ひもろぎ逍遥

lunabura.exblog.jp ブログトップ

<   2011年 02月 ( 10 )   > この月の画像一覧

鎮懐石八幡宮(1)出産が遅れるように願いを託した二つの石


鎮懐石八幡宮(1)
ちんかいせきはちまんぐう
福岡県糸島市二丈深江子負ヶ原(こぶがはら)
出産が遅れるように願いを託した二つの石

福岡県の東部の海岸沿いの神社を廻ると、神功皇后の伝承ばかりでした。
こうなったら、西の方の伝承も確認しよう。
という事で、前から気になっていた鎮懐石八幡宮を目指してやって来ました。
地図にも載ってるし、と思って202号線をやって来ると、
JRの向こうに鳥居が見えました。
ああ、ここは何度も通り掛かりに見かけながらずっと気になってた神社だ。
とてもゆかしい参道…。ここにこれたなんて…。と感激。

JRの踏切を渡ろうとすると、車は通れない!!
歩いてしか行けないようになってるけど、駐車場もない。どうなってるの?
ナビを拡大すると、道がありそうなので、西の方に迂回してみると、
だんだん道幅は狭くなり、農作業中のビニールハウスに突っ込みそうな勢い。

しかも、先の方は行き止まりかも。へたしたら、溝に落ちてしまう。
もしかしたら、このくねくねの細い坂道をバックで帰る?(汗)
とうとう車を降りて、道を確認しに行くと、あったあった、
駐車場もあるし、目指す神社がありました。

(このブログを見て行きたいと思った方、このルートを通るのは
お勧めしません。(;一_一)JRの踏切を歩いて渡りましょう。)

c0222861_2212461.jpg

ここは海に近い高台にあります。さっきまでのどしゃぶりも止んで、
曇り空ですが、光を集めたように明るく開けた境内でした。
ああ、ここも桜がいっぱい。花芽を含んで、充実しきった冬の枝もいいですね。

c0222861_22125569.jpg

拝殿に出ました。参拝して、右を見ると神社の由来に関する資料が
沢山貼られていました。それに、持ち帰り用の資料が置いてありました。
ありがたい…。資料館に行かなくていい。お礼を投入してっと。
この神社は古代史を調べる人は必ず押さえに来るんだろうな…。
そう。だって、日本書紀に書いてあるもんね。

まずは、拝殿にある由緒書きを見てみましょう。

祭神 神功皇后(息長足日女命)
     応神天皇(八幡大神)
     武内宿禰

おお、見事な組み合わせです。ずっと、この三人は一緒です。
母と子と重臣です。黒男神社では、武内宿禰がすべてをかけて、
この母子を守ったのが思い出されます。
では、この神社の「鎮懐石」って何?

由緒 昔神功皇后は応神天皇を懐胎しながらこの地を通って、新羅へ向かって兵を出された時に、卵形の美石2個を求めて肌身に抱き、鎮懐として出産の延期を祈られたのであった。願は叶って、帰国後、宇美にて応神天皇を御安産されたのである。

そこで皇后がかの経尺の璧石をこの丘の上に、お手ずから拝納されてより、世の人は鎮懐石と称してその奇魂を崇拝するようになった。

そうか、ここはいよいよ新羅への出兵の場所だったのですね。
でも、あれっ?出兵は志賀島からじゃなかったっけ?
そうか、当時は朝鮮半島に行く湊と言えば志賀島と松浦と二つあって、
そのどちらにも、伝承があるんですね~。困ったですね。
まあ、それはそれとして、西の方にはどんな伝承があるのか、
楽しみに見て行きましょう。

さて、神功皇后は夫が亡くなる寸前に、神託で懐胎を告げられています。
それから三輪町では戦をして、新宮町では訓練を見て、
古賀市では船団を待って、久山町や福津市など色んな所で祈願をして
忙しく過ごします。そうこうしている内に、産み月が近づきました。
そんなお腹で、戦闘に出かける?戦争中に船の上で出産する?
しかし軍備は整って、流れは止められない。

そんな彼女を助けてくれたのが、この二つの石だったのです。
その石に願を掛けて懐に収めていたお蔭で、出産が延びました。
当然ながら、この件がいろんな本で問題にされています。
(さすがに、石を懐に入れただけで出産は延期出来ない)

神社史によると、神功皇后はこの湊に戻って来てから、
みずからその石を奉納しています。
なるほど。これは現地に行かないと分からなかった話ですね。

(つづく)
c0222861_22153489.jpg


獅子が睨む先には海が広がってます。


気が向いたら、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2011-02-20 22:20 | 鎮懐石八幡・ちんかいせき・糸島 | Trackback | Comments(8)

鎮懐石八幡宮(2)石の大きさの謎をルナもやっぱり考えた


鎮懐石八幡宮(2)
石の大きさの謎
ついついルナも…

c0222861_1733077.jpg


それではこの神社に関わる日本書紀のシーンを読んでみましょう。

新羅へ出兵する時、ちょうど皇后は産む月にあたっていた。
皇后は石を取って腰に挟んで、祈って言った。
「戦が終わって戻って来た日に、ここで生まれたまえ。」
と。その石は今は伊都の県(あがた)の道のほとりにある。

とあるのが、まさしくこの鎮懐石八幡宮の場所です。
当時は道のほとりにあったと書いてあります。この部分だけでも、謎だらけです。
石のサイズです。腰に挟めるサイズですから、小さいはずです。
でも道のほとりにあるなら、認識出来る、ある程度の大きさがあるはずです。
古来、この石のサイズの矛盾の謎解きと妊娠期間の計算から
神功皇后にハマる人が出て来ているようです。

この石は今はどうなっているのでしょうか。
神社に置いてあった資料を読んで見ましょう。
鎮懐石物語 白く光り輝く二つの石 (糸島伝説集よりーその一部を)

新羅遠征も勝利の中に無事凱旋になると、めでたく胎中の天皇が御降誕になった。後の応神天皇である。皇后の御安堵と喜びは一方ではなかった。その後、皇后はこの神意志を祈願した地・子負ヶ原(こぶがはら)の丘上に納めて永く祀られたのである。

