ひもろぎ逍遥

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恵蘇八幡宮と木の丸殿(1)えそ・筑紫で亡くなった斉明天皇のモガリの宮


恵蘇八幡宮(1)と木の丸殿
えそはちまんぐう・このまるでん
福岡県朝倉市山田151
筑紫で亡くなった斉明天皇のモガリの宮
中大兄皇子はここで喪に服した


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前回、斉明天皇の陵墓かと紙面を賑わした牽牛子塚古墳について書きましたが、
彼女が亡くなった場所は筑紫の朝倉橘広庭宮(あさくらたちばなひろにわのみや)だと
日本書紀に書いてあります。
この宮の場所についてはまだ特定されていませんが、
モガリをして、仮埋葬したと言われる宮は今も伝わっています。
今日はそこに行きましょう。

福岡から大分県方面に向かう386号線を、筑後川を右に見ながら行くと、
三連水車で有名な朝倉に出ます。
その先、大きく左にカーブする所に、この恵蘇八幡宮はあります。
楠の巨木があって、古い風情が残っているので、すぐに分かります。
鳥居は道路に面していて、石段を少し登れば境内です。
昔は筑後川から直接上がったのかもしれません。
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本殿は江戸時代に改築されました。
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お参りして天井を見上げると珍しい十二支の羅針盤がありました。

この恵蘇八幡宮のご祭神は斉明天皇・応神天皇・天智天皇です。

道路わきにあった由来を写します。
由緒によると、斉明天皇は661年、百済国救援のため筑紫の朝倉橘広庭宮(あさくらたちばな)に下られた。この時随行の中大兄皇子(後の天智天皇)は国家安泰と戦勝祈願のため、宇佐神宮(大分県)に奉幣使を遣わされた。使いの一行が恵蘇山麓に達した時、天上から白旗が降り、幡に八幡大神の文字が浮かび出たことから、天降八幡なる宮社が創建された。その後、天武天皇白鳳元年(673)に斉明天皇・天智天皇を合祀し、この頃社名を恵蘇八幡宮に定めたといわれている。
現在の本殿は安永元年秋9月(1772)の改築である。

宇佐八幡宮の主祭神といえば応神天皇です。
中大兄皇子によって応神天皇が祀られたという由緒です。
応神天皇は母君の神功皇后のお腹の中にいた時に、共に新羅に渡って、
戦わずして勝利を得たので、それにあやかりたいと言う事で勧請したのでしょう。
白旗が降りたというのは宇佐神宮の神威を得たという事で、
シンボリックな話になったと思われます。
しかし、軍事的に考えると、宇佐は古来、造船などの技術が確かな所なので、
その援助を依頼したのではないかと思いました。
難波でも軍備をしたようになっていますが、
玄界灘を渡って戦うとなると、海路に詳しい水軍無しには戦えません。
天上から白旗が降りたというのは、宇佐の協力を得た印ではないかと思いました。

さあ、こうして、戦の準備が着々となされたのですが、
母の斉明天皇がわずか二カ月で亡くなってしまいます。
その年齢が68歳。
天皇が亡くなったので、そのモガリは、おろそかに出来ません。

木の丸殿

さて、亡くなった斉明天皇の御遺体はこの神社の上の山に移されました。
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神社の右の方にもう一つ鳥居があるのがそれです。上って行きましょう。
石段がいくつも続いて小高い丘の頂にでます。
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この頂きはぐるりと石垣が囲まれていました。
この中に古墳が二基あるそうです。説明板がありました。

日本書紀によれば「西暦661年5月、斉明天皇は百済救援のため朝倉橘広庭宮に遷られたが、病のために7月24日に崩御された。皇太子中大兄皇子は母斉明天皇崩御7日後の8月1日に御遺骸を橘広庭宮からこの地に移し、一時的に葬り…」と記されており、地元では御陵山と呼んでいる。
陵上には方2間(1.8m)の石柵が巡り、中央の塔石には「斉明帝藁葬地」(こうそうのち)
と刻されている。形態は前方後円墳ではないかという説もあるが、町では円墳二基としてみている。

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中には入れないのですが、目をこらすと、中央部にいくつかの石の柵が見えます。
そこに、斉明天皇の「藁葬(こうそう)の地」と書いてあるそうです。
藁(わら)の葬?
よく分からないのですが、かつて仲哀天皇が亡くなった時、
遺体はムシロで包んだという伝承を聞いた事があります。
ここも、戦争の陣営の事、遺体を包んだのは藁で編んだムシロだったのかも知れません。
ここで斉明天皇のモガリ(殯)が行われました。
遺体はどうしても腐敗の過程を通らなくてはいけません。
古代の人々は、その過程を大切にしていました。

中大兄皇子がモガリをする様子が伝わっていました。
皇太子中大兄皇子は、御母斉明天皇がお亡くなりになって、7日後の8月1日、御遺骸を朝倉橘広庭宮からこの地にお移しになり、その夕べ御陵山に仮に葬られた。そして、陵下の山腹に丸木の殿を作られ、一日を一か月にかえて12日間、母君の喪に服されたといわれ、この地を「木の丸殿」「黒木の御所」と呼ぶようになった。

