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宮地嶽古墳・副葬品が外にあったのは何故?・出土状況が明らかに


宮地嶽古墳
福岡県福津市
副葬品が外にあったのは何故?
出土状況が明らかに

宮地嶽古墳について書くのは何回目かな。
あの巨大な金銅製の剣や美しい鐙(あぶみ)たち。

それらが発見された時には古墳の外にあったという不可解な話について、
綿密に聞き取り調査をした論文を福津市の文化財課から提供頂きました。
「筑紫・宮地嶽古墳の再検討」池ノ上宏・花田勝弘著
(『考古学雑誌』第85巻 第1号 1999.12)

これによって、副葬品が古墳から一度外に出されて、外に埋められたのが、
次々に再発見されていった経緯が分かりました。
今回はその論文を片手に宮地嶽古墳の周囲を歩きます。

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梅雨の大雨が上がった翌日に行くと、古墳の中は雨漏りがして、
床には水が溜まり、祭壇の灯が写っていました。
この古墳が開口したのは江戸時代です。

寛保元年(1741)に大雨の後に古墳が開口し、
延享4(1747)年に奥壁部に不動尊を祭る。
当時は床は0.9mほど土砂で埋まっていた。龕(がん)はすでにあった。

龕とは、岩を直方体に切り取った謎の穴です。左右にあります。
上の写真でも、左の岩の下の方にチラッと見えますね。

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明治35年の絵。穴不動と書かれている。石室の前面が露出している。
盛土だけで、現在の列石はない。
昭和3~4年。国宝の一群が数回にわたり出土し、主要なものは山斜面に埋められた。


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昭和5年に不動神社は宮地嶽神社に合祀される。
当時、宮地集落の氏子150戸が知られ、不動信仰が江戸中期から行われる。
列石が置かれ、墳丘に盛土がされる

古墳の周囲にはこのように列石が置かれて、崩壊を防いでいます。

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この年から東の丘陵上に不動明王立像群が祀られる。
社務所の横から裏の方に歩いて行くと、不動明王や観音像など、
沢山の石像が置かれていて、現在でも信仰が行われていました。

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昭和9年3月。社務所建設に伴い、傾斜面を55センチほど掘り下げたところ、
馬具・刀剣類が出土する。再埋納である。
出土品は石室に納められたが、社務所へ移動する。

写真は復元レプリカです。

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写りが悪いけど、再埋納されていた状態です。
馬具と太刀などが、きちんと揃えて埋められていたので、
古墳内で発見されたものが丁寧に土の中に埋められたのがわかります。

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昭和11年に西山村光寿斎師は筑紫舞が石室内で取り行われていたのを目撃される。
石室内は立って歩けるし、大人が10人ぐらい入っても平気です。
筑紫舞は大変古くから伝わる謎の舞ですが、
何と宮地嶽神社に受け継がれていました!今でも舞が奉納されています。
私がある日たまたま拝見した舞がそれなのかな。
今年も秋に舞われると聞いています。

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昭和13年2月にガラス臓骨器が発見される。
植樹に伴う作業中、表面下約一尺で偶然陶質の合わせ甕の一方の上底を掘り当てて、
その中から蔵骨器一具を得た。
内容器のガラス臓骨器内には焼骨片が残っていたようだ。
12月には石室から得たガラス板2点・金環1点が寄贈される。(金環は後に盗難)

臓骨器については、古墳内の遺体が、
ある時期に火葬されたのではないかというのが神社の見解でした。

昭和11・14年に馬具・刀剣類・ガラス壺の一群が旧国宝に指定される。

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昭和26年金銅製冠をパラフィンで固定し取り上げる。

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これは古墳の右から宮地嶽山頂に登る登山口です。
この道の先あたりに冠は埋められていました。

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平成8年に、池ノ上宏・花田勝弘両氏によって最奥まで実測される。
全長23.5~24mで無袖の横穴式石室の奥に広義の横口式石槨を設ける。
石槨は幅1.75×長さ3.5m。
玄室は長さ11.7m前後で、奥壁幅2.5~2.8m。高さ2.2~3.1m
左右に龕があり、左龕は長さ1.9m×高さ1.5m、奥行0.7m。
右龕は長さ1.9m×高さ1.3m、奥行0.7m。石材は恋の浦海岸の礫岩。

祭壇の奥に存在していた石槨が、この時初めて測量されました。
宮司さんの話によると、中に入ったら空が見えたとの事。
人を埋葬するには狭すぎるという印象だったという事です。
るな的には、龕の大きさと比較するとサイズが大きめなので、
木棺かまたは直葬なら置けるかもと思いました。