その後この宮の前を行き来する者は下馬したり、ひざまづいて拝んだと万葉集にも書き残されているが、その頃からこの神石を皇子産石(みこうみ)とも鎮懐石とも呼ぶようになった。

帰国してから、無事に出産したんですね。そして、例の石をこの丘の上に納めたんだ。
万葉集にはこの宮の前を行き来する人が参拝している様子が書いてあります。
なんと、この万葉歌人って、山上憶良ですって!
筑前の守として、ここまでやって来たんですね。
彼の詞書きによると、この時の石は大小二つあって、サイズは
大が長さ1尺2寸6分(約40㌢)、周囲1尺8寸6分(約60㌢)
小さい方は長さ一尺一寸(約36㌢)、周囲1尺8寸(約60㌢)
(一尺を33センチで計算してみました。)
う~。大きい。どうなってるの?話が伝わる内に、
こんなに大きな石を袖の中に挟みつけたという事になってる。
無理ですね…。ま、つづきを読みましょう。
この石は寛文年間(1661年)まで残っていたが、いつの間にか盗難にあってしまった。ところが、天和3年(1683年)の夏、六郎という里人が卵形の珍しい美麗な一個の石を拾って家に持ち帰っていると、ある日、一羽の鳩が飛び込んで来て、床の間に据えていたその石に止まったので不思議に思い、ある博識の古老に話した。

するとこれは子負ヶ原から失せていた鎮懐石の一つに違いないと教えられたので、六郎も近隣の人々も、瑞鳥が飛んで来て止まったのも道理だ、もったいないことだと、子負ヶ原丘上に納めたのであった。そして、貞享2年(1684年)に社殿を新築して、これを御神体にしたという。

現在、疑問を感じるのはこの石の大きさである。今の石は横7寸(約23センチ)高さ6寸(約20センチ)径5寸(約16センチ)と言。
われているが、古書では皆、長さ1尺2寸6分(約40センチ)、まわり1尺8寸6分(約60センチ)と記されていることである
貝原益軒は如何に長い年月を経たとて、大きな石が小さくなる事もあるまいが、神仏のことは常識を以て論じ難いと評論を避けている。

それにしても、このように大きな石を御腰に挿まれたとか、御裳の中にいれられたということは誰もが不審に思うであろうが、これも皇后に神力があったと考える外はない。

なるほどですねえ。
これはまた大変大きな石が盗まれたんですね。持ち上げればぎっくり腰間違いなし
ですが、後から奉納された小さな方でも、ラグビーボールぐらいの大きさ?
これを二つねえ…。妊婦が腰に挟んだ…。貝原益軒が評論を避けるのも無理ないな。

c0222861_13255149.jpg

これは、境内にあった白い石です。無造作に置いてるので、
何だろうと思って取り敢えず撮影したのですが、
古書にある大きい石がこのくらいの大きさみたいですね。
う~ん。ますますミステリー。続きをもう少し読んでみましょう。
なお、社前に御船をつながれたという「とも綱石」が
玉垣を巡らして残されているのも、珍しい。



c0222861_13263561.jpg

 境内にこんな石があって、これもまた何だろうと思って撮影しました。
 ほかには「とも綱石」らしきものには気づかなかったです。
この神社そのものが移動しているので、よく分からないです。
(地元の方で、これが何か分かる方、教えてください。)

さて、この「玉垣を巡らす」という言葉で思いだしたのが、
このような丸い石は堤防を作るのに一番いい素材だという事です。
古代には、せっせと海の底に潜っては積み上げて護岸した人たちがいました。
そんな作業中に海の底で白くて綺麗な丸石を見つけると、
神社にでも奉納したくなりますよね。
この浜にいた海人族たちも白い卵型の石を見つけると、神功皇后の伝承を思い出し、
ゆかりの神社に奉納したのではないかなと想像しました。
ここから近い唐津市の鏡山にも、白い丸石が沢山奉納されていました。
そこにも神功皇后伝説があります。

この石のサイズの問題について、ルナはこう想像しました。

「昔の神女は純白な玉石を紅袴の腰紐の中に入れていた。」そうです。
神功皇后も豊浦宮で綺麗な石を見つけて大事に拾ったりしています。
この糸島でも彼女が見つけた石は小さいものだったんではないでしょうか。
そして、出産が遅れる祈願の神事を大々的にしました。
もちろん、兵士たちへのパフォーマンスもこめてです。
彼女はその白い小石をみんなが見守る中で身につけた。

この出来事は人々に強烈な印象として残り、伝えられる内に石は巨大化していった。
それからは白い卵型の石が見つかると、人々は神社に奉納するようになった。
その内で特に大きな二つの石が道端に置かれて、道祖神のように崇敬の対象になった。
それを山上憶良が見聞して記録したのが、そのまま鎮懐石と呼ばれるようになった。
盗まれた最初の石は、きっと懐に入れられるほどの小さな石だったと思われます。

白い石は、次回紹介する唐津市の鏡山にも沢山たくさん奉納されていました。
この糸島から唐津にかけての海人族たちは白い石を見つけると、
「神様に奉納しよう。」という、ならわしがあったのかも知れません。
白い石については、もっと沢山の伝承を見通してみたいと思いました。

c0222861_1328638.jpg

境内からは海が見渡せます。左の方は今から行く唐津方面の海が見えています。

c0222861_13284616.jpg

神社はこの森の向こうにあります。
写真の左が海です。右には大きな道路が出来ています。

c0222861_13293080.jpg

昔の写真も資料にありました。
鎮懐石神社はかつては石垣を巡らした岡の上にあったそうです。
昭和11年(1936年)に現在地に遷りました。
風情がありますね。

地図 鎮懐石神社




気が向いたら、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2011-02-19 13:35 | 鎮懐石八幡・ちんかいせき・糸島 | Trackback | Comments(10)

鹿家 こんな日でも波乗りする?


鹿家
しかか
こんな日でも波乗りする?


