ひもろぎ逍遥

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漂着物博物館(1) 石井忠氏に学ぶ超整理学

超ミニ博物館 海の館(1)
石井忠氏に学ぶ超整理学
自然編

海に行って砂浜の中に見つけた貝殻やガラス瓶。
ペンキのはげかけた板きれ。ハングル文字のついた容器。
漂着物を手にすると、ここに来るまでの長い海の旅が偲ばれて、
少年少女の心が蘇ります。
そして持ち帰った渚の思い出。みなさん、どうしてますか?

こんな漂着物を学問の領域にまで押し上げた漂着物学会の初代会長、
石井忠氏の「超ミニ博物館」にお邪魔しました!
その分類と超整理とロマン。「見せる保存」を御一緒に。

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流れついた板きれに書かれた「超ミニ 博物館」の文字と仮面が
天井近くで訪問者を迎えてくれました。


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壁には沢山の漂着物がケースに入って、飾ってあります。
「ケースはニトリで800円。」
「え?ガラスも仕切りもついて、売ってるんですか。」
「そう。だいぶ買ったよ。」
「こうすれば、いつでも見られますね!」
しきりの中には綿が敷き詰められて、貝殻やイルカの耳介、ニュージーランドの渚で拾ったビールの蓋など、テーマ別に保存されていました。



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これは「モダマ」。種です。大体5センチぐらいの直径です。そのさやは1メートル以上。サヤインゲンの巨大なものを想像して下さい。南の島から流れ着きます。
ビーチコーマーの憧れだそうです。








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海の中道で採取した木の枝など。風と波が作った芸術作品です。













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これは各地の砂浜の砂。プロは眼のつけどころが違いました!
こうして見ると、どれ一つ取っても同じ砂はありません。こんな所から研究は始まるのですね。しかも、ビンが香辛料でも入っていそうな、おしゃれなもの。
一つずつ見ていると、そこの海の歌が聴こえてきそうです。








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漂着物はジャンルも様々。形もさまざま。
それを分類するには力量がいります。それにしても見せ方がステキです。まさに博物館です。
中央で額縁に入っている丸いものはクジラの椎間板。こんなものも流れて来るんだ。








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上の棚を大きく撮りました。クジラの骨は天井にあるので、よく見えます。
中央の丸いものは先程のクジラの椎間板。
古代には、これをロクロを回す時の台にしたんですって!
それまでは土器の底についた凸凹のデザインの意味が分からなかったのが、これでその謎が解けたんだそうですよ!






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誰かさんの大好きなアオイガイ。早朝に行かないと、カラスが突っついてしまうんだそうです。
雑然と並べているように見えますが、
「こうして、いろんな方向に並べて、全体が見えるようにするのがいいね。」とのコメント。
これが学者の視線なんだ…。






c0222861_12463439.jpgそう教えて貰って、この標本を見ると、なるほど、いろんな方向が見えるようになってる。しかも、三つずつセットにしてるから美しい。








(つづく)




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by lunabura | 2011-01-29 13:05 | <歴史資料館・博物館> | Trackback | Comments(5)

漂着物博物館(2)流れついた人の営みと神々


超ミニ博物館 海の館(2)
人の営みと神々

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浜辺にあった小さな瓶。誰が使ったんだろ。どんな海流に乗って来たんだろう。いろんな事が思われます。それをこうして並べると、なんていい感じ。


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これは中国製のライター。普通はゴミとして処分されますが、漢字を読むと、左は「1997年香港回帰祖国」と書いてあります。1997年7月1日にイギリス領だった香港が中国に返還された時の記念ライターでした。福岡県の津屋崎浜に流れ着いていました。
右のライターは「99澳門 99・12・20記念」と書いてあります。「澳門」はマカオの事です。1999年12月20日ポルトガル領のマカオが中国に返還された時の記念ライターです。2001年10月6日に宮崎県の青島に漂着。すごい。すごい。
遠い異国の歴史ドラマが日本の浜辺に漂着するなんて。急に身近な事件になりました。台になった半月の板も味がありますね!
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「むむ。この額は何ですか?この人は?」なんだか漂着物とは違うみたい。
「孫文。三民主義を唱えた人。」
「え?あの有名な?でも、これってどうしてこんな所に?」
「台湾から、中国に向けて宣伝ビラを流したんよ。」





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これがビラが入っていた容器。海漂器といいます。プラスチックのマグカップです。これが台湾から中国にねえ。物資不足の中国の人たちはきっと喜んで拾ったんだろうな…。







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開けると、ビラが丸まって入っていました。これは海水に濡れて、紙がくっついていました。台湾から日本にも流れて来たんですね。
こんなお話を聞くと、急に遠くの国の暮らしが身近になります。






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これはセグロウミヘビの標本です。
出雲の神々を研究する人なら必見のあの竜蛇神です!
「インド洋から太平洋の暖海に分布するウミヘビで、日本列島の周辺海域からも採捕されます。日本海側の出雲・石見地方の「竜蛇信仰」の対象とされるウミヘビです。」と書いてあります。
これがお祭りの日には浜に漂着するのですね。ほんと不思議です。
現物と絵馬と研究論文と神事の写真。セットで置いてあると、基礎資料はバッチリです。


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前回は岡湊神社で、スサノオの神像が海中から拾い上げられた話を書きましたが、ここにも、いろんな神様が流れついていました。これも実際に漂着したものだそうです。これはあまり摩耗していない感じで、新しいものかな。











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これは船魂(ふなだま)さま。20センチ前後です。
船に備えられる神さまです。
ずっと以前に伺った時に、初めて御開帳して下さったんですが、中味は何でしたっけ。お、思い出せません…。(今度、また聞いておきます。こっそりここを書き替えます。)





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さて、このコーナーが石井氏の理想の博物館のモデルです。
これはヤシの実のコーナーです。
ヤシの実の研究書があって、そばにヤシの実の現物があり、実際に漂着した記録が並んでいること。ヤシの実も皿になったり、玩具になったりと、いろんな形をとっています。
「本と実物と記録」それが一体となった展示。
そんな生きた展示の博物館を作りたいとの事でした。

