ひもろぎ逍遥

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埴生神社/桜の名所は古代の島?ここもまた神功皇后が…


埴生神社
はぶじんじゃ
福岡県中間市埴生
桜の名所は古代の島?
ここもまた神功皇后が…


今年の桜は何処に行こうと考えていたら、埴生公園が桜の名所だと情報が。
「え?埴生?はぶ?」
少し前に「南十字星の和名」をUPしたばかりでした。
そう、「埴生」って「船の帆(羽布)」の事で、
南十字星にも付けられた和名と知ったばかり。
どんな地形なんだろ。よし今年はそこに行こう。

ナビを頼りに出かけました。
広い駐車場は既に満杯。辛うじて一台分をゲット。
沢山の市民が公園へと歩いて行きます。


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池にかかった赤い欄干の太鼓橋!なんだか龍宮城のよう。
桜は散りかけていて残念。
他の所はまだ5分咲きなのに、ここの桜は早いんだ。

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正面に廻ると、おお、鳥居だ!公園の中に神社があるんだ。

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赤い橋を渡ると池の向こう岸は桜並木で満開。
ボートも楽しそう。

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まずは神社へといくつもの石段を上りました。

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頂上に着くと本殿がありました。そして、由緒書きを見てびっくり。
なんで~。ここにも神功皇后が来てる!


埴生神社(埴生八幡宮)
御祭神 仲哀天皇 神功皇后 応神天皇
相殿 天照皇御神 15社神社(昭和27年10月合祀)

当社は昔、仲哀天皇、神功皇后と御船にて、この埴生の地にお着きになられ、しばらく熊襲征伐の行宮の旧跡にて、航海の安全を祈念され、船魂を祀られた由緒によりて「開運(武運)家内安全 縁結び 安産 交通安全」の守護神として諸大名を始め人々の崇敬を厚く受けてきた。

社説に曰く「当社は埴生郷の大社なり。埴生郷は西北数ヶ村を包含せる大村である。」
また源順の古書和名類聚抄に「岡の六郷の第一なり」と記されている。

当時としては社殿も大社造りであったが、戦国時代、度重なる大友軍の兵火により焼失。その後、元亀2年(1571年)花尾城主「麻生隆實によって現在の地に社殿が再建された。また昭和27年に15社神社を合祀し、埴生八幡宮を埴生神社に社名変更。氏子を始め近隣市郡の人々の崇敬厚く今日に至る。

例祭日 10月13日 北九州市、遠賀郡、中間市の神職による「筑前御殿神楽」奉納

そうか。そうなんだ。
岡湊神社から遠賀川を遡って、仲哀天皇の一行はこの埴生神社にやって来たんだ。
ここは水軍の本拠地で、迎えられた一行はその神々を祭り、
これから戦う熊襲への戦術を練り、軍備の状況を確認して、
香椎宮へ移動しよう」という話し合いなんかがなされたんだ。
そんな行宮(あんぐう)の旧跡に思いがけずやって来た。

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参拝を済ませて右側の方にまわると、道が続いていました。
木々の生い茂った杜の中の小道は裏参道でした。
その先は明るい陽光。ああ、ここもまた弥生の風景のようだ…。
深くえぐれた右側の斜面の下からは、人々のさざめく声が聞こえてくる。

道は大きなカーブを描きながら右に曲がっていく。
行き止まり?
少し不安になると、向こうからウォーキングの人が。
「この先、道はありますか?」
「ええ、このまま進めば下に続きますよ。」
安心して道を辿ると見晴らしがきいて来ました。

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落下防止のフェンスから覗きこむと花の下でお弁当を広げる人々もいる。
わあ、ここの桜は今が一番!
向こうの山は例の六ケ岳じゃない?すごく見晴らしがいい。
すると、眼下に広がる平野はかつて海だった?
え?ここは何?島だったの?かつては海に浮かぶ島?

さらに道を辿ると、さらに展望所がありました。
ドキドキ。ここは昔の地形が残ってる…。
仲哀天皇と神功皇后が見た景色を見ている。

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それから道なりに降りて来ると入り江のようになっていました。
馬蹄形に歩いてきた事になります。
写真の正面の森の中に神社への石段があった訳です。
ここは入り江?船がここに停泊した?
「埴生=垣生」とは船の帆。この地の水軍は南十字星を知っていた?
自分たちの守護の星の名前を地名につけた?

ここが島ではないかという思いは、
帰りにふと寄った古月横穴の案内板であっさりと確認出来ました。


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右側の赤い丸で囲んだ所が今いる所です。まさに島でした。
この古代地図を見ると、遠賀川は川というよりも大きな湾ですね。

この島を後にすると仲哀天皇の一行は虫生津から上陸します。
左の赤い丸が上陸地点です。
伝承の数々は矛盾なく天皇の一行の足跡を伝えていました。

この龍宮のように美しい島。埴生の島。そこの頂点に建つ埴生神社。
思いがけない感動が広がりました。



そして、この島にはもう一つ、古代の人々の営みが残されていました。
それは「垣生羅漢百穴」と呼ばれる横穴墓群でした。
どんな人たちがここにいたのでしょうか。   

垣生羅漢百穴へつづく
http://lunabura.exblog.jp/16261371/


地図 埴生神社





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by lunabura | 2011-04-28 12:45 | 埴生神社・はぶ・中間市 | Trackback | Comments(0)

弾琴台土城/韓国で出土していた40枚の鉄鋌

弾琴台土城
だんきんだいどじょう
忠清北道忠州市
韓国で出土していた40枚の鉄鋌
 
現在、日本書紀神功皇后の巻を現代語訳しています。
神功皇后の記事は日本書紀全体の五分の一近くを占める
とても長い記事ですが、それもあと一息です。
「神功皇后(12)」に百済の肖古王鉄の延べ板40枚
日本に献上するシーンが出て来ます。

40枚って中途半端な数字ですが、氏族によって聖数が違うので、
とても興味を持っていました。
そして韓国で実際に鉄鋌(延べ板)が40枚出土して、
それを調査しにいった記事が載っていました。
今回はその新聞の切り抜きを紹介します。
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韓国・弾琴台土城
鉄鋌40枚が導く古墳時代の鉄


去る2月25日、福岡大学考古学研究室の韓国研修旅行で、念願の弾琴台土城(だんきんだいどじょう・忠清北道忠州市)を訪れた。

ここは、加耶琴(かやこと)の名手で、加耶から新羅に亡命して国原(こくげん)に安置された于勒(ウロク)が、新羅の真興王12(551)年に召し出されて王の前で演奏したという伝承が残る場所である。

于勒がその時に演奏した12曲の曲名から大加耶連盟体の存在を推定する研究もあって興味深いが、見たかったのは立地と城内の貯水施設の場所、そして、場外の漆琴洞(しっきんどう)製鉄遺跡である。

話は、2008年2月23日に福岡大学で開催した、東アジア考古学会と韓国の中原文化財研究院との第2回研究交流会にさかのぼる。その席上で弾琴台土城の発掘成果が披露され、百済前期でも4世紀の鉄鋌が40枚出たと報告されたが、すぐには理解できなかった。

