ひもろぎ逍遥

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大己貴神社(1)(旧三輪町)

大己貴神社(1)
おおなむちじんじゃ
福岡県朝倉郡筑前町弥永字大神屋敷(旧三輪町)
旧三輪町の中心の宮

平成の大合併で、「三輪町」の名前が消えてる?
筑前町という名前に変わっているみたい…。
その旧三輪町に「大己貴神社」という、まるでイヅモかヤマトのような
名前の神社を見つけて、出掛けたのはずいぶん昔の事です。
冬になると何故か出雲に行きたくなる。
だから、今日はその名もゆかしい大己貴神社へ行こう。

さて、地図を広げていると、あれっ、この前行った小郡市の飛鳥と、
この旧三輪町はお隣さんなんだ。直線距離で8キロ。歩いて二時間か…。
この三輪町あたりの地名畿内の地名に関係があるのは、ずっと前から
言われていたけど、いつのまにか大学の先生によって証明されていた。
これは心強い。そういう点ではここはプロト大和。この神社はその惣社です。

福岡と日田をつなぐ県道386号線の、「久光橋」から小京都の秋月めざせば、
大己貴神社」の大きな看板があるから、すぐに分かります。
道路を隔てた所に「歴史の里公園」が出来ていて、ゆっくりと車が止められます。
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一の鳥居の左に大きな岩が。「幸神」と彫ってあります。
参道には古い石碑がいくつも並んで、歴史をしのばせます。
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石の太鼓橋が。結構これって急斜面なんですよね。
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石段を登ると、拝殿に出ました。
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朱塗りの華やかな拝殿です。
幕末から明治にかけての建造だそうです。

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扁額は「大神宮」となっています。大和の「大神神社―おおみわじんじゃ」と同じ字ですね!
そして、ここは大己貴神社。(おおなむち)やはり出雲と大和と合わせもつような名前です。
地元では「おおがさま」「おんがさま」と言うそうです。
奥に見える神殿には三面の鏡があります。これも珍しい。
今日、再びここに来れたことを感謝して、参拝。

拝殿脇の由緒書きを読みましょう。(現代語に変えました。)
大神大明神(弥永村にあり)
延喜式神名帳に、夜須郡於保奈牟智神社が一座あるというのはここの事です。祭る神は大己貴命です。今は大神(おおが)大明神と言います。社は南向きです。東の間に天照大神、西の間に春日大明神を合祀しています。宮どころは神さびて境地は特に勝れています。

日本書紀に、仲哀天皇9年秋9月に神功皇后が諸国に命令して船舶を集め、兵卒たちを訓練しようとした時、軍卒が集まりませんでした。皇后は「きっと神の御心なのだろう。」と言って、大三輪社を建て、刀矛を奉納すると軍衆が自然と集まったと書いてあります。

9月23日は旧暦のため、現在の(  )に祭礼があります。この日、神輿の御幸があります。御旅所は村の西十町ばかりの所にさやのもとという所です。その他、年中の祭礼がたびたびあったと言いますが、今はそんな儀式も絶え果てました。しかし夜須郡の惣社なので、その敷地は広く氏子も特に多いです。人々は大変崇敬していると書いてあります。     略    三輪町教育委員会

この文章は貝原益軒の「筑前国続風土記」から書き抜いてありました。
益軒の本にはさらに、異伝が書いてあったので紹介します。
『釋日本紀』に「筑前国風土記」からの引用文があって、
神功皇后が新羅を討とうとして軍士を整理し、発行した時、道中、軍士共が逃げ出しました。その理由を占った時、祟る神がいるのが分かりました。名を大三輪の神と言いました。そこでこの神社を建てて、ついに新羅を平定しました。その神社がこれです。

貝原益軒は、軍が集まらなかったという説(日本書紀)と、
集まったけど逃げ出した(筑前国風土記)という二つの説を並行して書いています。
地元の三輪町教育委員会では、日本書紀説を採用していたのが分かりました。

この大神、大己貴を祀る神社は他にもあって、福岡市の東区にも「大神神社」があり、
隣は美和台(ミワダイ)で、同じような伝承を伝えています。
この先 、二つの神社を視野に入れながら、
それぞれの郷土史にアプローチ出来たらいいなと思っています。

この神社の何よりの特徴は遥拝所があって、御神体山がある事です。
では、境内の左奥にある遥拝所への道に行きましょう。
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参道は50メートルほどの長さです。最終地点には、お神酒を供えるための台があります。

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遥拝所から見える神奈備山です。
神社で名前を伺うと、「神体山」という名で、三輪山とは言わないそうです。

この山にかつて登った事があります。
大和の三輪山のように盤座がないかなと探しに行きました。
山腹は苗木が植林されていて、その間を抜けて、森の中に入って行きました。

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頂上付近に盤座らしきものが一つありました。(1996年撮影)
頂上全体は森になっていたと記憶しています。

ここは「御神体山と遥拝所と神社」という基本パターンが見られる点で、
また、畿内に移動していった地名の元の地であり、その中心の宮という点で、
大変興味深い神社です。

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by lunabura | 2010-12-28 15:20 | 大己貴神社・おおなむち・朝倉郡 | Trackback | Comments(2)

大己貴神社(2)大己貴の語源を考える。穴遅とゾロアスター教と錬金の工人


大己貴神社(2)

大己貴の語源を考える。
穴遅とゾロアスター教と錬金の工人

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『儺の国の星』にゾロアスター教穴遅について書いてあったので、
その一部を参考資料として紹介したいと思います。
本文を分かりやすく書き換えながら抜粋します。

火星を日本では「夏日星」という。

西域の民族は、天を青、地を赤で表現した。青空と砂漠の色彩である。人間は天地の間にあって、その生命を永久に伝える存在である。女人の衣装に赤と青の聖色を配した発祥がここにある。

やがてこの信仰は拝火教によって東方に移り、月氏の民族によって宮殿や霊廟の装いに変化した。華厳の寺院がこれであり、白鳳天平の時代にできた大和の寺院や仏塔となった。

拝火教はゾロアスター(前660~538)に始まり、マニ(215~277)によって再興された西域の信仰であって、青は草木、赤は火焔に対応されるようになった。

那珂川伏見宮の岩戸神楽、熊野那智の火祭りはこの伝統を今に伝えている。胡人、即ち紅毛赤蠻の氏族を那珂川では「すってん」と呼んでいた。「酒呑童子」を「すってんろうじ」と読む方言があった。西天、あるいは率土のなまりであったと思われるが、胡人が特に足が短くて馬に乗らず、よく道で転んでいたためと語られていた。
 火星が赤色なので、自然と毛唐華頂の容貌を連想させたものらしい。胡人はよく歌うというのが祖先の一致した見解だった。

拝火教は元来は砂漠の中に現れる自然発火や蜃気楼をみて、天地の安穏を祈る信仰だった。オアシスの蒸気が噴出して空中に彼方の部落を映し出す光景を砂上の楼閣と言うが、連れていたがそれを見て、天地の異変を感じとって吠えたてていた。

