ひもろぎ逍遥

lunabura.exblog.jp ブログトップ

<   2010年 02月 ( 8 )   > この月の画像一覧

荒穂神社(1)荒穂神社なのに、荒穂の神が祀ってない不思議

荒穂神社
福岡県嘉麻市大隈町牛隈

荒穂神社なのに、荒穂の神が祀ってない不思議。

荒穂神社に行ってみました。
嘉麻市を走る211号線と443号線の交差する所が牛隈交差点。
そこから北に入る路地の中に丘があります。

c0222861_20572392.jpg

神社はその丘の上に建っていました。住宅が近くまで迫っています。
石段を上がると周りが明るい境内でした。普通の氏神さまの雰囲気です。

c0222861_20581028.jpg

本殿の左右に小さな鳥居の摂社が控えていて、それが素朴で、とてもいい雰囲気です。
下の写真は左側の摂社です。鳥居の字は上手く読めませんでした。

c0222861_2181421.jpg


御祭神はどなたでしょうか?
『福岡県神社誌』から御祭神を調べました。
祭神 ニニギノ命 由緒 不明
境内神社 須賀神社、貴船神社、恵比須神社

御祭神はニニギノ命でした。由緒は分からなくなっています。

もう一つ、『筑前国続風土記附録』という古文書に書いてありました。(現代語訳します。)
荒穂社 牛隈村
産土神である。
祭神は三座。ニニギノ尊・別雷神・手力雄命である。
いつの頃からか、馬見(うまみ)大明神を勧請するという。
だから、昔は馬見神社という名前だったか。
明和4年。村民らが石の鳥居を建立した時に、荒穂神社と改名したという。

一純(著者)が思うのですが、
「荒穂の神は五十猛命(いたける)です。ニニギノ命を荒穂明神というのは間違いです。
この事は御笠郡武蔵村の所で西峰老人の説を引用しました。荒穂と改めたのは納得できません。」

これは江戸時代の本です。
二つの説を比較すると、ニニギノ命だけが共通のようです。

由来については、後者に馬見大明神を勧請していると書いてあります。

これで、荒穂神社の元宮は馬見神社だという事が分かりました。
それなら、馬見神社と名前がついてもいいはずなのに、荒穂神社になっています。
この矛盾を江戸時代の著者である加藤一純さんが問題にしています。
「荒穂神社なら荒穂の神が祀られているはずだ。」と。

なるほどですね。そう言えばそうです。名前と御祭神がバラバラのようです。

という事で、今日は荒穂神社に何故荒穂の神が祀られていないかをリサーチしましょ。

ところで、荒穂の神って誰でしょうか?
上の本には
「荒穂の神とは五十猛神(いたけるのかみ)」だと書いてあります。

それじゃあ、荒穂の神(五十猛神)ってどんな神さま?
調べてみました。
スサノオの命の子。
父スサノオの命とともに、高天原より天降るとき、大量の樹木の種子を持ってきた。
いったんは新羅の国に降り、ソシモリというところに住んだが、やがて日本に来た。
持参した種子は新羅の国には播かず、すべてそのまま日本に持ち込み、
全国余すところなく播いた。
『日本の神様を知る事典』より

と言う事でした。
五十猛神って植林の神様なんですね。しかも出雲系です。
なるほどそうすると一純さんが言うように、荒穂神社なら、五十猛神が祀られているはずなのに、
ニニギノ命が御祭神なので、確かに変です。
それなら、もっとルーツへ遡ってみましょう。
勧請元の馬見神社はどうなってるのでしょうか。
同じ古文書から拾い出しました。
馬見大明神社
産土神である。
御祭神は天津彦ホホデミの尊・ニニギノ命であって、賀茂大明神・荒穂大明神をも相伝に祭っている。
馬見山が東にそびえ、渓水が西に流れて、人里離れて潔浄の宮所である。

馬見山の山上に社があって、白馬山大明神ともいう。どんな神を祀っているか分からないという。

元宮にはニニギノ命が祀られてました。
それと、問題の荒穂大明神の名前も出て来ました。

これらの宮では出雲系も、天孫系もゴチャマゼになっているので、
2000年もの間になんらかの歴史的なドラマがあったんでしょうね。

そこで、推理です。この荒穂神社の御祭神について。
ここには五十猛(いたける)神がもともと祀られていた。
が、元宮の馬見山の祭神が何らかの事情でニニギノ命になった。
そのために、枝社の荒穂神社も御祭神はニニギノ命だと言われるようになった。
名前も変わってしまった。
それでも、地元の人々は「ここは荒穂神社だ。」と宣言するために、
江戸時代に石の鳥居に荒穂神社と彫って、その名を復活させた。

と考えました。

日天宮との関係は?
全体としては馬見山と日天宮は巨石時代にレイラインがあって、
後の時代に、それを祀る神社がそれぞれに出来た印象を受けました。

馬見山(巨石の盤座) ―(レイライン)― 日天宮(巨石の盤座)
↓                 ↓
馬見神社     勧請⇒       荒穂神社

鳥居からは、元宮の馬見山が見えましたよ。
ただ、正面ではなく、少し左にぶれていました。

それにしてもニニギノ命か…。
ちょっと気になる事があります。

ニニギノ命って、天孫降臨で有名な神ですが、
ホントは父親の天の忍穂耳(おしほみみ)の命が降臨する予定だったんですよね。
天の忍穂耳の命の所で紹介してます。)

その天の忍穂耳の命が、すぐ近くの英彦山に降臨したと言い伝えられているんです。

ニニギノ命の降臨の地は宮崎か福岡かで論争があっていますが、
不思議にこの天の忍穂耳の命の降臨の地を争ったのは見た事がありません。

(どだい、天の忍穂耳の命が降臨したとは誰も思わなかった?
だって、古事記などに書いてないんですもん。彼は息子を先に行かせて、
後からいつのまにか降臨したのかな。)

