ひもろぎ逍遥

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八剣神社(1)ヤマトタケルをもてなした一族の神社があった


八剣神社(1)
やつるぎじんじゃ
福岡県鞍手郡鞍手町中山
豊かな里山の神名備山に
ヤマトタケルをもてなした一族の神社があった


宗像の国道三号線沿いの富地原信号から、鞍手町への案内板に従って行きます。
峠道に入るとすでに里山の風情。
名前もゆかしい猿田峠を出ると、そこは別世界。
山々に囲まれた、古代の香がそのまま残るような鞍手町に入ります。

町の中を走っていると、とにかく目に入るのが、剣岳。
里山の人を見守るような独立した低山は125メートル。
如何にも古代からの信仰の対象となるような神名備山です。
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ここの中腹に八剣神社があります。

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駐車場に車を止めると、すぐそばに鳥居があります。
巨木が生い茂っていて、いかにも古代からの聖地の趣きです。
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参道の両脇はお祭の時に提灯を灯すのでしょうか。
ずらりと瓦屋根の付いた、棚が続きます。
夜祭りにこの石段を上って行く、晴れやかな気持ちの人々の息遣いが聞こえて来そうです。
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拝殿に出ました。

境内には灯篭や狛犬、記念碑などが沢山あります。
いにしえから、崇敬の篤いようすが伝わって来ます。

さあ、今回は『福岡県神社誌』から、ここの歴史を紐解きますよ。
祭神 
日本武尊(ヤマトタケル) スサノオの命 ミヤズ姫の命

由緒
当社は人皇二十七代、安閑天皇の御代に田部人麿という者の神託によって、
この山の上に斎き祀っています。

昔は近郷に比べるものがないほどの御社で、ご神徳はあまねく知られていました。
又、足利尊氏がこの国に没落の時、
左兵衛督直義が当社で武運を祈ったのち、正殿を再建しました。

ここのご祭神は、あの有名なヤマトタケルの命と后のミヤズ姫
スサノオの命でした。
いったい、どのような事情でこの三柱が祀られているのでしょうか。
由緒では田部人麿という人に神託が降りて、祀るようになったと書いてあります。
また、足利尊氏がここで武運を祈っています。

これだけではよく事情が分からないのですが、神社誌を読み進めると詳しい話が載っていました。
祭神の日本武尊豊日別神社に祭祀してあったのを
明治時代に合併しています。その社説にこう書いてありました。

日本武尊が熊襲ご征伐の時、当国を経歴されました。
酋長の今朝麿(けさまろ)は皇子が来られたのを聞き伝えて、手厚くお迎えしました。

日本武尊は広野の石に腰かけて、この国の風俗や地理などをお尋ねになりました。
今朝麿はつぶさにお答えしたので、尊(みこと)は大変喜ばれました。

程なく熊襲を平定して、都に帰る時、再びこの地に留まられたので、
今朝麿は仮宮を建てて守護し奉りました。

尊は剣岳に登って、よくよく四方の風景をご覧になって、言いました。
「この山は他の山より勝れている。
私が今熊襲を平定して国民が帰服して、おのずから静かになった世の中山かな。」
(世の中・中山…掛けことば)
と。ここから中山の名が起こりました。

いよいよ都に戻ろうとして、この山を降りた時に、雷雨が激しかったので、
尊は御供の人たちと木の陰に休み、八つの雷の神を祀ると、雷雨がたちまちに止みました。
(この場所を八雷社と言います。)

雷雨が晴れたので尊は神前原を通って、しばらく(滞在して)休息したしるしを残そうと、
今の日吉神社のある所から三町ほどの所に、弟彦公に松の木を植えさせたので、
ここを植木の森と言って、その邑(むら)を植木の里と言うと伝え聞いています。

それから月日が経って、安閑天皇の御代に,今朝麿の遠孫の人麿に神託が降りて、
この剣山上に創立して奉斎しています。

豊日別神社の方に詳しい話が伝わっていたのですね。ずいぶん具体的です。

伝承のあらすじは
ヤマトタケルがこの里に来たのを、長の今朝麿が手厚くもてなし、
帰路に立ち寄った時には仮宮まで建てた。
剣山の上で、ヤマトタケルはその山を称えて、中山の地名が起こった。
記念に松の木を植えた所は植木の里と言うようになった。
それからずっと後、
今朝麿の子孫の人麿に神託が降りて、剣山の上にも祭祀するようになった。
という事です。地名の中山も植木も今に伝わっています。


この由緒書によって、ヤマトタケルが熊襲征伐に行った時の、ルートが見えて来ました。
遠賀川からここで上陸して、さらに南下して行ったと見えます。
この鞍手町は物部氏の本貫地という話ですから、
ヤマトタケルがここに来るのも軍事的な援助を得る為の可能性があります。

さあ、神社誌の続きを読んで行きたいのですが、この神社の御祭神を理解するために、
『古事記の神々』でヤマトタケルの命について現代語訳しておきましたよ。もう、びっくりする事ばかりでした。

高校生ぐらいの年齢のヤマトタケルがどうして、この八剣神社の里までやって来たのか、
そして、后のミヤズ姫との関係について、是非読んでおいて下さいね。

(つづく)






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by lunabura | 2010-06-20 14:14 | 八剣神社・やつるぎ・鞍手郡 | Trackback | Comments(0)

八剣神社(2)三柱の神々に受け継がれたのは草薙の剣だったよ


八剣神社(2)
三柱の神々に受け継がれたのは草薙の剣だったよ

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それでは、『福岡神社誌』の続きを読んで行きましょう。
また、天智天皇七年十一月、新羅の沙門・道行が草薙の剣を盗んで帰る途中、筑紫まで着いた時に風雨に遭って、その剣は日本の境を出る事はなく、この山にしばらく安置していました。
昔は近郷に並び無い御社で、神徳はあまねく知られて、植木の庄・本社と称えられました。