「いろんな取材があったけど、資料室の取材は初めて」と言われました。
だって、新しい学問が産み出された現場ですよ!
ルナが見せていただいたのは二度目なんですが、沢山の発見があってとても楽しい。しかも、よく分かる。こんな生きた超整理法あっての、発展だったんですね!

c0222861_16511781.jpg「これが僕の神さま。」と言われたのがこの漂着物。波に洗われて、摩耗したその姿は、まさに寄り着きしもの
「これが九州国立博物館でスポットライトを浴びて展示されていた時には感動したね。」と、うれしそうに話されました。展示が終わって戻って来た時には、こうして九博の人が木の入れ物を作ってくれていたとか。う~ん。いい話。

さて、この超ミニ博物館には他にもいろんな種類がありましたが、
今回は「見せる保存」というテーマでほんの一部を紹介しました。
関心ある方は、本が沢山出ていますので、そちらをどうぞ。
石井先生、お忙しい所を本当にありがとうございました。





※ただ今、平行して『古事記の神々』では「蘇我の稲目」を現代語訳中。ハマってます。



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by lunabura | 2011-01-28 17:04 | <歴史資料館・博物館> | Trackback | Comments(7)

岡湊神社・おかみなと・岡水門は大倉主神と熊鰐と神功皇后の伝承の舞台だよ

岡湊神社
おかみなとじんじゃ
福岡県遠賀郡芦屋町船頭町
岡水門は大倉主神と
熊鰐と神功皇后の伝承の舞台だよ

国道三号線の遠賀川橋から、福岡側の岸部を海に向かって行きます。
川沿いを走ると神奈備山が次々と現れては消えていき、
古代の風景が残る道に高揚して来ます。
小さな橋を渡って集落に入ると、すぐ左に目指す岡湊神社はありました。

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神社の一の鳥居です。左の道路からやって来ました。
駐車場は向かって右の方に鋭角に曲がって行きます。
神社が海の方に向かって建てられているのがよく分かります。

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芦屋町船頭町という地名のように、この地は古代から海運で栄えた町で、
この大きな石燈籠「式日献燈」も、片方は「芦屋の陶器商人」が、
もう一つは「伊万里の陶器商人」が寄付したものだそうです。
佐賀の陶器がここから堺、江戸へと積み出されて行ったそうですよ。

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拝殿です。

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大変大きな拝殿です。昭和4年に町の大火災で焼失した後、再建されました。

御祭神は
大倉主命 菟夫羅媛命(ツブラひめ) 素戔嗚命(スサノオ)
天照皇大神 神武天皇

今日は御祭神について見て行きたいと思います。

大倉主命 菟夫羅媛命
この二柱は高倉神社を記憶している方はピンと来ると思います。
そこの御祭神と同じですね。そう、ここはもともと高倉神社の下宮だったそうです。
のちに独立したので、このように同じ男女の神を祭っています。

この岡湊神社は「日本書紀」に出てくる「岡の水門」にあります。
記紀に書かれている現場にやって来ましたよ。
その辺りを日本書紀から簡単にあらすじを。
仲哀天皇2年9月に、熊襲国を討つ事を決意した仲哀天皇は山口県の穴門に遷宮しました。(穴門豊浦宮)そして神功皇后もここに来るように呼び出します。

8年春1月4日にいよいよ筑紫に行幸しました。
その時、この岡湊神社の近くに住む県主(あがたぬし)の熊鰐(わに)は、天皇の行幸を聞いて、あらかじめ五百枝(いほえ)の賢木(さかき)を土から抜き取って、根の付いたまま九尋の船の舳先に立てて、上の枝には白銅鏡を掛け、中の枝には十握剣を掛け、下の枝には八坂瓊(やさかに)を掛けて、周防のサバの浦に迎えに行きました。そして魚や塩の産地を献上しました。

熊鰐の案内で天皇は外海から岡浦に入って来ますが、船が進まなくなりました。その原因が大倉主とツブラヒメの神の御心だと分かり、舵取りの倭の国の莵田の伊賀彦に祭らせると船が進みました。

一方、神功皇后は別の船で洞海湾から入って行き、後にこの岡の津で天皇と合流しました。

日本書紀には仲哀天皇が筑紫にやってくる時の様子が詳しく描かれています。
地元の熊鰐が三種の神器を船に載せて来たのなんか、大変興味深いですね。
これは熊鰐以外にも、同じような事をしたケースがあります。

仲哀天皇の船団は、熊鰐の案内で、当時島だった山鹿島の外海を経由して、
この岡の水門(みなと)に入っています。
一方、神功皇后は別の船に乗り、ルートも別で、山鹿島の内海を通っています。
女性にはより安全なルートを選んだのでしょうか。
しかし潮が引いてしまい、浅瀬に乗り上げるというハプニングが起こり、
熊鰐が再び迎えに行っています。
神功皇后が飽きないように気を配ったりしてるんですよ。
この内海は今では途中から平地になっています。

高倉神社と岡湊神社がかつて本宮と下宮の関係だったという事は、
大倉主の神とツブラヒメの神がかなり広い範囲を治めていた事が伺えます。
あとで地図を見てください。では次の御祭神を見てみましょう。

素戔嗚命
スサノオの命が祭神になった理由は、漁師の網にかかった人形が
スサノオの命の人形だったのが始まりのようです。
村長の娘の託宣によって、岡湊神社に奉納された事で、
疫病が治まったという謂われが残っていました。
そこで、この町では人形(ひとがた・にんぎょう)を大切にしていて、
女の子が生れると団子雛を作り、男の子が生まれるとワラの馬を作ってお祝いします。

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芦屋歴史の里(歴史民俗資料館)にて撮影
八朔の馬」と言い、ワラで作った馬に旗が付けられています。
その旗には織田信長や武田信玄などの名前が書かれていました。
中には漫画家の吉田直などの名前も。故吉田直氏はこの町の出身で、
「トリニティ・ブラッド」「ジェノサイド・エンジェル 叛逆の神々」が代表作です。