また来てしもうた。
この日の天気予報は雨のち雪。しかし長崎方面は曇りと雨。
もしかしたら雪になる前に帰れるかもしれないと、期待をして長崎方面へ。
だんだん雲が明るくなって来た。前回紹介したルートでやっぱり海岸線を走る。
今日の海は小さな三角波が沸騰したように沸き立ち、小刻みにぶつかりあって、
こりゃあ、荒れ模様。まさかサーフィンしてる人、いないよね。

そして、またまた鹿家の二丈パーキングエリアに来てしまいました。
c0222861_1042139.jpg

ここは鳴き砂の浜というではないですか。
それならと強風の中、浜辺に下りてみました。風は強いが、思ったより冷たくない。
でも写真のように砂は濡れていたので、鳴くはずもない。

サーファーが渚に座り込んでいました。
仲間に「今日は心が折れた。」と言っています。今日は命懸け。
波は立ってはすぐに崩れ落ちるから、乗れそうな波も2~3秒で消えている。

c0222861_1043367.jpg

それなら冬の荒波を撮ってみようと水際で撮ってみると大した波が撮れない。
それならこっちは。

c0222861_10433650.jpg

と、振って見たけど、やはり体感ほどの波は撮れない。
へぼカメラマンは、あきらめが早い。戻るとするか。

c0222861_10441494.jpg

あっ、こんな日でも、波を捉えたヤツがいた。すごいヤツだよ。
次の瞬間、さかさまになった彼の足だけが宙に見えた。

曇り空の冬の海なんて、暗くて載せてもねと思ったけど、
この海の透明感はやっぱり魅力的。

最近は古墳ばかり出していていたので、ここらへんで厄落とし。
訪問して下さってる方々に、きれいな海をプレゼントしよう。

鹿家の意味?  「シカ」は「=スカ=砂の処」、「カ」は「崖」
まさにここは崖と砂浜だけがある所です。古代の地名みたいですね。

鹿家 福岡県糸島市二丈鹿家 鹿家海水浴場




気が向いたら、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2011-02-18 10:52 | <地名・地形・伝承> | Trackback | Comments(2)

新宮町の神功皇后伝説


新宮町の神功皇后伝説
福岡県粕屋郡新宮町

人丸古墳で紹介しきれなかったのですが、この新宮町には
旧石器から縄文や弥生、古墳時代の遺跡が沢山ありました。
海のすぐ近くなので砂鉄を採って鉄器を生産し、土器や石製品も製造していました。
弥生時代にはダムを作って、灌漑をしていました。

古墳時代になると武人たちを埋葬する時には、鏡や勾玉、金の耳環などとともに、
馬具や実用的な鉄の刀や剣を持たせました。
かれらの武器が青銅器でなく、鉄の真剣だった事から、また海のすぐ近くで、
港があることから、ここは軍事的に重要な所で、
船や馬に乗って戦う兵士たちがいた所ではないかと思いました。

倭国から百済や伽耶に行くのに、ここは一番便利な所で、
筑紫の兵士たちを調達出来る所なのです。

子供向けの町誌があり、その軍事的な背景が想像できる伝承が載っていました。
少し改変して紹介します。
「地名に残る神功皇后の足跡
的野(まとの)・夜臼(ゆうす)・上府(かみのふ)・下府(しものふ)

4世紀後半、南九州の熊襲が反抗しました。このため仲哀天皇とその皇后の神功皇后が九州に来られて、橿日(かしひ)の宮(現在の福岡市香椎)を拠点に平定に乗り出されました。

また神功皇后は仲哀天皇が橿日の宮で急死された後も、ここを基地に三韓(朝鮮半島)に出兵したと言われています。この時、二人はわたしたちの町にもたびたび足を延ばされたそうで、二人にまつわる地名が数多く残っています。

まず行政区名となっている的野(まとの)です。的野の「的」は弓矢の標的であり、「野」は野原のことで、ここで兵士が弓矢の訓練をしたので的野とつけられたと言われています。

同区の古賀市との境にある、永浦から古森にかけての高台に、馬挿場(うまさしば)と呼ばれている所があります。神功皇后の兵士がここで馬術の訓練や弓のけいこをした所と伝えられています。この一帯は戦に備えての、一大訓練の場だったと想像されます。

行政区の名前にもなっている夜臼(ゆうす)の起源もこの時のことです。二人がここに陣を構えた時、ここのひとたちは軍用米を差し出すため、夜通し米をつきました。天皇があちらこちらから聞こえてくる「コットン、コットン」という音をたまたま耳にされ、そばの者に「あれはなんの音だ」とたずねられました。

そばの者は「あれは私たちのために徹夜で米をついている音です。」と答えました。それからこの地区を「夜まで臼をつく」という意味で「ようす」と呼ぶようになりました。そして、月日がたつうちに「ゆうす」になまったといわれています。

また鉾田(ほこた)は、二人が野外で陣営を張られた所だそうです。臨時の陣営なので、より厳重な警備が必要だったのでしょう。矛や槍を持った兵士が、二重三重に陣営を取り囲んでいたということから、鉾田とよばれるようになったといわれています。

上府の神木(じんぎ)という所は熊襲平定の作戦会議、つまり神議(神様の会議)がたびたび開かれた所といわれています。この神議がいつの間にか神木になったのでしょう。

福岡市との境に近い下府に、飛山(とびやま)という小高い所があります。ある日、天皇が夜臼の東の山に登られ、四方の景色を眺めておられた時のことです。西の方にぼつんと立った小高い山が目にとまりました。天皇がこの山だけが他の山とかけ離れているので、「飛山だ」と言われ、以来それがこの山の名になったそうです。
う~ん。最後の飛山だけが、どこの話が分かりますね。
人丸神社と古墳があった所です。

(このあと、自分のブログを確認すると、なんと皇石神社(3)にも
全く同じ文を掲載してるのに気づいた…(;一_一)
忘れていたとは、ちとヤバイ。
同じ話ではないかと気づいた人も多いだろう…。
でも、この話の内容が昨年よりもかなり理解出来るようになったのだ…。
当時は屯倉の中に黄金を想像したが、今では武器庫だったのがよく分かる…。
私の中身は成長した。せっかく打ち込んだんだから、このまま出そう…。)