いずれにしろ、親子で近所の山頂に祀られてるって、なんだか、この辺には
この天孫降臨の神話を持つ氏族が来ていたなって感じですよね。
そして、どこからでも見える高い山の頂上に、自分たちの信奉する神々を
それぞれに配置した感じがして来ました。

実はこの遠賀川水系の山には、他にも降臨した神々がいます。
有名な宗像三女神です。ここは神話の神々が降臨した山がいくつかあるので、
要チェックの水系です。

c0222861_2162822.jpg

神社の石段で蝶々が死んでいました。その横には木の実が…。
命終えたものと、命を蓄えたものと。象徴的な光景でした。
何か心通わせているような姿でした。  

地図 馬見山 馬見神社 荒穂神社 英彦山



[PR]
by lunabura | 2010-02-23 21:41 | 神社(ア) | Trackback | Comments(2)

日天宮(1)三つの天体を祀る宮


日天宮(1)
福岡県嘉麻市嘉穂町牛隈

太陽と月と星を祀る宮

UFO騒動まであったって?
それなら行くしかないでしょ。

星岩宮と月読宮


電話でくるま座さんが教えてくれました。
「太陽と月と星を祀る珍しいお宮がありますよ。」
「ええっ?星もですか。それは珍しいですねえ。」
天体の三つとも祀る神社はまだ聞いた事がありません。

くるま座さんは福岡県の春日市JR春日駅近くで
玄米定食など、自然食を出す店を経営しています。
そして、裏の顔は古代祭祀線地震雲の研究家です。

ルナとくるま座さんとが顔を合わせると、何をしてるかというと、
国土地理院の地図を貼り合わせた、1メートルほどの地図を広げて、
あちこちに引いた線を見ては、どうだこうだと話してます。

二人とも、天体と山と、神社の関係が知りたくて仕方がないのです。
日本に残されている巨石文化を調べています。

さて、そのくるま座さんが送って来てくれた新聞のコピー。
タイトルは日天宮
読んでいて、あれ?これと同じ切り抜きを私も持ってる…。
十年以上も前の新聞記事ですが、やっぱり気になる所は同じでした。
二人が同じ記事を大切に持ってたなんてねえ…。

その新聞記事のさわりだけでもざっと紹介しましょう。

日天宮 『太陽、月、星を祭る神社』
「なぞめく天体信仰」太陽、月、星。いわば三点セットを祀った珍しい神社が嘉穂町にある。
「日天宮」という。
その由来は「農作物の豊作、凶作を左右する天体を神としてあがめた」という見方があるが、
地元住民もその起源は分からず、伝説、伝承もほとんどない。

同町にはもう一つ、「北斗宮」という、文字通り星を祭り、星占いをする神社が存在する。

かつてこの町では「UFO騒ぎ」があったと聞けば、何やら静かな農村もどこか、宇宙的な信仰の広がりを伴ってなぞめいてくる。



そんな嘉穂町で「UFO騒動」が起きたのは1975年秋のことだった。場所は甘木市との境界にまたがる八丁峠。
「空をジグザグに動くなぞの物体が見える」
うわさを聞きつけた人たちが各地から集まり、たちまち露店がでるほどの大騒ぎとなったという。

「もともと、この土地は宇宙との交流があった場所だから、天体信仰があってもいいじゃないですか」とは、
地元の一人。なるほど、ここはUFO伝説にふさわしい町なのかもしれない。
(1999年9月西日本新聞)
さて、この新聞記事を見て、一人で日天宮を探しに行ったくるま座さんですが、簡単には見つからなかったそうです。
記事を書いた記者に尋ねても、うまく説明できないとのこと。
数回探して、見つけ出したそうです。

碓井町の道の駅で待ち合わせて行ってみました。

福岡県嘉麻市牛隈の県道211号線のコンビニから脇道に入ったのですが、
その先のルートの説明が出来ません。(なんと、道がない!)

話によると、神社への道は産業廃棄物の会社が買い取ったために、参道が無くなったとか。
一般の民家の庭を通るしか、ルートがないようになりました。
挨拶をして通らせてもらって、車で坂を登り切ると、開けた丘陵地帯にでました。

そこは、流木や倉庫などが山積みで、本当に廃棄物処理場の中です。
トラックのつけた道があるのみ。
「あれ、変わったなあ。こっちかな。」
くるま座さんの勘頼りで、草むらの中の神社への入口に辿りつきました。

小さな石柱があって、日天宮と分かりました。

イノシシの足跡がくっきりと残る山道を歩くと、星岩宮と書いた立札がありました。
緑のもみじの向こうに、磐座(いわくら)がありました。
手前には小さな祠があります。
岩には直径50センチほどの丸が浮き彫りしてありました。

c0222861_1538462.jpg

この岩の後ろにも二つほど岩があって、ためつ、すがめつしていると、
「ここは序の口ですよ。この先、もっとすごいですから。」
と、促されて、奥へと進みました。

次の磐座は少し大きめ。月読宮と立札が立っています。
ここにも、祠がありました。

c0222861_15413678.jpg

岩の側面にいくつかの穴があります。
近寄って見ると、それは人工というより、海岸で自然に出来たような形状です。
ここは山の中です。
「なんだか、海から運んだ岩みたい。」
そんな話をしながら裏の方に登って見ると、垂直に切り出したような岩もあります。

c0222861_15424736.jpg

岩の配置に法則性は全く感じられません。

ここも、ほどほどにして、さらに奥へと進みました。自然歩道を歩くような参道です。

まもなくして、奥深くに石の鳥居が見えました。見て下さい。この鳥居のたたずまい。
いかにも古いお宮の風情です。

c0222861_15441351.jpg


ひっそりと、誰にも知られずに。しかも、知る人ぞ知る。

手すりがあることから、こんな人里離れていても、地元では大切にされているのがよく分かります。
鳥居から先は急坂になっています。廻りは原生林。
腐葉土がとてもいい雰囲気です。

