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高良大社(6)玉垂宮の縁起は志式神社の神楽とつながった


高良大社(6)
玉垂宮の縁起は志式神社の神楽とつながった


さあ、いよいよ高良大社にやって来ました。
これまで麓の神社や古墳を歩いて古代の営みを見て来ました。
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その中心を成すのがこの高良玉垂宮です。
本殿は高良山の頂上ちかく。車でヘアピンカーブを辿って登ります。
今回は神官さんから直接、高良大社の由緒をうかがうことが出来ましたよ!
御祭神
中央 高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)左 八幡大神 右 住吉大神

高良玉垂の神がどんな神なのかは、江戸時代にも論争があったそうです。
当時でも結論が出ず、殿様が御祭神を「竹内宿禰」と決定したために、
神社側もこれを受け継いでいるとのお話でした。
それでも、御祭神を人々が研究するのはいっこうに構わないです、と、
寛大な姿勢を述べられました。

大社には二つの縁起曼荼羅があります。
大変巨大なもので、一つは神社の全景を描いたもの。
そして、もう一つは神社の縁起を描いたものです。

今日は高良山の縁起について考えましょう。
まずは中世時代に描かれた曼荼羅を見ながら伺った
縁起の概略を書きたいと思います。
(と言いながら、あっという間に忘れてしまったので、
話が違っていたら是非とも指摘してください。)

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(これはその絵巻の該当する部分です。許可を受けて掲載しました。
映像は不鮮明なままにしています。)
高良の神は10万の敵が攻めて来るのを迎え撃つために、水軍の援助を求めてイソラ神豊姫を遣わしました。
イソラ神は海の中に住んでいて、顔にフジツボや貝殻やワカメなどがびっしりついていたので、姿を恥じて、なかなか出て来ようとしませんでした。
(絵巻では、中央に亀の背に乗って釣りをしています。)

そこで、高良の神が八乙女に舞を舞わせると、「そこまでされるなら」と、イソラ神は干珠満珠を授けて、援助を約束します。

高良の神は敵と対峙した時に干珠を海に投げ込むと、みるみると潮が引いて行きました。敵が船を下りて攻めて来る時に満珠を投げ込みました。すると潮が満ちて、敵軍は溺れて降参しました。こうして高良の神は戦に勝つ事が出来ました。

この話を聞きながら、「これって志式神社の神楽と同じじゃない!」とドキドキ。
このブログで一緒に逍遥して下さってる方々も、
「あれ、まただ」と思ったに違いありません。
志式神社の神楽は、すでに「高良大社(2)」でも書いたのですが、再び書きます。
 
 磯良舞 いそらまい     
神功皇后らが48艘の船団で新羅へ進軍する時、武内神が干珠満珠を貰い受けるお話。
磯良神は大和で40万年、ひたちで40万年、勝馬(かつま、志賀島)で40万年過ごされた神。そのイソラ神が海神のところに行って干珠満珠を貰おうとするが、なかなかもらえず、豊姫が代わりに海神の所に行く。
すると海神は「神楽を舞うならば、授けよう」と言う。豊姫は神楽を舞い、海神から干珠満珠を授かる。豊姫はそれを武内神に渡す。


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神楽を舞う豊姫。舞台の袖で控えて座っているのが武内神。

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豊姫の舞を堪能した海神は、豊姫に金と銀の玉を授けた。

高良大社と志式神社では、少しずつ神の名がずれていますが、話の骨子は同じです。
いったい何度この神楽に戻って来た事でしょう。
どこに行っても、この話に戻ってしまう。
るなのブラブラ歩きはこの神楽を理解するためにあったのでしょうか。

イソラ神の姿

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イソラ神って、志式神社の神楽ではこんな姿です。120万歳?
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志賀海神社ではこんな姿。これは平成21年の御神幸祭の時のもので、
境内に掲示されていた写真を写しました。

イソラ神の祭りは、2年に一度、すべての準備が整ってから、その年のお祭りを
するかどうかのみくじを伺うと言う厳しい状況で行われるお祭りです。
「しない。」というみくじを引いたら、全部中止です。
その為に何年も行われなかった事があるそうです。
現代では無条件に2年に一度行われていると聞いています。
(顔に白い布のこの神さま、アニメ映画「千と千尋」に出て来ましたね。)

高良の神はこの神さまに助けられて戦う事が出来ました。
志賀海神社は当然ながら、安曇族の本宮。
私は「高良大社(2)」で、この高良山の縁起を知らずに、大胆にも、
志式神社の神楽と同じだ、なんて記事を書いて、思えば冷汗が出ますが、
こうして繋がったのには、何か不思議な縁を感じます。

海神の姿
高良大社ではイソラ神から干珠満珠を授けられた話になっていますが、
現地の神楽では海神のから授けられていました。

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これが海神。
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これは高良玉垂宮の拝殿の龍神の像です。後ろには波があります。
龍神は水の神であり、海の神でもあります。
志賀海神社は「龍の都」「海神の総本社」で、御祭神は綿津見神=海の神です。
神楽の海神と高良玉垂宮の龍は同じ「海の神」です。
この龍神は安曇族の力を借りて戦に勝った象徴だと思われました。

さて、宝物館に入ると、高良大社史年表がありましたよ。
西暦82 景行12年 景行天皇高羅(高良)の行宮に国内を遊覧し、
            御井の大川(筑後川)に渡し船を備える。
200年 仲哀9年 神功皇后天皇と共に筑紫に幸し、高良山に
            御滞在(安在地・朝妻)。次いで朝鮮半島に出兵。
          高良の神、神功皇后を援け給うと伝える。
367~390年 仁徳55~78 高良の神(玉垂命)、高良山に御鎮座。
            この頃、礫山古墳・祇園山古墳できる?
400年 履中元年 高良山に社殿を創建し、玉垂宮と称する。

ということで、高良山の記事は景行天皇が初出のようです。
次の時代の神功皇后と仲哀天皇は「朝妻」滞在と書いてあります。
すると、あの味水御井神社の所に滞在したんですね!
そこからは4本の銅剣が出土しているそうです。
銅剣を奉納するのは神功皇后がこれまでも、あちこちでやって来たことなので、
この銅剣もその可能性があるかも?
資料館に行けば見られるかな。
(この4本の銅剣と皇石神社、綱脇神社の銅剣が同じだったら面白い事になりますね。)
この年表からは時代が下がるにつれて、
神の性質が変化していくようすがよく分かります。

さてさて、この高良の神には王子が9人いるそうです。
王子の事を調べたら何か分かるかも。
    (つづく)




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by lunabura | 2009-12-31 22:02 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Trackback | Comments(2)

