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皇石神社・おういし(1)神功皇后と大石・御神体はドルメン石


皇石神社(1)
おういしじんじゃ
福岡県古賀市美明
神功皇后がウケヒで大石を持ち上げた?
御神体はドルメンの岩

古賀市立歴史資料館を出て左の方に向かいました。
目指すは小さな山。神功皇后の伝承のある所なら、
これまでのパターンから、川と小山と森を目指せば辿り着くはず。
道は三叉路でも、何でもとにかく小山を目指せばいい。

そうやって車を走らせると、鹿部(ししぶ)山に近づきました。
山裾を舐めながら神社を探します。
山を行き過ぎたと思って路地に入ると、すぐそこに鳥居がありました。
これかな?

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車を止めて鳥居を確認すると、皇石神社と彫ってありました。
やっぱりあったよ。
ここも弥生の聖地と神功皇后の法則に合ってるみたい!
神功皇后が祈ったという所は、数十メートルの高さの山で、遥拝所になった所。
そこに立つと聖なる山が見える。そんなパターンです。

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一の鳥居はまるで異世界との境界線のような風情です。
一歩くぐるだけで、鬱蒼とした自然の森の中に入り込みました。
とても植物相が豊かで、古来から神山として、杜が守られてきた印象です。
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すぐに神社の拝殿が見えて来ました。

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拝殿と神殿です。

この神社の伝承の始まりはこの境内の土の中から始まったようです。
入口にあった由緒書きを写します。(一部読み方など補っています。)

皇石神社
祭神は埴安(はにやすの)神。
古く享禄3(1530)年の神殿再建の棟札によれば、大石大明神と呼ばれている。神体は平たく巨大な立石である。

神功皇后は「もし新羅を征する力があればこの大石を抱え起こして立てることができる」と「うけひ」をされたという。太政三(1820)年には社名の皇石に変っている。

明治31年旧暦元旦、神殿後方の合せ口甕より、銅剣、銅戈が発見され、弥生時代の貴重な甕棺墓遺跡として、春日市岡本の遺跡とともに学界の注目するところとなった。
昭和47年には社地西北麓に多量の祭祀土器が発見されて遺跡の重要性を増した。

いま祭祀の由来を考えるに、遠く日本原始国家形成期における有力者の奥津城(おくつきー墓)の祭祀に創まるものであり、神体石は支石墓とよばれる、当時の墓制であったとみられる。

なお、社地に接した鹿部山は、もと三つの峰からなっていたが、その南麓には数多の古墳群が散在し、中の峰の嶺からは、永久元年(1113)年の銘など刻まれた鋳銅製の経筒が昭和46年に出土している。

即ち、鹿部山の頂上から麓に至る一帯は遠く弥生時代から悠久二千年に亘り、連綿として続いてきた聖域で、本社はその中心の槇の巨木群におおわれた森厳な霊地に、永遠に鎮まります神体石を崇敬のまととして斎き祀られてきた真に由緒ある宮どころである。

この神社の歴史と価値がよく分かりました。
ここは弥生時代の首長レベルの人が祀られていたのですね。
甕棺の上に支石墓の平石が載っていたというのですから、
古代の墳墓の変化を見る指標ともなる重要な墓です。しかも出て来たのは銅戈と銅剣。
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これが実物です。

ここは弥生からの古墳が沢山あった聖域でした。岡本遺跡と並ぶすごい所だったのですねえ。
もし、ここの価値が分かって全体が保存されていたら、岡本遺跡のように、教科書に載って、
弥生時代を代表する旧跡となっていた事でしょう。

さて、そんな聖地に神功皇后がやって来て、これから新羅出兵をしなくてはならない時に、
ウケヒ(占い)をして、その大石を持ち上げたというのですから、すごい話です。
そこから大石を皇石と字を変更したのですね。
大石と彼女の伝説が融合していくようすがよく分かります。

結局、銅戈と神功皇后については何の関係もありませんでしたョ。
(初めての方は綱分八幡宮を見て下さい。
そこから、銅戈を求めてやって来ました。)

でも、おかげで面白い山に来る事が出来ました。
と言うのは、この周辺には神功皇后の伝承がいくつも伝わっているからです。
神社の奥の山に登ると伝承と地形が呼応する事が分かりました。

境内の右奥には鉄のフェンスがあって、扉が開いています。光が明るく射す方向へ、いざ。
(つづく)

地図 古賀市立歴史資料館 皇石神社 鎧出土・屯倉あと 立花山 奈多 


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by lunabura | 2010-05-31 09:47 | 皇石神社・おういし・古賀市 | Trackback | Comments(0)

皇石神社(2)おういし・神功皇后が船の軍事訓練を視察したという


皇石神社(2)
鹿部山は三上山だった
神功皇后がここから船の軍事訓練を見たという


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神社の裏手の扉を進むと、ベンチやあずまやがあって、公園化されていました。
鹿部(ししぶ)山公園と言います。

神の山・立花山が見えた!
そこに立つと展望が開けました。山と市街、松林とそれに海も見えます。
写真の三つの峰が立花山です。ここから見える立花山は三上山ですね。
隣町の新宮町からは二上山に見えて、二神山と呼ばれています。

立花山は二上山に見えたり、三上山に見えたり、その見え方で、
安全な航路を教えてくれる、神の山でした。
今立っている山は遥拝所に間違いないでしょう。

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さて、後ろを振り返ると、さらに遊歩道が続きます。
緑豊かな木と枯葉の積もる道に誘われるようにして上っていくと、またもや道があります。
幾つもの分かれ道が合流しながら、森が段々深くなりました。
合流点に出ると、必ず振り返って道を確認します。
そうしないと、帰る時うっかり反対側に降りてしまう可能性があるからです。

誰にも会いません。だんだん心細くなった頃、のんびりと犬を散歩させる女性が
目の前を横切って行きました。道が舗装されている。!

あれ?どうなってるの?
女性の後をついていくと、見晴らし台に出ました。
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そこに立つと、今度はさっきと反対側の玄界灘が見えました。
ああ、ここはかつて360度の展望の山だったんだ。遥拝所であり、遠見の山なんだ。

ランニングの後で休憩している男性がいました。よし、何でもいいから聞いてみよう。

「ここの歴史について何かごぞんじですか?」
「ここは鹿部山と言います。昔は三つの山が並んでいたのですが、
団地造成の為に二つの山が取りつぶされました。
甕棺など、弥生の遺跡がたくさん出て来て、この山だけは残さないといけないと、
文化財の方が言って、ようやく残されたのです。」

そういって、そこにある看板にあった昔の山の写真の説明をしてくれました。

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写真を見ると、見事に三つの峰が並んでいます。左二つが完全に削り取られてしまいました。
今は、右側の鹿部山だけが残っています。昭和までは三つの山が残っていたんですね…。

「この、今はない、中央の山からは経筒が出ています。」
この出土品からもここは昔から聖地だったのが分かります。

皇石神社のいわれ
「ここの神社について御存じですか?」
「皇石神社ですね。おういしと読みます。」

「神社のすぐ裏に弥生時代の甕棺が出て、その中から銅戈が発見されました。
その甕棺の上に2メートルはある平たい大石が載せられていて、それが御神体です。
今は土の中に埋められています。
神功皇后がここに来て、もし三韓出兵が成功するなら、
『この石よ、動け』と言って、動かしたら本当に動いたというので、
大石に皇石の字が当てられるようになったといいます。」
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島々が見えるよ
ここからは、海がよく見えます。平たい島がありました。
「正面の島は?能古の島?」
「いいえ、相(あい)の島です。黒船や朝鮮使節団を泊めた島です。」
「ああ、そうか、そこは新宮ですね。すると、右の方が津屋崎。」
「そうです。その奥にかすかに見えるのが大島です。」

大島と言えば、宗像大社仲津宮がある所です。
「気象条件がいいと、白いビルの向こうに島が見えます。
沖ノ島ではないかと思うんですが、確認出来ていません。形がそっくりなんです。」

「へえ、ここから沖ノ島が…。すごいですね。
壱岐(いきの)島からは、朝鮮半島が見えるので、
この距離だと沖ノ島が見えている可能性は十分ありますよね。」
まだ見ぬ沖ノ島。女人禁制だから、なおの事、心ひかれる。
古代の祭祀あとがそのまま残っている、「お言わず」の島。

