ひもろぎ逍遥

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志賀海神社 (Ⅰ) 龍の都と呼ばれた海神の宮 


志賀海神社 (Ⅰ)
しかうみじんじゃ
福岡県福岡市東区志賀島877
龍の都と呼ばれた海神の宮

「御手洗(みたらい)」は本当にあるのだろうか

さあ、今日は天気がいいので、志賀海神社に行きましょう。

福岡市の東区の国道495号線の和白(わじろ)交差点から、
海の中道への案内板を見て、志賀島へ。
街を過ぎると、快適なドライブコースになります。
海の中道公園を過ぎると、海の真ん中を走る道に出ます。
橋を渡ればもうそこは志賀島です。

でも、橋の手前で、いったん車から降りましょう。
そして、一度に見える左右の海を堪能しましょう。
左の方は、博多湾です。
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能古島(のこのしま)が正面に見えます。(写真では右の島)
来た方を振り返ると博多の町も見えます。
内海らしい、たっぷりとした海の風情が味わえます。

そして、次に右側を見ましょう。
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こちらは玄界灘です。外海です。波が打ち寄せています。海の色が全く違うでしょ。

こちらは浜辺に降りる事が出来ます。ぜひ砂浜に下りて、散策しましょう。
海の色の美しさはもちろん、流れ着いた貝殻や生物など、生きている海を感じる事が出来ます。
写真の島が目指す志賀島です。

橋を渡れば志賀海神社はすぐです。標識をお見逃し無く。
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最初の石段と鳥居。
ここにも石段の手前にお汐井がありましたよ。これを体に振って清めてから上ります。
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広々とした土の参道。右側は海です。
左側は古木が鬱蒼としていますが、下を覗くと崖になっています。
この参道は小さな尾根状になっているようです。不思議な地形です。

参道の左脇にはいくつかの社がありますが、この山之神社(やまのかみしゃ)は特筆!
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御祭神は大山津見の神で、
「御神徳は国土安泰、延命長寿、開運、夫婦和合」
と立札に書いてありますが、お参りの仕方がユニークです。
御神前にオコゼやアラカブを備えると
その顔立ちの悪さを見て喜快に思われ、快く願いを叶えてくれる。
また空の財布を供えると、財が貯まるといわれるなど、
幸福の道先案内の神として信仰されている。

今、ちまたではブサカワが人気ですが、この山の神さまは、元祖 ブサカワ・ファン
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アラカブで~す。

山門をくぐって本殿の前へ。
拝殿に着くと可愛い先客。
若いお父さんとお母さんの真ん中で、
女の子がちゃんと手を合わせてお参りしてました。
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(この可愛さに見とれて、本殿の全体写真を撮り忘れちゃった!?)

本殿の後ろにはいろんな摂社があります。それぞれ趣があって歴史を感じます。
時計回りにぐるりと回って、戻って来ると、海に向かった鳥居が目に飛び込んできました。
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遥拝所です。そこに立つと海が見えます。
そのずっと向こうに立花山が見えますが、正面からは微妙にずれています。
いったい何を祀っているのでしょうか。

社務所に氏子さんがいらっしゃるので尋ねてみました。
「あの遥拝所は立花山を見ているのですか?」
「ええ、それだけでなく、すぐ手前の大岳神社も見ていますよ。」

すると、宮司さんも出て来て、一緒に説明してくれました。
「遥拝所からは、伊勢神宮、橿原神宮、御所、大岳神社
など、折々に祈っています。直接は行けませんから。」
という事です。
神事がある度に、こうして遠く離れても、共に祈ってあるんですね。
日本の神社の祈りのネットワークを知って、感動しました。

「御手洗」はどこ?

そこで、「御手洗」の地が現在も残っているのか、ついに聞きました。

「『香椎宮史』を読んでいたら、『筑陽記』の「志賀島」の所に
御手洗 イザナキ大神、与美国の穢れを洗い清め給ひし所という。」
という一文があって、それが志賀島のどこなのか探しているんですが。」

氏子さんが地図のついたパンフレットを出して下さいました。
それを見ると「御手洗」という地名が載ってました!やったね。

そこは勝馬(かつま)の沖津宮の所でした。
志賀島の一番北側で、この志賀海神社の神々が祀られている元宮です。
なんと、すごい所に、探している「御手洗」があった!
そこは志賀島の海水浴場として有名な所です。

志賀海神社の御祭神は次の三柱です。
 底津綿津見神 そこつわたつみのかみ
 仲津綿津見神 なかつわたつみのかみ
 表津綿津見神 うはつわたつみのかみ
 
これは海の底と中間と表面で生まれた神々です。
イザナギの命が禊(みそぎ)をした時に生まれた神々です。

「ここは新たに遷宮したお宮で、元宮は三つとも勝馬(かつま)にあります。
そこはかつて入江だったと地質学でも証明されました。」
と宮司さんが説明してくれました。さらに
「志賀島には高天原という地名がありますよ。また、穢れをとても忌む神社があります。」
と教えていただきました。
志賀島に高天原がある理由は分からないそうです。

また、氏子さんも話してくれました。
「そういえば、志賀島の山で「かもう山」と呼んでいる所がありますよ。
漢字は「神思う山」か「神生まれる山」のどちらかです。」
「へえ、そうですか。」
と、宮司さんも初耳で興味深そうです。地図で示してもらうと、展望所付近の山のようです。
(これらは、また別の日に行ってみましょう。)

住吉三神はオリオンの三ツ星

ルナは話のついでに、綿津見神と一緒に生まれた住吉三神の話をしてみました。

「綿津見の三柱の神さまたちは、住吉の三神と一緒に生まれていますが、なぜか交互に生まれていますよね。三柱ずつ一緒には生まれてないですよね。これには何か大切な意味があると思うのです。

私は住吉三神はオリオンの三ツ星ではないかと思っているんですが。
オリオンの三ツ星の角度で時間と方角が分かるので、神として祀られたと思うんですが。
どうでしょうか。」

すると氏子さんが話してくれました。
「そういえば、夏の朝は、立花山の方角にオリオンの三ツ星が出て、それに向かってまっすぐに帰って来てますよ。」
氏子さんは漁師さんでした。

漁から志賀島に帰ってくる時に東の方角の目印として、オリオンの三ツ星を見て帰るという事です。
ああ、実際に現代でも、星のナビゲーションが生きている!
直接こんな話が聞けると嬉しくなります。

「ところで、朝って何時頃ですか。」
「三時ごろです。」
「えっ、三時ですか。」
「季節が変わると、反対側に夕方、見えますよ。」

オリオンの三ツ星は、水平線から昇ってくる時に垂直に出て来ます。
そして、横向きになって、沈む時にはほぼ逆さまになって沈みます。
これで、時間と方角が分かるのです。
それを住吉の神と呼んでいるとルナは考えています。
詳しくはまた、別の機会にお話しましょう。