高良大社(7)九躰皇子と『高良玉垂宮神秘書』

高良大社(7)
九躰皇子と『高良玉垂宮神秘書』


本殿の裏手にまわると高良御子神社がありました。

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摂社 高良御子神社
御祭神 高良玉垂命の御子神九柱(九躰王子
由緒 阿志岐(山川町鎮座の王子宮(高良御子神社)を明治六年に勧請)
例祭 11月13日
月次祭り 毎月13日
御神徳 無限の勝利、厄除け、農産牛馬守護、安産、病気平癒

九躰皇子。この不思議な名前。
「くたいおうじ」と読んで、九人の王子という意味です。
高良玉垂神の9人の御子の事です。
今回はこの九躰皇子についての伝承を調べましょう。

その手掛かりは、くじらさんが教えてくれた『高良玉垂宮神秘書』
という本の中にありました。
その本の冒頭の部分だけ読んだのですが、
内容は高良玉垂宮の神の系譜と縁起を書いたもので、
古事記と同じように、天神七代から書き起こしていました。
が、そこにはあのタカミムスビの神(高木の神)の名前はありませんでした。
そして、古事記や日本書紀とは少し違う神話が語られていました。

今回はこの「九躰皇子」の出生に至るまでの部分だけ、
るな流に解釈してまとめたものを紹介します。
(解釈に間違いがあったら、どんどん指摘して下さいね。)
ヒコナギサタケ・ウガヤフキアエズの尊住吉大明神であり、明星天子の垂迹である。
(垂迹とは、菩薩が人々を救済するために仮の姿をとって現れること)

叔母のオバキ玉依姫と夫婦になった。二人の間には5人の御子がいて住吉五神という。
内訳は女子が二人で、男子が三人である。
女子の名は表津少童命(ウワツフカタツミの命)、中津少童命(ナカツフカタツミの命)。

男子は嫡男が表筒男の尊で、大祝(おおはふり)氏の先祖であり、日神の垂迹である。
二男は中筒男の尊で、このクニに留まって初代天皇の神武天皇となった。
三男は底筒男の尊で、高良大菩薩の事である。月神の垂迹である。

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普通は「表・中・底筒男の神」の事を住吉三神と呼びますが、
ここでは少童(わだつみ)2姉妹を含めて住吉五神と呼んでいます。

この住吉五神の父はウガヤフキアエズで、この神が住吉大明神です。
彼が明星天子の垂迹という事は、星の化身という事です。
明星といえば、普通は金星を指しますが、ここでは一般的な星なのか、
金星なのか、あるいは他の星なのか分かりません。
(ちなみに、高良山の隣に明星山がありますョ。)

「九躰皇子」を理解するために、ここで押さえておきたいのは、
高良の神は高良大菩薩と呼ばれ、底筒男神であり、月の神だという事です。

さて、続きを読みましょう。
15代神功皇后の時、イルヰが日本を責め立てた。
その時、神功皇后は筑前国の四王寺の峰に登り、虚空に向かって祈った。
東の空に白雲が現れて、四方に開き光をはなち、月神が20歳の若者の姿で現れた。
四方に分かれた白雲には四天王が現れ、四つの鉾が見えた。
月神の次に、明星天子の垂迹である住吉の神と、日神の垂迹・表筒男の尊が現れて、
三人で皇后の前に立った。
そして、月神と住吉神は大将軍となり、日神は両副将軍となって力になる事を約束した。
ほどなく三韓を降伏させたのち、住吉神は虚空に戻った。

『神秘書』では突然、神功皇后の話になりました。
「イルヰ」が国の名か、人の名前かが分かりません。
(別の縁起には新羅軍5万人が襲来とあります。新羅はハングルでは「シルラ」です。)

このイルヰと戦うために、神功皇后は太宰府の四王寺山に登って祈ったのですが、
その時、月神が出現し、その四方には四つの鉾とともに、四天王が出現しました。
続けて、明星天子、日神が出現し、皇后を助ける約束をしました。
戦に勝利すると、明星天子だけが去り、二人の若者は留まりました。

神功皇后の祈りに応えたのは住吉の神々でした。
両者の深い縁はここから始まっています。

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(「筑前国四皇寺山」=四王寺山の写真のストックを探したら、
ちょうど太宰府政庁跡がドンピシャと来ました。これって?!!!)

さあ、続きを読みましょう。
嫡男の日神・表筒男の尊神功皇后の妹・豊姫と夫婦になった。
地上での名は太政大臣玄孫(ひまこ)大臣物部の大連天照大神のひまごという事から付いた名である。二人の間の御子は大祝日往子(おおはふり・ひゆきこ)という。
(玄孫って「やしゃご」と読むのが正解。ひまごは「曾孫」と書きますよね。)

三男の月神・底筒男の尊神功皇后と夫婦になった。
地上での名は物部の保連藤大臣。高良大菩薩
藤大臣と呼ぶのは、干珠満珠を借りた時の仮の名前。

皇后には九人の御子がいた。
四人は仲哀天皇との間の御子で、五人は高良大菩薩との間の御子である。
合わせて九人の御子を九躰の皇子と言う。

残った月神と日神は、神功皇后姉妹とそれぞれ夫婦になったんですって。
なるほど、だから20歳の若者の姿で現れたんだ。

この二組の夫婦は仲が良くて、一緒に皇宮に住んだそうですよ。
場所はどこだろ?文脈からは、高良山の麓なんでしょうね。
それとも、四王寺山の麓?(どちらも九州王朝の都の候補地だ!)
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長男の日神は豊姫と結婚して、生まれた子供に大祝日往子という名をつけました。
この大祝家は神官を務める家系です。物部氏なんですね。
この日往子のお墓が、祇園山古墳だという伝承もあります。

さて、メインの月神は神功皇后と夫婦になり、二人の間には5人の子供が生まれます。
仲哀天皇との間の4人の子供と合わせて九人を九躰の皇子と呼びます。

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どれもこれも、記紀とは全く系譜が違っています。
記紀に洗脳された頭には、何が描かれているのが理解に苦労しました。

この九人の御子の名前は『神秘書』には書かれていませんでしたが、
宝物殿に、それを書いた縁起書がありました!
1 斯礼賀志命(しれかし)     
2 朝日豊盛命(あさひとよもり) 
3 暮日豊盛命(ゆうひとよもり)
4 渕志命(ふちし)
5 谿上命(たにがみ)
6 那男美命(なをみ)
7 坂本命(さかもと)
8 安志奇命(あしき)
9 安楽應寳秘命(あらをほひめ)