(つづく)




[PR]
by lunabura | 2010-02-12 16:01 | 日天宮・にちてん・嘉麻市 | Trackback | Comments(0)

日天宮(2)御神体は巨岩でした・出たのはUFOでなく


日天宮(2)
福岡県嘉麻市嘉穂町牛隈
謎の巨石文明
日天宮、月天宮の御神体は巨岩でした
出たのはUFOではなく、恐怖の…


c0222861_15504189.jpg

鳥居を過ぎると、坂の途中から、すでに巨岩が見え隠れします。
「すごいねえ。大きいねえ。」と言いながら、上って行きました。

全く人里離れた山の中なのに、石段や境内が掃き清められています。
「ほうきの痕(あと)があるよ。」

くるま座さんが教えてくれました。
「ここで会った人がね、仕事を辞めて実家に帰ってたら、あんた、ブラブラしてるなら、
一週間ぐらい神社に泊って掃除をしなさいって言われてね。」
「へえ。それで?」
「一か月ここに寝泊まりしたんだって。」
「へえ。こんなとこに?。」
そんな話をしながら、石段を上がると正面に簡素な拝殿がありました。

その拝殿の後ろに日天宮の御神体の巨岩があります。

c0222861_15493986.jpg

これが御神体岩。
この磐座の割れ目は自然に割れたのではなく、いくつかの岩が組み合わされて出来ています。
それぞれの岩の目が違っていたり、割れ目の接合面が合わなかったりしています。

正面から見ると、岩の上の方に巨大な丸い浮き彫りがくっきりと見えました。

下宮の星岩宮で見た丸の浮き彫りとほぼ同じ大きさです。
でも、よくよく見ると、周りにも彫り跡が見えて、全体では眼にみえます。
写真でも、丸の周りに瞳らしき彫り跡が分かると思います。

c0222861_15514576.jpg

これが太陽なのか眼なのか、また、盤座(いわくら)を置いた人たちが彫ったのか、
別の時代の人が彫ったのか、全く分かりません。

修験道時代の人たちもよく岩に彫りものをしていますが、その時代は結構きれいな形をしています。
この荒削りな彫り方は、なんとなく、もっと古い時代を思わせます。

さて、境内は右の方に開けています。
山の斜面の一部が平たんに整地されている感じの境内です。
ずらっと巨岩が並びます。
その中でも、独立してひときわ目立つのが月天宮の御神体岩です。

c0222861_1553465.jpg

一緒に行った人が、その御神体岩を見上げています。
左上方に丸いのが見えるでしょう。それが岩の頂上に当たります。

下の写真は同じものを右側から撮ったものです。

c0222861_15555791.jpg

この風化の仕方は、波で出来たものではないかと、思われるような穴のあき方です。
外宮の月読宮と雰囲気が似ています。岩そのものが堆積岩のような印象です。
先ほどの日天宮の岩と質が全く違うので、ここにもともと自然に存在した物ではない事が分かります。

ここから、まだ先に巨岩が百メートルほど連なり、
富具永大明神塩釜宮と立札がある磐座(いわくら)が次々に現れます。

この日天宮の構成は、
日天宮、月天宮、富具永大明神、塩釜宮、星岩宮、月読宮の、
六つの磐座で構成されていました。

日天宮、月天宮、富具永大明神、塩釜宮は上宮にあり、
星岩宮、月読宮は麓の下宮にあります。

たしかに、日、月、星、という珍しい組み合わせです。
印象としては、盤座が古代からあって、それを再発見した後の世の人が、名前をつけたような感じです。

さて、この六つの盤座の先に進と、道が終わって崖になっていました。
これで終わりと思ったら、くるま座さんが山を登り始めました。道なんてありません。
(え~っ、登るの?)

ついていくと、裏にもまた巨石群。だれかが祭祀した気配があります。
こんな雰囲気の巨石群、どこかに似たのがあったなあと思いながら
ついて行くと、まもなく巨岩列の上に出ました。

道なんてない、林の中を蜘蛛の巣と枝を避けながら、さらに進むと、日天宮の頂上に出ました。
岩から下を覗くと拝殿の屋根が見えます。

知らない間に御神体岩の上に立っていました。その岩には杯状穴が6個ほどありました。
祭祀跡です。

c0222861_15565174.jpg

穴の大きさが分かるように靴と一緒に撮りました。靴のサイズは24センチです。
液体を入れるのにちょうど良い大きさです。

別の所ですが、巨岩の頂上で火を燃やしていたケースを確認した事があります。
それは、灯台代わりのものでした。ランドマークと言います。
ここはどうなのでしょうか。地形からすると、平野の奥まった所の丘陵地帯です。
あとで、地図を出します。

さて、後方の腐葉土を払いのけると、深い切れ目が現れました。

c0222861_15574138.jpg

溝の接合面が揃っていません。これで、御神体岩が割れたのではなく、組まれたことがよく分かります。
また、さっきの月天宮と違って火成岩です。

この境内の巨岩たちのいくつかは、全く違う所から移動させたのが分かります。
どうやって?
これがまたまた謎です。

この岩を降りると、振り出しの拝殿に戻ります。

腐葉土のふかふかした坂を下り始めました。
とても気持ちがよくて、立ち止まって話をしていたら、黄と黒の縞の大きなハチがやってきました。
スズメバチ?
さ、三センチ!?
ホバリングしてる!
明らかに警告です。
(あれっ、どうしたらよかったっけ。騒ぐといけないけど、死んだふりしたら逃げられないし。)
一瞬、背中をボコボコに刺されているシーンが浮かびました。
コワッ。