あしや人形感謝祭
人形(ひとがた)に災厄の身代わりとなってもらうことを感謝する行事として
「あしや人形感謝祭」がこの神社で毎年4月29日に行われています。
平成18年には、人形が大活躍するアニメ「RozenMaiden」のキャラクターが
ポスターに登場。原作者の「PEACH-PIT」さんをはじめ、
延べ3000名近くの来場者があったそうです。楽しそうですね。
海から現れた人形に助けられた里人が人形を愛する伝統は、
現代もこのように感謝祭として引き継がれています。

なんじゃもんじゃの木
この祭りの季節には「なんじゃもんじゃ」の花も咲くとか。
「なんじゃもんじゃ」とは「ヒトツバタゴ」と言う名前のモクセイ科の木の事で、
花が咲くと雪が積もったように真っ白になります。
長崎県の壱岐の島が有名で「海照らし」とも呼ばれています。
そんな不思議な名前の木は壱岐にしかないと思っていたので、
地続きのこの神社に見つけたのは幸運。花の季節に来なくっちゃ。
では残りの御祭神です。

天照皇大神 神武天皇
天照すめ大神と書いてあるので、天皇家の御先祖の神々という事になります。
神武天皇もその一人ですが、前回近くの「神武天皇社」で書いたように、
第二次世界大戦で神武天皇社が焼失したために、
こちらの神社に御神体が移されて祀られています。

***

ここは記紀に描かれる地を味わえるとともに、
感謝祭や山笠など、人形を大切にする伝統が息づいていました。
三里の松原や千畳敷き・縄文遺跡などの楽しみも沢山あり、
何度か訪れて、踏破したい町です。また戻って来ますね~。


日本書紀の歴史を歩く 遠賀郡 ブログ内のお散歩コース

高倉神社 福岡県遠賀郡岡垣町高倉
       (1)日本書紀そのままに残る古社
         神功皇后の船を止める男女の二神の宮
       (2)弥生の風景そのままに
         伊賀彦は水銀産出の国から来て、ここに留まった
       (3)草薙の剣を取り戻して造られた7振りの剣から
         江戸時代までは八剣神社とも呼ばれていた
神武天皇社 福岡県遠賀郡芦屋町
       イワレビコ命はここから東征を始めた?


地図 岡湊神社 神武天皇社 高倉神社


さてさて、海中から現れたスサノオの神像の御縁でしょうか、
次回は漂着物のお話です。
みなさん、海で拾ったお宝、どうしてますか?




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by lunabura | 2011-01-27 17:17 | 神社(オ) | Trackback | Comments(0)

神武天皇社・イワレビコ命はここから東征を始めた?


神武天皇社
福岡県遠賀郡芦屋町
イワレビコ命はここから東征を始めた?

国道3号線と遠賀川が交わる橋があります。
その福岡側の川沿いを海に向かって行くと人家が集まった所に岡湊神社があり、
そこから左に入って角をいくつか曲ると神武天皇社に出ます。

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第一の鳥居です。手前には人家がありますが、
神社の裏手は航空自衛隊の芦屋基地です。とても静かな所です。

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この日は正面に太陽が輝き、まるで太陽の中に入っていくような趣でした。

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参道の石畳は人々が歩いた長い年月を刻みこみ、神社の森は色濃い影を作っていました。

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広い境内のずっと奥に拝殿があります。太陽が輝きを増して、とても眩しいです。

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ここは神武天皇社。
神武天皇仲哀天皇神功皇后を祀っています。

神武天皇が九州から東に向かった時、3か月もしくは1年滞在した岡田宮の候補地の一つです。
そして、それから数百年経って、仲哀天皇と神功皇后がやって来て、
今度はここから西に向かって行きました。
西の方、200メートルの松原の中には、かつて御手水池があり、
神武天皇と五瀬命が禊をし、また神功皇后も禊をしたとか。
水がきれいだったそうですが、昭和14年に
芦屋飛行場の敷地内に繰り入れられて姿を消したそうです。

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神殿の横から境内を撮りました。何もないのに驚く方もあるかも知れませんが、
第二次世界大戦中、昭和20年6月、米軍のB29によって爆撃されて、焼失してしまいました。
御神体は守られたらしく、近くの岡湊神社に移されています。
残念な事になりましたが、この神社が焼けたのは一度だけではありません。
芦屋町の町史を見てみましょう。
古事記の岡田宮は芦屋岡松原(昔が原)の地にあったとされ、ここに社殿を建てて早くから里人が祭っていたが、たびたびの兵火で焼け、ただ小祠のみが残っていた。

のち仏教がさかんになったとき、宮跡を芦屋寺(今の観音寺)とし、境内に小祠をうつし、若宮として尊崇していた。

300年余年前、芦屋寺が芦屋町にうつされ、小祠もそこに祭られた。1746年、吉永氏清三郎が発起して現在の正門町の地に神武天皇社を再興した。

何度も兵火をくぐって、現在に至っています。現在の神殿は伊勢神宮から譲られたものです。

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後ろ側から撮った神殿です。

ここはいつも清々しく、独特の静けさを持っています。
神武天皇の時代から現代まで、とうとうと流れて行く時間。
過去と現在。そして日本人の行方。
それらを一点に包含し、多くの事を考えさせられる聖地です。


地図 神武天皇社 




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by lunabura | 2011-01-23 20:37 | 神武天皇社・遠賀郡 | Trackback | Comments(2)

邪馬台国 九州と近畿 トピック展 に行って来ました。


邪馬台国 九州と近畿 トピック展
に行って来ました


九州国立博物館では、現在ゴッホ展が開催されていますが、
それと並行して「邪馬台国 九州と近畿」のトピック展示があっていました。
たまたま他の資料館でパンフレットを見つけて「え?昨年の吉野ヶ里の分?」
と思ったのですが、それとは全く別のものです。
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裏面の説明書きを写します。
三世紀の日本列島の姿を映しだした『魏志倭人伝』に記録され、女王卑弥呼がいた邪馬台国は、どこにあるのでしょう。主に近畿地方と九州北部地方を主軸としたその所在地論争は、歴史・考古学のファンにとっても関心の高いテーマと言えます。