9人の名前が伝わってるとはスゴイです。

さて、これも系図にしてみようとして、はたと困りました。

これが生れた順に書かれているなら、最初の四人は仲哀天皇の御子たちになります。
高良大菩薩の子供じゃないんです。
単純に考えるなら、シレカシ命は仲哀天皇の嫡男になってしまいます。
(宇美神社で生まれたホムタワケの命はどうなる?)
どうしよう。辻妻を合わせられない。そうだ。
神功皇后は元夫の子供を4人連れ子にした。
だから、高良大菩薩にとっては、子供が9人になった。
そうだ、別に変じゃない。それで、いいのかな…。
(違う気もする…。とりあえずスル―しよう…。)

神功皇后はこの後、東征をせずに、高良山の麓で幸せに暮らした?
そうなると、記紀とはかなりの違いですね。むむむ。
続きを読まなきゃ。          (つづく)




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by lunabura | 2009-12-30 15:44 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Trackback | Comments(6)

高良大社(8)印鑰神社と『高良玉垂宮神秘書』


高良大社(8)
印鑰神社と『高良玉垂宮神秘書』

『高良玉垂宮神秘書』のつづきを読んで行きましょう。
17代仁徳天皇の時に神功皇后は崩御。
夫の高良明神玄孫大臣、豊姫、大祝日往子尊、武内大臣皇宮を一緒に出た。
武内大臣は因幡の国で靴と衣を残して、山の奥に入って行方不明。
豊姫と玄孫大臣は皇宮からはるばると肥前の国に留まり、豊姫は河上大明神となった。

高良大明神と大祝日往子尊は9月13日に高良山に戻り、三種の神祇をはからった
(はからうの訳、不明。取り扱う。相談する。処置する。など)
神璽(皇位のしるし・天子の印)は高良大明神が預かっていた。
宝剣は神功皇后が持っていた。
内侍()は玄孫大臣が預かっていた。

16代天皇は短命だったようです。彼がホムタワケの命か、シレカシの命か、
あるいは同一人物なのか、文脈からは分かりません。
しかし17代は普通に仁徳天皇になっています。
神功皇后が生きている間に、天皇が変わったというのは、
16代が短命だった事になります。

さてその後、神功皇后が亡くなると、高良明神たちは
皇宮にいられなくなったようにも読めるのですが…。

唐突に出て来た武内宿禰は鳥取県で行方不明…。
豊姫・玄孫大臣夫妻は佐賀県へ。
高良大明神は甥っ子の日往子尊を連れて高良山に戻ります。
この部分の皇宮は何処だったのだろうか。文脈がつながりません。

高良大明神は三種の神器を持ち帰ったのでしょうか。
肝腎の「はからう」の訳が分かりません。
仁徳天皇が持つべき神璽を高良大明神は預かったままなのか。
玄孫大臣は鏡を持っているのか。
三種の神器を持つ者が天子なのです。

いったいどうなってる?????
途中が欠落していて、ストーリーが分かりません。
神秘書を読んで、謎がまた増えた…。

それでも、手掛かりを探しました。
そうだ。本殿の裏には印鑰神社がある。

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末社 印鑰神社(いんにゃく)
御祭神 武内宿禰命 (高良山祠官家の祖神)
由緒 山麓宗崎鎮座の印鑰社を昭和6年(1875)に勧請
例祭 11月13日
御神徳 延命長寿 厄除け 盗難除け

この「印鑰神社」は「いんにゃく」と読みます。
「印」は印鑑。「鑰」は鍵という意味です。

この「印」が神璽なのか、単なる役所のハンコなのか分かりません。
高良大社に伝わる印鑑は宝物殿で直接見る事が出来ます。
不思議な模様で、文字ではありません。
(掲載の許可を貰い忘れたので、出せません。ごめんなさい。)

「鍵」と言えば、くるま座さんが、
「太宰府天満宮の祭りには、二か所の神社の黄金の鍵を持っていくようになっていたのが、近年途絶えた」と言っていたのを思い出しました。

ネットで印鑰神社を調べると、久留米市や壱岐、熊本、佐賀、石川などに見られ、
国の役所が置かれていて、国の印鑑や倉庫の鍵の保管場所だったのが由来のようです。
那の国の金印が中国から与えられた事情などを考えると、
古代日本では「三種の神器」以外に「印鑑と鍵」という権威のシンボルの二本立てで見ていく必要があるんだなと思いました。

この印鑰神社の御祭神は竹内宿禰ですが、
他の印鑰神社でも竹内宿禰を祭神とする所があるのが謎解きの鍵のようです。
『神秘書』の中では竹内宿禰は高良の神ではありませんでした。
「高良の神」は物部の保連(やすつら)でした。

『神秘書』の本文はまだまだ続くのですが、
「神部物部を秘密にせよ。」という文もあり、さらに背景の研究が必要でした。
(るな的にはこれ以上は力不足です。)
ただ、気になる部分があったので、少し書き出しておきます。
40代天武天皇の時、高良大明神は高良大菩薩となった。
異国征伐の時、干珠満珠で国土を守ったことから、
皇宮で神璽を持っていた間、鳥居に玉垂宮と書いた。

やはり、高良大明神は天子の印を持っている時期があったととれるし、
玉垂宮と書いたのは高良山での事のように思われます。

アントンイソラは筑前国では志賀、常陸の国では鹿島大明神、大和の国では春日大明神という。

アントン・イソラなんてカタカナで書かれると、異国の名前のようですね。
ずっと考えたら、「安曇磯良」だった。(例。曇天はドンテンと読む)
アズミは安曇と書いたり阿曇と書いたりするけど、この例から「安曇」と書くのが原型に近いみたいです。

神功皇后の妹は二人いる。一人は宝満大菩薩。一人は河上大明神(豊姫)

神功皇后の妹は二人というのは、初めて知りました。

さらに、大問題が!
10月1日は日本の神たちが出雲に順番に集まるから神無月というが、高良大菩薩は訳あって、出雲大社には行かない。だから、筑後国では10月を神有月という。

う~ん。これは見逃せない力学関係ですね~。
筑後国は、諸国と立場が違ってる!