次の瞬間、足もとの腐葉土の中から、応援のハチが二匹飛び出して来ました。
「うわ、巣がある。逃げろ。」
と、走り出しましたが、
「刺された!」
と、先を走る、くるま座さんの声。本気モードで腐葉土の坂を駆け下りましたよ。
さいわい、ハチは追いかけて来ませんでした。

くるま座さんの肩甲骨あたりがみるみると腫れて来ました。
「ハチにはアンモニアがいいけど。」
「おしっこを掛ける?」
「そこは無理だよ。」
「いえ、大丈夫。子供の頃にも刺されてますから。」 (;一_一)

「それじゃあなおの事。この前、友達が二度刺されて、救急車で運ばれたばかりよ。」
「そう、ハチは二度目が危ない。」
「とにかく、水筒の水で冷やそう。」
「ちょうど、ツボの所が刺されてるから、元気になったりして。」
とにかく、持ってきた水で冷やしました。翌日恐る恐る電話をしたら、元気な声で電話に出てくれました。

という訳で、出たのはUFOではなく、恐怖のスズメバチでした…。
UFOは日天宮とは関係なかったです。

それでも、ガセネタではない?
UFOについては、新聞記事では、出現地が八丁峠(はっちょうとうげ)とあります。
地図を見ると日天宮とは場所が離れていて、直接関係ないようでした。

ただ、この町からはその峠の山がよく見えます。
露店が立ったほどだから、けっこう派手に何日も飛んだんでしょうね。
でも、1975年という事ですから、ずいぶん昔の事です。残念。

それでも、10年ほど前、この大きな山塊の反対側から、UFOを見た話を聞いた事があります。
警察署に事務で勤める友達から聞いたのですが、パトカーで夜中にパトロールした警察官の人たちが、
UFOを見たと言ってたと教えてくれました。けっこう深刻な表情だったらしいです。

まだまだ、期待できそうですね。

(つづく)

地図 日天宮  UFO出現地?
 



[PR]
by lunabura | 2010-02-11 16:30 | 日天宮・にちてん・嘉麻市 | Trackback | Comments(2)

日天宮(3)御神体岩はランドマークだった?


日天宮(3)
福岡県嘉麻市嘉穂町牛隈
御神体岩はランドマークだった?

c0222861_1572767.jpg

この松の木が神社の入口の目印でした。

さて、この神社の由来ですが、新聞記事に書いてあったのを紹介します。
天体をあがめ、信仰する日天宮。数少ない資料を手がかりに由来などを調べてみた。
 まず、1857年ごろに書かれた「筑前国続風土記拾遺」には、こう記されている。
「山犬谷という所に日天社とてあり。大岩を神体という。境内奇石多し。」と。

さらに、明治時代に残された「福岡県地理全史」には「星のような小さな穴がある巨石があり、近くで清水がわいている」との記述。しかし、その起源や由来が記された資料は現在まで見つかっていない。」
なるほど、江戸時代から明治にかけては、結構知られていたんだ。

いったいいつ頃建てられたんだろう。
弥生時代ではないのは明らかなので、それより古いとすると、縄文時代?旧石器時代?
だんだん、可能性が低くなりますよねえ。

でも、世界を見回すと、縄文時代には、エジプトではせっせとピラミッドを造っています。
古代が今より進歩していないとは言えない分野もあるんだろうな。

c0222861_15124121.jpg
 
前回、知らない間に御神体岩の上に立っていたと書きましたが、
正面から見たら、独立して立っているように見えています。
なのに、頂上を含む尾根はフラットだったんです。
計算されて置かれていた印象でした。

なかなかやるな。設置者よ。
さて、年代も設置法もお手上げです。そこで日天宮の標高を調べてみました。

古代には海が迫っていた?
ちょうど100メートルほどの高さでした。岬のように出張った地形の上にあります。
思ったより標高が低い所でした。

縄文海進期という言葉があります。
縄文時代は今より平均気温が高くて、氷河が融けていたので、
今よりずいぶん海面が高かったらしいです。
ですから、縄文時代の貝塚遺跡も、今の海岸線より高い所にあります。 

この日天宮は遠賀川の上流にあります。
遠賀川も古代はずいぶん奥まで海が入り込んでいました。
この巨石のに火を灯したとすると、これはランドマークになります。
舟や徒歩で旅をする人たちの、陸の目印です。

これらの事から、この日天宮は超古代のもので、当時はランドマークとして使われ、
後に神話時代になって神社として祀られるようになったと仮説を立てました。

くるま座さんにも話を聞きました。

独自の嗅覚と熱心さで、面白い情報を持っていましたよ。
「この近くに荒穂(あらほ)神社があって、日天宮はその奥宮だそうです。」
「何か書いてあったのですか?」
「先生をしている地元の郷土史家から聞きましたよ。」
「荒穂神社は他に、筑紫野市の天拝山(てんぱいざん)と佐賀県の基山(きやま)の宮浦と長崎県の太良(たら)町にあります。」

「全部で四つ?」
「そうです。その荒穂神社が四つとも馬見山を見ているそうです。」
「え?みんな離れてるのに。」
「そう、天拝山のは確かに東を向いているのを確認しましたが、基山の荒穂神社は方向が違いました。」

「でも、頂上は360度なので、OKでは?」
「頂上ならそうですね。長崎の太良の方は何度か行ったけど、元宮が無くなっていて、分かりませんでした。
でも、なんで、こんな遠い所にと思いましたけどね。」