邪馬台国は、弥生時代から古墳時代に移りゆく時期にあたります。
古墳時代から見ると、その幕開けを告げる前方後円墳や三角縁神獣鏡をはじめとして、近畿地方が広い範囲で求心性を発揮するのは間違いありません。

一方で弥生時代から見ると、お墓での埋葬にあたり朱で赤く塗る重要な風習は、九州北部でははるか以前から執り行われていました。また技術力や生産力を高める源の「鉄」について、九州では近畿を質量ともに上回る先進性を示す遺物が多数出土しています。よって、邪馬台国の所在は、単純で少ない要素の優劣の比較では理解し難いと言えます。

本トピック展示は、九州では紹介されることの少ない近畿地方の至宝の数々をご紹介する限られた機会です。邪馬台国出現前後の九州北部および近畿の特徴を表し、邪馬台国所在地論争の謎と魅力を引き立たせてくれる作品をご覧ください。

展示は4階のいわゆる常設展の第3室であっていました。入ってすぐ右です。
室内に入ると、右側が近畿地方。左側が九州地方と分けてあります。
いくつもの古墳や遺跡の中の選り抜きの出土品が展示してありました。

どちらも同じ高さの視線で見ようという展示なので、
熱い論争を感じることは出来ないのですが、
それぞれの地方の至宝が出ているのが魅力です。

個々の遺跡や古墳の特質を知っている人には、さらに面白いんだろうな。
ルナ的には九州には魅力的な遺跡が他に沢山あるのを知りました。
(これらを一つひとつ調べて行ったら一年は楽しめそう…。)

お勧めはカタログ。(千円)沢山の写真とイラストと地図と論文。
これで最新の弥生時代を見渡せそうです。

「互いが地元の資料を中心に集めてそれを集結させ、それぞれの館で展示を行う」
という共催展。九州では2月20日までです。

邪馬台国 九州と近畿 トピック展
平成23年1月1日(土)~2月20日(日)
休館日:1月17日(月)、31日(月)、2月14日(月)
会場4階文化交流展示室 関連第3室 
観覧料 420円
九州国立博物館 福岡県太宰府市石坂4-7-2

時間は今日は17時まででした。

宮地嶽古墳の副葬品の数々も里帰りして、堂々と中央で展示されてました!
ようやく、現物に会えました。まさか、今日会えるとは思ってもいませんでした。❤❤




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by lunabura | 2011-01-21 23:26 | <催しもの・あそび> | Trackback | Comments(8)

鮭神社・山幸彦とウガヤフキアエズとを祀る宮・鮭は豊玉姫の使い

鮭神社
福岡県嘉麻市大隈
山幸彦とウガヤフキアエズとを祀る宮
鮭は豊玉姫の使い


鮭が戻って来て、鮭神社に奉納されたという話を
前から聞いていましたが、ようやく参拝する事が出来ました。
九州に鮭?
そう、遠賀川流域の神社の話です。
昭和の初期までは鮭が遡上していたのが、
石炭産業による川の汚染のために見られなくなりました。
しかし25年ほど前から地域住民が稚魚を放流して、
最近では、年に数例の鮭が確認されているとか。
場所はうまく説明が出来ない…です。

鮭神社の二の鳥居です。
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この石段を上れば境内です。
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拝殿と境内です。拝殿の中には、鮭に関する絵馬が奉納されていました。

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鮭の剝製だよ。
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鮭の拓本もある。昭和53年12月13日のものだって。
体長81センチとは、かなり大きいですね。
捕獲場所は遠賀川!見事、地元に鮭が帰って来ました。
そう。ここは、名前のとおり「鮭の神社」なんです!

どんな謂われがあるのでしょうか。まずは「筑前国続風土記拾遺」から。

鮭大明神祭礼の9月23日、この社に奇事があり、毎年鱖魚が社辺の川に登って来ることがあるというが、鱖魚の字はいぶかしいと思う。(鮭の間違いだろう)
長さ2~3尺(40~90センチ)の鮭が社辺まで上ってくるが、これは海神・豊玉姫が御子のウガヤフキアエズのミコトのもとへ鮭をお使いとして遣わされるという。

上大隈から遠賀川の河口の芦屋の海までは12里(48キロ)余り。この間には100以上の井関もあり、無事に上ってくればその年は豊作であり、これを途中で捕えて食べれば災禍に遭うと言い、盲目になるとか、家が絶えるなどの言い伝えがあって、広く信じられている。
鮭を神の使いとする村の氏子の人々は、今だに鮭は食べない習慣が残っている。
鮭は神の使いと崇められている。

これは江戸時代の本です。
鮭が秋になると海から上って来る、けなげな姿を見て、
豊玉姫が我が子恋しさに使いをよこしている姿と重ね合わせているんですね。

この神社の御祭神は
彦火々出見尊 鸕鷀草葺不合尊 豊玉姫尊
ヒコホホデミのミコト ウガヤフキアエズのミコト トヨタマ姫のミコト

豊玉姫の夫と子供が一緒に祀られていました。ヒコホホデミは山幸彦の事です。
このあたりの神話は何度読んでも、こんがらがります…。
もう一度、おさらいしましょ。

釣り針を失くしたヒコホホデミ綿津見の宮に行って、豊玉姫と結ばれます。
三年たつとヒコホホデミは中つ国に戻って行きました。
しかし、妊娠していた豊玉姫は天つ神の子供を生むために、葦原の中つ国に行き、生む所を決して見てはいけないと言って、ウの羽根を葺いた産屋の中で出産しました。
しかし夫は覗き見をしてしまいました。それを知ると、豊玉姫は子供を残して海神の国に戻って行きました。
その子供はウガヤフキアエズの尊と名付けられました。


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境内にある石碑です。
「私共氏子は鮭を捕えた人々が持参してくれたら、神前にお供えして
神官を呼び祝詞を上げて頂いて、鮭塚へ埋める習慣になっていた。」そうです。

神社には興味深い伝承がありました。(分かりやすく書き換え)

古事記中巻 神武天皇は兄の五瀬命高千穂宮で相談なされて、天下を治めるのによい所を求めて、東をめざして日向を出発なされた。

豊後豊前をすぎて筑紫の岡田宮に一年滞在されたとある。その時途中で天皇は自ら親しく神籬(ひもろぎ)を設けて、高木の神当村岩岳山尾上に祭り給うとある。詳細は別書「社伝」にある。

