ひもろぎ逍遥

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<   2011年 05月 ( 21 )   > この月の画像一覧

日守神社・神功皇后伝説と夷守駅とドルメン石


日守神社
ひまもりじんじゃ
福岡県粕屋郡粕屋町仲原西区
神功皇后伝説と夷守駅とドルメン石

ずっと心に引っ掛かりながら、一年たってようやく訪れることが出来ました。
607号線、錦町の信号から柚須方面に進むと粕屋仲原郵便局があり、
その脇から入って、数軒目に神社はあります。駐車場はありません。
神社は参道を残して、家々に取り囲まれています。
神社を中心にして発展した名残ではないかという印象を受けました。

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ささやかな遊具が置かれていて、町の鎮守様のような風情です。
この小さな神社には古い歴史が残されていました。

神功皇后
日守(夷守)の由来のはなし
神功皇后(じんぐうこうごう)は、お産のために現在の宇美町に向かいましたが、その途中、現在の粕屋町乙仲原西区にある日守付近で休憩しました。
そして“日を守りたまいて(太陽をじっと見て)”、「今は何時頃ですか。」と尋ねられました。
この伝説から、休憩した場所を「日守(ひまもり)」と呼ぶようになり、神功皇后が腰掛けた場所をまつって日守神社ができたと言い伝えられています。
(粕屋町のHPより)

前回の若八幡神社からは直線で1.5kmほど南の位置にあります。
神功皇后はこうして休み休みしながら宇美へ向かったのでしょうか。
彼女は途中からカゴに乗り換えた事が駕輿丁八幡宮の伝承から分かります。
通ったルートが特定できるのではないかと錯覚させるほど、
彼女の足跡が濃厚に残されていました。

地図 香椎宮 ⇒ 若八幡宮 ⇒ 日守神社 ⇒ 駕輿八幡神社



夷守駅家
人口も少なかった当時、重要な地点は歴史的に継続されるもので、
奈良時代にはこの場所は夷守駅となって、万葉人が行き交いました。
由緒書きがありました。
夷守駅と歌碑
奈良時代、聖武天皇の時代(724-749)、九州には大宰府が置かれ、政治の中心でもありました。奈良の都への交通の手段は、主に馬によってなされていましたが、当時九州には、11の駅家(馬と人夫の宿)が置かれていたとされています。夷守(日守)はその駅が設置された場所とされ、西海道の交通の拠点でもありました。

万葉集第4巻には次のような歌が詠まれています。

草枕 旅ゆく君を 愛(うつく)しみ 副いてぞ来し 志可の浜辺を

この歌は大宰府の帥(そちー長官)であった大伴の旅人が奈良の都にいる弟の大友稲公、姪の胡麿に遺言を伝えたいと申し出たところ、天皇は両人を勅使として見舞いに訪れさせました。

幸い旅人の病気が全快したので、二人は都へ帰ることとなりました。大伴百代・山口若麿・大伴家持らがこの日守まで送り、ここで別れの宴を催したとき、二人との別れを惜しんで大伴百代が詠んだ歌だとされています。

粕屋町で唯一の万葉歌詞詩で、地元の方々の浄財によって、この歌碑が建立されています。  
  粕屋町教育委員会

大宰府からは船で一緒に乗って来たのでしょう。
ここで上陸していよいよお別れです。宴が出来るようすから、
駅家にはある程度の施設があった事が伺えます。

ここからは馬を乗り継いで、山越えして、豊前に抜けて行ったと思われます。

ドルメン石
拝殿の左脇に平たい石がありました。

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ドルメン石のようです。もともとこの辺りは遺跡だらけだったらしく、
田んぼにしようと掘れば至るところから甕棺などが出て、
鏡や勾玉など、農家はその処置に困って、神社などに持っていったようです。
考古学が生まれる前なので、仕方がないのですが、
箱崎宮の鐘が鋳造される時に、集まった青銅鏡が
たしか一万枚ほどはあったと聞きます。
そのために考古学的な研究は困難になっているようです。

このようなドルメン石も、あまりにありふれたもので、
取り敢えず近くの神社へと持ち込まれたものかも知れません。
それでも、神社という形態があったので、この地の歴史が地名と共に残されました。
神社も地名も大切なものですね。

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境内にあった桜が、ちょうど見ごろを迎えていました。




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by lunabura | 2011-05-29 17:00 | 日守神社・ひまもり・粕屋郡 | Trackback | Comments(8)

若八幡宮・多々良川―古代の製鉄―イラスト


若八幡宮
福岡市東区多々良
多々良川―古代の製鉄―イラスト

福岡市には多々良川という名前の大きな川が流れています。
「多々良」まさしく「蹈鞴」と同じ発音です。

今回は地元の地名と地形に詳しい聖洲さんに
古代の多々良川を案内してもらいました。

多々良川の下流の右岸から300メートルほど入ったあたり、
車が一台ようやく通るような細い路地を通ると「若八幡宮」がありました。
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石段を上っていきます。

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拝殿は小さな丘の頂上にあり、周囲を見晴らすことができます。
境内の広さは、先週紹介した風早神社とほぼ同じで、川の傍という点も似ています。
すると?―そうです。
やはりここには古代には製鉄所があり、鉄を守る神様が祀られていたそうです。

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拝殿前から参道の方を撮りました。

次は現代の多々良地区の航空写真です。こんもりとした所に若八幡宮が見えています。
(写真を一度クリックすると、自由に動かせますよ)
地図 若八幡宮 顕孝寺 香椎宮

1000年以上も前にワープすると、こんな感じ!
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聖洲さんがこの神社の周囲の古代の光景を再現してくれました。
今立っているところは中央の上の森あたりになります。
手前の川は多々良川。現在はまっすぐの堤防が作られていますが、
古代にはこうして岬になっていて、地名にもその名残が残っているそうです。
また、ビルの下からは古代のドッグの積み石が発見されています。

絵の左に黒煙を上げている大きな窯があります。製鉄の窯です。
調べても古代の製鉄窯は残っていないので、全く想像だそうです。
でも、それらしい雰囲気があります!