日本で神社の狛犬の石像が始まるのと、華厳の寺院が建てられるようになるのが同じ時代だという理由は、彼らの文化が入って来たためである。

大地の岩漿が沸騰し始めると、その上にある石油の地層は、激しい噴気を高熱高圧で砂漠の砂礫の間から地上にあふれさせる。これが日中の直射日光の熱によって引火されて、昼夜の区別なく燃え続ける。近東の民族はこれを聖火と拝して、天地の崩壊がないように大地にひれふして必死で祈った。

これが拝火教で、唐代には景教として、光仁帝(781年)に長安の都までおよんだ。大地の神の怒気が地上の人間の悪業を焼きつくす前兆がこの聖火だった。(これが閻魔となる。)

 日本では穴遅(あなむち)として神代に現れて、天平の頃には穴師(あなし)あるいは賀名生(あのう)と呼ばれ、溶鉄錬金の工人の氏族の別名となった。炉の火口(ほくち)の色がまさに火星を遠くから見た色と同じであった。

 聖火は大地の神の憤激がおさまると消える。その期間は7日だった。これが一週間の発祥である。石油の湯気に劫火をつける天の神がMazda(マツダ)である。エジプトではラーであった。天と地が合わせて火を注ぐ時が、人間を永久に見放す時であった。
ゾロアスター教が日本に入って来たことは周知の通りですが、
このように具体的に砂漠の地層に含まれていた石油の自然発火を畏れて
祈るのが始まりだと書かれているのを見たのは初めてです。
かれらは犬を連れていて、それが狛犬のルーツになり、
同時に拝火の思想が寺院建築の背景にあったのが伺えます。
そして、日本では穴遅(大・己貴)と呼ばれ、
鉄を金を細工する工人の氏族名となったと言います。
とても具体的なので、イメージがよくつかめます。

この旧三輪町の大己貴神社に神功皇后たちが来たのは、
羽白熊鷲を討つためだと言われています。
この羽白たちもまた別の鉄の氏族だと思われます。
(その恐ろしさに兵士たちは逃げだした?)

羽白熊鷲たちの居所が各説あるのですが、
面白い事に、朝倉市の観光マップを新旧二枚戴いて比較していたら、
片方にだけ羽白熊鷲の石碑が掲載されていました。
マップを見たばかりでどうなっているのか分からないので、
また来年の宿題にしたいと思います。
みなさまの応援のお蔭で、ここまでやってこられました。
ありがとうございます。来年もよろしくお願いします。

※なお、この真鍋大覚氏の本について、発行元の那珂川町で
最近、購入したという人に会いました。
在庫があるのではないかと思われます
。(在庫終了)
歴史の真実を求める人にとって最後の贈り物だと思います。
多くの人がこの本を紐解かれる事を願っています。

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神殿の裏


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by lunabura | 2010-12-27 23:28 | 大己貴神社・おおなむち・朝倉郡 | Trackback | Comments(10)

穂掛神社 にぎはやひの降臨した笠置山の麓 美しい渓流に聖地はあった


穂掛神社
ほかけじんじゃ
福岡県宮若市宮田 (いこいの里・千石キャンプ場)
ニギハヤヒの降臨した笠置山の麓の神社
古代の人は渓流を遡って、
この美しい聖地を発見したんだ

一度目の穂掛神社探しは失敗したけど、戻る途中にやっと見つけた人に尋ねて、
大体の場所が分かり、再びトライしました。
飯塚方面から入り、八木山川を力丸ダムに向かって行くと、
美しい渓流があり「いこいの里 千石」として整備されているキャンプ場があります。
その中に目指すニギハヤヒを祀る穂掛神社はあると言います。

12月半ばというのに、半袖シャツ姿でバーベキューをする人たちを発見。
幸いにも管理棟の人が落ち葉を掃いてるのに遭遇しました。
「穂掛神社を捜しているのですが。」
「ここの対岸にありますよ。」
「車はどこに置いたらいいでしょうか。」
「この駐車場に置いたら、橋がありますよ。」
という事で、管理棟からすぐ対岸にあるのが分かりました。
橋があるという意味がよく分からず、対岸の駐車場へ。
細い細い橋を車で渡りました。
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駐車場を降りると、桜並木が。枝ばかりですが、もうつぼみを付けていて、
木がほんのりピンク色に染まり出しています。
花が咲く前に幹が色づく時も魅力的です!
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橋が見えました。これが教えてもらった橋だったんだ。
歩いて渡れるようになっていました。向こうの木々は落葉樹。
夏はさぞかし青々としているのでしょう。
その橋を左に見ながら川岸を進むと鳥居がありました!
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なんと趣のある…。
美しい渓流の岸からすぐに上がった所に、目指す穂掛神社がありました。
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石段を上がると小さな川がありました。
山から流れ出た支流が八木山川に注ぐ場所でした。
山際にしては珍しく開けた場所です。小さな橋を渡って神社へ。

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これが拝殿と神殿です。
ここで、前に紹介した天照神社の由来を思い出しましょう。

天照神社の由来は、貝原益軒著の「鞍手郡磯光神社縁起」によれば、饒速日尊が垂仁天皇16年に宮田町の南に聳える笠置山頂(425m)に降臨し、同77年に笠置山頂に奉仕した事に始まります。その後、千石穂掛谷、明野(脇野)と移り、延慶元年(1308年)に、白き鶴の住む里に廟を遷すべしとの神託があり、西国探題惣政所(そうまんどころ)玄朝(げんちょう)の造営により、現在地に移されました。

(崇神-垂仁―景行―成務―仲哀―応神―仁徳)
ニギハヤヒが笠置山頂に降臨して、千石穂掛谷に移ったとありますが、
ここがその「千石穂掛谷」になります。
この近くに笠置山の登山口があり、一時間ほどで登る事が出来ます。
それにしても、何と奥深い所でしょうか。
現代は道も整備されて、車で難なく来られますが、
かつては、渓流沿いに数日歩かないと辿り着かないような場所です。
その為に神社が麓へ麓へと降りて行きましたが、その事情を貝原益軒が書いています。

この御神霊は垂仁天皇16年に初めて笠城山のふもとに降り、長屋山筒男という人に託宣しました。その人は大神の勅命を受けて、その笠城山のふもとの川でしばしば人に災いした大きなナマズを切って災難を除いたという事です。
八剣大神という神がこの辺り8か所に鎮座するのもこの時、大神が授けた剣を収めた所です。

その後60年過ぎて、同じ帝77年の春、笠城山の上に初めて神殿を作って崇めました。秋ごとに初めて刈り取った稲の初穂を大神に奉納しました。秋の収穫の頃、民は暇がなくて峰の上まで登山するのに困っていたので、麓の谷に稲の穂を掛けて奉ったので、その谷を穂掛谷と名付けました。今佛谷というのは訛っているのです。