神武天皇の名前が出て来ましたよ。
古事記によると神武天皇はこの遠賀川の下流の宮で1年滞在しています。
古事記ではわずか一行で済ませていますが、
神武天皇の足跡を伝える神社がこの地方には数か所あります。

この社伝からは、神武天皇はこの大隈村にもやってきて、
「高木の神」を祀っているのが分かりました。
高木の神天照大御神と一緒に高天原を経営した人で、
後に神武天皇がピンチになった時に、高倉下を通して神剣を授けた神です。

謎の多い神ですが、この川の上流にも多く祀られています。
高良山では、神の交代劇として伝えられています。
神武天皇から見たら、祖先にあたります。
(天照大御神でなく、高木の神を祀った所が興味深いですね。)
系図を見てみましょう。
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この遠賀川流域で出す系図は古いな~といつも思います。
神武天皇が父や祖父母でなく、高木の神を祀った点からも、
この神社には幾層にも渡る伝承があるように思われます。
社伝を読む機会があればいいけどな…。

「鮭神社」は出雲にもあった。  

この名前の神社は全国でもここだけと言われていたのですが、
昨年(2010年)、雲南市にも「鮭神社」があるのが分かりました。
そのきっかけが、雲南市の宮司さんの兄が嘉麻市を通りかかって、
鮭神社を見つけた事だったそうです。
両神社に同じような伝説や習慣、方言があるとか。
この嘉麻市の鮭神社は奈良時代に創建。雲南市の方は鎌倉時代の建立。
どちらも、昭和の初めまでサケが上って来ていたそうです。
これをきかっけとして両神社の交流が始まりました。
遠い昔に氏族が神社とともに移住した可能性があり、
また、鮭が遡上する事も加えて興味深い神社です。


遠賀川流域の神武天皇の伝承を伝える神社
日若神社(2) (日少神社)
         神社史を訳すと、古事記の空白を埋める記事が現れた
         霊泉をめぐる神と神武天皇と神功皇后の話
馬見神社 (2)
         上宮の白馬大明神とはニニギノ命だという。
         そうすると、ここは天孫降臨の山になってしまうが…。

『古事記の神々』ウガヤフキアエズについては「豊玉姫」でどうぞ。

地図 鮭神社のある大隈町


さてっと、神武天皇が出てきたら、やっぱり岡湊神社と神武天皇社ですよね。
次回はどっちを先にしようかな。




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by lunabura | 2011-01-20 20:35 | 鮭神社・嘉麻市 | Trackback | Comments(5)

「オオカミ導入」記事へのコメントをいただきました。


「オオカミ導入」記事への
コメントをいただきました。



先日、外国のオオカミ導入の記事を書きましたが、
それについて、訪問者の方から、丁寧な説明を頂きました。
ここにそのまま、掲載します。

初めまして。私は動物飼育を仕事としているものです。
オオカミの専門家ではありませんが、学生時代からオオカミ関連書籍をいくつか読んできました。少ない知識ではありますが、わかる限り、疑問の答えを挙げさせていただきます。

まず、導入する「輸入オオカミ」ですが、これはハイイロオオカミという種類です。たいていは2頭から数頭の群れで行動しますが、1頭の場合もあります。ニホンオオカミは残念ながら、明治時代に絶滅してしまったため、もう地球上には存在しません。しかし、ニホンオオカミはもともとハイイロオオカミの亜種なので、ハイイロオオカミが日本に根付けば、ニホンオオカミに近い形になる可能性があります。


次にハブとマングースの問題ですが、これは完全に生態調査不足です。ハブは昼行性、マングースは夜行性なので活動時間が合わず、夜行性のアマミノクロウサギなどが被害にあっています。これは動物業界の誰もが知る事実で、二度とこんな愚行をしてはならないと皆、肝に銘じています。

オオカミの場合は調査・研究が世界で行われていますし、日本にも専門家がいるので、ハブとマングースのような間違いは起きません。


オオカミと獲物に関しては、シカ、イノシシ、ノウサギなどを狩ります。その中でも、狙うのは幼獣や弱った個体です。これにより、シカなどの増大を防止、感染症の蔓延を防ぐ効果があります。

鳥インフルエンザや口蹄疫の病態・死骸も捕食すると思いますが、感染症の不拡大に繋がります。これらはオオカミには感染しません。

口蹄疫の侵入禁止区域については、オオカミには生息域の制限・監視がつくので、他の野生動物よりも侵入の危険はないと思われます。

また、オオカミが狩りをするのは、自分のグループの縄張り内のみです。これは縄張り外ならば捕食されないということでもあります。獲物が食べつくされないのはこれが理由です。オオカミが増えた場合も、縄張りと縄張りの間に隙間が生まれ、獲物側もそこを利用することで頭数を維持することができます。

人害に対しては、人への警戒心、恐怖心をもたせることで防げます。オオカミ導入に成功しているポーランドでは、人の居住区とオオカミの活動地域か重複しているにも関わらず、人害はまったくありません。これは国民性が関係しているのかもしれませんが、日本人は野生動物にエサを与えてしまうことが多々あります。

サルやクマの問題は、人が安易に餌を与えたこと、ゴミを放置したことが原因です。この行為は野生動物に人への警戒心を忘れさせ、襲われるなどの被害を生むだけなのです。これに関しては専門家も、オオカミにもこのような行為が行われれば、サルやクマと同じ問題が起きるだろうと危惧しています。

しかしこれは、オオカミや他の野生動物の問題ではなく、人間の問題です。人とオオカミの距離をきちんと保つことで、子供やペットを守ることができます。

害獣の頭数に関しては、専門家によって全国で調査されています。
家畜被害に関しては、放牧していなければ被害はほとんどありません。また、きちんと被害補償の検討がなされていますのでご安心ください。
私が応えられるのはこの程度ですが、不明な点は専門家に伺われてはいかがでしょう?疑問がハッキリしていらっしゃるので、専門家の方も回答のしがいがあると思いますよ。
長々と失礼いたしました。