すぐ近くに小舟が停留していますが、砂鉄が山のように積まれています。
燃料は、ここから少し離れた八木山で天然の無煙炭が露天掘りで採れていて、
「しょうけ(籠)」に入れて運ばれていたそうです。
地の利がとてもいい所だったのですね。

「しょうけ」と言えば、八木山が難所のために神功皇后の赤ちゃんを「しょうけ」に入れて運んだために「しょうけ越え」という地名が起こったという伝説が有名ですが、
この無煙炭を運んだ話と入れ替わって伝わっているのだそうです。
そう言えば、そうですね。赤ん坊をショウケに入れて運ぶ方が難しい。

絵には遣唐使船が描かれていますが、これは遣唐使船というより、
韓半島などから直接やって来る民間の大型船だそうです。
その船が繋留されているのは顕孝寺
当然ながら大陸から韓半島までの最新情報が入ってきます。
この情報を求めて、はるばると香春岳の採銅所や宇佐(神宮)から
情報収集に集まって来ていたそうです。

次はここで採れていたスズ鉄のイラスト。

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葦の根元にバクテリアが鉄を集めて、茶色の塊が出来ているようすです。
葦は海と川の水が交わる所で育つそうで、それを刈り取って乾かして燃やし、
灰にして水に混ぜ、沈殿させて比重差を利用してスズ鉄を採ったそうです。
聖洲さんの子供頃までは葦がいっぱい生えていて、鳥も沢山いたそうです。
古代では多々良川の三つの支流で葦を刈り取ったあと、
一部に稲を蒔いていたそうです。一年ごとに稲作の場所が変わったとか。
葦と稲の輪作なんです!

これは同じ絵の全体のようす。
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ここには神功皇后の伝説も残っていました。
彼女は出産するために、この辺りから上陸したと伝わっているそうです。
左には名島神社。そして廻り込むと向こうに香椎宮が見えています。

神功皇后はこの辺りで破水しかけたという話もあるそうです。
タタラの鉄が流れ出す様子とあいまってそんな伝承が生まれたのか、
実際そうだったのかは遠い昔の事で、霧のかなたです。

それにしても、イラストのお蔭で古代社会のイメージがよくつかめました。
聖洲さん、ありがとうございました。

ここも安徳台のあった那珂川町と同様に那の国なんですよ。




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by lunabura | 2011-05-27 10:13 | 若八幡宮・わか・福岡市 | Trackback | Comments(12)

シリウスの和名


シリウスの和名

冬の夜空にキラキラと輝く一番明るい星。それがシリウスです。
オリオン座が見つかれば、その左下にすぐに見つかります。
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シリウスとはローマ名で、他に、ソティス(ギリシャ名)ソプト・コプト(エジプト名)
天狼星(中国名)犬上星(倭名)といろんな名前を持っています。

シリウスは春分の日には正午に東の空に昇っていて普段は見えませんが、
大気が透明な時には見える事がります。
戦争中まで、要塞司令部では砲台の照準器の無限遠点の調整の為に、
金星とシリウスを白昼でも追跡する視力の特別訓練をしていました。

そんなシリウスは人々の暮らしの中で、さまざまな呼び方をされました。

宵星(しょうのほし)、暁星(ぎょうのほし)
古代人は日が暮れて寝る前にシリウスを見て宵星と呼び、早朝起きた時に空に残るシリウスを見て暁星と呼んだ。時計代わりの星だった。

夜門星(よどのほし)、夜通星(よどほしぼし)
筑紫でのシリウスの呼び方。冬、日が暮れるとまもなく東の空に現れ、明け方には西の空に没したことからついた名前。

恵蘇星(よそのほし)、与謝星(よさのほし)、耶蘇星(やそのほし)
キリシタンの正月であるクリスマスの前後に南中した事からついた呼び方。

とよみぼし・よとみほし
昔の有明海での呼び方で、平安時代の頃には豊姫あるいは淀姫が筑後三原と肥前佐賀に祀られていた。
潮の空間(からま=海面が静止した時)に、シリウスが水平線から離れる瞬間に上下互いに溶け合ったように連なる時は、必ず地震津波が現れると語られていた。
仲哀9(200)年の朝鮮攻撃の時も同じ現象が起こったと伝えられている。

昔の人は外界の波に動じない海淵を「沼津」「志登」と呼び、星影のゆらめきを見て、海の異変を観察いていた。やがてこれが倭語のナマズ即ち中国語の鮎魚(せんぎょ)と結びついて、地震ナマズの説となっていったか。

石籠星(いづらぼし)、澪標星(みおのほし)、夷守星(あかしのほし)
博多の古名を「石城府」と言う。昔、玄界灘と有明海に水路が通っていた頃、今の対馬小路(つましょうじ)から五十川、雑餉隈(ざっしょのくま)、水城を経て太宰府に至る間には、石籠(いづろ)あるいは石堂すなわち灯台が置かれて、潮の満ち引きにあわせて夜間でも航行が可能になっていた。井尻にも石籠があった。

シリウスそのものも灯台の代わりにしていた。伊豆石廊崎(いろうざき)、三河伊良湖崎、常陸五浦(いづら)の地名にも、その名が残る。

宋から元の時代(960~1368)、中国は博多津を五籠山と呼んでいた。場所は今津から姪浜あたりの事で、倭人は「いすら」と呼んでいた。異邦人の港だったために、外(袖)の湊と呼ばれていた。水深が十分にあり、各所に石籠が一晩中焚かれていた。
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イソラ神もシリウスの化身
石籠星(いづら・シリウス)は昔はもっと明るく、もっとも眩しく、凝視していると目がうずくほどの輝きがあった。
志賀海神社のイソラ舞では、神が白布で顔を覆うが、これは石籠星の象徴で、船人にとっては一番に目標となる星だった。いずら→いそらとなった。

風雪星(かざゆきほし)
シリウスは大気の成分や透明度によって種々に光を変えるので、漁師百姓はその色を見て天気がくずれるのを予測した。

ふゆしらす
シリウスが昇ると筑紫の那珂川では、各部落の庄屋は翌年の暦を作るので忙しくなった。

しらす
シリウスというローマ名を倭人が聞いたのは、耶蘇教の宣教師が日本に来た頃であるが、同じような発音の「しらす」の名が、すでに古代から百姓漁師の間で使われていた。

阿房星(あをのほし)未央星(みおのほし)
秦の始皇帝は咸陽に阿房宮(あぼうきゅう)、漢の高祖は洛陽の都に未央宮(びおうきゅう)という世界一の殿堂を建設した。

シリウスは昼は太陽と光を競い、夜は月と光を競う。そのシリウスを無上の憧憬をもって仰ぎ見た英雄たちの心が阿房・未央の名に秘められている。

阿房宮の着工は孝元帝(前213)年9月15日と伝えられる。陰暦15日は満月の日なので、この日、満月と光を重ねたシリウスが輝いていたことになる。

シリウスにこの中国の宮の名前が付いた理由は、倭人が大陸に派遣されて、その豪壮な阿房宮・未央宮を目の当たりにしたために、全天随一の明るさを誇るシリウスにその名を付けたのかもしれない。