示された出土状態の図を見ると、それまで三国時代や日本の古墳時代の鉄素材として知られた厚さ0.2センチ前後で両端がひろがる薄い鉄鋌とは異なって、分厚く直線的だったから、「棒状鉄斧(てっぷ)ではないのですか」と質問したくらいである。

「一度来なさい」と中原文化財研究院の車勇杰(チャヨンゴル)院長から誘われて実際に見たのは、報告書が刊行された直後の2009年11月8日である。

ビックリした。細長方形で刃は付いておらず、確かに鉄素材で鉄鋌と呼ぶほかない。しかし、それまでの諸例に比べてあまりに分厚いから、弾琴台型としよう。

40枚の平均値は、長さ30・7㎝、幅4・13㌢、厚さ1・45㌢、重さ1.31キログラムである。表面には叩いて鍛えた痕跡があり、上面両側縁には隆起線が走る。

本来は2倍の長さを半分に折ったとみられる。これらは、貯水施設の下段部分から5枚一くくりがそれぞれ3列、2列、3列にまとめられ、一つの塊となって出た。

これまで鉄鋌は10枚で一単位だったが、5枚一単位もあったことになる。鉄鋌の多くは表面に木質が残るから、板をあてたか木箱に入れたとみられる。

一緒に出た土器は4世紀が多く5世紀初頭までである。また、弾琴台土城外の南東麓には4世紀後半の漆琴洞製鉄遺跡があり、ここで生産されたとの意見もある。

こうした時期と40枚という数字から想起されるのは、『日本書紀』の「神功皇后紀」46(366?)年条で、百済の肖古王が斯摩宿禰(しまのすくね)の従者である爾波移(にはや)に「鉄鋌40枚を与えた」とある。
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また、同52(372?)年9月丙午の条には、百済王が千熊長彦に会って七支刀を与え、谷那(こくな)鉄山での鉄生産を約束したとの記事もある。

弾琴台土城の鉄鋌は、4世紀の百済の鉄生産、ひいては日本の古墳時代の鉄素材問題を考える上できわめて重要な資料であり、日本とも関わる谷那鉄山の位置については諸説あるから、どれほど現地見学を切望していたかお分かりいただけよう。

弾琴台土城は、南漢江が最大支流の達川と合流して東北から西北に曲流する地点の西南側、当時の島の頂上にある。

規模は小さいが外城の中に内城を設けた可能性が高く、貯水施設は内城の中央付近にあった。部分的な調査だったが、城の中からは冶鉄(やてつ)関連の鉄滓なども出た。

南漢江側の絶壁と土城で重要施設を堅固に守とともに、原料の搬入や製品の搬出にも至便な立地であり、直下には製鉄施設を配することも今回の踏査でよく理解できたし、国立清州博物館で再会した40枚の集合展示も圧巻であった。

日本の古墳時代鉄器・鉄素材研究は、これらを踏まえて展開せねばならないのである。

考古学トピックス 武末純一=福岡大学教授
(西日本新聞 2011年3月24日 朝刊より)


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弾琴台土城がある忠清北道忠州市って、かつての馬韓(ばかん)だったそうです。
加耶琴が弾かれた時は新羅の国だったんですね。そうか、琴が弾かれた事から「弾琴台」というんだ。いい風情の名前ですね。
青い①は国立清州博物館のある所。忠清北道です。弾琴台土城もきっとこの近くにあるのでしょう。


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これは5世紀の三国時代の図です。
高句麗百済新羅の境にあるから、大変な土地だというのがよく分かります。新聞記事を読むと、川が合流する地点の島の上に城を作っています。絶壁と土城。城を建てるのに堅固な守りが伺えます。

魏志倭人伝によると倭人は鉄を求めて狂奔したとか。
日本には砂鉄が無尽蔵にあるのですが、製鉄の途中で一酸化炭素中毒で亡くなるような危険な作業だったそうです。それに技術によって出来上がりの質が全く違ってた。それで、良質の鉄を求めたのですね。

韓国の事はなかなか分からないけど、日本書紀を訳して行く上で、
この先ずっと出てくるので、少しずつ場所を覚えて行きたいと思っています。
今回の忠清北道って韓国の中央あたりなんだ…。




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by lunabura | 2011-04-26 21:07 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(2)

高良下宮社(1)ここも御祭神に異伝あり


高良下宮社(1)
久留米市御井町
ここも御祭神に異伝あり

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高良大社の一の鳥居の脇から右へ。昔のたたずまいを残す参道を
100mほど入ると、高良下宮社の脇に着きました。

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広い境内は二段になり、拝殿が三つも並ぶ大きな神社でした。
このブログでは、このような構造は初めてです。
なんだか江戸時代にタイムスリップしたようで、わくわく。

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中央の拝殿です。昔はここに参拝してから上宮に向かったそうです。
御祭神について、説明板があったので、まずは書き写します。

高良下宮社
祭神(中央)高良玉垂命 (右)孝元天皇 (左)素盞鳴尊(スサノオ)
高良下宮社は上宮(高良大社)と同じく履中天皇元年(400)あるいは天武天皇の白鳳2年(664)の創建といわれています。
上宮を遥拝する位置にあり平安時代には国司のつかさどる名社で「高良宮下宮」と呼ばれていました。  (略)
高良山の自然と史跡を守る会 昭和58年2月

さて、この中央の御祭神は謎多き高良玉垂命(こうら・たまたれのみこと)でした。
この神さまについては上宮でまた考える事にして、
今回は左右の神さまについて見て行きましょう。

左にはスサノオの命が祀られていました。
スサノオの命は、流行り病や、牛馬の病などを助けてくれるので、
よく祀られています。ここもそうなのでしょうか。

驚いたのは右の孝元天皇です。なんで驚いたのかと言うと
神功皇后仲哀天皇の共通の先祖だからです。
しかも、竹内宿禰の先祖にもあたります。
系図を書いてみると、三人は孝元天皇から別れた親戚筋だったのが分かります。

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仲哀天皇と神功皇后と竹内宿禰が三韓征伐の為に筑紫に集まったのも
共通の利益を持っていたからだというのが分かります。

神功皇后が久留米の高良山神籠石味水御井神社で祈った伝承から、
彼女がこの地に来たようすが伺えるのですが、
それには竹内宿禰の軍事的な背景があってこその移動でした。
何しろ、彼女は筑紫の事は何も知らないのですから。

それに弥生時代の話です。この辺りは筑後川がしょっちゅう氾濫していて、
川の流れは一晩で変わり一夜川とも呼ばれていました。
船旅とはいえ、簡単ではなかった。野営をしながらの旅です。
この高良山の麓には武内宿禰の居城があって、
一息つけたのではないかと考え始めました。

歴史論を見ると、大和政権が九州を制圧した歴史のように捉えてあるのを
よく見かけるのですが、この時代はそうではないのが分かって来ました。
竹内宿禰こそ、筑紫の大王のような存在で、
仲哀天皇を招いて迎えたのではないかと考えるようになりました。

