ひもろぎ逍遥

lunabura.exblog.jp ブログトップ

<   2010年 07月 ( 15 )   > この月の画像一覧

桜井神社(1)嵐の中で岩戸が開いた


桜井神社(1)
さくらいじんじゃ
福岡県糸島市志摩桜井4227
嵐の中で岩戸が開いた
かつては與止姫大明神と号す

福岡市の北西部にある糸島半島はかつては島でした。
その奥の方に桜井神社はあります。
創建は江戸時代で、当時の姿がそのまま残っているお宮です。
さあ、では、江戸時代にタイムスリップしましょう。
c0222861_21461640.jpg

静かで広々とした境内の小さな石橋を渡っていくと楼門の古さと重厚さに目を奪われます。
c0222861_21465182.jpg

楼門の近くから見上げました。
これは江戸時代のもので、扁額には「正一位與止姫大明神」とあります。
ところが裏側にも扁額があって、それには「桜井神社」とありました。
ここは桜井神社と普通呼ぶのですが、與土姫(よどひめ)の名前が!
楼門の表と裏の二つの扁額の名前が違います。大変珍しいです。
どのような事情なのでしょうか。
c0222861_2148146.jpg

楼門を通るとすぐに拝殿があります。彫刻が素晴らしいです。
拝殿の中には奉納された絵馬が沢山かかっていました。
二見が浦の絵馬が多いです。二見が浦はこの神社の北側の海にあります。
昔はそこでミソギをしてから、この神社に参拝したそうです。伊勢神宮の風習とよく似ています。
c0222861_21493267.jpg

扁額を見ると、手前が「桜井神社」。奥には「與止妃宮」と書いてあります。
やっぱり、二つ。どうなってるのでしょうか。

神社の説明書きがあります。読んでみましょう。

桜井神社略記と祭典案内
慶長15年(1610)旧暦6月1日から2日暁にかけ、桜井の里を中心に雷鳴轟く大豪雨の中、岩戸神窟の口が開き、霊験あらたかな神さまが出現されました。
それから、奇瑞多く、ついに筑前二大国主・黒田忠之公も聞き及ばれ、自ら参拝し、おおいに稜威を感じ、御社伝造営を発願されました。

寛永6年着工、寛永9年(1632)に桧皮葺三権社流れ造りの絢爛豪華で極彩色豊かな御本殿と御社伝及び境内整備が壮麗を極めて完成しました。
この神社の始まりは江戸時代の初期で、
大豪雨の中、岩戸が開いて、霊験あらたかな神が出現されたと言う事です。
しかも、不思議な事が沢山あったので、黒田藩主・忠之公までも訪れて、その神威に感じ入り、
ついには社殿を建てられました。この神社は黒田のお殿様が建立されたお宮でした。

この件については貝原益軒が大変詳しく書いていました。
今日はそちらを訳しながら紹介したいと思います。
この里は山谷の間にあって、志摩郡の中央にある。その境内は広くて、東西4キロあまり。
桜井と名付けたのは、圓光寺という枝村の民家の後ろに、桜井という井戸があって、その名を付けた。
井戸は深くはなかったが清らかだった。昔この井戸のそばに大きな桜の木があって、その木の傍から水が出たので、桜井と言うようになった。昔の桜は枯れたが、先の藩主忠之公が、井戸の側に桜を植えさせられた。
今もその木がある。
桜井というのは桜の木のそばに清らかな水が出たのが起こりでした。
それが地名となりました。

さあ、続きは桜井神社についてです。
この里の藍園という所に與土姫明神の社がある。與土姫は社号で、神直日、大直日、八十枉津日の三神を祭っている所だ。社殿の後ろの小高い所に岩窟がある。
これを岩戸という。瓦屋根を作ってその上を覆っている。
岩戸の入口の間の長さ一間二尺(250センチ)、横5尺(165センチ)、高さ二間半(460センチ)ばかりだ。
(奥行きと高さと入れ違っている?…ルナ)

この社の創立を尋ねると、慶長15年の6月1日の暁からこの岩窟の当たり十町(1キロ)ばかりの間、風雨が激しく、雷電もしきりに鳴って、終日やまなかった。翌2日の暁までそうだった。この時、岩戸の口が初めて開いた。これを聞き及んで、遠近の人が大勢見に来た。

この村に浦新左衛門と言う者がいた。浦という邑に住んでいた。その妻に神が懸かって、参詣の人が吉凶を尋ねてみると、間違いがない。その他、様々の神の霊異が数え切れないほどあった。

今の世の人はそれを聞き伝えたり、目の当たりにした人もいるので、それを詳しく書いても、嘘だとは思わないだろう。しかし、あまりに不思議な事が多いので、後世になって、嘘ばかり書いていると言われると残念だし、
怪しい事は書かないのが古聖の訓なので、これほど稀有な神異だが、ここには書かない。

同年、11月21日、かの新左衛門の妻にお告げがあって、5年間、五穀を絶って、ただ茶酒だけとって、穢れた食べ物を忌むようにとの教えだったので、それから5年間、五穀を食べずに、ひたすら茶酒のみ飲んでいた。

こうして、参談所といって、一間ほどの所を構えて、日々お参りして来る人たちの吉凶を尋ねるのを答えた所、いささかも違える事が無かった。

こうして霊験がある事が長く続き、遠近にまで評判が届いて、黒田藩主・忠之公がこれを聞き伝え、近臣に試させると、奇特な事が多くて、ついに忠之公みずからここに参詣されて、質問を試みられると、その答えが、みな霊験があったので、大いに感じ入り、信心を起こして、岩戸の前の山が岩戸と同じ高さだったのを、社を立てる為に土を取って、低くならして、神殿を作らせた。

この辺りにしては、壮麗を極めた造りだったので、数年かかって、寛永9年完成して、京都から吉田兵部少輔中臣治忠を招請して、社号を與土姫大明神として、あがめ奉った。
大変具体的に書いてありました。
この始まりは、豪雨のために古墳の口が開いたのではないかと思いました。
新左衛門の妻に神懸かりがあって、霊験がいろいろあるようになりました。
ついには黒田のお殿様の耳に届き、自ら訪ねて来られて、神徳があったので、神殿を作らせたという事です。

御祭神について考えました。


岩窟の方は奥宮・岩戸神社といいますが、
御祭神は大綿津見の神と『福岡県神社誌』に書いてありました。
三柱の海の神さまたちです。

また、手前の與土姫大明神の方には神直日、大直日、八十枉津日が祀られています。
(かむなおひ、おおなおひ、やそまがつひ)
この三柱は禊(みそぎ)の神さまたちです。

これらの六柱は志賀海神社で書いたように、
イザナギの命が禊をしたときに生まれて来た神々です。

社号の與土姫はヨド姫ともトヨ姫とも言います。(志式神社では豊姫となっていました。)
ヨド姫は厳しい禊をして神意を尋ねる巫女で、海神の妻とも言われています。
一生を海神に捧げた姫神さまです。

楼門の扁額が表は「與土姫大明神」で、裏が「桜井神社」となっている件については、もともと、與土姫大明神だったのが明治二年に桜井神社に改称されているのが分かりました。