さて、社務所でお話をしているうちに、すっかり時間が経ちました。
菊の御紋のある、山門を見て、この日は一旦帰る事にしました。

地図   志賀海神社  沖津宮と御手洗  二見岩 海の中道



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by lunabura | 2010-01-30 00:00 | 志賀海神社・しかうみ・福岡市 | Trackback | Comments(2)

志賀海神社(2)沖津宮と小戸ーイザナギの禊の場所


志賀海神社(2) 
沖津宮と小戸
福岡市東区志賀島勝馬
海の神々が生まれた美しき聖地
イザナギの命が禊をした所だったよ

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さあ、志賀島を一周するドライブコースで、海を見ながら、一番北側の勝馬に行きましょう。
右回りでも左回りでもOKです。(地図は前回のを見て下さいね。)

ここ、勝馬は国民休暇村がある国定公園です。道路に沿って、駐車場があります。
そこに車をとめて、砂浜へ下りて行きましょう。
海水浴をするもよし、サーフィンをするもよし、ぼんやりと潮騒に身を委ねるもよし。
デートなら、さらによし。

浜辺から右手を見ると、小島が見えます。その小島の中に、目指す沖津宮(おきつぐう)があります。
波と戯れながら、沖津宮まで歩いて行きましょう。白い鳥居がすぐ目に入って来ます。
島に行こうとすると、手前には浅瀬があって、お宮には歩いて行けません。
大潮の日だと、潮が引いて歩いて行けるそうです。今日は手前の浜から見るだけです。
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この沖津宮には天の御中主の神と、表津綿津見神が祀ってあります。

天の御中主の神は日本神話の一番初めに出てくる神さまです。
表津綿津見神は、この浅瀬の底から生まれた海の神さまです。

綿津見の神ってどんな神さま?
志賀海神社と綿津見神についてはパンフレットにこう説明されています。
神代より「海神の総本社」「龍の都」と称えられ、
玄海灘に臨む海上交通の要衝である博多湾の総鎮守として志賀島に鎮座し、
厚く信仰されている志賀海神社は、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)の禊祓(みそぎはらい)
によって御出生された綿津見三神を奉祭している。 

この志賀海神社は博多湾の総鎮守なのですね。
その御祭神の綿津見神はイザナギの大神の禊で生まれています。
これが、今日のキーポイントになります。
御祭神「綿津見三神」は
海の底、中、表を守り給う海の主宰神として、海上交通の安全は固(もと)より
塩・魚介類といった海産物の御恵をもたらす神として篤く信仰されている。
また禊祓の神として不浄を祓い清め、諸々の災厄を祓除する御神威を顕している。

さらに水と塩(潮)を支配し、潮の満ち干きによって人の生死をも司るとされることから
人の命や生活の吉凶をも左右するとされている。

海の神なので、交通安全の神であり、潮の満ち引きから、生死も司る神なのですね。
また、イザナギの命の禊で生まれた事から、禊祓いの神でもあった訳です。
海の神とは私たちの暮らしに密着する神でした。

その海の神のうち、海の底から生まれた底津綿津見神がこの島に祀られています。
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なんとも心惹かれる風景です。前回から探してきた御手洗の方から撮りました。

御手洗と小戸は同じ場所だった!
イザナギ大神が禊をした場所がここなのですねえ。とても綺麗な海辺です。
地図を見ると、ここには名前がいくつも付いていました。

勝馬、舞能が浜、大戸、小戸、三瀬、神遊瀬、御手洗
これから分かる事は小戸御手洗は同じ場所だという事です。

小戸(おど)といえば祝詞に出て来るので有名です。
祝詞を唱える方はすでにピンと来ていると思います。
知らない方のために祝詞の途中、数行分を書きます。
イザナギの大神、筑紫の日向の橘の小戸のアワキが原に
禊祓い給ひし時に、生(あ)れませる、払い戸の大神たち、もろもろのまが事、罪穢れを
払いたまえ、清めたまえと申すことの由を…。

このように、祝詞ではイザナギの大神が小戸のアワキが原で禊をしたと出て来ます。

その小戸がこの場所の可能性が出て来ました。
また、祝詞では、払い戸の大神たちと、一言で終わっていますが、
古事記を見ると、その時には26柱の神々が生まれています。

その神話のあらすじを書きましょう。

イザナギの神生み
イザナギの大神は、亡くなった妻に会いに黄泉の国に行って、妻の亡骸を見てしまいます。
その腐りかけた姿を見て、驚いて逃げて帰ると、身を清めるために、
竺紫(つくし)の日向の橘の小門の阿波岐(あはき)原に行きました。

そこで、身に付けていた服や杖などを脱ぎ捨てると、そのたびに、神々が生まれ出て、
十二神になりました。

それから、イザナギの大神は初めて瀬の中に入って行きました。
そして、中の瀬に潜ってすすいだ時に、十四柱の神々が次々に生まれました。

こんなストーリーです。
そのうちの後半の十四柱の神々の名前を具体的に書いてみます。
初めて中の瀬に潜って、すすいだ時に生まれた神の名は
八十禍津日(やそまがつひ)の神。
次に大禍津日の神。

神直毘の神。
大直毘の神。
次にイヅノメの神。

次に水の底にすすぐ時に生まれた神の名は、底津綿津見の神
次に底筒の男の命。

中にすすぐ時に生まれた神の名は、中津綿津見の神
次に中筒の男の命。

次に水の上にすすぐ時に生まれた神の名は、上(うへ)津綿津見の神
次に上筒の男の命。
(略)
左の目を洗う時に生まれた神の名は、天照大御神
次に右の目を洗う時に生まれた神の名は、月読の命。
次に花を洗う時に生まれた神の名は、建速須佐の男の命。

こうして26柱の神々がこの瀬戸で生まれました。

アワキが原は何処にあるのか、という論争があるのですが、
その候補地として名乗り上げるのに十分な伝承がここには揃っていました。

「阿波岐が原」とは何だろう?