おお、有名な草薙(くさなぎ)の剣(つるぎ)の話が出て来ました。

草薙の剣って盗難事件があったんですね。
取り返された後、しばらくこの神社に安置されたという事です。

この背景を調べてみました。

熱田神宮の御神体である草薙の剣を新羅の僧侶が盗み出すという事件が起こっています。
その僧の名前は道行で、途中で捕まって、草薙の剣は無事に戻って来ました。

この道行がどうなったのか、ネットで調べると、
大阪で剣を手放した。
牢屋に入れられたが、許されて、近くで寺を創建した。
博多で死刑になった。
新羅で死刑になった。

といろいろありました。 
この鞍手町の古物神社の由緒には「草薙の剣が古門に落ちて来た」
というのがありましたよ。

もし、道行が北部九州で捕まったとしたら、その剣の保管場所が必要です。
その時には、ここに届けられた可能性は十分にあります。
この鞍手町は物部氏の本貫地だったのですね。
物部氏は、代々、天皇家を補佐する役職についていたので、連絡網があったのは間違いないです。
(古物神社で少し調べてみましょう。)

祭神のミヤズ姫にこめられた暗号
ヤマトタケルには6人の后がいました。
ヤマトタケルの配偶神を選ぶとしたらオトタチバナ姫かなと思いましたよ。
だって、彼の為に命を投げ出したんだし、この人しか知りませんでしたし…。

ところが意外にも、この八剣神社ではミヤズ姫が選ばれていました。
なぜ、ミヤズ姫なんだろうと、理由を探しました。

そこで、ミヤズ姫とヤマトタケルの関係を思い出して、あっと驚きました。
ヤマトタケルはあの草薙の剣を彼女に預けたまま、亡くなっているんですね。

草薙の剣の歴史ってどうなってるの?
太刀っていろいろあるから、どれがどれか区別がつかなくなりました。
そこで草薙の剣に絞ってその運命をたどってみたいと思います。

草薙の剣を中心にストーリーを書き変えます。
ヤマトタケルの命は伊勢神宮で斎宮をしていた叔母のヤマト姫から草薙の剣を授けられました。
それから、東国を廻るのですが、相模の国で、国造の罠にはまって、野原で火を点けられます。
その時、太刀で草を刈り取って火打ち石で火をつけて、助かりました。
これでこの太刀を草薙の剣と言うようになりました。

そののち、尾張の国に行って、ミヤズ姫と結婚します。
それから、草薙の剣を彼女に預けたまま、伊吹山の神を討ち取りに行って失敗し、
だんだん病気がちになって、死んでしまいます。

最期に「乙女の 床の所に 私が置いた つるぎの太刀。その太刀はどうなっただろう。」
と、草薙の剣を詠んでいます。

古事記ではここまでしか書いてありませんでした。
この後、どうなったんでしょうか。
ミヤズ姫はこの剣の謂われ を知る事になります。
この草薙の剣はもともとスサノオの命が出雲でヤマタノオロチの腹の中から発見したものであり、天照大御神からニニギノ命に降ろされて、歴代天皇が所持していた由緒のものだったのです。
それを知って、ミヤズ姫は剣を熱田神宮に納めました。こうして草薙の剣は御神体になりました。
その後、それを新羅の僧・道行が盗みましたが、無事取り返されました。
ここまでが共通のお話です。
その後の事は、先ほど書いた通りです。
その草薙の剣がこの山に一時期保管されたという話が神社に伝えられていた訳です。

八剣神社の御祭神を思い出しましょう。
日本武尊(ヤマトタケル) スサノオの命 ミヤズ姫の命 です。
この神社の御祭神たちに共通のもの、それは草薙の剣でした。
昔の人はこの三柱の神を見ると、草薙の剣が、
スサノオの命 ⇒ 日本武尊 ⇒ ミヤズ姫
と渡っていった事を容易に思い起こしていたのでしょうね。(ですから、暗号でなくて常識でした…。)

この鞍手町には剣の字のつく神社が沢山あります。
調べて行くと、記紀に書かれていなかった歴史がいっぱい残されているようです。

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神殿の写真です。光が虹色に写りました。しかもカーブしているように見える?
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同じ神殿です。なんだか、ヤマトタケルの白鳥の翼のように見えました。

では、次回は、この上宮に行ってみましょう。


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by lunabura | 2010-06-19 13:07 | 八剣神社・やつるぎ・鞍手郡 | Trackback | Comments(0)

八剣神社(3)上宮・ヤマトタケルの行宮跡は眺めが抜群だよ


八剣神社(3)上宮(剣岳城)
ヤマトタケルの行宮跡は眺めが抜群だよ

舗装された一本道を登っていくと、広い駐車場があります。
そこからいくつもの道が頂上に向かっています。どれをとっても大丈夫です。
廻りの木々は桜がいっぱい。ここは桜の名所なんだ。

ゆるやかな遊歩道に導かれれば、ほどなく頂上に出ます。
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眺めが抜群です。なるほど、ヤマトタケルの命が褒め称えたはずです。
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六ケ岳方面を撮りました。
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頂上には見晴らし台があり、剣岳城の説明板がありました。
ここには山城があったんですね。
なるほど、これまでも360度の展望の地なら山城がありました。

だれのお城なのか、ちょっと読んでみましょう。
剣岳城
剣岳城の歴史は、言い伝えによると応仁年間(1467~1468年)、梅野土佐が築城したことに始まります。その後、文明年間(1469~1486年)宗像氏の下城となり、野中勘解由が城代として、宗像氏の防衛にあたりました。

1500年代、秋月氏の支配下におかれ、跡部安芸守が城代となりますが、戦乱の世となり、度重なる合戦ののち、天正年間(1573年~1592年)豊臣秀吉が九州を平定したころに落城したと伝えられています。

発掘調査の結果、この城の本丸に、建物跡、井戸の跡が確認されました。そのほか、防衛設備として、本丸の四方に石垣、北東側を除く三方に竪堀(たてほり)南東側に土塁、北東側に二重の土塁、空掘が築かれています。

また、敵が一勢に攻め込まれないように、出入口がコの字状(虎口)に造られています。このように、剣岳城はその歴史や城の構造から、居城ではなく、防衛設備が整った戦略的な城だったと考えられます。