與土姫大明神について考えました。

この神社の名前がかつては與土姫大明神という事から、新左衛門の妻に懸かられた神が與土姫大明神ではないかと思いました。

現代でも、このように神が懸かられる話や神示が降りる話がありますが、
神霊の言葉はエネルギーの状態なので、取り次ぎの神がいて、人間に分かる言葉に翻訳します。

新左衛門の妻にも、取り次ぎの神として與土姫が懸かられて、神々の言葉を伝えたのではないでしょうか。

岩戸神社の御祭神が大綿津見の神です。
志式神社の神楽では、海神は豊姫の言う事なら聞き届けられていました。

ですから、この宮でも、参拝する時は、まずは禊の神様に清らかにしていただいて、
與土姫さまに取り次いで頂いて、岩戸の神さまにお願い事をすると、
よく聞き遂げられるのかな、と思いました。(あくまでも、ルナの想像です…。)

拝殿でお参りを済ませたら、その真後ろに行きましょう。奥宮・岩戸神社があります。
c0222861_2159910.jpg

石垣が見えます。渡り廊下の下に神殿があります。
c0222861_2202481.jpg

振り返ると、神殿の裏側が見えます。平成になって、当時の極彩色が再現されました。
これを見ると、かつての楼門や拝殿の華やかさがしのばれます。

この奥宮・岩戸宮で玉串参拝が出来るのは、元旦から三日間と7月2日と書かれています。

(つづく)



気が向いたら、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2010-07-30 22:09 | 桜井神社・糸島市 | Trackback | Comments(4)

桜井大神宮・伊勢の内宮外宮が一緒に祀られている


桜井神社(2)

桜井大神宮
伊勢の内宮外宮が一緒に祀られているよ


c0222861_2113319.jpg

境内の反対側に、山があって、石段があります。
なんとも心惹かれる風情です。上っていきましょう。
c0222861_21161177.jpg

杜の中の参道は木漏れ日の中。そして、石段の上の鳥居を見て、あ!
お伊勢さまだ!
この飾り気のない簡素な鳥居はお伊勢さまだけの鳥居。足もとに立札がありました。

「伊勢神宮領賜 佐美長神社 一之御鳥居 第六十一回式年遷宮 平成5年」

やっぱりそうです。前回の式年遷宮の分がこちらに下賜されたのですね。
伊勢神宮では20年に一度、すべての宮が新調されます。
取り払われた宮や鳥居などはこうして、縁ある宮で見る事が出来ます。
この神さびた風情。ここにいるだけで心が洗われます。

これまた簡素な宮です。かやぶきの屋根。昔のままの建物。
c0222861_2124866.jpg

近づいて行きましょう。
c0222861_13315924.jpg


c0222861_1345465.jpg

苔むした扁額には「内宮源 外宮宗」と書いてあります。

この宮について、與土姫大明神の拝殿に説明がありました。
御本殿正面の石階段上約200メートルの所には、寛永2年の創建で、伊勢の内宮外宮の御分神を一宇に奉斎する桜井大神宮が幽遠森厳の中に鎮座しています。

與土姫大明神より数年前の建立です。ここは、お伊勢さまが、内宮と外宮一緒なんだ!
伊勢市のお伊勢さまに参拝する時には、外宮に参拝してから内宮に向かうのが順です。
少し離れているので、バスかタクシーで移動します。でも、ここは一度にお参り出来る!
しかも、こんなに近くに行ける。

どんな歴史を刻んだのでしょうか。これも貝原益軒が筑前国続風土記に書いていました。

本社の西南の光寿山のふもとの高い所に天照大神宮がある。これは本社創立の後、神託によって忠之公がここにお立ちになった所である。その後大神宮にも参詣する人が多い。が、今は絶えた。
こうして忠之公は與土姫大神に神領を寄付されて、祝人を多くおいて、祭礼を行わせた。その年、忠之公はひどく悩む事があって、この神に祈られた所、神のお告げとして、不思議な夢を見られた。それからは、さきほどの悩みの雲霧もはれて、なんのおそれもなくなったので、この神のちからだと言って、その夢想の句を自筆で書いて社に奉納された。これより、ますます信仰深くなられた。

黒田忠之公について調べると、当時、黒田のお家騒動があって、
藩が取りつぶされるかどうかという大変な悩みがあったのが分かりました。
その事件がこれに相当するのか分からないのですが、
忠之公にとって、ここの神々が心の支えになったのがよく伝わってきます。

なお、忠之公が亡くなった後は、島岡大明神としてお祀りされています。
c0222861_1336395.jpg




気が向いたら、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2010-07-30 13:36 | 桜井神社・糸島市 | Trackback | Comments(0)

桜井神社(3)21歳の藩主・黒田忠之公の悩みと神威


桜井神社(3)

21歳の藩主・黒田忠之公の悩みと神威


c0222861_21211941.jpg

この神社を創建した人が筑前福岡藩の二代目城主・黒田忠之公という事で、
今回は忠之公の人生を簡単に辿ってみようと思います。
(年齢は西暦から単純に計算したものなので、誤差があります。)

父君は黒田長政公。初代のお殿様です。
祖父の黒田如水と共にキリシタンでした。
長政公は関ヶ原の戦い(1600年)の後、筑前博多に来て、
すぐに福岡城の建設に取り掛かっています。
その城の瓦に十字架が刻印されていたのが最近発見されて、話題になりました。
長政公は1587年の秀吉バテレン追放令のあと、
キリスト教を捨てたと言われています。
城はその後に建設されたので、この隠された十字架は信仰を捨てていない事を
見えない所で示した証しだと言えます。

黒田忠之は1602年に長政公の長男として生まれました。
忠之が12歳の時には大阪の冬の陣、夏の陣がありました。
ところがその後、父長政公は忠之を見限って、
廃嫡(はいちゃくー跡継ぎをやめさせる)しようとします。
家臣の制止によって、それは実行されませんでしたが、
13歳の少年には大きな心の傷を残しました。

その年に徳川幕府がキリシタン禁教令を出して、長政公はそれに従い、
キリシタン弾圧を始めます。
そんな父の姿を忠之は見たはずです。

そして、忠之が21歳の時に父が死去。
若き忠之公が二代目藩主となりました。
21歳の若殿様です。危なかしくって当たり前の年でした。

父の家臣たちと、自分の新しい側近たちの葛藤が始まります。
27歳の時、長子が誕生しますが、夫人が23歳の若さで亡くなってしまいます。
31歳の時、家臣の栗山利章と対立。
栗山に「黒田氏謀反の疑いあり」と幕府に訴えられてしまいます。
これが黒田騒動です。
この騒動は結果としては、無事におさまりました。忠之公は53歳で亡くなりました。

その忠之公と桜井神社はどう関わったのでしょうか。

1610年に浦新左衛門の妻に神懸かりがあります。
この方は、それからは浦姫様と呼ばれています。
浦姫様の噂はお城まで届き、忠之公は家臣を使いにやって、よく当たるのを知って、
みずから尋ねるようになりました。

24歳の時に神託で天照大神宮を建立。
30歳の時に本殿を建立となっています。
この年に黒田騒動です。
やはり浦姫様のご神託を仰いだらしく、浦姫様はそばの榎木に登って、
江戸を霊視してアドバイスをしたそうです。

忠之公が夢で告げられた句も伝わっていました。
「しるへにや 雀の千声 鶴の一声」
(家臣たちの千のアドバイスより、神の一声が自分の道しるべだ)

忠之公は藩主となってから、ずっと浦姫様に相談しながら、政をしていったのが伺われます。
家臣のアドバイスより重視したので、
古くからの家臣たちとの軋轢(あつれき)を生んでいった可能性もあります。