最澄が上陸した所ですって

海まではマンションや家がびっしりと建っています。
「このあたりはやはり昔は海だったんですか?」
「正面に見える川が花鶴(かづる)川ですが、最澄が唐から帰って来た時、
その辺りから、独鈷(とっこ)を投げたと言われています。
そこからみると、落下地点の立花山は真っ正面です。」
「へえ、ここの話だったんですか。」

最澄が唐から帰って来た時、独鈷と鏡を投げて、その落下地点に寺を建てました。
そこでは当時の火が今でも守られていて、その家は千年家と言われています。

神功皇后が軍事訓練を視察したんですか?
「この海域では神功皇后が船団の軍事訓練をしたと何かに書いてありましたが。」
「そうですね。相の島の向こうの海がそうです。」
そこはずっと前にレポートした志式神社を含む奈多や三苫の海域になります。
「むこうの海がよく見えるんですね。」

眼下の平地が全て海だったとすると、行き交う舟が全て掌握出来る場所でした。
もし、ここに神功皇后が立ったとすると、待ちわびた48艘の船が次々に集結して来るのを、
はやる気持ちで眺めた事でしょう。

「小山田斎宮は古賀市だ」というお墨付きがあった
「ところで、古賀市には小山田斎宮という、日本書紀や古事記に記述のある、
特異な神社があるのに、説明板がありませんね。
久山の山田の斎宮には教育委員会の説明板まであるのに。
貝原益軒があちらだと書いたからでしょうか。」

「小山田斎宮の入口に石彫で小山田斎宮と書いたのがありますが、
あれは香椎宮の宮司さんの書ですよ。」
「ええっ、香椎宮の?木下宮司?」
「名前は知りませんが、それが香椎宮のお墨付きだと思っています。」
「そうですか。」

木下祝夫宮司の偉業
木下祝夫氏(1894~1980)は、高松宮殿下から『古事記』の
ドイツ語訳を依頼されて、50年かけて翻訳を完成されています。
今、私もぼちぼちと「古事記の神々」を現代語訳していますが、
外国の人にどうやって古代日本の文化を説明されたのでしょうか。
並大抵の苦労ではなかったと思われます。

その方が自分のお宮で起こった天皇崩御の事件の真相を探求されなかったはずはなく、
神功皇后が神意を尋ねたという「小山田斎宮」は「古賀市の小山田斎宮だ」と
まさしくお墨付きを出されたという事になります。こりゃあ、本物だ。
(この事件については香椎宮に詳しく書いています)

「その香椎宮の宮司さんが九大の眞鍋大覺先生に、
『香椎宮の古宮はスピカを祀る振る宮』だと言った言葉から、私のブログが始まったんですよ。」
「そうですか。面白そうですね。」

「よかったら見て下さい。ところで、とても地元の歴史に詳しいようですが、お仕事かなにか…?」
「ここの史跡案内ボランティアをしています。」
「ああ、どおりで。今日は、思いがけず、プロから話を聞いたんですね。
幸運でした。ありがとうございました。」
                      
                                       (つづく)
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by lunabura | 2010-05-30 09:49 | 皇石神社・おういし・古賀市 | Trackback | Comments(6)

皇石神社(3)おういし・神功皇后の馬の訓練・黄金の海岸線

皇石神社(3)
ここからは新宮町が見える
神功皇后たちは馬の訓練もしていたよ


面白い事にこの皇石神社から見える範囲に
神功皇后が夫の仲哀天皇と馬の軍事訓練をしたという伝承が残っていました。
仲哀天皇が生きているので、まだ新羅へ行く前になります。

その話は新宮町史に載っていました。では、その伝承を一部省略しながら書き写します。
 地名に残る神功皇后の足跡
 大和朝廷が全国統一を進めていた4世紀後半、南九州の熊襲が反抗しました。このため仲哀天皇とその后の神功皇后が九州に来られ、香椎の宮を拠点に平定に乗り出されました。

また神功皇后は仲哀天皇が香椎の宮で急死された後も、ここを基地に三韓(朝鮮半島)に出兵されたといわれています。この時二人はわたしたちの町にもたびたび足を延ばされたそうで、二人にまつわる地名が数多く残っています。

まず、的野(まとの)では、兵士が弓矢の訓練をしたので的野とつけられたといわれています。

古賀市との境にある、長浦から古森にかけての高台に、馬挿場(うまさしば)と呼ばれている所があります。神功皇后の兵士がここで馬術の訓練や弓のけいこをした所と伝えられています。この一帯は戦に備えての一大訓練場だったと想像されます。

夜臼(ゆうす)の起源もこの時のことです。二人がここに陣をかまえた時、ここの人たちは軍用米を差し出すため、夜通し米をつきました。
天皇があちこちから聞こえてくる「コットン、コットン」という音をたまたま耳にされ、そばの者に「あれはなんの音だ。」とたずねられました。
そばの者は「あれは私たちのために徹夜で米をついている音です。」と答えました。
それからこの地区を「夜まで臼をつく」という意味で「ようす」「ゆうす」と呼ぶようになりました。

また鉾田(ほこた)は、二人が野外で陣営を張られた所だそうです。臨時の陣営なので、より厳重な警備が必要だったのでしょう。矛や槍を持った兵士が、二重三重に陣営を取り囲んでいたということから、鉾田とよばれるようになったといわれています。

上府(かみのふ)の神木(じんぎ)という所は熊襲平定の作戦会議、つまり神議(神様の会議)がたびたび開かれた所といわれています。

福岡市との境に近い下府(しものふ)に、飛山(とびやま)という小高い所があります。ある日、天皇が夜臼の東の山に登られ、四方の景色を眺めておられた時のことです。西の方にぼつんと立った小高い山が目にとまりました。
天皇はこの山だけがほかの山とかけ離れているので「飛山だ」と言われ、以来それがこの山の名になったそうです。

子供向けに分かりやすく書かれた本ですが、かなり具体的な伝承が残っているのが分かりました。
古代の人たちの暮らしまで見えるようです。

神宮皇后が朝鮮出兵を決定してから出兵するまで、かなりの月日を要しているのですが、
馬や船などを集めて軍事訓練していたのですね。なるほど、なるほど。

新宮町の研究ではその時代が4世紀後半になっています。
ルナはとりあえず、『古事記』の通りに200年で見て行っていますョ。

夜臼と言えば、夜臼式土器が大変有名です。年代を調べるための基準になっています。
最古の弥生土器と縄文土器が一緒に出たのも特徴だそうです。

この海域は海人族たちの根拠地であり、船を泊めるのに安全な地形で、
古代から栄えていたのが分かりました。
この土地の人々が天皇家に大変、協力的なのも印象的です。
ここはのちに屯倉(みやけ)が出来る、それは大変豊かな土地でした。

出て来た大きな列柱群は「粕屋の屯倉」かもしれない
ここは旧「粕屋郡 ミヤケ」だよ。
屯倉とは朝廷の倉庫の事です。
筑紫の君・磐井(いわい)の乱後、子供の葛子(くずこ)が朝廷に
「粕屋の屯倉」を献上して命乞いをして、許されたので、「粕屋の屯倉」は有名なのです。
どんな魅力がその倉庫にあったのでしょうか。

前回の史跡ボランティアのUさんは
「この地形から見て、諸外国と交流した文物の倉庫でしょう。」
と教えてくれました。

なるほど、直輸入の宝の山が保管されたんですね。
鉄器や青銅器やガラス器、黄金、布、宝玉などでしょうか?
なんともリッチな。ここはふつうの食糧倉庫ではなく、大和朝廷にとって、もっと魅力的なものがあったんですね。(のちには、るなは、武器庫だったと思うようになりました。)

次の写真は屯倉の想像復元模型です。
(古賀市立歴史資料館・田淵遺跡)
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このエリアには他にも、金の頭椎(かぶつち)の太刀が出ています。
ここにどうして豊かな物資が集まったのか。しかも、丘陵ごとに部族が違うらしいです。

なんとなく思いついたのはこんな光景です。
古代には海人族たちのネットワークがあって、船の運航の安全を担っていました。
水と食糧を求めて、船が入って来ると、首長は、どんな国籍の船も受け入れて、
時には船の修理にも応じました。必要なら、陸地に住居を構える事も許しました。
その見返りに、船は載せている宝物を献上して行きました。
あるいは物々交換もしました。
こうして、屯倉には豊かな物資が蓄積されて行きました。


黄金の海岸線
この玄界灘の沿岸では黄金がムラごとに出土している事に気づきました。
名島神社、宮地嶽神社、この鹿部山の麓、そして宗像大社。
黄金の文化があったんだ…。ジパングだァ。



そして、その黄金の最たるものは宮地嶽神社内の巨大古墳内で発見されました。
黄金の太刀。その長さ3メートル以上!
半端な大きさじゃない巨大な太刀!それが金銅製。
いくらなんでも、3メートルの太刀を作るなんて、発想がどうなってるの?
見たいな。見たいでしょ。
では、その被葬者の謎を追って、宮地嶽神社へ再び行きましょう!