あはきというのは、普通名詞では、「淡水と海水が混じりあった所」という意味です。
川が海に流れ込んで、満ち潮の時には淡水と海水が混じりあう、そんな所なのですね。
そして、この御手洗の浜には、川が流れ込んでいて、その条件を満たしています。

でも、このアマテラスを含む26柱は
本当にここから生まれたのでしょうか。


もちろん実際に生まれた訳ではありません。神話として、この地がモデルになったんだと思います。
ここは阿曇族の人々の神話の世界、つまり、宇宙観を地上に置き換えた場所なのです。

ずっと西の彼方から、船に乗って東を目指してやって来た阿曇族の人たちが、
たどりついて、上陸した日本の地。
その中の博多湾周辺に住むようになって、自分たちの聖地として、
一番清らかなこの地を選んで、神話を伝えたのです。

これから案内して行くのですが、三つの小島や小山が揃って存在して、
三柱の海の神を祀るのに、これまた、ピッタリの場所なのです。

組み合わせられた神話
私たちが目にする神話は、いくつかの神話が混じっている可能性があります。
神話が載っている古事記にも、当時、伝承がいくつもあって、それらを参照したと、
書いてあります。

ですから、著者の太安万侶(おおのやすまろ)は、阿曇族の神話と別の部族たちの
神話をとりまぜて、彼なりに考えて、このイザナギの大神の神生みのシーンも
作り出したと考えました。

この26柱という神々をつぶさに見て行くと、阿曇族以外の神話がどのように
組み合わさっているのが明らかになるのではないかとも思いました。

小戸のアワキが原がいくつもある訳は?
日本神話の原型、プロトタイプとなった地がここだと分かりましたが、
阿曇族たちは、行きつく湊ごとに、自分たちの神々を祀って神話を伝えていきました。
それが、各地に小戸のアワキが原として、残っている理由なのだと思いました。
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この島は伝承を調べれば調べるほど、神話の源流に近付いて行くようなときめきを覚えます。

次回は仲津宮(なかつぐう)をブラブラ歩きましょう。



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by lunabura | 2010-01-29 00:00 | 志賀海神社・しかうみ・福岡市 | Trackback | Comments(0)

志賀海神社(3)仲津宮 


志賀海神社 (3)
仲津宮なかつぐう
福岡県福岡市東区志賀島勝馬
今も昔も航海の安全を祈る宮
浜辺の異世界へ、ちょっぴりトリップ気分

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この小山の中に仲津宮があります。参拝口は左の方にあります。
今日はその参拝口から上って、右側へ下りて行きます。

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参拝口の鳥居です。奥の方に樹木のトンネルが見えます。
長年踏み固められた土の参道を行くと、すぐに、照葉樹の森の中に入りました。

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深い森のような風情ですが、すぐ左下は小学校で、子供たちの歓声が聞こえてきます。

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ほどなく神殿前に出ました。神殿は厳しい風雨に耐えるためにコンクリートで作られていました。
御祭神は仲津(なかつ)綿津見の神です。
イザナギの大神が海に潜って、中ほどの所ですすいだ時に生まれた神です。
左下はすぐ海です。潮騒がひときわ大きく聞こえて来ました。
足もとの石には浜のお汐井が置かれています。
航海の無事を祈る人々の思いがひしひしと伝わってきます。

帰りは反対側に下りてみました。こちらは、石段になっています。
海から運んだ石でしょうか。角が丸いです。

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おりしも、椿の花がこぼれ落ちて、参道を彩っています。

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森の小道を抜けると、おおっ、正面に玄海島が!
この島が、数年前に大地震の震源地となった島です。
まるで、この参道は、その玄海島からまっすぐ続くかのようです。
祈りのレイラインを歩いているような光景です。

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杜を出て、振り返ると、鳥居がありません。なんだか、異界から戻って来たような…
不思議な気分になりました。

次回は表津宮(うわつぐう)です。



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by lunabura | 2010-01-28 16:56 | 志賀海神社・しかうみ・福岡市 | Trackback | Comments(0)

志賀海神社(4)表津宮跡 祈りの原風景に出会った


志賀海神社 元宮(4)

表津宮跡うわつぐう
福岡市東区志賀島勝馬
祈りの原風景に出会った


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(表津宮あと)
表津宮はどこだろう。

話によると、小戸(御手洗・舞能が浜)の川の近くにあるとか。
仲津宮を出ると、浜伝いに川を探して歩いて行きました。

何軒か海の家などがありました。
護岸のための階段状のコンクリートにはひじきが丁寧に広げられて、干されています。
さっきから釣りをしていると思っていた人はワカメを採っていました。
ここは生きた海です。

川はすぐに見つかりました。
最近では川を見ると、船が通るのだろうかと川幅も気に掛けるようになりました。
ここは、十分に船が行き交えますねえ。
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表津宮はどこだろうか…。
川からは分かりません。

快晴だったのに、どんどん雲が広がり、ぽつりぽつりと小雨まで落ち始めました。
海風もとても冷たいです。
あきらめて帰ろうかなと思った時に、雲間から、一瞬太陽が出ました。
振りかえって、その太陽を撮ったのですが、後で写真を見ると、
その太陽の光の下に表津宮のある小山が写っていました!

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とにかく、その時は「また出直そう」と思って車で帰りました。
ところが、その途中に、細い路地の所で「表津宮入口」の立札を見つけました!
あっ、あった!
すぐに車を止めて立札の所に行きました。

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鳥居もなにもありません。
地元の有志の方が立てたと思われる、この立札のおかげで、参拝口だと分かりました。
左下の遠慮がちな小さな鳥居は椅子のリサイクル材で作ってありましたよ。

勾配のゆるやかな山道を案内の札を頼りに、くねくねと登ると、ほどなく表津宮の跡に出ました。
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立札の先を見ると、しめ縄が目に入りました。
目印に椿の木があって、その足元に二つの丸い石が置かれていました。
これが表津宮の跡です。しめ縄と立札のおかげで、分かりました。

表津宮(うわつぐう)は移動しています。

表津宮が遷座した理由は、宮司さんによると、志賀海神社の現在地点が便利だからだろうという話でした。
遷座は2世紀から4世紀までの間の事だそうです。

なるほど、現在は道路があるのでここまで簡単に行けますが、昔は船でしか、行けませんでした。
玄界灘に面した島の、しかも最北端の地です。ここに来るまでも、命がけだったことでしょう。

志賀島の博多側が発展して行ったので、そちらに勧請して、そのまま、入れ替わったのも当然の理です。

表津宮が遷座したので、いさぎよくこの地は更地になったと思われます。
こんな風に石と木だけでシンプルに祀られているのが、祈りの地の原風景なんだろうなと思いました。

こんな、2000年も前のそのままの風景に立てる事に感動します。
宮が遷座して、1600年もの間、地元の人々が心を配ってお守りして来ました。

夏になると、草が生い茂らないように、手入れされているのでしょう。
それが1600年以上も続けられました。ここは日本の歴史上、大切な所です。
表津宮跡」として、正式の案内板を残すべき所だと思いました。

「沖、仲、表」の三つの宮がセットとなって、初めてここに宮を作った先人の神話の宇宙観を理解できます。
ここは、日本の歴史の夜明けごろの聖地です。日本の始まりの原風景です。

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奥の方に行ってみると、崖になっていました。
そこに立つと、沖津宮と御手洗(小戸)が見渡せましたよ。
この沖津宮と仲津宮と表津宮は、それぞれ、100メートルほどの距離です。

小戸の浜をL字型に囲んで、箱庭のように揃った三つの島(小山)を
発見した阿曇族の人たちは、自分たちの斎(いつ)きまいる三神をそれぞれに配置しました。

その美的感覚は、日本文化の源流とも言うべきものでした。
この表津宮は、もう立派な社も祠も要らない所ですが、後世に伝えたい大切な聖地だと思いました。


地図 



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by lunabura | 2010-01-27 00:00 | 志賀海神社・しかうみ・福岡市 | Trackback | Comments(4)