この御陵山については恵蘇神社にも由緒が書いてありました。
斉明帝藁葬地 (こうそうち) 御殯斂地(ひんれんち)
山上には斉明天皇の御陵といわれる前方後円墳があります。斉明天皇は661年5月9日(新暦6月14日)橘広庭宮にお着きになり、7月24日(8月27日)病のため崩御されました。(御年68歳)中大兄皇子は御遺骸を一時山上に御殯葬され、軍を進め、後に奈良県高市郡越知岡村へ移される、と記されています。

木の丸殿遺跡(このまるでん)
天智天皇は斉明天皇御殯葬のあと御陵山に木皮のついた丸木で忌み殿を建て、12日間喪に服されました。後世の人々が「木の丸殿」と呼びました。

天智天皇御製
秋の田の刈穂の庵のとまをあらみ 我が衣手は露にぬれつつ (小倉百人一首)
朝倉や木の丸殿に我が居れば 名のりをしつつ行くは誰が子ぞ (新古今集)
具体的な部分は少しずつ差がありますが、
まさにこの地は斉明天皇の御遺体を一時的にモガリした場と言えます。
(つづく)


★ 教えてください ★
さて、この由緒を読むと、斉明天皇の御遺体はこのあと、
「奈良県高市郡越知岡村」に移されたと書いてあります。
この点について、奈良の方で、どうなっているのか、教えていただけませんか。
今、話題になっている、牽牛子塚古墳がある所の事なのでしょうか。
日本書紀では、飛鳥川原(行宮?)でモガリをされたように書いてあります。
その後、改めて埋葬されたと思われます。
土地勘がないので、どなたかこの恵蘇神社の伝承について、
奈良の方と照らし合わせて、分析して推理していただけたらと思います。

☆ 日本書紀の該当部分を現代語訳しました。
   筑紫の朝倉橘野宮で亡くなった斉明天皇・7世紀の東アジアの地図



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by lunabura | 2010-09-23 14:47 | 神社(エ) | Trackback | Comments(14)

恵蘇八幡宮(2)なんと縁起に斉明天皇陵の所在地が書かれていた。

恵蘇八幡宮(2)  

なんと縁起に斉明天皇陵の所在地が書かれていた。
「高市郡越知岡村」は
牽牛子塚か?車木ケンノウか?
 

前回、斉明天皇の筑紫でのモガリの宮である恵蘇八幡宮木の丸殿を紹介しましたが、
なんと、その縁起の中に斉明天皇の陵墓の場所がはっきりと書いてありました。
これが境内の中の説明板です。
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前回も書いたのですが、もう一度書き写します。
 斉明帝藁葬地 (こうそうち)御殯斂地(ひんれんち)
山上には斉明天皇の御陵といわれる前方後円墳があります。斉明天皇は661年5月9日(新暦6月14日)橘広庭宮にお着きになり、7月24日(8月27日)病のため崩御されました。(御年68歳)中大兄皇子は御遺骸を一時山上に御殯葬され、軍を進め、後に奈良県高市郡越知岡村へ移される、と記されています。
あまりにさりげなく書いてあるので、この史料の重要さを見逃す所でした。

これが「恵蘇八幡宮縁記図解」です。
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(『温古』第41号(甘木歴史資料館)に掲載)
「恵蘇八幡宮縁起」によると、斉明天皇が朝倉橘広庭宮にいたころ、中大兄皇子がこの地で戦勝を祈願したところ、八幡神の旗が舞い降りたと伝えられる。縁起書は福岡藩の学者である貝原益軒の書とされる。
と説明してあります。開いたページには貝原篤信の字が見えます。

そこで今日のテーマは
この縁起はどちらを指している?
斉明天皇陵は牽牛子塚古墳か車木ケンノウ古墳か?
 


牽牛子塚古墳は考古学者が推定している古墳で、
車木ケンノウ古墳は宮内庁が指定している古墳です。

 まず、地名を整理しておきましょう。
恵蘇八幡宮に書かれた所在地  奈良県高市郡越知岡村
車木ケンノウ古墳      奈良県高市郡高取町大字車木
牽牛子塚古墳        奈良県高市郡明日香村大字越

この「奈良県高市郡越知岡村」について前回「その場所を教えてください。」と書いたら、
ブログ「徒然なるままに、、、」の管理人のじゅんじゅんさんから、
情報を頂きました。コメント欄ではもったいないので、ここに紹介します。
(ブログはサイドバーでリンクしています。)
「牽牛子塚古墳の現在の所在地は、奈良県高市郡明日香村大字越ですね。
ウイキペディアのよると、越智岡村は昭和20年までは地名として存在しし、高取町に属していたこともあるようです。以後何回かの市町村合併の後、昭和31年には、高市郡明日香村越となっています。地図を見ていただければ分かりますがと、高市郡と高取町は隣どうしです。話題になっている、牽牛子塚古墳がある所はその境界線あたりに位置しています。
恵蘇神社の由緒書って、スゴイ情報ですね!
話題になっている、牽牛子塚古墳がある所の事に間違いないと思います。」

すごい事になりました。
越知岡村は現在、高市郡明日香村越となっているそうです。
そうすると、恵蘇八幡宮に書かれている斉明天皇陵は牽牛子塚古墳になります。
地図 
車木ケンノウ古墳      奈良県高市郡高取町大字車木
牽牛子塚古墳        奈良県高市郡明日香村大字越