図の左から3枚目の所にある切り込みが龕(がん)です。
ここには左右に遺体が置かれていたというのが神社側の見解です。
被葬者については、
「決して宗像徳善ではない。現在でもここでは磐井の末裔を祭祀している」
との事です。

出土場所
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社務所の裏手から馬具類、火葬墓、山に登る途中から冠が出土。

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上の地図の「古墳」と書かれた辺りから東側を撮りました。
左が古墳の入口の御堂。正面が社務所。その裏の山が不動信仰のある所です。

何故出土が伏せられたのか
明治元年の「神仏判祭令」により、神社統制が厳しかった事と、
古墳を無断で掘り下げたのが、治安維持法に抵触する可能性があったため
と考えられています。

出土品を見るには
現在、古墳の被葬者のものと思われる蔵骨器だけが神社に返還されていて、
残りは全部九州国立博物館に展示してあります。

以上のことから、
江戸時代に大雨で開口した時は古墳の中は土砂でかなり埋まっていて、
その土砂を掻き出す時に副葬品が一緒に出され、
立派なものは周辺に丁寧に埋められ、
細かいものなどは山積みされた土砂の中に埋もれていたのが分かりました。

頭椎の太刀がぐしゃぐしゃになっていたのはこの為だったと分かって、納得。
謎が一つ解けてようやく安心です。


宮地嶽古墳について
 
宮地嶽神社(5)奥の宮不動神社(1)
巨大古墳だった。3mの頭椎の太刀はどうやって持つのよ。
http://lunabura.exblog.jp/14559788/


宮地嶽神社(6) 奥の宮不動神社(2)
ここには独立したクニがあったよ
大王を祀っていた新たな氏族を発見
http://lunabura.exblog.jp/14574444/


宮地嶽神社(7)奥の宮不動神社(3)
奉納された筑紫の舞と韓国のムーダンの舞
光さんがこの巨大古墳に奉納された二つの舞の話をしてくれました。
http://lunabura.exblog.jp/14592489/




地図 宮地嶽古墳(宮地嶽神社)



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by lunabura | 2011-07-31 18:30 | 宮地嶽神社と古墳・福津市 | Trackback | Comments(2)

若八幡神社(1)妹を殺された夏羽は…日本書紀の続きが伝えられていた


若八幡神社(1)
福岡県田川市夏吉
妹を殺された夏羽は…
ここには日本書紀の続きが伝えられていた


日本書紀の神功皇后の巻にこう書いてあります。
20日にソソキ野に着いて、すぐに兵を挙げて羽白熊鷲を討って滅ぼしました。皇后は側近に語って、「熊鷲を討ち取った。これで私の心は安らかだ。」と言いました。それから、そこを名付けて安(やす)と言うようになりました。

25日に移動して山門県(やまとのあがた)に着いて、即座に土蜘蛛の田油津姫(たぶらつひめ)を討ち取りました。その時、田油津姫の兄の夏羽(なつは)が軍勢を興して、迎え討ちに来ました。しかし妹が殺された事を聞くと、そのまま逃げました。

この話の舞台は福岡県の筑後地方です。
地元の伝承と日本書紀をまとめるとこうなりました。

仲哀天皇が殺された後、神功皇后軍は20日から羽白熊鷲と戦って勝利を収めた。
そして25日には田油津姫を攻撃するために小郡市上岩田の老松神社に布陣した。

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青い陣営の内、中央にあるのがその老松神社です。

わずか一週間で二か所の敵を攻撃するのですから、
神功皇后を旗頭に据えた物部軍の勢いはすさまじいものです。
天皇を殺された怒りと屈辱に護衛隊は怒髪天を突くという状態です。
御勢大霊石神社の伝承によると、
仲哀天皇は「熊襲」の流れ矢に当たって死んでいます。
「熊襲」については付近に伝承が見つからないので、
「熊鷲」の事ではないかと私は思っています。
だから、羽白熊鷲を猛攻撃するのに躊躇が無かった訳です。


でも、どうして?
どうして田油津姫までも攻撃されなければならなかったの?
老松神社がその時の陣営だと知った時、新たな謎が生まれました。

それについて日本書紀には何も書いていません。

しかし思いがけず疑問はわずか二日後に解けました。
この若八幡宮にその原因と結末が伝わっていたのです。

それではまずは神社に行きましょう。
ここは田川市夏吉。
気持の良い田園地帯を走ります。

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川の向こうにこんもりとした杜があって、すぐに分かりました。
一の鳥居は川に向かっていました。道路拡張の為に少し下がったそうです。