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シリウス
「ズブさんのアイデア天体写真館」より戴きました。
http://www.ne.jp/asahi/suzuki/zubu/

節分星(きわけのほし)
シリウスが立秋の朝に東に見え、立春の夕べに西に見え、立夏の日中に南に輝き、立冬の夜中に南に輝く時代があった。そのために春夏秋冬の兆候を知らせる星として節分星(きわけのほし)と呼ばれた時代があった。

計算すると、現代との歳差が約20日なので、その現象が起こったのは、欽明帝元(540)年の頃になる。欽明天皇の「欽明」は「明(めい)を欽(うやま)う」という意味なので「明るいシリウスを敬う」という由来になる。

気分星(けぶらいほし) 化粧星(けはいほし)
シリウスを気分星(けぶらいほし)とも呼んだ。「けぶらひ」を平安の頃は「けはひ」と言い、「気配」と書いた。節季の「はしり」が燃え揺らぐようすを述べる方言古語だった。
シリウスの色調が千変万化するようすから、やがて化粧星(けはひほし)の名もついた。

鵲裳星(からすきほし)石匠星(せきしょうのほし)
シリウスが明るく輝く頃になると、山の峰のひだに初雪が積み始める。これを祖先は鵲(カササギ)の黒と白の羽根に見立てた。夜目にも白く光る細いすじは、初冬の訪れを教えた。

「鵲裳星」を音読みすると「せきしょう」で、これに別の漢字「石匠」を当てて石匠星(せきしょうのほし)とも言った。
シリウスの色を祖先は坩堝の中に眩く輝く溶融した金銀に見立てていた。冬枯れの宵にこの星が昇ると、蹈鞴の火を操る工人は仕事の成就を願って、この星に手を合わせて火を点けた。

◆ここで述べられるカササギは別名「カチガラス」です。
見かけはカラスに似ていますが、黒と白色の二色の鳥で、
秀吉が朝鮮半島から連れて来たと言われています。カチガラスの写真はこちら。
http://photozou.jp/photo/show/147212/26353480

湯面星(めつらぼし)湯具星(ゆのぐほし)
「湯」とは鋳壺(いつぼ=坩堝)の中に虹のように高熱の蒸気が炎色反応をしているすさまじい光をさす。
「具」とは溶融合成すべき金銀銅鉄錫などの重金属材料をさす。
シリウスの光を坩堝の中の光と重ね合わせた事から付いた名。

五十星(いそのほし)活目星(いかたらしのほし)最明星
エジプト人は夏至の東天に上がるシリウスをソティスあるいはコプトと崇めた。
中東では一年365日を七か月に分けていた。従って、一か月は52日になる。五十を「いか」と呼び、残りの二日を「たらし」と呼んだ。五十二日は「いかたらし」となる。

52日×7カ月=364日。一年に足らない残りの1~2日も「たらし」と呼んだ。
エジプトでは夏至の正午をもって一年の中日としていた。「いかたらし」とはまさに灼熱の砂漠の真昼を形容した光景であった。
従って、「五十日帯」(いかたらし)という和名も「夏至の日に上がるシリウス」の倭訳であったものと見える。

皇極帝(のちに斉明帝)の名前は「天豊財重日足姫天皇」(あめ・とよたから・いかしひたらし・ひめの・すめらみこと)で、その中の「いかしひたらし」はシリウスをさす。
「皇極」とは磁針の事である。当時、人工の磁石を坩堝で作って鍛練する時代が到来していた。日本はこの頃から和船にも必ず磁石を携行させた。
シリウスを最明星ともいう。全天で一番輝く星という意味である。
「皇極」ならびに「斉明」という諡号はまさに磁石生産の時代に入った事を象徴する名前であった。

シリウスの輝きの連想から、坩堝の達人を石上(いそのかみ)あるいは五十師(いそし)あるいは伊覩率(いとし)などと呼んだ。

一目星(はなみのほし)
倭国に来た胡人(中東あたりの人)の緑眼高鼻の風貌から受ける印象と、その特技である蹈鞴の眩しい光をよく描写している。

卒土の星(そつとのほし)
卒土の星(そつとのほし)はソティスの音写と思われる。

俘屠星(ふとのほし)
これは太身族の故郷の栄枯盛衰の歴史をよく説明している古名である。

以上、真鍋大覚『儺の国の星』『儺の国の星・拾遺』を要約しました。
あちこちに散見する文を並べ直して、書きなおしたものなので
この先、訂正加筆する可能性があります。




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by lunabura | 2011-05-25 21:37 | <星の和名・天文> | Trackback | Comments(0)

現人神社・ここは全国の住吉神社の元宮


現人神社
あらひとじんじゃ
福岡県筑紫郡那珂川町仲
ここは全国の住吉神社の元宮

知る人ぞ知る。住吉神社の元宮、現人神社にやって来ました。
住吉ということは全国の住吉神社の元宮です!

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那珂川町でも中心的な存在のお宮です。
ここは石段もなく、平地に神社がありました。
駐車場からすぐに一の鳥居です。楠が大きい!

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堂々とした拝殿です。

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中からは灯明の灯りがこぼれています。
大阪の住吉大社へ行き、博多の住吉神社へ行き、そしてこの現人神社へ。
ずいぶん遠回りして、ようやく元宮に辿り着きました。
ここに来れた事に感謝して参拝。

住吉三神―この三柱のには何度も出会って来たし、、
それはオリオンの三ツ星を象徴している と私は思っています。
しかし、まだまだ心の中には謎が残っていました。その謎が何かが掴めない。
境内の由緒書きを写します。
現人神社(住吉三神総本宮)略誌
御祭神 住吉三神(底筒男命・中筒男命・表筒男命
御由緒 並びに御神徳
伊邪那岐の大神、筑紫の日向の橘の小戸の檍原にて禊祓い給いし時に生れましし住吉三柱の大神を祭祀した最も古い社にして、神功皇后(1780年前)三韓遠征の際、軍船の舳先に御形を現し、玉体を護り進路を導き、無事凱旋せしめた御神として、皇后いたく畏(かしこ)み奉りて、この住吉の神の鎮まり座す現人宮を訪れ、神田に水を引かむと山田の一の井堰を築き、裂田の溝を通水して、五穀豊穣の誠を捧げられ、現人大明神の尊号を授けられ、供奉の藤原朝臣佐伯宿禰をして祀官せしめられてより、現人大明神と称す。
摂津の住吉大社は現人大明神の和魂(にぎみたま)を祀り、福岡の住吉宮は(1200年前)分霊せらる。