それでは、どうしてはるか離れた朝倉で斉明陵の所在地を知り得たのでしょうか。 

由緒書きを順に並べ直すとその理由が見えて来ました。
661年5月9日 斉明天皇は朝倉橘広庭の宮に到着する。
?月?日 中大兄皇子は恵蘇八幡宮の所在地に、宇佐神宮の祭神応神天皇を勧請して、
     朝倉山天降八幡宮とする。
7月24日 斉明天皇は病のために崩御。68歳。
8月1日  中大兄皇子は朝倉山天降八幡宮の山頂に、遺骸を移して、一時的に葬る。
     その中腹に木の丸殿を急いで立てて、12日間喪に服した。
     後、奈良県高市郡越知岡村へ移される。
673年?月?日 天武天皇の勅命により、斉明・天智天皇の二霊を合せて、三柱として、
        恵蘇八幡宮と改称する。

斉明天皇が筑紫に来た時は天武天皇も一緒でしたから、彼も母のモガリに立ち会ったはずです。
兄の天智天皇が亡くなってから、このモガリの宮を思い出したのでしょう。
ここに二人を合祀し、朝倉山天降八幡宮の名前も恵蘇八幡宮に改称しました。

どうして、具体的な地名が伝えられたのか? 
それは祝詞の奏上がヒントになります。
現代でも正式参拝すると、祝詞の中に自分の住所氏名が読み上げられます。
当時、神社の名前を変え、祭神を斉明天皇にするにあたって、
「斉明天皇は越智岡村に埋葬されました」と、奏上されたのではないでしょうか。
こうして、この地に斉明天皇陵の所在地が具体的に残されたと思いました。

さて、ここまでがルナの推理です。
これを立証するには「恵蘇八幡宮縁起図解」の内容を検討する必要があります。
関係者の方々によって、詳細を調べていただけたら、この斉明天皇陵の所在地は確定すると思いました。

地図 恵蘇八幡宮と木の丸殿





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by lunabura | 2010-09-22 15:30 | 神社(エ) | Trackback | Comments(17)

恵蘇八幡宮(3)一筋縄では行かない地名の特定・明日香村の地名の変遷が分からない


恵蘇八幡宮(3)

越知岡村はどこ?
一筋縄では行かない地名の特定
明日香村の地名の変遷が分からない


前回、越智岡村という地名が特定できれば、牽牛子塚古墳
斉明天皇の陵墓になるという仮説を出しましたが、
明日香村と高取村の境にあるというこの古墳の地名が100パーセント
昔の越知岡村かと言うと、かなりの研究を要する事が分かりました。

問題点が絞られて来たと思うのですが、ウィキペディアでは
越知岡村が途中で高取村に合併されているようになっています。
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この表は私がウィキペディアを改編したものです。
この古墳の所在地を書き入れてみました。
謎があります。
1、まずこの表が正しいのかどうか。越知岡村は全域高取町になったのか。
   一部明日香村になっていないか。
2、牽牛子塚古墳の所在地「越」は越知岡村なのか。
3、車木けんのう古墳の近くにも「越智」があるので、越知岡村ではないか。
この三つが明らかになると、斉明天皇陵がどっちかが見えてくる。
あと一息です。

今日、初めてブログを訪問して下さった方のためにこれまでの経緯を書くと、
斉明天皇は福岡県で亡くなって、その後、
朝倉市の恵蘇八幡宮の御陵山でモガリをされました。
その事については江戸時代に書かれた縁起に書いてあります。
そして、その縁起に、斉明天皇の御遺体はそののち奈良県高市郡越知岡村
移されたと書いてあるのが分かりました。
そこで、そこの越知岡村がどこにあるのかが分かれば、
斉明天皇の陵墓が特定できるかもしれないと言う事で、
土地勘のある方に情報提供を呼び掛けています。

恵蘇八幡宮に書かれた所在地 奈良県高市郡越知岡村
車木ケンノウ古墳      奈良県高市郡高取町大字車木 (宮内庁指定)
牽牛子塚古墳        奈良県高市郡明日香村大字越  (考古学者推定)

この表だけがその資料です。これはもちろん専門家の方が調査すればいい事ですが、
土地勘のある明日香ファンならこの謎が解けるのではないかと思っています。

前回は頂いたコメントを元に推理しました。
が、明日香村と高取町の町名の変遷が簡単には分からない事が明らかになりました。
地元の郷土史研究家で地名を詳しく調べている方にこの件を教えてほしいなあ。
福岡の方も、この「恵蘇八幡宮縁記図録」を調査するという次のステップが立ちはだかります。
何か新たな情報が入ったら続報を出します。
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境内の大楠です。樹高32m。胸高周囲9m。県の天然記念物です。




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by lunabura | 2010-09-21 14:10 | 神社(エ) | Trackback | Comments(0)