高良大社 高良玉垂宮 (Ⅰ)筑紫の国魂のおわす宮


高良大社 (高良玉垂宮) (Ⅰ)
こうらたいしゃ      ( こうらたまたれぐう )
福岡県久留米市御井町
筑紫の国魂のおわす宮

福岡の北の方から久留米市に向かうと、平野の向こうに特徴のある山脈が見えて来ます。
耳納山脈です。その右端に一段低くなった山があります。それが高良山です。

広い筑後平野のどこからも見える山で、ここは古代からの重要拠点でした。
その山の頂上よりちょっと下がった所に高良大社があります。
平野から見ても、その横の高良会館が見えてすぐに分かります。

石の鳥居を通って、ヘアピンカーブの道を上ると、開けたところに出て来ます。
道沿いの駐車場に車を止めて降りると筑後平野が一望に。まずはその眺望に見とれてしまいます。

振り向くと高良大社の赤い鳥居です。
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この先の石段けっこう長いです。
朱塗りの山門が息をきらした参拝者たちを華やかに迎えてくれます。
その山門を潜ると、また別の世界。

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拝殿は大変重厚な、伝統を感じさせる建物です。本殿と拝殿は1660年の建造でした。
これって江戸時代が始まった頃?その屋根を見るとすごいです。

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当時の最高の技術の結集が見られます。

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境内の脇では弓道の試合があってました。

さあ、御祭神はどなたでしょう。
由緒書きが書いてありました。
御由緒
左殿 八幡大神
正殿 高良玉垂命
右殿 住吉大神

御神徳 延命長寿・開運厄除・家内安全・商売繁盛など生活万般

高良の大神は、悠久の昔から筑後川の流域に生活してきた人々が、
その生活守護の大神様として奉持して参りました筑後国一の宮であります。

ここは一の宮なんですねえ。筑紫の国魂とも呼ばれています。
筑後でなく筑紫ですから、福岡市方面も含まれています。中心的なお宮なのですね。

御祭神はこれまでにブログで紹介した神社で祀られている御祭神と一部が重なっていました。

まず、八幡大神
左殿の八幡大神とは応神天皇の事です。神功皇后の御子です。
そうです、駕輿(かよい)八幡宮で休憩した時に、
お腹の中にいた赤ちゃんです。そう言えば、この宮も八幡宮という名になってました。

香椎で神功皇后のお腹に宿り、母上のお腹に入ったまま一緒に新羅まで行って、
凱旋して帰った経歴の御子なので、勝利を導く軍神として、全国で祀られるようになりました。

住吉大神
右殿の住吉大神も、これまで神功皇后の旅の守護の神として紹介して来ました。

小山田斎宮で神懸かりした時に現れた神です。
皇后の船旅の安全を守ってくれた神で、今でも、福岡や大阪で祀られています。
(詳しくは別項でと思っています。)この久留米の山の上に、この神々が…。なんでだろう。

では高良玉垂命とは?
この神が誰なのかは分かっていないそうです。
武内宿禰説や藤大臣説、月神説など諸説あるとか。

武内宿禰と言えば、神功皇后をずっと支えてきた人です。
この人は数百歳生きたと言われています。
御神徳に「延命長寿」とあるのとイメージが重なってそんな説が出て来たのでしょうか。

藤大臣説については、
高良山の近くにある大善寺という所の玉垂宮の記事を見ると、
仁徳天皇の時代の話という事なので、少し系統が違っているようです。

月の神様というのは資料がないのですが、意外な所から
この説には十分に理由がある事が分かりました。
それは主祭神の玉垂(たまたれ)そのものがヒントになりました。

次回は「玉垂」についてのお話です。

                                 (Ⅱ)につづく
                              

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by lunabura | 2010-01-05 00:00 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Trackback | Comments(0)

高良大社(2)玉垂命とは干珠満珠を授けた海の神


高良大社 (高良玉垂宮) (Ⅱ)
こうらたいしゃ  (こうらたまたれぐう)
玉垂命とは干珠満珠を授けた海の神  
高良山にはカペラの伝承があった


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「玉垂(たまたれ)」について気になる事があって社務所に電話で尋ねた事があります。
それは合気道の開祖の植芝守平の本『合気神髄』に「高良の神」の事が載っていたからです。

植芝守平氏はNHKドラマの『坂の上の雲』とちょうど同じ時代の人です。
明治から昭和を生きた人です。
その人の語録集に合気道の呼吸について述べる時の象徴として「玉垂」が出てくるのです。

玉依姫は白玉で潮干珠(しおひるたま)、豊玉姫は赤玉で潮満珠(しおみつたま)、その玉を使いこなすのが高良玉垂の神。


このような内容が合気道の本に書いてあったのでびっくりして、高良大社にお尋ねしたところ、
やはり、玉垂とはこの干珠(かんじゅ)、満珠(まんじゅ)を指すとの事でした。
ほんのこの前まで、玉垂のことについては、常識だったのでしょうか。

玉垂」が干珠満珠だとすると、高良玉垂命とは
潮の満ち引きを司る神と言う事になります。

人は潮が引くときに、息を引き取ります。潮が満ちる時に生まれます。
潮の満ち引きは月のなせる技です。
ですから、月の神様とも言われる訳です。これが御神徳の「延命長寿」にもつながってきます。


「玉垂」をよく考えると「玉を垂れる」という事ですから「玉垂命」とは「珠を与える神」という意味になります。
では、それは誰でしょう。
海神です。志式神社の神楽でそれを見て来たばかりです。

高良玉垂の神が海神だとすると、名前は綿津見(わたつみ)神という事になります。

志式神社の神楽の「磯良舞」、覚えてますか?

あの、インパクトのある白髪の神さまが出て来た舞です。同じ話をもう一度書きましょう。

 磯良舞   (いそらまい)   ( 武内神 豊姫神 磯良神 海神 )  
神功皇后らが新羅へ進軍する時のお話です。
48艘の船団でいよいよ新羅へ。
その時、武内神が干珠満珠を貰い受けようとしました。

磯良神は大和で40万年、ひたちで40万年、勝馬(かつま、志賀島)で40万年過ごされた神。

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いそら神が干珠満珠を海神のところに行って、貰おうとするが、
なかなかもらえず、豊姫が代わりに海神の所に行く。

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すると海神は「神楽を舞うならば、授けよう」と言う。豊姫は神楽を舞い、海神から干珠満珠を授かる。

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豊姫はそれを武内神に渡す。
でした。

ね、ほら干珠満珠が出て来たでしょ。
珠を授けている赤い髪がモシャモシャした神が海神です。
(同じような話は海彦山彦にも出て来ます。⇒豊玉姫)

玉を授ける神は海神なのです。
これが、タイトルの「玉垂命とは干珠満珠を授けた海の神」の理由です。

干珠満珠は星空にもありましたよ。

今の北極星はポラリスです。『冬のソナタ』でぺ・ヨンジュンがチェ・ジュウに
雪の玉に隠してプレゼントしたネックレスがポラリスンでした。

えっ?そんなの関係ない?
いえいえ、ポラリスは現在の北極星だと覚えやすいでしょ。

しかし、5000年前の北極星は龍座のツバーンでした。(そう、北極星は変化するのです!)