いかがでしたか。そのまま書き写しました。
内容はこれまで歩いて確認してきた話ばかりです。少し復習をして置きましょう。

冒頭の「伊邪那岐の大神、筑紫の日向の橘の小戸の檍原にて
禊祓い給いし時に生れましし」は祝詞(のりと)の中に出てくる有名な一文です。

イザナギの命が海辺で禊をした時に、この住吉三神は海の神と共に生まれました。
三神は、神功皇后が香椎宮や小山田の斎宮で神託を得た時に現れた神々で、
皇后の身を守り、戦いを勝利に導く約束をしてくれました。

そして、神の約束通り戦いに勝つと、皇后はこの地でお礼参りをして、
伏見宮の前から水を引いた裂田溝に水を通し、神田を潤し、藤原朝臣佐伯宿禰を祭祀の祀官としました。
そして、海岸線が遠くなったのでしょう、三神は博多の住吉神社へ分霊されました。
これが全国の住吉神社へと展開していきます。

このお話の場所に全部行きました。
ここに書かれた歴史の場の一つひとつを歩いてきた事に驚きました。
今回はまるで、第一ステージのフィナーレのようです。

それなのに、心の中にはまだ残るものがある。
それは住吉族とはどんな海人族たちなのだという疑問でした。

仲哀天皇を筑紫に呼んで、古新羅(辰韓?イルウィ?)と
戦わねばならなかったのは住吉族の方ではなかったか。
玄海灘を簡単に越えられる船を操る事が出来る海の民たち住吉族。
それは安曇族とはまた違った海人族。

それはずっと心に気にかけていた問題でした。
そして、神殿を撮影しようとして見たものは。

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またもや、神殿を守る鬼面。やはり柱に喰らいついている。
(葉っぱに焦点があってしまいました。)

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こちらは角があって、如何にも鬼を意識したデザイン。

この神殿・拝殿・大鳥居は、正徳4年(約270年前)当時の領主地頭であった黒田靫負(かげゆ)重実が氏子に協力して再建したものである。明治5年に現人神社と改号した。

とあります。江戸時代の建築でした。こういう鬼面は当時の流行なのかな?
これまで出会った鬼面を持つ三つの神社は、
「現人神社―伏見神社―高良下宮社」でした。
三社とも神功皇后と竹内宿禰が関わる神社ばかりです。
(ま、福岡の神社はかなりの確率で二人が関わっていますが…。)

そして思い出したのは、高良玉垂神秘書に書かれた秘密
四王寺山に降臨したのは住吉大神と住吉の神たちだった。
かれらの名前は物部氏。
そして、そのうちの一人、物部のヤスツラが神功皇后を妻にしたという。

大阪の住吉大社には、住吉の神と神功皇后の秘密が書かれているという。
通説ではその住吉の神とは武内宿禰を指すと噂されるが、そうではなかったのか。
謎解きは簡単には終わらないようだ。

視点を変えよう。
那珂川町には中臣氏もいて、物部氏と水利権の争いをしたと眞鍋氏は書いている。
「中東→安羅人→あらしと→あらひと→現人」とも。
安羅とは南朝鮮に位置した大伽耶の一部。
のちに武内宿禰の息子の葛城襲津彦は、新羅に邪魔されて日本に渡れなくなった弓月の君の民たちを助けに行った。(日本書紀)
弓月の君とは秦氏の事。

どうなってるのだろう。この先は霧が立ち込めて、前が見えない。
古代朝鮮の事情が分からないと謎が解けない。
韓国の方ではこの時代の史料がなくて、研究が遅れているという。

真鍋氏の本には渡来人のルーツについての記述があちこちに
散りばめられているのに、分かる人にしか分からない。
この先は中東から極東までの民族の歴史の知識が必要なエリアになっている。
そう。これが私のモヤモヤの原因なんだ。

それでも、るなは歩き続けるよ。そして那珂川に戻って来るよ。
那の国の見た夢を見にくるよ。それは倭の始まりのクニの一つだから。

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今回は気合いでいっぱいリンクはりました。 (^^)/~~~
グレー色で目立たなくなった文字がリンクです。 ><
なんだか古代の筑紫の総復習です。

地図 現人神社





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by lunabura | 2011-05-23 14:17 | 神社(ア) | Trackback | Comments(2)

風早神社・製鉄の民の隠れ宮?


風早神社
かざはやじんじゃ
福岡県那珂川町安徳
製鉄の民の隠れ宮?

那珂川町の地図を広げて見ていると、奈東南雄さんが、
風早神社を見つけて「こりゃあ物部氏の神社だ」と言い出しました。

それなら行かなくてはと言う事で、伏見神社の後で訪れました。
地図上では簡単に見つけたけど、そこへ至る道は普通の道ではありませんでした。
そこで頼りになるのは、くるま座さん。
那珂川のフィールド・ワークをかなり重ねたらしく、
地元の人しか分からない道を縫って、私道のような道を通って到着しました。

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人家の間から突然開けた農地の向こうに、なんとゆかしい佇まいの鳥居。
歓声を上げて走り出しました。

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杉林の中を縫っていく急斜面の石段。
この斜度の険しさは、これまでも何社かあった。
まさしく製鉄所がある急斜面。
風早という神社の名前からして、風の神様が祀られているはず。
きっとここは製鉄の現場。

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丘の頂上は直径30mほどの円形の平地で、その正面に小さな祠があるだけでした。
祠を守るために新たに覆い屋が重ねられていました。

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覆い屋の中の神殿の側面。

境内には何もありません。何と簡素な。これこそ、祈りの原点。
この地形こそ大切な場所なのです。

杜の中の境内はとても心落ち着く所で、参拝を済ませると、
みんな座り込んでしまいました。
小さな丘の頂上の森に囲まれた境内。なんと心地よい。
木々の隙間からは川が見えます。先ほどの那珂川が流れています。

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登って来た石段を上から見下ろしました。
新しく塗り替えられていた赤い手摺から、
今なお地元の人々に大切にされているのが分かります。
くるま座さんがコンパスを取り出して確認すると、何と神殿は北向きでした。