これを読むと、三韓征伐という言葉は知っていても、海を越えた戦いのために
どれだけの準備をしていたのか、何も想像出来ていなかった事に気づきました。

当然ながら、兵士たちは訓練をしなくてはなりません。
武器も沢山要ります。馬の訓練も必要だし。
新造船の訓練も必要です。船は48隻。宇佐で作らせました。

天皇と皇后も自ら夜臼での野営訓練に立ち会いました。
夜臼は弥生の環濠があり、登り窯などもあって、大変栄えていました。
米も豊富で兵糧があったので、ここを野営の陣にするのも納得です。
香椎宮もすぐ近くです。簡単に行き来できますね。
c0222861_18455765.jpg

日本書紀にこんな一行がありましたよ。
仲哀9年秋9月10日に諸国に命じて、船舶を集めて兵士たちを訓練する。

これは、仲哀天皇が亡くなったあと、
神功皇后が軍の指揮をする事になった時の話です。
夫について来ただけなのに、戦いを指揮しなくてはならなくなった女性。
自分がそうだったら、とても悩むだろう。
しかし、彼女は軍の指揮を取る決意をした…。

天皇が亡くなっても隠し続けて、軍勢を訓練した場所は新宮町なんですね~。
たった一行ですが、具体的な場所が分かったので、がぜん面白くなりました。
日本の歴史研究の人たちは、きっと誰も知らないんだろうな…。


平行して日本書紀の神功皇后を訳し始めています。
リアルタイムでどうぞ。


気が向いたら、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2011-02-16 18:51 | <神功皇后伝承を追って> | Trackback | Comments(2)

人丸古墳(1)王家の墓と呼ばれていた古墳は男女を上下さかさまに合葬していた?


人丸古墳(1)
ひとまるこふん
福岡県粕屋郡新宮町下府
王家の墓と呼ばれていた古墳は
男女を上下さかさまに合葬していた?


人丸神社のすぐそばに人丸古墳はあります。
町誌を見ると、王家の墓とも呼ばれていたとか。
しかも、男女が重なって埋葬されていたらしい。
これは、是非見てみたい。そう思って町立歴史資料館に行きました。
しかし、尋ねてみると開発の為に古墳は完全消滅していて、
跡を示す看板もないとか…。未盗掘で、江戸時代の本にも載ってる古墳なのに…。

そうか、それならブログ上で少しでも、古墳の再現をしてみよう。
と言う事で、今日は新宮町誌と町立歴史資料館の写真を使ってトライします。
c0222861_16411449.jpg

まずは発掘時の写真から。中央の木の間にトレンチが入った円墳が見えます。
ここは立花山から延びた低い丘陵地で標高18m。
「筑前国続風土記」には「人丸墓―下府村の大道筋、日の下という所に
小高き大塚がある。村人は景清の娘・人丸の墓という」とあり、やはり、
当時にはすでに神社と古墳とゴッチャになっているようです。
しかし、地元では「王家の墓」と呼んでいた場所なので、
身分の高い人が葬られた記憶が伝わっていました。発掘は昭和63年(1988)です。
写真からは下の方からも古墳がよく見えていたのが分かります。

c0222861_1642450.jpg測量図です。墳丘の高さは0.8m程度ですから、ずいぶん低い印象です。大きさは約20m。
周囲に幅約70センチ、深さ3センチ、長さ5mほどの溝が残っていました。
蓋石は4枚あり、石棺全体を薄く粘土で覆っていました。その蓋石のすぐ上には半球形の穴のある滑石製の石が一個置かれていたそうです。


c0222861_16434492.jpg
石棺です。組み合わせ式の箱式石棺で、長さ2.1m、幅0.6m、高さ0.35mの細長い長方形です。下には小石が敷き詰められてます。左の方には鉄剣が見えてます!人骨は消滅していました。

石棺について考えた
石棺の長さ が2.1mというのは、ぎりぎりの寸法ですよね。だって敷布団の長さが2mなんです。
石棺のについても、敷布団の幅は1mなので、石棺が60センチの幅しかないとすると、かなり狭くない?
そこで横にいる人のサイズを測ってみたら、腕の所は60センチを少し超えていた。
石棺の高さ が35センチというのも気になって、鼻から後頭部まで測ると25センチはあるし、胸の厚みも30センチはあったので、ぎりぎりの高さ。
この古墳は小柄な男性が寝ていて、肩は側面にきっちりとくっつき、頭と足元に少しゆとりがある程度だと分かりました。
蓋の上に石が置かれていたのは、「鎮石(しずめいしーおもし)だろうか」と、書いてあったのですが、ルナは今では、石に魂を留めている可能性がないかなとも思うようになりました。(出雲の赤い玉石は織幡神社でUPしましたよね…。)

この古墳には表面に鉄斧が二つも置かれていたそうです。(平原遺跡でも、周囲の溝あたりにいろんな鉄製品が奉納されていました。また、木棺には刀が横向きに置かれていました。)
未盗掘だと、こんな風習まで残っていて、参考になります。ただ、ここの鉄斧は発掘調査中に盗まれたそうです。

c0222861_1646186.jpg
埋葬されたのは男女?
出土状況の図です。先ほども書いたように、人骨は出ていないので推理するしかありません。
石棺の寸法からは男性が一人埋葬されていても、ぎりぎりの大きさだと分かりましたが、ここにはさらに女性が埋葬されていた可能性があるというのです。その理由を考えて行きましょう。

まず注目されるのは鉄刀と鉄剣です。合わせて4本も置いてあるのですが、二本ずつ、上下を向いて埋納されています。
しかも、も上下にあります。頭が上と下にある証拠です。
このことから、上下さかさまに二人が埋葬されていた可能性が出て来たのです。

次に性別を見て行くと、上の人には臼玉琴柱(ことじ)の形の石飾り があり、肩口にはがあります。手元には刀子を持たせています。女性だと思われます。

それに比べて下の方を見てみると、鉄の矢じり が耳元に沢山置いてあって、もあります。男性ですね。弓の名手だったのでしょうか。

これらから男女がさかさまに重ねられて埋葬されていると推定されるのです。埋葬の時期が同時か、ずれていたのか気になる所です。

ここからは空想ですが、
石棺の高さが35センチしかないことから、男性が先に死んで、
埋葬の準備が整った頃に、にわかに女性も死んでしまったので、
一緒に永遠に過ごせるように埋葬しようとしたが、スペースがなくて、
女性をさかさまに埋葬したんじゃないかな…。と思いました。
どんな事情で亡くなったんでしょうか。それはあんまり考えたくないですネ。