頂上にはもちろん八剣神社の祠もありました。
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ヤマトタケルの命田部今朝麿が建てた行宮(あんぐう)でしばらく休息しました。
この地を去る時に雷雨に遭い、その時祀った雷神も八雷神社として残っていますが、
新幹線が通るために、この八剣神社に合祀されています。

地図 八剣神社 



では、次回は同じ鞍手町の古物神社に行ってみましょう。



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by lunabura | 2010-06-18 11:25 | 八剣神社・やつるぎ・鞍手郡 | Trackback | Comments(2)

宮地嶽神社 (Ⅰ)

宮地嶽神社 (Ⅰ)
みやじだけ
福岡県福津市宮司元町7-1

民家村自然広苑の夏(7月)

宮地嶽神社の本殿でお参りしたら、
右手奥の方から裏手へ行ってみましょう。
広い広い境内では、民家村と四季折々の花が
人々を迎えてくれます。

今日は夏の自然広苑を紹介します。

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緑陰の濃くなった桜の道をゆるやかに下ると、広場です。
ここに立つだけでいのちが喜ぶような所です。
木立の美しさに誘われて、左の方の小道をたどりました。

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あのベンチに座りたい!
なんて素敵な木立でしょう。

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ずっと左へ左へと行くと、藁ぶき屋根が。
アジサイがひっそりと咲いています。

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こんな素敵な古民家がいくつもあって、
中に入って見る事が出来ます。

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振り向くとこの神社の山、在自山(あらじやま)が正面に見えました。
烏帽子(えぼし)そっくりなので、烏帽子山とも言います。

神名備山(かむなびやま)です。
神様のナビゲーション。
なんて、偶然ですが、全くその通りです。
昔の灯台がわりの山です。

「え?この山にも神功(じんぐう)皇后が登ったんですって?」
なんと行動的な皇后さまでしょ。
伊野天照皇大神宮にも書いてます。)
(⇒ 右カテゴリからリンクしてます。)

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「ねえ、何してるの?」
写真を撮りまくるルナに鳩が興味しんしん。
「写真撮ってるよ。」
「私も撮って!」
「ええ、もちろん撮ってますよ。」
カシャッ。


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ホントは、こちらを撮ってたんです。
この小川が菖蒲園をうるおし、境内の湖に流れ込みます。


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とても穏やかな湖で、岸辺に降りて遊ぶことも出来ます。
向こう岸のフェニックスのシルエットが、
ここは南の地だよと教えてくれてます。

そこに立つと、海が見えますよォ。
海の写真?今日は無しです。<(_ _)>




いかがでしたか。
ルナのとっておきの宮地嶽神社の自然公苑でした。
お正月の初詣はすごい参拝客ですが、
雨上がりの夏の昼下がりは、こんなにゆったりと過ごせます。
季節ごとの神社のようすをこれからも折々に紹介したいと思ってます。

なんで本殿の写真がないのかって?
この神社は広いこと。広いこと。
テーマを絞って紹介しないと、うまく伝えられません。
今日は7月の自然公苑だけを紹介しました。

また別の季節に撮りに行ってきます。
何度行っても楽しい神社ですから。(*^_^*)  

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by lunabura | 2010-06-14 20:38 | 宮地嶽神社と古墳・福津市 | Trackback | Comments(0)

開運桜と神馬


宮地嶽神社(2)
みやじだけ
福岡県福津市宮地

開運桜と神馬(2月)

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拝殿です。日本一の大きさを誇る大しめ縄がかかっています。

今日は3月中旬の暖かさ。桜を求めて宮地嶽神社に行って来ました。(気が早いですねえ。)
やっぱりありましたよ。その拝殿から右の方に回ると、桜が咲いてました!

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家に帰ってみると、夕刊が届いていて、この神社で真っ先に咲く開運桜だと書いてありました。

じゃあ、この御利益を皆様にと、早速、お届けします。

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こちらは御神体山と狛犬。

今日のもう一つのお目当ては神馬です。民家村の左奥にいます。
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退屈そうに、ロープに歯をこすらせて、音をたてて遊んでました。
「ねえ、広い所で撮りたいんだけど。」と、言ったら、桜の木の下に移動して、しばらくポーズ。
三分ほどして、また戻って来ました。ホントに聞いてくれた?!

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この神馬は大祭の時に宮司さんを乗せて歩きます。もと、競馬だったそうです。
ステキな一枚を有難う。

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by lunabura | 2010-06-13 17:56 | 宮地嶽神社と古墳・福津市 | Trackback | Comments(6)

宮地嶽神社(3)6月の菖蒲まつり

宮地嶽神社(3)

福岡県福津市宮地
6月の菖蒲祭りに行きました。
今年の祭王に選ばれる女性歌手は誰かな


さあ、今日は、海岸の一の鳥居から神社に向かって行きましょう。
ここは玄界灘。津屋崎海岸です。宮地浜と言います。

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海から上がって、長い参道を歩きます。両脇は人家です。2キロほど歩いたでしょうか。
お店がたち並ぶ参道を通ると、ようやく境内の石段に着きました。

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今日は菖蒲祭りの最中です。石段の一歩目からずらりと、菖蒲が並んでいます。
すべて鉢植え!すごいおもてなしです。

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石段をいくつか登りきった所で左に曲ります。

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正面に御神体山が見えます。ここからは三輪山と同じような形に見えますね。
ここも左右に菖蒲が…。

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二つの鳥居を過ぎて、さらに右に曲りました。ようやく神門が見えて来ました。

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神門を入ると、広い拝殿前の境内にも、埋め尽くされた菖蒲。
ここは普段は玉砂利が敷き詰められているんですよ。
それを全部菖蒲で埋め尽くすなんて。なんとありがたい。
参拝者を迎えられる神社のもてなしの心に頭が下がります。

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拝殿です。しめ縄の大きさは日本一です。

神社の境内案内図がありました。
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現在地は左下、御本殿の前ですよ。