その後、允恭天皇の御世にこの社(頂上)が野火に焼けてしまいました。人里から離れているのでこんな災いがあるのだろう。老人や子供たちが高い山に登るのも難行だしと言って、麓にある穂掛谷にあらためて作って移しました。その時、数千の石を集めてその上に神殿を建てたので、千石原と言うようになりました。

今いる所は稲の穂を掛けた事から穂掛神社と名がついて、
数千の石を集めて神殿を建てたと言い伝えていました。
今でも千石の地名が残っているんですね。

水田を作るような地形はずっとずっと麓に行かないと見当たりません。
やはり稲の穂でなく、葦の穂の可能性が高いのではないかという思いを
捨て切れませんでした。
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盤座信仰でもあったのではないかと、神殿の裏をのぞきました。
左脇に30センチほどの鏡岩と榊のための竹筒がありました。
こんな形が祈りの本来の姿かもしれません。
裏の岩盤そのものは普通の崖のようで、盤座ではなさそうです。

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左右に古い祠がありました。この祠の御神体は石でした。
他の祠にも石英を含んだ神体石などがありました。

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神殿を背中にして境内を撮りました。バンガローになっていました。
こんな聖地に泊まって見る夢はどんな夢だろうと思いましたが、
あと数十年すればこれらは朽ち果ててしまいます。
その時、もとの聖地に復元出来るのだろうか。
ここが日本の神話の謎を解く重大な手掛かりを持つ聖地だと考える人なんて
私ぐらいなんだろうかと思うと、さみしい感じがしました。

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拝殿から渓流へ戻る道です。

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神社の前には沈下橋がありました!
橋を渡ってから再び神社を振り返りました。
ここが古代から聖地として祀られた理由がよく分かります。

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真冬でこの渓谷美です。新緑の季節はさぞかし美しい事でしょう。
何度でも訪れたい所、見つけました!



いこいの里“千石”キャンプ場 宮若市公式HP
http://www.city.miyawaka.lg.jp/hp/page000001200/hpg000001181.htm



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by lunabura | 2010-12-25 19:01 | 穂掛神社・ほかけ・宮若市 | Trackback | Comments(6)

九州の「飛鳥」に行って来ました


九州の「飛鳥」に行って来ました
福岡県小郡市井上飛嶋


新聞に「九州にも飛鳥の地名があった」というタイトルで
太宰府地名研究会の案内が載っていたので、行って来ました。
古川清久氏による講義とフィールドワークがありました。
講義では地形図と現地写真、また郷土史や地誌の収集、聞き取り調査などが丹念になされていて、
福岡県の小郡市にあった「飛鳥」という地名について概要を知る事が出来ました。
今日はその報告です。

私は眞鍋氏の本に出会ってから「飛鳥」を探していました。
筑紫では水城の南に飛鳥、北に春日の地名があり、大和での北の添上春日、南の高市に明日香の古都が栄えた。   『儺の国の星・拾遺』

九州にも飛鳥があったなんて。いったい何処にあるんだろうと思っていたのです。
春日とは福岡県の春日市の事で、水城とは、この前紹介した
太宰府政庁跡のすぐ近くにある、巨大な堤防です。
県外の方のためにその位置を出しておきます。

春日市 水城 飛鳥(小郡市)
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小郡市に「飛鳥」という地名がある事自体、地元の人間にとっても驚きです。
しかし資料によると、明治15年の調査には、「御原郡 飛鳥」と書かれていて
「ヒチョウ」と送り仮名がふってありました。
現在の地名は福岡県小郡市井上字飛嶋(とびしま)です。
もともと飛鳥だったのが、都に同じ名があるのをはばかって飛嶋に変わったそうです。
(近くの徳川という川の名前は得川へ変更され、現在は宝満川へ。)

では、現地へ行きましょう。
小郡市は福岡県の中部、広い筑後平野にあります。
県道500号線から三井高校を目指すと、すぐそばに松崎天満宮があり、
数十メートルで、いきなり大木の森の中に入りました。
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平野の中に森があるなんて、初めての景観です。不思議な感じがしました。
そして、すぐに池に出ました。
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このような池が四つあります。
ここの地形図を見ると、首の長い鳥の頭から羽根にかけた姿に見えるそうです。
その地形が飛鳥という名の由来ではないかという事でした。
もともと三つの池だったのが、中央に道路が作られて、四つになっています。
中之島のように埋め立てが進んでいて、将来は地形が変わるかもしれません。
池の排水溝からは水が流れ出し、小川となっています。
それを辿ると10メートルほどで平野に出ました。
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正面には背振(せぶり)山が見えました。古代にはここも海でした。
近くの地名に「吹上」や「干潟」という名が残っています。
手前の田んぼは溜め池だったそうです。
この田んぼをぐるりと囲む土手沿いに、左の方に歩きました。
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振り返って見ると、この森の中にさっきの池があるのが分かりました。
森は古代には無かっただろうという事です。
このカーブは昔の土手の形がそのまま残っていると考えられるそうです。
こうして教えてもらうと、少しずつ地形の見方が分かって来ます。
ここの標高は20メートルほど。
あの70年に一度の津波の時には、ここも潮をかぶったのでしょうか。

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田圃の溝からは、すぐに土器の破片が二つ見つけられました。
粒子の荒い砂が入っていて、「ここの土で焼いたのかな」なんて、話し合いました。

この小郡市の「飛鳥」は九州古代王朝説の古田武彦氏が早くから調査をされていて、
「九州・小郡市にある“飛鳥と呼ばれていた地区”の形状が飛ぶ鳥に似ていること、
また近くの麻氐良布(まてらふ)神社の祭神が明日香皇子であることから、
書紀・万葉集にある“アスカ”は大和でなく筑後にあった」という説を出してあるそうです。

ルナは先入観を持たないために九州古代王朝説にはまだ触れていません。
でも、講師の古川氏が「古田史学の会」の会員という事で、
これはチャンスとばかりに尋ねました。
「私は、九州古代王朝説をよく知らないのですが、一言で言えば、どういう説ですか?」
「九州にはかつて年号を持つような王朝があったという説です。
それは白村江の時代までで、白鳳という年号も九州王朝で使われていた年号です。」
「では、その王朝はどこにあると考えてありますか?」
「私は太宰府政庁跡にあったと考えています。雑餉隈(ざっしょのくま)はその迎賓館です。」
なるほど、明快に教えて戴きました。

そうか、これが古代の地形の名残をとどめる「飛鳥」か。
「どうして私はこんな所にいる?」と何度も現地で口走ってしまったのですが、
家に帰ってからも、ずっと不思議な感覚でした。
この平凡な田んぼと池が古都「飛鳥」の跡なんだろうか。
すんなりと入ってこないのは私が無知なせいです。

ここの近辺には歴史的に重要な遺跡がいくつもあるのを教わりました。
かつては広大な境内(二町)を誇る井上廃寺があり、松崎城があり、
昔の役所である、御原郡衙(みはらぐんが)がありました。
三か所も移転しながら存続したそうです。
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(上岩田遺跡 7世紀から9世紀 リーフレットより)