と言う事で、ここに三人共通の先祖の孝元天皇が祀られているのは
衝撃に近かったです。

孝元天皇の名前を古事記で調べると
大倭根子彦国玖流命(おおやまと・ねこ・ひこ・くにくるのみこと)でした。
都は軽の堺原の宮。ざっと見積もって弥生時代中期の人。

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弥生の中期って日本の遺跡はどうなってるんだろと、
2010年出版の、『邪馬台国 九州と近畿』の年表を見てみると、
考古学的な賑やかさは福岡が圧倒的で、近畿には大きなムラやクニがないよ…。
朝廷が近畿にあったというのは思い込みだったんだ。
福岡と大和地方の地名は重なり合ってるから、勘違いしてた。
これまでは孝元天皇の時代って、近畿の歴史だと思ってたけど、
思い込みだったんだ…。(けっこうショック)

御祭神はこの辺りで切り上げよう。念のためにと「御井町誌1」を
見ておこうと読んでみて、またまたオドロキ。

下宮杜の祭神は、高良玉垂命を中心にして、左右に物部膽咋連命武内宿禰命である。
平安時代には国司のつかさどる名社で「高良宮下宮」と呼ばれていた。

と書いてあったのです。そんなあ…。話が違う…。
気を取り直して、物部のイクヒを日本書紀から探すと、いたいた。
香椎宮で仲哀天皇が崩御した時に、その事後処理の会議に参加したメンバーで、
宮中警固に当たった人でした。
そうすると、左右に祀られる物部のイクヒと竹内宿禰は同時代の人。
じゃあ、中央の玉垂命は誰?
ああ、やっぱり高良の神さま探しは泥沼だ…。
御祭神についてはこのくらいにして、境内を見て回りましょう。
なんと、そこにも謎だらけ…。(汗)(面白すぎる…)

ブログ内お散歩
この話の背景を確認するには、神社なら香椎宮へ。
『古事記の神々』なら、竹内宿禰神功皇后へ。

今のところ神功皇后は未完成です。



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by lunabura | 2011-04-16 13:37 | 高良下宮社と周囲・久留米市 | Trackback | Comments(2)

高良下宮社(2)暗号に満ちた社殿


高良下宮社(2)
暗号に満ちた社殿
崩落し始めた屋根を守ってください。


いつものように境内の裏手に回り込みました。
●高良玉垂社
本殿の奥行の深さにびっくり。

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まるで平安時代に紛れ込んだよう。
これは、かなり伝統ある名社の作りですぞ。
そして反対側に回ると何やら視線を感じる。屋根を見上げて仰天。

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これは何だ?!いったい…。
人と鳥が合体した顔に見える…。
穏やかな心地はしない。
これまで見たこともない彫像。いったい何故こんな所に。
何とか手を伸ばして撮影するのがやっと。

今思えば、反対側にも同じ物がある可能性があったのに、
あまりの驚きに写真はこれだけ。

誰か研究した人はいないか、文献を調べてみたいけど、
これは地元の人に任せよう。

●スサノオ社(あるいは物部のイクヒ社)

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ぐるりと廻って正面に戻り、今度はスサノオ社の屋根を見上げました。
これまた瓦にいろんな紋が…。
一番上には菊の御紋が突出していて独特の形。
その下には「バッテンと丸」の紋があって、それを支えている模様は波に見える。
なんとも、中世ヨーロッパの紋章のような、洒落たデザイン。
その下にある模様は、波のように見える。
いかにも意気揚々と海を渡っているようなデザインです。
その掲げるものは菊の紋どころ。
さらにその下を見ると、存在をアピールしている陰陽紋。
何とメッセージに満ちている瓦たち。

「バッテンと丸」を見た時、思わず「高句麗壁画の文様だ」と叫んでしまいました。
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これが高句麗古墳の文様。この中央の文様がそれ。
よく見ると、「バッテンと丸」は絡み合っている。
この古墳画を初めて見た時は、ケルト文様を想像していました。
(高句麗古墳の装飾壁画は、中東のデザインの情緒がたっぷりなんです。)
似ているようだし、違うようだし。
しかし、大きなカテゴリに分けるとなると、両者は同じ分野に入ります。

ネットで家紋を調べると、スサノオ社の屋根瓦の方は「祇園紋」と判明。
ここはスサノオを祀る拝殿なので、そうだったのかと納得。
(祇園社ってスサノオ神社の事です。)

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この祇園紋のルーツはまだ未解決だとか。
やっぱり、高句麗古墳の文様と基本パターンが似てない?
この高句麗古墳の所在地は北朝鮮です。
壁画には八咫烏や鍛冶の神々が舞い踊っています。
(カテゴリの八咫烏・高句麗壁画に写真があります。)
スサノオが朝鮮半島からやって来たのは日本書紀に書いてあったよね。

そんな歴史をこの瓦は伝えているのでしょうか。
このスサノオ社の祭神は別伝では「物部のイクヒ」だった。
物部氏は鉄の民であって、暦を司って天皇家をサポートしてるし、
中東から朝鮮半島経由で海を渡ってやって来ているし。

「これらを全部つなげていい?」と自問すると、
「まだまだだ」という声が中からする。
「そうか。まだまだ、踏査が足りないんだ…。」

地元の皆さま、この紋の組み合わせは、三社とも違ってますよ。
この暗号、是非とも解いて下さいね。

●孝元天皇社(あるいは竹内宿禰社)
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これは右側の孝元天皇社の拝殿の御紋です。
松が三段になっていますが、「三階松」と言うそうです。

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「これこそ九州王朝の紋所」だと、メンバーが教えてくれました。
このまえ、福津市の宮地嶽神社でも同じ三階松を見たばかり。
謎の多い宮地嶽神社高良下宮社が「三階松」でつながった。

二つの神社の共通キーワードは竹内宿禰
目の前の社殿は孝元天皇と竹内宿禰の二説が存在している。

もやもやとした霧は晴れそうで晴れない。
6月18日には宮地嶽神社の宮司さんの話が聞ける。
高良大社と宮地嶽神社の話を組み合わせたら、
少し古代世界が見えてくるかもしれない。

●謎の神像
さて、この境内のさらに裏手にあるのは謎の神像。

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UPの映像は何故か遠慮されて、撮ってません。
顔が削られてどんな神なのかよく分かりません。
羽根で作ったマントのような物を身につけて、素足に下駄をはいています。

なんともここは不思議な神社。
知る人にだけ分かる暗号だらけの宮。

屋根の瓦にはまだ他に何種類もの家紋があって、
メッセージを込めた彫刻がいたるところにあります。
ところが屋根は崩落寸前でした。

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すでに瓦が何枚も崩落していました。一つ一つの紋が違います。
(この写真は出さないつもりだったのですが、
ブログに掲載しろとばかりに、夢にこの映像が出て来たのです。)

この高良下宮社の創建は上宮より先だったという説もあり、
久留米市の文化遺産として、修理保存に目を向けていただけたらと
切に思いました。しかも、早急に。
もし、それが叶わぬなら、詳細な写真だけでも残すようにお願いします。

国府跡が公園化されるそうです。
こ国府が出来たのは高良山の麓に古代からの文化があったからです。

高速道路が出来たために、地元の人々が支える力を急速に失ったと
いう証言があります。
祇園山古墳、味水御井神社、高良下宮社、秋葉社という地域の宝を整備して、
高樹神社や大学稲荷、神護石を含めて
国府跡から高良山の麓を周遊できるようなプランを作れば、
文化的遺産の真価が発揮できると思いました。

