ひもろぎ逍遥

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三環鈴ー天河神社の「五十鈴」が伽耶でも出土していた


三環鈴
天河神社の「五十鈴」が伽耶でも出土していた


『伽耶文化展』の第3弾。今日のテーマは「三環鈴」です。

c0222861_1351635.jpgこれが三環鈴です。リングに三つの鈴が付いています。韓国咸陽郡の上栢里(じょうはくり)から出土。(最大幅6.0㎝ 厚さ2.8㎝ 三国時代 5世紀 東亜大博物館)
馬具の飾りに分類されていました。
咸陽って中国だけかと思っていましたが、伽耶にも咸陽があるんですね。
(写真は実物より大きくなっています)







c0222861_13515314.jpgさて、これを見た時、「あれ、天河神社の五十鈴だ。」と思いました。三環鈴は天河神社では「五十鈴(いすず)」という名で御本尊となっています。これがその写真です。青銅製です。大きさは手のひら大。(下の写真を参考に)










天河神社とは
正式名称は「大峰本宮天河弁財天女社」ですが、普通は「天河神社」と言います。
紀伊半島の中央部・奈良県吉野郡天川村にあります。
修験道の重要拠点で、今でも護摩焚きなどがあっています。
この御祭神は市杵島姫。(宗像大社の女神ですね。)
それが密教を通して弁財天となりました。この二神はよく同一化されています。
この弁財天が芸能の仏さまという事で芸能人やミュージシャンがはるばると天河神社に訪れます。
その神社の御本尊の三環鈴は実際に音が出ます。
天河神社のHPには、天照大御神の天の岩戸隠れの時に、岩戸の前で振られたものとも書いてあります。

どうやったらよく音が出る?
三環鈴は考古学的には馬鈴として分類されていますが、少し疑問が残ります。
これはぶら下げるようには出来ていないのです。
普通の馬齢は紐通しが必ずついています。
私は天河神社の五十鈴のお守りを持っているのですが、
ぶら下げてジャンプしても肌に当たった時、音が消えてしまいます。
(馬のようには走れないから?ではないと思う)
つまんで振れば音が出ますが、それでは三つの形が活かせません。
音を上手く鳴らすには、棒に挿して両脇を固定する方がよさそうです。
なんとなく巫女さんの振る鈴っぽい形になります。


三環鈴の日本での出土例を探す
そこで、三環鈴をネットで調べてみました。ちょっと数えただけでも16例ありました。
どの三環鈴も馬具と共に出土しています。
馬鈴と解釈するのが一番多かったです。
しかし、ルナ的には今だに「はいそうですか」とは言えない気分が残ります。
(と、リングの中央をしげしげと見る)

サイズの変化が気になった。
ネットではサイズまでは書いてあるものが少なく、三つほど書いてあったので小さい順から並べます。
●中央のリング3,8㎝、鈴の直径2,7㎝(佐賀・花納丸古墳・6世紀)
●長さ13㎝、厚さ5,3㎝、鈴の直径5,5㎝(静岡・山ヶ谷古墳・6世紀)
●高さ6,3㎝。(ボストンにある伝仁徳稜)

伽耶では長さ6㎝厚さ2,8㎝だったのが、倍以上に大きくなっていきます。
まるで銅鐸のようですね。
イメージの助けに、CDの直径を測ると12㎝でした。
初期の三環鈴はその半径の大きさです。
面白い事にCDぐらいの大きさになると、手で持って振りやすくなります。
実際、天河神社ではそのレプリカを手に持って振られます。
c0222861_13592216.jpg


日本では神器へと昇華していった
三環鈴は古墳からの出土がほとんどですが、珍しい例として、
神社に奉納されたものがありました。
福岡県北九州市の岡田神社。神武天皇の神社です。
藤原の純友の乱を鎮圧した小野好古が奉納したと伝えられています。
三環鈴が神器のように、特別なものになったのが分かります。


この三角形という形が、三つ巴という神道思想に合致する形だったので、
倭人に特に好まれて、手のひらサイズに大きくなって、
神を呼ぶ時に鳴らされる祭祀の神器となっていったと思われます。
天河神社では鎮魂(魂を丹田に鎮める)に使われるそうです。

トータルの仮説として
青銅文化の中で出現した三環鈴は伽耶の王族たちに何らかの形で用いられて、
死んでからも馬具と共に埋納された。
渡来人と共に倭にやって来た時は6㎝ぐらいのサイズだったのが、
あっという間に12㎝のサイズに巨大化されて、手で振る神器となり、
祭祀に使われたり、神社に奉納されたりするようになった。
と考えました。

ルーツを考えると、伽耶では既に完成形になっているので、
原型はもっと北の方で見つかるのではないかと思いました。
また、三種の神器の玉・鏡・剣の三点セットのようには注目されていないので
見落とす事が多いのでしょうが、
ワカタケルの刻印がある有名な鉄剣が熊本と埼玉にありますが、
これには両方とも三環鈴が一緒に出土しています。
三環鈴は王位の象徴のアイテムとしても検討してもいいのではないかと思いました。

参考文献
『天河』 監修 柿坂神酒之祐 扶桑社
『伽耶文化展』 編集―東京国立博物館 発行―朝日新聞社 1992年
写真はこの二冊から転載しました。

ちなみに、不思議な天河神社参拝記は別項でいつか書こうかなと思っています。



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by lunabura | 2010-08-30 14:11 | 三環鈴・天河神社・奈良県 | Trackback | Comments(8)

蕨手文様は伽耶出身王族のシンボル?