前回は右奥の「民家村、自然公苑」と「みやz00」を紹介しました。
今回から数回かけて、奥の不動神社まで行きたいと思います。

この綺麗な色の案内図には由緒書きも書いてあったので、書き写します。
御祭神
息長足比売命(おきながたらしひめのみこと)(神功皇后)
勝村大神
勝頼大神

御創建は約1600年前。当社の御祭神「息長足比売命」別名「神功皇后」は第14代仲哀天皇の后で応神天皇の母君にあたられます。

古事記・日本書紀等には渡韓の折、この地に滞在され、宮地嶽山頂より大海原を臨みて祭壇を設け、天神地祇を祀り、
「天命を報じてかの地に渡らん。希(ねがわ)くば開運を垂れ給え」
と祈願され船出したとあります。

その後、神功皇后のご功績をたたえ、主祭神として奉斎し、随従の勝村・勝頼大神を併せ、「宮地嶽三柱大神」としてお祀りしました。当社は、全国に鎮座する宮地嶽神社の総本宮です。


御祭神は神功皇后でした。
この神社も神功皇后が来て、山に登って、天地の神々に祈っています。
この祈りが通じたのか、新羅攻撃は勝利をおさめて凱旋します。
このことから、この神社は開運や勝利などを願う参詣者が大変多く、
今年のお正月は、ついに入場制限があったと聞きました。

華やかな秋季大祭
秋季大祭では、歌手が祭王に選ばれて、十二単衣で牛車に乗って参拝されます。

初代祭王が奥村チヨ。そのあと、小柳ルミコ。五代マリ。小林幸子。
三沢あけみ。島倉千代子。八代亜紀。天童よしみ。石川さゆり。などなど。

選ばれた年には、必ず大ヒットするので、女性歌手は選ばれるのを心待ちにすると聞いています。
今年は誰なのか、楽しみですね。

2010年度
菖蒲祭り 6月13日(日)まで
秋季大祭 9月21日~23日
菖蒲はまだまだ三分咲きでしたよ。(6月5日現在)

(つづく)



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by lunabura | 2010-06-12 15:11 | 宮地嶽神社と古墳・福津市 | Trackback | Comments(4)

宮地嶽神社(4)御祭神の謎にチャレンジ

宮地嶽神社(4)

御祭神の謎にチャレンジしました
時代による御祭神の変遷


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(自然公苑の菖蒲園)

さあ、今日は御祭神について見て行きましょう。

現在は神功皇后勝村大神勝頼大神、となっています。
勝村、勝頼の二柱はどなたなのでしょうか。

まず、一番目の神功皇后はすっかりお馴染みになりました。
香椎宮から始まった『ひもろぎ逍遥』ですが、
半分ちかくのお宮は神功皇后関連だったでしょうか。
これまで、点と線だった皇后の行動が、だんだん「面」で捉えられるようになって来ました。

香椎宮から東の方では馬や船の軍事訓練をしたという伝承を
皇石神社で書きましたが、さらに東に行った
この宮地嶽神社でもその伝承を見つける事になりました。

宮地という地名そのものも、神功皇后が滞在した事が由来のようです。
どうやら、皇后の時代は都が定位置にあったのではなく、
天皇の居る所=みやどころ=みや(都)というイメージがあったように感じて来ましたよ。

さて、皇后がここに来られた時には、天皇の死は隠されています。
しかし、妊娠していたと思われます。

そんな皇后がここで宮地山(180メートル)に登って天地の神に祈ったと言い伝えています。
皇后はどの神に祈ったのでしょうか。
それが宗像三女神(むなかた・さんにょしん)でした。

昭和48年に発行された津屋崎町教育委員会の「つやざき」にその手掛かりを見つけました。
まずは、『神社帳』から抜粋します。

神社帳より
祭神
タキリビメの命、サヨリビメの命、勝頼神
タキツヒメの命オキナガタラシヒメの命勝村神

当社の縁起ではこう言っている。
宮地嶽大明神、勝村大明神、勝頼大明神、
それぞれの名前は、阿部相函、藤高麿、藤助麿云々。

伝説では、昔、神功皇后が新羅を征された時、宮地岳の山上にて宗像三柱大神を祭らせられ、
ついに新羅に勝って還幸されたことから、宗像大神を奉斎され、後に神功皇后を配祝した。
勝村大明神はすなわちこの方である。

この神の名は新羅を征し、勝を得たという事からついた名前で、
社も昔は山上にあったのを、後に移転している。
また、近くの村、勝浦村にも勝浦岳神社がある。

祭神は神功皇后なので、勝浦という地名も、
異国を征したことから来たと、風土記拾遺にも書いてあるので、
勝村大神は神功皇后である事は疑いない。

あれあれ、「勝村大明神は神功皇后だ」と言っていますよ。

これはいつ頃の記事だろう。
明治時代に社殿が焼失した記事が載っていますから、明治以降の記事です。
この『神社帳』の意見を分かりやすくするために、
宗像三女神を赤に、勝村大明神と神功皇后を緑にしました。

なるほど、『神社帳』の著者が言いたいのは、
神功皇后が山頂でお祭りした神が宗像三女神なのだから、
宮地嶽の山頂の神は宗像三女神なのだという事なのですね。
(そう言われるとそうかも…。)

勝村大明神は、勝って帰って来た事から、神功皇后だと言う訳ですね。
(そうか。そう来るか。)

結構いい所をついてますねえ。現在の三柱と真っ向対立です。

このままでは、迷路にはまりそうなので、この人が参考にしたという
『筑前国風土記拾遺』の方を見てみましょう。これは江戸時代の本です。

宮地嶽大明神社
村中の小高い山の上にあり、石の階段、数十段を登る。昔は、宮地嶽の山上にあった。
今、その跡を古宮という。そこに清水があって、禊の池という。
昔、社があった頃には使っていたという。

『宗像宮社記』に書いてある。
「宮地嶽明神内の二社は宗像三女神と勝村大明神だ。」と。

社説(宮地嶽神社自身?)には中殿に阿部函相(宮地嶽大明神)、
左に藤高麿(勝村大明神)
右に藤助麿(勝頼大明神)
三座であるという。
この三神は神功皇后の韓国を討った時の功績があった神だという。