またすぐ隣の松崎天満宮には、九州古代王朝説の人たちにだけ分かる、
王朝の存在を暗示するいろんなシンボルがありました。
( それについてはもう一度ここを訪ねて、報告できればと思っています。)

さて、これが冒頭の疑問、眞鍋氏の言う春日に対応する飛鳥かどうかは、
現時点では分かりません。因みに、眞鍋氏は
飛鳥とは太陽の黒点であった。「あすか」はその昔は「かすか」即ち一年の日が尽き果てる意であった。太陽の黒点は不死鳥フェニックスの焼け焦げた死骸の群とみていた。これを「いしむれ」と呼んだ。仏式では祖先の陵墓に参詣の度ごとに小石を積み上げる。神式では「かしは」をささげ、今の玉串奉納の素形である。

「かすか」とは火風の枯渇する季節であり、「あすか」とは地水の旱涸する季節の代名詞で、その起源は中東の砂漠地帯にあったらしい。

と言っています。
池が太陽の黒点のように飛び飛びになっているから、飛鳥なのだろうか。
砂漠の中にオアシスを見つけたように、この池を見つけた砂漠の民がアスカと付けたのだろうか。
まだ他にも飛鳥はあるのかも知れない…とも思いながら、その夜は3時まで眠れませんでした。

九州歴史資料館 移転開館記念 企画展
御原郡衙(みはらぐんが)
 
会場:小郡市埋蔵文化財調査センター(古代体験館おごおり)
期間:平成22年11月21日(日)~平成23年1月15日(土)
開館時間:午前9時~午後4時30分
休館日:第3日・月曜日、年末年始(12月28日~1月4日)
入館料:無料 0942-75-7555


さて、この記事をUPしようとした朝、古代史ファンのTさんから電話がありました。
「ああ、そこは巨勢氏の中心地。物部氏。畿内に行く前の場所。」とあっさりと。
え?ルナは何故だか巨勢川を八女市内だと思い込んでいた。
天照宮の物部氏の地図を描き変えないといけない。
でも、巨勢川を調べると、筑後川の支流と、佐賀にもう一つある?
よく分からない。どなたか教えてください。




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by lunabura | 2010-12-22 13:28 | <地名・地形・伝承> | Trackback | Comments(13)

竹原古墳(1)この優美な装飾壁画は通年公開!



竹原古墳(1)

福岡県宮若市竹原
この優美な装飾壁画は通年公開!


さて、笠置山へのルートを調べる為に地図を見ていると、
その近くで竹原古墳の文字がキラキラと光ってる。
前から気になってたけど、これまで行かなかった。
今日は時間もあるし、ちょっと寄り道を。
まあ、レプリカでもあればいいなと気楽に行ったら、
本物の石室が公開されていました!

県道30号線、飯塚福間線を走ると、大きな案内板が立っているので、
矢印に従って横道に入ります。
すぐに円墳が右に見え出したけど、「八幡塚古墳」と書いてある。
見事な円墳だけど、違う古墳。ここで降りてしまうと、集中力がなくなるので、
取り敢えずパス。道は少し下って、田んぼのある風景に。

二つ目の看板の案内を頼りに、右に、右にと曲がると丘陵地帯。そこだ!
いかにも古墳がありそうな、丘の取りついたところ。
わずか数十メートル走ると、家形埴輪のデザインのトイレが。
このトイレのデザインなら、古墳があるってすぐに分かるよ!

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車から降りると、石段の上に神社が。いかにも古社だなあ。
案内板を見ていると、受付の建物から、人が出て来て、
「見られますよ。」と教えてくれました。
「え?公開されているんですか!?」
「はい、有料ですけど。」
「本物が公開されてるんですか?」
いきなりテンションが上がるルナ。
「はい。そうですよ。こちらで手続きを。一人210円です。」
「はい、はい♪」
料金を払うと、パンフレットと鍵とカセットテープレコーダーを渡されました。
「鍵は帰りには忘れずに掛けて来て下さい。古墳を見ながらテープを聞いて下さい。
窓が曇っていたら、タオルでふいて下さい。では、ごゆっくり。」
「撮影は出来ますか?」
「いいえ、撮影禁止です。外側はいいですよ。」

えらく見学者に親切な計らいで、ほくほくしながら、まずは神社へごあいさつ。
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拝殿内の扁額には諏訪神社と書いてありました。
その左に小さな建物が。あ~。いかにもそれらしい入口だ!

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右側にはこじんまりとした墳丘が。直径は18m、高さは5mです。
この中にあの有名な壁画が…。では鍵を開けて。
いくつもの扉の中には自分で点けないといけないスイッチが。
(先にドアを閉めると1500年の闇の中だぞ。)
ドキドキ。本物のお墓だ。
(古墳と書けばどうもないのに、お墓と書いたとたんに、気分が違う…。)
最後の小さな扉を開けると、低い羨道が。
1メートル位の高さしかないので、座って進む。
はじめはコンクリートになっているけど、1メートル位で本物の岩。

羨道は二人で満杯。正面にガラス窓がありました。
窓の寸法は60×80センチぐらい。膝をつかないと良く見えない。
本当にタオルが置いてあったので、窓を吹くけど、向こう側が濡れている。
窓にあった黒いハンドルを、ドアのノブじゃありませんようにと思いながら動かすと、
ワイパーが動いて、中がくっきりと見え出した。
わあっ。正面奥にあの有名な壁画が。

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(パンフレットより)
現場では遠くにサシバの円がほんのりと淡い赤色に見えました。
何故か黒色の印象は頭に残っていません。
顔料は赤はベンガラ(酸化鉄)、黒は炭素だそうです。

絵の記憶はすぐにどこかに飛んでしまいました。
家に帰って、パンフレットをまじまじと見ました。
どこか異国情緒を思わせるのは、両脇のサシバやとんがり帽子や
膨らんだズボン、つまさきが上がった靴のせい。
ヘアースタイルはミズラだと書いてあるけど、冑かも。上着は短甲に見えるよ。
とんがり帽はじっとみていると、羽根のように見えて来た。
浪の上にあるのは船。それに馬を乗っけてきた。
武人は船から愛馬を下ろそうとしている。空には守護のドラゴンだ。
彼は中東の伝統をまだいくらか残しているようです。

黒と赤の三角形は旗のように見える。
馬の背の蛇行鉄器に取り付ける旗ってこんなデザインかも。
「武人は馬とともに海を渡って倭にやって来た。
その勇者が、この地を愛し、営み、そして眠る。」
と、好き勝手に想像。
その優しげな絵から、この被葬者は倭にやってきて
平穏な日々を送ったように見えて来ました。

さて、現場の実況中継に戻ります。
まわりの岩の色はピンクがかったベージュ色。
ハニーカラー。この岩の色は選び抜かれたのかも。
(ピンクの岩が大好きな大和の王族たちを思い出す。)
壁がつやつやと光っているのは、びっしりとついた露のせい。

c0222861_13343847.jpg

(パンフレットより)