久留米市教育委員会さま、市長さま、よろしくお願いします。

高良下宮社





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by lunabura | 2011-04-16 00:32 | 高良下宮社と周囲・久留米市 | Trackback | Comments(2)

味水御井神社/今なお水が湧き出る聖地・天武7年の筑紫大地震の断層あと


味水御井神社
うましみず・みいじんじゃ
福岡県久留米市朝妻町
今なお水が湧き出る聖地
天武7年の筑紫大地震の断層が残っていた
  
交通量の多い久留米市322号線の千本杉~朝妻に、
木立ち一つ隔てて、全く別世界が昔のままに残っていました。
ずっと気になっていたけど、入口が分からなかった…。
思いがけず訪れた所は泉を祀った神社でした。

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境内には、水を利用するプール状の構造がいくつもあって、
今も清らかな水が湧き出ていました。

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奥の方にクロガネモチの巨木があって、その横に祠があります。
昔の写真を見ると、手前の石段の所に鳥居が建っていたようです。
なんだか不思議な空間に思えたのは、鳥居が無かったからですね。

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最奥に祠が祭られていました。
説明板があったので書き写します。

味水御井神社と朝妻の清水
(うましみずみいじんじゃ)(あさづま)
味水御井神社は天慶7年(944)の筑後国神名帳にも登場する由緒ある古社です。
「うましみず」の名が示すとおり、境内には現在でも清冽な水がこんこんと湧き出し、古来より崇敬を集めるとともに、「朝妻の清水」として多くの人々の生活に潤いと恵みを与えてきました。

また、近年は筑後一宮である高良大社で行われる川渡祭(へこかき祭り)の際の禊(みそぎ)の泉としても知られます。

味水御井神社の歴史的意義は深く、7世紀後半から12世紀後半にかけて高良山北麓一帯に営まれた筑後国府(筑後国を治める中心的な役所)の発掘調査においても、国府の長官の居館である国司館から当社に向けて延びる道路の跡や、当時の官人たちが朝妻の清水から導水し「曲水の宴」を楽しんだと見られる玉石式の人工的な小川などが確認されています。
(略)

この泉の近くには、かつては国府があり、
ここから小川が導水されて「曲水の宴」をしていたそうです。
多くの宮人たちが、着飾って風流な遊びをしていたのですね。

「へこかき祭り」といえば、赤いふんどし姿で高良山に参拝するお祭りですが、
現在もこの泉でミソギ行をしているそうです。

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水が透き通っています。

この神社の由緒について調べたら、御井町誌に御祭神と由来が書いてありました。
朝妻七社―仲哀天皇・神功皇后・国長明神・古母・妙見・乙宮・西宮
昔は七社ありましたが、どういうことか今は一社もありません。ただしここの清水は高良三泉の内の一つだと言い伝えています。

という江戸時代の文がありました。(現代語訳しました)今では水の神様が祀ってあるようです。
そして、続きを読むと、ここにも、神功皇后が…。
 
その昔、神功皇后が新羅を攻める時、産気づかれたが帰って来るまでは産むまいと、腹にしっかり帯をまいて朝鮮へ渡り、帰ってくるや誉田別皇子(ほんだわけのみこ)を筑紫の国で生む。

高良山に皇子誕生のお礼参拝の途上、朝妻のあたりで水を所望された。お供の者が矢尻で葦の茂みを突くと清水がこんこんと湧き出した。それが今の朝妻の清水であるといわれている。
「味清水神社」の名にある「うま」の意味も神功皇后が、「これはうまい。」といわれたことからついたものだと聞く。

神功皇后は、ここでは出産の後の話になっていますね。
鎮懐石八幡宮の話を思い出します。
その時には石を身につけましたが、ここでは腹帯の話に変化しています。
八月七日は「しっちゃら権現」の「夜渡(よど)の祭り」である。このよどの賑わいは大変なものであった。

「夜渡の祭り」がここで催されていたとは!
「夜渡七十」ということわざがあって、70年に一度の大津波が有明海の中を縦横に往来する事を教えていました。ヨドとは70という数字の古い読み方で、「高波」を暗示しています。この地にもその危険を伝えていた名残のお祭りです。

ここの「朝妻」という地名も「浅つ間」が語源で、「干潟」あるいは、「船が停泊できる溜りの港」という意味です。
昔はこの近くまで船が通い、清らかな泉の水を求めて人々が集まり、
役所があって、大変栄えた土地だったのが伺えます。
この神社はすぐ横が久大線の久留米大学前駅です。
そこに向かう急斜面が断層の跡だそうです。

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この写真は、断層の中腹あたりで撮りました。
前回、高良山神籠石が途中で消失した原因が
天武7年(678)の筑紫の大地震のためだという事を知りましたが、
ここが水縄活断層系追分断層の現場です。
日本書紀の記事を読んでみましょう。
天武天皇7年。12月。筑紫の国に大地震が起こった。大地が広さ約4m、長さ約6キロほどに渡って裂けた。人民の家が村ごとに倒壊した。この時、ある人の家は岡の上にあったが、地震が起こった夜に岡が崩れて移動した。しかし、家は全く壊れず、家の人は岡が崩れたのにも気づかなかった。夜が明けてから、分かって大変驚いた。

この時の地震の範囲はこの程度でなく、福岡の南北、そして東西がかなりの距離に分かって上下に分かれた断層が出来ています。その高低差は数mです。

この神社の近くの国府が長年発掘されていますが、日本書紀の記述を裏付けるように、
国府跡からは、すり鉢状窪地、逆断層、噴砂、液状化、地割れなどが発見されています。
断層からは土師器が発掘され、また家がそっくりそのまま出て来ています。
続きを読むと、その後、都でも次々に天災が起こります。
天武8年6月1日に氷が降って来た。大きさは桃の実ほどあった。
      6月23日には雨乞いをした。
      7月6日にも雨乞いをした。
      10月11日に地震があった。
  9年6月8日に灰が降った。
     6月14日。雷電がひどかった。
     8月5日。大雨。洪水。大風。
     9月23日。地震。

このあとも地震は何度も起こっています。
降灰については、大正時代の桜島の噴火の降灰が東北まで届いたと言う記録がある事から、
この日本書紀の記録も、どこかの火山の噴火による降灰かも知れません。
こうして古い記録を見ると、天災との戦いの日々だったのが分かります。
それでも、人々は乗り越えて営々と文化を築いています。

今回の東日本地震も、必ず日本人は乗り越えて行きます。
一日も早い復興を祈ってやみません。

地図 味水御井神社


 



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by lunabura | 2011-04-15 10:59 | 神社(ウ) | Trackback | Comments(6)

高樹神社/神々の交代劇を暗示する縁起

高樹神社
久留米市御井町高良山
神々の交代劇を暗示する縁起
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高良大社の大鳥居から、しばらく行くと、左側に鳥居が出て来ます。
高樹神社です。
車道が石段を舐めるようにすぐ脇を走っています。
この急な石段を上ればすぐに拝殿に着きます。

