑前、豊前、豊後の峰々が見えるといいます。

物部の天津赤星がこの天然の要害に拠点を持ち、
竹内宿禰もまたここから西海を観護したといいます。

そして、なんと代々の筑紫君も!!
(そうすると、筑紫君の拠点は筑後にある?)

そして、筑紫君・磐井もまたここに住んだといいます。
ただ、「今の社地の所に岩構えをなして住んだ」の「今の社地」が唐突に出てきました。

文脈からは頂上部の要害と思われますが、ネットで登山記録を調べると、
「明星山城」が存在しているようで、厳密には頂上部ではなさそうに思われます。

やはり現地調査しないと居城は決定できないのですが、
この明星山に磐井の城があったと考えてよいようです。



しかし、ここが本城だとすると、籠城には向くのでしょうが、戦いには不向きです。
敵が襲って来るのを待つより、麓で迎え撃つ方を良しとしたのでしょう。
磐井の君は山城から出て、高良山麓の磐井城に構え、さらに麓で対峙したと思われます。



地図を見て分かったのですが、
明星山は八女から見ると、北にある重要な山なんですね。

古代の人々の精神的な支えとなった山なのではないかと思われました。
その南の丘陵地帯に都を構え、多くの文物が船で運ばれて繁栄したのでしょう。

そして、有力者たちの古墳が次々に作られ、明星山には山城を築城。

古代の朝鮮半島では「山城と都邑」がセットで作られたケースが多く、
新羅や百済からの情報も入って来る八女では
同じように「都邑と山城」という単位で国造りがなされた可能性も考えられます。

その仮定を元に、明星山の麓に代々の筑紫君の居城「筑紫城」を
探してみたくなりました。

磐井の君はさらに北の守りとして、高良山麓にもツイン城を築城。

城と城をつなげば何処を守っているかが見えてくるはずです。
古代のありなれ川は陸地化しても、戦略的に重要な所とは決まってくるものです。



物部麁鹿火軍が押し寄せて来くるのを明星山で早くから目視し、
都を踏みにじらせないために、磐井軍は平地で迎え撃つ戦略をとった。
当方が有利で、敵が不利な地点を決戦の地として選び、両軍が対峙した。

そんな想像が生まれました。


八女(やめ)をこんな観点で見たことがなかったので、
現地調査すると、また感想が違うかも知れませんね。

今回は地図と文献から磐井の君の城と都を妄想してみました。


※『高良山雑記』とは
久留米藩士・稲次成令翁(1849~1932)の聞書から、浅野陽吉翁(是々、1868~1944)が
抄録編集したもの。それを古賀寿が出版。





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by lunabura | 2014-04-15 19:04 | 高良下宮社と周囲・久留米市 | Trackback | Comments(0)

磐井城・二つ城だった


磐井城

二つ城だった

磐井の名を冠した城があるとは知りませんでした。
しかも、場所は高良山の麓。

くじらさんが地元の御井寺で地名研究会があった時に、聞かれたといいます。
その場所は今は水明荘といって、私有地になっています。


c0222861_20413976.jpg

私有地だけど、ちょっと撮らせていただきました。

新緑が美しい。
周囲より高台になっていて、城を作るのに好適地と思われました。




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そして、これが反対側に回って見たようす。
そう、久留米の皆さんならよく御存知の御手洗橋から撮りました。

高良山に登る時は、車でも歩いてでもこの側を通ります。

向こうの山が磐井城跡です。
その中には新清水観音堂(明治以降豊比咩神社)と芭蕉を祀る桃青霊神社があります。

そして、その麓にある玉垣は「高良の神がここで御手を洗って山に登られた」という井戸です。

ここから登って行くと、あの神籠石に出ます。




そして、くじらさん、町人発見して追っかけていましたが、戻ってくると朗報。
磐井城はここと反対の山の二か所にあったという聞き込み報告でした。





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やあ、振り返れば橋の上からその山がドンピシャリ見えますぞ。

この石橋は享和三年(1803)のもので、放生池は安永年間(1772~80)に久留米藩が整備したということです。
もともと谷だった所です。

高良の神は川沿いに登ったことが分かります。



それから磐井城の時代はどうだったのでしょうか。
まだ谷川だった事でしょう。

そして、ここにはあの「筑紫君磐井」がいたのでしょうか。

そう考えていいのかな。
勇み足かな?

古墳を造った八女からも便利がよく、筑紫を治めるのに好適地だと思うけど。

磐井の君と物部麁鹿火(あらかひ)が激突した所は「筑紫の御井郡」(『日本書紀』)。
ここもまた旧御井郡です。





久留米市御井町


地図に書かれた「神籠石」は「八葉の石畳」の方で、本来の「神籠石」は青星の所。
「写真」をクリックすると、古代の「中つ海」に向いて建っているのが分かります。





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by lunabura | 2014-04-11 20:48 | 高良下宮社と周囲・久留米市 | Trackback | Comments(0)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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