ここで、はっと思いだして、貸し出しのテープを掛けた。
「前室の右側は怪しげな鳥が…。」
と流れるが、翼らしき黒い一部しか見えない。
「左は円になった蛇…。」
これも退色がひどくて、ようやく円に見える程度。
朱雀と玄武だそうだ。それでもこれは現場に行かないとまずは見られない。

石棺を通すには障壁の横幅がちと狭い。
木棺なら通るかも。それとも、棺を置いた後から、玄室を作ったのだろうか。
玄室の上はどうなってる?と這いつくばって覗くと小さな岩が
小高く積んであるように見える。朝鮮式ってやつかな。

パンフレットを見ると、時代は「6世紀後半」
(6世紀の後半と言えば、何があったかな。おおっ、562年、伽耶が滅亡しているぞ。)

副葬品は出たのだろうか?
石室内より、副葬品として装飾品(勾玉、ガラス丸玉、金環)、
馬具(轡(くつわ)・杏葉・辻金具)武器(刀の鞘・鉄鏃)が出土。
棺は何だろ。記述がないのは出土していないから?やっぱり木棺だったのかな?

副葬品の所在地を受付で尋ねると、福岡市のどこかにあるという事でした。
この古墳は壁画だけが有名で、副葬品については資料がありません。
現場まで来ても、古墳の測量図も見当たりません。
せめて現場に出土状況と出土物の写真があってもいいんじゃないかな
と思いました。そして、どこに展示してあるかもお願いします。
(杏葉のデザインなんか特に参考になります。)
宮若市さま。福岡市さま。
遠く県外からも見学に来られる方に、現場ならではの資料が欲しいなと思いました。
と言いながらも、かなりテンションが上がったままで、墳丘の写真だけ撮りました。

c0222861_13392368.jpg

竹原古墳石室公開 午前9時~午後4時 月曜は休み

そして、壁画の一番上は天馬?ドラゴン?と考えていると、
突然ひらめきが降りて来た。(つづく)

地図 竹原古墳 脇田温泉(なぜか温泉の建物の中にレプリカがありますよ。)


短甲や冑の写真とイラスト ⇒ 古賀歴史資料館
旗を馬に取り付ける鉄器の写真 ⇒ 謎の蛇行鉄器



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by lunabura | 2010-12-16 13:49 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Trackback | Comments(4)

竹原古墳(2)日本の古墳に火を噴くドラゴンが何故描かれている?


竹原古墳(2)
日本の古墳に火を噴くドラゴンが何故描かれている?

あのドラゴンの背中のカーブ。どこかで見たことがある…。
夜になって、パズルがカチカチとはまり始めました。
まずは、その壁画のドラゴンをもう一度観察しましょう。
この竜は明らかに西洋風です。中国よりずっと西の方のデザインです。
c0222861_1342117.jpg口からは火を噴いて、前足には赤い爪が描かれ、足全体には赤い毛まで描かれています。よく見るとこの黒い竜の身体には赤い斑点が描かれています。すぐ下の黒い馬と比較すると、赤い点がわざわざ描かれているのがよく分かります。先に赤色を塗って、あとから黒で輪郭を取ったように、少し雑です。でも、眼だけはまん丸です。シッポの中にも赤い点が描かれています。壁画を描いた人にはこのドラゴンにはこの赤い点の表現が必要なのです。
首から背中そして尻尾にかけて赤い点をつないだカーブ。このラインを私は知ってる。何だったっけ。記憶をたどる。…そうだ、星座だ。龍座だ。龍座を見てみました。
c0222861_12583661.jpg

ピンクの星と白い線でつなぎました。それに壁画に必要な星を加えました。
普通は炎の所の四角い部分が竜の頭で、くねった龍として描かれます。
その思い込みをはずして、ラインに壁画の龍を描きました。
マウスで一筆書きです。上手くなりましたね~。
(というか、かなり違うのですが、御容赦を…。)
ドラゴンが吐いた火はちょうど龍座の頭の部分になります。
(壁画の方の炎は短いですね。この四角の星たちは龍座に入らないかも。)
ドラゴンの両足がつっぱっています。
明るい星を探すと、やはりこのように平行な線が引けました。
壁画を描いた人には、龍座はこのように西洋的な火を噴くドラゴンに
見えているのが分かります。
まあ、そうは見えない人もいるでしょう。それはそれとして…。

龍座ってどんな神話があるのだろう。
龍座の由来を星の神話で探すと火竜だというのが分かりました。
まさしく、壁画と同じです。
金のリンゴを守る竜
ギリシア神話では、この竜は、世界の西のはてにある、ヘスペリデースの園に生えている金のリンゴを守っていたといわれます。これは女神へ―ラが大神の后となった時に、女神たちから贈られたリンゴで、金の実が金色の大木になっており、それをヘスペリデースという三人の姉妹と火竜とが番をしていました。
後に、この火竜はヘルクレスに殺されて、星座になりました。
(野尻抱影『星の神話・伝説』)

これを読んで、あっと思ったのは「金のリンゴ」を守ったという事。
このリンゴが変化して、ミカンになったのが、次の話です。
龍座はギリシャ神話では、黄金の柑橘(かんきつ)の番をしていたと伝えられます。
冬至の夜に坩堝(るつぼ)に炭火を炊いて金を熔かす工人が柚子湯(ゆずゆ)を立てる伝統も、或いは遠い龍沙の彼方(かなた)の西域につながったしきたりかもしれません。『儺の国の星』
冬至と言えば、一番夜が長くて寒い日です。この日を境目に春がやって来ます。
金を細工する工人には、冬至に坩堝に金を入れて溶かすしきたりがあったのですね。
その時に、柚子湯を立てたとまで言い伝えが残っていました。
この裏に込められたシンボルは、「工人と金」と「火竜と金」です。
金の工人が火竜をシ守護神としていたのが見えて来ました。
金の細工技術なんぞは秘中の秘です。
だから、これまで日本の歴史の表に出て来ず、この話を聞いても
私たちは驚くばかりで、受け入れるのには時間と知識が必要になります。
眞鍋家は物部氏だから、その話を伝えていたんだ…。

このギリシャ神話の火竜を学んでから壁画に戻ると、
この武人は金に関わる人とも考えられます。
この竹原古墳のありかは物部氏の里です。彼らは鉄も、金も、暦も、武も馬も。
クニを作る為のあらゆる文化を備えていました。

つながる神話
ギリシャ神話と日本神話に一部共通点があるのは
イザナギが死んだイザナミを訪問する話などでも知られていますが、
偶然の可能性も否定できないんじゃないかと半分思っていました。
まさか、ギリシャ神話の火を噴く竜が日本で描かれていたとは。
けっこう衝撃が深いです…。

この壁画にはまだまだ解きたいシンボルがあるのですが、これくらいに、しときましょ。



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by lunabura | 2010-12-15 13:34 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Trackback | Comments(5)

天照神社(1)ついにニギハヤヒの宮へ行きました!