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by lunabura | 2010-05-29 14:08 | 皇石神社・おういし・古賀市 | Trackback | Comments(0)

古墳時代の男の美学・鉄のヨロイ・弥生青銅器・粕屋の屯倉

古賀市立歴史資料館
福岡県古賀市

青銅の武器の違いがよく分かったよ
古墳時代の男の美学、鉄の甲冑が展示されていた
粕屋の屯倉が発見されていた!

前回の綱分八幡宮の御神体の銅戈(どうか)を探して
古賀市立歴史資料館に行ってみました。
その朝、西日本新聞の宗像大社の記事に石井忠館長が載っていたので
もしかしたらここにあるかも、と思ったのです。

ちょうど石井忠館長が在館で、直接説明を伺う事が出来ました。
石井館長は海岸に流れ着く漂着物の研究を学問にまで高めた方です。

銅戈を捜しているんですけど、こちらに有りますか?」
「ありますよ。さあ、こっちです。」
すぐに案内していただきました。
「わあ、銅戈も銅矛も銅剣もみんな一緒にある!
これは、みんな細型ですね。実戦用ですか?」

「そうです。これは実戦用ですね。
新聞に載っていた宗像市の田熊遺跡の剣は刃がべらべらでしたよ。
青銅器は折れやすく、吉野ヶ里の人骨には折れて刺さったまま出土しています。」
さすが、本物を見比べた人の言葉は重みがあります。
「写真撮ってもいいですよ。ガラスに近づけて撮りんしゃるといい。」
「ありがとうございます。」
という訳で、ご覧ください。
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三種類の青銅製の武器が並んで展示されています。
一番左が銅矛(ほこ)。
下の方に棒を差し込むための穴が開いているのが見えますか。
その次が今、追跡中の銅戈(か)です。下部に小さな穴が二つ開いています。
また、付け根が斜めになっているのが銅戈の特徴です。

右二つが銅剣です。包丁のように木に差し込んで使うのがよく分かります。
結構短いですね。今、ヤマトタケルを訳していますが、
彼がクマソタケルを殺しに行く時に懐に剣を隠します。
この短さなら、懐に入れても大丈夫のようです。

この四本の武器は馬渡・束ヶ浦(うまわたり・そくがうら)遺跡から出土しました。
2000年~2200年前の甕棺の中に四本とも入っていたそうです。
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これがその甕棺の現物です。
この二つの甕の口を合せて人間の大きさにします。
金海式だそうです。金海(きんかい)とは韓国の南部にある地名です。
金官伽耶(かや)、任那(みまな)という名前の方が有名です。
砂鉄の産地だそうです。

さて銅戈の話に戻りましょう。

「これはどうやって使うのですか?」
「ほら、根元の所に穴があるでしょう。
この二つの穴に紐を通して棒の横にくくりつけるのです。」
「L字型になるんですね。すると、横に払って使うのですか。」
「そうですね。中国の秦の時代には、騎馬戦などで使っています。」
「すると、馬の上の人なんかを斜めに切り下ろせますね。」
「そうです。この絵が棒に取り付けたようすです。」
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石井館長のイラストです。
向かって左の男の人が、一人で四つの武器を全部持っています。
銅戈ってこうして棒につけるんですね。
銅戈は長くてL字型になるので、間合いが取れて、有効な武器のようです。
これを振り回されたら、かなり恐いですね。

古墳時代の鉄のヨロイカブト

そして、次に目に入ったのがこの鉄の甲冑!スゴイ!

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さびやすい鉄なのに、残ってます!
しかも、このウエストのカーブを見て下さい。
軽さと動きやすさを備えながら、美しく見せることを意識した、
かなりの高度な技術とデザインです。
男の美学は古墳時代から、既にこだわりがあったんですねえ。

これは永浦古墳(円墳)からの出土品で、未盗掘だったそうです。
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写真をさらに写したので分かりにくいと思いますが、
発掘時に足元の方を撮ったものです。
ヨロイと甲(かぶと)がそっと置いてあります。
いかにも死者への敬意が伺える置き方です。
1600年前、5世紀のものだそうです。
リーフレットを書き写しますね。(一部ひらがなに書き換えました。)
盗掘をまぬがれた4号墳の石棺の蓋(ふた)が開けられた時、
発掘担当者はハッと息をのんだ。
人骨、その両脇のおびただしい刀剣類、鉄のやじり、鉄のおの、鉄のやりかんな、
足元に三角板鋲留短甲、あかべよろい、肩甲(かたこう)、
中に眉ひさしの付いた冑(かぶと)が副葬されていた。
五世紀前半、多く武器と甲冑に身を固めた被葬者は、
一体どんな地位の人だったのであろうか。

鉄の時代になっていました。
この人は鉄製の武器をたくさん持っていますが、
カンナ、ノミ、キリなどの大工道具も持っていました。
それに金のイアリングも入っていて、指輪にしたらしいです。

舟や家を造る職人集団の長でしょうか。
そして、いざとなれば、戦士として戦う。
文献の無い、謎の5世紀と言いますが、
この人を見ると、常に戦いに備えていた時代だったのがわかります。

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これも石井館長のイラストです。

下は誰の絵かな?どちらも雰囲気が伝わってきます。
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この被葬者の円墳は古代の海の見える丘の上にあります。
「ここ古賀市は、那の国ですか?」
「そうですね。那の国の東端に当たるでしょう。
福津市の西郷川あたりまでが、そうです。」

え?ここにも神功皇后の神社が…

さて、もう一本銅戈がありました。
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「これはちょっと幅が広いですね。」
「これは、鹿部山(ししぶやま)の皇石(おういし)神社
境内の甕棺から出たものです。
二振り出土したのですが、一つは東大が持って行って、行方不明になりました。
もう一つは氏子さんが大事に持っていたので、残ったのです。」
「皇石神社ですか?」
「そう、神功皇后です。」

え?前回の綱分八幡宮も神功皇后と銅戈のセットだったけど、
同じセットが古賀市にもある?
予定外だけど、そりゃあ、ちょっと行ってみなきゃ。

ニュース!粕屋の屯倉が発見されていた?
もう一つの目玉が田淵遺跡です。
大きな柱の穴が並んでいるのが発見されました。
ここは旧粕屋郡、地名もミヤケとか。
日本書紀に出てくる大和朝廷に献上された大倉庫です。
これが、復元想像ミニチュアです。

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2010年11月に「いま蘇る 糟屋屯倉(かすやのみやけ)」
というタイトルで企画展があるそうです。
この屯倉については、宮地嶽神社の謎の所で
詳しく見て行きたいと思います。
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ぎょっ、巨大甕棺から人が…。本物の甕棺です。
大きさがよく分かります…。(^_^;)
イラストと分かっていても、目が合ったらギョッとしました。
右下にあるのが蓋ですョ。

石井館長、説明ありがとうございました。
という訳で次回は皇石神社に行きましょう。

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by lunabura | 2010-05-25 22:00 | <歴史資料館・博物館> | Trackback | Comments(6)

綱分神社 御神体は神功皇后が作らせた青銅器


綱分八幡宮
つなわき
福岡県飯塚市 旧庄内町大字綱分字本村
神山を遥拝する丘の上の神社
御神体は神功皇后が金工に造らせた青銅器だった


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この神社は、前回書いた日若神社から直線距離で2キロほど。
歩いても一時間で往復できるような距離にあります。
地図を開くと、旧庄内町は山脈と川の間にある狭いエリアですが、
目立つのが沢山の神社です。
古代から神々と共にある山里の暮らしの印象を受けました。

日若神社の方の由緒書きに
綱分八幡宮の社伝に、神託によって、
日若神社の霊泉を汲み取り、社殿を清めて後、
神璽(しんじー皇位のしるしーここでは御神体の意味?)を遷した。」
と書いてあったので、どんな神社なのか、見に行きました。