サアサさん、コメントありがとうございました!きちんとした説明が伺えて嬉しいです。
ニホンオオカミ協会のHPを見ても、生態などが分かりませんでした。
これで、自分なりに考えることができます。

この説明で解決したものと、未解決の課題がはっきりとしてきました。
鳥インフルエンザには人間がうつって死亡する例があるので、
オオカミも例外ではないだろうな。
オオカミはたぶん電波発信機をつけて放たれるのでしょうが、
次世代以降にはどうやって付けるのかな。
多くの農家では、ニワトリやらアヒルやら小動物をそこらあたりで飼っています。
そんな安心な暮らしが失われませんように。

もっともっと専門家と当時者と外野と話し合っていただけたらいいなと思いました。

それでも、無視できないイノシシなどの被害。
九州では、山野に近い畑や田んぼには長々とトタンの塀が築かれているのをよく見かけます。
電気のサクの事もあります。イノシシよけです。
広い畑を全周するのですから、費用や労力は大変です。
でも、シカはそんなものは簡単に飛び越えます。
アライグマも増えていて、これはよじ登って侵入します。

しかもイノシシは直接人間を襲っています。
畑で草取りをしていた女性が襲われたり、神社で体操していて襲われたりしています。

オオカミ導入はこれらを食べてくれるのを期待しての事ですが、
もっと皆で関心を持って話し合う事で、別の方法が見つからないかなと思っています。

例えば、ハブの件は、役所が一匹数千円で買い取るようにしたら、
住民が沢山捕獲して、予算を追加する事になったと聞きます。
マングースを利用するより、この方がずっと賢明でした。

イノシシやシカは、日本人は昔から食べています。最近はどうなのでしょうか。
イノシシはブタより臭みがなくて柔かいので、もっと食べられてもいいのでは。
イノシシの焼き肉はおいしいです。歯ごたえは牛肉に近い。
イノシシ鍋はボタン鍋と言われてますよね。

シカは部分が数千円で売られているのを見ました。
一村一品運動のように、みんなで料理法を開発すれば、
オオカミに食べてもらうよりも、ずっと多く消費されるのではないでしょうか。

そのような解決法も視野に入れて、
不確定なオオカミに頼らない方法を探す方がいいのではと思っています。



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by lunabura | 2011-01-18 19:54 | 輸入オオカミ導入 | Trackback | Comments(6)

黒男神社(1)武渟川別命の子孫・阿部氏が武内宿禰を祀る宮・古代の陣営あと

黒男神社(1)
くろどんじんじゃ
福岡県粕屋郡久山町
武渟川別命の子孫・阿部氏が武内宿禰を祀る宮
ここは古代の陣営あと


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久山町に久山トリアスという大きな商業施設があり、すぐそのそばにこんな山があります。
人工的にも思えるこの姿。地図を見ると黒男神社があります。
気になって仕方がない。ついに車を降りて探検に。
この車道の向こうに神社はあるだろうと思い込んで行くと、反対側だと教えられました。
この山裾を巡る道はなく、出発点へ戻って反対側へ。
でも、途中で、こんな姿が撮れました。見事な神奈備です。
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道路と山の間には川が流れています。

戻って川を渡ると大きな案内板が。(な~んだ。)
それに従って、新幹線のガードを二度くぐって、神社へ着きました。
参道の上には変電所らしき建物が建っていて、横には新幹線のトンネル。
神社は山の麓に肩を寄せるようにしてありました。

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鳥居は川の方にありました。
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神殿です。後は黒男山です。
これですべてなのですが、ここには驚くほど古い歴史が残されていました。
境内にあった由緒書きを現代語にしながら写します。
黒男神社由縁の概略
第八代孝元天皇―太彦命―武渟川別命阿部家祖先
           L 第九代開化天皇―第十代崇神天皇
           L 彦太忍信命―屋主忍男武雄心命―武内宿禰

筑前国粕屋郡山田村字カタ山という山麓に黒男神社という社あり。鎮座の由来は人皇の始め神武天皇より第十四代の帝・仲哀天皇の御代に始まる。

仲哀天皇の御代、日向の国に熊襲という賊がいて、勅命に従わなかったので、之を討伐しようと、都より筑前国香椎村に行幸され、大宮を造られた。

皇后(神功皇后)諸大臣と国賊討伐の議を計られ之を討たれたが、利あらず、仲哀天皇香椎宮で崩御された。討伐についてのご神託をお聞き取らなかったせいでと、皇后は深く悲しまれ、ご神託の報いなのだろうと考えて、罪をあらためようと香椎村の隣である山田村(昔は小山田村と言う)に斎宮を造られた。これが聖母屋敷(上山田)である。

この斎宮に三月一日を吉日として主ら神主となり七日七夜籠られた。この御神事の隙をついて賊が襲ってくる事をおそれ、2月29日より武内大臣(宿禰)を大将として、カタ山に陣を張った。昔はかため山と言ったが、中昔よりカタ山という。

この時、皇后に随っておられた太彦命の御子武渟川別命もカタ山に陣を張り、しばし足を止められている内に一子を挙げられ、その子孫が年月と共に繁栄し、数十戸に及んでいる。これが阿部家の先祖である。

このような由縁で武内宿禰の薨去後、同氏人たちは祖先である事とて御社を新築し、大臣の霊を祭祀して黒男神社と唱え、29日は由縁のある日として祭日とし、祭儀を怠らなかった。

昔は本殿、拝殿、石の玉垣、石の鳥居が完備して神社として繫昌していたが、天正年中の世の乱れの時、薩摩の軍兵が立花城を征したおり、兵火にかかり、焼滅しその後、幾多の災禍を経て、文政8年本殿を再建した。今日の本殿がこれである。

明治の代に入り、玉垣と鳥居も再進された。同氏の人々の敬神厚く、遠近の郡村より参詣する人が絶えなかったという。

武内宿禰は第8代孝元天皇の御孫の屋主忍男武雄心命の御子で第12代景行天皇の御代より成務、仲哀、神功、応神、仁徳の6代におつかえした名臣であり、百司を統べ、万機を司る国家の棟梁であった。