なるほど、参考にした宗像宮の由来と、宮地嶽神社の由来が微妙に違っていたんですね。

『神社帳』を書いた人のこだわり振りから見ると、古来、宮地嶽大明神は誰であるか、
勝村、勝頼の神は誰であるか、論争があっているのだけが分かりました。

どの神が誰であるかは、ここで決める事ではありませんので、
この神社の伝承のモチーフだけ、考えましょう。

まず、この宮地嶽に住んでいる豪族がいた。その縁で、神功皇后はここにやって来て滞在した。
その間に、古宮である宮地岳に登って戦勝を祈った。そこで祀った神は宗像三女神である。

皇后が凱旋してから後、ここには宗像三女神と神功皇后が祀られた。
一緒に活躍した地元の豪族も後に神として祀られた。
その豪族の一員が藤高麿や、藤助麿である。
この豪族には同じ時代の人や後の時代の人が混じっている。

こんな所のようです。

時代が下がって行くに連れて、祭神が追加されていき、
後世の人々には、どの神がどの人が分からなくなってしまいました。
数百年間の有名神・人が一緒に祀られているための混乱だと見ました。

ここには、神功皇后を招いた豪族がいた…。
ここは宗像国なのでしょうか、那の国なのでしょうか。
それとも第三の国でしょうか。

石井忠氏によると、「西郷川が那の国のその境目だろう」という事でした。
地図を見ると、この神社はそれより、ちょっと宗像よりになります。
那の国と宗像国の間の丘陵地帯…。

なんで、こんな小さな事にこだわるのかというと、ここに巨大古墳があるからです。
それは奈良の石舞台と日本1、2位を争う大きさなのです。
しかも、例の3メートルを超す、やけに長い金銅製の太刀。
この古墳は、日本の歴史に関わる巨大さなのです。

さあ、ではその古墳を見に行きましょう。

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本殿の右端から出て、奥へ奥へと木漏れ日の中を歩いて行きます。
(つづく)

地図 宮地嶽神社 西郷川 



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by lunabura | 2010-06-11 17:22 | 宮地嶽神社と古墳・福津市 | Trackback | Comments(0)

奥の宮不動神社(1)巨大古墳だった。3mの頭椎の太刀はどうやって持つのよ。

宮地嶽神社(5)
福岡県福津市宮地嶽神社内
奥の宮不動神社(1)

地下の正倉院と呼ばれる巨大古墳
金メッキの頭椎の太刀は3m-どうやって持つのよ?


さあ、今日は奥の宮、宮地嶽不動神社に行きましょう。
途中には七福神の神社や稲荷神社などがありますが、とりあえず、まっすぐ進みます。
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これが最後の石段です。登りきると拝殿があります。
この拝殿の後ろが古墳です。
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この拝殿は古墳の入口にぴったりと建てられています。横穴式の古墳です。

さあ、中に入りましょう。
入口すぐの所に祭壇が置かれていて、普段はそこでお参りしますが、
今日は奥まで入りますよ。

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巨大な左右の岩によって作られた羨道(せんどう)は
二人が並んで歩いていける程度の幅です。奥行きが23メートルあります。

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最奥の玄室です。
左右の岩の大きさは5×5mで、ほぼ立方体だそうです。
そんな巨岩が8個左右に置かれています。
正面の棚状の床は、コンクリートで、現代の加工です。
祀られているのはお不動さんです。

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この古墳は円墳です。右に回るとその頂上部がよく見えます。

さあ、今日はなんと神官さんのお話が聞けましたよ!

「この古墳は日本で1、2位の大きさを誇る古墳です。
奥行きが入口から23メートルほどあります。
奈良の石舞台に次ぐ大きさです。磐井氏の関係の墓と言われています。

この岩は近くの恋の浦海岸から運ばれた事が分かっています。
昔は、神社のすぐ下まで、海でした。そこまでは、船で運んだのでしょう。
そして、山の中腹まで運ばれたと思われます。

発見されたのは江戸時代1741年。突然の山崩れで出て来ました。
石室の中には土砂が入り込んでいて、それを取り除こうとしたら、
金がちらちら見えて、そこが古墳だと分かりました。円墳でした。
金の冠はグチャグチャになっていて、泥まみれで、
金銅性(銅に金メッキ)の巨大な太刀も崩れていました。
それでも、この太刀の持ち手は人間の子供の頭ほどある大きさでした。
長さは3メートル以上あります。

昭和9年、26年にも副葬品が見つかっています。

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これが神社の社務所にあるレプリカです。
この左の丸い形が子供の頭ほどあって、頭椎(かぶつち)と言います。
刀身の方は原型をとどめていなかったそうです。
同じレプリカが福津市役所にもあると聞いています。(未確認です)

地下の正倉院と言われる副葬品

さらに説明がありました。
「馬具は九州で超一級で、所有者は皇太子のレベル以上のものです。
国宝になった主なものとして、金銅の(銅に金メッキ)
馬具は鞍、壺鐙(つぼあぶみ)轡(くつわ)など、
どれも銅に分厚い金メッキが施されていました。
銅の鎖。壺鐙のデザインはササン朝ペルシャのものです。
金のイヤリング、緑のガラス球、銅のお碗、銅のお皿、土師器のお碗
長方形の鉛系のガラス板など。これは正倉院と同じタイプです。」

(へえ~。ガラスが鉛タイプと聞いてドキドキ。これもペルシャとのつながりがあるんだ。
ガラスって鉛タイプとソーダタイプがあって、
それで、どこの国とつながっているか分かるという説があります。)

頭椎(かぶつち)太刀は3,2メートル。
「奈良の橿原には完全なものが出ていて、それと同等のものです。
頭椎(かぶつち)の太刀は皇位継承権のある人が持つもので、
地方豪族などは持てません。」

(そう言えば、神武天皇を現代語訳した時に、彼はこの頭椎を持っていた。
なるほど、身分を示すシンボルだったんだ。)