蕨手文様は伽耶出身王族のシンボル?
伽耶と倭の装飾古墳をつなぐもの

『伽耶文化展』のつづきです。
こんな不思議な鉄器が載っていました。「有棘利器」と言います。
c0222861_1413406.jpg

左から3世紀~6世紀(長さ13.5~25.5)
これを見て、蕨手(わらびて)文を思い出しました。
一番左なんかは蕨そのものです。
それが下のように鳥の姿に変化していきます。
c0222861_14142287.jpg

5~6世紀(長さ33.6~49.8)
いったい何に使ったんだろう。
棒に突き刺すさめに下部が丸くなっています。
本の解説文です。
有棘鉄器とは、鉄板の側面をえぐって棘(とげ)の形に作った
鉄器のことをさし、鉄鋌を利用して一番簡単に作られる鉄器である。
伽耶地域の有棘利器はおよそ4世紀に出現し、
初期には主に権威の象徴として大型の古墳に副葬された。
その後、伽耶の滅亡を前後する頃には小型の古墳にも埋納されるが、
次第に消滅してゆく。
最近の調査例を見ると、種類も多様で地域ごとに独特の特徴を持っている。
特に陝川地域(伽耶の一部)から多く出土した有棘利器には、
鉄板をえぐってが表現されており、ある種の象徴性が加味されている。(略)
日本では、奈良県藤の木古墳出土の冠装飾に
有棘利器にみられる鳥の装飾文様があり、注目を集めている。

562年 伽耶は新羅に併合されて滅亡。
663年 白村江の戦い 倭は唐・新羅連合軍に大敗。

この利器の使い方は書いてありませんでしたが、
主に権威の象徴だという事が分かりました。
そして伽耶の中でも一部の地方で鳥に変化したようです。
それが日本の出土品ともつながっていました。
そのつながりを指摘された藤の木古墳の冠がこれです。
c0222861_14162218.jpg

たしかに、内側は木の枝のように装飾的になって、
外側に鳥のモチーフが見えます。これは6世紀末だそうです。
「蕨手は鳥のモチーフへ」と変化して、倭の王族の冠となりました。

ところが、この蕨手は福岡県の装飾古墳の中では
「蕨手そのもの」として発展しています。
c0222861_14171916.jpg

珍敷塚古墳復元図 (日下八光氏製作)

中央の上の方にその蕨手があります。それは靫(ゆぎー楯)の上にあります。
また左の船の舳先に鳥がとまっていて、その上には同心円があります。
「蕨手と鳥」が揃っています。

蕨手ってなんだろう。
蕨手についての説をざっと調べてみましたが、
これといった説が見当たりませんでした。未解明のようです。

それに対して、靫や同心円については、
「氏族のシンボル」と捉える説に出会いました。
「同心円」は「的」の事でイクハと言い、それがウキハ、浮羽となった。
「靫」は「靫負(ゆげい)の大伴(おおとも)氏」の象徴。

これはかなり魅力的な説です。(和田萃氏―下注)
この装飾古墳が浮羽あたりで発達するのを見ると、可能性は高いと思いました。

この説の延長線で考えると、「蕨手」も氏族を指している事になります。
この氏族を仮に「蕨手族」と呼びます。
珍敷塚古墳の絵は
「同心円のイクハ氏」と「靫負の大伴氏」が「蕨手族」を支えている
というストーリーになります。
被葬者は蕨手族の人です。

この蕨手文は他の装飾古墳にも10例ほど見られます。
その中でも、有名な王塚古墳には
蕨手がこれでもかというほど描かれています。
c0222861_1419993.jpg

これは入口のすぐ右側にあります。

これを見ると、赤と黒のが描かれていて、馬に乗った人物はとても小さく、
それに対して蕨手文はかなり大きいです。
シンボルとして解釈するなら、製作者の意識には順位づけがあって、
蕨手が一番、馬が二番、騎手が三番です。
その心理は「蕨手だ。蕨手のお蔭なんだ」と称えているように思われます。
(でも、馬の方がすごいぞ。)という気持ちもチラリ。

自分が墓を作る立場だったら、何を書き残したいかと考えました。
「遠い所から来て、豊かなクニづくりをした大王が亡くなった。
この大王の出身は蕨手族である。それを支えたのは騎馬軍の私たちだ!」
墓の碑文に書くとしたら、そんな事を書きたい。
それを文字を使わずに表現するとしたら、絵しかない。
壁画は碑文代わりに描かれたと考えました。

短甲にも蕨手があった
蕨手が図録にもっとないかなと再び探してみると、
短甲に蕨手が堂々と付いていました。
c0222861_14203549.jpg

伝金海 退来里
高さ66センチ 三国時代 5世紀 国立中央博物館

この短甲には前にも後ろにも蕨手がついています。
戦いの時に自分のクニや氏族を明らかにするためです。
羽根のような刀の形をした部分は首を守るためのパーツです。
戦いに明け暮れた様子が伺えます。

器の取っ手まで蕨手。
c0222861_1421253.jpg


高霊 池山洞45号墳 三国時代 5-6世紀 国立慶州博物館
取っ手は指が入るようなデザインが普通の中に、こだわりの一点が…。
やはり、蕨手は紋章的なトーテムの可能性があります。

この蕨手族が倭にやって来たと想像してみました。
どんな事情だろうか。
1・新羅などと戦って負けて逃れて来た。
2・クニが拡大するなかで、平和裏に王族の皇子あたりが派遣された。
3・筑後や穂波あたりの豪族が軍事的援助を頼んで招いた。
いくつかのケースを考えました。
いずれにしろ、結果的には蕨手族はここで
豊かなクニづくりをしたのではないかと思いました。
それというのも、この王塚古墳の場所が最高のイヤシロ地にあったからです。
(王塚古墳は別項にて)

これらから仮説を立てました。
伽耶あたりで発生した王族がいて、蕨手文をシンボルとした。
蕨手文は鳥の形にも変化して行き、藤の木古墳の被葬者の冠に影響を与えた。
一方で、蕨手族が直接、福岡県にやってきた。
かれらはイクハ氏や大伴氏と共に豊かな装飾古墳文化を作った。

どうでしょうか。写真を並べるうちに、こんなストーリーになりました。
仮説です。いろんな方面からの意見をお待ちします。

参考図書
「古代史からみた装飾古墳」 和田萃 『装飾古墳が語るもの』国立歴史民俗博物館編 吉川弘文館 平成7年
『伽耶文化展』 編集―東京国立博物館 発行―朝日新聞社 1992年
王塚古墳の写真以外はこの二冊から転載しました。