出雲に日本の神々が行くのは、
「翌年の暦を貰うためではないか」という仮説を持っているのですが、
高良の神が行かないのは、独自の暦を持っているからではないかと解釈しました。

物部氏って自分たちで精確な暦が作れるから、出雲なんかに行く必要はない。
そんなプライドが感じられます。つまり独立国であったという事。
これが世に言う「九州王朝」なのだろうか。

以上、『高良玉垂宮神秘書』の一部を読んで見ました。
四王寺の部分で垂迹説を唱えて粉飾してしまったのが、実に惜しいです。
この為に、虚と実と振り分ける作業が必要になってしまいました。
しかし、ここには当事者しか書けない真実の部分も見え隠れしています。

皇宮の場所は、どこか書かれてないけど、
三種の神器が一時期高良山にあったのを示唆しているようです。
記紀の中でも矛盾している3~4世紀を補うような予感がします。

そろそろ高良山を降りましょう。また、ここに舞い戻って来れますように。




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by lunabura | 2009-12-29 20:55 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Trackback | Comments(13)

高良大社(9)高良山神籠石


高良山神籠石
こうらさんこうごいし
久留米市御井町高良山

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前回の高樹神社から少し登ると、高良山の二の鳥居があり、そこからは登山道です。
鳥居の上が苔むして良い風情です。
登って行くと、ほどなく巨岩が現れ、何やら石の柵に囲まれたものが。

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近づいてみましょう。

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有名な馬蹄石です。穴が二つ窪んでいます。
馬の足跡のように見える事からついた名前です。
この穴を踏むと足が速くなると言われているそうで、
地元育ちの元少年はこれを踏んでリレーの選手になったと話してくれました。

立札を読んでみましょう。
馬蹄石(ばていせき)
この大石の上に高良の神が神馬の蹄(ひづめ)あとを残されたという伝えから、「馬の足形」とも呼ぶ。しかし中世の縁起書『高良記』には、この石こそが「神籠石」であり、「八葉の石畳(現在の神籠石列石)」の起点、終点であると記されている。付近の字名も「神籠石」という。おそらく古代の盤座(いわくら)の一種であろう。

おお、なるほど。現在、「神籠石」(こうごいし)と言っている列石は、
かつては「八葉の石畳」と言っていたのですね。
高良山をぐるりと囲む列石を「蓮(はす)の花」に見立てたのでしょうか。
そして、この巨岩全体こそが「神籠石」と呼ばれていたそうです。

そうすると、この馬の足跡のような穴は杯状穴の可能性が出て来ました。
祈りを捧げた場所の名残です。
そこから斜め上の斜面を見上げると、三角形の盤座がありました。

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これも有名な「背比べ石」です。
背比べ石
神功皇后が朝鮮半島への出兵を前に、この石と背丈を比べて吉凶を占われたとの伝説がある。古代の石占(いしうらない)の習俗を伝えるものであろう。
菱屋平七の『筑紫紀行』(享和2年1802年)には「勢比石」と見える。

おっと、こんな所にまで神功皇后の伝説がありましたよ。
現在の高さは1mもないのですが、どんな風に比べたのでしょうか。
さきほどの馬蹄石と背比べ石がセットになって、祈りの聖地を形成していたようです。

ここで振り返ると、反対側にもう一つ説明板がありました。
史跡 高良山神籠石

筑後国一の宮高良大社が鎮座する高良山の山腹を広くとりめぐらした列石で、我が国の古代遺跡として、最も規模雄大なものである。古くは「八葉の石畳」と呼び、高良大社の縁起の中で、結界の表示として語られているが、古代の山城の一種とするのが通説である。

明治以降学界で問題となった同類の遺構は、最初に紹介された高良山の例にならい、神籠石と総称されるようになった。

列石は1m内外の長方形の切石を一列に並べたもので、高良大社社殿背後の尾根(海抜251m)を最高所とし、南側の尾根にそって下り、西裾の二つの谷を渡り、1300余個、延々1600mに及ぶ。ここ南谷には、水門の基底部の石組みが残っている。

これに対して、北側の列石は確認されていないが、天武天皇7年(678)の「筑紫国大地震」によって崩壊したのではないかとの説がある。

築造の目的、年代、築造者などについても諸説があり、正史に記載を欠くことと相まって、この列石をめぐる謎は深い。
昭和28年11月14日、国の史跡に指定された。

これを読むと、本来、「神籠石」とは「馬蹄石のある巨大な盤座」を指していて、
山を巡る列石群は「八葉の石畳」と呼ばれていたという事ですね。
これが明治以降、学術用語となって、日本各地の列石群をも含めて「神籠石」と
呼ぶようになったという事です。

やはり、この高良山で原信仰を探るなら、この馬蹄石と背比べ石の盤座の存在を
抜きには考えられない事が分かりました。
登山道の脇にさりげなくありますが、ここに社が建てられていてもおかしくない祈りの場でした。
(でも、こんな風に自然のままが大好きです。)

神籠石については、現在「山城」説に落ち付いているようですが、まだまだ謎を秘めています。

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これは、本宮の境内にあった「八葉石」(はちようせき)です。
この二の鳥居の所にあったのが、明治初年の廃仏毀釈によって、割られたものだそうです。

では、列石を見て行きましょう。
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これは大学稲荷前の列石です。バス停のすぐ上にあって、車道から見る事ができます。

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これは本殿の左裏にある列石群です。この先はもう頂上で、
そこからは右にカーブしながら下って行って、大学稲荷前の列石に続きます。

久留米地名研究会の方が歩いて行ったそうです。でも、途中で迷ったとか。
傾斜は緩やかそう。と言う事は、ずいぶん長いルートなんでしょうね。

さて、この写真の場所から下ると神籠石がさらに続くはずなのですが、
この地点で消えています。これまではそれが謎だったそうです。

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角度を変えて撮りました。道路の左に見える斜面が列石の終点です。
本来なら、この道路を越えてずっと下に続くはずなのにありません。
どうなったのでしょうか。
右の斜面を見ると急激に下がっています。実は斜面が崩落したのです。
地震の為にずり落ちてしまったそうです。

それについて説明板がありました。
これより北方の列石線は確認されていない。従って列石自体が未完成ではないかとも疑われていた。

しかし最近、地震考古学の発達によって、神籠石の見い出せない北側尾根の真下に並行して、水縄(みのう)断層系追分断層が走ること、その上部の北側面には地震動による大規模な斜面崩壊の痕跡が認められることが判明した。

この大規模な斜面崩壊は山麓周辺の発掘調査から、水縄断層の最新の活動すなわち、日本書紀に見える天武天皇7年(678)の「筑紫国地震」である可能性が強く、この時の斜面崩壊で列石の断層寄りの部分が崩落したとすれば、列石が北側尾根に認められない理由も説明できる。こうして高良山神籠石の築造年代の下限が678年以前であることが、ほぼ推定されるに至ったのである。

1400年以上も昔に、この福岡県で大地震があり、断層が県の南北、そして東西に
走った事実があり、日本書紀にはこの時のようすが書かれているそうです。

この678年の筑紫の大地震の断層の差は数mの高さがあって、
今でも各地にその地形を見る事が出来ます。
この600年代は地震による津波や断層、戦争が相次ぎ、筑紫は大変な状況でした。
その時代に生きていたのが天智天皇や天武天皇です。

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これは高良山神籠石の全体図です。(歴史散歩#20久留米市教育委員会より)
赤い実線が現存する列石で、点線になったところが、地震で崩落した部分です。
吉見岳そのものがずるっと滑り落ちたそうです。信じられない激震です。
神籠石を追っていて、まさか地殻変動の歴史を見せつけられるとは思いませんでした。