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かなり古そうな趣です。

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杜の緑陰の深さが、歴史の古さを思わせます。

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すぐに拝殿に出ました。
まるで江戸時代の寺子屋か武道場のような趣で、
大勢で参籠出来るような造りです。


この神社の由緒書きは一の鳥居の所に大きく立てられていました。
それを読んで驚愕。
人皇第12代景行天皇の熊襲征伐に際し、天皇を周防の佐波(今の防府市)まで出迎え、九州平定に寄与されたのが我が夏吉地域開発の祖神、神夏磯姫でした。

「榊の枝に八握剣、八咫鏡、八坂瓊をとりかけ、船の舳先に素幡をたてて参向した」と日本書紀には記されています。

年代は下がって、姫の後裔夏羽は朝廷に恨みを持ち、神功皇后の暗殺を企てた妹、田油津姫を援(たす)けんと軍勢を催してかけつける途中で、妹の敗戦を知り逃げ帰って館に立て籠ったところを、追って来た皇后の軍勢に焼き殺されました。(岩屋須佐横の洞窟との説もある)

それ以来、夏羽焼―夏焼とこの村が呼ばれる事になったのです。

夏羽(なつは)はこんな遠い所に住んでいた!
しかも、神夏磯姫(かむなつそひめ)の末裔だって?
あの景行天皇を迎えに行ったのはここからだった?

それに加えて田油津姫は神功皇后を暗殺しようとした?
何故?どこに二人の接点はあるというのか?

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(つづく)

御勢大霊石神社

老松神社




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by lunabura | 2011-07-26 00:34 | 若八幡神社・わか・田川市 | Trackback | Comments(4)

若八幡神社(2) 神夏磯媛と香春岳と新羅


若八幡神社(2)

神夏磯媛と香春岳と新羅

この神社の伝承を読んで疑問だらけになってしまいましたが、
まずは御祭神を調べましょう。
神夏磯媛(かむなつそひめ)
仁徳天皇
応神天皇
神功皇后
小笠原忠眞命(おがさわらただまさのみこと)

祭神は本来は「神夏磯姫」を祀っていたのが、
子孫の夏羽たちの怨霊鎮めの為に八幡神が勧請されました。

今回はこの神夏磯媛と夏羽の二つの時代を考えてみます。

景行天皇と神夏磯媛の時代
主祭神の神夏磯媛について、日本書紀の景行天皇の巻で確認しましょう。
9月5日に周芳(すは)のサバに着きました。その時、天皇は南の方を見て、群臣たちに「南の方に煙が沢山立っている。きっと賊がいるに違いない。」と言いました。

そこに留まって、まずは多臣(おほのおみ)の祖の武諸木(たけもろき)と国前(くにさき)の臣の祖のウナテと物部の君の祖の夏花(なつはな)を遣わして、その状況を調べさせました。

そこには女人がいて、神夏磯姫(かむなつそひめ)と言い、人民も大勢いました。姫は一国の首長という存在でした。神夏磯姫は天皇の使者が来る事を知って、すぐに磯津(しつ)の山の榊を抜き取って、上の枝には八握の剣を掛け、中の枝には八咫鏡を掛け、下の枝には八坂瓊(に)を掛けて、白旗を船の舳先に立てて、迎えて言いました。
「どうぞ兵を差し向けないで下さい。我らは叛くような者ではありません。今こうして帰順いたします。ただ服従しない者たちが他にいます。

一人は鼻垂(はなたり)と言い、勝手に自分は王だと言って山の谷に集まって、莵狭(うさ)の川上にたむろしています。
二人目は耳垂(みみたり)と言って、しばしば略奪してむさぼり食ったり、人々を殺したりしています。御木(みけ)の川上に住んでいます。

三人目は麻剝(あさはぎ)と言い、ひそかに仲間を集めて高羽(たかは)の川上に住んでいます。
四人目は土折猪折(つちおりいおり)と言って、緑野の川上に隠れ住んで、山川が険しいのを当てにして、人民をさらっています。

この四人は要害の地に住んでいて、それぞれに住民がいて、一国の首長だと言っています。それらは皆『皇命には従わない』と言っています。どうぞすぐに攻撃して下さい。時期を逃さないで下さい。」と言いました。

そこで、武諸木たちはまず麻剝の仲間を誘いこむ事にしました。赤い上着や袴や珍しいものをいろいろと与えて、かねてから服従しない他の三人を連れて来るように言いました。すると、仲間を連れて集まって来ました。武諸木たちは彼らを残らず捕えて殺しました。