(つづく)



気が向いたら、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2011-02-14 17:00 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Trackback | Comments(0)

人丸古墳(2)鉄刀を持つ女王?副葬品 琴柱型石製品と鉄刀ほか


人丸古墳(2)

 鉄刀を持つ女王?
副葬品 琴柱型石製品と鉄刀ほか


それでは、出土した副葬品を見に新宮町立歴史資料館に行きましょう。
資料館はシーオーレ新宮の4階にあります。

琴柱型石製品
この古墳の出土品の特徴は、琴柱(ことじ)型の石の製品が2個出土したことです。
c0222861_17292092.jpg

これがその現物です。なるほど、琴の弦を支える琴柱に似ています。高さ2.5センチ。
大変精巧な作りです。石をここまで成形するのはかなりの伝統があると思われます。
この琴柱型石は全国で出ていて、8タイプに分類されています。

c0222861_1729596.jpg

パネルからまとめると、一部に6世紀代のものもありますが、4~5世紀にかけて
盛んに作られた石製品です。全国的には40遺跡以上120例以上が見つかっています。
特に関西地方が多く、九州地方からは8遺跡15例しか見つかっていません。
粕屋地区(この古墳を含む)からは6例で、いずれも恵解山型(えげのやま)です。

イラストを見ると中央に穴があって、竹ヒゴ等を挿せるようになっています。
2.5センチなら、髪に挿しても大丈夫です。そんな復元図をどこかで見た記憶があります。

クシ
クシも出土しているのですが、この資料館にあったかな…。記憶がありません。
他での資料を見ると福津市の福間割畑遺跡でも出ています。竹製です。
古墳時代は竹ヒゴを束ねてカーブさせて、仕上げに漆を塗っています。
髪をとくためでなく、飾りに使ったそうです。
この人丸古墳では女性は4つ、男性は1つが残っていました。
これらから分かるのは男女とも小さなクシを挿す事です。
特に女性はクシと琴柱型の髪飾りをいくつも付けているので、結い上げているんだろうなと思いました。

銅鏡
c0222861_17321931.jpg

出土状況です。女性の左肩付近に置かれていました。

c0222861_17325048.jpg

腐食が激しく「四獣鏡?」と表示されています。直径10.8センチです。
(紐を通すつまみ)にはが残っていて、繊維や木の部分が付着していたので、
布に包んで木箱に入れて副葬されたようです。

臼玉
臼玉とは滑石で作られた小玉です。

鉄鏃
男性の耳元にたくさんの鉄のヤジリが置かれていました。
c0222861_15534152.jpg

さて、もう一つ大事なものが鉄刀と鉄剣です。
c0222861_15531458.jpg

この4本の展示の中の手前から2本目が人丸古墳で出土した鉄刀です。
これらの鉄の武器を見た時、大変実用的なのが印象的でした。
他にない迫力なのです。
明らかに戦いに備えた生き方の人たちだったのが分かります。
しかも、この鉄刀は女性の腕に置かれていました。

この女性は琴柱型石製品や銅鏡から、巫女か女王と考えられています。
ネックレスは石のビーズですから、意外と質素です。
ところが両手に鉄剣と鉄刀、小刀を持たせていますから、
戦いの象徴の雰囲気も伝わって来ます。
刀を持った女王。
いったいどんな時代に生きた人たちなのでしょうか。

時代背景を調べました
この古墳は5世紀初頭のものだそうです。西暦400年代なのですね。
すると日本書紀から時代を伺うことができます。
この時代は雄略天皇(ワカタケル王)の時代らしいのですが、479年
この筑紫と関わりのある記事が出ています。

雄略23年(479)の夏4月に、百済文斤王(もんこんおう)が亡くなった。天皇昆支王(こんきおう)の5人の子供の中で、第二子の末多王(またおう)が年少でも聡明だったので、勅命を出して内裏に呼んだ。天皇みずから頭をなでて、親しみを込めて、王に任命した。そうして、武器を与え、筑紫の軍士500人を遣わして、百済に護衛しながら送らせた。この王は東城王(とうせいおう)と言う。
この年、百済の朝貢はいつもより沢山あった。筑紫の安致臣(あちおみ)・馬飼臣らは船と軍勢を率いて高句麗を攻撃した。

百済は王族の人質をつねに倭国に預けていて、百済王の任命権は倭国にあります。
しかも、護送するのは筑紫の兵です。このようなシーンは他にも出て来ます。
高句麗とは対戦中です。玄界灘を渡るには、この筑紫の兵と舟なしにはあり得ません。
この新宮町の丘陵地帯はその兵と武器と船で常に武装していた地域で、
この500人の護衛隊もこの新宮町から出した可能性が出て来ました。
人丸古墳の被葬者たちも、その軍隊を司る立場にいたのかも知れませんね。

ここは、有名な夜臼(ゆうす)遺跡がある所でもあります。
教科書に夜臼土器が出て来ますよね。
弥生時代から、環濠を持ち、竪穴住居、登り窯、石製品や鉄の工房がある、
ちょうど吉野ヶ里のような遺跡が集中していた所なのです。
あいにく、すべて消滅しています。わずか地名にその名残を留めるだけです。

しかし、伝承がまだ伝わっていました。次回はそれを見てみたいと思います。

地図 人丸古墳 シーオーレ新宮 夜臼


※日本書紀の神功皇后を訳し始めました。
読んでみると、記述と福岡の伝承がかなりマッチするのです。
どうなってるの?見てみたい。けど、長いぞ~。



気が向いたら、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2011-02-13 17:53 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Trackback | Comments(2)

人丸神社(1)景清の娘が父を尋ねて京からやって来た


人丸神社(1)
福岡県粕屋郡新宮町下府
景清の娘が父を尋ねて京からやって来た

国道三号線の、新宮町大森信号から、海の方に向かって走ると、
左の方に鳥居が見えます。
c0222861_22543967.jpg

人丸という名前がずっと気になっていました。
ついに今日は雪交じりの中、行ってみました。
道路のそばに駐車場があり、階段を上っていきます。
c0222861_22552093.jpg