地図を広げて、地形を確認。

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左下に風早神社の杜がこんもりとしています。
伏見神社の前を流れていた那珂川が、この丘にぶつかったために
急カーブを描いて蛇行していました。
「え?隣は安徳台?」
最初の裂田神社とは、安徳台を挟んでほぼ反対側に来ていたのです。
「なんだ。今日は安徳台の周囲をぐるぐる廻っているんだ。」

奈東さんが、地形を説明してくれました。
「製鉄には北西の風が必要で、この谷川から正にその風が吹き付けて来る。」
「そうすると、この風早の製鉄所と安徳台とはどちらが先?」
「製鉄所が先だね。それを守るために安徳台がある。」
鉄製品を作るには製鉄と冶金の作業があって、冶金の方が危険な作業だったとか。

地元の眞鍋氏の本によると、人々は夏は米を作り、冬の北西の風が吹き出すと、
製鉄をして農具を作っていた時代があったとか。
いったん火を入れると、三日三晩燃やし続けなければなりませんでした。
火を燃やすために風が必要だし、二酸化炭素が溜まらぬためにも風が必要でした。
この地形は海からの風が川を通って風速を増すような、まさに理想的な場所でした。

祭神は風の神と想像されますが、今の段階では分かりません。
(追記 現人神社の摂社 風早神社・伏見神社(級長津彦命・息長足姫命) 
                          福岡神社誌より)
この神社は隠れ宮のような風情です。
そっとして置くのがふさわしい静けさが漂っていました。

安徳台そのものからも、紀元前2世紀の製鉄所跡が発掘されているので、
この町はかなり早くから開発された重量拠点に間違いありません。
渡来人たちはこの地形を発見して歓喜したことでしょう。
海に近く、風を利用出来、天然の要害の地。安徳台。
水田を潤すために裂田溝を作って水の供給を安定させた。

この安徳台を中心としてクニづくりをした、製鉄と土木建築に優れた民たち。
いくつかの渡来人の集団の技術を集めた複合都市のように見受けられます。
そしてここは那の国です。

安徳台は未開発で、畑があるだけなので、考古学的な発掘が期待されます。
2200年前の住居跡からは勾玉や青銅器の鋳型、鉄器や鉄片ほかが出土。
飛鳥時代の柱の建物あとなども見つかっています。
しかも物部氏の末裔である眞鍋氏は地元の伝承を書き残している。
日本書紀には轟の岡として登場している。

研究資料が揃っていて、古代社会のようすが総合的に明らかに出来る、
目を離せない場所になりました。
また日を改めて安徳台には行きたいと思います。

地図 風早神社





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by lunabura | 2011-05-21 14:55 | 風早神社・かざはや・那珂川町 | Trackback | Comments(2)

伏見神社(1)淀姫・豊姫は津波の暗号


伏見神社(1)
福岡県筑紫郡那珂川町
淀姫・豊姫は津波の暗号
裂田溝から南の山田の信号を左に曲がると、伏見神社はすぐにありました。

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那珂川の流れに沿った道路沿いです。

c0222861_16493650.jpg

道路から上がるとすぐに拝殿です。

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拝殿は古式ゆかしく堂々として、いかにも地元の氏神様らしいたたずまいです。

c0222861_16501419.jpg

扁額の色が青いのは珍しく、水に関する宮を思わせます。
古い絵馬が沢山奉納されていました。
ここにどうしても来たかったのです。ここから学ぶことが沢山あるので、
どこから手をつけて行ったらいいのか困惑するほどです。
参拝を済ませて、とにかく由緒書きを読んでみましょう。
伏見神社
鎮座地 福岡県筑紫郡那珂川町大字山田
御祭神 淀姫命 須佐之男命 大山祇神 神功皇后 武内宿禰

御祭神の組み合わせが珍しいです。神功皇后と武内宿禰のペアはおなじみで、
すぐ近くの裂田神社の伝承にも出て来ました。
かつては、ここから裂田神社まで神幸があっていたそうですから、
裂田神社と伏見神社は縁が深かったのですね。

主祭神の淀姫命について、さらに詳しく書かれていました。
御由緒 淀姫命神功皇后姫で干珠満珠を求め給う神徳の姫で、
欽明天皇25年11月1日、佐賀の里に川上大明神として鎮座されたが、
託宣によってこの地に遷座され、後、異国襲来にそなえ、
神功皇后、竹内宿禰と共に京都伏見御香宮を合祭して伏見大明神と称す。

ここの主祭神は淀姫命でした。
「淀姫」はヨド姫と読みますが、「豊姫」と混同されて呼ばれています。
ここでは神功皇后の姉と書いてありますが、ほかでは妹という説もあります。

今回は淀姫や豊姫の系譜の話ではなく、
この女神が何を象徴しているのかを整理したいと思います。

淀姫とはこれまでも何度か書きましたが、「ヨド七十」と呼ばれる、
有明海から筑後川にかけて、70年に一度起こる大津波の神格化でした。
「七十」という数字を「ヨド」と発音していた時代があった訳ですね。
ここから山脈を隔てた南の佐賀県の河上に與止日女神社があり、
そちらでも、ヨドとトヨと両方の名が使われています。
伏見神社の淀姫はその河上の淀姫が祀られています。

さて志式神社の神楽や高良山の伝承では豊姫は、
海神から干珠満珠を貰ってくれた女神でした。

高良山の玉垂宮神秘書では、イルウィが攻めて来たので、
干珠を海に投げると潮が引いて、敵が船から降りたので、
すかさず満珠を投げると潮が満ちて、敵が溺れたと書かれていました。

この話を聞いて「おや」と思った人も多いと思います。
今では、これが津波現象を暗示している事を私たちはよく知っています。
「干珠満珠」は「引き波と津波」を起こす珠なのです。

一方「日本書紀」では、神功皇后たちが朝鮮半島を攻めた時、
この干珠満珠のおかげで大波が起こって船が国の中に到達します。
新羅王はそれを見て、
「新羅の建国以来、いまだかつて海水が国に上って来たことを聞いたことがない。
これは天運が尽きて、国が海中に没しようとするのであろうか。」
とショックを受けます。
この記事も「大波」を「津波」と訳す方がよいのではないかと随分考えました。

こうして見ると「ヨド姫」「トヨ姫」というのは、
川や海で起こる津波の神格化だというのがよく分かります。

その津波を象徴する淀姫がどうしてここに鎮座したのでしょうか。
その疑問は地形を見るとすぐに解決しました。
神社の目の前の那珂川のすぐ近くまで、かつては海が迫っていたからです。
那珂川町は標高が20mほどで意外にも低地です。
奥まった地形なので、津波が発生すると、波の高さが増幅する地形です。