彼の宗教観を考えると、父の長政公がキリシタンだったのに転向していった苦悩を
幼い時に目の当たりにして、神とは何かという事を誰よりも深く考えたと思われます。

自分で霊夢を見て、神の御加護を体験して、この岩戸宮の神を深く信仰しました。

浦姫様は黒田騒動が落ち付いた後、1636年に亡くなりました。
それからは自分の判断で前に進むしかありません。
晩年には真言宗に帰依して東長寺を建立しています。

戦乱の世が終わって、江戸時代に入ったとはいえ、まだまだ、戦国時代の延長にあった時代に、
この岩戸が開かれて、福岡藩の国造りの支えとなりました。
このタイミングの不可思議さを思わずにはいられません。
その神気は、今なお、人々を守っているように思いました。

c0222861_21283764.jpg

境内の賽の神神社 石は猿田彦の神

途中ですれ違った青年に話を聞きました。
「神社が初めてと言う人が何故かここに来るようですが。」
「そうですね。私も神社参りを始めたばかりです。」
「どうして若い人に人気があるのですか。」
「縁結びと聞いてます。」
なるほど。そうだったんですね。

いやあ、ここは八百万の神々が祀ってあります。どんな願いも聞き届けて下さるように思いました。
c0222861_21292470.jpg






気が向いたら、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2010-07-28 21:41 | 桜井神社・糸島市 | Trackback(1) | Comments(0)

玄海灘・玄界灘の黒船騒ぎ

玄界灘の黒船騒ぎ

黒船は玄界灘で何をしていたのか。


現在放映中のNHKの「龍馬伝」に黒船が出て来ます。
玄海灘の伝承を調べていると、黒船が出没した記録が出て来ました。
彼らの行動が記録されているので、今日はそれを紹介したいと思います。

黒船が来た
幕末のある日、神湊(こうのみなと)の浜に黒船が来ました。玄海町沿岸の漁民の中には長崎警固の水主として、毎年勤務があったので、外国船を見た者もいたはずですが、初めて黒船が煙を吐いて沖を通る姿を見た漁民の驚きは想像されます。

ペリー来航は嘉永6年(1853年)であり、幕末に近い文久元年(1860年)にはロシアの船が対馬の一部を占領、文久3年には長州藩がイギリスの船を砲撃、翌元治元年(1864年)には英米仏蘭四国連合艦隊が下関を砲撃しています。

この頃の神湊町の話で、年代を確定する事が出来ていませんが、玄海町沿岸の語り継ぎとして記録しておきます。文政10年(1827年)生れの曽祖父が40歳、祖父が13歳頃の話の聞き伝えと思われます。

幕末に近いある日、地島沖から黒煙を吐きながら、一艘の黒船が現れ、地島前に出て来ました。これまでは沖を通り過ぎる事はあっても湊に入ることはなかったのですが、黒船は湊の沖まで入って来たから沿岸では大事件です。

漁方の知らせで、神湊浦庄屋は決断の結果、早飛脚を飛ばして、浦奉行(福岡)に知らせました。

しばらく見守るうち、黒船は静かに地の島沖に去った。また報告を要するので、早飛脚が出されました。見守るうち、地島を一周して測量などをしたのでしょうか。

若松では、西洋人が沿岸を測量した記録があります。また英国船が近海を測量した事があると福間でも言います。

黒船は停泊したように見えるから、また飛脚がとばされました。三人目です。やがて、黒田藩の侍が数騎、馬にて駈けつけて来ました。髯をぴんと生やした豪傑らしい侍が刀を手にかけて、沖の船を見廻している姿がそりゃもう、偉くそりくり返って見えた、と漁方は言います。
黒田藩の侍が駆けつけるまで相当永い期間、船は測量をしていたと考えられます。

『玄海町史話伝説』玄海町教育委員会 (一部省略しました。)

これを見ると、対馬が一部占領されたり、山口県が攻撃されたりと
すでに戦争の状態になっていたのが分かりました。
しかも、黒船といっても、国籍はいくつもあって、
イギリス、アメリカ、フランス、オランダ、ロシアと各国から来ています。

これに対して、筑前黒田藩はイギリスと長州藩の戦いのあとに、
福間、須崎、若松、黒崎、姪の浜に砲台を設置する工事をしています。
これは、藩としての対応であり、幕府の防衛作戦は見えて来ません。
無策ではなかったのでしょうが、どれほど危険な状態だったのか、先週の「龍馬伝」を見ていてびっくり。

「龍馬伝の」長崎の話(2010年7月18日放送)の一部です。
イギリス人の武器商人のトーマス・グラバー
わずか3年の滞在で巨万の富を手に入れます。
その商売敵のウィリアム・オールトがグラバーに
「かせぐだけ稼いだら、日本から逃げろ。この国は終わりだ。」
と警告します。
「幕府はフランスのあやつり人形だ。これをイギリスは許さない。」
と言って、日本征服のあらすじを明かします。

そのイギリス軍日本上陸作戦とはこうです。
摂津の海を封鎖して、兵庫に歩兵1万2千人他を上陸させて、
大阪を制圧したら京都へ向かう。そして、ミカドを拘束する。
一方、本隊1万5千人で江戸を攻撃する。こうして1日で日本を征服する。

なんとも、具体的な作戦です。

この放送を見て、彼らが玄界灘で盛んに測量した理由が分かりました。
日本を占領するための上陸地点を捜していたのですね。
オールトの話が本当なら、ざっと足し算しただけで2万7千人以上の兵が船に乗っています。
軍艦の数はいったい何艘だったのでしょうか。
これが日本の周囲をうろうろとして、上陸作戦を練っていた。

一気に上陸するためには、港の深さ、広さ、など、事前の調査が必要です。
玄界灘は長州藩のすぐそばなので、念入りに調査したかったのでしょう。
その長州藩の高杉晋作
「長州は黒船と戦って惨敗してからは、戦う相手を幕府に変更した。独立する。」
と龍馬に話すシーンがあります。
しかし、情勢はそれどころではなかった?

新宮町の相の島には、黒船が実際に上陸しています。
理由はなんと、
「船に乗っている婦人が気分が悪くなったから、しばらく島で休ませてほしい。」
との事。
希望は届けられて、婦人と男と二人を上陸させて、島内の案内もしています。
まっこて、恐ろしかことで。

さあ、これがどうやって未然に防がれたのか。
日曜日は「龍馬伝」を見逃せません。

地図 砲台 福間、須崎、若松、黒崎、姪の浜
黒船目撃 若松、地島、神湊、相の島




気が向いたら、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2010-07-25 15:45 | <地名・地形・伝承> | Trackback | Comments(0)

織幡神社(1)風と海と空の中の宮は海の神様が勢揃い


織幡神社(1)
おりはたじんじゃ
福岡県宗像市鐘崎字鐘岬
風と海と空の中の宮
海と勝利の神々が勢揃いだよ


玄界灘に突き出た岬に鎮座する神社。
それは風と海と空の中にありました。

c0222861_2238423.jpg

今日はいい天気。鳥居の先、左の方に丘が見えます。
その頂上にお宮はありますよ。さあ、では参りましょう。
c0222861_2240527.jpg

ほどなく階段です。すぐに拝殿の屋根が見えますが、あわてないで。
もう一つ石段が隠れています。
かつては鳥居を一歩くぐると、照葉樹林の原生林の中にはいる風情でしたが、
今は陽光がさんさんと降り注ぐ宮になっていました。
海の風と光を浴びて行きましょう。
c0222861_2323781.jpg