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by lunabura | 2010-08-27 14:30 | 韓国 | Trackback | Comments(8)

謎の蛇行鉄器 高句麗―伽耶―倭をつなぐもの


謎の蛇行鉄器
高句麗―伽耶―倭をつなぐもの


宮地嶽古墳の記事を見た方からの情報で、
福津市中央公民館のロビーにすごいのがあると聞いて出かけました。

公民館は宮地嶽の真下にありました。
その二階ロビーに手光(てびか)古墳群などの出土品が展示してあります。
そして、いきなり、どぎもを抜くこの不思議な物体。
c0222861_1943358.jpg

そのU字の部分を見て、第一印象は、
何となく馬の背中につけたらよさそうだな、というものでした。
すると、説明文にその使用例の壁画の写真がありました。
それが、な、なんと高句麗の壁画
c0222861_19443351.jpg

カラー写真が退色していて分かりにくいのですが、
赤い丸の中にその鉄器が描いてあります。
そのくねくねとした先には旗が付いています。まぎれもなく、これだ!
(「平安南道双楹塚(そうえいづか)壁画 『朝鮮古蹟図譜2』」)

横に説明文がありました。
蛇行鉄器は平均的な長さは80㎝前後のその名のとおり屈曲した鉄棒である。
高句麗壁画古墳に描かれた絵から、鞍の後に取り付け、
旗などの飾りをつける旗竿説や日傘説などがあるが、用途ははっきりしない。
出土例は極めて少なく、国内で9例、朝鮮半島を含めても25例にも満たない。
手光古墳群(現光陽台)南支群2号墳出土

そこで角度を変えて旗を立てる穴を撮りました。
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四つの穴が精巧に作ってあります。明らかに鉄製で、サビがふいています。
四つも旗竿を付けられるように、そしてそれが絡み合わないように、
微妙な角度で外に向いています。

この不思議な形の鉄器が高句麗に由来する?なんだかすごい。

「太王四神紀」
高句麗という国と時代を理解するのに、
NHKの韓国ドラマ「太王四神紀」が大変参考になりました。
とにかく、毎週毎週、画面の中を騎馬軍団が駆け回っていました。
それは、日本の歴史ドラマでは見られない光景でした。

パソン姉さんという人が登場します。
北方朝鮮から流れて来たパソン姉さんは、鉄器造りの名人。
彼女の作る鉄の硬度が二種類あって、
固い方をついに広開土王(ぺ・ヨンジュン)に渡します。
鉄と馬。これこそが高句麗が拡大できた大きな要因でした。

また馬を巨大な船に乗せて運んでいました。
これはさすがにホンマかいなと信じられなかったのですが、
やはり事実としてこんな軍事作戦があったから、
ドラマになったのだと信じる事にしました。
本当だとしたら、何十頭も簡単に移送出来た…。

実は、衣装や建物などの時代考証は厳密でなかったらしいのですが、
ディレクターは「誰も高句麗を生で見ていない」との弁でした。
ですから、衣装などはかなり引き算をして見ました。
それでも、思ったのは、やはり韓国の人たちは
馬に乗っていた記憶を強烈に覚えている。

このドラマのお蔭で高句麗のイメージが出来て、国の名前が頭の中に入りました。
朝鮮半島は国の興亡が激しくて、覚えられません。(;一_一)

伽耶と福津を結ぶ蛇行鉄器

さて、話を蛇行鉄器に戻しましょう。
「伽耶文化展」の図録を見ていると、韓国でも同じようなものが出土していました。
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上が慶尚南道・玉田(ぎょくでん)古墳出土。5~6世紀。(伽耶
下左が宗像市 大井三倉5号墳。6世紀。
下右が福津市 手光南2号墳。6世紀。
この蛇行鉄器から言えるのは、
この手光古墳群は伽耶と深い関わりがあったという事です。
そして、それは高句麗へと通じていました。

ちなみに、「伽耶」は日本書紀では「任那」と書かれています。

この古墳の被葬者は、この旗印を鞍につけて、倭の野山を駆け巡ったのでしょうか。

はたしてこの蛇行鉄器は国産か舶来か?
「がめて来たんやろうね。」とは、この辺りに詳しいある方の弁。
これは博多弁で、通訳すると(奪って来たんだろうね。)という意味です。
いや、任那が倭だった時代なら、奉納されたのかも、なんて、言えませんでした。

(参考図書『伽耶文化展』 編集―東京国立博物館 発行―朝日新聞社 1992年)
なお、この本は展覧会の図録らしく、どうやら市販されていないようです。
図書館にリクエストすると手に入る可能性があります。



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by lunabura | 2010-08-25 20:11 | 蛇行鉄器・福津市 | Trackback | Comments(6)

縄文人と弥生人の顔


縄文人と弥生人の顔が見たい
こんな顔だったよ。


振り返るとずいぶん沢山の神社について書いて来ました。
それらは縄文、弥生、古墳時代に生きた人々が祀ったのが始まりでした。
祀られていたのは自然そのものだったり、そこに来た偉人だったり。
軍事的に重量な場所もありました。
御神体も、石や剣や玉、古墳の石など、さまざまでした。
これを祀った人たちってどんな顔?
これが気になって仕方がない。

そこで、神社の近くで出土した頭がい骨について、調べてみました
飯塚歴史資料館や、鞍手歴史資料館には人骨が展示してあります。
肉付けしたらどんな顔になるんだろ。縄文人かな、弥生人かな。
そう思っていたら「宗像市史」に宗像あたりの古代人の記述を見つけました。
眼窩と上顎の表を解説した文です。

渡来的形質を持つ宗像人
渡来的形質をもつとされる土井ヶ浜・金隈・古浦・佐賀東部の弥生人とともに、
筑前・南北豊前・山陰・西瀬戸内などの集団が
ひとつのグループをなしているがわかる。
それとは対照的に、北部九州縄文人・津雲縄文人のグループに、
種子島の広田弥生人や西九州弥生人とともに、
豊後・南九州の古墳人が入ることがわかる。
(略)