とりあえず近くまで行って見ると、
役所の裏手にこんもりと杜が見えるので、道路からもすぐに分かりました。
道路わきには大きな石灯籠があって、看板も立っていました。

その説明を書き写します。
綱分八幡宮神事神幸行事
綱分八幡宮は応神天皇、仲哀天皇、神功皇后を祭神とする旧県社です。
神亀2年(725)に社殿が造営されたと伝えられています。
神幸行事は暦応(れきおう)年間(1338~1342)以来の神事といわれ、
現在は2年に一度10月13日、14日に近い土・日曜日に
神楽・太鼓打ち・獅子舞、御神幸、流鏑馬(やぶさめ)、子供相撲などが行われます。
昭和35年(1960)に福岡県の無形民俗文化財に指定されました。
飯塚市教育委員会


八幡宮です。やはり御祭神は応神天皇、仲哀天皇、神功皇后でした。


さあ、神社へ。
道路から50mほどで一の鳥居が目に入ります。
いかにも古い神社の趣です。

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鳥居を二つくぐると、
思いがけず広い境内に出ました。

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この左の丘の上に神社があります。白い手すりがみえています。
正面は忠霊塔だそうです。

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石段を上ります。

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ほどなく拝殿に出ました。

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古くから大変栄えていたような、重厚な印象です。
福岡県神社誌から由緒書きを見てみましょう。(訳)

社伝に、神功皇后が粕屋郡宇美の里より穂波郡大分を経て、豊前国に出給う時、
この地を過ぎられた遺跡に、
後世、(神亀年間ともいう)御社を造営して祭祀したという。
一説には昔、豊前宇佐宮の神領地だったので、勧請して祭祀したという説もある。

又社説に曰く、
「神亀2年(奈良時代)の創立にして、その昔、神功皇后が山田の村から大分(だいぶ)の宮に御幸(みゆき)されて、そこから東にある金石山の麓、金丸村(現在綱分)に皇后が御輿を進ませられて、この地で「三面宝珠の神山である。」と言われて、天神地祇をお祀りするために斎場を設け、祈願が成就したお礼のためのお供え物をされた。
その時、金工に命じて、新たに三振りの宝剣を造らせて、神璽とされた。
これがこの地の出来事で、御神体がこれである。

神功皇后が立ち寄っていましたよ。
子供の応神天皇はまだ一歳くらいでしょうか。
夫の仲哀天皇は、下関市で、死を伏せられたままです。
神功皇后たちはそこに向かって移動中です。

神功皇后がここを通った時に、この裏手の山を見て、
「これは神山だ」と言われて、
三韓征伐の成功のお礼参りをされたと言う事です。
その時、新たに三振りの宝剣を金工に造らせて、奉納されました。

さて
金工に命じて」という言葉に引っ掛かりました。
新たに剣を作らせた?
どういう事だろう。
そこで、今回はこの「金工と宝剣」について追跡する事にしました。

庄内町史を見ると、
この地で実際に弥生時代の銅戈(どうか)が三振り出土していました。

綱分八幡宮境内遺跡では中広銅戈三本が発見されていることから、
弥生時代後期前半に中心的位置を占めていた集落と推定される。
中広銅戈(どうか)や中広銅矛(どうほこ)などの青銅器は、
鳥尾峠を東に越えた糸田町の遺跡でも大量に発見されている。
おそらく、当時、福岡平野から嘉穂地方を経て、田川地方へ延びる
青銅器伝播の道筋が本町内にあったものと考えられる。

町史をさらに見ると、
その銅戈がここの御神体だと確認されていました。
それをまとめてみます。
奈良時代にこの境内から、瓶(かめ)が出土して、
中から中広銅戈が三振り発見された。これが御神体として祀られた。
銅戈は大正14年頃に、考古学者の高橋健自によって確認されている。
長さは40センチほど。しかし、今は存在しない。

という事です。
弥生時代に瓶に入れられて埋められた青銅器が
奈良時代に発見されて、御神体として連綿と伝えられていたのですね。
すごい話です。

ところで、弥生時代・後期前半っていつごろ?
弥生時代のとらえ方ですが、
紀元前300年から紀元300年位でいいのかな。
600年間を200年ずつに分けて、前期、中期、後期とすると、
後期は紀元100年から300年。
その前半だから、100年から200年の間。
(で、いいのでしょうか。
辞書では弥生の始まりは紀元前7世紀というのもありましたよ。)

200年と言えば、ちょうど神功皇后の時代です。

ここは弥生集落
山と川に挟まれた、こじんまりとしたこの里は
弥生時代にも住みやすかったようです。
中心的集落だったんですね。
考古学的にもここには青銅器文化があるという裏付けが取れました。

現代でも大分宮からここに至るルートは人口が少ない所です。
神功皇后たちも、ここに来たら「邑(むら)がある!」って、
きっと喜んだ事でしょう。

青銅器伝播の道筋というより生産地じゃないかな

町史によると、福岡県春日市(那の国)から、
神功皇后たちと同じルートを通って青銅器も伝播したという事です。
でもちょっと待って。

社伝では「金工に造らせた」とある!
これって?
神功皇后は金工を連れていたのでしょうか。
それとも、地元に金工がいたのでしょうか。

いずれにしろ、青銅器を作るには、設備が必要です。
この伝承は青銅器をここで製作出来る事を示唆しています。

しかも、この山の反対側の神社付近からも、同じように
45センチの素焼きの甕の中から9本の中広銅戈が出土し、
さらに別の所からは6本出土したとの事。
これは国立博物館などに保管されているそうです。

一つの山の両側で、奉納された銅戈が出土したのです。
その山の名が金石山
匂いますねえ。
調査すれば何らかのものが出土する可能性が感じられます。

この近くには有名な香春岳があります。
ここは新羅の神がを掘りに来ている伝承のある所です。

鋳型は出土していないけれど、製品は多数で発見されています。
鋳型は単に未発見なのでしょう。
青銅の生産地はこの近辺にもある可能性は高いと思いました。

標高39メートルの丘の上の神社

この神社は写真の通り、旧な階段を上りますが、
頂上の境内をぐるりと回ると、意外に狭いです。
樹木がなかったら360度の展望の地です。
調べると、標高39メートルでした。

この雰囲気―そう、
香椎宮古宮跡とか、小山田斎宮とか、名島神社とか宮地嶽神社など
神功皇后の伝承地の特有の雰囲気を持つ丘です。
人に沿った大きさで、ちょっと上ると見晴らしのいい丘の上にあり、
そこに立つと神の山が見える。

これは、どうやら神功皇后というより、
弥生時代の祭祀のパターンの一つではないかと思い始めました。
彼女はそんな聖地で、地元の人に請われて神事をしているように見えます。
ここの境内でも、「遥拝所」という立札が目にとまりました。

c0222861_1316812.jpg

この木の根元に書いてあります。
ここからは全く視界が利かないのですが、
地図を見ると、伝承の金石山を遥拝したと思われます。

神功皇后伝承の神社を歩く事は
弥生時代の聖地を歩くことになるようです。

地図 綱分八幡宮 日若神社


それにしても、銅戈と銅剣ってどう違うんだろ。
分かんないよ。
みなさん、気になりません?
写真、写真。
写真が欲しい。

地元の飯塚市歴史資料館では、沢山展示してあったはずなのですが、
撮影禁止で、ルナの記憶もあいまいになってしまいました。
(写真はないけどお勧めスポットです)
という事で、古賀市立歴史資料館の方に行ってみました。
行ってびっくり、銅戈はもちろん、すごいものがありました。

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by lunabura | 2010-05-21 13:51 | 綱分神社・つなわき・飯塚市 | Trackback | Comments(0)

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ひもろぎ逍遥

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このページの構成 
◆掲載している神社と伝承のタイトル
◆お勧めの テーマ別 お散歩コース
●楽しみ 景色や四季の花のスポットの紹介
初めての方は、「以前の記事」の最初の香椎宮から順番に読んで行くと、不思議な古代の旅が楽しめます。

◆掲載している神社と伝承◆

香椎宮     (1)古宮を訪ねて
           (2)古宮はスピカを祀る日振宮(ひふりのみや)だった
           (3)天皇の崩御をどうやって隠す?