参拝をすませて境内をぐるりと廻ると、ここは岬の頂上部。
こじんまりとした広さの境内です。
樹木の間に踏み分け道がありました。ついつい覗きたくなります。
あっ。海が見えた!
c0222861_22403815.jpg

だから海辺の神社は大好きです。この踏み分け道はしっかりと固まっています。
2000年以上前から、ここに座って、海上の船を見たんでしょうね。
監視するのにもってこいの場所です。

では、御祭神を見て行きましょう。

竹内大臣、志賀大神、住吉大神、
天照大神、宗像大神、香椎大神、八幡大神、
壱岐真根子臣

この顔ぶれは、「海と船と勝利の神々」ですねえ。
竹内大臣を祀る宮は初めてですが、これまでも、ブログ内でチラチラと名前は出ていました。

彼は神功皇后を支えて新羅と戦い、御子が生まれた後も母子を全面的に支えました。
神功皇后と別の船に乗った時にも、御子を預けられるほど、彼は信頼されていました。

光さんから
竹内の一族が宮地嶽の巨大古墳を祀っていたという伝承を伺いました。
この神社に武内大臣が祀られているのは、昔なら唐突だと思ったでしょうが、
その古墳がこの岬から10キロ離れた福津市にあるとなると、
それほど不自然ではなくなって来ました。
この説はまだまだ検証する余地があります。

この神社を祀った海人族たちは、どんな暮らしだったのでしょうか。
普段はそれぞれの入江で漁業を営んでいて、
天皇家から(言い換えれば物部氏から)依頼があると、船を出す。
そんな光景を想像しているのですが、彼らはエリアごとに、住み分けをしていて、
航海の安全を重視したネットワークを作っているように見えます。

その証拠がこの神社の祭神の組み合わせからも伺えます。
この織幡神社宗像族のエリアですが、
ここに祀られた神の名前に「志賀大神、住吉大神」があります。

この志賀大神志賀海神社の三柱の海の神です。
(底津綿津見神、仲津綿津見神、表津綿津見神)
阿曇族の祭神です。

住吉大神は表筒男、中筒男、底筒男の三柱。
ルナが想定している、オリオンの三ツ星です。
住吉族の祭神です。

どれもが海の神であり、彼らが心から安全を祈った神であるのが分かります。
その次の御祭神の宗像大神宗像三女神です。
宗像族の守護神です。

こうしてみると、この岬の宮には、この玄界灘の海の神様が全部勢揃いしていました。

他に、出てくる天照大御神は宗像三女神の母神ですよ。

そして、残ったのは三柱。
その中の「香椎大神、八幡大神、」はこのブログでお馴染みですね。
香椎大神は神功皇后です。
八幡大神はその御子の応神天皇
そして、初めて見る神さまは最後に残った壱岐真根子(いきのまねこ)となりました。

その結果、この宮の御祭神は玄界灘の海の神さまたちと、
新羅と戦った神功皇后と御子と重臣の竹内の宿禰
+壱岐真根子
という組み合わせになりました。

これらのキーワードは「海、船、戦の勝利」です。
これまで逍遥した神社の神様ばかりなので、よく分かりますね。
忘れた?

ん~。そんな方は
香椎宮、志賀海神社にもう一度行ってくださいね。

さて、この神社の名前は織幡(おりはた)です。
いったい、どんな伝承があるのでしょうか。
            (つづく)


気が向いたら、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2010-07-14 22:55 | 織幡神社・おりはた・宗像市 | Trackback | Comments(0)

織幡神社(2)紅白の旗がここで初めて織られたよ。


織幡神社(2)

紅白の旗がここで初めて織られたよ。
c0222861_2152912.jpg



今日は神社の由来について、『玄海町史話伝説』
(玄海町教育委員会)を抜粋しながら見て行きましょう。


平安時代からオリハタ宮と書いてあり、地元ではシクアン様と言われています。
正しくはシキハム様です。

シキハム様…不思議な名前ですね。これがオリハタ神社の別名だという事です。
なんだか気になりますが、これ以上は調べようがありません。
古い時代、この社は盛大な祀りが行われ、
特に平安時代は住吉宮以上の社格の高い神社でした。

第一は宗像大社ですが、その次がこの織幡神社だったそうです。
ここは大変重要な聖地だったんですね。

縁起が書いてありました。
『宗像大菩薩御縁起』に、
「金崎織幡大明神は本地は如意輪観音、垂迹(すいじゃく)は竹内大臣の霊である。
神功皇后の三韓征伐の時、紅白二流の旗を織り、宗像大菩薩の御手長
(神儀の象徴たる長い旗竿?)に取り付けられたので織幡の名がある。
異国襲来の海路守護のため海辺に居り給う」云々(うんぬん)とあります。

この話には、仏教の影響が見られますが、もともと竹内大臣が御祭神だという事です。
神功皇后が新羅と戦う時、紅白の二枚の旗を織ったのが始まりでした。
この旗を長い竿に取り付けて、船の先頭で振って勝利を導いたのですね。
そのお蔭かこの戦争に勝ったので、軍師とも称えられる竹内大臣の御霊を
異国の襲来から海路を守護するために祀った事情が分かりました。

さらに縁起が伝わっていました。
『織幡宮縁起』(天和3年)
神功皇后及び武内宿禰、洞の海より高津山に登られ、神々に祈られ、
次いで波津(はつ)の浦で軍(いくさ)の旗を織らしめ給い、
その所を名づけて「はたの浦、大旗、小旗という。
今のはつの浦とは言いなまりなり。
ここに織幡大明神とは号するなり。

この岬の東側に波津の浦はあります。
そこで旗を織らせたので「旗の浦」と言ったのが、「はつの浦」になまったのだそうです。

c0222861_214274.jpg

岬の全景です。右側から登って行きます。
この神社を守るかのように、武人の石棺が麓や中腹にあるそうです。
江戸時代に人骨や鉄剣が出たのですが、ホリホリと崩れてしまったとか。

この「紅白の旗を織らせた」という事は、背景には機織りの出来る技術集団が存在したという事です。
ここは宗像大社のお膝元。
宗像族は、船や漁業だけでなく、高度な服飾文化を持っていたのがわかります。
衣服はもちろん、船の帆も必要です。

この集団に、紅と白の旗を織らせることが出来た竹内大臣は、ここと深い縁がある事が想像できます。

この「紅白の旗を織った事」は当時の人々にもよほど印象深かったのでしょうか、
この旗に関する神社と伝承が他にも二つ、近くにありました。
玄海町多礼(たれ)柚木(ゆのき)の指来(さしたり)神社の縁起書に、
「この神は神功皇后が異国に出兵の時、御旗を司った神なので、
旗指(はたさし)大明神と言ったのを、今は訛って指来(さしたり)明神という」
とあります。

なるほど、旗が出来上ると、それを采配する人が要るのですね。
この人は海の事を熟知して、戦うのも畏れぬ人だったのでしょう。
その人がこの指来神社で神として祀られているというのです。

面白い事に、この時、船の帆を縫った神さまも伝わっています。
津屋崎町奴山(ぬやま)の縫殿(ぬいどの)神社は、
「里民の言い伝えには、昔、神功皇后が新羅を征し給う時、船の帆を縫った神である、」
と言っている。
今、神名について思うに、これは兄媛を祀った神だろうか。