北極星は徐々に場所を変えてしまい、2500年前は北天には目立つ星がなくなって、
ポラリスとツバーンが暗黒を中心にぐるぐると回っていました。神功皇后の頃もそうです。

このポラリスとツバーンを干珠満珠だと言い伝える氏族がいたのです。

ポラリスは白い星…白い干珠
ツバーンは青い星…青い満珠

海の神は青玉と白玉を祭壇に供えて、船人の海路が無事でありますようにと祈ったそうです。

北極星がない時代には、この白い星と青い星が北を教えてくれていたという事なのですね。

ですから、植芝氏の言う赤玉白玉はもっと昔は青玉白玉だった訳です。
ちなみに、神楽では金玉銀玉でしたよ。

干珠満珠は海神の持つ珠で、水と命を司り、それは星空にもあった。という事です。

そして、これらは背振山でも祀られたそうです。すると、高良山と背振山と、筑紫の主な山々では
海神が祀られていた事になります。

海から遠い久留米に海神?

久留米は盆地で海は近くにありません。そんな所に何故、海の神?

不思議に思ったのですが、手掛かりが奥宮にありました。
そこには水分(みくまり)の神が祀られています。
水を司るのは海神です。宝満宮竈門(かまど)神社の上宮でも同じでした。

玉垂宮と竈門神社は似た祭神の組み合わせです。並べて比べてみましょう。
高良玉垂宮                 宝満宮竈門神社
 高良玉垂命  海神              玉依姫命(海神の娘)
 八幡大神 (応神天皇の別名)       応神天皇      
 住吉大神 (神功皇后の旅の守り神)   神功皇后  
 
このように高良玉垂宮と宝満宮竈門神社の主祭神は「海神の父と娘」でした。
応神天皇は名前を変えて、どちらの宮にも祀られていました。
ただ、住吉大神については裏の日本史では武内の宿禰ではないかとも言われています。

この神社の御神徳が「延命長寿」という事から、それらが混同して伝えられて、
高良玉垂命が誰だか分からなくなってしまったものと思われます。

高良の星はカペラ星だった。

真鍋大覚氏によると、
銀河はカペラのある所で細く縊(くび)れて、漢人は上を北河、下を南河に区分する。(別名として)韓門(からと)の星、高良星の名がきかれた。

有明海と玄界灘の潮高を見合わせて往来(やりくり)する水城(みずき)を筑紫のひとびとは「からとぼし」と言った。

カペラは極東に来て、記紀の天の御中主の神になり、カイベラの神になり、カワベラの星になったと語られている。
真鍋氏の文章は難しいですねえ。言い換えると、
夜空の天の川の細くなった所にカペラ星があります。

古代中国ではその上下を北河と南河と呼んだそうです。
そして日本では、カペラを高良の星とも呼び、神話では天の御中主の神となったという事です。

古代の人は、その天の川を地上に反映させました。
福岡県の筑紫の真ん中を縦に走る水路を天の川に見立てたそうです。
針摺瀬戸(はりずりのせと)と名付けられました。

今ではもちろん陸地になっていますが、古代日本では玄界灘と有明海が水路でつながっていて、
潮の高さを見合わせてやりくりした所が水城でした。
水城にも広い湖が広がっていたそうです。

天の川のように水路が細くなった所にあるのが高良山。

ですから、空から写し取って高良の山にカペラ山と名付けました。
それがなまってカウラ、コウラと変化しました。

カペラなる高良山の北が玄界灘、南が有明海。
そして、カペラとは天の御中主の神だと言う事になります。

そんなロマンチックな話を誰が言っていたかというと、それが、海人族の人たちです。
それを、暦を作る真鍋家が伝えていたのでした。

地図を見てみましょう。高良山、針摺瀬戸、水城、宝満宮竈門神社の位置関係です。
(地図をクリックしながら動かすと写真が出て来ます。)



市街化した灰色の平野部がかつてはかなりの所まで海だったという事です。
高良山がかつては海と縁が深く、海神族の人たちが海の神を祀ったのもうなずけます。
天の川に見立てるとは、なるほどですねえ。

そういえば、小郡市には彦星と織姫の神社があるのを思い出しました。


(Ⅲ)につづく

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by lunabura | 2010-01-04 00:00 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Trackback | Comments(5)

高良大社・玉垂宮(3) 70年に一度の大津波を伝える豊姫


高良大社 高良玉垂宮(Ⅲ)
(こうらたいしゃ  こうらたまたれぐう)

70年に一度の大津波を伝える豊姫

シリウス(夜渡星)が津波を教えてくれた

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本殿から筑後平野が見渡せました。向こうの山は背振山。
その手前の市街地がかつて海が入り込んでいた所。

さて、神楽「磯良舞」に突如として出て来た豊姫について
ここ高良大社で思いがけない伝承を見つけました。

志式神社の時には神功皇后の妹という説をそのまま書きましたが、
実は「? ほんとかな。」が頭から離れませんでした。

そして、高良大社の伝承を調べているうちに
豊姫は玉垂の神の配偶神だという伝承が出て来ました。

まず、その伝承を紹介します。
これは高良山について研究された古賀寿氏の小冊子からの抜粋です。
山本家の家伝によると、
高良の神は朝鮮半島から凱旋ののち、
本山の地を開かれて「蓮の池」という所にお住まいになっていた。

この辺りに「城内」「屋久良志多」「門口」「馬場」という地名が残るのは、
すべて高良の神の御住居に因むものである。

やがて高良の神は本山の松苗を高良山に植え立てて山中にお移りになったが、
高良山の座主院を「蓮台院」と呼ぶのも、「蓮の池」から来ている。

山本家は高良の神孫で、この故事に因み、毎年正月初子の日に本山の松苗三本を
高良山に植え付けるのを例とした、といっています。

『筑後将士軍談』もこの話を採録していますが、いずれにしても、
地元では「本山」は高良山の本山だと主張していた訳です。

ここに、高良の神の配偶神である豊比咩(とよひめ)の神が鎮座することも、
高良山との深いかかわりを物語るものと思われます。(略)