地図 伏見神社のある那珂川町と 川上大明神

那珂川町が狭い谷の奥にあるのが見て取れます。

実際、この近くの梶原では木造建築の跡が出土しましたが、
地震と津波で倒壊した状態で発掘されたそうです。
その震源地は新羅あたりだったとか。

淀姫が祀られたのは、津波がないように祈るためだったのがよく分かります。
そして後世の人には、ここまで津波が上がるので気をつけなさいと
伝える為の神社なのです。

そうすると豊姫や淀姫が祀られている神社は、かつて水辺にあった可能性大なので、
自分の町に、もしこの女神が祀られていたら、地形を調べ、伝承を調べ、
先人の教えがあるのではないかと考え、
防災を見直す「よすが」とすべきなのがよく分かります。
    
            (つづく)

裂田神社へ


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by lunabura | 2011-05-20 17:04 | 伏見神社・ふしみ・那珂川町 | Trackback | Comments(6)

伏見神社(2)櫛田神社から疎開した須佐之男社の御神体


伏見神社(2)
櫛田神社から疎開した須佐之男社の御神体


裏手にまわると、いかにも古社らしい風情の神殿と境内です。
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長い間の風雪に耐えたものだけが持つ美しさがあります。


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「あれは恵比須様かな!」
そんな声で見上げると、これは珍しい。お面がはめ込まれているような造りです。
恵比須様か大黒様ですね。

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こちらにはウサギが。神殿の装飾を見るのも楽しみの一つになりました。
「あ“~。あれは!高良下宮社と同じじゃない?」

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神殿の屋根近くに、大きな目で逆立った髪の毛の鬼らしき人面。(鬼面?)
高良下宮社の烏のような人面を思い出しました。
同じ時代に見られる建築様式なのでしょうか。
神殿を守る魔除けの働きをしているのでしょうね。

さて、今日の話は御祭神の中のスサノオの命についてです。

由緒書きを見ると、伏見神社にスサノオ命が祀られるようになった事情が
書いてありました。(現代語訳します。)
須佐之男命は天正年間、秀吉が島津を征伐する時、博多の市街が兵火にかかり、櫛田祇園の神社にも兵火が及ぼうとしたので、御神体を当社に遷し、博多住民も避難して移住した時から、祇園祭が行われている。

秀吉が九州にやってきた時に、博多が燃えたのですか。
その折、櫛田神社が燃えそうになったので、
スサノオ社の御神体をこちらに疎開させたんですね。

他の資料を見ると、その後、博多の街を復興するとき、
御神体は当社に残したままだったと書いてあります。

さらに慶安元年に今の場所に社殿を造営したとあるので、
江戸前期、1648年の建造になります。
江戸前期か…。この柱をくわえる鬼って、この時代の流行なのかな。
またまた、謎が生まれました。

この伏見神社では、7月14日にスサノオ命を祀る祇園祭があり、
岩戸神楽が奉納されます。
「岩戸神楽」というと、高千穂のものかと思うのですが、そうではなく、
この地には天照大御神が隠れた天の岩戸の片方が落ちたという伝承があるのです。
岩戸山は三輪山とそっくりの神奈備山の形をしています。
神楽には古い伝承が残されているかも知れません。また別の機会に調べたいと思います。

c0222861_1732241.jpg

境内にあった説明板です。

お祭りは他にも、11月15日の「お火焚き祭」がありました。
新しい暦が出来たことを祝う催事がここにも残っていたのですね。
(お火焚きについては、裂田神社に書いています。)
住民の力があってこその伝統です。素晴らしいですね。

岩戸神楽の写真集はこちら。(那珂川町教育委員会)
http://fushimi.nakagawamati.net/iwatokagura.html


高良下宮社の神殿の鬼面はこちら。「暗号に満ちた社殿」
http://lunabura.exblog.jp/16206942/
                      (つづく)




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by lunabura | 2011-05-18 17:07 | 伏見神社・ふしみ・那珂川町 | Trackback | Comments(2)

伏見神社(3)「伏見」の語源は「星の観察」・シリウスは地震津波を教える星だった


伏見神社(3)
「伏見」の語源は「星の観察」
シリウスは地震津波を教える星だった

境内にいると「道路の向こうに御神木がある!」と誰かの声。
見ると、巨木にしめ縄がはってありました。
参道を横切って車道が通ってるんだ…。

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こんもりとした茂みに入ると昔からの参道が残っていました!

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急な石段を降りるとその先は川。昔は船で乗り付けていたのでしょうか。

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振り返ると車道の向こうに一の鳥居が見えていました。

取水口
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これは伏見神社から裂田神社までの裂田溝を青で書き込んだ写真です。
この写真では伏見神社は左下にあります。
その神社の前に裂田溝の取水口はありました。
裂田溝は下の方から上の方に流れています。

「分かった。」と、地形を読んでいた奈東さんが教えてくれました。
「田畑を潤すには、那珂川が少し下流にあるので使えない。
だから上流から水を引いて用水路を作ったんだ。
しかも昔の那珂川は満潮時には潮水が上がって来るので、
真水が採れる上流の方に取水口を取っている。」

なるほど。干潟だった平地が陸地化しても、水がないと米は作れない。
目の前に川があっても引けなかったので、大工事をしたんだ。
傾斜を利用して、裂田神社の向こうまで流れるようにしてる。
1800年も使える水路。昔の人の地形を読む力はすごい。
そして人々は取水口を神聖な場所として祀ったんだ。

真鍋大覚氏によると、伏見神社の神殿の方位から計算して、
発祥は神功皇后46~69(246~269)年の間の造営と推定しています。
教育委員会の資料によると、神功皇后が三韓から戻って来て、
感謝のために伏見神社を作った伝承があるとも書いてあります。

ナマズ
取水口のあたりには名前が付いていました。由来書を現代語に書きなおすと、
鯰渕(なまずふち)
神社の前に流れる那珂川の「一の堰」より上流、伏見の渕、鐙(あぶみ)の渕、風拝(かざはい)の渕を総称して「鯰渕」と言い、「鞍掛鯰」の居るところ。

神功皇后の三韓征伐の時、背振山に登られ、灘の川を渡られた時、馬の鞍に魚が飛び上がり、皇后が「なまづめ」たいと言われ、その魚をナマズと名付けた。皇后が三韓征伐の船を出したとき、無数のナマズの群が船を抱き、水先案内をし、戦勝されたことからナマズを神の使いとされた。