説明が終わったので、ついにルナは質問し始めました。
「棺は何で出来ていたのですか。」
「何も出ませんでした。だから、石棺ではなく、木棺だったと思われます。
木棺は国王クラス以上の人しか使っていません。加工が大変だからです。」

被葬者は?
「被葬者について、さっき磐井(いわい)氏の関係と言われましたが。
一般的には宗像徳善と言いますが。」
「被葬者として、よく名前が挙げられるのが宗像徳善の君です。
しかし、年代が科学的に、100年位誤差が出ます。
もし、彼が150年位生きていたら、可能性が出て来ますが。

この宮地嶽神社の御祭神の藤氏が磐井氏の孫です。
ですから、この古墳は磐井氏の関係の者と思われます。
一般には宗像徳善の君と言われていますが、違います。」

やっぱり!宗像徳善じゃないよ!やったね。

一般説は被葬者は宗像徳善となっています。
ウェブで調べても、判で押したように宗像徳善という人だと書いてあります。
その理由をいくつか考えると、
これほどの天皇家レベルの副葬品を持っている人なら、
天皇家に関係する人に違いない。
日本書紀に、娘を天皇に嫁がせたのが宗像徳善だと書いてある。
だから、この人の可能性がある。

それに付け加えて、この山から宗像にかけて津屋崎古墳群がある。
古墳群は発達しながら移動して、宮地山で頂点になった。
だから、宗像族の墓であり、その最高者の徳善の墓である。

そういう論法らしいです。
でも、ルナには、その説が何故か受け入れられませんでした。
理由は長らく自分でも分かりませんでした。

この日、神社側から宗像徳善ではないと聞いて、納得しました。

お墓を建てるなら故郷が見える丘がいいと思った。

さて、これを聞いて、宗像徳善の説を唱える人たちは、考えを変えるかな。
無理だな、きっとね。

どこか、もう一つ、自分でも腑に落ちる理由がないだろうか。
そう考えていて、皇石神社に立った時に答えが分かったのです。

皇石神社は古墳の上に立った神社でした。
その境内に立つと、古代の入江と、山々が見えます。
分かった!
そうだ、古墳は故郷を向いて造られるはずだ。大王なら、尚の事。
死んでからも、我が国を守ると。これって誰の心にもあるものじゃないかな。

そう気づいてから、この宮地嶽の巨大古墳に立つと、
宗像は山の裏側になって、故郷を見る事が出来ない位置にありました。
これが、被葬者が宗像徳善と思えない原因だったのです。

この大王も、自分の国が見えるところに造らせたはずです。
こんなシンプルな事が、大王の墓所を決めるのに一番肝心な事ではないでしょうか。

筑紫の君・磐井の墓はずいぶん遠いのですが…。

しかし、このお墓が磐井氏の一族の墓だとしたら、
筑紫の磐井の君のお墓そのものは筑後平野にあります。
はるかかなたです。

県外の方には分かりにくいと思いますが、
磐井の君の古墳は福岡県の南部・八女市にあります。
この神社は福岡県の北部にあります。大変離れているのです。

そこで、早速尋ねました。
「でも、磐井の君のお墓は筑後地方ですよね。」
「そうです。この福間までが磐井の勢力地だったのです。」

(へえっ、筑紫の君、磐井(いわい)って、福岡の半分近くを治めていたんだ。
こりゃあ、すごい大王だったんだ。)

磐井の君が天皇家と戦って、殺されたので、
子供の葛子(くすこ)が粕屋の屯倉を差し出して命を許されています。
それはすぐ隣の古賀市で起こりました。
古賀市立歴史資料館皇石神社に少し書いています。
詳しくは、また稿を改めます。)
そうか、ここは筑紫の大王たちの息のかかる所だったんだ。

と言う事で、神社の見解をおさらいをしておきましょ。
この古墳の被葬者を宗像徳善とするのは、100年ほどのズレがあるので無理がある。
御祭神が磐井の君の三代目にあたるので、磐井氏の関係が被葬者だったと考えるのが妥当である。

さあ、石室の中に入るには!
お祭の日
1月28日 初不動祭
2月28日 春季大祭
7月28日 夏季大祭
この祭典の日には、古墳の石室内に入れますよ。

(つづく)

糟屋の屯倉 ⇒ 鹿部田渕遺跡(ししぶ・たぶち・いせき)
「粕屋の屯倉」の候補地に行って来ました
http://lunabura.exblog.jp/i127/


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by lunabura | 2010-06-10 17:23 | 宮地嶽神社と古墳・福津市 | Trackback | Comments(14)

宮地嶽神社(6)宮地嶽古墳と手光波切不動神社


宮地嶽神社(6) 
奥の宮不動神社と手光波切不動古墳
ここには独立したクニがあったよ
大王を祀っていた新たな氏族を発見

古墳って、故郷を見守る位置に造られるよね。
そう思いながら地図を開くと、確かに古墳は那の国の方を見下ろしますが、
古墳の入口は東の方を向いていました。
入口の方向って、無視していいのかな?

そんな思いを抱いていると、その夜、夢を見ました。
それは宮地嶽から東の方の丘陵地帯の映像でした。
それが、この写真です。
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(国道3号線の上西郷付近から撮りました。)

一番左が宮地嶽です。いくつかのピークを形成しながら、段々低くなっています。

すると、その日、名島神社で紹介した、もと光少年に会って、話を聞く機会が出来ました。
光少年も、今は大長老です。

「宮地嶽の古墳の被葬者を考えていたら、今朝、東の方の丘陵の夢を見たんですよ。
古墳の入口がそちらの方向を向いているんです。
宮地嶽あたりって、宗像族か、阿曇族か、
それとも、第三の氏族がいるんでしょうか。
そこから出土した頭椎の太刀の大きさは半端じゃないんです。」
と何げなく話したら、
「そこは宗像族でも、阿曇族でもないね。第三の氏族だね。」
と言って、昔の話をしてくれました。
「あの古墳の出土品という、頭椎(かぶつち)の太刀は副葬品じゃなかと。
後から持って来て、塚の上に置いた、お供え物たい。
奉納されていたものが、大雨で塚がずって(ずり落ちて)、出たと。
その南の通り堂の手光(てびか)の古墳の方が古かとよ。
その奥の院に当たるのが宮地嶽。地元の武内さんが先祖の墓だと言っていたね。」