ちょっと地名が分からないと難しいですね。

これを読むと、九州北部にはもともと縄文人が暮らしています。
その次に来た渡来人が佐賀の東から北上して山陰まで。
また、大分から瀬戸内海あたりまで、邑を作っていたという事になります。
訳をしている古事記のエリアと重なるなあ。
てことは、これまでブラブラした所は
古くは縄文人がいて、その後ほとんどが渡来人になった。

では、筑前地方に含まれる宗像地方の人骨の形質はどのようなものだろうか。
福間町手光北支群3号墳と宗像市浦谷C-4号墳
および津屋崎宮司井手ノ上古墳出土の古墳人が
いずれも高い値を示し、渡来的形質をもつことがわかる。

おお、ブログに出した宮地嶽神社の周囲の古墳の事が書いてある。
手光(てびか)古墳は写真を出しました。
宮地嶽不動神社の巨大古墳と設計がそっくりで、ミニチュア版です。
(帰りには頭を天井にぶつけた…方です。)
巨大古墳より、手光の方が古いです。井手ノ上古墳はこの二つの間にありました。
この近辺の古墳人は渡来人だったんだ。
さあ、ターゲットがはっきりしました。では、はいどうぞ。
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左が縄文人。右が渡来系弥生人です。
NHK番組「日本人の起源」を写しました。
どっちも、どこかにいるいる。納得です。

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これは国立博物館の弥生人の人形です。
こんな顔の人も、いるいる。

ルナも、韓国の金浦空港に着いたとき、佐賀県東部の友達の
そっくりさんが、いっぱいいたので、びっくりしました。
また、帰って来た時、西日本鉄道の福岡大牟田線に乗り合わせた人たちの顔を
あらためて見ると、韓国人とよく似ていて驚きました。


渡来人は韓国からも、中国からも来ています。
いまでは血液型やDNAレベルでも移動ルートの探求がされているので、
さらに詳しいルートが明らかになるでしょう。

歯からも調査報告が出ています。
北部九州の古墳人は9割が渡来系、1割が縄文系だそうです。
その穏やかな混血のケースとしては、歌垣があったんではないかと、
多賀神社で推測しました。
縄文人と弥生人が混血すると、こんな風になりました。

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「日本人はるかな旅」NHKスペシャル⑤そして日本人が生まれた
(構成 馬場悠男 イラスト 石井礼子)

古代の日本は縄文人が全国に均等に暮らしていて、
渡来人が少数でやって来ました。
が、渡来人の平均寿命が長くて、米も作ったので
人口爆発を起こして、圧倒的に増えました。
そして、古墳を作る頃には、混血した顔になりました。
どの人も、どこかで見た事あるような顔ですね。

弥生時代の平均寿命は、縄文系で14歳。渡来系で25歳。
これは乳幼児の死亡率が高いためで、15歳まで生き残ると、
縄文系はさらに16年、渡来系は30年生きられたそうです。
女性が出産し始めるのが15歳頃とすると、
残りの16年と30年の差が人口増加率の差となりました。

さて、話を戻すと、宮地嶽神社付近から宗像市までの神社は、
ほとんどが渡来系の人たちが祀ったと言う事になります。
そうそう、渡来系の中には、物部氏のように中近東辺りからも来ているので、
色んな民族といろんな顔がありました。(⇒古物神社
そう日本人っていろんな国からやって来たんだ。

という事は、弥生時代の風習や文化を考えるときは、
古代中国や韓国の事を調べていくと、さらに理解が出来るんだ…。
あるいは、三笠宮殿下のように、オリエントまでも。 (⇒名島神社)
道ははるかだなあ。



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by lunabura | 2010-08-23 13:38 | 縄文人と弥生人の顔 | Trackback | Comments(14)

宗像大社(1)「道主貴」(みちぬしのむち)のおはします宮・全国六千社の総本宮

《宗像三女神の元宮を辿る旅》
宗像大社(1)
むなかたたいしゃ
福岡県宗像市田島2331
「道主貴」(みちぬしのむち)のおはします宮

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宗像大社は玄界灘近くにあります。
宗像市の東郷橋あたりの複雑な交差点を案内板を頼りに走ると、釣川に出ます。
その川に沿って海の方へ。
両脇は低い丘陵がつづく、美しい景色の中を走ります。
左にカーブすると巨大な鳥居があって、宗像大社だとすぐに分かります。
駐車場はとても広いです。
その正面に重厚な建物がありますが、これは祈願所ですョ。
交通安全などの祈願が出来ます。
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本殿へ向かう参道はこの祈願所の左側にあります。
では、参りましょう。
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小さな流れを渡ると、二の鳥居です。
ここから緑の木々の中に入って行きます。
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すぐに心字池があって、石の太鼓橋が待っています。
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広い池にはコイも泳いでいます。
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楼門に向かいます。
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楼門をくぐると拝殿に出ました。
c0222861_10363311.jpg

お参りして、顔を上げると奥の扁額には金色で文字が書かれています。
神勅(しんちょく)
「奉助天孫而 為天孫所祭」
と書いてあります。
天照大御神が言いました。
「そなたたち、三柱の女神たち。
道の中に降臨して、天孫を助けまつり、天孫にお祭を受けられよ」
(日本書紀)

拝殿前には床几が置いてあります。
こころゆくまで三女神の気を受けましょう。
古代より道の神様として信仰が篤い宗像大社。
その名は日本書紀にも記されています。
遠く大陸に渡った遣唐使なども航海安全の為に必ず参拝をしていました。
このように交通安全の最高の守護神として宗像さまは
今も人々から篤く崇敬されています。(リーフレットより)

『古事記』には神さまたちが次々に書かれているのですが、
一番初めに出てくる人間の名前は誰かなと思って探した事があります。
すると、出て来たのが、「阿曇(あずみ)の連(むらじ)」や
胸形(むなかた)の君」でした。
海人族です。
その人たちが神代からお祭りする神々です。
古代の一番の移動手段は船です。荒海を渡るのは命がけでした。
人々はこの宗像三女神の守護を祈りました。
行きつく港々に祀って行って、全国で6000という数になりました。
その総本宮がここ田島のお宮です。