恵蘇八幡宮(4)こんな所に漏刻(水時計)があったよ


恵蘇八幡宮(4)
こんな所に漏刻(水時計)があったよ

恵蘇八幡宮の山は木の丸殿公園になって、散策できるようになっています。
お宮から頂上に行く途中、大きな水時計が目に飛び込んで来ました。

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説明板があるので読んでみましょう。
天智10年(671年)6月10日、天智天皇は漏刻(ろうこくー水時計)をつくって人々に時を知らせられたと伝わっています。実物は分かっていませんが、中国で用いられていた漏刻の形式を模倣したものと考えられます。
この漏刻は、4個の桶を段違いにならべたもので、第一番目を夜天地、第2を日天地、第3を平壺、第4を万水壺といい、万水壺の中にはが立てられています。
第1のつぼに水を注ぐと、水は管を通って順番に一番下のつぼである万水壺へと流れ込み、万水壺に水が溜まるにつれて、矢が浮き上がるようになり、矢に記された目盛りを読み取る事で時刻を知る仕組みとなっています。
現在、恵蘇八幡宮では6月10日(時の記念日)を記念して。毎年同日に式典が催されます。
矢が浮き上がって来るんだ。石油ストーブの灯油缶を思い浮かべました。
あんな風に浮きが上がって来るのかな。
それにしても、教科書に書かれている有名な漏刻(ろうこく)がなんでこんな所に?
書紀には天智天皇がまだ皇太子の頃に漏刻を作ったと書いてありました。
筑紫の国は中国や百済に近いので、珍しい文物があって、
大いに好奇心が動かされたのでしょう。他に磁針も作ったと言われています。

眞鍋大覚氏によると、中大兄皇子は漏刻を作って、
この神社の麓の筑後川が玄界灘と針摺(はりずり)の瀬戸でつながっている時代に、
都府楼(とふろう)に置いて、舟人たちに時を知らせる鐘を打たせた
と伝わっているそうです。
この実績が飛鳥の方でもお披露目になったのでしょう。
それにしても、6月10日の時の記念日がこんな昔の由来を持っていたとは知りませんでした。
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さて、ここで詠まれた歌。

朝倉や木の丸殿に我が居れば 名のりをしつつ行くは誰が子ぞ (新古今集)

上の句はこの朝倉の木の丸殿でモガリをするようすを歌っていました。
下の句の「名乗り」とは、この神社のすぐ下が山田の関と言って、関所があったそうです。
ここを通るには名乗りをしないと通れなかったとか。
名乗れない人たちは、あたりに沢山あった楠の巨木に夜になるまで、隠れていたと言います。
その名乗りの声が木の丸殿まで聞こえて来たのですね。
母を失ったばかりだったので、下の方から一日中聞こえてくる名乗りを聞いて、
この人も母や父がいるのだ、母親は元気なんだろうか、などと思ったようすが偲ばれます。
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江戸時代に描かれた縁起です。かやぶきの屋根に丸木の柱が描かれています。
服装は平安時代のようにも思われますが、江戸時代の人は
こんな風に捉えていたんだなと、イメージ造りの参考になりました。
この丸木の家は、現在の神社のある場所に建てられたそうです。

秋の田の刈穂の庵のとまをあらみ 我が衣手は露にぬれつつ (小倉百人一首)

これも天智天皇の歌だったんですね。
「秋の田」という地名が神社の近くにあって、その光景を読んだと地元の人びとは言い伝えているそうです。
そうすると、「衣を濡らす露」は、「亡き母を思って流す涙」だという事になります。
背景を知ると、歌の心がぐぐっと迫って来ます。
この後、天智天皇は大宰府に観世音寺を建立して母の菩提を弔ったとか。
お寺の跡に行った事はあっても、その心を全く知りませんでした。

『ひもろぎ逍遥』は「ルナの知らなかったぁ」とタイトルを変えた方が良さそう…。

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筑後川。この右に見える丘の向こうに
恵蘇八幡神社と山田の関があります。





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by lunabura | 2010-09-20 11:13 | 神社(エ) | Trackback | Comments(4)

牽牛子塚古墳・八角形の古墳・斉明陵か?


牽牛子塚古墳
けんごしづかこふん
奈良県明日香村
八角形の古墳
斉明天皇陵に確定か?

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第一報はテレビのニュースで知りました。
古墳の盛り土から崩れかけた石柱がくっきり。
わあっ、日本の古墳じゃないみたい。新聞を楽しみにしました。

2010年9月9日。西日本新聞に古墳が掲載されました。
すごい。八角形だ。墳丘からは加工された石柱が覗いています。
その石柱がきっちりとした直方体に見える。
こんなの、日本ではまだ見た事がない。

この古墳は牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)と言います。
牽牛子とは「朝顔」の意味だそうです。
こんな八角形はかなりデザイン性が高いので、かなり目立ちます。
この瀟洒なデザインが飛鳥時代のものとは。

まずは、その外観と敷石。
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アップすると、やっぱり石柱は角度がきっちりと取られています。
崩れた原因は中世時代の南海地震のせいだそうです。
学芸員の人が示す敷石を見ると一つ一つが煉瓦のように切られています。
すごい技術です。幅が1mで長さが9m。これが8辺あるという事です。
墳丘の大きさはコンパクトな感じを受けます。高さは4.5m以上あったとか。
この墳丘には全体が7200個の白い石で覆われていたそうです。

これはその概念図。
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このイラストを見ると、本当にピラミッドです。
これが太陽の光に照らされて、白く輝いていたのですね。
イラストの右上の石室を見ると棺が二つもあって、石の衝立があります。


毎日新聞に、その内部の写真がありました。貝塚太一撮影
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なんとも迫力があります。
壁には漆喰が塗られていたそうです。
床を見ると左右が少し高くなっています。ここに棺を置いたのでしょうか。
特に珍しいのは中心の柱。
こんな風に石室内に柱を持っている古墳は、
知ってる限りでは、福岡県の奴山の古墳ぐらいです。
そして、それは高句麗古墳の特徴と聞いています。
また、外側に石を敷き詰めるようなデザインは新羅で見られるそうです。