天照神社(1)
てんしょうじんじゃ
旧福岡県鞍手郡宮田町磯光字儀長
現 宮若市
ついにニギハヤヒの宮へ行きました


祭神は天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊
(あまてる・くにてるひこ・あめのほあかり・くしたま・にぎはやひのみこと)
古代史を紐解くと必ず登場する「ニギハヤヒ」。
それを祀る神社があるというので行って来ました。
古代史ファンの心を掴むニギハヤヒっていったいどんな存在なのだろう。

前々回紹介した高倉神社は遠賀川が海へ注ぐ辺りにありました。
その遠賀川を上流に遡っていくと、右手に物部氏の本貫地である鞍手が見えて来ます。
八剣神社や古物神社、六嶽神社などを紹介しましたね。
そこの神奈備山・六ケ岳の南側に入りこむ支流をさらに遡ると
目指す天照神社が見えて来ます。
まるで川に浮かんだ島のように神社の杜がこんもりと見えました。
「あれじゃない?」
民家が神社を中心に集まったような川沿いの集落の中にありました。

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折しも銀杏の絨毯が境内を埋め尽くしていました。
小さな太鼓橋の上を子供がすべりながら落ち葉を集めています。

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狛犬の周りは黄葉で輝いていました。

c0222861_20545330.jpg

なんと美しい日に来たのだろう。
この日でないと出会えなかった光景。
でも、曇り空の為に今日の写真の色は暗くて残念です。

c0222861_20563012.jpg

このお宮は珍しく平地にありました。石段はこれだけです。
重厚な趣と楠の巨木。七五三の赤い旗が華やかです。

c0222861_20571054.jpg

拝殿です。御祭神は
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊
八幡大神、春日大神、応神天皇、天児屋根命

この祭神を見ただけでも、いくつもの謎が…。
今日こうしてお参り出来た事に感謝して、少しずつ紐解いて行きましょう。

神社の由来が看板に書かれていました。
犬鳴川右岸の宮田町磯光(いそみつ)に鎮守する天照神社は、
古代から中世に栄えた粥田荘(かいたのしょう)の惣社(そうしゃ)として
古くから人々の信仰を集めた神社として知られています。

そうか、この川は犬鳴(いぬなき)川なんだ。
そしてここは「粥田の荘」。
天照神社の由来は、貝原益軒著の「鞍手郡磯光神社縁起」によれば、饒速日尊が垂仁天皇16年に宮田町の南に聳える笠置山頂(425m)に降臨し、同77年に笠置山頂に奉仕した事に始まります。

その後、千石穂掛谷、明野(脇野)と移り、延慶元年(1308年)に、白き鶴の住む里に廟を遷すべしとの神託があり、西国探題惣政所(そうまんどころ)玄朝(げんちょう)の造営により、現在地に移されました。

これが、ニギハヤヒが笠置山に降臨したという話のルーツなんだ!
最初は山頂で祀ったいたのが、だんだん麓に下がって行って、
現在地に移されたという事です。

垂仁天皇16年っていつ?
垂仁天皇  生没年未詳
第11代。崇神天皇の代皇子。崇神天皇の死により、翌年即位。
崇神-垂仁―景行―成務―仲哀―応神―仁徳
          
よくこのブログに出てくる神功皇后の子供の応神天皇より
ずっと前の時代なんですね。弥生中期かな…。
次回は境内を歩きながら、伝承をもう少し詳しく見てみていきましょう。

(つづく)
地図 天照神社 笠置山






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by lunabura | 2010-12-13 21:16 | 天照神社・あまてる・宮若市 | Trackback | Comments(5)

天照神社(2)奉納された稲穂の由来


天照神社(2)
奉納された稲穂の由来


あっ、稲穂だ!
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拝殿で目に飛び込んで来たのが左右の柱に掛けられた稲の束でした。
なんだかワクワク嬉しくなりました。
左は「奉 鶴田稲」 右は「奉 脇野稲」と書いてあります。
脇野鶴田で採れた一番最初の稲穂を奉納するんですね。
これこそ本当の祀りの形。それが今なお継承されている。

では、今回は貝原益軒の書いた由緒書きの方を訳してみましょう。
この御神霊は垂仁天皇16年に初めて笠城山のふもとに降り、長屋山筒男という人に託宣しました。その人は大神の勅命を受けて、その笠城山のふもとの川でしばしば人に災いした大きなナマズを切って災難を除いたという事です。
八剣大神という神がこの辺り8か所に鎮座するのもこの時、大神が授けた剣を収めた所です。
その後60年過ぎて、同じ帝77年の春、笠城山の上に初めて神殿を作って崇めました。秋ごとに初めて刈り取った稲の初穂を大神に奉納しました。秋の収穫の頃、民は暇がなくて峰の上まで登山するのに困っていたので、麓の谷に稲の穂を掛けて奉ったので、その谷を穂掛谷と名付けました。今佛谷というのは訛っているのです。

その後、允恭天皇の御世にこの社が野火に焼けてしまいました。人里から離れているのでこんな災いがあるのだろう。老人や子供たちが高い山に登るのも難行だしと言って、麓にある穂掛谷にあらためて作って移しました。その時、数千の石を集めてその上に神殿を建てたので、千石原と言うようになりました。

人に災いしたナマズを退治するように命じたのが最初のようです。
その時の剣が八剣神社の謂われになっています。
笠置山に神殿を作って初穂を奉納していたのですが、
農繁期には登山が大変なので、麓で奉納するようになりました。
上宮から中宮へと神社が下っていったようすが伺えて興味深いです。

c0222861_21475551.jpg

拝殿の左には三羽の鶴の像がありました。これは珍しい。
この鶴にも謂われがありました。続きを読みましょう。
その後、淳和天皇天長5年の冬、明野の里に宮殿を建てて、穂掛谷から移しました。明野は今は脇野と言うようになりました。

長屋山筒男は長寿でその御霊を明野に祀り長屋大明神と言います。この山筒男の末裔が天照宮の御祭を執り行い、今に続いています。

花園院の延慶元年、ある人の夢に大神が告げました。
「白い鶴が住む所にミヤシロを遷しなさい。」と。夢のお告げに従ってそのしるしを捜すと、今の鶴田の里に白い鶴の雄雌のつがいが棲んでいました。そこで、明野から今の所に移し、鶴田と名付けました。鶴が喜んで舞ったと言う事からその上の山を鶴喜山と名付けたと言います。

社殿は笠置山から穂掛谷、脇野、鶴田と移動していく理由が伝わっていました。
社殿の二つの稲穂は移動前の脇野と現在の鶴田から奉納されていたんですね。
鶴喜山(つるき)と剣(つるき)も掛けてある!