かつて豊比咩神社がその南の付け根近くに鎮座していたことからすると、
高良の神は上津(かみつ)土塁を通って、
本山に妻問いに通われたという伝説があったのでしょう。

高良山文化研究所『高良山雑考』―「本山」と高良山―(古賀 寿著)
(高良山研究叢書 第一集)昭和61年1月30日発行


土地勘がないと、分かりにくいのですが、この文で注目したいキーワードは
1、高良の神は朝鮮半島へ出征して凱旋して帰って来た。
2、豊姫は高良の神の配偶神である。

という点です。

「1」の朝鮮半島へ出征した高良の神は神功皇后と関わりがあった事を示唆しています。

しかし、今日は「2」の豊姫の話にテーマを絞りたいと思います。
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豊姫                                   海神
(海神に舞を見せて、干珠満珠を貰う)                  (豊姫に干珠満珠を授けた神) 

(宇美神楽座・志式神社にて)


この豊姫については、大変興味深い話があります。やはり真鍋大覚氏の本の中です。
例の如く難解な文章なので今日はまとめだけを書きます。

豊姫淀姫はとトヨがヨドにひっくりかえっただけで、
同じ海の女神である。

(実際、豊比咩神社を調べると、神社の由緒書きでさえも、トヨだったりヨドだったりしています。)
筑後平野一帯に祀られている神である。

このトヨ(ヨド)とは「七十」の古い読み方で、「高波」という意味がある。
夜渡七十(よどしちじゅう)」という現象があった。

70年に一度、大津波が有明海の中を縦横に走った。
その事から、有明海周辺では,70すなわちトヨ、ヨトの海の女神を祀っている。


あの遠浅の海が70年に一度かき回されて、海の水が入れ替わっていたという事になります。
大変な災害です。

ですから、この70年に一度の現象を後世に伝えて、被害のないようにお祀りするために
有明海一帯に豊姫や淀姫を祀っていたのです。

たしかに、70年おきでは、世代交代をしてしまって、直接教えてくれる人がいなくなります。
豊姫さまの話にして、津波を後世に伝えた訳です。 

地図  有明海  豊比咩神社 与止日女神社
  


海は現在の平野部にかなり入り込んでいたので、津波は広い範囲で起こったと思われます。

古代の人はこの津波を何とか予知しようとしました。それがもう一つの豊姫の姿です。

シリウスは夜渡星とも呼ばれていた。


夜渡星(よどのほし) (シリウス)
有明海にはシリウスに「とよみぼし」あるいは「よとみほし」の別名があり、
延喜式神名帳の頃には豊姫あるいは淀姫が筑後三原と肥前佐賀に祀られておりました。

潮の空間(からま)すなわち海面が静止した時に
シリウスが水平線から離れる瞬間に
上下互いに溶け合ったように連なる時は
必ず地震津波が現れると語られておりました。

仲哀帝9年(200年)の時もまた然りと伝えられます。
昔の人は外界の波に動じない海淵を沼津あるいは志登と呼び、
星影の揺らめきを見て海の異変を察しておりました。

やがてこれが倭語(やまとことば)の鯰、即ち漢名(中国語)の鮎魚(せんぎょ)と結びつき、
地震鯰の説が通りだしたのかもしれません。)

シリウスは冬の夜空で最初に目に飛び込んでくる大きな星です。見ていると、常に光がまたたいています。

有明海の周りでは津波を予知するために、シリウスが常に観測されていたのがこれで分かります。
 
「いそら」とは人魚の古名であり、やがて海水に浴して潮見する巫女の代名詞にうつりました。女人の敏感な素肌や黒髪を以って、水温水質さては浮かせた身の波間に踊るを以て大風大浪を案ずる日課が「いそら」の務めでありました。 

夜渡星(よどのほし)とは暁の闇の中を一人起きて白衣一つを身にまとい渚に浸る姿をよく描写した名であります。

『儺の国の星』(真鍋大覚)(一部変更

厳しいシャーマンの日常
ここで私たちは初めて古代の巫女がどんな事をしていたのかを知る事が出来ます。
毎日夜明け前に起きて、白衣一枚で海の中に入り、
水温水質を肌で感じ取り、身体を浮かせてその動揺を観測して、
台風や地震を予知しなくてはならなかったのです。

巫女はきっと生涯を海神に捧げた事でしょう。人々はそんな巫女を海神の妻と呼びました。
それが豊姫であり、淀姫だと言う訳です。

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巫女は真っ暗な海に入って行く

真鍋大覚氏は地震雲を世に伝えた人ですが、真鍋家では代々、暦を編纂していました。
暦を作るためには、太陽、月、星を観測し、歳差運動を知らないと作れません。

暦の編纂者は地震や台風、日食などの予知もしていました。
真鍋氏は、昭和になって那珂川町の依頼でそれを本にして世に出しました。
儺の国の星』『儺の国の星 拾遺』です。

絶版です。
この本を読むと、古代日本史の謎がかなり究明されます。
私たち日本人への贈りもの、2000年の知恵を多くの方に研究してもらいたいと願っています。

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by lunabura | 2010-01-03 00:01 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Trackback | Comments(25)

高良大社(4)高木の神と玉垂命が交代した謎にチャレンジ


高良大社 高良玉垂宮(Ⅳ)
(こうらたいしゃ  こうらたまたれぐう)
高木の神と玉垂命が交代した謎にチャレンジ
アンドロメダ星雲と暦の変化 


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高良山をネット検索したらウィキペディアの説が目に止まりました。
それにはこう書いてありました。
高良山にはもともと高木神(=高御産巣日神、高牟礼神)が鎮座しており、
高牟礼山(たかむれやま)と呼ばれていたが、高良玉垂命が一夜の宿として山を借りたいと申し出て、
高木神が譲ったところ、玉垂命は結界を張って鎮座したとの伝説がある。

山の名前についてはいつしか高牟礼から音が転じ、良字の二字をあてて「高良」山と呼ばれるようになった
という説もある。
現在もともとの氏神だった高木神は麓の二の鳥居の手前の高樹神社に鎮座する。

この話の出所が分からないのですが、気になってさらに調べてみました。
すると、地元の人がブログで同じような伝承を書いていました。言い伝えがあるようです。

そこで、今回はこの伝承の謎にチャレンジする事にしました。
「結界」は神護石を指している?
まず、「結界」という言葉に注目しました。
これは高良山にある神籠石(こうごいし)の事ではないかと思いました。
神籠石とは謎の列石で、高良山の山中にぐるりと置かれている石積みの事です。

これについては目的も時代も分かっていません。
しかし、同じような神籠石が西日本の各地に十カ所ほどあります。
この謎の列石を神話的に言い換えて、ここでは結界だと言っているのかなと思いました。

高木の神とは?
それでは、もともと高良山の氏神だった高木神とはどんな神様なのでしょうか。

高木神は何かのを暗示しているのではないかと思って
『儺の国の星』を調べると、やはり出て来ました。
高木星という星がありました。
これはあの有名なアンドロメダ星雲の事でした。
文中にこう書いてあります。
日本人も蒙古人も、その遥かな祖先はアンドロメダ大星雲を拝していた。
神代紀に出る高木の神がそれである。これを大嶽(だいがく)と名付けていた。