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拝殿に向かって左は崖。右も崖になっていて、その下は車道。
山の傾斜を切り開いて、狭い境内にぎりぎりで拝殿が建っています。

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神殿です。屋根の色が森に調和して美しく輝いています。

さて、この神社には不思議な伝承が伝わっていました。
それには謎の多い高良山の歴史を解く重要な手掛かりが秘められていました。

境内にある由緒書きを読んでみましょう。
高樹神社
祭神は高皇産霊神(たかみむすびのかみ)(造化の三神の一つ)。
古くは「高牟礼権現」と称し、高良山の地主神と伝えられる。
この神社はいわゆる国史現在社(正史=六国史に名の現れる神社)で、「三代実録」元慶2年(878)11月13日の条に「筑後国高樹神に従五位上を授く」とあり、やがて正五位下に進んだことが天慶7年(943)の「筑後国内神名帳」によって知られる。

もと地主神として山上に鎮座していたが、高良の神に一夜の宿を貸したところ、高良の神が神籠石を築いて結界(区画を定め出入りを禁ずること)の地としたため山上に戻れず、ここに鎮座するに至ったという伝説が、高良大社の古縁起に見えている。

高良山の別名を「高牟礼山」(たかむれやま)と称するのもこの神の名に因むものである。(後略)
例祭日 12月13日
何と興味深い伝説でしょうか。
地主神だったタカミムスビの神は高良山の山上に鎮座していたのに、一夜の宿を貸した為に、高良の神によって神籠石という結界を張られて戻れなくなったというのです。神籠石とは謎の列石群で、伝承そのままに、この神社の上の方に存在しています。

高牟礼権現とは?
このタカミムスビの神の別名は「高牟礼権現」と書いてあります。「むれ」は「むる・まる」と同じで「星」を表します。「高い所に群れ集まる星」と解釈できます。(韓国語にも「むれ」があると聞きました。これについて、どなたかご存知の方教えてください。)
また、タカミムスビの神の別名は高木の神と古事記には書いてあります。

この高樹神社にチャレンジするために、先に高木の神を調べました。それが前回の「アンドロメダ星雲の和名」です。アンドロメダ星雲を高樹の神(=タカミムスビ)と呼んだ時代があるんですね。

この高良山の神々の交代劇とは、アンドロメダ星雲を祭神とする集団が古くはここに存在していて、新たにやって来た高良の神を祭る集団と何らかの事情で入れ換わった話の象徴ではないかと思いました。

そして思い出したのが、この横の車道を登って行くと大学稲荷がある事です。「大学」って「大覚」と同じ語源です。「ダイカク」もまたアンドロメダ星雲でしたね。「イナリ」は鉄の武器庫や生産地でした。

すると「大学稲荷」という言葉も、やはり同じようにアンドロメダ星雲(=高木の神)を祀る人たちの製鉄所・武器庫という事になります。(⇒大嶽神社…あれれ?オオタケ神社もダイガクと読めるよ…。(@_@。)

前々回の袴着天満宮で分かったのは、隕石が落ちた目印のムクノ木と天体石がある事でした。そこに、はるばるとやって来て袴を着替えて正装して祈った菅原道真の祖先は熔鉄の神でした。ここまで来ると、この山の麓には鉄の民が集まっていたのがよく分かります。

古事記では?

では、高木の神って古事記ではどんな事をした神でしょうか。
高木の神の特徴は天照大御神と一緒に高天原を経営して、政治的な決定と指示をしている事です。

そしてイワレヒコ(神武天皇)が困った時に、八咫烏フツの御魂という剣を下ろして助けました。ヤタガラスって加茂氏で、鉄の民でしたね。(⇒八咫烏・高句麗古墳)ですから、古事記の中の高木の神は鉄の民を自由に指示できる立場にいて、アマテラスの子孫を強力にサポートする神です。

鉄の民は一つではなく、いくつもの氏族があるし、それぞれに技術の差があります。このエリアで起こった歴史的事件も、どうも二種類の鉄の民がからんでいるような気がしています。これを特定するには、まだまだ知識が足りません。今回は高木の神の理解を深める事で良しとして置きましょう。

古事記の冒頭の部分を書いて置きます。
天と地が初めて開けた時、高天の原(たかまのはら)に出現した神の名は
天の御中主(あめのみなかぬし)の神
次に高御産巣日神(たかみむすひのかみ)。
次に神産巣日神(かみむすひのかみ)。
この三柱の神はみな独神(ひとりがみ)となって身を隠されました。

この御祭神のタカミムスビの神は日本神話の二番目に出現してますよ!

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石段から桜並木が見えました。山里に咲く桜はしっとりとした美しさでした。

地図 高樹神社 高良大社 袴着神社の元宮 大学稲荷 神籠石


それでは、次回は高良の神が作った結界と言われる神籠石を見に行きましょう。



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by lunabura | 2011-04-12 17:42 | 高樹神社・たかぎ・久留米市 | Trackback | Comments(0)

アンドロメダ星雲の和名


アンドロメダ星雲の和名

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(写真は「PIZの宝石箱」から戴きました。)

アンドロメダ座にあるアンドロメダ大星雲。M31。
日本では昔はどう呼んでいたのでしょうか。
太歳の星・太宰の星 (たいさい・だざい)
天皇が即位すると太歳を行う。この太歳は春分・秋分・夏至・冬至などの節目の日に、
満月か新月が重なる年を選んだ。
ところが新月や満月の日を選ぶという事は、日食や月食が重なる可能性がある。
日食が起こる日に太歳をするのは遠慮されるので、別のタイミングを待った。

神功皇后摂政時代には春分の日の前後に日食が三回もあり、
(201年3月21日、220年3月22日、228年3月23日。)
特に201年には日食が重なってしまった。
その日、日食が起こって空が暗くなると、黄金のアンドロメダ星雲が荘厳な光に輝いたことから、太歳の星という名前が生れた。

中国や日本の古代王は祭祀の為に天壇を造った。しかし歳差運動によって70年経つと、ちょうど一日ずれてしまうため、天壇を作り直すか、都を遷す必要が出てきた。

日本でも一日ずれてしまうと、正しく日や星の出が観測できる土地を探して天皇自身が移動した。これが遷都である。
このわずか一日のずれを観測して計算する天文暦法の家系の記録を天津日嗣(あまつひつぎ)と言い、また天子そのものを指した。

太歳の儀式は天皇一代の暦法を選定する儀式で、これは神武天皇から天武天皇の時代まで続いた。しかし遷都をせずに、太陽を観測するだけで時を計る方式が、持統天皇の時代から始まった。

大明神
ベスビオス火山が大噴火したのは西暦79年で、この時ポンペイが溶岩に覆われた。
噴煙のために日本でも昼間も暗く、星群がらんらんと輝き、アンドロメダには大明神の名が付けられて、筑紫の人々は天壇を建てたと思われる。天壇は欽明帝(553)の頃まで続いた。