などと、『筑前国続風土記』にあります。 この伝承は厳密に見ると、時代の錯誤が見られます。
それはそれとして、帆を縫う人も必要です。
今回は、これが事実かどうかより、のちに兄媛の指導を迎え入れる技術者たちが
いた背景が伺われる点に注目したいと思います。

この兄媛(えひめ)については、『日本書紀』にこう書かれています。
応神41年2月、阿知使主(あちおみ)らが、
呉(くれ)の国から筑紫に帰って来た時に、胸形大神より工女を乞われ、
連れて来た兄媛(えひめ)、乙媛(おとひめ)、呉織(くれはと)、
穴織(あやはとり)のうち、兄媛を奉る。


阿知使主が中国まで行って、四人の織姫を連れて帰る途中、
宗像族の王がどうしても一人欲しいと望まれて、兄媛がここに残ったという話です。
その兄媛を祀る神社がこの縫殿神社です。
亡くなったあと、日本に機織りの技術を伝えた神様として祀られました。

こうして、オリハタに絞ってこのエリアを見ると、
弥生時代からすでに、華やかな織物文化があったのがしのばれます。

その伝承のある神社の位置関係を見てみましょう。
地図 織幡神社、波津の浦、指来神社、縫殿神社、宮地嶽神社、宗像大社


大陸や韓半島から技術者を連れて帰ると、
クニの王の所に挨拶をして、泊めてもらう事もあるでしょう。
お土産として布が献上されたと思われます。
それを見た王たちが技術者を欲しがる気持ちもよくわかります。

都に行く四人の織姫の一人を是非と言って置かせたのは権力の裏付けもありました。
織姫たちは、とても大事にされた事でしょう。
古代の人たちも、素敵な布で身を飾りたかったんですね。

「スセリ姫」の所に書いていますが、大国主の命は、妻と別れようとする時でさえ、
「何色の衣装を着ようか」なんて、歌っています。赤や青や黒など、色彩豊かです。

天照大御神は、神の為の布を織らせるために、精進潔斎した御殿を用意しています。

弥生土器の底に布の織り目が残っていたりするので、
織る文化はけっこう早かったのが分かります。
c0222861_21104670.jpg

これは、沖ノ島の女神に奉納された、金メッキの機織りのミニチュア版です。
20センチぐらいだったかなあ。奈良時代のものです。
実際に織る事が出来るんですよ。宗像大社の神宝館で見る事が出来ます。

(つづく)


気が向いたら、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2010-07-13 21:26 | 織幡神社・おりはた・宗像市 | Trackback | Comments(2)

織幡神社(3)祭神・壱岐真根子の悲劇


織幡神社(3)

壱岐真根子の悲劇
祭神・竹内大臣と壱岐真根子臣

c0222861_2146257.jpg


さて、一番最後に書かれている祭神の壱岐真根子(いきのまねこ)を
ネットで調べると、
中心の祭神・竹内大臣と深い関わりがあるのが分かりました。
その話は『日本書紀』に載っているので、それを現代語訳してみます。
応神天皇の7年の秋9月に高麗人(こまびと)、百済人(くだらびと)、
任那人(みまなびと)・新羅人が並んで来朝しました。
その時、武内の宿禰(すくね)に命じて、この韓人(からひと)たちを率いて、
池を作らせました。その池は韓人の池と呼びます。(場所は不明。)

応神9年の夏、4月に武内の宿禰を筑紫に派遣して、百姓(豪族たち)を監察させました。
その留守の間、武内の宿禰の異母弟の甘美内(うましうち)宿禰が、
この兄を落とそうとして、天皇に讒言(ざんげん)しました。

「武内の宿禰は常に天下を取ろうと思っています。
今聞いたのですが、筑紫に行って、密かにはかりごとをして、
『筑紫を分裂させて、三韓の王を呼んで自分に従わせて、天下を取ろう』
と言っているそうです。」と申し上げました。

すると、応神天皇はすぐに使者を使わして、武内の宿禰を殺すように命じました。
武内の宿禰は嘆いて言いました。
「私はもとより、二心(ふたごころ)は無く、忠義をつくして天皇にお仕えしていた。
いったい何のわざわいなのか、罪もないのに死ねというのか。」と。

そこに壱岐直(いきのあたい)真根子(まねこ)という人がいました。
その人は武内の宿禰と見た目がそっくりでした。
武内の宿禰が罪もないのに空しく死ぬのを惜しんで、言いました。

「まさに、大臣は忠義の心で天皇に仕えています。
はかりごとなど悪い考えがないのは、天下のすべてが知っています。
願わくは、密かにここを去って、朝廷に参内して、
自ら罪の無き事を伝えて、それから死んでも遅くはないでしょう。

また、誰からも『私めの姿かたちが大臣そっくりだ。』と言われます。
だから、私めが大臣に代わって死んで、大臣の清らかな心を明かしましょう。」
と言って、即座に剣で自分を刺して亡くなりました。

武内の宿禰はひとり大変悲しんで、密かに筑紫を去って、船に乗って、
南海を廻って、紀水門(きのみなと)に泊まりました。
ようやく帝に面会を許されて、罪のない事を弁明しました。

応神天皇は武内の宿禰と甘美内の宿禰の言い分の食い違いを尋ねました。
すると、二人は自分の言い分を変えずに争いました。
どちらが正しいのか決められませんでした。

そこで応神天皇は天地の神に誓わせて、探湯(くがたち)をさせました。
(探湯とは熱湯に手を入れて、ただれた方を邪とする審判法)
こうして、武内の宿禰と甘美内の宿禰は磯城(しき)川のほとりで、
探湯をしました。武内の宿禰が勝ちました。

すると、すぐに太刀を取って、甘美内の宿禰を打ち倒し、ついには殺そうとしました。
応神天皇は勅命を出して、許させて、
武内の宿禰の母方の紀の直(あたい)の奴婢にしました。


壱岐真根子にはこのような悲劇がありました。

壱岐真根子をネットで検索すると、
佐賀県の武雄市若木町に伏屍(ふし)神社があり、
そこに壱岐真根子が祀られていました。
運んできた彼の遺体が重くて、その近くに埋葬されたらしいです。

また香椎宮の社家系図に、
武内の宿禰が壱岐真根子の娘の豊子と結婚して、子供が生れている
というのが掲載されていました。

これらを総合すると、武内の宿禰は、
百済など韓国の事情に詳しい壱岐の真根子の所に行って滞在した時に、
刺客が間違えて真根子の方を殺してしまった可能性が出て来ました。
すぐに刺客を捕えて、事情を知った武内の宿禰は、
応神天皇の誤解を解きに行った。

大まかには、こんな流れがあったのかもしれません。

銀杏の木に込められた思い。


境内に銀杏の木があり、立札にこう書いてあります。
c0222861_2149751.jpg

下関・忌宮神社・御祭神・仲哀天皇をしのんで、
武内の宿禰公が植えられた木の末裔だと伝えられています。

仲哀天皇が香椎宮で急に崩御されたあと、
下関の豊浦宮まで遺体を運んだのが、武内の宿禰でした。
仲哀天皇から信頼が厚かったので、命をかけて、
残された神功皇后御子を支えて来ました。
その御子が応神天皇です。
その応神天皇に誤解されて殺されようとした無念さはいかほどかと思われます。