それにしても神籠石って、どこの石を切り出して来たのでしょうか。
神籠石はこの近くの山にもいくつもあるので、どこかに石切り場があったはずです。
神社や祠があるかも知れません。
祭神が分かれば、どんな集団が祀ったのか見えてくる可能性があります。

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これは、日本に分布する古代山城です。(『あつまれ!!古代山城』より)
赤い丸は朝鮮式山城で、青い丸は神籠石系山城とされています。
神籠石は現在16カ所で発見されています。
これからの研究が大いに期待される遺跡群です。




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by lunabura | 2009-12-28 10:20 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Trackback | Comments(4)

高良大社(10)税として納められた鷹と鷹鳶神人


税として納められた鷹と鷹鳶神人

 高良大社

只今、当ブログの話題は英彦山や高良山、星野村など
福岡の山岳に鎮座する高樹神社や高木の神などに及んでいます。
その山々には鷹が神として飛来する話があるので、
鷹の話題で盛り上がっているのですが、

今回、愛読者さんから、奈良時代に
筑後の国から鷹と鷹匠などが税として納められていたという
面白い記録を紹介していただきました。
その話の中に出て来る、「鷹鳶神人」の持つしるしの写真があるので、
コラボで紹介します。

まずはコメントから。これは「ちょっと」というタイトルの記事にあります。



愛読者:
もうひとつ「鷹」と「高良別宮」ですが、
「筑後国天平十年(738)正税帳」に
「貢上鷹養人参拾人」(略)「貢上壹拾伍頭」、
同じく「周防国天平十年正税帳」に
「従大宰府進上御鷹部領使(ことりづかひ=先導役)
筑後国介従六位上日下部宿禰古麻呂将従三人、持鷹廿人、(中略)御犬壱拾頭」
とあります。

当時筑紫から「御鷹」が筑後の日下部氏に先導され、
併せて「30人の鷹養人・犬25頭・20人の鷹持ち(当然鷹も20羽以上)」が
税として貢がれたというものです。

このような莫大な鷹の献上は筑紫からしかありません。

そして、「筑後の日下部氏」とは、高良大社官長職の日下部氏で、
高良大社御神期大祭の御神幸には羽の付いた冠を被った「鷹鳶」の行列が見られ、
筑後久留米市草野町には「隼鷹(はいたか)天神」もあります。

「御鷹・御犬・鷹持」等の尊称から、
鷹狩は高良玉垂命=九州王朝の尊い行事だったと思われます
(もちろん神功皇后とも関係)。
(「正税」とあるから天平10年に大和朝廷に召し上げられたことになる!!)



るな:
これは、面白いですね!!
税から鷹の話が出て来るとは。
しかも、日下部氏なんですね。
私は高良大社の勅使祭の、その写真を撮っているので、
愛読者さんのコメントと、私の写真でコラボの記事を書きましょう。
とても重要な位置にありましたよ。 (^-^)



ということで、早速行列のイラストを挙げましょう。

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これは2012年10月14日に催行された高良大社神幸祭の行列の一部です。
本来50年に一度あるのが、臨時的に20年目に催行されました。

鷹鳶神人は行列の中でちょうど中央に位置するのですが、
コメントに書いたような重要な位置ということはありませんでした。<(_ _)>

鷹鳶神人の冠を見ると、確かに羽根が挿してあります!!
全然気づかなかった。
私はそれよりも、掲げる太陽らしきシンボルに夢中だったのです。



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ごれが実物。
よく見ると、今回の神幸祭では烏帽子(?)のままですね。
この人が「鷹鳶神人」というのですが、手に持っているのは
太陽という解釈でいいのでしょうかね。
巴神人の後ろに日月神人がいて、そちらにも太陽のシンボルがあるので、
また別の解釈があるのかも、と思ったりもしています。

高良山は「高牟礼山」とも言うのですが、
冗談で「鷹群山」と書いたら、
少なくとも20羽以上の鷹が税納されたというのですから、
確かに鷹が群れ飛んでいたのかもということになりました。

鷹の飼育人30人、鷹匠20人、犬(狩用だと思う)15匹が納められる環境なのですから、
大規模な鷹狩りの為の繁殖や訓練組織があったはずです。

現在の鷹匠は大変少なくなっていて、
佐賀県の女子高生が鷹匠になったという報道を見ました。
カラス対策にすごい効果があるそうです。

鷹の群れ飛ぶ高良山、鷹群山か…。
在り得るかも。



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by lunabura | 2009-12-27 00:53 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Trackback | Comments(23)

宝満宮 竈門神社 

宝満宮 竈門神社 
ほうまんぐう かまどじんじゃ

福岡県太宰府市内山883    

縁結びといったらここ

天皇家の最初の母となった玉依姫を祀る

宗像市の食堂で食事をしていたら、
二十歳ぐらいの女性たちが三人で話していました。
ひとりがぽつりと
「竈門神社。」
と言いました。
ほかの二人が真剣に黙ってうなずいています。

へえ、やっぱりね。
こんな遠い所でも、絶大な人気の縁結び
ちょうど行こうと思ってた所だし、
ということで早速行ってきました。 

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駐車場からすぐ大きな石段が人々を迎えます。
その石段を上ると、沢山の人々が行きかっていました。


昼下がりだったこともあって、
宝満山から下山した人々や参拝に来た人々で
とても賑わっています。
そう、ここは市民登山のメッカなのです。

ここから宝満山に登って行きます。
標高が868メートルあって、
毎日登る人、一日に二回登る人。
千回を目指す人と、いろんな登り方をしています。

ルナも若杉山から縦走して降りてきたり、
また、ある時は宇美町から登ったりもしました。

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次の鳥居をくぐると、いきなり深山の趣です。
鳥居にかかる木はもみじです。
ここは紅葉の名所でもあります。

緑多き山から下りて来た時でも、
ここの夏のモミジの美しさに息をのんだ事を思い出しました。

自然と調和した時には、人の手で植えられた木々も
格別に美しい姿を見せてくれることを知りました。



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参道の脇には深い森でしか見られないような、
巨石の上の苔たち。


あちこち見とれているうちにいつの間にか下宮の拝殿へつきました。

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若いカップルも、

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お年を召したカップルも。

そして、ルナも。
手を合わせましょう。


さあ、由緒書きです。(句読点を追加)

   寶満宮竈門神社

 祭神 玉依姫命 
相殿 神功皇后 応神天皇
 霊験 縁結び 安産 雨乞 方除 交通航海安全 
 大祭 十一月十五日


おっと、ここにも神功皇后が祀られています。
駕輿八幡宮(かよいはちまんぐう)と同じ組み合わせです。

ただ、メインの御祭神は玉依姫です。
神功皇后からみた関係はこうなります。

玉依姫命     神功皇后   応神天皇
(守護の女神)   (母)       (子)