高木神・大嶽・大覚(たいがく・だいかく)
日本人も蒙古人もアンドロメダ大星雲を拝していて、高木神と呼んだ。
西暦1264年に、日本は文永元年と改元し、蒙古は至元元年と改元した。これは偶然ではなく、この年の春分の日の正午に、アンドロメダの中心が太陽と上下に並んだからである。

蒙古は日本に神代以来の暦書の提出を要求した。
その時、土御門長親は使節として太宰府まで出迎えに行った。時の関白二条良実二条師忠はその対処法を模索し、宮中にあった暦の写本を作って差し出して、戦争を避ける努力をしたが、蒙古側は原本そのものを要求。くつがえらない事を確かめると、執権北条時宗が、国難を顧みずに敵を処刑した。

高木の名は長崎県の雲仙岳にも付けられた。
遣唐使の一員であった空海も、日本から離れる時、あるいは帰国する時の高木山への思い入れから、帰国後に高木星の別名大覚という名にちなんで、西の京に大覚寺の建立を計った。

文綾(あや)の星・??幡(たくはた)の星
高木星を倭人は文綾(あや)の星・??幡(たくはた)の星とも呼んだ。
千々に乱れて霞む星雲の光を、やがては固まって行く星だと信じていたからである。

獅子の星
しし=四四 四たす四=八 八幡を指す。八幡(ハッティ)という言葉は中東の言葉で、衣裳が風に翻るようすを表し、空に於いてはアンドロメダ大星雲が旋舞するようすを表していた。

千年の星・千歳の星 (ちとせ)
中世、宣明暦が施行される清和帝貞観4年(862)から千年の星の呼び名が現れた。

(『儺の国の星・拾遺』眞鍋大覺著を解釈しました。)

元寇
元寇の襲来の原因について、日本の暦を要求したという事情が書かれています。
元は覇権をとったけど、暦を持たなかったために、天子として認められず、諸外国に暦を求め、日本にも同じように求めたそうです。

「天子は暦を配る」事が出来てこそ、天子と認められる背景がありました。韓国ドラマの「イ・サン」を見ていると、朝鮮国は暦を持たないために、清国の属国扱いを受けていました。暦を持とうとする事でさえ、反乱と見なされた事情が読めます。

遷都
遷都の理由は、観測の目印となる山から、日の出、星の出がずれることが原因だという事です。そのために、ふさわしい目安の山を前もって探す集団が必要です。その具体的な例が倭姫の巡行だと言われています。そして、最終的に伊勢が見つかりました。

このような伝承を述べている人はいないので、誰も検証していないと思われます。沢山の遷都地が残っていますが、それらの東に目安の山が本当にあるのか、検証する必要があります。(面白いテーマだけど、人生が足りないよ…。)

ただし、この説を補うような「三点法」を発表している本があるので、機会を見つけて紹介したいと思います。

大覚
眞鍋大覺の大覚って、アンドロメダ星雲の事だったんですね。
お父さんが星の名前を子供につけたんだ!




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by lunabura | 2011-04-10 17:47 | <星の和名・天文> | Trackback | Comments(0)

出目天満宮・袴着天満宮/御神体は天体石 菅原道真


出目天満宮・袴着天満宮 
久留米市御井町高良山
御神体は天体石 
菅原道真

祇園山古墳のすぐ手前に、小さな神社があります。
大きく書かれた「出目天満宮・袴着天満宮」の文字。(でめ・はかまぎ)
周りに何もない所での、そのアピール力は抜群。
それでなくても、神社好きにはたまらない。やっぱり寄りました。
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緑なす里山の中のたたずまい。

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拝殿が比較的新しいようです。

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拝殿の右では石の御神体を祭ってました。この祭り方は珍しいですね。おや?

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さらに、その右側にも石の御神体が。三角形の石です。
こちらには「袴着天神天体石」と書いてありました。
(はかまぎ・てんじん・てんたいせき。)
さすが地名研究会と一緒なので、口々に由緒を教えてくれます。

「袴着」の由来は、その菅原道真公が高良山にお参りするために、
ここで綺麗な袴に着替えたという事のようです。
「天神さま」といえば、福岡では菅原道真公を指します。

この三角形の御神体石には梵字も彫ってありました。
昔から信仰のある岩に梵字が彫られるのはよくある話で…と、行き過ぎようとした時、
「むむ。天体石?天体って星じゃない。星。星?石の裏に何か手掛かりがある…かも?」
と閃きが…。

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植木との隙間に身をよじって覗きこむと、おお!杯状穴が!いくつも…。
明らかに人工的に彫ってあります。
この写真でも、右半分にいくつもあるのが分かると思います。
上半分には穴がカーブを描き、かつ右下に向かってまっすぐ並んでいます。

この杯状穴の並び方は星座を表しているのかも。
半円になる星座って冠座かな、と野尻抱影氏の星の本を調べて行くうちに、
よく似た半円形のコップ座という変わった名の星座を見つけました。
これとうみへび座を組み合わせるとそれっぽいけどなあ。

でも特定できないな、と諦めて、次に眞鍋氏の本を開きました。
「うみへび座」なんて載ってるかいな、と探してみると、これがあるんですね~。
そこで読み進めると、なんと菅原道真の名前が出て来ました。何でここに?…
という事で、今日はその一部だけ。

うみへび座アルファド星飛廉(ひれん)の星と言う。
フェニキア人(比鸞人・ひらん)が日本に渡航したのは、エジプトの第6王朝ネコ二世(前611~595)が、喜望峰を東に船隊を派遣した頃から始まっていた。
プトレマイオス(前304~30)の世界地図に現在とほとんど変わらぬ極東の形が描かれているのがこの背景にある。

宮中の賢所(かしこどころ)では元来は日月星の神を祀っていた。
「かしこ」とは観星台、即ち琉球の「ぐすく」から派生した「ごしょ」を
平安時代の女官が改めた名前である。
神社の三光の流紋、三つ丸、三つ巴はこの象徴であり、
藤原時平(871~909)の顔色を伺いながら、延喜式の頃に創作されたと聞いている。

藤原氏は太陽神一つに信仰の対象を絞った。
それまで信仰されていた太陰神と石位(いわくら)神をことごとく、
イザナギ・イザナミ神の系統に合祀していった。
高木の神もその一柱で、タカミムスビの神を高木の神とした理由はわからない。
これに真っ向から対決したのは菅原道真(845~903)であった。

一つずつ確認して行きましょう。

エジプト人が渡来した話は南十字星の和名の所で書きましたが、
フェニキア人もやって来たという事です。
喜望峰はアフリカの最南端。スエズ運河がないので、航路は南廻りだったんですね。
プトレマイオスはアレクサンドリア図書館の管理者です。
古代の原資料をもとに自分の地図を作製したそうです。

紀元前の人ですから、ずっとその前に世界地図が存在している訳ですが、
その地図は20世紀の高度な測量法でしか描けない詳細なものだそうです。
(参考『神々の指紋』グラハム・ハンコック)

ピラミッド付近から出土した太陽の船を見ると、外洋の船旅も十分可能です。
(ピラミッドが作れるくらいの人たちですし。)
ネコ2世が派遣した記録があるのなら、紀元前600年頃。
日本では縄文と弥生の混在期です。
伊都国で出土したビーズが北アフリカ・西アジア・欧州でしか造られないものだったのは
昨年明らかになりました。(⇒三雲・井原遺跡
研究が進むに連れて、縄文・弥生の国際的な交流が見えて来ています。