このアンドロメダ星雲を崇拝していたのが「日本人も蒙古人も」と言っているのには訳があります。

それは1264年の出来事です。
モンゴルと日本で同じ年に元号が変わったというのです。
日本は文永元年となり、蒙古は至元元年となりました。

その理由がこのアンドロメダ星雲に関わっていたという事なのです。
これを理解するために、本には暦法の説明が書かれています。
おおよそこういう事です。

「太歳」について
天皇が変わると暦法を選定する儀式があって、それを太歳と言いました。

これは天皇一代のうちには変更できない暦ですが、治世が長くなると、
「星による暦」と「太陽による暦」のずれが溜まってしまって、
現実と合わなくなるので、適当な時期に改元をしてそのずれを調整していたそうです。

ところが基準とする日に日食が重なる事があったそうです。
それが起こったのが、1264年でした。

日本は文永元年、蒙古は至元元年と改元したその年は、
春分の正午にアンドロメダの中心が重なった。西暦1264年であった。


これはどういう事かと考えたのですが、日食のときには空が暗くなって、昼なのに、星が見えます。
その時、アンドロメダが暦の基準線の所にいた(例えば南中したとか?)のではないかと、考えました。

当時の人々はこの気象現象を観測して日食を畏れ、またアンドロメダが昼間に輝いたのを畏れて、
日本も元の国も改元したらしいのです。

アンドロメダの華麗な渦巻きの中心には、昔はまばゆくきらめく超星があった。
昔は今よりはるかに明るく昼の太陽に並ぶほどの美しさでありました。

と、真鍋氏は書いています。

当時はアンドロメダ星雲は夜空で今よりもずっと輝いていたというのです。
そして、太陽と並んで崇敬されていたというのです。

真鍋氏の本を理解するのには歳差運動の計算を理解する必要があるので、
この「日食とアンドロメダの関係」については難しくて、文面からなんとかここまで解釈が出来ました。

この現象は神功皇后の時代にも起こったそうです。201年と220年と228年です。
そのために彼女は太歳を三度も行ったそうです。
アンドロメダ星雲が昼間に観測される事は古代の一大事だったようです。

遷都する理由
さて、太陽と星は日々にずれて行き、70年もすると、素人の目にもそのずれが明瞭になってしまいます。
当時は山の頂上や峠が観測の基準になっていました。

目印の山と、ずれてくるのです。
そのために、星や日月を見定めるにふさわしい土地を新たに求めて遷都をしなくてはならなくなりました。
それが神武天皇から天武天皇の時代の事だそうです。

星の暦から太陽暦へ 
その後、地勢に頼らずに太陽の観測で時を計る方式に変わりました。
それが持統天皇から現在です。

暦法の話が神話になった? 
以上の事から古代の人たちが暦を作ろうとする時には
アンドロメダ星雲を代表とする星たちと太陽を観測して作っていることが分かりました。

ですから、アンドロメダ星雲を高木の神と崇敬し、太陽を天照大御神と呼んで、崇敬した訳です。

天照大御神は有名だけど。高木の神か…。別名、高御産巣日神。
高い所で次々に星々を生みだす神?
アンドロメダ大星雲。
いったいどんな神なのだろう。

高木の神がどんな神だったのか、想像もつきません。
そこで『古事記』を訳してみました。そして、二度も驚きました。

高木の神は神話のナンバー2だった。
まず、神話の冒頭に特別な五柱の神々が出てくるのですが、
高木の神はなんと、二番目に華々しく登場しているのです。
日本神話の第二番目ですよ。

これでこの神はどれほど重要な神かと言う事が分かります。これが最初に驚いた事です。

高木の神はしかし、独神(ひとりがみ)として、そのまま身を隠してしまいました。

高木の神は本当に身を隠した?
神話を読み進めていくと、高木の神がさらに何箇所も出て来ました。

高天原で出雲を征服しようと相談が起こった時です。その時に高木の神とアマテラスは一緒に出て来ました。

話はこうです。

高天原では、出雲征服を工作するために神々を送るのですが、出雲の居心地がいいらしく、
二度も失敗してしまいます。

それに対して次々に対策を練るのですが、その時に、この二柱の神はいつも一緒に出て来ます。
いつもいつもです。
二人はペアで行動する神なのです。
まるで一心同体と言えるほどです。
二人は一緒に高天原の秩序を守っていたようなそんな印象を受けました。共同経営者です。

冒頭に身を隠したと書いているのに、高木の神は隠れてなんぞいませんでした。
大活躍です。これが二つ目の驚きでした。

この二柱の神は何故いつも一緒なのだろうか? 
二人がいつも一緒に出てくる理由を考えました。

ここで先ほどの暦の話に戻りますが、暦を作る時に、昼には太陽を、夜にはアンドロメダ星雲を
観測していた事を象徴化したのではないかと思いました。

アマテラスは太陽で、高木の神はアンドロメダ。
この二人の神が昼と夜とを分かち合って、運行しているのです。
高天原の昼と夜の秩序を二人の神が作り出していました。

なるほど…。だから、二人はセットで出て来るんだ。

暦法の変化が崇敬する神を変化させた?
アンドロメダは暦法が発達していくと、その地位を太陽神に譲ることになりました。
アンドロメダへの崇敬は天照大御神重視へと移行して行きました。
だから、現代の私たちは高木の神なんて噂もしない。

これで、アンドロメダ(高木の神)のおおよその姿が分かりました。
ここでようやくタイトルに書いた「神々の交代」の神話にチャレンジできます。

アンドロメダからカペラへ変わった事情を探る
前回までの話をまとめると、古代はこのようだったと思われます。

アンドロメダ(高木の神)が崇拝されていた時代、筑紫を縦に貫く二日市水道の中央の聖なる山に、
暦の基準となるアンドロメダが輝くのを見て人々はアンドロメダを祀り、その名を取って、
高牟礼山(高木山)と呼んでいた。

しかし、歳差運動のためにかつてのように、アンドロメダはその山頂を通らなくなってしまった。
そうするとアンドロメダを祀っていた人々は、ふさわしい地形をよそに見つけて去って行った。

時代は朝鮮との戦いなどが続いて、人々は戦いの勝利を願うようになった。
すると脚光を浴びるようになったのは、かつて新羅討伐に勝利を導いた海神の神玉垂命(カペラ)だった。
人々は聖なる山にその神を祀るようになった。

これを踏まえて、冒頭の伝承を解いてみます。もう一度書きます。
高良山にはもともと高木神(=高御産巣日神、高牟礼神)が鎮座しており、高牟礼山(たかむれやま)と呼ばれていたが、高良玉垂命が一夜の宿として山を借りたいと申し出て、高木神が譲ったところ、玉垂命は結界を張って鎮座したとの伝説がある。

この伝承を「星の神話」に置き換えると、こうなります。
高良山にはもともとアンドロメダが祀られていてアンドロメダ星雲山(高牟礼山)とも呼ばれていた。しかし、時代が変わり、戦が起こったりした。