由緒書の続きを見ましょう。 

御祭神は神武天皇の御生母の玉依姫命であります。
命は海神の女(おんむすめ)で、うがやふきあえずの命の妃となり、
五瀬命や神武天皇等四柱の御子を産まれた後、
御子の教養と建国の大業に心をくだき、
このかまど山に登られて祈念されたと伝えられています。



玉依姫が結婚した事情は『姫宮さまたちの物語』の「玉依姫」の所に
書いています。
右サイドバーからもリンクしていますが、その本文を紹介しましょう。

玉依姫

玉依姫は海の神さま大綿津見(おおわたつみ)の神の娘です。
姉の豊玉姫(とよたまひめ)と共に綿津見の宮に住んでいました。
姉の豊玉姫が日の御子のホオリノミコトと結婚したのですが、
三年でホオリノミコトが自分の国に戻りました。

姉の豊玉姫も後を追って綿津見の宮を離れました。
子供を出産するためです。

ところが、子供を生み終えると、姉上は一人で
綿津見の宮に戻って来ました。
出産するときに本来の姿(海亀)を見られてしまったために、
帰って来てしまったのです。

姉上はこちらに帰って来たものの、夫が恋しく、
また残して来た子供が気がかりです。
そこで、妹の玉依姫が子供の養育係として、行く事になりました。

 こうして葦原の国に行った玉依姫は
姉の子のウガヤフキアエズノミコトを育てました。
そして、この子が成人すると、二人は結婚をしました。
二人は伯母と甥にあたります。

二人の間には四人の子供が生まれました。
子の名は五瀬命(いつせのみこと)。
稲氷命(いなひのみこと)。
御毛沼命(みけぬのみこと)。
若御沼命(わかみけぬのみこと)です。

長男のイツセノミコトは一番下のワカミヌノミコトと共に、
この国を出て、東に新たな国を作るために出かけて、途中で戦死しました。

二番目の子、イナヒノミコトは亡き母の国へと海原にお入りになりました。

三番目の子、ミケヌノミコトは波頭を踏んで常世(とこよ)の国に行きました。
そこは不老長寿の国と言われています。

一番下のワカミケヌノミコトは別名、トヨミケヌノミコト、また
カムヤマトイワレビコノミコトとも言います。

イワレビコノミコトは兄のイツセノミコトと共に日向を出て、
東に向い、大和を平定して、
初代の天皇になりました。神武天皇と言います。

           (古事記 ウガヤフキアエズの命の巻より)

こうして、玉依姫は初代天皇の母として敬愛を受ける事になりました。


玉依姫は姉の子供を育てて、その子と結婚したのですね。
(当時はこのように親族で結婚するケースはいくつも見られます。)
そして、二人の間に出来た子供たちは成人すると皆、
母を残して、大和の国に新しき国を求めて
はるばると東征していってしまいました。

政治的には天孫族が海人族と縁を結んだために、
その軍事力と船舶の支援を取り付ける事が出来たという事になります。

母方の海人族が全面的に協力したので、イワレビコノミコトは
はるか大和まで移動出来た訳です。
母はこの地に残り、子供たちの成功を祈りました。


そう言う訳で、玉依姫は宝満山の山頂に祀られています。

海神の娘なので、水を司る事が出来るので、
この山頂で水分(みくまり)の神として、
人々に恩恵を与え続けています。
「霊験」の所に雨乞いとあるのはこの事からでしょう。

愛情深き母として、
また子供たちを大和へ送った後も祈り続けた母として、
そして、水を分け与えてくれる女神として、
人々に慕われ続けています。

しかし、玉依姫の墓所が行方不明になってしまっています。

子供たちは皆大和へ行ってしまいました。
戦って、国づくりをして、故郷に残した母の事を忘れたはずはなくても、
大昔の事情を考えると、
墓の場所が忘れられてしまったのは仕方がない事です。

何度か修復されたらしいのですが、
いつしか松の木が一本、目印になった位だそうです。

海の中の島だった博多

玉依姫の時代は博多のあたりはまだ海の中で、
島々がたくさんあったそうです。
この竈門神社の麓あたりは、有明海と博多湾を結ぶ水路があって、
この辺りで、激しく波がぶつかりあっていたと、
真鍋大覚氏が書いています。

そんな玉依姫と神功皇后の接点は?

初めて九州にやって来た神功皇后ですが、
夫の天皇が崩御したので、
代わりに新羅を攻めなければならないという難事にぶつかった時、
玉依姫の神廟(墓所)に行って戦勝を祈っています。

この時、玉依姫命が現れて
「そなたと姉妹の契りを交わしましょう。」
と、神功皇后に約束したそうです。

天皇家の母神、玉依姫の神託はどれほど
神功皇后を励ましてくれた事でしょうか。
戦の時にも、また出産の時にも、
頼みにしたのです。

そう言う訳で、この二人はセットであちこちで祀られています。


蛇足です。

イワレビコノミコトがこの地で玉依姫の元で育った可能性があります。
すると、宗像市の八所宮の所を通りかかったのも、
東征のルート上という事で、辻妻が合います。
(八所宮はひょっとこ踊りを紹介した宮です。カテゴリからどうぞ。)


縁結びの方はこちらで~す。
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このお宮では皆さんの恋を応援してますよ。
なるほど、最初に書いたあの三人娘が
真剣にお参りしようと頼りにする訳です。


さてさて、武道ファンはお見逃しなく

夢想権之助神社(むそうごんのすけ)
神道夢想流 杖道発祥の地
(しんとうむそうりゅう じょうどう)

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あの宮本武蔵がたった一度だけ
負けた事があったって知ってますか?