この石室の記事を見てまたまた驚きました。
これは80トンの巨石をくりぬいて造られたそうです。
組み立てたのではないんです。く、くりぬきです!
どれだけの労力が使われたのか。巨岩をくりぬくと言えば、
中国の敦煌とか、中東の古代からの街とか、を思い出します。
そんな技術集団の一部が日本にまでやって来て、腕をふるったのでしょうか。

巨石はいったいどこから
それは15キロ離れた奈良・大阪の県境の二上山の麓と分かっています。
二上山といえば死者の山。特にここの岩にこだわったのかもしれません。
比較的加工しやすい凝灰岩だそうです。
運び方?それは木製の大型そり「修羅(しゅら)」だそうです。
修羅の現物も実際に出土した例があります。

さて、被葬者は誰かというのを調べるのは副葬品が重要な手掛かりです。
盗掘を受けながらも、少し出ているそうです。
まず棺は漆と布を交互に塗り固めた最高級品。(夾紵棺(きょうちくかん))
ガラス玉などが出ています。六方形の飾りは七宝焼きだそうです。
そして、人の歯が残っていて、それは女性だとか。

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(明日香村埋蔵文化財展示室で常設展示)

ターゲットは絞られた
「最高級の棺」と、「二人の合葬」と「女性」という事から、
斉明天皇と娘の間人(はしひと)皇女」だという見解で一致。
日本書紀に書かれているそうです。
八角形古墳は、全国には20例も見られるそうですが、
7世紀には天皇家のみに使われるようになったという事です。

ところが、宮内庁は高取町の車木ケンノウ古墳を斉明陵としているので、
その見解に変更はないという事でした。

八角形古墳に埋葬されているのは、
斉明天皇の夫の舒明天皇と、息子の天智、天武両天皇。
だから斉明天皇も八角形古墳に埋葬されている可能性は高いですね。
どうやら、考古学的には証拠固めが出来たという印象です。

ルナ的に驚いたのは、たまたま報道の二日前に、
「斉明天皇が亡くなった福岡県では、その史跡は保存されているかな」
と、思ってネットで調べたばかりだった事です。
61歳で再び天皇になって、筑紫で亡くなって、
奈良に運ばれて埋葬された、そんな女性天皇とは。
彼女にいったい何が起きたんだろう。

                                (つづく)
この後、斉明天皇が亡くなった朝倉市のモガリの宮「恵蘇八幡宮」を調べたら、
そこに斉明天皇の墓の場所が書いてありました。しかし特定がまだ出来ていません。
サイドバー「恵蘇八幡宮」か、下のリンクからどうぞ。

恵蘇八幡宮(2)
なんと縁起に斉明天皇陵の所在地が書かれていた。
「高市郡越知岡村」は牽牛子塚か?車木ケンノウか? 


恵蘇八幡宮(3)
越知岡村はどこ?
一筋縄では行かない地名の特定明日香村の地名の変遷が分からない


☆ 晩年の斉明天皇について、現代語訳を始めました。(⇒サイドバーからもリンクしてます)
斉明天皇6年より 百済の使者、百済の敗北を伝え、援軍を要請した

地図 奈良県明日香村





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by lunabura | 2010-09-17 16:59 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Trackback | Comments(4)

「伊都国」三雲・井原遺跡でビーズが計1万個以上出土・黄色や紫は輸入品


「伊都国」三雲・井原遺跡
いとこく みくも・いはら遺跡
ビーズが計1万個以上出土
黄色や紫は日本では作れなかった


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西日本新聞に「伊都国(いとこく)」で出土したビーズについての記事が載っていました。
分析の結果、黄色と紫はアジアやアフリカなどに分布するガラスだった事が判明しました。
次はその記事です。

古代「伊都国」の王都があったとされる福岡県糸島市の三雲・井原遺跡(みくも・いわら)で出土したガラス小玉(弥生時代後期)に、国内では極めて珍しい黄色紫色の小玉が含まれていたことが4日、分かった。

 同市教委によると、ガラス小玉は黄色が2004年度、紫色が06年度の発掘調査で見つかった。その後成分分析で、当時の国内では着色できない色であることが確認された。

 黄色は直径約5ミリで、甕棺(かめかん)の中から青、緑色のガラス玉と一緒に4個が出土した。
紫色は二つの木棺からそれぞれ中国製の銅鏡とともに発見された。直径1ミリの小玉が計185個で、いずれも穴があり、ひもを通して首飾りなどに使ったとみられる。

 福岡市埋蔵文化財センターと奈良文化財研究所(奈良市)の分析によると、黄色は西アジアから北アフリカ、欧州に分布するソーダ石灰ガラス、紫色はカリウムを多く含むインドから東アジアにかけて分布していることが分かった。分析結果は今年6月日本文化財科学会に報告された。

 糸島市教委文化課の江崎靖隆主任は「一緒に出土した中国製の銅鏡などと大陸から入ってきたとみられる。伊都国が大陸と交流する中心地だったことを示している」と話している。 (西日本新聞 2010年9月5日)