すると、海人族たちは戦勝祈願と航海の安全のために、干珠満珠を司る海の神(カペラ)も共に祀るようになった。
戦争に勝利すると、そのまま海の神(カペラ→カウラ玉垂神)が祀られて、高良山と呼ばれるようになった。

そして、アンドロメダ(高木の神)は下の方で祀られるようになった。
のちに 神籠石の列石も作られた。これを人々は玉垂神の結界と呼んだ。

人々の崇敬の念は次第に太陽神に変わって行き、アンドロメダ星雲のことは忘れ去られていきました。

アンドロメダの名は、高木星、太歳星(たいさいのほし)、太宰星(だざいのほし)、千歳星(ちとせのほし)千年星と(ちほせのほし)と変わって行きました。

そう言えば、高良山の麓を流れる筑後川は千歳川と言いました。その名を留めているのでしょうか。

高木星の名は長崎に地名として残っています。
筑紫の果てにある肥前の高来(たかき)彼杵(そのき)の両郡を東西と南北に並べた四つの半島の形は、まさにこの巨大なアンドロメダ星雲の姿を地上に映した渦巻き模様と同じであります。

昔は今よりはるかに明るく昼の太陽に並ぶほどの美しさでありました。これが神代紀の天照大神と高木神の由来でありました。
古代の長崎県は海がかなり進出していて、沢山の島々が海中に浮かぶ地勢だったそうです。

八幡とは元来は風にひるがえる衣装の靡きを言う胡語であって、この発祥はアンドロメダ大星雲の旋回を表現した。   『儺の国の星』


高良山の八幡神はもともとここに、縁があったのもこれで分かります。
         (「高木の神」の現代語訳は『古事記の神々』に書きました。
         サイドバーからリンクしてます。)
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by lunabura | 2010-01-02 00:00 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Trackback | Comments(0)

高良大社(5)高良山を開山したお坊さんのお話


高良大社 高良玉垂宮(Ⅴ)
(こうらたいしゃ  こうらたまたれぐう)
観音寺縁起 (修験道の開祖の物語)

高良山を開山した隆慶上人のお話


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高良山の駐車場から筑後平野を眺める。

平野の緑の筋が筑後川。
向こうの山は背振山。
その山の向こうに博多があります。
この平野が今日の話の舞台です。


高良山はかつて修験道の山として栄えていました。
今日は、この山を開いた隆慶上人(りゅうけいしょうにん)のお話を紹介します。



高良山仏教の開祖、隆慶上人は、白鳳八年(679)から
奈良の大安寺の南院で定恵和尚を師とし、
仏法の奥義を学んでいましたが、
朱鳥元年(686)五月、
師の許しを得て帰郷の途につきました。

道中つつがなく、五月七日博多の津に至り、
十一日には筑後に入ることができました。
ところが、その日もの凄い大暴風雨に襲われたのです。
雷鳴は天にとどろき、
土砂振りの雨は蓑笠をも破る勢いでふりそそぎます。

大地は泥海と化し、ぬかるみに足をとられて進むことができません。
おまけに千年川(筑後川)が氾濫したとの報せです。
上人はやむなく鰺坂(小郡市味坂)村に宿をとり、
暴風を避けることとしました。

夜に入ると雨足はますます激しく、暴風は家を震わせ、
浪は壁を崩して倒壊する家、
柱根を洗われて流失する家も数知れず、
上人の宿った家も水に浮かんで漂流しはじめました。
家の廻りを、溺れた牛馬が浮き沈みしながら流されてゆきます。

泣き叫ぶ村人たちの間に端然と坐した上人は、
一心に観世音菩薩の加護を念じていましたが、
居合わす人々にも名号を教え指導しましたので、
「南無観世音菩薩」の大合唱が起こりました。
その声は暴風雨にかき消されながらも、闇の中に広がってゆきました。

すると、どこからともなく一つの火の玉が飛んで来て、
ぐるぐる廻りながら上人の宿を照らし出しました。
それを合図に波間から一隻の小舟が現れ、
上人の宿に近付いて来ます。
よく見ると、その小舟には大勢の童子が乗っているのです。

驚きあやしむ人びとをしり目に、童子たちは舟を家に着けると、
中の一人が縄を持って柱にするすると登り、
梁にしっかりと結びつけました。

童子たちが「エイヤ、エイヤ」とかけ声をかけて縄を引きますと、
上人の宿は流れにさからって動き出しました。
上人は「これこそ観音様のお助けに違いない。」と、
なおも人びとを励まして一心不乱に唱名を
続けました。

やがて夜明けまぢかになると、
それまで空を照らしていた一火(ひとつび)は飛び去り、
童子たちも忽然と消え去って、
水中に家だけが取り残されました。

恐る恐る見おろすと、
すでに浅瀬に着いていて、難をまぬがれたことが判りました。
「助かったぞ」人々は皆な水中に飛びおり、
抱き合って嬉し涙にくれるのでした。

のちに村人たちは、上人の宿をそのまま寺として、
十羅刹女(法華経を守する十人の羅刹女)の像を安置しましたが、
この寺は「御堂」と呼ばれて、永く崇められたということです。

久留米市合川町御堂島は、この寺の跡と伝えられています。

一方帰山した上人は、報恩謝徳のため
高良山中に新たに精舎を建て、
観世音菩薩の尊像を安置し、観音寺と名付けました。

その跡は、国指定の天然記念物、
金明竹林前の駐車場下段の平地であります。

『高良山の史跡と伝説』 の第一集   古賀寿 著
 

高良山の文献は明治時代の廃物希釈の時に、
大半が燃やされてしまったそうですが、
この高良大社の元の宮司である古賀寿さんが
高良山文化研究所を立ち上げて資料を収集されました。

その折発行された小冊子、『高良山の史跡と伝説』 の第一集から
書き写しました。
昭和の終り頃の刊行かと思われます。

この観音寺縁起を読むと、
筑後川の氾濫のようすが大変リアルに描いてあります。
これは、昭和28年の筑後川の氾濫を体験された事による
表現ではないかと思いました。

この昭和の大氾濫のあと、
筑後川沿いの家の軒下には舟がつるされるようになったと聞きます。

地図  小郡市あじさか(宿があった所?) 
     久留米市合川町(流れ着いた所?)
     高良山 観音寺の跡


伝承は日々忘れられて行きます。
古賀寿氏はなんとか後世に残したい思いで伝承を収集されたのでしょう。
地元の人々はこんな宝があるのを御存じでしょうか。


この本の目次を書いておきます。

1、観音寺縁起
2、今長谷観音堂縁起
3、中谷の薬師
4、小龍の登天
5、中院縁起
6、満福長者
7、待宵の小侍従
8、鶴の御返し

1の「観音寺縁起」をそのまま書き写しました。

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by lunabura | 2010-01-01 00:00 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Trackback | Comments(0)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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