その相手がここに祀られる夢想権之助です。

始めは夢想権之助が宮本武蔵に負けました。
その後、
ここで籠って祈ったところ、夢で
「丸木をもって水月を知れ。」
と教えられたそうです。

意味は
剣ではなく、杖(じょう)で、
水月という「みぞおちの急所」を撃てという事です。

そこで、権之助は杖で研鑽を重ねて、
ついに武蔵に勝ったんだそうですよ。

だから、この流派の稽古は「杖VS木刀」です。
見ていても、迫力があります。

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さあ、では帰るとしましょう。
駐車場から見た西の山なみです。
太陽があまりに輝いていたので、撮りました。

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by lunabura | 2009-12-24 23:29 | 竈門神社・宝満宮・太宰府市  | Trackback | Comments(4)

八所宮(Ⅰ)

八所宮(Ⅰ)
はっしょぐう
福岡県宗像市吉留3186
平和示現の宮
 日本神話の始まりの四組の夫婦の神を祀る宮

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この八所宮は福岡県の北九州市と福岡市の真ん中あたりから
少し南に下った所にあります。

国道三号線で宗像市に入ったら、冨地原(ふじわら)の信号から
鞍手方面へ向かいます。
しばらく行くと、左手に大きな鳥居が見えてきます。
古い作り酒屋が目印です。そこから左折して、しばらく走って、
人家も途絶えた所に丘が見えたら、そこが宮のある所です。

ここまでは、橋を渡ったり、川に沿って行ったりして、
田んぼの中を走って行きます。水の豊かな里山です。


さあ、ではお宮へ。

鳥居をくぐると、いきなり、森の中です。
写真の鳥居の奥が真っ暗でしょ。
木が生い茂っているんです。
気温がぐっと下がり、夏でも快適な涼しさです。
ゆるやかにな階段を上りながら左右を見ると、
木の幹の大きさに目を奪われます。
幹には苔が生えています。
足元の石段も苔むしています。
「うわっ、ここは古いお宮だ。」

案内書より

境内のご神域約6・5ヘクタールは
昔から手つかずの原生林で覆われております。
林内には、樹齢数百年のイチイ樫や常盤柿など学術的にも貴重な
植物が生存し、福岡県指定天然記念物です。
その他、タブ、ネズの大木があり、氏子は大切に守っています。


原生林の植生ってほんと豊かです。
ゆらゆらと木漏れ日の中を上って行きました。


途中、左手に小さい社がありました。
「現人(あらひと)神社」とあります。
森の中に、ひっそりと祀られていますが、
地元の人々がよくお参りしているような、風情です。
よく願い事を聞き遂げてくれる神さまらしいです。


さらに、石段を上って行くと、古い石の鳥居が迎えてくれました。
鳥居にまでコケやら草なんかが生えています。
それをくぐると、八所宮の拝殿の前に出ました。

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明るく開けた境内です。
社殿の後ろには深い森が控えていました。


お汐井とり

拝殿の脇には、ここにもお汐井とりがありましたよ。
この砂をもらって帰り、外出する時のお清めの砂として、使うものです。
志式(ししき)神社の所でも書きましたが、
この砂は昔の天気予報の名残です。
外出時に砂を風に吹かせて、掌に残った砂の残り具合で、
その日の天気を予報しました。
それが形を変えて、現代にまで伝えられています。

この山の中にある砂はどこのものでしょうか。


説明が書いてありました。

このお汐井は赤間の里から釣川(つりかわ)に流れ、美しき水で清められ、
玄界灘の荒波で更に清められた真砂を社領に持ち帰ったものです。


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ここが赤間の里です。
ここから玄界灘に流れる美しい川の水で清められた真砂(まさご)が
社殿に来ていました。

さあ、御祭神はどなたでしょうか。


御祭神

 泥土煮の尊(ういじにのみこと)     沙土煮の尊(すいじにのみこと)
 大戸の道の尊(おおとのじのみこと)  大戸の辺の尊(おおとのべのみこと)
 面足の尊(おもだるのみこと)      綾かしこねの尊(あやかしこねのみこと)
 いざなぎの尊                いざなみの尊


「うわあ、古い。すごい。
こんな由緒の古い御祭神、みたことない!」
これを見て、私はすっかり興奮してしまいました。
なんでって?
この神さまたちは、古事記の第一ページを飾る神様たちなのです。

しかも、八柱も揃いにそろって。

日本中探しても、こんな御祭神の顔触れはないかもしれません。
こんな人里離れた所だからこそ、よくぞ守られた。
と、有り難く参拝しました。

この八柱の御祭神について、境内には由来書がありました。

アマテラス大神のご両親をはじめ、神代四夫婦八柱の神を祭り、
よって、八所宮と言うようになりました。


アマテラス大神のご両親とは、イザナギ、イザナミの神の事です。
ここの神様は全部、夫婦の神さまたちなんですね。
   
また、案内書にも

八所宮は自然創造の神、六柱と
日本国の始祖、二柱をおまつりしております。
本宮の名は八柱の神を祭っておりますので八所宮と申します。


と、書いてありました。

舌を噛みそうな、最初の三組の夫婦神たちは、
地球を創造した時に生まれて働かれた神々なのです。
造化の神ともいいます。
そして、四組目のイザナギとイザナミの神は日本の国土を
作りました。沢山の島々と神々を生みました。

では、さっそく古事記の巻頭を開いてみましょう。

古事記

天と地が初めて別れた時、
高天(たかま)の原に現れた神は
天の御中主((あめのみなかぬし)の神でした。
次に、タカミムスヒの神。
次に、カミムスヒの神です。
この三柱の神は、みな単独の神として、身を隠されました。

次に国土が出来たばかりで、水に浮かんだ油のように、
クラゲのように漂っている時に、
葦の芽が牙のように大地を突き破って芽生えるようにして、
出現した神の名はウマシアシカビヒコヂの神。

次に、アメノトコタチの神。
この二柱の神もまた、単独の神として、身を隠されました。
以上の五柱の神は特別な天(あま)つ神です。

次に現れた神の名はクニノトコタチの神。
次にトヨクモノの神。この二柱の神もまた
単独の神として身を隠されました。

次に現れた神の名は、
ウヒヂニの神、次に妹(いも)スヒヂニの神。
次にツノグヒの神、つぎにイモイクグヒの神。
次にオホトノヂの神、次にイモオホトノベの神
次にオモダルの神、次にイモアヤカシコネの神
次にイザナキの神、次にイモイザナミの神

(以上、クニノトコタチの神からイザナミの神までを合わせて、神代七代と言う。
数え方は、二柱の単独の神は各一代とする。
次の男女ペアの神々は各二神を合わせて一代とする。)

さて、始めの五柱の天つ神がイザナギノ神とイザナミの神に
「このクラゲのように漂っている国を、つくろって、固めて完成させなさい。」
と言って、天の沼矛(ぬぼこ)を与えられました。


太字で示した八柱がこの八所宮の御祭神です。

最初の五柱の神々は宇宙に表れて、身を隠しました。
続けて現れた夫婦の神々が五組。
そのうちの四組がここに祀られています。

天と地が分かれて、次々に地上が形成されて行く過程が
神として描かれています。
言葉にして読むと大変格調高い気持ちになる名文です。

何故この八柱の造化の神がこの宗像市の吉留(よしとめ)に
祀られているのでしょうか。

神社の由来も古いですよ!