三女神の名前は
田心姫神、湍津姫神、市杵島姫神
たごりひめ、たぎつひめ、いちきしまひめ。
この三女神は「道主貴」(みちぬしのむち)という美しい言葉でも呼ばれます。
リーフレットには
』(むち)とは神に対する最も尊い呼び名で、
「最高の道の神」であるとも日本書紀には記されております。
特に、沖津宮がお祀りされている沖ノ島は、
九州と朝鮮半島とを結ぶ玄界灘のほぼ中央に位置し、
昭和29年以来三次にわたる沖ノ島学術調査団によって発見された
約12万点にのぼる貴重な神宝は、当時大和朝廷より
厳かな祭りが斎行されていた事実を物語っており、その内容や規模の大きさから、
沖ノ島は『海の正倉院』と言われ、
現在でも古代からの風習が守り続けられている
「神の島」であります。
と書いてあります。

今回紹介している、宗像神社は辺津宮と言って、陸地にあります。
あと二つは島にあります。
宗像大社と言えばこの三つの宮を総合して捉えます。
この辺津宮には市杵島姫が祀られています。

では、三女神が生まれたシーンを古事記から紹介します。

アマテラス大御神
「どうして、天に昇って来たのだ。」と尋ねました。
スサノオの命
「わたしめは悪い考えは持っていません。
ただ、イザナギの大御神が私に泣きわめいている訳をお尋ねになりました。
そこで、『わたしめは亡き母の国に行きたいと思って泣いているのです。』と答えました。

すると、大御神は
『そなたはこの国に住んではならない。』と言われて、私を追放されました。
だから、事情をお話しておこうと思って参上しました。他意はありません。」と申し上げました。
すると、アマテラス大御神は
「それなら、そなたの心が清く正しいのがどうして分かる。」と言いました。
そこでスサノオの命は答えて、
「それぞれウケイ(うらない)をして子を生みましょう。」と言いました。

そこで、天の安の河(天の川)を中に置いて、ウケイをする時に、アマテラス大御神が先に、
スサノオの命の佩(は)いた十拳剣(とつかつるぎ)を貰い受けて、
三段に折ってユラユラと揺らして、天の真名井の水で振りすすいで、
噛みに噛んで、フッと吹き捨てた時、
息吹きの霧に生まれた神の名は、タキリビメの命
またの名は奥津島(おきつしま)ヒメの命と言います。
次に、イチキシマヒメの命。またの名はサヨリビメの命と言います。
次にタギツヒメの命。三柱です。             (古事記)

この続きは日本書紀から。
 日の神(アマテラス)はスサノオの命に本当に悪い心がないのを知って、
日の神から生まれた三柱の女神を、筑紫の洲(くに)に天下りさせました。その時、
「そなたたち、三柱の神たち。道の中に降って、天孫を助け奉って、天孫の為に祭られよ。」
と言われました。               (日本書紀)

古事記についてはこの前後も訳しているので、
サイドバーの『古事記の神々』の宗像三女神を見てくださいね。
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境内には108の神社が祀られています。
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右の奥に行くと御神木の楢の木があります。
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楢の葉っぱです。
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こんな花が咲きますョ。


                                      (つづく)
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by lunabura | 2010-08-18 10:57 | 宗像大社・むなかた・宗像市 | Trackback | Comments(2)

宗像大社(2)裏伊勢・古神道の神籬を再現した神秘の高宮


宗像大社(2)
ここは裏伊勢
古神道の神籬を再現した神秘の高宮


相生の樫
ご神木の横に木戸があります。外に出ましょう。
そこは照葉樹林の中です。
きらきらと光と陰が交差する森の中を奥に歩いて行きます。
私は木漏れ日が恋しくなると、ついついここに来てしまいます。
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少し歩くと左手に御神木「相生の樫」(あいおいのかし)があります。
二本の幹から伸びた枝が仲睦まじく交差し合った連理の樹木は太古より
男女の絆を深め、恋愛が実り末永く夫婦円満の福徳が有ると言い伝えられています。
この樫の木はご覧の通り、堅い絆で目出度く枝が結ばれており、
その御縁により御神木「相生の樫」と命名致しました。  (立札)
不思議ですね。
本当に枝がつながっています。
連理の枝って、唐の玄宗皇帝と楊貴妃の愛の象徴でした。

第二宮・第三宮
さて、そこから左に曲がると、第二宮と第三宮があります。
「ていにぐう」「ていさんぐう」と読みます。
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玉石の上に簡素な白木の宮が二つ並んでいます。
この宮はどこかで見た事が…。
そう、伊勢神宮のお宮と同じです。

立札があります。
第二宮には沖津宮 御祭神 田心姫神、
第三宮には中津宮 御祭神 湍津姫神を
それぞれ奉斎し辺津宮御祭神市杵島姫神を第一宮と称し奉り、
古来より三宮一体の祭祀が厳修されております。
なお、両宮御社殿は第60回伊勢神宮式年遷宮に際し、
別宮伊佐奈岐宮・伊佐奈弥宮の古伝を御下付いただいて造営したもので
共に唯一神明造(しんめいづくり)です。

みあれ祭」の時には、大島と沖ノ島から
タゴリ姫神とタギツ姫神を大船団でお迎えするのですが、
その時お二人がお泊りになる宮と聞いています。
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伊勢神宮から下賜されました。
この屋根を見ると、ホントお伊勢さまですねえ。
ここで見られるとは、感激です。
しかも、もともとイザナギ・イザナミの夫婦神の社殿です。

日本のすべてを生みだした神々で、
最後の最後にアマテラス神とスサノオ神たちを生みました。
その二人がウケヒをして、生まれたのがこの宗像三女神です。
この地が深い御縁で結ばれているのが分かります。
裏伊勢」と由緒書きにあるのも、うなずけます。

高宮
さあ、こんどは高宮へ行きましょう。
少し坂ですが、数分で着きます。
是非ぜひ足を運んでください。
一番のお勧めです。
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こんな道と石段が続きます。
森林の香に包まれて、だんだん自然児に戻って行きます。