伊都国の魅力とは
伊都国の「三雲・井原遺跡」というのは、ブログで紹介した「平原遺跡」のお隣さんです。
伊都国は弥生時代の有名なクニです。

「魏志倭人伝」という中国の本に日本の事が書いてあって、
卑弥呼邪馬台国が出て来ます。
朝鮮半島から邪馬台国に至るルート上のクニの名がどんどん出てくるのですが、
この伊都国は誰が見ても異論がない場所です。
しかも、隣の平原遺跡なんかは卑弥呼と同じ時代なので、
そこが邪馬台国だと勘違いする人もいるほどです。

この「伊都国」に「一大率」(いちだいそつ)というのが置かれて、
魏の国から来た役人はここに滞在して、倭人から諸国の情報を聞いています。
ですから、ここから先の邪馬台国までの道筋が曖昧に書かれているので、
よく分からなくて論争になっています。
(しかも、この情報には少し嘘がある事が明らかになっていて、
うのみにしてはいけないんです。)

ではこのビーズが出た「三雲・井原遺跡」はどんな所かというと、
弥生時代と古墳時代の遺跡が沢山出ていて、
国王夫妻と思われる遺跡も見つかっています。
紀元前からの代々の王墓がある所なのです。
この国王たちの特徴はとにかく銅鏡が大好き
国王と思われる甕棺一つから35面も見つかっています。
隣の平原遺跡なんかはその鏡の巨大さが他に例をみないほどです。(直径46,5センチ)

そう言う点では、伊都国のある糸島市は弥生時代あるいは
邪馬台国時代の香りがぷんぷんする所です。
中国や朝鮮へは一番短距離の場所で、ここを通って多くの人や船が行き交いました。
と言う事は、中国などから来た宝玉や武器も
めぼしいものはここの役人が目を通したと思われます。
ですからその甕棺の中身は当時の最高の品が
入っているんじゃないかと想像したりしています。

さて、そんな「三雲・井原遺跡」から出て来た沢山のビーズ。
話題になっているのは、黄色と紫色のガラスの着色が日本では出来ないという点です。
さすがに平成の考古学者が科学分析という手段で調べてくれました。
その結果、黄色はおよそエジプトを中心とするエリア、
紫はインドのエリアのものと判明しました。

銅鏡が中国から来ているので、王の夫人を喜ばせるために、
ビースのネックレスや髪飾りが一緒にもたらされるのは
そう驚く事ではないと思いましたが、
そのネックレスが棺ごとに3000個とか7500個単位でまとまっていたというのが
朝日新聞で分かり、かなり驚きました。
ほとんどが青色系のビースで、その中に黄色や紫が入っていたという事です。
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(福岡市埋蔵文化財センター所蔵)
この青色は福岡県の各地で見られる色です。
こんな青色が1万個ある中に黄色や紫が出土したのでしょうか。
デザインが知りたいですね。

ビーズの作り方はどうやるの?
さてさて、素人からすると、ビーズの直径が1ミリとは
いったいどうやって作ったのという疑問の方が大きいのですが…。
手芸店で買う極小ビーズだって2ミリはあります。
すると古代の神の導きか、その日の午後、避暑をかねて、
ふらりと福岡市埋蔵物文化センターに出かけて見つけました。
おおっ!あった、あった。
そこで、見つけたのは、ビーズの作り方のイラストでした。
c0222861_18262194.jpg

これは12世紀の博多のガラス工房の説明の所にあります。
なるほど、針金に粘土を巻き付けて、溶けたガラスを巻き付けている。
それから、任意にカットしていく。
それを水に落として行けば、丸くなる。(ここだけはTVで見た)
冒頭の黄色のビーズ(5ミリ)の穴を見直すとよく分かります。
でも、1ミリとなると、よほどの技術力と思われます。


さて、この出土した1万個のビースが今、日本を巡回している!?

センターから持ち帰ったチラシを見て、あっ「三雲・井原遺跡」が載ってる。
c0222861_18273445.jpg

『発掘された日本列島2010』
主催:文化庁
日本全国の中で特に注目される20遺跡約450点の出土品が展示されます。
縄文時代 黒浜貝塚、観音寺本馬遺跡、大森勝山遺跡(ストーンサークル)
弥生時代 唐古・鍵遺跡、須玖遺跡・三雲井原遺跡(1万個のガラス玉)
古墳時代 槇向遺跡、桜井茶臼山古墳、赤土山古墳、池田古墳

などなど、考古学ファン垂涎の出土物が一堂に見られるんですね!

多賀城市埋蔵文化財調査センター 9月14日~10月11日
大分県立歴史博物館  10月22日~11月19日
香川県立ミュージアム 11月27日~12月23日
大阪歴史博物館 2011年1月12日~2月28日

チラシのほんの一部を写しました。詳細は各博物館に問い合わせてください。

地図  三雲・井原遺跡 平原遺跡

右上地図アイコンで地名図が出ます。



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by lunabura | 2010-09-10 18:55 | ガラスビーズ作り方・三雲井原 | Trackback(1) | Comments(4)