「すると、昔は道があったんですか。」
「そう、手光を先にお参りして、奥の院にお参りしていた。今は道はないね。」

これを聞いて、思い出したのは神官さんの話です。
「土砂崩れで、土を取り除こうとしたら、光るものが出て来ました。
それから、拝殿と社務所の間からも、沢山の出土品が出て来ました。」

ああ、そうか。
ルナはてっきり、石組が壊れて開口したのだろうと、勘違いしていました。
思い起こすと、石室の中はとても堅牢で、全く壊れた所はありませんでした。
そうか、思いこみだったんだ。

副葬品と、奉納品と混ざっているんだ。
あの、巨大な金メッキ太刀などは、外の盛り土に置かれたものだったんだ。
そうか。
でも、誰が…。
また新たな謎が…。

そんなの分かるはずないから、とりあえず、その通り堂の方に行ってみよっと。

手光波切不動尊
てびか・なみきり・ふどうそん

光さんが教えてくれた手光(てびか)の古墳は、福津市の旧三号線沿いにありました。

「宮地嶽の古墳と形は同じで、サイズが少し小さい。」
と別の人から聞いたばかりでした。関連があったんだ。

これが手光古墳の写真です。
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民家の間の空き地の奥に古墳の入口が顔をのぞかせています。
両脇にはかつて沢山の仏像が置かれていたと思われる、棚がありましたが、全て失われていました。
腰をかがめて入って行きます。
c0222861_2233432.jpg

横幅も一人がやっとです。玄室では立つ事が出来ました。
それでも、その横幅は160センチぐらいです。
宮地嶽古墳に比べて、羨道は4分の一のスケールの印象。石も平べったいです。
構造的には大きな石を並べて、上から蓋をした感じがよく似ています。

帰りはうっかりして頭を天井にゴツンしました。

この古墳と奥の宮不動神社の古墳は一キロほど離れていますが、セットで考えるべきものでした。

光さんの話に戻りましょう。
「でも、あんな巨大な黄金の奉納品って、当時の日本で作れたんですか。
それとも、外国から持って来たんですか。」
「外国だろうね。」

「それと武内の先祖という話ですが、あの武内の宿禰の一族ですか?
武内の宿禰が300歳とはどう解釈したらいいんですか?」
「あれはね。300年続いた世襲の名前。地方豪族で、百済から来た渡来人たい。
神功皇后の母親も百済人でしょうが。」

「そうなんですか。なるほど、世襲の名前を受け継いだんですね。
昔から、日本人は先祖の名前を受け継いで行きますよね。」

(武内の宿禰の一族がこの宮地嶽にいた?
そうか、その縁で、神功皇后はこの山にやって来たのかもしれない。
そうすると、やけに地元の援助が篤かった理由が分かる。

馬も武器も船も、これだけのクニの援助がないと、とても調達出来ない。
逆に、ここからの依頼でやって来た可能性だってある。

もしかしたら、この説は可能性があるかも。
神功皇后の右腕として、あらゆる援助を惜しまなかった人が武内の宿禰。)

百済の話が出て来ましたが。
神功皇后が新羅を攻めたのは、百済の救援のためだと教えてくれました。

金メッキの頭椎の太刀はササン朝ペルシアの様式だそうですが、
同時に出土した、鉛系のガラスのインゴットも、実はペルシャ系です。
ササン ⇒ 中国 ⇒ 高句麗・百済 ⇒ 倭・正倉院
という流れがあるらしいです。

(この古墳はそういう流れの中で見るといいんだ。ここは重要拠点なんだ。
でも、古代朝鮮の事はさっぱり分からないよ…。)

「すると、この宮地嶽の氏族に名前を付けるとしたら、宮地族がいいですかね?」
「武内族だね。」
「あの福間あたりは、すると、一つの文化圏だったんですか。」
「宮地嶽から通り堂、青柳、筵内(むしろうち)一帯はものすごく古いね。とても古い。」

その話は、通説の、宗像徳善でもなく、神社説の磐井の一族でもありませんでした。
夢で見た丘陵地帯に抱かれた、一つの独立国でした。

ところで、古いってどの位?
調べると、縄文遺跡も沢山出ていました。
さらに旧石器時代、二万年前という遺跡もありましたよ。
(こりゃあ、古すぎる?)

驚く話ばかりで、(こんなの検証出来ないよ)と思いながら帰りました。
ところが、家に帰って、なにげなく『つやざき』(前述)を広げたら、
光さんの話を裏付ける言い伝えが載っていました。
そのまま、書き写します。
岩屋不動尊(日本最大の古墳)

宮地嶽神社の奥深い地点にある岩屋不動尊と称する古墳は、宮地嶽山腹から上西郷、神興、福間、津屋崎地方に散見する先住民族の長の霊を祭るために作られたものと言われ、彼等の住居を一見し得る高燥の台地に彼等の長と霊を葬り、毎年祭祀を営み、永劫の守護と福利を祈ったものといわれる。

その後、この古墳を発掘した者が、内部の遺物に尊厳と恐怖を感じて仏像を安置してお祀りするようになったものであろうと言われる。

岩屋不動窟は、横穴式石室の円墳で、23個の巨岩を積み重ね、高さ約3米、巾2,7米、長さ約27米ある。
その規模の偉大さにおいては日本一の折紙がつけられ、重量な文化財とされている。

宮地嶽神社所有の国宝類は、すべてこの古墳からの出土品であるといわれる。

光さんの話を聞いた後なので、この話がよく分かりました。
地元の言い伝えと組み合わせると、
巨大古墳には有名な武内の宿禰と関わる氏族の長が埋葬されているという事になりました。

地図 宮地嶽の古墳 手光の古墳 西郷川(那の国との境?) 撮影した所(北を撮る)
(宮地嶽から東の丘陵地帯から、西郷川までが、武内族のクニ?)