300メートルの参道は遊歩道になっていて、桜がずらりと植えてありました。
ここは春には桜の並木道になるんだ。いいとこ、めっけ。
こんな天気の悪い冬の日に撮った写真を掲載するのは神社に申し訳ないなと
ついつい思ってしまいます。
でも、枝だけだから見える景観もあるんだよと自分で慰める…。
c0222861_22565955.jpg



気持ちのいい散歩道が終わると二の鳥居に出ました。神殿が見えています。
神社の由来が書いてありました。読んでみましょう。(一部変更)
人丸神社は源平合戦の哀史にまつわる神社で、平景清の娘「人丸姫」を祭神とします。
景清の妻は子供がないことを悲しみ、神仏に祈り続けました。治承二年(1178)3月15日に、朝日(旭)が上る時、懐妊を覚え、女の子を出産しました。「旭」という字は「日」「丸」と書くことから、「人丸」と名付けたと言われています。

その後、平家は壇ノ浦の戦いで源氏に敗れ、景清は源頼朝暗殺を計画しましたが、事前に発覚し、捕われて両目をつぶされて日向の国の匂当に流罪の身となりました。後に景清はこの地で亡くなりました。

人丸姫は幼くして母と死別し、京都北嵯峨の叔父の家で育てられました。13歳の時、父景清に会いたい一心から乳母とともに京の都を旅立ち、はるか西国の日向の国を目指しました。

その旅の途中、筑前院内村(立花口)独鈷寺の末院に父の旧友である僧を訪ねました。そこで父景清の噂を聞き、一日でも早く会いたいと思いましたが、僧が思いとどまるように言い聞かせているうちに、長旅の疲れから病気になり床に伏せるようになりました。周りの人々はいろいろと手を尽くしましたが、建久3年(1192年)11月9日に人丸姫は亡くなりました。

死ぬ間際に人丸姫は、「父に会えずに死ぬことは心残りなので、私が死んだら塚を築いて印に松を植え、日向に向けて葬って下さい。と頼みました。その遺言に従い、ここ飛山に葬りました。

幼少の頃、父を慕ってはるばる京都から下府(しものふ)まで来て、病没の身となった姫の心情から、この人丸神社は世の親として子供の無事成長の祈願参拝の場となっています。

平成18年  新宮町教育委員会

なるほど、源平合戦の時代のお話でした。13歳か…。
中学一年生の年ごろですね。そんな人丸姫が、京から九州までやって来たとは。
ここ新宮町から宮崎に向かうとしたら、かなりの無理があります。
ルートを考えると、また北九州に戻って、南下しなくてはならない。
船で?徒歩で?途中の食糧なんかどうする?僧が思いとどまらせるのも無理ないです。
しかし彼女は残念な事に、この地で亡くなってしまいました。
この神社はそんな人丸姫が御祭神でした。
c0222861_22573178.jpg

石段を少し上ると拝殿です。お神酒などが供えてありました。

参拝を済ませて、ぐるりと廻ってみました。
この神社の境内は狭く、後はすぐ崖のようになっています。
しかし左の方だけ、フラットになって、地続きになっていました。
例えれば、前方後円墳の円墳の上に建っているような感じです。

ここに人丸姫を埋葬したとしても、もともと古墳あとか何かじゃないか。
あるいは、もともと人々が神聖視した場所だったから埋葬したんじゃないか。
そんな疑問が浮かんできました。

緩やかな傾斜の参道を戻っていくと、左右は崖だという事に気づきました。
右側は住宅地の屋根が見えます。左は下の方に畑があります。
この地形、よくあったよね。そう、ルナが勝手に弥生の風景と呼んでる地形。

この参道はもしかして古代の岬じゃない?
左の崖の下の田んぼは海?右も海?
神社からは木立ちで見えなかったけど、立花山が見えたはず。

c0222861_22592555.jpg

そう思いながら一の鳥居に戻って来ると、ずっと向こうに松林が見えました。
その向こうは玄界灘です。やっぱりそうだ。古代はここまで海だったんだ。

c0222861_2301075.jpg

道路から神社を写しました。神社正面あたりの森の中です。
参道は左の方に向かっています。
右の高台にあるビルの方には、古墳がかつてはありました。
古墳の名前は人丸古墳です。そして、この神社の名前は人丸神社。
実は「人丸」という字を見て最初に思ったのは柿本人麻呂の事でした。
何故こんな所にと思って確認しに来て、推測がはずれたのです。
けど、どうしてか、この神社の下には何かあるという思いが消えない。
都から来た少女を何故ここに埋葬したのだという疑問が残る。
普通なら、引きとめた僧の寺の方がよさそうだ。
鎌倉時代の下にもっと古い時代があるのでは。

と思いながら、帰ったのですが、
(つづく)



気が向いたら、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2011-02-08 23:03 | 人丸神社・ひとまる・新宮町 | Trackback | Comments(2)

人丸神社(2)かつては海のそばだったよ


人丸神社(2)

かつては海のそばだったよ

どうしても消えない謎がある。そんな心の中に残るこだわりを列挙してみると、
1・ここは古代には海へ突き出した岬ではなかったか。

2・景清の娘の名前が「人丸」という男の子のような名前だった理由について、「朝日(旭)が上る時、懐妊を覚え、女の子を出産しました。「旭」という字は「日」「丸」と書くことから、「人丸」と名付けました」と言っているのは何だかこじつけっぽい。きっと昔も、「娘がなんで人丸という名前なんだ」と問う人がいて、無理に作られた話に見える。

3・若くして死んだ娘を埋葬するには「寺」のほうがふさわしい。

4・人丸といえば柿本人丸(人麿)を普通は指す。
5.ここは古代の聖地の可能性はないか。

こんなものでした。これらの、どうでもいいこだわりを無視してもいいのですが、
るなさんはやっぱり調べ始めました。

1・ここは古代には海へ突き出した岬ではなかったか。
これは、HP「海辺の散歩」の管理人のYAMADA氏から提供していただいた
新聞の切り抜きのおかげで、すぐに解決しました。
海辺の社会科 新宮 二千年前は海底
【隆起した海岸】玄界灘に面して磯崎鼻から弧を描く砂丘、その上に茂る松林は博多湾周辺の砂浜のなかでも、とりわけスケールが大きい。