「ああ、それなら、ちょうど、志賀島の高天原を調べていたら、
二日市水道の右の島を宇佐、左の島を左佐と言っていた時代の地名が
今も残っていて、
宇佐は大分県、左佐は長崎県でしたよ。
古代では、そのスケールで見ても大丈夫みたいです。」

(かつて、宝満山に登った時、山頂から噴煙が二か所見えて驚いた事を思い出しました。
南は熊本の阿蘇山、西は長崎の雲仙の普賢岳でした。
頂上からは思いがけず近くに見えるものです。)


c0222861_1591393.jpg

                 富具永大明神の御神体

くるま座さんはもう一つ教えてくれました。
荒穂神社は馬見山にある馬見神社(宇麻美神社)から分霊したものです。」
「頂上にピラミッド型の巨石がある?」

「それは、9合目あたりです。そのずっと下に馬見神社があります。」
「すると、おおもとは馬見山の祭祀があって、下に馬見神社が出来て、
そこから四つの荒穂神社が分霊されたという事ですか?」
「そうなりますね。」

「すると、この日天宮は地元の荒穂神社の元宮だから、
馬見山―日天宮―荒穂神社のラインがあるのですか?」
「そうなりますね。」

「御祭神は?」
「それが、荒穂神社と言えば、普通は五十猛(いたける)の神なのですが、
ここではニニギノ命とも言われているのです。
馬見神社にはニニギノ命とコノハナサクヤ姫が祀られているとも。」

こんな所でニニギノ命の名前が出てくるとはちょっと驚きです。
(神様の名前が出て来ると訳が分からなくなるので、とりあえずパスしちゃお。)

ふうん。
馬見山を見る四つの荒穂神社のネットワークか。面白そうだな。

とりあえず、馬見山―日天宮―荒穂神社の信仰のラインがあるらしい事が分かりました。
御神体岩は馬見山へのランドマークだったのかも。

地図 馬見山 日天宮  荒穂神社  荒穂神社  荒穂神社 


それでは、次は話題の荒穂神社に行ってみますか。



古代祭祀線や古代の大宰府、地震雲のお話をしたい方
くるま座でティータイムに手が空けば、話が聞けますよ。
福岡県春日市千歳町1丁目24
092-592-8903

玄米定食や天然酵母パンのヘルシーなお店です。



[PR]
by lunabura | 2010-02-10 15:36 | 日天宮・にちてん・嘉麻市 | Trackback | Comments(2)

高天原(1)志賀島の海に高天原があった


高天原(1)
福岡県東区志賀島弘
志賀島に高天原があった

なぜ海の中に高天原がある?

2000年前の博多の姿

c0222861_1784351.jpg


ここが福岡県の志賀島の高天原の海です。博多湾に面しています。
海の向こうに見えるのは福岡市内です。
(デジカメのオートで撮ったために、暗く写っていますが、これはお昼に撮りました。)

こうして情報が入ったよ。

志賀海神社の宮司さんが
「志賀島には高天原という所がありますよ。」
と言って、地図を示してくれました。
確かに高天原と書いてあるのですが、そこは海でした。
「なぜ、そこを高天原というのかは分かりません。」とも。

高天原といえば、宮崎県の高千穂あたりかと思っていたので、
福岡県にそんな地名があるとは、驚きです。
それじゃあ、行って来なくっちゃ。

という事で、志賀島の勝馬の沖津宮からの帰りに寄ってみました。
時計とは反対回りです。
さっきまで、あんなに綺麗な沖津宮の所にいたのに、
再び、車を止めてみたくなるような景勝の地です。

その浜に降り立って驚きました。正面に玄海島が、大きく見えます。
福岡沖地震の後、テレビに何度も映し出されたので、
見ると、すぐにそれだと分かりました。

地震で破壊された町には、真っ白なビルが建っているのが、
こちら側からもよく見えます。こんなに近いんだ。
c0222861_1792247.jpg

この玄海島の向こうの方にも大きな島が見えます。
しかし、よく見ると、島ではなくて半島でした。
糸島あたりの半島がすぐそこに見えていました。
博多湾の奥には、町が見えます。

船で博多湾に入港する時には、たくさんの緑の島々の間を
縫って入って行くので、その変化にわくわくしますが、
ここ高天原からは、それが一望できました。

それにしても、この海になぜ高天原の名前が?
確かに綺麗な海ですが…。

そこで天原の意味を調べました。 

この海が高天原だという謎を解くヒントはやはり、『儺の国の星』にありました。

その本には、「高天原」は載っていませんが、「天原」について、何箇所か書いてありました。
いくつか抜き出しましょう。

あまのはらとは船に泊まる氏族の邑(むら)のことであった。
筑紫の西の多島海であった。

古代の筑紫の西側はまだかなり海の中で、島がたくさんありました。
そこには、船に泊まる氏族がいて、その一帯をあまのはらと呼んだという事です。
昔、筑紫の国はその中央を、北から玄界灘、
南から有明海の荒穂(あらほ)、即ち滔々たる海流が貫いていた。
東なるを宇佐島と言い、西なるを天原(あまのはる)と言った。
―略―
宇佐島を昔は右佐島と呼んだ。
そして天原左佐島とした。
今、大分県豊後宇佐(うさ)にそのままの郡名と、長崎県肥前松浦左左(さざ)に郷名が残る。

筑紫(ここでは北部九州全体を指す)では、中央を海流が南北に流れていました。
北は玄界灘から、南は有明海から海流が流れ込んで、太宰府辺りで、ぶつかりあいました。
その二日市水道の東側を宇佐島、あるいは右佐と言い、
西側を天原あるいは左佐と呼んだという事です。

右佐と左佐の由来は星の名前から来ている。
「右佐」とは竜座のツバーンのことで、「左佐」とは大熊座のポラリスのことです。
北極星がツバーンからポラリスに変わる間、北極を示す目星がありませんでした。
ですから、当時はこれらのツバーンとポラリスが北を教えてくれました。