ナマズは普段は姿を見せないが、天下の変事には現れる。元和元年大阪夏の陣、寛永14年島原の乱、明治27年日清戦争、明治37年日露戦争、大東亜戦争終戦前に現れた。


皇后のセリフがよく分からないのですが、「なま冷たい」ということかな。
相変わらず馬乗りの好きな皇后ですね。

日本書紀で「海の中の大魚がみんな浮かび上がって船をたすけた」という話が
ここでは「ナマズが船を助けた」ということになっていました。
前回は日本書紀の記事を「津波が起こった」と解釈しましたが、
ここでも地震を象徴するナマズの名で伝わっていました。

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神楽殿の上に奉納されたナマズの絵。

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伏見神社の前の「一の堰」(鯰渕)

伏見とは?
昔の人はどうやって時刻を知ったのでしょうか。
昼は太陽を見れば分かりますが、夜は星を見ました。
星の観測は水平線を基準として、昇って行く星、
あるいは反対側に沈んで行く星で測っていたそうです。

高殿から水平線を見ることから星の観測を「伏し見」と言ったそうです。
言いかえると、伏見とは「水平線に出入りする星を観察すること」となります。

特にシリウスは夜空の中で一番キラキラと輝く星なので、
真っ先に目に飛び込んできます。
星の名前を知らない人でもすぐに分かります。

夜明けに起きて観ると、シリウスは西の空にキラキラと沈みかけ、
夜寝る前に見ると東の空にキラキラと昇り、よい指標となりました。
その為にシリウスを「明けの星」とも、「宵の星」とも呼んでいました。

津波や地震が起こる時には、海面が静止した時に、
シリウスが水平線から離れる瞬間に上下互いに溶け合ったように、
連なったように見えるのだそうです。

高殿からこのシリウスをしっかりと観測していたようすが目に浮かびます。
これを見たら、みんなに高台に避難するように警報を出さねばなりません。

こんなシリウスを「ヨドの星」とも呼んだそうです。
すると、淀姫さまはシリウスの化身とも捉えられます。
朝晩に、いつも夜空で見守ってくれて、そして津波が来ること教えてくれる。
そして「どうぞ、津波が起こりませんように」と畏れられた。
淀姫さまとはそんな存在じゃないかな。

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「ズブさんのアイデア天体写真館」より戴きました。
http://www.ne.jp/asahi/suzuki/zubu/

夜空の中で一番大きく輝くシリウス
古代エジプトではナイルの増水を教えてくれる星として有名です。


ナマズと地震
海では外波の影響がない海淵を「沼津」「志登」と呼び、
星が揺らめく様子を観察して海の異変を観察していたそうです。
これが漢語の鮎魚(せんぎょ)と結びついて、
地震ナマズという説になっていったのではないかと、眞鍋氏は説明しています。

また砂鉄が真っ黒に浜辺に打ち寄せられるのも地震の前触れです。
黒く濡れた砂鉄の色から地震ナマズという言い伝えが生まれたことも
眞鍋氏は教えてくれています。

高天原(2) 砂鉄による地震予知の方法
http://lunabura.exblog.jp/13663273/





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by lunabura | 2011-05-17 12:41 | 伏見神社・ふしみ・那珂川町 | Trackback | Comments(3)

幣立神宮(1)ホピのメッセージ(1)


幣立神宮(1)
熊本県上益城郡山都町
ホピから日本人へのメッセージ(1)
6000年ぶりの幣立神宮の五色神祭に寄せて


1995年は幣立神宮の大祭の年でした。
その年には五色神面の開帳があり、木製の仮面を拝見する事が出来ました。
大きさや手法がそれぞれ違っていて、同一製作者によるものではありませんでした。
どの仮面も現代の日本人の顔を連想させるようなものはありませんでした。

五色人とは黄人、白人、赤人、青人、黒人の五種の人類を象徴するもので、
この年は世界の各地から五色人がこの宮に集う約束の年でした。

白人の代表となったジュディス・カーペンター女史は、オーストラリアで手に入れた二つの石の奉納先を探し求めて、この熊本の幣立神宮に辿り着き、石を奉納しました。もう一つの石はホピ族に奉納しました。

赤人で導かれて来たのはラルフークレイグ・カーペンター氏でした。
彼はアメリカでホピの長老と出会い、ホピのメッセンジャーとしての使命を教えられて、日本にやって来ました。その時の使命は、仲間である熊族と太陽族を日本で見つけることと、ビッグフットの足跡を見つけた人を探す事でした。そして幣立神宮に辿り着いたのでした。

たまたま私はこの二人がそれぞれに幣立神宮へと導かれる状況を傍から見ることが出来ました。

8月23日。約束の祭りの日に二人のカーペンター氏が白人と赤人の代表として集いました。黄人の代表は幣立神宮の氏子さんでした。あとの青人と黒人はやって来ませんでした。

拝殿から三人はそれぞれ参集者にメッセージを伝えました。

そして、数ヵ月後、ホピからのメッセージが幣立神宮に届けられたと聞いて、
再び訪れました。大晦日か、その前日でした。
それは日本人への特別なメッセージでした。
もう16年も前のメッセージですが、
これからの日本人の未来の創り方へのヒントが書かれています。

今回から、それを全文紹介したいと思います。

6000年ぶりの幣立神宮の五色神祭に寄せて
     ラルフークレイグ・カーペンター

 参拝された皆様には、特別なインスピレーションに従って参拝の労をいただき感謝申し上げます。皆さまの守護霊にも感謝申し上げたいと思います。

 こうして皆様の歴史上特別な本日の祭典に参列されたことが、お一人、お一人にとって重要であり、必然の出来事があったろうと思われます。

 母は私にラルフークレイグ・カーペンターと名付けましたが、年月を経て別の名が新たに与えられました。ラルフとは一匹で動き回る狼にちなんだ名で、クレイグとはごつごつした岩または人を寄せ付けない崖にちなんだ名前です。

カーペンターは木を使って道具や品物を作る大工さんを意味しています。特に家族や家畜を守るための家を作る人のことを指します。

 私の属するクラン(族)は熊ですが、父は水蛇または竜に属しています。沢山の鳥や動物や爬虫類、水辺の生物や虫たちが私をかわいそうに思ってくれて、メッセンジャーとしての私の仕事を支援してくれました。

 私の仕事はコロラド川近く、グランドキャニオン西側に住んでいる平和な人々ホピ族のメッセージを世界に伝達することです。

 5500年の人間の歴史のなかで、今のこの時は最も危機的な時代です。戦争勃発の恐怖、飢餓や病気、家庭崩壊などさまざまな不安があります。

ホピ族が生存しているという事実そのものが、平和というものが実現可能なものであり、本当に機能する真の民主主義が存在できるのだという事を、おのずと明らかに証明しています。