二見岩     竜宮門と名付けちゃいました

小山田斎宮 オキナガタラシ姫の神懸かりの地を捜して

山田の斎宮 (1)神功皇后の神懸かりの地を捜して 二つの斎宮候補地
          (2)二つの斎宮の謎が解けた

伊野天照皇大神宮 (1)アマテラスが愛した聖地
              (2)アマテラスの二つの伝承 貝原益軒が教えてくれたお話
              (3)アマテラスの二つ目の伝承 海妻甘蔵のお話から

志式神社  (1)海と松林の宮
          (2)万年願と早魚神事と神功皇后
          (3)夜神楽を見て来ました
            早魚舞(はややまい)・乙太夫の天神尋ね 
          (4)阿曇族と奈多の浜
            磯良神・七不思議・お潮井とり
          (5)哀しき神々たち
            三良天神と志志岐三神

八所宮    (1)平和示現の宮
            日本神話の始まりの四組の夫婦の神を祀る宮
          (2)夜祭だァ 
            日向ひょっと踊りとお神輿

宮地嶽神社(1)民家村自然公苑の夏(7月)  
         (2)開運桜と神馬

駕輿八幡宮 神功皇后が休憩したお宮
          冬の駕輿丁公園

宝満宮竈門神社 縁結びといったらここ
             天皇家の最初の母となった玉依姫を祀る

高良大社(高良玉垂宮)(1)筑紫の国魂のあわす宮
                (2)玉垂命とは干珠満珠を授けた海の神
                  高良山にはカペラの伝承があった
                (3)70年に一度の大津波を伝える豊姫
                  シリウス(夜渡星)が津波を教えてくれた
                (4)高木の神と玉垂命が交代した謎にチャレンジ
                  アンドロメダ星雲と暦の変化
                (5)観音寺縁起(修験道の開祖の物語)
                  高良山を開山した隆慶上人のお話

志賀海神社   (1)龍の都と呼ばれた海の宮 
              御手洗は本当にあるのだろうか。
            (2)沖津宮と小戸 
              海の神々が生まれた美しき聖地
              イザナギの命が禊をした所だったよ
            (3)仲津宮
              今も昔も航海の安全を祈る宮
              浜辺の異世界へ、ちょっぴりトリップ気分
            (4)表津宮跡(うわつぐうあと)
              祈りの原風景に出会った

高天原  (1)志賀島に高天原があった
          なぜ海の中に高天原がある?2000年前の博多の姿
        (2)真鍋大覚に学ぶ地震予知(1)
          地震とナマズの伝承は、浜が砂鉄で真っ黒になる事だったよ。

日天宮(1)太陽と月と星を祀る宮
        UFO騒動まであったって?それなら行くしかないでしょ。
        星岩宮と月読宮
      (2)謎の巨石文明
        日天宮、月天宮の御神体は巨岩でした。
        出たのはUFOではなく、恐怖の…。
      (3)日天宮はランドマークだった?

荒穂神社 荒穂神社なのに、荒穂の神が祀っていない不思議

大分八幡宮 神功皇后はここで連合軍を解散した 
          ここは筥崎宮の元宮

多賀神社(1)イザナギとイザナミの夫婦神を祀る宮 
          シンボルはセキレイと桃の子だよ
        (2)ここは北斗七星を祀る宮だったよ
          多賀も妙見もイザナギ夫婦もみーんな同じ星座の事だった
        (3)伝承って面白い!
           ここはイザナギの命が光り輝いて出現した岬だった
        (4)古縁起が伝える驚きの内容
           この宮は高千穂の大宮の鬼門にあたる
        (5)ここでは歌垣があっていた? 
           恋を成就させる神様の前で踊ろうよ

馬見神社(1)山里深き清浄の地
          次々と開かれて行く参道は夢の如し
        (2)上宮の白馬大明神とはニニギノ命だという
          そうすると、ここは天孫降臨の山になってしまうが…
        (3)系図から見えて来たこと ホを受け継ぐ一族がいた 
           このエリアには父と子が配置されている
        (4)白馬大明神とは彗星のことかなあ
           日本に隕石が落下した記事を発見

名島神社(1)かつて、ここは島だった
          豊臣秀吉が神社を移動させたという
       (2)ここには「那の国」の宮殿があったという
          かつては海神・豊玉彦が祀られていた
       (3)三笠宮はここで出土した金箔の瓦を見て、
          近東の研究に向かわれた
       (4)那の国王が志賀島に渡る歌が残っていた
          それが君が代のルーツだった
       (5)荒れ果てていた昭和初期ごろ
          韓国から巫堂(ムーダン)が祈りに来ている

平原遺跡(1)伊都国の日の巫女が眠る墓  
          原田大六氏が救った遺跡だよ
       (2)出土した鏡は広げたパソコンより大きい!
          水色と青とピンクの宝玉を見に付けた巫女

日若神社(1)山里に抱かれる古き神社
          神功皇后が帰り道に禊をした所だった
       (2)神社史を訳すと、古事記の空白を埋める記事が現れた
          霊泉をめぐる神と天皇と皇后の話
       (3)豪華な顔触れがここに来た訳
          ここは古代の交通の要衝だった
       (4)三つの神社の伝承がつながった
          神武天皇を馬見神社に連れて行ったのは物部氏だった
       (5)イスケヨリ姫との結婚の背景
          姫の名前には古代鉄の暗号が。

綱分八幡宮 福岡県飯塚市 旧庄内町大字綱分字本村
            神山を遥拝する丘の上の神社
            御神体は神功皇后が金工に造らせた青銅器だった

古賀市立歴史資料館
            青銅の武器の違いがよく分かったよ
            古墳時代の男の美学、鉄の甲冑が展示されていた
            粕屋の屯倉が発見されていた!

皇石神社  (1)  福岡県古賀市美明
            神功皇后がウケヒで大石を持ち上げた?
            御神体はドルメンの岩
          (2)鹿部山は三上山だった
             神功皇后がここから船の軍事訓練を見たという
          (3)ここからは新宮町が見える
            神功皇后たちは馬の訓練もしていたよ

宮地嶽神社(3) 福岡県福津市宮地
            6月の菖蒲祭りに行きました。
            今年の祭王に選ばれる女性歌手は誰かな
         (4)御祭神の謎にチャレンジしました
           時代による御祭神の変遷
         (5)奥の宮不動神社(1)福岡県福津市宮地嶽神社内
                    地下の正倉院と呼ばれる巨大古墳
                    金メッキの頭椎の太刀は3m-どうやって持つのよ?
         (6)奥の宮不動神社(2)
                    ここには独立したクニがあったよ
                    大王を祀っていた新たな氏族を発見
         (7)奥の宮不動神社(3)
                    奉納された筑紫の舞と韓国のムーダンの舞

八剣神社(1)福岡県鞍手郡鞍手町中山
          豊かな里山の小高い神名備山に
          ヤマトタケルをもてなした一族の神社があった
        (2)三柱の神々に受け継がれたのは草薙の剣だった 
        (3)上宮(剣岳城)
          ヤマトタケルの行宮跡は眺めが抜群だよ

古物神社(1)福岡県鞍手郡古月村大字古門字西山(旧名)
                 原初の神気を今なお残す宮
                 宗像三女神が生れた十握剣と父のスサノオが始まりだった
              (2)草薙の剣がこの近くに降って来たという。
                 天智天皇は前年まで筑紫にいて何をしていた?
              (3)「ふる」は「隕石」の古語。
                ここは石上神宮の元宮かもしれない


 
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◆テーマ別お散歩コース◆

イザナギの伝承(妻の死後)を辿る  志賀海神社⇒多賀神社⇒日若神社
アマテラスの伝承            伊野天照皇大神宮、小山田斎宮
海の神の伝承              志式神社⇒宝満神社⇒高良大社⇒名島神社
玉依姫の伝承              宝満神社⇒名島神社
ニニギノ命の伝承            荒穂神社⇒馬見神社
仲哀天皇の崩御後の神功皇后   香椎宮⇒小山田斎宮⇒山田斎宮
神功皇后の三韓攻撃の準備     志式神社⇒志賀海神社
神功皇后の出産への道すじ     駕輿八幡宮⇒宝満宮
神功皇后の帰り道を辿る       大分宮⇒日若神社
神武天皇の東征前の足跡を辿る  馬見神社⇒日若神社⇒八所宮
古代の暦                 香椎宮、平原遺跡、高良大社
古代の馬                 日若神社(4)馬見神社(4)
古代の鉄                 日若神社(5)
弥生の青銅器              綱分八幡宮(御神体)、古賀歴史資料館、皇石神社    