この地の人々は星空の大切な星の名を、東西の島に名付けたという事です。
(そう言えば、高良玉垂宮や志式神社に出て来た
二つの玉がこのツバーンとポラリスでしたね。)(⇒詳しくは高良大社に)

実際に宇佐と「ささ」という地名は、大分県と長崎県に現在も残ってます。
天原を「ささのうみ」と言った。
弦月型の葦舟(ささらぶね)が往来する多島海、古人のいう千顆海(ちかのうみ)であった。「ささなみ」は「しか」の冠辞である。
『儺の国の星・拾遺』より

(天原を「ささのうみ」とも呼びました。
それは、三日月形の「ささらぶね」が往来していたからです。
海域には沢山の島があって、それを古語で千顆海と言っていました。
枕詞の「ささなみの」は志賀にかかりますが、それはこの地名から来ているという事です。)

志賀島の語源は近い島と言われたりしますが、そうではなくて、
昔は多島海を千顆海(ちかのうみ)と言っていて、
それがしかの島と変わった訳ですね。

枕詞として有名な「ささなみの」は「志賀・なみ・寄る・夜」などにかかりますが、
「ささの海」に浮かぶ「ささらふね」から来ていたとは、もう誰も知りません。
暦法家の家だからこそ、言い伝えたのでしょうね。

葦舟は本当にあったのだろうか?

それにしても、古代の日本に葦舟があったとは、考えたこともありませんでした。
そこで考古学の本を見ると、竹舟があったと書いてあります。
竹舟なら、『古事記の神々』で、「豊玉姫」を訳した時に、
山幸彦が、それに乗るシーンが書いてあります。その部分を書き出します。

 私はどうしようもなくて、海辺で嘆いていたら、塩土の神がやって来て、
『どうして日の御子さまが泣いていらっしゃるのですか。』
と聞いてきます。
それで事情を話すと、塩土の神は
『よい考えがあります。』と言って、
竹で編んだ小船を作って、私を乗せてこう言いました。
『私がこの船を押し流します。
日の御子さまはそのまま潮の流れに乗って下さい。
すると、綿津見の神の立派な宮殿に着くでしょう。

実はこの時、訳しながら、「ん?竹舟があったの?」と驚いていました。
今、考古学の本にそれが書かれていたのを確認して、やっと納得です。

でも、葦舟の記述はまだ見つけていません。
それでも、竹の舟があるなら、十分可能性があります。
腐れやすいので、発掘される事はないのでしょう。

南米のチチカカ湖の葦舟なんかは今でも現役です。
あれを見ると、葦舟でも博多湾を島から島へと行き交うのには
十分なんだろうなと思いました。

古代の天原を、まとめてみるとこうなりました。

福岡県には、かつて二日市水道(針摺の瀬戸)が南北に流れていた。
その海流が南北から流れ込んで、太宰府辺りでぶつかり合っていた。
そのために筑紫は東西の島に分かれていた。

東側を宇佐島とか右佐の島(うさのしま)と呼び、
西側を天原(あまのはる)とか左佐(ささ)の島と呼んだ。
そこには、葦のささら舟が行き交っていた。そこで、ささのうみとも呼んでいた。
それをアマのハラと呼んだ。
また、古代には船に泊まる氏族がいた。かれらの村もアマのハラと呼んだ。
(そう言えば、アマは海人、海女に通じますねえ。)

 「天原」は分かったけど、「高天原」は? 

福岡県の地図を見ると、「高天原」のある志賀島は天原(博多地区)の最北端に位置していました。
「高」は美称や敬称に使います。
「天原」の北端、あるいは聖地という意味で、「高・天原」と言ったのではないかと思いました。

これらの事から、「高天原」は、「沢山のささら舟が行き交う多島海の聖地」
というほどの意味ではないかと、思いました。


地図   高天原  二日市の針摺  佐々  宇佐




次回は浜辺でできる地震予知法を紹介します。


[PR]
by lunabura | 2010-02-04 17:50 | 志賀島の各地 | Trackback | Comments(10)

高天原(2) 砂鉄による地震予知の方法

高天原(2)
福岡県福岡市東区志賀島弘
真鍋大覚に学ぶ地震予知(1)

「地震とナマズの伝承」は、
浜が砂鉄で真っ黒になる事だった。


福岡市の志賀島の高天原の海です。
c0222861_20211125.jpg

この浜には荒磯があって、ごつごつした岩が波に洗われています。
砂の色は、黒みがかった灰色です。砂鉄が行く筋も走っていました。
「砂鉄だ。」
懐かしいなあ。子供の頃は磁石で遊んだっけ。

そう思いながら帰ったのですが、その夜、真鍋大覚氏の本を読んでいると、
浜辺の砂鉄と地震予知についての記述を見つけました。

「地震とナマズ」の伝承は、浜辺の砂鉄が真っ黒になる事だった!
日本は太古から噴火が多い。降り落ちた灰は地熱と日射で分解して砂鉄となる。
これを駿河で「はまな」、石見で「はまだ」、筑前で「はまを」と言う。
又、肥前では「ぬち」、肥後では「うと」と言う。

波打ち際に沿って、干潟の浜に行く条もの縞模様が、或いは濃く、或いは淡く、えんえんと連なる。
漁師はこれを見て、海が荒れるか、和らぐかを見極めた。

特に地震の直前は、海底からの無数の気泡が間断なく噴き上がるので、思い砂鉄の粒はいつもより多量に海水の中に浮き上がり、これが長い波に大きく寄せられて、浜に上がる。
浜は一面に炭の屑を厚く固めたかの如く黒く敷かれる。