王塚古墳(1)感動の装飾壁画を知らなかったよ


王塚古墳(1)
福岡県嘉穂郡桂川町寿命
感動の装飾壁画を知らなかったよ

さて、今日は王塚古墳に行きましょう。日本で一番華やかな装飾古墳です。
飯塚市の県道200号線の裏側に回り込むと、緑濃い美しい里に出ます。

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川沿いに進むと、左の方にキラキラとUFOのような丸い建物が見えてきて、
目指す王塚装飾古墳館だとすぐに分かります。
最近は、古墳周囲の景観の観察も大切な事が分かったので、
ちょっと手前から車を降りて歩いて行きました。
古墳の手前に橋があって、そこで驚きました。
上流を見ると二本の川が合流していました。
それって、風水上のイヤシロ地じゃない?期待が高まります。
橋を渡るとすぐに古墳館があって、その奥に丸い墳丘が見えてきます。
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王塚古墳は前方後円墳でした。
円墳の中は完全密封保存されていて、年に2度だけ見る事が出来ます。
方墳の方には上がれるように階段が付いています。
それを上ってまた驚き。四方にぴたりと高い山が配置されているのです。
いや配置するのは不可能ですね。
聖なる山をつないで焦点となるポイントがここだという事です。
イヤシロ地です。とても気持ちがいい所です。

この古墳は珍しく平地にあります。
これまでは台地や山の斜面ばかり見たので印象的です。
この古墳を降りると、王塚装飾古墳館が待ってます。

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装飾古墳館は撮影禁止ですが、今回は撮影許可がおりました!
書類手続きを済ませていざ中へ。

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これはまたアートな入口。気分が高まります。
そして、わっ赤い!
石室が実物大で復元されていました。中に入る事が出来ます。
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これが石室の入り口です。迫力満点。落ち付いて見ると、沢山の壁画があります。
右下の岩に二頭の馬が描かれていますが、これが前々回「蕨手文」で紹介した絵です。
左側にも馬が三頭います。全体で合わせて5頭の馬が描かれています。
その周りにも蕨手がいっぱい。
門のように渡してある頭上の岩も蕨手のアレンジがいっぱいです。
なんだか興奮します。では、中に入りましょう。

c0222861_17123551.jpg

これが玄室です。正面には三角文が全面に描かれています。
色があふれています。
棚になった所が遺体のためのベッドで、左の方には石の枕があります。
二人分の広さです。その下の基台の絵を見ると蕨手文がいっぱい。
そして、手前の左右にある直方体の岩を見てください。
蕨手(ゆぎ)が大きく描かれています。

c0222861_17134398.jpg

右の壁を見てください。大きな靫が並んでいます。
まるで人が控えているように見えます。

c0222861_17143042.jpg

左の壁には盾(たて)が三段になって並んでいます。
写真を見直して気づいたのは、右は靫(ゆぎ)だけ、左は盾だけです。
これは?もしかして。
「蕨手文」の所で、文様は氏族のシンボルではないかという説を紹介しました。
ルナ的にはこの説をかなり気に入っています。
その氏族説でこの壁画の解読が出来るんじゃないかな…。
と言う事で、今回はその説を元に解読にチャレンジしてみます。

右の壁にある大きな靫は靫負(ゆげい)氏です。
左の盾より大きく描かれているので、身分が上か、被葬者に近い関係です。
左の盾族もきちんと描かれていて、数が多いので、靫族に準じた存在です。
その重々しさと統制からは、被葬者への礼節が伝わって来ます。
被葬者の家臣たちに見えて来ました。

死床の奥を見てください。小さな靫がずらりと控えています。
それは、まるで家族が亡き人を見守っているかのように見えます。
その数は5人。それに写真には見えませんが白っぽい靫
もう一つ上の方に描かれています。母と五人の子供のように見えます。

小さな靫がそばについている事から、被葬者は靫負氏の一員ではないかと思いました。
しかも、床には蕨手がある事から蕨手族の血を引いている事を示唆しています。

蕨手族については「蕨手文」の所で考察しましたが、
伽耶の王族で、倭へ渡来したのではないかと推測しました。
これを組み合わせた全体のストーリーとしては、
蕨手の王族がここの靫負氏の娘と結婚して、五人の子供を残して亡くなりました。
右壁にはその靫負氏の親族たちが被葬者を見送っています。
そして、左壁には王とともに戦ってきた武人たちが控えています。

いかがでしょうか。我ながら、なんとまあ大胆な推理だこと。

これは6世紀の古墳です。
と言う事は、前回紹介した高句麗の集安古墳と同じ時代です。
同じ時代の壁画でも、ずいぶん感じが違いますね。

                                         (つづく)


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by lunabura | 2010-09-08 17:21 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Trackback | Comments(10)

王塚古墳(2)武人は妻と共に星の下に眠るー激動の6世紀を生き抜いた男


王塚古墳(2)
武人は妻と共に星の下に眠るー激動の6世紀を生き抜いた男


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これは玄室の出口です。
ここにも両脇に(ゆぎ)が整列して控えています。
靫は右壁に比べるとやや小さく、それほど威厳がありません。
(大きさで身分の差を表すのは高句麗壁画にもあります。)

門の上の横岩には三角文が描かれています。
その反対側には蕨手文が描かれていました。
玄室と前室で、意図的に図案を変えています。
良く見ると、靫の背景には三角文が多いです。蕨手文がちらりと見えています。
前室とかなりデザインが違っています。
(前室―入口側は(1)の方を見て下さい。)
靫が靫負氏(ゆげい)という氏族を示すなら、
この三角文も氏族のシンボルの可能性が出て来ました。
しかし、今のところは何を指すのか、全く分かりません。