ところがこの砂丘も、その背面の新宮の家並みも、2000年くらい前までは海の底だった。むかし磯崎鼻は島で、この島と陸地との間には博多湾へ通じる水道があったという。

それが陸続きになったのは、九州北岸一帯の隆起と砂の積み重なりのためだと考えられている。この辺の土地は4000年の間に約10メートルの高まったというのだから、隆起は著しい。
(前九大教授山崎光夫氏の話) 朝日新聞 昭和34年7月31日
この切り抜きが人丸神社のまわりの地形の話です。

c0222861_22592555.jpg

前回出した写真です。やっぱり2000年前は、全部海の底?
なんとも壮大な海の景色が広がっていたんですね。
この人丸姫の時代は少し隆起していたのでしょうか。

この鳥居の前の道を左の方に向かって走ると、道は左にカーブして行きます。
その道が水道のなごりで、溝が今でも残っていて、海水が上がって来ることもあると聞きました。

現代人が古代の海路を想像するとき、宗像と博多の間は志賀島が
飛び出しているので、大変な遠回りをイメージするのですが、
古代にはここに安全な航路があったのが分かります。
この三苫水道(と仮に呼びます)の存在は、古代の交通を研究する人には
大切な情報だと思いました。

さあ、こうして第一の疑問は解決しました!
(つづく)
地図 人丸神社 三苫水道(左右の海をつないていた) 磯崎(かつては島)




開化天皇を訳しました。系図だけしか書いてありませんでした。
でも、ルナ的には謎がまた解けたよ。

※真鍋大覚氏の『儺の国の星』『儺の国の星・拾遺』は、 聞くところよると、売り切れたそうです。



気が向いたら、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2011-02-07 16:16 | 人丸神社・ひとまる・新宮町 | Trackback | Comments(2)

人丸神社(3)人丸は鍛冶の暗号だったよ


人丸神社(3)
人丸は鍛冶の暗号だったよ


c0222861_1641093.jpg

残りの疑問について考えました。

2・景清の娘の名前が「人丸」という男の子のような名前だった理由について、「朝日(旭)が上る時、懐妊を覚え、女の子を出産しました。「旭」という字は「日」「丸」と書くことから、「人丸」と名付けました」と言っているのは何だかこじつけっぽい。きっと昔も、「娘がなんで人丸という名前なんだ」と問う人がいて、無理に作られた話に見える。
3・若くして死んだ娘を埋葬するには「寺」のほうがふさわしい。
4・人丸といえば柿本人丸(人麿)を普通は指す。
5.ここは古代の聖地の可能性はないか。

ネットで「人丸神社」というキーワードで検索すると、一気に謎解きが進みました。

柿本人麻呂と人丸神社
柿本人麻呂神社は日本全国に人丸神社や人麻呂神社などの名称で多く存在します。この人麻呂(人丸)神社の性格を見てみますと人麻呂神社には四形態があるようです。その、四形態の分類とは、
   1. 和歌の聖としての柿本人麻呂神社
   2. 鍛冶や火事の人丸神社
   3. 客死(事故死)した人麻呂を鎮魂する人丸神社
   4. 祖神としての人麻呂神社
です。
最初の「和歌の聖としての柿本人麻呂神社」の代表は、兵庫県明石市にある明石柿本神社です。
次の「鍛冶や火事の人丸神社」は、全国の山村に分布する摂社としての人丸神社で、主に八幡神社の摂社の場合が多く見られます。
三番目の「客死(事故死)した人麻呂を鎮魂する人丸神社」の代表としては、島根県益田市の柿本神社です。
最後の「祖神としての人麻呂神社」の代表は、奈良県葛城市新庄の柿本神社です。
(一部略)
ブログ「万葉集 柿本人麻呂と高市皇子」より
http://blogs.yahoo.co.jp/dokatakayo/29144213.html

まず目についたのは「3. 客死(事故死)した人麻呂を鎮魂する人丸神社」です。
そのブログでは柿本人麻呂の伝承を詳細に追っていて、
人麻呂は海難事故にあって、海岸に打ち上げられ、
人々から祀られるようになった経緯を丹念に論証しています。

思えばこの新宮町の「人丸神社」も景清の娘が客死した訳です。
当時の人には、「人丸=客死」という共通認識があったのが伺えます。

そして、何よりも「2. 鍛冶や火事の人丸神社」というのを知って、
「ガッテン」という声が鳴り響きました。

先のブログによると、柿本人麻呂の集団は「銅の精錬の渡来系の技術集団
であったことを突き止めてあります。
30人程度の技術集団で銅の精錬が出来るのだそうです。
そんな形態で全国各地で生産している状況だったのが、奈良の大仏を
作る事になった為に、坑道を持った本格的な銅の鉱山を作らなくては
ならなくなり、柿本氏族はその指導者的立場に立ったそうです。
そしてその本格的な銅鉱山は山口県にあります。
山口県で出来た荒金がどんどん奈良に運ばれてさらに精錬された訳です。

このような背景があったために、山口県を中心に人丸神社が
沢山祭られるようになりました。そこには鍛冶の神を祭っていたけれども、
時代が下がると意味が分からなくなり、
鍛冶の神⇒かじのかみ⇒火事の神⇒火止まる⇒人丸
となったようです。詳しくはリンク先をみてください。

この事から、この人丸神社のムラにも鍛冶集団がいて、
この場所を聖地として祀っていたが、鎌倉時代には本来の意味も失い、
「ひとまる」の名前だけ伝わるようになっていた。
そこに景清の娘の客死が重なって、「人丸姫」が御祭神になったのでは
ないかと、結論づけました。

さあ、この仮定を裏付けるにはここに古代に製鉄か銅の精錬が
行われていなくてはなりません。そして思い出しました。
ここには製鉄の跡があったのです。
地元の鉄工所の経営者が古代の製鉄のようすを本にしていました。
この新宮町を調べて行くと、古代のハイテクランドだったのが見えて来ました。
少し、この神社の周囲をぶらぶらしましょう。

                              (つづく)



気が向いたら、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2011-02-06 16:47 | 人丸神社・ひとまる・新宮町 | Trackback | Comments(2)

山鹿貝塚/縄文の若き母と子ほか計18体が発掘されていた


山鹿貝塚
福岡県遠賀郡芦屋町山鹿
縄文の若き母と子ほか計18体が発掘されていた
芦屋歴史の里(歴史民俗資料館)


※今日は人骨のお話です。イヤな方はパスしてね!