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光と影と風の中に、それはあります。
露天の祭場です。
正面の奥に依りしろの木があるのが分かりますか。
日本の古神道ではこのような根がついた木に
鏡と玉と剣を掛けて祈ります。
日本の古神道の始まりの姿そのものです。
高宮
宗像大神御降臨の地と言われています。
社殿がいまだ創建されない幽遠のいにしえ、この地で祭祀が行われ、
敬虔な祈りが捧げられたのであります。
現在でも、1日、15日の月次祭(つきなみさい)をはじめ春秋の大祭には
本殿に先がけてお祭が斎行されており、
全国でも数少ない神籬(ひもろぎ)盤境(いわさか)の古代祭場であります。
(立札)

社伝によると、平安時代にはここに社があったと記録があります。
昭和になって、祭祀跡が発見されました。
その後、古神道の本来の姿、「社殿がない神籬」を再現されたそうです。
ここに立てば誰でも直接、神の降臨と向き合えます。
素晴らしい祭場です。
奥宮である沖ノ島では巨岩の上や陰に直接、神器を置いて祈りを捧げています。
その本来の祈りの姿を辺津宮でも再現されました。
沖ノ島は女人禁制です。
だから、こうして、沖ノ島の聖域をしのびます。
何度来ても、感動する神籬です。

(つづく)



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by lunabura | 2010-08-17 14:43 | 宗像大社・むなかた・宗像市 | Trackback | Comments(2)

高宮神奈備祭・古式の祭りが復興された

宗像大社(3)
高宮神奈備祭

たかみやかんなび祭
古式の夜の祭りが復興された

 
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平成18年にこの高宮祭場で、800年前の祭りが再現されました。
それを新聞で知って、さっそく夕方から出かけました。
宗像大社の一番のお祭と言えば「みあれ祭」で、例年10月1日にあります。
その最終日の3日に、夜を待ってのお祭りです。
この日はこの神域の中に一般の人も入れました。

手元にその時配られた案内の紙があるので、見てみると、
「伊勢の神宮で斎行される多くの祭儀が夜の祭りであることから解かるように、
古来の祭儀は浄闇の中で執り行われたと考えられています。」と書いてあります。
古儀祭事の復興を図った時、このお祭りは古式にのっとって夜に決められました。

古文書には「この高宮で『餅5枚、神酒』が備えられて、
八女(やおとめ)神事が斎行された」と書いてあり、それも再現されました。
餅は「あおつみの餅」と言い、「事無柴(ことなきしば)」をお供えします。


当日の祭りの流れの記憶を辿ってみます。
高宮祭場の玉石の脇に座って、闇に包まれ始めると、
遠く下の第一宮あたりから、笛の音が聞こえ始めました。
ゆっくりと、ゆっくりと行列が近づいて来ます。
何もない浄闇。そして、近づいてくる祭りばやし。
体験したことのない、感動が湧いて来ます。
神官や氏子の人たちが座に着きました。
祝詞が奏上されると、氏子の人たちが歌い始めました。
神功皇后が筑紫を行幸された時に詠まれたという神歌だそうです。

「八女は 誰か八女そ 天に座す 天若御子の 神の八女」
(やおとめは たがやおとめそ あめにます あめわかみこの かみのやおとめ)
ドミミミミ ファララララファファ ファミミミミ ドドドドドミミ ドミミミミミミ

初めて聞く旋律です。ドミファラだけで作られた歌。
日本人のDNAに眠る音階です。こんな旋律が歌い継がれていたとは!
必死でそのメロディーを書きとめました。4節目が少し曖昧です。

それから、四人の巫女による「悠久の舞」が奉納されました。
太宰府天満宮の巫女たちだそうです。平安の時代の美しい衣装と
髪飾りが闇の中に浮かび上がり、格別でした。

祭りは大変シンプルで、優雅でした。
姫宮さまたちの祭りに相応しいもので、今だに忘れられません。

この歌の「天若御子」って誰なんだろう。
「八女は 誰か八女そ 天に座す 天若御子の 神の八女」
ずっと気になっていました。
「天若日子」なら、高天原から遣わされたので有名だけど。
すると、昨夜、何気なく開いた本に書いてありました。
「天稚御子」…中世のお伽草子に登場するそうです。
「天上から降り、姫と結ばれる神であり、七夕説話と結びついて、
年に一度しか会えない遠い存在」だとか。
そう言えば、中津宮には天の川があって、七夕伝説があります。
神功皇后とは全く時代が違うけど、もしかして、この方かな。
(神社に聞けばすぐ分かるんだろうけど…。)

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(パンフレットより転載)
10月1日のみあれ祭です。
地元の漁船団が姉妹の女神を迎えに行きます。
御座船に選ばれると、その一年の豊漁が約束されるそうです。

ワクワク
さっき、この「みあれ祭」をよく知ってる友達がやって来ました。
もしかしたら、お祭に行けるかも!
行けたら、また報告しますね。




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by lunabura | 2010-08-16 16:23 | 宗像大社・むなかた・宗像市 | Trackback | Comments(8)

古高宮・「たま出版」創始者・瓜谷侑広氏と参拝しました


宗像大社(4)
古高宮 
「たま出版」創始者・瓜谷侑広氏と参拝しました

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10年以上前の話です。
イベント企画・コモンセンスの諏訪さんに頼まれて、たま出版の当時の社長の
瓜谷侑広(うりたにゆうこう)氏(故人)を、宗像大社に案内した事があります。

福岡空港まで車で迎えに行って、ここまで私の車で来ました。
第一宮から高宮まで案内して、せっかく東京から来られたんだからと、
この山の頂きにある「古高宮」まで行きました。

距離は短いのですが、山道を歩きます。
瓜谷氏は80歳前後でしたし、スーツに皮靴です。
照葉樹林は落ち葉がとてもすべりやすいので、まずかったなと反省しました。
でも、なんとか登って三人で参拝しました。