竹内宿禰は靴を残して昇天した。
c0222861_21505545.jpg

この境内にはさらに、不思議な沓塚(くつづか)があります。
立札にはこう書いてあります。
祭神 武内の宿禰公
両沓(ふたつのくつ)を残して、昇天される。その沓を祀る。

この文からは肉体を残さずに昇天したという、神としての死に方を与えられています。
武内の宿禰がどれほど大切に思われて神格化されたかが分かります。

かれはこの近くで亡くなったのでしょうか。墓所が近いかもしれません。
この玄界灘を見下ろす丘陵地帯は、古墳だらけです。
その初期の古墳あたりに、探してみたら面白いなと思いました。

さ、では気分転換に神社から見える海の景色をどうぞ。
c0222861_21563843.jpg


(つづく)



気が向いたら、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2010-07-12 22:01 | 織幡神社・おりはた・宗像市 | Trackback | Comments(4)

織幡神社(4)武内宿禰の荒魂と和魂が祀られていた。荒魂・和魂とは何だろう。


織幡神社(4)

武内宿禰の荒魂と和魂が祀られていた。
荒魂・和魂とは何だろう。

c0222861_23282830.jpg


さて、『福岡県神社誌』を見ると、当社の始まりについて伝承が載っていました。

社記に曰く、当社の草創について、
履中天皇年中、武内大臣がこの岬に来て、肉体のまま昇天された所を、
和魂(にぎみたま)の表としてこれを沓塚(くつづか)と名付けた。
その霊地に荒魂(あらみたま)の表を立てて織機神社と名付けて、
壱岐真根子の子孫の人が伝えてこれを祀っている。

代々の帝がこれを尊崇して、毎年仲春4日に幣帛の勅使を下していた。
武内大臣の神変力にて、異敵退散のめでたき旗を織ったので、
代々の帝が毎年11月中のうの日には新嘗祭の手向けをして、
他と違った扱いをしていた。我が国守護の霊神という。


前回紹介した沓塚について、神社にこのような由来が伝わっていました。
武内大臣がこの岬に来て、肉体のまま昇天したとき、
靴だけ残ったので、それを沓塚と名付けて、和魂を祀り、
神殿を建てて荒魂を祀ったという事のようです。

「表」というのは初めて見るので、よく分からないのですが、
「和魂と荒魂」というのは、古神道に言う「一霊四魂」のうちの二つを指します。
これは人間の霊的な姿を表わしたもので、霊は四つの魂から成り立っているという考えです。
その四つとは和魂・荒魂・奇魂(くしみたま)・幸魂(さちみたま)です。
この織幡宮の場合、武内宿禰の四魂のうちの二つを表として留め置いたというのです。

四魂について辞書を引くと、和魂の中に奇魂と幸魂があるという説もありました。
すると、四魂を留めたと言っていいのかも知れません。

貝原益軒が採集した伝承によると、
武内の宿禰がこの山を素晴らしいと言って、
「自分が死んだら神霊は必ずこの地に安置せよ。異敵の襲来から守ろう。」
というのが始まりである。

という事でした。

伊勢神宮に行くと、拝殿の左側の杜の下がった所に
荒祭宮(あらまつりのみや)があります。
そこには天照大御神荒魂を祀っています。
こうすると、四魂を分けて祭祀するケースがあるのが分かります。

聖洲さんの話によると、
「その昔、亡くなった天皇の荒魂・和魂・奇魂を留める祭祀をする巫女(みこ)がいた」
という事です。
これらから、四魂についての定義はまちまちですが、死んでから神霊として留めるために、
荒魂や和魂を玉などに留めるような儀式が存在していたと想像されます。

多賀神社でも、イザナギの命の神霊を玉に留めたというのがありました。

c0222861_23325369.jpg

(NHK 「極める」佐野史朗のなぞの石学)

これは出雲地方の古墳で見つかった玉石です。
石には真っ赤な水銀朱が塗られて、棺の上に置かれていたそうです。
ルナの勝手な想像ですが、この赤い石には亡くなった人の和魂や荒魂などが留められて、
死後もその地を守る祈りがあったのではないかと思いました。


一霊四魂(荒魂・和魂・奇魂・幸魂)については、いろんな解説ありますが、
現代の武道家の興味深い体験談があるので、一部抜粋しながら紹介したいと思います。

「安藤毎夫 × 小山一夫」
(合気道家)  (ヨガ行家)

「安藤師範が一人稽古中に遭遇した神秘体験」

安藤 朝早く、4時頃に起きてひとりで稽古をしていたんですね。
    何日かやっていたんですが、
    あるとき、とても集中できるような感じになったんです。
    腰を落とした体勢で、普段は膝や腰が痛くなるのに、
    そのときは痛みが消えていったんですよ。
    それで、「これはなんかいい調子だな」と思ってつづけていたら、
    鏡に映った自分が消えていたんです。

増井 見えなくなったんですか。
安藤 そうそう。最後には目の玉だけを残して
    鏡の中の自分は綺麗に消え去ってしまった。
    それでふと我に帰ってみると、身体に感覚がない。
    皮膚と空気との境がないし、手の感覚がないんです。

増井 痺れているような感覚とも違うんですか。
安藤 違います。融けているような、空気と一体化しているような感覚。
    これは凄いぞ、何かあるんじゃないかと思って試してみないといけないと…。
小山 滅多にないことですもんね(笑)。

安藤 それで寝起きを共にしていた、現在は養神館高田馬場道場の
    千野進師範を起こして、稽古に付き合わせたんですよ(笑)
    それで彼に私の手をつかませてふっと動いたら、見事に吹っ飛んだんですね。
    しかも彼は何をされるのか全然分からないし、予知もできないという。
    自分でも、何かをしようという感覚じゃないんだよね。

小山 それが古神道でいうところの鎮魂の状態なんですよ。
安藤 そうなんですか。
    無心というか、空(くう)になっているという感覚ですね。
小山 ええ、最高に気が充実していながら、手や足の感覚がないんです。
    意識は非常にクリアだけど身体の感覚がない。
    無重力の空間に浮かんでいるようで、
    しかも自分がとても大きくなったような感覚になってくる。
安藤 そうです。そうです。
小山 それが鎮魂のできている状態なんです。

増井 その感覚は小山先生も体験なさっているんですか。
小山 それがないと審神者(さにわ)にはなれないんですよ。
    体験としてはほとんど同じで、
    自分の体が融けてゆくというのも、確かにそうです。

増井 どれくらいの期間、出来ていたんですか。
安藤 2~3時間で消えました。

小山 『延喜式』という平安時代中期に書かれた、
   律令の執行規則をまとめた文書があるんですが、
   その中に鎮魂の事が書いてあるんです。

   それによると、人間の一霊四魂というのは身体の中ではなく、
   肉体の周囲に浮遊しており、それを丹田に鎮めて初めて鎮魂となるんです。
   一霊四魂を丹田に収めるためには道ができなくてはいけないんですが、
   一度道ができると鎮まりやすくなります。
   ところがその道を断たれてしまうと、逆に鎮まりにくくなるんですよね。

安藤毎夫 養神館合気道「龍」師範
小山一夫 クンダリーニ・ヨーガ 火の呼吸 主宰
増井浩一 取材・文 (「月刊秘伝」 2005年1月号 BABジャパン)

雑誌に掲載された対談の一部を紹介しました。
これによると、平安時代にはすでに「一霊四魂」が認識されていたのが分かりました。
肉体の周囲に浮遊しているんですね。それを丹田に鎮めるのが「鎮魂」。
「鎮魂」はとても集中した時に起こり、意識はクリアで身体の感覚がない状態。