古代の剣                宮地嶽不動神社、八剣神社、古物神社 
巨石文化                日天宮
物部氏                 馬見神社⇒日若神社
北斗七星                多賀神社、日若神社
彗星                   馬見神社、古物神社
スピカ                  香椎宮
オリオン座               志賀海神社、日若神社(5)
アンドロメダ               高良大社
北極星 ツバーンからポラリスへ 高良大社
シリウス                高良大社
カペラ                 高良大社
歌垣                  多賀神社
龍宮城                名島神社
地震とナマズ            高天原
小戸のアワキが原         志賀海神社(2)
君が代のルーツ           名島神社⇒志賀海神社
ドルメン岩              皇石神社(御神体)
古墳                  宮地嶽不動神社
筑紫の舞とムーダンの舞     名島神社、宮地嶽神社
粕屋の屯倉              古賀歴史資料館、皇石神社、宮地嶽不動神社

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◆神社参拝の楽しみ◆
パワースポット 神気に触れる 伊野皇大神宮 
四季の花を楽しむ         宮地嶽神社、駕輿丁公園
薔薇園と犬の散歩を楽しむ   駕輿丁公園
海辺のドライブ           志賀海神社、志式神社、高天原
360度の展望           名島神社、梶谷城あと、八剣神社上宮
神楽を観る             志式神社
縁結び               宝満神社
夜祭りを見た           八所宮、志式神社
九州のお伊勢さん        伊野天照皇大神宮
お城あと              梶谷城跡、名島神社、剣岳城

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  2010年7月2日更新

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by lunabura | 2010-05-18 16:02 | ブログ マップ | Trackback | Comments(0)

日若神社 (1) 神功皇后が帰り道に禊をした所だった

日若神社(1) (日少神社)
ひわかじんじゃ
福岡県飯塚市多田(旧庄内町多田)
山里に抱かれる古き神社   
神功皇后が帰り道に禊をした所だった


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 多賀神社の古名と同じ名前の神社を発見。

 馬見神社を投稿した後、地方の古い神社誌を眺めていたら、
日少(ひわか)神社という名前が出て来ました。
あれ?この字は見た事がある。
そう、直方(のおがた)市の多賀神社(古くは日若神社)と同じ名前です。
しかも、祭神が同じイザナギの命。

縁起を読み込んで行くと、神武天皇や神功皇后の名前が出て来ました。
そして、馬見の字が…。
「こりゃあ、馬見神社と関係あるかも。」という事で出かけて行きました。

遠賀川の上流に向かった。

今日のルートは遠賀川の河口から川に沿ってさかのぼるルート。
左側の土手を通って行きました。
大きな川で、河川敷は緑が多くて、多くの市民がイベントをしています。
ドッグ・サーキットやら、何十万本ものチューリップ畑やら。
たくさんの鯉のぼりまである!
市民の人たちは色んな川遊びを楽しんでいました。
道の左側には古い神社が次々と現れて来ます。

この日は雨が上がったばかりで、遠くがかすんでいたのですが、
対岸の向こうには、美しい山容が次々に現れては霧の中に消えて行き来ます。
なるほど、遠い昔、この堤防が無かったら、この辺りは全部海の中。

海峡を遡る時にそれらの山は目当ての山になったはずです。
すると、その山を、神あるいは神が降臨する所と思うのも当然です。
この日は山々が霧の中から立ち現れるので、尚一層幽玄な表情を見せてくれました。

この山沿いに縄文や弥生の人々が上陸して暮らし始める気持ちがよく分かります。
資料を見ると、古代の遺跡がずらりと並んでいました。

英彦山方面の支流に向かう。
川が二手に分かれました。
左を採って、さらに遡ります。県道415号線の仁保で左折。
すると、突然きれいな台形をした山が視界に広がりました。
道は山に向かって上って行きます。
そして、こんもりとした森を探していくと、すぐに日若神社が分かりました。
神社のそばには池があり、ヤマザクラがちらほらと咲き始めていました。

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神社は道路と同じ高さにあり、小高い山に寄り添うように建っていました。
鳥居に導かれて、正面の拝殿に向かいます。
境内には巨木がいくつも立っていて、古さを感じさせられます。
上の写真の正面、狛犬の奥が本殿です。
左右にある拝殿やお堂なども、とても古い様式です。

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赤い本殿を右から見た所です。

神社の入口にあった由緒書きを、一部分かりやすく書き換えて紹介します。
日若神社
祭神 伊邪那伎命 須佐之雄命 闇雄神
例祭 10月13日
創立年月日 西暦1287年
由緒
神功皇后が御征討の帰途に、ここを通られて、霊泉の立派なることに感激されて、皇子と共に息災延命を祈願し、禊(みそぎ)された霊場である。

又、付近の神池・神森と共に、この所は誠に「ただならぬところ」であると申されて、この地を多田山と称し、現在の多田の名称の起源と言われている。

それより、筑前・豊前両国民の崇敬の中心となり、藩政時代は、藩主においても特別の取り扱いで、見世物興行を免許して、その利益で修繕維持の資金に当てられた。

また、祇園神社をこの社のかたわらに勧請して祀っている起源は、明暦2年(1659年)に多田村のあたりに疫病が流行して、人民が苦しんだ。その年、10月に宮司の有光時安が17日間身を清めて、神道で、妙見大明神にその事を伺ったところ、「祇園三社を勧請して祈祷すべし。」との霊告を受けて、那珂郡博多の津の祇園の神を祀ると、疫病はたちどころに退いて、村々は喜んだ。

この由緒は天明8年(1788年) 加藤一純の古文書による。

この由緒から分かる事。

神功皇后大分宮で連合軍を解散したのを覚えていますか?
彼女はその後、ここを通って帰って行ったのがこれで分かりました。
そして、この霊泉に感激して、禊をしています。
この時にはすでに生れた皇子と一緒でした。
そして、「ただならぬ所」と言ったのが、多田という地名の由来となりました。

御祭神の三神のうち、須佐之雄命の由来については、
江戸時代に疫病をなくすために、ここの神に祈った所、神のお告げがあって、
その通りにすると、疫病はすぐにおさまったという事です。

ここの神、妙見大明神とは、北斗七星であり、イザナギの命となります。
(直方の日若神社(多賀神社)と同じ)

この御祭神は古くはイザナギの命だけだった
福岡県神社誌によると、明治時代に、闇雄神と須佐之雄命は合祀したと書いてあります。
こうして合祀されたものを引き算して行くと、
この「日若神社」は本来、イザナギの命だけが御祭神だったという事になります。
そこで、ここではイザナギの命に絞って話を進めます。

そして、古い伝承を読み込んで行くうちに、ここは確かに「ただならぬ所だ」と言うのが見えて来ました。
(つづく)
地図   日若神社 日王山 峠







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by lunabura | 2010-05-08 21:54 | 日若神社・ひわか・飯塚市 | Trackback | Comments(0)

日若神社(2)古事記の空白を埋める記事が現れた

日若神社(2) (日少神社)

神社史を訳すと、古事記の空白を埋める記事が現れた
霊泉をめぐる神と天皇と皇后の話


神社には霊泉(汐井川)が残っていたよ
本殿の裏手に廻ると小川があって、しめ縄が張ってありました。
上の写真の右端にちょっと階段状のものが見えています。
これが禊の場で、霊泉の跡だと思われます。
護岸がされているので、今でもお祭が盛んで、多くの人がここで禊をしているのが分かります。

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古文書によるとさらに上流に滝があるとか。今日の話はこの小川が舞台です。

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飯塚市のHPを見ると、次のように紹介されていました。
妙見さん」と親しまれている多田の日若神社では、毎年7月28日にお祭りが行われ「お汐井取り」で有名です。「お汐井取り」とは、汐井川の荒砂を「お汐井つと」と呼ばれる乾燥させたコモ草を編んで鍵方に縛り、川砂を入れて持ち帰り玄関に提げると無病息災、田圃に撒くと病害虫を追い払うと云われています。
開催時期    7月下旬
住所       飯塚市多田26-1 日若神社境内

妙見さんとは北極星の事ですが、ここではやはり北斗七星の事でしょう。
多賀神社で詳しく書いています)
お祭の日には、(お汐井)を持ち帰るんですね。
が、調べて行くと、もともと、この川のそのものが霊泉としてその霊験を讃えられていたのが、分かってきました。