次回はこの古墳を舞台に、目撃された二つの奉納の舞を紹介したいと思います。

(つづく)





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by lunabura | 2010-06-09 21:25 | 宮地嶽神社と古墳・福津市 | Trackback | Comments(5)

奥の宮不動神社(3)筑紫の舞と韓国のムーダンの舞

宮地嶽神社(7)
奥の宮不動神社(3)
奉納された筑紫の舞と韓国のムーダンの舞

光さんがこの巨大古墳に奉納された二つの舞の話をしてくれました。

ちくしの舞
「昭和5年頃だったね。菊邑検校(きくむらけんぎょう)が筑紫(ちくし)の舞を奉納していた。棺(かん)の舞と言ってね、棺(ひつぎ)の舞のことで、大王が亡くなって、『大王蘇ってくれ。』と言って、宮地嶽のぐるりを踊って廻った。」

「すみません。筑紫の舞って知らないんですが。」
「菊邑検校は明治天皇のご落胤などとも噂される人で、福岡県の桂川(けいせん)の王塚の所に住んでいたと。ちくしの舞を伝承していた。これはもともとサンカの人たちが伝授していた舞だったとか。

口頭では伝えないために、最初の弟子は水銀を飲んで、声帯を焼き切った。二代目は入水自殺をした。
ちくしの舞は元々、棺(かん)の舞だった。

西山村さんが筑紫の舞を新しくしたと。西山村さんは「かんの舞」を「神の舞」と解釈して、宮地嶽古墳に奉納した。本来の「棺の舞」を変えてしまったので、私は証言を止めたとたい。」

光さんはちくしの舞の証言者でした。
光さんの所には、古田武彦氏や鳥取大の先生など、いろんな人が聴きにきたそうです。
河原崎長一郎氏も映画化するために、来られたけど、
たけち監督が亡くなってしまって、沙汰やみになったという事です。
盲目の菊邑検校を河原崎氏が演じたら、相当のものだったでしょう。

次の写真は手光の古墳近くから、宮地岳方面を撮ったものです。
c0222861_1558571.jpg

ここからは、宮地岳は烏帽子山に見えます。古墳にまっすぐ行く道は今はありません。

サンカを辞書で引きました。
山窩(さんか)
村里に定住せずに山中や河原などで家族単位で野営しながら漂白の生活を送っていたとされる人々。主として川漁・箕作り・竹細工・しゃもじ作りなどを生業とし、村人と交易した。山家。
なんとも不思議な話です。
古代から連綿と、この大王への奉納の舞を伝えていた人たちがいたと言うのです。
口外禁止だったなら、誰も知らないはずです。

これほどの豪族の末裔が語れないとすると、まつろわぬ者として激しい戦争で負けて、
歴史に埋没して行ったのかも知れません。
実際、古事記や日本書紀を読んで行くと、当時は国内でも、韓半島などとも戦争だらけでした。

大王が生きている間は独立を保てたのでしょうが、
亡くなったあとは、他国に支配されて行ったのでしょう。
戦いがあった事は、周りの古墳から、鉄器、木の甲冑、鉄の甲冑などが出ていることからも容易に伺えます。

そんな流れで、歴史に名を残せなかったのかもしれません。
それでも、この太刀を見て下さい。持ち手はバレーボールぐらいはあった印象です。
c0222861_1605395.jpg

これが「頭椎」と書いて、「かぶつち」と読ませる太刀です。

古田武彦氏のサイトに、西山村さんが「最後の筑紫の舞」を見た話が詳しく載って来ます。
道のない所をよじ登って行ったそうです。
その時は13人が奉納舞をしたとか。それが歴史上、最後の奉納になったようです。
13人も入れた大きさから、この古墳だと特定されました。
c0222861_1612847.jpg

写真の右下に長方形の穴が彫ってあるのが見えますか?
左右対称に彫られています。花崗岩にこれだけの加工を加えて、石組にしています。
(正面の床は現代のコンクリート加工です。)
これだけの技術者集団を抱えていたのです。すごい被葬者だったのが分かります。

光さんはもう一つ、異国からの舞の奉納の話をしてくれました。

韓国の巫堂(ムーダン)の奉納の舞
「宮地岳はカラクニ岳て言うとった。カラサキ山とも。
海から入って来る時、この宮地岳が大事な目標やったと。

新羅や百済からも舞人が来ていたね。
昭和の始めごろ、韓国の人が毎年、塚まで来ていた。
総勢6、70人で、うち男が4、5人。チョゴリを着ていた。
ムーダンの一行は宮地嶽古墳から名島神社に移動して、
そこで海岸で一週間ほどキャンプをしていた。
この踊りの奉納をして、名取になれると言ってたね。

大勢で神社の前を通って行くので、当時の宮司が塀を作って通れなくしとったね。
大正頃までは、宮地嶽神社と古墳は別物だった。昭和になって管理するようになったと。」

光さんは当時の光景を思い出しながら話してくれました。
韓国の人が何故この古墳で舞うのか、向こうの伝承が聞きたいものです。
(ムーダンの舞については、名島神社でも書いています。)
光さんは日韓シンポジウムにまで行ったそうです
「倭人は百済を通して中国へ行っていた。日韓のシンポジウムに行ったけど、
韓国では、三韓は存在しない、神功皇后も来ていないと言っていたね。
百済が滅亡した時、10万人の避難民が日本に逃げて来た。当時の日本人の人口が10万人。」

「文化は中国から朝鮮から日本へ向かって行った。日本から朝鮮に流れる事なはい。
古代から貿易をして、ここは移民地になっていた。」

双方向から、このように古代社会を研究できる時代になったんですね。
歴史の研究はどんどん進化していて、昔、教科書で習った世界観は、常に訂正をよぎなくされます。
頭を柔らかくして、おかなくっちゃ。

調べて行くと、この辺りは、古代鉄によって栄えた所だと見えて来ました。
また、詳細は後日報告したいと思います。

さあ、そろそろ、ぶらりと山を越えますか。




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by lunabura | 2010-06-08 16:11 | 宮地嶽神社と古墳・福津市 | Trackback | Comments(2)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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