いつ頃からだったでしょうか、縄文の彼女が気になり始めたのは。
各地の町誌を見ている内に、彼女の記事が何度か目に留まりました。
彼女は生まれたばかりの子供と一緒に埋葬されていたという。
傍にはもう一人の女性が。いったいどこに行ったら彼女に会えるのだろう。

山鹿貝塚という遺跡名から、芦屋町の図書館に行って見ました。
町誌を見ると、あった!やっぱりこの町に彼女はいた。
図書館で歴史資料館を訪ねると、町が合併したあと、
芦屋歴史の里」(歴史民俗資料館)にまとめられているとの事でした。
夕方になっていたけど、とにかく滑り込んで入館してみようと、車を走らせました。

彼女たちは二階にいました。レプリカがあったのです!
c0222861_15415675.jpg
私の探していた彼女は、向かって右側の女性です。2号人骨という名が付けられていました。第一印象は頭が小さくて小柄だなというものでした。
その胸には緑の大きなペンダントがありました。そして彼女の右腕には生れたばかりの赤ん坊が。その子は4号人骨と付けられていました。
それに寄り添うような左の女性は3号人骨と呼ばれています。

彼女たちが生きていたのは縄文時代。砂丘の上に埋葬されていたので、こうして良好な状態で発見されました。この遺跡全体で18体も発掘されています。




この2号と3号人骨の基礎資料をまとめてみます。(芦屋町誌より)

2号人骨は20才前後の女性。推定身長150.3センチ。おでこに輪をはめていた圧迫痕がある。二本のサメの歯で作ったイアリングをつけていた。腕輪はベンケイ貝製で、右に5個、左に14個つけている。
c0222861_15433286.jpg

これが胸の所にあった緑の石。穴の場所が偏っている。左右には切り込みがある。
長さは75ミリ、幅31ミリ、厚さ14ミリ。軟玉か蛇紋岩で、穴は紐ですり減っているので、いつも身につけていていたのが分かった。代々伝えられた可能性もある。
その他にも25センチの鹿の角を2本、穴を開けて胸にぶらさげている。

彼女は表面から1mの所の白い砂の中に埋葬されていたが、彼女の上半身の周りだけは砂が赤く染まっていた。朱をまいたのか、赤い上着を着ていたのかは分からない。

3号人骨は30才前後の女性。推定身長147.1センチ。鹿の骨で作ったかんざしを2本付けていた。腕輪は右に15個、左に11個。
子供を含めて、3人の血縁関係は分からない。また抜歯の風習はない。


c0222861_15442510.jpg

手前の3号人骨を見て下さい。首と腕の間の骨が全くありません。
奥の2号人骨も肋骨などが無くなっています。
それに比べて、赤ん坊の柔らかい骨は残っているという事から、
2,3号人骨は、埋葬されたのちに骨を抜かれているのが分かりました。

3号人骨の右側に不規則になった骨があります。骨はそこに集められているのですが、
これらを二人に戻しても、まだ骨が足りないのだそうです。

他の人骨には手が付けてられていないことから、
二人は特別な立場の人だと言われています。特に緑のペンダント
鹿の角2本を持っていたという事は彼女が特殊な立場だった事を教えています。

こんな想像をしました。
20歳頃の彼女は子供を生んだばかりなのでしょう。
30歳頃の人も同じ墓穴に埋められているので、姉か叔母あたりの血縁者ではないか
と想像しました。流行性の病気で一緒に亡くなったのかな…。

30歳の方が腕輪が多いので、もともと緑の石を持っていた人で、シャーマンか
メディスン・ウーマンか、女王(縄文では何て言うんだろ)だったのではないかな。
2号人骨にその立場とシンボルの緑の石を譲ったのに、く二人ともすぐに亡くなってしまった。
この緑の石を受け継ぐ立場の人がもういないので、石も一緒に埋葬されたが、
二人は慕われ続けて、後の人たちは彼女たちの骨をお守りとして貰って、漁や猟に出るようになった。
こんな空想をしました。

次の写真は他の人骨です。
c0222861_15452018.jpg

一人で埋葬された男性。並んで埋葬された夫婦らしき二人の男女。
さかさまに埋められていた男女、幼児を抱いた女性一人。などいろんな埋葬の形がありました。

この山鹿貝塚は原日本人を知る上で、かなり重要な遺跡のようです。
発見されたのが昭和28年、学術発掘が昭和40年という事です。
現代ならDNA鑑定も出来るし、死因もかなり調査出来るのではと思いました。

c0222861_15461438.jpg

ジオラマが一階にありました。この緑の丘の頂上部が発掘現場です。
細長い溝はトレンチの跡です。現在は更地になっていて、看板があるだけだそうです。
道と現場の状況は資料館で丁寧に教えていただきましたが、
小雪と日没で現地へ行くのはあきらめました。またいつか行ってみたいです。

芦屋歴史の里(歴史民俗資料館) 
開館時間:9:00~17:00
入館料:個人入館 大人200円、小人100円
    団体入館 大人100円、小人50円
    釜の里・歴史の里共通券 大人300円、小人150円
休館日:毎週月曜日(月曜日が祝日の場合はその翌日)年末年始
福岡県遠賀郡芦屋町大字山鹿1200
TEL093(222)2555

この地は有名な芦屋釜を産出した所で、その遺物なども公開されています。

地図 山鹿貝塚 芦屋歴史の里



気が向いたら、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2011-02-03 16:04 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(9)
line

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


by lunabura
line
クリエイティビティを刺激するポータル homepage.excite
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28