その前後、若い私の未熟な話を熱心に聞かれます。
社長さんにべらべら話す私も私ですが、それを受け入れて耳を傾けられる謙虚さに、
感激した事を覚えています。

帰京されると、自伝の本『無視の愛よ 永遠に』を送って来られました。
そのお礼の手紙を書いたりするうちに、ときどき電話でお話をするようになりました。

ある時、「これからの日本には古神道の教えが必要ではないか。」
言われました。そして、
「古神道についての原稿を各神社に書いてもらって本を出したい。」と。

御利益や建物の立派さなどではなく、祈りの原点としての神社の姿を模索されたようです。
私もこの宗像大社の沖ノ島の祭祀こそ、原点だと思っていたので、
嬉しくていろいろと話をしました。

今でこそ、神社を再認識する時代になって、紹介本が沢山出ていますが、
当時は、そうではありませんでした。残念ながら、瓜谷氏の考える本は出ませんでした。
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さて、今、宗像大社の古高宮にいます。祠があるだけです。
古墳があるそうですが、ざっと見てもそれは分かりませんでした。
ペトログリフ(岩に書いた古代文字)があるとも言いますが、それも見つかりませんでした。

祠の中には、かつては赤っぽい自然石が祀られていたと記憶しているのですが、
今回参拝してみると、緑の丸いパワーストーンが置かれていました。
さらにその四方に丸い石を配置してあります。

思い起こせば、初めてここに来た時は、ペトログリフを捜しに、
反対側から山の斜面をよじ登って来ました。
女二人で、道なき道をのぼったら、頂上に祠があるのでびっくりしました。
それから、「あれ、道がある」と言って、その道をたどると宗像大社に出たので、
またまた驚きました。友達が言いました。

「私、宗像大社の巫女をしてたのに、こんなふうにつながっているって知らなかった。」
「ええ?巫女さんしてたの?そのあなたがこの祠を知らないなら、宗像大社の人に教えなきゃ。」
そうして、私は後で神社の人に
「こんな所に祠がありましたが、ご存じですか?」と尋ねました。
「はい。お祭りの時には、ここでも祭祀をしています。」という返事でした。
ここは「高宮」に対して、「古高宮」と言うそうです。

…なんとも若かったなあ。

山を降りると、この山から二つの光が現れてサーチライトのように輝きました。
そして、一つになりました。二人とも興奮して見ました。
その光がなんであったのか今でも分かりません。
ルナのちっちゃな冒険記です。


★「武内宿禰」の古事記と日本書紀の現代語訳が完了しました。
長かったです。でも面白くて、ハマってしまった…。


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by lunabura | 2010-08-15 11:15 | 宗像大社・むなかた・宗像市 | Trackback | Comments(3)

お言わずの島」の出土品が見られる神宝館・沖ノ島の岩陰遺跡の三角縁神獣鏡を見に行こう


宗像大社(5)

「お言わずの島」の出土品が見られる神宝館
沖ノ島の岩陰遺跡の三角縁神獣鏡を見に行こう

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拝殿の左側から林の中の小道を行くと、神宝館に出ます。
ここには沖ノ島から出土した国宝がずらりと展示してあります。

沖ノ島の御祭神は田心(たごり)姫神です。
この島は女人禁制です。
男性でも年に一度だけ、抽選で当選した人だけが、参拝を許されます。
その時は、裸になって、海で禊をして上がります。
嵐で避難した漁船の漁師でも、禊をして上がるそうです。

この島で見聞きしたことは決して他言してはならないと言われ、
お言わずの島」と言われて来ました。
昭和になって、考古学的に調査がされて、
この島の女神に供えられた宝の数々が発見されました。
それは、巨岩の上に1500年以上も置かれたままでした。
岩陰や岩上など、時代時代の祭祀の姿をそのまま残していたのです。
「この島の物は一木一草たりとも持ち出してはならない」
との言い伝えが守られました。
その数8万点。
新羅製、百済製、中国製、ササン朝ペルシャ製などなど。
この沖ノ島が「海の正倉院」と言われるゆえんです。

現在、この時発見された品はこの神宝館で見る事が出来ます。
国宝ばかりです。
もちろん撮影は出来ませんので、パンフレットを購入しました。

一階には、三女神のためのお神輿が置かれていましたよ。
外枠は優美な曲線を描き、黒い漆塗りでした。
女神にふさわしいデザイン!それを間近で見ました。

二階から四階まで、時代ごとに分かれて展示されています。
沖ノ島には各時代の一級品が奉納されているので、
日本の文化の頂点の流れをざっと見渡す事が出来ます。

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三角縁神獣鏡
この有名な鏡が完品でいくつも並んでいました。
展示がとても近いので、細部までまじまじと見る事が出来ます。
この鏡は中国の魏の時代(1700年前)に作られて、日本に来たので、
卑弥呼に与えられた鏡300枚ではないかと注目された、特に有名な鏡です。
しかし、日本全体で300枚以上発見されてしまい、
卑弥呼の鏡ではなくなりました。
それでも、その精緻な作りで重厚な姿は見る者をひきつけます。

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金の指輪
今回どうしても見たかったのが金の指輪です。
新羅の時代(1400年)に作られて渡来した純金製です。
中央の花のデザインが優美ですね。
「あっ、これって女性用だ。」
王様の指輪と思い込んでいたので、驚きでした。
女性の細い指に入るサイズでしたよ。
写真で見るよりも、実物は華奢で、キラキラと輝いて綺麗でした。

このブログの「名島神社」で書きましたが、
名島神社でも、そっくりのデザインの金の指輪が出たそうです。
そんなに同じものがいくつもあるのだろうかと、疑問がありました。
ところが、その後、九州国立博物館の常設展に行ったら、
同じデザインの金の指輪が二つもありました。
新羅製でしたよ。「あ、同じものがある!」
でも、よくよく見ると、デザインは中央の花だけ同じで、
脇にある丸い輪はありませんでした。
技術的にもずっと劣っていました。同じ工房で作ったのかなあ。
新羅工房ブランド?
新羅工房の指輪は人気だったんでしょうね。
それを指に出来るのはよほどの豪族の妻だった?
(九博の常設展は写真撮影OKだったと、人のブログに書いてありました。
それを知らなかったので、写真は撮ってません。残念。
馬展の方はもちろん禁止でした。)
銀の指輪もありました。男性用と女性用が並んでいましたよ。