「福岡県神社誌」を読みましょう。(訳しています)
当社は神祖の遺蹟で、神社の近くの汐井川は神功皇后が禊祓いをした霊場である。
同じ庄内町の綱分八幡宮の社殿によると、「神託によって、この霊泉を汲んで社殿を清めてから神璽を遷した。」と。それ以来この例に倣っている。
こうして、幽契神異の霊泉だという事で、災いを祓い、諸病を除くということで、博多や豊前から人々がお参りする数は日に数百人に上った。

神祖というのはイザナギの命の事でしょう。ここの御祭神です。
ここに書いてあるのは、
1.神功皇后が写真の汐井川で禊をしたという事。
2.近くの綱分(つなわき)神社で、「日若神社の霊泉を汲んで、清めよ。」
と神託が降りたので、その水で社殿を清めるようになった。
3.この霊水の霊験が噂を呼び、大ブームになったという事です。

誰も訳さなかった神社史
この神社誌にはさらに古い由来が書かれていました。
漢文で書かれていて、句読点が全くありません。これを読むのは一苦労です。
そこには、この神社の忘れ去られた歴史が隠れていました。チャレンジして、訳します。

筑前の国の嘉麻郡、多田の神泉は神祖の遺跡で、いにしえからの霊場である。旧記にこう書いてある。

「初めてイザナギの命がここに現れたのは、実に人間の天皇第一代、神武天皇の時である。
天皇は中州に向かおうとして日向の国から豊の国に行幸された。珍彦(うづひこ)を得て、案内人とした。

天皇は宇佐島から陸路で田河の吾勝野にお出ましになり、兄弟山の中峯で天祖を祀った。時に、馬見の物部の末裔の駒主の命に出会った。天皇の行幸を聞いて、遠くよりお迎えに出掛けて来たのである。

天皇は大変喜んで、駒主の命が献上した駿馬にまたがって、筑紫に行幸された。その家に行って皇祖を馬見山の上に祀られた。

その北麓を廻ってまさに日尾山にやって来た時に、この道は谷が広く深遠で、進路は険しく、ひどく悩まされていた時に、神の出現があった。
「天皇よ。憂うるなかれ。ここに霊泉がある。太古、イザナギの命が国土万物を生成して、天に昇り帰ろうとする時に、ここに来て、この水を見て言われた。
『思いしや わが産めりし内に この母の ごとき味の 清水有りなむ
(思っただろうか。私が産んだ万物の中に、この母のような味のする清水が有ろうとは。)
水の力は、天の真名井より、優っているなあ。』
とこのように言われてその水を久比著(人名?くいざ?)に持たせて天に参り登られた。」

それを聞いて、神武天皇もまた言われた。
「この水で天祖の御前を祀り、その後、生えている笹を取って束にして水に浸して打ち振りながら進むと
たちまちに、雲や霧が晴れて道はまた歩きやすくなるだろう。」と。

言い終えて、(実行すると、災難が除かれたので)、感じ入ったふうで、神武天皇は思った。
「神祖の御心か。神の教えのままに払って行った所、雲や霧がたちまち晴れて道が自然と通じた。
この持っている水で神を祀ったので、災難が払われたんだ。」と。

又、こんな言い伝えもある。

神功皇后もまた三韓征討の後、皇子を連れて戻る時に、大分(だいぶ)行宮(あんぐう)から、御輿(みこし)でこの地に来られた時、皇子が元気で長生きできるように祈って言われた。
「いやしくもこの神水で諸災を祓いたいと思う者は、ひたすらその身を清めるのがよい。まず、心の垢を除いて、この水のように清らかになって、自ら振り返って邪念がないように、糺(ただ)すべきである。」

このことから、当時の人がこの霊泉を「糺(ただす)の神池」また、その森を「糺の森」と名付けた。
今、多田山、多田川というのは、なまったものである。

これより霊泉の三名はますます遠近にとどろいて筑豊の人々は日々参集してこの霊験に預かろうとした。

延元  上野孫次郎入道覚念 啓白

この記事の霊水について、まとめてみましょう。

神武天皇を助けた霊泉

神武天皇がここに来て山越えしようとしたのですが、この日尾山の霧が深くて困っていた時、神が出現しました。
そして、神は言いました。
「ここの霊泉はイザナギの命が、自分が産み出したものの中でも、一番おいしくてパワーがあると、
自ら感激されて汲んで天に持ち帰った水である。」と。

その神の教えを聞いた神武天皇は
「この水でイザナギの命をお祀りして、笹を水に浸して、振りながら進めば霧は晴れるだろう。」と悟って、
その通りにすると、霧が晴れて歩けるようになりました。
そして、「この水で神を祀ると災難が払われる。」と言われました。

イザナギの命はイザナギの命と日本の国や神や大自然を産んだ神です。
その本人がここの水が一番いい水だと言ったのですね。
天の真名井よりチカラが優っているというのですから、すごい水と言う訳です。

神功皇后もここで禊をした。

それから数百年経って、神功皇后もここを通りました。
その水の由来を知って(いた?)皇后はみずから禊をして、皇子の将来を祈られました。
その時に「祈る為には心身を正さなくてはならない」と言われたので、
人々は「糺(ただす)の神池」「糺の森」と呼んで、多田の地名の由来となったという訳です。

江戸時代にも霊験があった。

続きを読むと、この文章を書いた覚念さん自身が
「ここに長く住んでいても、別に霊験などあった事がない、と思っていたら、
不測の事があって、真剣に祈ったらすぐに霊験があったので、神恩に大変感謝した。」
と書いています。         
 (つづく)

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境内の摂社です。





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by lunabura | 2010-05-07 21:19 | 日若神社・ひわか・飯塚市 | Trackback | Comments(6)

日若神社(3)ここは古代の交通の要衝だった。

日若神社(3) (日少神社)
ひわかじんじゃ

豪華な顔ぶれがここに来た理由。
ここは古代の交通の要衝だった。


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前回までに分かった事をまとめました。

●イザナギの命が「ここの水は自分が産んだ水の中で最高だ」と喜んだ。
●神武天皇がここを通る時、霧で困っていたら、神が現れて、
「イザナギの命が最高の水だと言われた」と教えてくれた。
天皇はそこでイザナギの命を祀って、笹に水を付けて振りながら進むと、
霧が晴れて進む事が出来た。
●神功皇后もここを通る時に、この霊泉で禊をして、皇子の無事を祈った。
●江戸時代に疫病がはやって、この神に祈ったら、「博多から祇園を勧請せよ」と
神託が降りたので、その通りにしたら疫病がすぐにやんだ。
●近くの綱分神社に「ここの水を汲んで来て、その水で清めよ」という神示があった。
●仏僧の覚念さんが困った時に、神道で祈ったら霊験があった。
●これらの事から、時の権力者も、民衆もこぞって参拝した。

江戸時代には参拝者が多かったのでしょうが、
現在は人家もなく、道もこの先で途絶えています。
しかし、2000年以上も前の伝承と聖地と霊水は守られました。

さて、イザナギの命も、神武天皇も、神功皇后もやって来たという、この場所。
なんでだろうという疑問が湧きます。
「庄内町誌」で歴史を調べると分かりましたよ。

ここは古代の交通の要衝だった。
庄内町で人の生活が本格的に始まるのは弥生時代からであり、当時から本町内は豊前地方と筑前地方を結ぶ重要な交通の要衝であったことがうかがわれる。

ここは古代の人の幹線道路だったのです。
しかし、大きな鳥尾山塊の山越えを避けられませんでした。
現代でも、この山越えルートは大切な道です。

古代の旅ってどんな風?