さて、フェニキア人の名前は意外な所からも出ています。
与那国島の海底神殿は誰でも知っていますが、木村政昭琉球大学教授が
調査を重ねて、ついにフェニキア人の神殿だと発表されています。
これが3世紀付近らしい。
「ぐすく」が観星台で、それが宮中では「賢所」になったとすると、
古代史の研究法ももっと意識の変革を要する事になります。

暦を作るための観測資料が「日月星」だったのは三光紋として今でも残っていますが、
藤原時平はこれを「日」一つに絞ろうとしたという事です。

菅原道真を左遷させたのがこの藤原時平ですから、この政争は単なる政権争いでなく、
太陰・星暦VS太陽暦の採用の争いだったという事が読み取れます。
なるほど。これなら道真は絶対譲れなかったはずです。

筑紫に流された道真については伝承が沢山あり、天拝山で祈ったというのは有名です。
それに加えてこの久留米市でも祈ったという事が、
この袴着天満宮の伝承から伺えて来ました。

菅原道真の先祖はアメノホヒの命だ、と「新撰姓氏録」に書いてあって、
アメノホヒの命は熔鉄の神だそうです。
(この神は天照大御神の息子で、出雲制圧の為に最初に派遣された神です。)



さて今度は方向を変えて、もう一つの出目天満宮の方をネットで探す事にしました。
幸運な事に「御井町誌」が掲載されていて、由来が書かれていました。

この袴着天満宮はもともと近くの御井小学校の校庭のムクの大木の下にあったのが、
出目天満宮に移されたと書いてあります。
ところがその後、出目天満宮が高速道路建設に引っかかったために、
現在の地に二つとも移転する事になったという事です。

え?すると、椋の木の下にこの天体石があった?
これまで、このブログに何度も出て来ましたが、
隕石を使う鉄の民は隕石が落下した所に、目印として椋の木を植えていました。

すると、この御井小学校でも、古代に隕石が落下して、椋の木を植え、
天体石を据えて祀った可能性が出て来ました。
(現存する椋の木は当然、数代目のものです。)

すると道真公は、隕石落下の聖地の事を知って、参拝に来た可能性がある?
これが袴を着替えてまで祈った理由?ちょっと想定外の話になりました。

御井小学校では、まだムクノ木は残っているのでしょうか。
道真公は学問の神様ということで、袴着天満宮が敷地内にあった時は、
とても親しまれていたそうです。

(出目天満宮についてご存じの方、教えてくださいませ。)

地図 出目、袴着天満宮 御井小学校





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by lunabura | 2011-04-08 11:30 | 出目・袴着天満宮・久留米 | Trackback | Comments(2)

祇園山古墳(1)ピラミッド型の方墳に箱式石棺


祇園山古墳(1)
福岡県久留米市御井町高良山
ピラミッド型の方墳に箱式石棺

四角いピラミッド型の古墳が見つかったという話を聞いて、
何度か行った祇園山古墳。何十年前の事だろう。
いつかまた行きたいと思っていたけど、
久留米地名研究会のトレッキングに参加して、思いがけず再会出来ました。

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再訪すると、古墳は当時そのままで残されていました。
高良山の西の麓の小さな丘の上にあります。
右側に見えるフェンスの下は高速道路です。
高速道路からでも、助手席からなら一瞬だけ、ちらりと確認出来ます。

この高速道路を建設する為に、この古墳は破壊されかかったのですが、
古墳時代の初期の貴重な方墳と言う事で住民運動もあって保存されました。
方墳って珍しいですよね!ここ以外に訪れた方墳は平原遺跡でした。

さあ、頂上に登りましょう。頂上は10m四方ほどの平地になっています。
石棺がありましたよ!

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見ると露出したままで、かなり土砂が入り込んで、もうすぐ埋没しそうです。
この石棺の深さは90センチあるのですから、
そろそろ何らかの手を打つべき時が来ているようです。


何十年も前、初めて見た時の印象が蘇ってきます。
1.石棺が長方形というより、やや台形だったのが不思議だった。
2.頭の方には朱が結構残っていたので、また見たかった。
3.側面の葺き石が面によって出来栄えが違っていて、おかしかった。
4.周りにも沢山の石棺などがあったけど、どこにあったっけ。
5.確か男女の骨が一緒に逆さまに埋められていた話があったけど、どこだったっけ。

こんな記憶を確認できるチャンスが来ました。
今回はこのあいまいな印象を一つずつ確認して行きましょう。

1.石棺が長方形というより、やや台形だったのが不思議だった。
真横から見ると、左の石板が右より長いのが分かります。
資料(久留米市史)で大きさを確認すると、
底面の広さが内のりで長さ約200センチ×幅約75センチとあります。
細かい差は分かりませんでした。
深さは約90センチですから、かなり深いです。
側面の石の板は安山岩で一枚板です。加工するだけでも大変そうですね。

2. 頭の方には朱が結構残っていたので、また見たかった。
これは、全く確認出来ませんでした。露天なら仕方がないですね。
この石棺には石の蓋もあったのですが、バイクで割られたそうです。
その蓋の裏にも朱がありました。

出土物については、この石棺はすでに盗掘を受けていて、
人骨も副葬品も全く出ていません。
しかし高良大社に行くと、神社所有の三角縁神獣鏡
ここから出土したと推定されていました。
盗掘した者が畏れて神社に奉納したのかも。

3.側面の葺き石が面によって出来栄えが違っていて、おかしかった。
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今回、斜面の葺き石は確認出来ませんでした。
この写真は四隅の一か所です。
現代の手が加わっている感じがしますが、どうでしょう。

葺き石のイメージとしては、こんな石が斜面にびっしりと並べられていたのですが、
正面がきちんと並べられていたのに対して、
左面は適当に並べられていたのが、印象に残っています。
統一感がないのは請け負ったグループが別々に仕事をしたんだなと、
想像されておかしかったのです。
資料を見ると、「いくらかの作業集団が認められる」と書いてあり、
誰でも言及したくなるほどの出来栄えの差に、やっぱりニヤリとしてしまいました。

4.周りにも沢山の石棺などがあったけど、どこにあったっけ。
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看板の測量図を見ると、盛り土のすぐ周りに墓が沢山あります。
って事は…さっきの写真を撮った時、私の足元に棺があった? (・.・;)

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反対側に廻って盛り土を写したのですが、
この時も私の足の下に十個ぐらい棺があったみたいですね…。(;一_一)

調べると、この方墳の周りには合計62基の墓がありました。
ネットを見ると、この数字が魏志倭人伝の「卑弥呼の殉葬者の100」という数字に近い事から、卑弥呼の墓だと言う人がいるのが分かりました。

そこで、その62基の埋葬法を調べると、
甕棺墓3基、石蓋土壙墓32基、箱式石棺墓7基、竪穴式石室3基、不明墓7基
となっていました。ずいぶん多彩です。
殉葬なら同じ様式で埋葬するほうが合理的じゃないかな、
と現代人はついつい考えるのですが。
殉葬が0だとはもちろん言えないのですが、
ペアを意識した埋葬もあって、一族の墓の可能性も考えていいなと思いました。