神社の説明文です。
由緒 
 
今を去る2千数百年前、神武天皇が日向の国から御東遷の際、
この地の御手洗池のほとりに鎮座を賜りました。
その折、赤い馬に乗った神が現れ、道案内されたとされ、
これが宗像市赤間(馬)の地名の起こりと伝えられています。

 その後、天武天皇の御代、白鳳2年(674年)12月28日、
ご神託により、清水池のほとりから鶺鴒山(せきれいさん)(現在地)に
御遷座されました。
今では、この日を創立の日と定めております。

―略―


なんと神武天皇が出て来ました。
神武天皇がここを通る時に赤い馬に乗った神が道案内をしたという
いわれです。

同じような話を地元の研究家の本からも見つけました。

宗像伝説風土記 下  上妻国雄 (西日本新聞社)

赤間  神武天皇の御東征のおり、ひとりの先払いの神さまが赤い馬に乗って、
この地を通られてから、この地名が起こったという。

吉留(よしとめ) 吉留の起源も、やはり神武天皇御東征にまつわる伝説で、
赤間をお通りになった八人の神さまが、通りすがりの白髪の老人に
「どこかよい休憩する場所はないか」とお尋ねになったところ
「この釣川の上流には、よい丘がある」と
お答えした。
 神さまがたはたいそうお喜びになって、その丘でご休憩をとられて、
ここを「吉」と宣うて(のたもうて)、 
「留(と)」まられたので、吉留の名が起こったという。



三つの話のキーワードをまとめてみると、
「八人の神さまがこの丘に鎮座された。
神武天皇が東征する時に赤い馬に乗って道案内をされた」
ということでしょうか。
そして、この赤い馬が赤馬(あかま)となり、赤間と書かれるように
なったという事のようです。

さて、この話を読んで、
「あれっ、神武天皇が何故こんな所を通ったのだ。話が変だぞ。」
と思った方は、かなりの歴史通です。

そう、通説では宮崎から船で北九州の近くに行ったはずですから。
こんな所に来たとは、不思議です。
だから、フィールドワークって面白いですよね。

この宮から北西の方の海岸に、神武天皇が一年間滞在した
岡湊(おかのみなと)神社(もしくは岡田神社)があります。
直線で2~30キロメートルほどの距離です。
東征の途中か、滞在中か、ここに来られた可能性は十分にあります。


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参道を下って帰り道。
木漏れ日と苔の緑の癒しの空間です。

神社の方々にお話を聞いていると、もうすぐ、ここの年一度の
お祭があるとか。

そこで、夜祭りに出かけましたよ。

(Ⅱ)へつづく
 
さて、全国各地のみなさまへ
     お汐井とりがあるお宮が日本全国でどれくらいあるのか、気になって来ました。
     近くのお宮でお汐井とりを見かけたら、コメントで教えて下さいね。 
              るな   (^-^)



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by lunabura | 2009-12-14 18:12 | 八所宮・はっしょ・宗像市 | Trackback | Comments(0)

八所宮(Ⅱ) 夜祭りだァ


八所宮(Ⅱ)
はっしょぐう
福岡県宗像市吉留
夜祭りだァ
日向ひょっとこ踊りとお神輿

例大祭
毎年、10月第3土、日がここの大きなお祭りの日です。
夜から始まるという事で、日が暮れてから訪ねました。
あたりは人家がないので、夜は真っ暗です。
お宮の周りに裸電球がぐるりと渡してあって、闇夜にほっとしました。
こんな暗闇は久し振りです。

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参道の灯篭にも火が灯されて、参拝する人を迎えてくれます。
なんとも良い風情です。
石段を上って境内が近付いてくると、祭りの音が聞こえて来ました。
闇夜の笛の音は何とも、心惹かれます。

境内の舞台はすでに盛り上がっていて、地元の人々の舞いや歌、独奏、などなど、芸達者ばかり。
見ていると、次から次へと、こんなに沢山の芸能が日本にはあるんだと、感動です。

今日はそのなかでも「日向(ひゅうが)ひょっとこ踊り」を紹介します。
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鉦と笛の音が聞こえてくると、いきなりハイテンションになりました。

チャンチャラ、ラッ。
チャンチャラ、ラッ。
チャンチャラ、ラッ。チャ。

金属性の高い鉦の音が四拍子をとります。
(ジングルベルと似たリズムです。)
笛の音がそれに絡むように吹かれます。

男も女も赤い着物を着て、お面をかぶり、ほっかぶりです。
ふんどしを垂らして、一人ずつ踊りながら入って来て、次第に輪を作って、ぐるぐると回ります。

チャンチャラ、ラッ。
チャンチャラ、ラッ。
チャンチャラ、ラッ。チャ。

周りに原生林しかない、里山の空間に、ひたすら単調なリズムが響き渡ります。
なんとも、キツネやタヌキが人を化かした昔にタイムスリップしたような気分になって来ました。
よく見ると、キツネのしっぽを垂らした人もいます。
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山の精霊たちのお祭りを木陰から覗かせてもらっているような不思議な気分です。
踊り手たちは、滑稽な動きでどこまで人を笑わせられるか、ひたすら追求しています。
こんなひょうきんな踊りが、可愛らしい乙女たちの「浦安の舞」の後に
あるのですから、そのギャップがたまりません。

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ハレとケ。よそ行きと普段。
聖と俗。
闇夜と灯り。
この両極端が、日本人の原風景にあり、自分の身体の中にもあるのを再確認した夜祭でした。

密かに行われる御神事
さて、のど自慢も登場して、舞台がいよいよ盛り上がった頃に、
神殿では、御神体を神輿に移すための祝詞が奏上され始めました。
人々は舞台を見ているので、拝殿の前には数人しかいません。
そこに立っていると、前からは祝詞が、後ろからは南春夫が聞こえて来ます。

聖と俗の境界線に立って、これまた摩訶不思議な空間です。
氏子さんたちが頭を垂れる中、神官の手によって、しずしずと御神体が神輿に移されました。
神輿は三台です。
c0222861_19582296.jpg

御神体が移されて、運ばれるのを待つばかりの神輿。

そして、それが大名行列に先導されて、釣川の岸辺にこしらえられた御座所に
運ばれて行きます。

真っ暗な中、紅白の垂れ幕に囲まれた御座所がこうこうと照らしだされて、
祭りならではの、風情のある光景でした。


このお祭りに出かける時は真冬の格好がお勧めです。
秋でも夜中は冷え込みます。
来慣れた人は、ダウンを着ていましたよ。

宮崎県で盛り上がっている「日向ひょっとこ踊り」の動画が見られるサイトがあります。
笛と鉦のお囃子も聞けます。

日向ひょっとこ夏祭り公式ホームページ
http://www.hyottoko.jp/fs/

やっぱり星の神々がありましたよ。しばらくお待ち下さいね。

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by lunabura | 2009-12-13 00:00 | 八所宮・はっしょ・宗像市 | Trackback | Comments(4)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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