記録には、かつては三社ともに三日間神食(みけ)を祀ったりして、
たいそう盛大な奉納の祭りが行われたようすが書かれています。

貝原益軒はこの天照宮の由緒書きに大変、力を入れて書いていますが、
残念な事に、この御祭神を天照大御神と勘違いしています。
天地が別れた時からとうとうと書き起こしていて、名文なのですが、
天照大御神まで書いて、そのままこの神社の由緒に移っているのです。
私の読み違いではないかと、何度も読み返しましたが、
「鶴田の里におはします天照宮は則天照大神を祭奉る所也」と書いています。
勘違いしたようです。ニギハヤヒの正式名が
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊ですからね。まっ、こんな事もアリですね。
それ以上に、その記録の素晴らしさを称えたいと思います。

さて、神殿をぐるりと廻って見ました。
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これが神殿の裏側です。裏にもしめ縄があるのは珍しいです。
これを背にして外を見ると、四角く突き出た土地がありました。
塀の鍵が掛かっています。あれ、遥拝所じゃないかな。
木々が生い茂って見通しが利かないので、境内の外に出て裏に廻って見ました。
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それがこの風景です。一番高い山が笠置山かな…。
今日は全く人に出会わず、確認する事が出来ませんでした。

さて、考古学的にアプローチすると、「笠置山」といえば、
弥生時代の「石包丁」の材料の輝緑凝灰岩の産地なんです。
この山の向こう側で石包丁に加工されたものが佐賀県や大分県でも出土しています。
そういう意味でも笠置山は興味深い山です。

さてさて、るなの推理コーナー。
この神社の横の川が犬鳴川だと知って、思ったのですが、
イヌナキーイナキなどは製鉄の工人の隠れ里を表す地名なのです。
ここが鉄器を作った物部の里だというのを合わせると、
山の上に掛けられた穂はもともとは葦の穂じゃないかな。
つまりスズ鉄の材料になる葦の繁茂を願って掛けられたのではないかなと。
ところが時代を経て水位が下がり、沼地が稲作地に代わって行ったために、
葦の穂が稲の穂の奉納に代わっていったのではないか、と。
この神社の伝承にそんな古代を重ねました。

さて、表層から伺えるのはこんな所でしょうか。
この神社を支える歴史の奥についての本があるので、
次回はそれを紹介したいと思います。

♪ ニギハヤヒの現代語訳を始めました。(『古事記の神々』)
c0222861_215431100.jpg

考える?牛

地図 笠置山・穂掛神社 脇野 鶴田 天照神社

 

ブログ「徒然なるままに、、、」で、スズ鉄について分かりやすくまとめられています。
わが国の鉄の歴史・スズについて
http://jumgon.exblog.jp/15138704/



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by lunabura | 2010-12-11 22:08 | 天照神社・あまてる・宮若市 | Trackback | Comments(9)

天照神社(3)九州の物部氏の分布図・日本の太陽神は二系統ある


天照神社(3)
九州の物部氏の分布図
日本の太陽神は二系統ある


さて、この鞍手郡や宮若市の神社と物部氏については、奥野正男氏が詳しく書いてあります。
(『日本の神々―神社と聖地―九州編』谷川健一編)

今日はそれを道しるべに、忘れ去られた物部氏を見て行きましょう。
福岡県の物部氏の分布
ニギハヤヒは『先代旧事本紀』で物部氏の祖とされ、その同族は全国にひろく分布する。九州北部では筑後国の三瀦(みづま)・山門(やまと)・御井(みい)・竹野・生葉(いくは)の各郡を中心として、筑前国では嘉麻(かま)・鞍手(くらて)両郡・西には肥前国の三根(みね)・松浦・壱岐(いき)へとひろがり、東には豊後国まで分布する。
さらに海を渡って伊予・讃岐を経て紀伊・大和にひろがる。

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さて、本に出て来た地名を赤い丸で描いてみました。
筑後平野を見ると筑後川を中心にしてその微高地にその地名があります。
(有名古墳群と結構重なってない?)
遠賀川(おんががわ)水系は丸が二つですが、面で捉えて下さい。
今回の天照宮は北九州市に近い赤丸の所です。
こうして見ると、福岡県では物部氏は遠賀川水系と筑後川水系を
中心にして集落を営んでいた事が分かります。

佐賀県からさらに長崎県に目を移すと、松浦市に赤丸です。
ブログで紹介した梶谷城があります。
このあたりの海が全部見渡せる、松浦党の根拠地でした。
左上にある壱岐も長崎県です。百済や新羅に渡るときには必ず泊まる所です。

こうして見ると物部氏が船舶と湊を掌握していたのがよく分かります。
葛城襲津彦があんなに簡単に伽耶なんかに行き来した時も、この航路を通っている訳です。
面白い事に、博多湾あたり、那の国には赤丸がありません。
阿曇族とは住み分けてたのかな。

地図の緑の▲ニニギの命の降臨の伝承の馬見山、
ニギハヤヒの命の伝承の笠置山です。いずれも遠賀川水系です。

太陽神は二系統ある
続きを読みましょう。
ニギハヤヒを祀る天照神社は、アマテラス大神を祀るものとは別な系統に属している。しかし、両者は日神(太陽)を祀るという天神系共通の性格をそなえており、弥生時代に鏡祭祀を発達させた九州北部に、その発祥の源を求めることが可能であろう。

また、古墳時代に入ると、近畿を中心にして鏡祭祀が新しい発展をみせ、それにともない、日神を祀る天照御魂神社が畿内に祀られるようになる。

大和国城下郡鏡作坐天照御魂神社(かがみつくりにます・あまてるみたま)などがそれで、いずれもホアカリ(=ニギハヤヒ)を祀るという伝承をもっている。

確かに、アマテラス大神が男か女かという問題を聞いた事があります。
古事記では女神になっていますが、世界中で見ると、太陽が男神で、月を女神とするほうが一般的です。
いろんな所から渡来人が来た事を考えると、日本における太陽神を男女のどちらかに決めるのではなく、
単に氏族によって、日神の性別が違ったという歴史があるだけだという事が分かります。

日神は男神だ、女神だと決めつけずに、文献や神社史を読めば、
氏族別の宗教観、自然観があるがままに受け取れるはずです。

さあ、続きを読みましょう。
また、谷川健一氏は『白鳥伝説』のなかで、神武天皇の東征軍を難波の日下(くさか)で苦戦させた長髄彦の背後には物部氏がおり、日下の地を中心に日神ニギハヤヒを奉斎し、ここを太陽信仰の拠点にしていたことを論証している。

さらに谷川氏は物部氏の祖神ニギハヤヒやその末裔が多く金属精錬にかかわる伝承をもつことから、金属工人集団を率いた物部氏が瀬戸内海を東に進み、摂津の三島に入り、そこから河内・大和に勢力をひろげていったことを(略)論及し、次のようにのべている。

「もともと遠賀川の流域に居住した古い物部がいったん東遷したのち、数世紀をへて磐井の乱の前後また故地にもどったと考えることもできる。」

まさにこの通りの世界が見えて来ました。
物部氏は鉄のみならず、金なども扱っていたと思われます。
それは笠置山に向かう途中に金生という地名があり、その山塊の向こうには金出という地名があるからです。
「人に災いしたナマズ」というのは「鉱毒の被害」の可能性がないかなと思っています。
高倉神社の話と同様に、水銀中毒の知識がないために工人たちが倒れ、
その害への対策を指南したのが長屋山筒男の可能性はないかと考えています。