かつて、漢人が日本の西海に如墨という国名を記録した理由はこの青黒い海の色を見ての事ではないか。

地震鯰(なまず)のことわざは上流の火山を水源とする大河の口に(住む)漁師であれば(分かっていて)、日本のいたる所で(起こる)津波の、地磁気の(観察)から生まれたことわざであった。

鯰の黒い背の色はまさに「ぬち」の塩水にぬれた色そのものであった。漁師は水の底に巨大な鯰を空想して、これが地震の前になると里人に教えていると考えていたのである。

砂鉄を肥後で「なぎ」、伯耆で「のぎ」、越後で「ねぎ」、美濃で「なへぎ」という。
地震即ち「なゐ」(地震の古語)で、ゆり動いて煽り出るからと説かれている。

『儺の国の星・拾遺』より  (一部、読みやすく追加、変更しました)

地震の前にはナマズが暴れる」ということわざの由来が
現代では分からなくなっていたのですが、地震雲の大家、真鍋氏は
「地震の前には、浜辺が砂鉄で真っ黒に埋まり、それが海水に濡れて、
ナマズの背中のように黒く光る現象だ」
と説明してくれています。

それは地震の直前には、海底から無数の気泡があがって、
砂鉄を舞い上げて、それが浜に打ち上げられるからだという事です。

地名に込めたメッセージ
これ(砂鉄)を駿河で「はまな」、石見で「はまだ」、筑前で「はまを」と言う。
又、肥前では「ぬち」、肥後では「うと」と言う。

筑前の「はまを」は「浜男」と漢字で書きます。香椎宮のすぐ近くです。
かつてはそこまで海だったと、いろんな方から聞きました。
浜のラインに沿って、鉄道が通っています。

浜男」とはその浜が真っ黒になるほど、砂鉄が上がって来た事を
伝えるためについた地名の可能性が出て来ました。そこには、浜男神社もあります。

よど姫神社や姫神社も70年に一度の津波を知らせるための
神社だという事を「高良大社」で書きました。

地名は歴史を物語ります。これらの地名は、津波が押し寄せた事を
後世に教えようとしている先人からのメッセージなのです。

福岡県の国道3号線の古賀市の所に「」という変な名前の交差点があります。「ながれ」と読みます。
江戸時代にここまで津波が来て、家が流れたと言い伝えています。

浜辺の砂鉄。

これは誰でも観察できる地震の予兆です。
全国のビーチ・コーマーの皆さん、また、浜辺を散歩する皆さん、
浜歩きの時には砂鉄を観察してください。
そして、検証して行こうではないですか。浜辺の砂鉄ほど分かりやすいものはありません。

c0222861_20252255.jpg

この日の高天原の砂浜の砂鉄です。薄い砂鉄の筋が何本か走っていました。
まだ、この砂鉄の重要さを知らなかったので、ちゃんと写真に撮ってませんでした。

それにしても、ここの砂浜が黒いのは、砂鉄が多かったからなのですね。
同じ砂鉄でも、小戸(御手洗)の方では、筋にならずに、50センチの塊の状態でしたよ。

[PR]
by lunabura | 2010-02-03 20:37 | 志賀島の各地 | Trackback | Comments(5)

駕輿八幡宮

駕輿八幡宮
かよいはちまんぐう
福岡県糟屋郡粕屋町大字仲原字駕輿丁987 
神功皇后が休憩したお宮

御祭神 神功皇后 応神天皇 玉依姫命 住吉大神

福岡空港の東側の粕屋町に、大きな湖があります。駕輿丁(かよいちょう)池と言います。
いつも市民が散歩したり、ランニングする姿が見られます。
そんな湖の一角にある、こんもりとした森と鳥居がいつも気になっていました。

c0222861_143457.jpg

どうやら、そこも神功皇后に縁のある所らしいと知って、行ってみました。

c0222861_1441225.jpg

湖の半島のように突き出た境内はとても明るく開けていました。

この神社の由来です。 (原文どおり)
このお宮は、神功皇后が応神天皇を出産されるため香椎の宮を出発され、宇美八幡宮に行幸されたとき、この地で休息されたので、ここに住んでいた人々が祭神したのが、駕輿八幡宮の由来とされています。

やっぱり神功皇后が来ていましたよ。ですから、なるほど、御祭神も

神功皇后  応神天皇    玉依姫命    住吉大神
(母)      (子)     (守護の女神)   (旅の守り神)
です。

粕屋町ホームページにはさらに、こう書いてありました。(口語訳)
神功皇后が香椎より宇美に行かれた時、仲原の村人が御輿(みこし)をかいて、この地に御休息になったので、地名を駕輿丁とつけて、のちの世に駕輿八幡宮を奉斎した。

仲原とはすぐ近くの町です。

神功皇后が新羅征伐から帰って、いよいよ出産するのに、
香椎宮で生まずに、もっと内陸部へ向かったのがこれでわかります。

香椎からはずっと輿に乗ったのかな、船に乗らなかったのかなと、思っていると、
もう一つ、神功皇后を伝える神社の話が載っていました。

日守神社
日守(ひまもり)-夷守(ひなもり)-の由来のはなし

神宮皇后(じんぐうこうごう)は、お産のために現在の宇美町に向いましたが、その途中、現在の粕屋町乙仲原西区にある日守付近で休憩しました。

そして、「日を守りたまいて(太陽をじっと見て)、今は何時頃ですか。」
と尋ねられました。
この伝説から、休憩した場所を「日守(ひまもり)」と呼ぶようになり、神宮皇后が腰掛けた場所をまつって
日守神社ができたと言い伝えられています。