それじゃあ、靫負氏ってどんな氏族?
ネットで検索すると
靫負―主に西日本の中小豪族の子弟から採られ、(略)6世紀半ばに大伴氏のもとに編成された。

とあります。6世紀半ばに変化があってるんですね。
九州の6世紀と言えば磐井の乱という大きな戦いがあっています。
それは、朝鮮半島の新羅や任那なども関係する大きな戦いです。
この時代は、継体天皇に味方するのか、磐井に味方するのか、
かなり難しい時代だったと思われます。靫負氏はどちらについたのか、私にはよく分かりません。
(磐井の君は『古事記の神々』にて現代語訳)

この時代の出来事を並べてみます。

527年 継体天皇は任那復興の為に出兵。磐井の君は火・豊とともに反乱して翌年敗北する。
531年 継体天皇崩御。
535年 王塚古墳の近くに穂波屯倉・嘉麻屯倉(みやけ―倉庫の事)が設置される。
538年 百済から仏教がつたわる。
5××年 このころ王塚古墳がつくられる。

この古墳の地域も磐井の敗北後に大和朝廷の支配下に置かれました。
その前後にこの被葬者は亡くなっています。
この時代背景は副葬品からも想像出来ます。なんとこの古墳は未盗掘でしたよ!

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これがその副葬品の一部です。甕はかなり硬度の高い須恵器です。
勾玉や金のイアリング。蓋のついた器。鉄の矢じりなど。
鏡も出ています。また鎧、刀、槍などが武人であった事を教えてくれます。
c0222861_23283521.jpg


そして、馬具。これは資料館のハニワ君です。
出土した馬具のレプリカが取り付けてあります。どんな馬具が出たのかよく分かります。
腹の所にあるのは杏葉(きょうよう)と言って飾りです。
鋲がびっしりと打ち込んであって、かなりハードなデザインです。
これらには金メッキが施されていました。

埋納時のようすが分かりました。
水に浸かっていたものを聞き取り調査したそうです。

c0222861_23295245.jpg

これを見ると、夫婦ふたりの為のものだと思われます。
横穴式古墳が流行ったのは、追葬出来るからだそうです。

夫婦のどちらかが先に死んでも、後には追葬されて一緒に眠るんですね。
灯明台もあるので、モガリもここでしたのかな…。
ルナ的には、残された方がこの石の扉を開けて、ここで冥福を祈ったように思われてなりません。
念入りに装飾された壁を見ると、時間をかけて描かれたのが分かります。
ここは武人の夫婦愛と家族愛・氏族の愛、家臣たちの敬意など、愛と尊厳に満ちた空間でした。

c0222861_23305519.jpg

二人の死後の世界を見守るのは星だったようです。
天井には無数の黄色の点が描かれています。
NHK「任那日本府の謎」では、
「遠賀川流域と王塚古墳の関係者は筑紫の君・磐井の同盟者だ。
王塚古墳の天井に描かれた星座は朝鮮半島の北の星座だ。」
と言っていました。
でも、星座はちょっと無理かな。星座の事をあまり知らない人が描いたみたい。
磐井の同盟者という可能性は十分にありますが、もっと証拠が欲しいなと思いました。

この壁画にはまだ他に、いろんな文様があります。
詳しく見て行くと、いろんなメッセージが読み取れそうです。

「オレがせねば、この古墳はだめになる」
西村二馬氏の言葉です。この古墳は西村氏の運動によって守られました。
炭坑の鉱脈があったために、産業か保存かという中で、人生をかけて守り抜いて
くれたお蔭で、日本人のDNAを熱くする、この貴重な芸術を見ることができます。
この方については王塚古墳のHPに記載されています。

開館時間 午前9時~午後4時30分
休館日 毎週月曜日 (月曜日が祝日の場合はその翌日)
年末年始12月28日~1月4日
入館料 大人310円 中高生150円 

2010年の古墳公開は10月16日~17日
9:30~16:00の予定だそうです。HPで確認してください。
王塚装飾古墳館

公開見学の熱きレポートはブログ「装飾古墳今昔紀行」
憧れの王塚古墳への長く苦難な道程 -カムバック伝説2 

地図 王塚古墳

(拡大できます。)

さらに詳しく調べたい方のために。

靫負をシンボルとする説の一部を抜粋しておきます。

九州におけるを描く装飾古墳の分布と、靫負大伴部(ゆげいおおともべ)の分布はかなり密接に関連しているのではないかと思います。九州には靫負大伴あるいは靫負大伴部の分布がかなり見られます。(略)ちょうど筑紫国造磐井(いわい)の本拠地であった地域に、こうした史料がみえているわけです。

それから、御井郡には靫負大伴(部)に由来するかと思われる伴太(ともだ)郷という郷名もみえていますので、磐井の内乱が終了して後、筑紫国造磐井の本拠地に靫負大伴が選ばれて大伴部を統轄したことが想定されます。

同心円文や靫を描いた装飾古墳を考えてみますと、被葬者が的臣(いくはのおみ)と同族関係を結んだ筑後川中流域の有力な武人たち、あるいは靫負大伴(部)であった事をシンボル的に、象徴的に示すために、そうした武器・武具類を描いているのではないかと推測しています。

(「古代史からみた装飾古墳」和田萃 
『装飾古墳が語るもの』所収 国立歴史民俗博物館編 吉川弘文館)

 


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by lunabura | 2010-09-07 23:53 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Trackback | Comments(4)
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