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金銅製の機織り機
実際に織る事が出来ます。てのひらに乗るサイズです。
奈良時代の作品です。
こんなミニチュアのものが沢山あって、日本人って昔から、
小さくて可愛いのが好きだったんだと思いました。

これら、最高級品が惜しげもなく奉納された沖ノ島。
この島は、朝鮮半島と日本の中間の位置にあります。
この玄界灘の荒海を乗り越えて、命をかけて奉斎した祈りの前には、
ヤマトの人々のこの島への絶対的な信仰を考えずにはいられません。

現在でも、宗像大社の神官が交代で住み込んで祭祀をしています。

世界遺産への課題
この沖ノ島を中心とする「宗像・沖ノ島と関連古墳群」を
ユネスコの世界遺産へ登録する運動があっています。

この島が「お言わず様」であり、女人禁制であり、そのお蔭で、
縄文時代からの祭祀場がそのままに残された「禁忌の島」であるという事と、
世界遺産に登録されたら世界に開かないと行けないという
相反する問題をどうするのかが課題です。
開館時間 午前9時~午後4時30分(入館 午後4時まで)
拝観料
一般     500円
高校・大学生 300円
小・中学生  200円
小学生未満は無料


地図 宗像大社(辺津宮)、大島(中津宮) 、沖ノ島(沖津宮)




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by lunabura | 2010-08-14 12:17 | 宗像大社・むなかた・宗像市 | Trackback | Comments(2)

神興神社・三女神はここで神威を発揮・タケシ番組に出た所

《宗像三女神の元宮を辿る旅》

神興神社
じんごうじんじゃ
福岡県福津市津丸645-1
宗像三女神はここで神威を発揮したという。
タケシ番組に出たのはココ

鞍手町の六ケ岳に降臨した宗像三女神は、室木の六嶽神社に着いたあと、
この神興神社に着かれたと文献に書いてありました。
そこで、そのルートをたどって神興神社へ向かうと、大きな山が立ちはだかっています。
この山を迂回する道があって、古くからの人家が所々にあり、
かつての街道だったんだろうなという風情のある、いい感じの道です。
ナビなら福間東中学校と入れると簡単です。
その隣に神興神社はあります。廻りにはほとんど人家はありません。

ゆるやかな峠の頂きに出ると脇に小さな丘があって、こんもりと樹木が杜を作っています。

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この石段を登れば、すぐに境内です。

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いかにも氏神さまの雰囲気ですが、三女神を勧請したのではなく、元宮にあたります。
そう言う点では特別なお宮です。

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拝殿正面に石の祠が見えます。

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誰かが祠の扉を開けたままだったので、中を写せました。二つの細長い石が御神体のようです。


ここにどんな歴史があるのでしょうか。

入口に書いてあった縁起を写します。(一部分かりやすく変えています。)
神興神社縁起
祭神宗像三女神 (天照大御神の御子神)
多紀理姫命
市杵島姫命
多岐都姫命

神興神社は往時よりこの地に御鎮座あり。
11部落、即ち上西郷、下西郷、久末、津丸、手光、
村山田、八並、本木、畦町、内殿、舎利蔵
の住民により、祭祀を斉行する。(例祭は10月5日)
宗像社縁起に曰く、
「宗像三女神、初め、室木の六ヶ嶽にお着きになって、その後この地に留まり給う。
この村において神威輝耀されたことから、神興と号す。
その後、三所に霊地(田島、大島、沖ノ島)に御遷座あり云々とある。

三女神がその三所に遷った後も、この地にも御社殿はおごそかで、祭祀も盛んだったと聞く。しかしいつ頃か、兵乱に遭い、御社も崩壊したが、村民の「土一」という者に夢のお告げあって、小さな祠を営んだ。
その後、旱魃、凶作年に祈願すれば、霊応があるといって、隣村、民力を合せて、石祠を建立する。

大正年間、古瓦が発見されて、鑑定の結果、延喜11年の銘があり、我が国で二番目に古い瓦と解り、この神社の往時の壮大なるをしのぶ。
昭和55年10月吉日建立
神興神社氏子会

宗像三女神は、六嶽神社からここに遷られました。
ここで、大変な神威を発揮されたという事で、「神興(じんごう)」という名の由来になりました。
三女神が宗像に遷られたあと、いったん衰退しますが、「土一」という者に夢のお告げがあって
、再び石祠が建てられて、この地に恵みをもたらしました。

古い瓦が境内から発見されて、すぐそばには寺院も建てられたのが明らかになりました。
その楚石の石がこれです。

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大きいですね。当時の規模のすごさが分かります。

さて、蛇足です。
タケシのTVタックル裏話

ずっとずっと前にタケシの番組でUFOをやってた時、友人のNちゃんが出ていてびっくりしました。
そして、再現ドラマがはじまりました。
それはNちゃんが神社の境内で、女性三人で輪を作っていると、空から黄金の玉が降りて来る話でした。

実はその話の現場がこの神社です。三人の内の一人は私です。
テレビでは三人の輪の中に降りて来たようになっていましたが、そうではアリマセン。

事実は、私は本殿の裏にいて、Nちゃんは境内の左。もう一人は右。
と三人はバラバラにいました。
すると、Nちゃんが、「金色の玉だ。ほらほら見て。」と空中を指していました。
すぐに行ってみたけど、私には全く見えません…でした。(;一_一)


再現ドラマは事実よりかっこよく製作されていましたが、(神社も東京あたりで撮ったのでしょう。)
この神社で起こった事です。
テレビで放映されたのを、書こうかどうしようかと迷ったのですが、平成になってもいまだに、
三女神はこの地で人々に恵みを垂れているという証を示されたのかもと、書く事にしました。

地図 神興神社


では、いよいよ宗像大社へ。



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by lunabura | 2010-08-11 13:37 | 神興神社・じんごう・福津市 | Trackback | Comments(0)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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