「一霊四魂」は人が亡くなると、肉体から離れてしまうもの。
武内宿禰はこれが分かっていて、それを織幡宮に特別な神事で留めさせたのが分かりました。
それは死んでもなお、この国を守る為でした。
これを当時の人々はよく知っていて、それで歴代の天皇も、この宮を崇敬していたのですね。

この織幡宮は武内宿禰の神霊を留めたお宮なんだ。
武内宿禰については、調べていくと、日本の文化の基礎作りに関わる人だと分かって来ました。
それが千数百年のままの姿で残っているなんて、すばらしいですね。
c0222861_2338514.jpg

織幡宮のある佐屋形山と地島と大島。
ここは大変危険な海路で、これを見守るように織幡宮が祀られています。
(つづく)



気が向いたら、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2010-07-11 23:44 | 織幡神社・おりはた・宗像市 | Trackback | Comments(6)

織幡神社(5)沈鐘伝説と海女


織幡神社(5)
沈鐘伝説と海女

この神社の麓の参道は公園化されています。

沈鐘(ちんしょう)伝説

参道に入ってまず目に飛び込んで来るのがこの巨大な石。
これは、近くの海底から引き揚げられたものです。
昔から何度も試みられて、ついに炭鉱王が引き揚げました。
鐘が沈んでいるはずだったのに、石でした…。
c0222861_1451623.jpg

巨石のそばの碑文を書き写します。( )内を補っています。

沈鐘と巨石

昔の人は、金崎(という旧地名の本来の意味は)は鐘崎で、
ここには海の向こう(韓半島)から来た釣鐘が沈んでいると語りつぎ、信じて来た。
そして宗像興氏黒田長政など、その権力にまかせて
この釣鐘を引揚げようとしたが、失敗に終った。
ところが大正8年に山本菊次郎なる人が万金をつぎこんでこれを引揚げることに成功した。
しかし姿を現したのは釣鐘ではなくして、このような巨石であった。
人びとはがっかりしたが、いまでも本当の釣鐘は海底に沈んでいるとおの思いを捨てかねている。
このような話は沈鐘伝説といって諸国に例があるが、ここのは、そのもっとも有名なものである。
沈鐘と巨石。夢と現実。まことに面白い郷土鐘崎の物語である。
昭和49年10月  碑文 福岡県文化財専門委員 筑紫豊

ほんとうに鐘の形をしていますね。
嵐の時にはその鐘の音がすると言って万葉時代から恐れられていたものです。

この沈鐘伝説は各地にあるそうですが、
福井県敦賀市気比にもあると聞きました。これを聞いてびっくり。
何故なら、この宮の御祭神の武内宿禰と不思議な関わりがある所だからです。

その話を伝えるのは『古事記』です。『古事記の神々』の神功皇后から一部写します。

御子と気比の大神
さて、建内の宿禰の命はその御子(応神天皇)を連れて、
みそぎをしようとして、淡海から若狭の国へ行った時、
越前の国の角鹿(つぬが)に仮宮を造って滞在されました。
すると、その地の神イザサワケの大神の命が夢に出て来て、言われました。
「我が名を、御子の御名と交換したいと思う。」
そこで、建内の宿禰は言祝いで(ことほいで)言いました。
「畏れ多いことでございます。お言葉の通りに変え奉ります。」
と申すと、さらに大神が言われました。

「明日の朝、浜辺に行きなさい。名を交換したしるしの贈り物をしよう。」
そこで、翌朝、浜に御子が行かれると、
鼻が傷ついたイルカが浜辺全体に打ち上げられていました。
御子が言われました。
「私に大神の食べ物の魚をくださった。」と。

こうして、大神の御名を称えて、ミケツの大神と名をお付けになりました。
これから、今でも気比(けひ)の大神と言います。
また、そのイルカの鼻の血の匂いが大変臭かったので、
そこを血浦(ちうら)と言います。今は都奴賀(つぬが)と言います。

不思議な話ですよね。
武内宿禰が幼い応神天皇をわざわざ近江から日本海へ連れて行っています。
それだけでも不思議な事ですが、その地の神が
「自分の名前と御子の名前」を交換しようと言って来たというのですから尚不思議です。

気比神社織幡宮武内宿禰でつながっています。
気比にも沈鐘伝説があって、気比の鐘は逆さまだそうです。
そこの地名は金ヶ崎。ここの地名は鐘崎。かなりの共通項がある。

その訳は「海女」の伝承を見ると見えて来ました。

ここ、鐘崎は海女の発祥の地
c0222861_1461977.jpg

筑前鐘崎海女の像
これも、参道にある彫像です。碑文を写しましょう。

海女発祥の地 鐘崎
ここ鐘崎は、古来風光明媚、海路の要衝として万葉の古歌に詠われ、沈鐘伝説で名高い。
先祖は鐘崎海人と呼ばれ、進取の気性に富み、航海術に秀で、各方面で大活躍をした。
特に潜水の技術に優れた鐘崎海女は「西日本の海女発祥の地」として有名である。
海女の出稼ぎ地であった能登・長門・壱岐・対馬には枝村(分村)ができた。
海女の使用した道具は、県の文化財に指定され保存されている。
功績をたたえ、航海の安全と豊漁を祈る。
平成7年4月吉日    筑前鐘崎海女保存会


この海女の伝承を追いかけた本があります。
それを見ると海女たちの具体的な暮らしが見えて来ます。
その中の一部を抜粋しましょう。
鐘崎の伝承には、済州島に行った地元の漁師が
島の海女と結婚して郷里に連れ帰り、海女漁をひろめたというのがある。

また、能登の輪島の海士町の人びとは、
数百年のあいだ、日本海を往来していた鐘崎の海女たちが、
仮小屋を建てていたのを、藩主があわびを買い上げて定着の地を与えたのがはじまりだという。
対馬の曲(まがり)の海女たちも似た経過をたどって、
対馬沿岸一帯の漁業権を受けて住みついたのだった。

それほどに海は共同のもので、漁法も海の信仰も彼我共通性があったのだろう。
鐘崎の海女の足跡は能登や対馬ばかりでなく、日本海沿岸の浦々にはそこここに残っているし、
また壱岐から東シナ海に洗われる五島列島から天草にかけても、
鐘崎の海女の出漁の跡がある。
さらに瀬戸内海づたいに、四国沿岸にも筑前鐘崎から来たという浦がある。
このように諸方面の海へ、数家族ずつが、長い期間漁に出かけていたのだった。

森崎和江『海路残照』

この海女の行動半径と、武内宿禰の伝承の重なりを考えると、
鐘崎と気比のつながりが深かったのが見えて来ます。
鐘崎の海女たちはよく似た地形を見つけて、鐘ケ崎と名付けて、古里の伝承を伝えたと思われます。

考古学的にも、弥生時代遠賀川式土器が、
山陰、若狭湾沿岸、福井平野へと伝わっているそうです。
こうすると、海女たちは漁法だけでなく、最新の土器をもたらして、
歓迎されていたのかもしれません。

c0222861_1434110.jpg

(弥生土器 飯塚市歴史資料博物館にて 一階は撮影許可)
飯塚市は遠賀川流域です。デザインも素敵な土器ですね。
こんなのを各地で作ったのかな。それとも、船で運んだのかな?
学芸員の人はすぐ分かるんだろうな…。

海人族たちはかなりの距離を自由に行き来していたのがよく分かります。
弥生時代って、今から2300年ほど前から1700年位前です!
弥生人の行動半径って、広いですね。


次回はずっと時代が下がって、この岬のそばにやって来た黒船の話です。



気が向いたら、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2010-07-10 14:11 | 織幡神社・おりはた・宗像市 | Trackback | Comments(2)

銀の冠と法隆寺の関わり

鞍手町歴史民俗資料館(福岡県)

銀の冠はどんな時代を見た?
法隆寺との関係って?