地図で見てみましょう。

地図を見ると、日守神社は川のすぐそばです。
ここで船から降りて、あとは輿に乗り換えたのでしょうか。

応神天皇は冬に生まれています。かなり寒いはずです。
寒い中に大きなお腹を抱えた皇后を気遣う人々の思いやるようすが目に浮かぶようです。

駕輿丁(かよいちょう)の語源が書いてありましたよ。
その人たちについては駕輿八幡宮の由来書からうかがえます。省略しながら書き写します。
大化2年(646年)には駕輿丁座がありました。

そもそも、駕輿丁の「」とは乗り物の意味で、「輿」とは御輿(みこし)(神のみたま)のことで、「」とは仕丁(しちょう)(つかえのちょう)として身分の高い人を運ぶ人々(しゅうだん)をさします。

この人々は南側の階段から、さらに池に降りる階段の下に集団で住んでいましたが、この池が江戸時代に築堤されたので、他の地に移転しました。

この八幡宮には古来、駕輿丁座の人々が住んでいたのがこれでわかりました。
この時代に船と輿を使って人々は移動していたようすが読み取れます。

神功皇后を乗せたのは、よほど印象深い出来事だった事でしょう。
はるか遠い都の美しいお后様を直接乗せたのですから。
見た事もない立派な衣装を召された皇后さま。まずは近くに寄れない皇后さま。

駕籠をかいた人は、それはそれは自慢だったことでしょう。
そして、自分たちの村で大切にお祀りしました。

さて、神功皇后は何故、香椎でなく、内陸部へ向かったのでしょうか。

それではルナの推理シアターの始まり、始まり。
この時、皇后はひとりぼっちでした。
夫の仲哀天皇が亡くなって、10か月。その夫には兄弟王が二人いましたが、その二人は別の島に配属しました。身内と呼べる人は一人もいません。

信頼置ける人間は竹内の宿禰ただ一人。この男は、皇后が九州入りしてから、ずっと支えてくれた。
あとは、知らない人間ばかり。

香椎宮で出産しなかったのはまだ、産屋は別にした時代という訳でしょうか。または、仲哀天皇が亡くなった所では生みたくなかった。あるいは…。産み月になっても生まれない事への人々の目。
とにかく香椎では生みたくなかった。

全く知らない土地で、子供を生むとしたら、いったいどこで生んだらいいのか。

そうだ、たった一人だけ、心の支えになった人がいる。
というより、女神。名前は玉依姫。(サイドバー⇒)

神功皇后がかつて玉依姫の墓所で祈った時、「姉妹の契りを交わしましょう。」と言ってくれた。
死んだ夫の代わりに軍を率いるという難事の時に支えになってくれた女神さま。

そのそばで生もう。
そこならきっと、出産も助けてくださる。


そんな気持ちがあったのではないかとルナは思いました。
玉依姫の墓所は今では分からなくなっています。
江戸時代から明治にかけても大捜査があったのですが分からずじまいです。

この辺りは三笠川の氾濫がたびたびあって、玉依姫の墓を祀る神社も移動していたりします。
ただ、墓所があった証として中学校の名前に御陵(ごりょう)中学校とつけられて言い伝えています。

いずれにしろ、この駕輿八幡宮は、そこまであと一息の場所なのです。

実際に出産したのは蚊田という所です。
彼女が出産してからは、宇美神社となって、いまでも安産を願う多くの人々が訪れています。

さあ、駕輿丁公園へ。

さて、この駕輿八幡宮に来たのなら、この駕輿丁公園を歩かずにはいられません。
周囲4キロの広大な湖には、水鳥が遊び、桜や菖蒲やバラがよく手入れされています。

ちょっとだけ、寄り道しましょ。
c0222861_14284762.jpg

湖が一周出来るように、遊歩道があります。

c0222861_14292710.jpg

薔薇園へと上って行きましょ。

c0222861_143043.jpg


c0222861_14305532.jpg
c0222861_14313119.jpg
c0222861_14335692.jpg



ここの薔薇園は大きくて沢山の品種が見られます。一回だけでは、とても紹介しきれません。
また、別の季節に、ゆるりとご案内を。



[PR]
by lunabura | 2010-02-02 14:59 | 駕輿八幡宮・かよい・粕屋郡 | Trackback | Comments(0)

冬の駕与丁(かよいちょう)公園

冬の駕与丁(かよいちょう)公園
福岡県糟屋郡粕屋町大字仲原字駕輿丁

冬の薔薇園はつぼみが輝いてました

冬のバラを見に行って来ました。
冬なのに?
そう。
きっと、冬でもバラが咲いてるはずなんです。

c0222861_1959447.jpg

ほら、やっぱり。
小春日和の中で、冬のバラが咲いていました。




c0222861_2002861.jpg

綺麗!
それにつぼみのエネルギーもすごいです。





c0222861_2011629.jpg

花びらが柔らかそう~。


c0222861_2015081.jpg

花の活力がみなぎっていて、体感温度は ↑




薔薇園の隣の散歩道です。

c0222861_2024670.jpg

ベンチの向こうに見えるのは菖蒲園です。
菖蒲はまだまだ、気配もありません。
菖蒲の中を歩ける初夏が楽しみです。

裸の木は桜です。
枝がほんのりピンク色になり始めましたよ。




薔薇園の住人、じゃなく、住猫で~す。



c0222861_2043249.jpg

どう?
決まってる?



c0222861_2051728.jpg

う~。ばりばり。



c0222861_206611.jpg

んふ~。
%&?¥~$#…。


帰る時、一匹が
薔薇園の端っこまで見送ってくれました。

また会おうね。

[PR]
by lunabura | 2010-02-01 20:18 | 駕輿八幡宮・かよい・粕屋郡 | Trackback | Comments(0)
line

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


by lunabura
line
クリエイティビティを刺激するポータル homepage.excite
カレンダー