祭日
毎年2月29日は祈念祭
6月29日は全氏人の祭籠

一年間、周囲の神社を逍遥した今、この由来書に何が書いてあるのか、
私は理解出来るようになっていました。

この神社は仲哀天皇が筑紫に来た時に随っていた武渟川別命
子孫の阿部氏武内宿禰を祀る宮でした。
西暦200年の頃から1800年も連綿として祀り続けてきたという、歴史ある宮でした。
古代の道である川と、登れば遠望できる黒男山、そして、山に向かって祭祀する神殿。
この神社の廻りは古代の風景が変わらず残っていました。

そして、ここは聖母屋敷とも呼ばれる山田の「斎宮」を守るための陣営の跡地でもありました。
ここに陣を構えるまでのストーリーを追ってみましょう。

熊襲征伐の為にやってきた仲哀天皇は香椎宮で亡くなってしまいました。
理由は、三韓征伐を勧める神託を受け入れなかったという事です。
(これは、矢の傷の悪化の為だとも言われています。)
ご遺体は武内宿禰によって、下関市に船で運ばれましたが、
彼が戻ってくると、天皇の崩御の原因を知る為に再び神託を求めました。
それは、「小山田の斎宮」でなされました。
そうして、それが天照大御神の神意による事が分かると、
神託の通りに祭祀をして、無事に南朝鮮での戦いに勝利を収めました。

その「小山田斎宮」を伝える斎宮が二か所あって、
この黒男神社の由来書では、この近くの「山田の斎宮説」を取り入れています。
由来書から伺えるのは、熊襲などの反撃を恐れて、
斎宮へのルートであるここに陣を張って守りを固めたという事です。

その時、武渟川別(たけぬなかわわけ)命もいました。
この人は父の大彦命とともに四道将軍と呼ばれた人で、
記紀にも登場します。
この武渟川別と地元の娘との間に子供が生まれて、阿部氏の祖になったという事です。

この阿部氏は武内宿禰が亡くなったと聞いて、
この黒男神社に武内宿禰を祀り、現在に至っています。
1800年もの間、兵火に遭いながらも、
変わる事なく祭祀が行われていた事は驚きです。
調べると、黒男神社は宇佐神宮や大野城市などにもあって、
やはり武内宿禰を祀っていました。

この由緒書きのお蔭で、山田の「斎宮」を守るための
古代の陣営のようすがはっきりと見えて来ました。    (つづく)
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黒男神社の全容


この歴史を理解するためのお散歩コース

◆香椎宮 (1)古宮を訪ねて
     (2)古宮はスピカを祀る日振宮(ひふりのみや)だった
     (3)天皇の崩御をどうやって隠す?
◆小山田斎宮 オキナガタラシ姫の神懸かりの地を捜して
◆山田の斎宮 (1)神功皇后の神懸かりの地を捜して 二つの斎宮候補地
       (2)二つの斎宮の謎が解けた

『古事記の神々』 神功皇后 武内宿禰


地図 黒男神社 香椎宮 山田の斎宮 小山田の斎宮



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by lunabura | 2011-01-14 14:32 | 黒男神社・くろどん・粕屋郡 | Trackback | Comments(10)

黒男神社(2)武内宿禰がすべてをかけて守ったもの


黒男神社(2)
武内宿禰がすべてをかけて守ったもの

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この黒男神社の由緒を見ていて驚いた事があります。
それは阿部氏の人たちが祀っているのは
自分たちの先祖の武渟川別(たけぬなかわわけ)命でなく、武内宿禰だという事です。
武内宿禰はそれほど敬愛されていたのだろうか。

その時思い出したのが、「山田の斎宮」で「斎宮に係わりある上山田邑の古地図」を見かけた事です。
確かそこに、この黒男神社の名前があったぞ…。

c0222861_20484129.jpg

やっぱりあった!これがその古地図です。
ガラスで反射して見えにくいのですが、
「黒男神社」「武内宿禰を祭る」「片山(かための山)」と書いてあります。
すぐ横には「警固担当・武内宿禰」とあります。

これは、神功皇后母子を警固した時の陣容の地図だ!
面白い!地形が変わっていないなら、そのまま再現出来る!

こうして古地図を航空地図に載せてみました。
c0222861_20402484.jpg

地形を観察すると、聖母屋敷(斎宮)が盆地の中央にあるのが見て取れます。
聖母屋敷の廻りに堀川を巡らし、上と下を兵士で固めています。
そして、東西南北の眺望のきく山にも陣営を敷いています。
香椎宮との唯一のルートのど真ん中には黒男神社があります。
すぐそばで武内宿禰が警護しています。
いかなる敵の侵入も阻む覚悟が見えます。
陣営に詳しい人が見ると、緊急でかつ最強の布陣らしいです。

これから分かるのは、三韓や熊襲たちの反撃を想定して、
香椎宮から、より守りの固い奥の地に宮を移動した事です。

武内宿禰が守っているのは、神功皇后と生れたばかりのホムダワケの命

側近や百官たちも収容しないといけないので、広さも確保できる、この地形を選んだのがわかります。

私が一年前にこの聖母屋敷を記事にした時には、
この地を選べる人物は海人族の阿曇族だろうと思ったのですが、
今回、彼らを掌握していたのは武内宿禰だと分かりました。

神功皇后の立場を考えると、
冬に仲哀天皇が死に、次の冬に男の御子が生れました。
知る人はいなく、土地勘はなく、武内宿禰だけが頼りです。
戦争は終わり、子供を育てることに専念したい。そして、この御子を天皇につける策を練りたい。
それに、夫の仲哀天皇は下関の豊浦宮でモガリのまま…。

ここで話し合われたのは、ホムダワケ命を天皇にするにはどうしたらいいか。
そのために皇位継承権のある大和の二人の兄皇子たちをどうするか。
仲哀天皇の死をいつ公表するか。大和地方へ何としても行かねばならない。
100%安全なルートは海路か陸路か。徹底して戦略が練られ、雪の解ける季節を待って、
山を越えて周防灘に抜けて、そこから船に乗っていく事が決定されました。