 私は混血のモホーク族で、モホークの言葉ではモホークのことをカナンヘヤーガといいます。北アメリカ(Amel-Rika=神々の国)のことをインディアンは「亀の島」と呼びます。私の出身地は五大湖の東の端にあります。

ホピは人間の歴史のなかで一度も戦争をしたことのない唯一の民族です。ホピの歴史は最後の洪水の時期やそのさらに先までも遡ります。

第二次大戦中、投獄されていたアメリカ人の良心的兵役拒否者は300人でしたが、その内、40人はホピ・インディアンでした。当時アメリカ市民の人口は5000万人でホピ族は7000人しかいなかったことを考えれば、ホピの人たちが精神的・倫理的に高い基準を持っていたことがわかると思います。

当時、日本の人口はアメリカの半分でしたが、日本では良心的兵役拒否者は30,000人でした。       
 (つづく)

※ホピ族の「ホピ」は「平和な人」という意味で、一切の戦いをせず、毎日四方に向かって平和の祈りをしています。戦わないという教えを守るために、兵役も拒否したために投獄されました。


幣立神宮 「あしこし九州」へ
http://www.ajkj.jp/ajkj/kumamoto/soyo/kanko/heitatejingu/heitatejingu.html




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by lunabura | 2011-05-16 12:40 | 幣立神宮・へいたて・ホピ予言 | Trackback | Comments(0)

幣立神宮(2)ホピから日本人へのメッセージ(2)


幣立神宮(2)

ホピから日本人へのメッセージ(2)
6000年ぶりの幣立神宮の五色神祭に寄せて


ホピ族が平和的で精神的な人たちであるという例をもう一つ挙げさせて下さい。投獄された良心的兵役拒否者として記録に残っているのが、ホピ族のトーマス・バニヤッカです。

トーマス・バニヤッカは過去50年間ホピ族の伝統派およびスピリチュアル・リーダーたちの通訳をつとめてきました。大変信仰心が篤く、メッセンジャーとしても活動的でした。現在および過去のホピ族の歴史について、またホピの道を私に教えてくれました。

この「花の国」または「日の昇る国」と呼ばれる日本が、この世界の始まりから今日に至るまで、役割を全うしてきたことに対して、見えない精霊たちに感謝を捧げたく思います。

この日本と言う国の大地と生命は、不安や利己的な欲望、殺人などの否定的なエネルギーに屈せず、このように完全に守られ導かれてきました。

見えない精霊たちのたゆみない誠実なる守護なくして、今日のこの素晴らしい日本を迎えることは出来ないことでした。

この美しくて素晴らしい日本と言う国に私を招き入れてくれたことに対して、見えない精霊たちに感謝したいと思います。

カラス、はと、きつつき、猿、かまきり、蛇、とんぼ、くも、スズメバチ、蝶などの生き物が協力してくれました。またインスピレーションの強い人たちが上手に私を導いてくれました。

こうしてこの地において熊族であり、私の親戚である熊襲の人たちに会えたこと、また、蛇族、クモ族、亀族、火族、太陽族、猿族など、今だに最初の教えを忠実に全うしている人たちに会えたことに対して感謝したいと思います。

インスピレーションを受けた人たちが、この最も神聖なる場所へ私を導いてくれたことに対しても見えない精霊たちに感謝したく思います。この大地と生命の精霊たちに感謝の供御を捧げたいと思います。

ホピの長老と出会って、ホピ族のメッセンジャーとして、日本にやってきたラルフ氏は、
『ホピの予言―大いなる浄化の日』という映画を製作した宮田雪監督と共に、
日本を移動し、福岡に来て、熊本の幣立神宮へと導かれて行きました。

その時は熊本は熊襲祭りで盛り上がっている年でした。
「熊族や太陽族に出会ったかどうかは、帰ってから分かるものです。」
とラルフ氏は言っていましたが、熊族と言えば誰でも熊襲を連想します。
まさしくその通りだったんですね。

ラルフ氏は「日本の見えない精霊たち」に感謝をしてくれています。
この精霊たちこそ八百万の神々の事で、神社や大自然の中に営んで、
私たち日本人の精神構造の形成に大きく関与してくれました。
それに気づくことは、ホピの文化もまた精妙な意識世界の上に成り立っている証しです。

思いがけないことですが、この熊本の地の熊の神は私の崇拝する神であり、この地の太陽の女神は私の崇拝する神であることが分かってきました。

最も崇高で最もパワフルな太陽の女神について言及するとき、わたしたちは恐れ畏み隠喩的な表現を用いますが、この大変古い社では、その女神の名が明らかに示され、公に祈り奉られていることに目を見張る思いです。

※幣立神宮の祭神の一柱に「天照大御神」がありますが、それを「太陽の女神」と言っています。
ホピ族は「あのお方」と言う風に隠喩で呼んでいます。
私たちは祖先による最初の聖なる教えに戻って間違いを正さなければいけません。最初の祖先の与えた質素で謙虚で、地に足のついた平和な生活方法に戻らなければなりません。

地面の中から貴重な鉱物資源を取り出す事を止めなければなりません。そうしなければ生命を支えてくれている水、土を汚してしまうのだという警告をすでに与えられていました。また太陽の光と熱も汚してしまうとも警告されてきました。 

※「貴重な鉱物資源」とは「ウラン鉱石」です。
ホピ族は現在、インディアン居留地に住んでいますが、本来住んでいた土地があり、
強制移動させられました。かつて住んでいた土地の地下にはウラン鉱石がありました。

そこは不毛で痩せた土地ですが、ホピ族を導く精霊マーサウによって、
そこを守るように言われて住んでいました。
「ここは地球の背骨である。人間が安全な使い方が分かるまで、決して掘ってはならない。」
という教えと共に。

白人が現れてそれを掘り出し、ひょうたんに詰めて、広島・長崎に投下しました。
ホピたちは自分たちの守って来た土地から奪われたものが爆弾となって
大地を焼き尽くした事に心を痛め、予言の警告する時が来たことを知り、立ち上がりました。

掘りだされた鉱屑は山となって放置され、現地は放射能汚染にさらされています。
彼らもまた放射能汚染の被害者なのです。
     (つづく)




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by lunabura | 2011-05-15 00:59 | 幣立神宮・へいたて・ホピ予言 | Trackback | Comments(0)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


by lunabura
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