物部氏は一元では捉えられなくなった
ただ、「長髄彦+物部氏 vs 神武天皇」という対決図には問題が残ります。
それは、この遠賀川系には神武天皇の皇祖を祀り続け、
駿馬を連れて迎えに行き、軍備を支えた物部氏の伝承があるからです。
日若神社、馬見神社
「長髄彦+物部氏 vs 神武天皇+物部氏」というのが近いかと思います。
すると、物部氏の中に内部分裂があったのかな…。
う~ん、一筋縄ではいかないな。

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広い境内の黄葉。木々の向こうに犬鳴川の土手が見えています。

さて、元宮大好きのるなは笠置山の穂掛神社を見てみたい、と早速探しに行きました。
場所は千石峡キャンプ場の中です。熊本の菊池渓谷を彷彿とさせる、
渓流沿いの自然道があって、その美しさに興奮。
そこを行ったり来たりして探しましたが、見つかりませんでした。
少し下流の人里で、やっと人を見つけて尋ねると、やはり渓流沿いにあるとの事。
鳥居はないそうです。「天照宮の元宮ですよ。」と聞いて、「やったね!」
今では稲穂は掛けないそうですが、大きなしめ縄を掛けるそうです。
とにかく、またトライします。
そして、その途中で、あの有名な装飾古墳に行っちゃいましたョ。次回はそれです。




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by lunabura | 2010-12-11 17:17 | 天照神社・あまてる・宮若市 | Trackback | Comments(4)

太宰府政庁跡・速報・出土した大量の鉄器を見て来ました・ここは最強の風水地だよ~


太宰府政庁跡
福岡県太宰府市観世音寺4丁目
速報・出土した大量の鉄器を見て来ました
ここは最強の風水地だよ~。

「太宰府跡から大量鉄製武器―矢尻、刀など26キロ分」
12月3日付の西日本新聞にこんな記事が載っていて、
気分はそわそわ。さっそく行って来ました。

まずは、鉄器を展示してある「太宰府展示館」へ。
太宰府政庁跡」の名称は地元では「都府楼跡」の方が通りがいいです。
無料駐車場もあり、展示館はすぐ横に隣接していました。
館内は撮影禁止だったので、新聞記事からその鉄器の写真を。
c0222861_12502829.jpg

展示の量はこれの倍ぐらいで、約20点ほどでした。
写真の左が小札(こざね)で、3~4センチ。鎧の材料です。
右の細長いのが鉄の矢じり。その切っ先の部分です。
折れたものもあります。古墳時代よりも、現代の矢に近いですね。
右2列は矢じりが束になって固まっています。
単にくっついたのと、溶解したのがあります。
他にベルトの一部、刀など。そして、15㎝ほどの鉄滓(てっさい)。
7世紀後半から8世紀中ごろとの事です。
斉明天皇が来た時かなと期待したけど、その後だそうです。

そう、ルナが気になったのは新聞の写真にはない、鉄滓。(かなくそ)
(現地には行ってみるもんじゃ)解説ボランティアの方に尋ねました。

「これは、鉄滓ではないですか。」
「そうです。」
「それって、ここで鉄を作ったんじゃないですか。」
「そうですね。これが出土したのは、政庁跡のすぐ隣の蔵司(くらつかさー地名)ですが、そのまた隣の来木(らいきー地名)では、瓦や鉄を作っていました。」
「ここで、作ってたのですか。」
「はい。来木で作って、蔵司が倉庫です。倉庫は四王寺山の頂上にもありました。」
「倉庫…。その蔵司って、ここから近いのですか?」
「はい、すぐそこです。」
と場所を教えて貰いました。

(鉄滓については「武器や武具を溶かして再利用する溶解炉があったのではないか。」との説もあります。)

という事で、すぐ横の政庁跡へ。正面から行きましょう。

c0222861_12521371.jpg

じゃ~ん。何もない?いやあ、何もないのが一番好きなルナです。
c0222861_125341.jpg

(太宰府展示館 リーフレットより)
でも、こんなのが建ってましたよ!

c0222861_12535536.jpg

これは右側の建物の跡。柱が巨大ですねえ。
正面が四王寺山(大野城)です。
そして、この左に出土した蔵司の森があります。

歩いて正面にまわりましょう。
c0222861_12544936.jpg

この森の中です。ここにかつては倉庫群がありました。
当時の税金である租庸調(絹や綿.他)はいったんここに集められて、
一部を残して、朝廷に運ばれました。
c0222861_12561727.jpg

ここから大量の鉄の武器が出土したという訳です。
8割が鉄の矢じりで、およそ2000本前後分があったと考えられるそうです。

出土状況
どれも高熱を受けて、半分溶けかかった状態である。
瓦も熱を受けている。
被熱した瓦に半分溶けかかった鉄の矢じりの束がくっついていた。
被熱瓦の外面には縄目の圧痕が確認される。
被熱した鉄の矢じりの破片が混ざった粘土でつくられた瓦がある。
瓦が割れた断面に鉄の矢じりが付着したものもある。この瓦の外面には格子目の圧痕や指でなでた痕跡がある。
これらから高熱を受けた時期は8世紀後半~9世紀前半の可能性がある。
高熱を受けた原因は調査中。

さあ、どんな状況で鉄が溶けたのか、瓦に矢じりが付着したのか・
これからの研究の発表が楽しみです。

藤原純友もこの倉庫に火を付けたとか。でもずっと後の事だそうです。

兵器製造は許可制になっていた
西海道(九州)の諸国では761年にはじめて兵器の製造が認可されたそうです。
そうか、いつのまにか自由に造れなくなってたんだ。
      

ここはイヤシロ地だよ。
さて、この大宰府政庁は風水で選びぬかれた場所に建てられています。
これまで案内した中でも、風水上ではトップクラス。
その気を浴びて、散策するのにもってこいの地です。
桜や紅葉や梅やアジサイ。これは季節ごとにも楽しめるゾ。

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横の疎水に並木がありました。

太宰府展示館では発掘された当時の溝をそのまま見る事ができます。
これは本物の迫力がありました。お勧めです。
予約すると、古都の案内もしてもらえます。詳しくはHPで。


太宰府展示館
〒818-0101 福岡県太宰府市観世音寺4丁目6番1号
092(922)7811
開館時間 9:00~16:30(無料)
休館 月曜日(ただし祝祭日の場合はその翌日)
年末年始 (12月28日~1月4日)

古都大宰府保存協会公式HP
http://www.kotodazaifu.net/
 

鉄器の展示は2011年1月30日までです。
Yさん、ありがとうございました。
地図 太宰府政庁跡




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by lunabura | 2010-12-06 13:12 | 太宰府政庁跡・水城周辺 | Trackback | Comments(2)
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