1号甕棺墓
その中でも1号甕棺墓には副葬品が残っていましたよ。それは
半分に割った後漢の鏡、5センチほどの勾玉、二個の管玉刀子です。
この半分の鏡には紐が通せる穴が開けられていたので、ペンダントにした可能性があります。

この甕棺の内側には朱が塗られていました。
興味深いのは、この甕棺が「糸島地区の甕棺の末期と系譜的に繋がっている」点です。
甕棺なら古い時代に見えるのですが、そうではなくて同時期のものらしいです。
すると弥生時代と古墳時代が同居してるんだろうか。

糸島系の甕棺と鏡…。これが筑後地方に出ている…。

甕棺を「日本の古代遺跡34福岡県」で調べると、
「分布範囲は福岡県西半部、佐賀県東半部、熊本県北部が主要である。
1万基を超える甕棺があるが、鏡一面、あるいは銅剣一本、あるいは管玉類若干など
わずか1件でも副葬品を伴っているものは100例にも満たない。」
と書いてあります。

するとこの1号甕棺墓は100例の中に入る貴重なものなんだ。
鏡があるだけでも、すごいんですね。それに勾玉も管玉も入ってた。
鏡は誰かと半分っこしてる。大きさは10センチ。かなり高い身分の人です。

こりゃあ妄想推理したくなりますよね。

この筑後地方にやってきた1号甕棺の被葬者の出身地は鏡大好きの伊都国。
彼もしくは彼女は伊都国から出る時に、身分のある親に別れの挨拶に行った。
すると親は一族の証として鏡を取り出し、半分に割った片身だけを授けた。

それには紐通しの穴が開けられていた。
彼(彼女)はそれを受け取ると、大事に胸に下げた。
その胸にはその身分を示す大粒の勾玉と管玉が輝いていた。

そして船に乗って、この高良山の麓の邑にやって来て、何らかの重要な立場につき、
方墳の被葬者に仕えた。

(副葬品が盗掘されていず、武器が刀子だけとすると女性の可能性が高い。
まあ、女性としておこう。)

仕えた人が亡くなった後、彼女も亡くなったが、
筑後地方の石棺には馴染まず、故郷の甕棺の埋葬法を望んだ。

やっぱり妄想ですね~。
でも、甕棺から伊都国と高良山の一族との関わりが見られるなんて面白い。

そして、現場でこの石棺の問題点をメンバーから指摘されたのを思い出しました。

「古墳って普通、頂上に埋葬される?」
そ、そうだ。これは変だ…。                  (つづく)



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by lunabura | 2011-04-04 22:58 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Trackback | Comments(4)

祇園山古墳(2)まだまだ謎が多いなあ。


祇園山古墳(2)
まだまだ謎が多いなあ。

そうだよ、古墳って大地の上に石室を作って、
それを覆うように盛り土をかぶせるんじゃない?
同じような方墳の平原古墳だって、大地に穴を掘って盛り土をかぶせてる。

それなのに、この古墳の石棺は頂上にある。言われれば変だ。
もしかしたら既存の古墳の上に埋葬してる?
盲点だった。
祇園山古墳って、まだ未発掘の部分があるのかも…。

そこで、手掛かりを求めて資料を読み直しました。
すると、この石棺の埋納法が書いてありました。

c0222861_2201091.jpg

この写真は頂上部の石棺の周囲を撮ったものです。
四角にくぼんだ部分があります。ちょうど緑色になっていますね。
それが約3.2×3.6mの広さに近いと思われます。
そこを四角く掘って行って、1.1mの深さまで掘り下げています。
石棺を置く為にさらに掘り込んで、側壁の石の板を並べ、
それが倒れないように支えの石や粘土を使って安定させていました。
現在の方墳の高さは5mほど。当初は6mではないかと推定されています。

これが竪穴式というのでしょうが、やはり方墳全体から見ると、
二次的な埋葬の可能性が否めない。
この古墳の基底部分にはまだ未発見の棺があるかもしれない。
そう考え始めました。
この仮定が当たっていると、支配者の交代劇が想定されます。
旧支配者のシンボルの上に、新支配者が墓を建てるのは世の習い。
示威行為です。う~ん。これって、またまた、るなの妄想?

もし可能なら、真実が知りたいですね。
最近では掘らなくても、超音波で調べられる時代です。
いつかそんな調査があったらいいなと思いました。

もし、まだ未発見の墓がこの封土の下にあるとすると、
時代がもっと遡ることになります。
すると、甕棺などとの関係も変わってきます。
祇園山古墳はまだ謎を残してる…。これ以上は調べられない。

そして思い出したのが、メンバーからの更なる情報。
この被葬者についての記録があるそうなのです。
この高良山の祭神の甥の日往子尊(ひゆきのみこと)の廟だと書かれた書があるとか。
この古墳辺りは高良山の社家の廟所として祀られてきたという話も
ネットで拾い出しました。

調べてみるか。
その時、るなの頭の中で響くのは高良大社の宮司さんの言葉。
「高良山の御祭神は謎が多くて、いったんハマると抜け出せないようですね。
研究されるのは大いに結構ですが。」
そうだ。そこは泥沼だ。ほどほどにしとかなくちゃ…。

次の写真は墳丘から見える景色です。
c0222861_221746.jpg

古墳の頂上から見渡せるのは筑後平野と筑後川。
正面にうっすらと見えるのは佐賀県の背振山地ですから、
その麓には吉野ヶ里があります。被葬者は同時代を生きています。

調べれば調べるほど、ここは重要拠点ですね~。
この古墳の真下には高速道路が通っていますが、
その建設の為に何十という古墳が消失しています。
奇蹟的に残ったこの古墳。何かもっと語ってくれないかな。

5.確か男女の骨が一緒に逆さまに埋められていた話があったけど、ここだったっけ。
男女逆さまの埋葬は当時の新聞で大きく取り上げられたと思うのですが、
この石棺の被葬者ではありませんでした。
もう一度、資料を読んでみたのですが、人骨について言及がありませんでした。
ネットでは、古墳の周囲の墓の一つに男女の遺骨が逆さまに入っていた
と書いてありました。これ以上は発掘報告書を見ないと確認出来ません。

ただ、ここから100m離れた祇園山古墳群の中の祇園山3号墳では
男女が逆さまに埋葬されているのが確認出来ました。
(ちょっと怖いので、内容はパスします。)
私が見た古墳はまだ少ないのに、この埋葬法はもう3例目です。
当時の生と死について、いろいろと考えさせられる埋葬法です…。

それにしても竹林がそばまで侵入して来ているのが気がかりです。
この古墳は久留米市でも一、二の古さを競う古墳だとか。
早急に竹林への対策を取っていただけたらと思いました。

地図 祇園山古墳 吉野ヶ里 伊都国



さて、この古墳に行く途中にあった神社。誰でも、気になるよね…。
次回はそちらへ。




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by lunabura | 2011-04-04 00:11 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Trackback | Comments(2)
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