歴史資料館に行くと、思いがけない出会いがあります。
この歴史資料館で、ひとめぼれしたのが、この銀の冠。
c0222861_11154698.jpg

これは復元レプリカです。銀色と青との組み合わせが印象的。
下の写真が現存する本物です。
c0222861_11162544.jpg

こんな冠が古墳から出土したんだそうです。王さまのかな。王妃さまのかな。

調べてみると、この古墳は盗掘されていましたが、副葬品がけっこう残っていて、
武器、馬具、工具、などの鉄製品と土師器、須恵器がありました。
すると、被葬者は男性ですね。7世紀中葉から後半の築造だそうです。

次は資料館内の説明書きです。
7世紀前半、銀冠塚古墳出土
純銀製の冠は国内で唯一のもの。
法隆寺の夢殿の秘仏である救世薬王菩薩の宝冠の文様と
基本的に同一で、大変注目されます。

古墳の名前はそのものずばり、銀冠塚
築造年代は資料によって少しずつ違っていますが、どちらも7世紀だという事です。
さらに他にあった説明を集約すると、
これは鉢巻き状の帯冠で、ハチマキの部分に透かしの文様が彫られている。
銀製の冠は全国に四例あって、特に浅間山(せんげんやま)古墳(千葉県)と同じ形式である。

福岡と千葉と離れた地点に同じ形式の銀の冠があるんですって。興味深いですね。
でも、今回注目したいのは、法隆寺にも同じものが見られる点です。

これが鞍手町の立冠です。
c0222861_11191492.jpg

これは法隆寺の釈迦三尊像の脇侍佛。
c0222861_1122974.jpg

ほらね。冠の所をよく見て下さい。中央の三角形がそっくりでしょ。これは驚き!

なんで法隆寺の冠と鞍手町の冠がそっくりなんだ!?

薬王菩薩像の冠を観察すると、後ろや脇などにも装飾があって、
耳の上の方からは、おしゃれに布を垂らしています。優雅です。
この冠は当時の最新、最高のデザインだったのでしょうね。
だって、仏像を依頼されたら、誰だって一番最高の物を作りたい。

もしこの二つの冠が同じ様式だとすると、
鞍手郡の銀の冠も同じようなデザインだった可能性があります。

法隆寺か…。
行ったことはあるけど、何も知らないよ。辞書を調べると、
法隆寺は607年、聖徳太子の開基・創建と伝える。
670年に焼失し、8世紀までに漸次再建。

とあります。すごい名前が出て来ました。
この冠は聖徳太子が作らせた寺の仏像と同じ様式なんだ!

この古墳の被葬者と聖徳太子は同じ時代を生きていた。

この法隆寺の薬王菩薩像は623年作と分かっています。
聖徳太子が亡くなって、造られました。
造ったのはあの有名な鞍作止利(くらつくりのとり)です。
百済の様式だそうです。中国北魏の様式と書いているものもあります。

すると、同じデザインの鞍手町の銀冠も鞍作止利の管理する工房で作られた、
あるいは模倣したものと考えられます。
銀冠塚古墳の冠も日本で作られ、当時の最新で最高のものだったんですね。

この古墳は7世紀なので、西暦600年代です。
この古墳の被葬者が生きていた時代の筑紫の情勢を、にわか勉強してみました。
602年 新羅に滅ぼされた任那を取り返すために、
      聖徳太子の弟来目皇子が将軍となって筑紫にやって来て、
      病気で倒れて翌年死去。
603年 聖徳太子の弟、当麻皇子を将軍として筑紫に派遣するが、
      妻が死去したので引き返す。
605年 鞍作止利が造仏の工に任命される。
     高句麗から建造費として黄金300両が贈られる。
607年 聖徳太子は遣隋使を派遣する。
621年 聖徳太子薨去。
623年 法隆寺の釈迦三尊像が作られる。
655年 斉明天皇即位。のち百済救援のために筑紫の朝倉宮に遷都。
661年 斉明天皇、朝倉で崩御。
662年 天智天皇 博多で即位。
663年 白村江で大敗する。
668年 草薙の剣が新羅の僧に盗まれる。

任那(伽耶)をめぐって、新羅とずっと戦っている状態です。
一方、百済、新羅、高句麗など、韓半島との
人と物の交流がかなり盛んです。
668年には八剣神社古物神社でおなじみの「草薙の剣盗難事件」が起こっています。

この古墳の被葬者はこの時代の人なんですね。
「神社の伝承」と「古墳の出土品」と「法隆寺」が関わりあうなんて驚きです。
しかも、鍵は法隆寺にあった。

この鞍手町は物部氏の本貫地です。これまで、調べたのを振り返ると、
物部氏は天皇家に軍備の援助をし、天文の技術で支えました。
天皇家が九州に来ると、この地を経由して筑紫に入って行きます。
そして、船や武器や軍馬、武人などの調整が行われたと考えられます。

被葬者は、もしかしたら、来目皇子と会ったかもしれませんね。
あるいは当麻皇子、斉明天皇、天智天皇などの誰かと。

次々と新羅との戦いのために筑紫にやって来る皇族と
対面する身分であった事をこの銀の冠が証明しています。

軍備の援助の代償として、当時の最高の銀の冠が献上されたのかもしれません。

鞍作止利は名前の通り、もともと馬具の製作をしていた人です。
この古墳の被葬者も馬具と工具を持っていました。
妄想すれば、この二人にも何らかの関係があったとも考えられます。
だから、法隆寺の仏像と同じものを贈呈したと。

妄想が進むと、この銀冠塚の被葬者がモデルだった可能性もあるぞと考えたくなりました。
だって、鞍作止利が渡来人の子孫なら、この鞍手を通ったはずです。
この鞍手で馬具造りを指導していて、都の仏像作りを依頼された可能性、
ゼロじゃないですよね。

さて、銀冠塚古墳の所在地は
福岡県鞍手郡鞍手町大字八尋字大谷
遠賀川の支流である西河の狭小な谷を見下ろす丘陵上にあったそうです。

古墳はもう失われているそうですが、この冠は下の資料館で見る事が出来ます。
鞍手町歴史民俗資料館
福岡県鞍手郡鞍手町大字小牧2097
TEL  0949-42-3200
開館時間 9:00~17:00
休館日 毎週月曜日、国民の祝日、毎月第3日曜日
入場料 無料 


地図 歴史資料館 銀冠塚古墳 古物神社


この銀の冠の背景を楽しむための、お散歩コース
八剣神社 ⇒ 古物神社 ⇒ 歴史資料館

海が見たくなったなあ。
次回は玄海灘の難所の織幡神社に行くぜよ。


気が向いたら、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2010-07-08 11:44 | <歴史資料館・博物館> | Trackback | Comments(9)
line

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


by lunabura
line
クリエイティビティを刺激するポータル homepage.excite
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31