武渟川別命も神功皇后を守って、この地を去って行きました。
残されたは妊娠中か、すでに出産していたのか、そんな話も阿部家には伝わっているのかもしれません。
神功皇后とその御子を心から大切にした武内宿禰は、阿部家の娘と子供のことも、気を配ったのでしょう。
だから、阿部家は武内宿禰が亡くなったと聞いて、ここに厚く祀りつづけたのではないかと思いました。

c0222861_20435127.jpg


黒男神社のそばの川です。この川をさかのぼると聖母屋敷に着きます。直線で1.5キロです。

武内宿禰ゆかりの神社へ ブログ内お散歩
織幡神社 (おりはた)
(1)風と海と空の中の宮 海と勝利の神々が勢揃いだよ
(2)紅白の旗がここで初めて織られたよ。
(3)壱岐真根子の悲劇 祭神・竹内大臣と壱岐真根子臣
(4)武内宿禰の荒魂と和魂が祀られていた。荒魂・和魂とは何だろう。
(5)沈鐘伝説と海女





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by lunabura | 2011-01-13 20:51 | 黒男神社・くろどん・粕屋郡 | Trackback | Comments(2)

外国のオオカミ導入計画を知っていますか?



外国のオオカミ導入計画を
知っていますか?


狼はイノシシやシカだけを食べてくれるだろうか。

そんな素朴な疑問に誰が答えてくれるのだろうか。
「害獣を駆除するためにオオカミを山に放つ計画」が進められています。
まずは2011年1月の西日本新聞から。
オオカミ構想に熱視線
豊後大野市の害獣駆除策

害獣による農作物被害に悩む大分県豊後大野市が、対策として提唱する「オオカミ導入構想」が全国に広がりを見せている。同じ状況に置かれた地方自治体による連絡組織をつくる動きが出ているほか、国政の場でも勉強会が始まった。生態系に及ぶ影響や安全性など多くの課題が指摘されているものの、決め手となる害獣駆除策がない中で「オオカミ」論議が熱を帯びている。

山に囲まれた豊後大野市はシカやイノシシ、サルによって、食い荒らされる樹木や農作物の被害額が年間約3000万円に上る。募る被害にたまりかね、海外のオオカミを導入して山野に放つ計画を進めており、来年度予算でオオカミ研究者らによるプロジェクトチームの設置費を計上。その後「オオカミ研究センター」を開設して研究する方針を10月に打ち出した。

同市の「オオカミ構想」が明らかになると、市には長野、三重両県の市町から「一緒に研究を」と申し出があった。ほかにも四国などからも問い合わせがあるという。

 反響の大きさを受けて、「日本オオカミ協会」(会長=丸山直樹東京農工大名誉教授)は、同市など全国数カ所に「研究センター」を設置し、データを共有する協議会設置を全国の自治体に呼び掛けた。10前後の自治体から打診があるという。

波紋は国政にも広がっている。11月にツルネン・マルティ参院議員(民主)が呼び掛け人となり、川口順子元環境相(自民)や江藤征士郎衆院議員(同)ら、超党派の国会議員が名を連ねる「オオカミを復活させる勉強会」を発足。日本オオカミ協会の会員を講師に、絶滅したニホンオオカミや、害獣駆除のためのオオカミを導入した欧米の実践例の説明を受けた。

豊後大野市によると、オオカミ構想に対して地元では賛同の声が大半という。橋本祐輔市長は「今後は賛同する自治体と連携して、オオカミ導入に向けて取り組みたい」と話している。

以上、新聞記事をそのまま書き写しました。
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私自身、大分県の豊後大野市の近くのなずな農場で、昼、イノシシが数頭、走っていくのを見たことがあります。「もののけ姫」のアニメそのままに、突進するスピードに驚きました。

また熊本県の阿蘇の畑の大根がサルの被害を受けたのを見ました。200坪一面の大根を一本ずつ引き抜いて、一口かじっては捨てていました。商品価値ゼロです。

このような被害を実際に見ていますが、それがオオカミ導入に発展しているのを知って驚いています。

山に放つのは輸入オオカミであって、ニホンオオカミではありません。生態系の問題はどうなっているのでしょうか。

有名な生態系の破壊として、マングースとハブの例があります。ハブを絶滅させるためにマングースを導入したら、絶滅危惧種の卵や子供を食べてしまったという、残念な話です。そんな問題を素通りして、計画を進めるのは残念です。

こんな疑問が生まれました。
オオカミはイノシシと鹿と猿だけを食べてくれるだろうか。
オオカミは豊後大野市だけで仕事をしてくれるだろうか。
豊後大野市にいる害獣の個体数はいくつで、オオカミ導入後はいくつになるか、
きちんと数字が出ているのだろうか。

人間の希望通りにイノシシと鹿だけを食べてくれたとして、
オオカミが増えて新たな生態系が出来た時には、
オオカミの個体数もかなり増えているのだろうが、オオカミは群れにならないのだろうか。
野犬より安全だろうか。
山道でオオカミに会ったらどうしたらいいのか?
大分県は登山のメッカです。

オオカミは観光客の与える餌を食べないだろうか?ゴミをあさらないだろうか。
イノシシもシカもサルも人間の食べ物の味をしめて、人間を襲うようになっています。
熊でさえも、人間の家の中に入って食べ物を求めています。

オオカミは子供や犬猫のペットを絶対襲わない保障があるのだろうか。
家畜は襲われたデータがあるようです。
農業被害を抑えるために、家畜農家の被害への配慮は無し?

オオカミは鳥インフルエンザで死んだ鳥に決して近づかないだろうか。
口蹄疫で進入禁止エリアが出来た時、決して侵入しないだろうか。

こんな素人の疑問にも、きちんと答えを出してほしいと思います。
また、全国の人が知らない内に輸入オオカミが放たれる事のないように願います。

外来種の導入はよくよく慎重にしてほしいものです。


続きはコチラです。
「輸入オオカミ」記事へのコメントをいただきました。2011年1月18日
http://lunabura.exblog.jp/15785599/



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by lunabura | 2011-01-12 21:56 | 輸入オオカミ導入 | Trackback | Comments(26)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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