古代の人の交通手段って何だったろうとずっと考えて来ました。
これまで分かった事をまとめると、

陸路は、徒歩か古代馬に乗って移動した。
貴人はお神輿タイプの輿に乗って移動した。
川は小船で行き来した。
海は新羅までいけるような大きな船があった。
となりました。

ところが、本州と九州を行き来する旅となると、いくつかの難所があります。

水路の場合、船で玄界灘を通る時には、関門海峡鐘崎の危険水域を通らねばなりません。
ここでは実際に船がたくさん沈んでいて、その漂着物を拾ったら、誰が貰うかというルールまで、出来ていました。
それほど沈没は多かったのです。それに、船そのものが手に入りません。

陸路を考えた時、
海岸沿いのルートは湿地帯、沼地で歩けなかったでしょう。
特にここ古遠賀湾一帯は葦原の広がるクニです。
リアス式のような岬を回りながらのルートになります。
途中の川も進路を遮ります。

こう考えると、一番確実なのは山を越えて行くルートでした。
自分が古代に「海か山か選べ」と言われたら、山の方がいくらか安全だと思いました。

地図 しょうけ越え 鳥尾山越え 仲哀トンネル 周防灘


このアイコンを左から右に辿ると周防灘に抜けます。これが神功皇后の移動ルートの一部です。
(まだ、この先追加する予定があります。)

神功皇后の祈り

神功皇后もこの峠を越えて、周防灘に抜けて行きます。
皇子もずいぶん大きくなったことでしょう。
(皇子が初めて立ったという神社もあるんですよ。)

彼女の当面の目的地は山口の豊浦宮です。
そこに、夫の仲哀天皇の亡骸が安置されています。
葬儀もまだ済ませていません。

天皇の死が公になったとたんに、皇子は世継ぎ争いに巻き込まれます。
先の后には二人の成人した皇子がいるのですから。
自分の皇子を無事に天皇にするためにはどうしたらいいか、
ありとあらゆるケースを考えているはずです。

彼女が禊をしてまで祈ったのには、そんな背景がありました。

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上の写真は神社のすぐ横の池です。その向こうに日王山と鳥尾山が見えます。
古代も現代も、豊前に行くにはこの峠を越えなくてはなりません。

次回は神武天皇のケースです。






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by lunabura | 2010-05-06 14:20 | 日若神社・ひわか・飯塚市 | Trackback | Comments(0)

日若神社(4)神武天皇を馬見神社へ連れて行ったのは物部氏だった

日若神社(4)

三つの神社の伝承がつながった
神武天皇を馬見神社へ連れて行ったのは物部氏だった


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神社の境内から入口を写しました。
左の方は道路と池です。

今日は神武天皇のケースを見て行きましょう。

さて、日若神社(2)の神社史の訳によって、神武天皇と馬見の物部末裔の駒主の命の出会いが
書いてある事が分かりました。その部分をもう一度掲載します。
初めてイザナギの命がここに現れたのは、実に人皇第一代、神武天皇の時である。天皇は中州に向かおうとして日向の国から豊の国に行幸された。珍彦(うづひこ)を得て、案内人とした。

天皇は宇佐島から陸路で田河の吾勝野にお出ましになり、兄弟山の中峯で天祖を祀った。時に、馬見の物部の末裔の駒主の命に出会った。天皇の行幸を聞いて、遠くよりお迎えに出掛けて来たのである。

天皇は大変喜んで、駒主の命が献上した駿馬にまたがって、筑紫に行幸された。その家に行って皇祖を馬見山の上に祀られた。

その北麓を廻ってまさに日尾山にやって来た時に、この道は谷が広く深遠で、進路は険しく、ひどく悩まされていた時に、神の出現があった。

日尾山は現在の日王山だったよ。

この神社史を訳すとき、まずは古代の日尾山がどこかを捜さねばなりませんでした。
現代の地図を見ると、この神社の裏には日王山鳥尾山があります。
「日尾山」が「日王山で」はないかと予測して、地元の歴史資料館まで出かけましたが、
あいにく閉鎖されたばかりでした。図書館でも分かりませんでした。

それから、なにげなく『福岡県神社誌』を広げると、
すぐ隣の町の嘉穂(かほ)郡・頴田(かいた)村鹿毛馬字宮の
厳島神社の記事が目に入りました。
おっ。ここにヒントがある!

その由緒書きを訳します。祭神は宗像三女神です。
豊前の国、宇佐島より筑前の国・宗像郡・沖津島に鎮座の時、当村日尾山を越えられたという故事によって、景行天皇の御代に三女神を祀った。

宗像三女神もこの日尾山を越えて行ったという話です。

地図を見ると、この神社が日王山のすぐ近くにありました。
それで、日王山を昔は日尾山と書いていた事が分かりました。

そして、さらにそこの神社史を読むと、やったね!
神武天皇の記事が載っていましたよ。
神武天皇が幼名の狭野(さの)命と言われる時、筑紫を廻ってみるという事で豊前の国からこの村にやって来られた。
馬牧が葦毛の馬を献上し、その馬で嘉穂郡の馬見村へ出掛けられたのを老翁が見送り申し上げた事からこの村を駈馬(かけうま)と言う。鹿毛馬という村の名前の起源がこれである。

「葦毛の馬」とは白色に黒の斑が入った毛色の馬だそうです。
「老翁」とは馬見の物部の末裔の駒主の命の事かも知れません。
そして、はっきりと馬見村へ出かけたとあります。
例の馬見神社の所です。
これで、三つの神社の伝承が補い合えるのが分かりました。

その馬見神社の由緒をもう一度書いてみます。
福岡県神社誌によれば、神武天皇ご東征の時、ここに参拝せられ、その御神馬が足が白い馬で(足白)又、馬見の地名が起こったとも言われる。

『筑前名所図会』では
白馬大明神とも申して、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)なり。この神、葦毛の馬を忌むという。
この里に飼うを忌むのみならず、他の所から来ても、村の方で留めて置くという。

どうやら、神武天皇の馬がここで逃げたのは、馬が葦毛だったせいで、
きっとニニギノ命が嫌ったからだろうと人々は畏れた訳です。
理由はニニギノ命は白馬がシンボルだったからです。
ストーリーがだんだん見えて来ました。

この三つの神社の伝承をまとめてみましょう。
神武天皇は周防灘に面した豊前の国に行幸しました。
ここで、珍彦という道案内人を得ます。(この人は、後に活躍します。)
次に田川のアガノ(上野?)に行きました。それから山越えをして遠賀川流域にやって来ます。
そこは筑紫です。

その時、馬見の物部氏の末裔の駒主の命が葦毛の馬を連れて来て神武天皇を迎えに来ました。
大喜びした神武天皇は早速馬に乗りました。そして、駒主の命が天祖を祀ってくれている馬見神社まで出かけました。(そこで、馬が逃げてしまって、葦毛の馬がタブーになった。)

それから、廻ってこの日若神社の所までやって来ました。
そして、霧で困っていたのを、神のお告げで、イザナギの命を祀って霊水を振ると、霧が晴れました。


馬見神社(5)
で、そこに誰がイザナギやニニギノ命を祀ったのか、
ヒントを見つけたように書きましたが、
実はそれが、この日若神社の由緒書きだったのです。
答えは物部氏です。
深い縁があって、神武天皇が東征の準備を始めたのを聞いて
はるばると迎えに来たというのが見えて来ました。

物部氏を辞書で調べました。
古代の大豪族。軍事、警察、裁判、刑罰にたずさわった。ニギハヤヒの命の子孫と称し、天皇の親衛軍を率いた。6世紀半ば、仏教受容に反対。

なるほど、物部氏は、大和政権で重要な位置を占めているのですが、そのルーツがここにあったのですね。
東征を成功させた功績があったから大豪族になった訳です。
のちに仏教が入って来た時は、物部氏はそれまで古来のやり方で天孫を祭祀していたので、
「とんでもない」と反対した訳です。

日子は暦を持つ人ですが、実際に太陽や星を観測して、暦を作っていたのが物部氏です。
(これについては別項で。)

この流域は物部氏の本拠地だと聞きます。
ニギハヤヒの降臨したという山が下流域の鞍手郡にあります。
いずれそちらも逍遥しましょう。

以上、これらの伝承から、物部氏は馬を飼育していた事が分かりました。
そして、天孫を祀る家系で、神武の東征に参加していたと。

さて、古代の馬の写真が欲しいなと思っていたら、
ちょうど西日本新聞に在来種の木曽馬の記事が掲載されました。

日本の馬は小型だったよ。

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木曽馬(長野県)はドサンコ(北海道)、御崎馬(宮崎)と並ぶ三大在来種。
穏やかな性格は人に懐きやすく、険しい山間部で農耕馬として人々の生活に欠かせない存在だったという。
大正時代以降に雑種化が進み、絶滅の危機にひんした。(略)現在全国で約150頭が飼育されている。

サラブレットに比べると、やはり、ずいぶん背が低いですね。
この「さっちゃん」は北九州市小倉南区の市立総合農事センターで飼育されているそうです。

駒主の命が連れて来た馬もこのくらいのサイズだったんでしょうか。


地図 日若神社 鹿毛馬 馬見神社 田川 犀川

次回は神武天皇の結婚についてです。
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by lunabura | 2010-05-05 14:26 | 日若神社・ひわか・飯塚市 | Trackback | Comments(6)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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