天皇はついに筑紫に入り、豊前の国の長峡(ながお)県(あがた)に着いて、行宮を建てて住みました。そこを(みやこ)と呼ぶようになりました。
                    
これを読むと、この神夏磯媛のクニの周辺の山岳地帯に
四つほど小国があった事が分かります。
高羽は田川で、莵狭は宇佐だといいます。

まつろわぬ者たちが山岳地帯に住んでいるのは、
鉱山を中心に集落を作っていたのがクニとして発達したのであって、
彼らが人をさらうのは、鉱山の働き手を確保するためだと思っています。
事故が多いため、里人を拉致して働かせるのが手っ取り早い。

景行天皇が来たといっても、彼もまた小国の首長なので、
服従する気などさらさらなかったでしょう。

各国それぞれに鉱山を持っていて、それなりに均衡がとれていた時代に、
神夏磯媛だけが景行天皇に帰順した していたという状況です。
それでは神夏磯媛はどんな鉱山に関わっていたかというと、
この若八幡宮の前に立てば一目瞭然でした。

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神社の鳥居の向こうに、香春岳があったのです。
香春岳と言えば、先に書いたように銅山です。

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これは香春岳の全容です。
右の台形に削られた山が一の岳。祭神は辛国息長大姫大目尊
中央が二の岳。祭神は正哉吾勝々速日天忍骨尊
左が三の岳。祭神は豊比売尊。銅はこの三の岳から採れます。

香春岳の銅山は「辛国(からくに)」が象徴するように、
新羅系渡来人が開発したと伝えられていて、
その末裔に神夏磯媛の系統があった可能性は高いと思います。
神夏磯媛は彼女なりにクニの安泰化を図って天皇に帰順し、
豊かな国造りをしました。
これが景行天皇の時代です。

仲哀天皇と夏羽の時代
次にやって来た仲哀天皇は景行天皇の孫にあたります。
夏羽田油津姫兄妹も神夏磯媛の孫か曾孫に当たるのでしょう。

仲哀天皇と神功皇后が筑紫入りしたあと、この一の岳の向こう側に廻って、
鏡山大神社で鏡に皇后の御魂を鎮めて祀ったと伝えられています。
彼女が奉納するのは大体は銅剣などの武器ですから、よほど重要な山です。
他に鏡を奉納した所は、今のところ私が知っているのは唐津市の鏡山稲荷神社です。
(どちらにも白石信仰があります。)

神夏磯媛の時代は景行天皇が来ても、何とか丸く収めて、
この銅山の実質的な権利をそのまま継承して朝貢で済ませていたのが、
今度は仲哀天皇が来て銅山の権利や朝貢額を確認した上、
今度の戦争への負担を要求されたと思います。

この時応対したのが、夏羽だと思われます。
この時、夏羽側に不利で納得出来ない交渉があったと考えました。
ポイントは仲哀天皇の皇后もまた新羅の王統の血を引いているという点です。
その御霊を目の前で鎮められたのですから、
夏羽側は良い思いはしなかった事でしょう。

銅山経営者から見たら、仲哀天皇は利潤を掠め取るような存在です。
田油津姫がこの現場にいたかどうかは不明ですが、
神功皇后を暗殺しようという気持ちが生じたとしたら、
この香春岳についての利権の問題が絡んでいると考えられます。

田油津姫の暗殺未遂現場として、
「古賀市の小山田斎宮であり、そこで捕えられて殺された」という伝承もあります。
小山田斎宮と言えば、神功皇后が一週間祈祷をして神意を尋ねた所です。
ここに田油津姫がいたとしたら、かなり近しい関係になります。

小山田斎宮で殺されたとすると山門での田油津姫討伐は無いことになります。
山門での戦いの伝承もまた、かなり濃厚にあるので、
仮に暗殺未遂事件が小山田斎宮で起こったとしても、
彼女は山門に逃げて、そこが戦場になったと想像しています。

考えてみると、神夏磯媛から田油津姫にかけての時代は、
佐波から山門まで、かなり広い地域に影響力が及んでいた事になります。

物部氏と土蜘蛛たち
物部氏の分布図に「夏羽と熊鷲と田油津姫」を重ねてみました。
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赤い丸が物部氏です。黒い■が夏羽や熊鷲たちです。
こうして地図を眺めていると、
物部氏は遠賀川や筑後川流域で発展していき、隕鉄やスズ鉄を生産していたのが、
川が堆積して陸化して行ったために原料確保が出来なくなって行き詰まり始めた
状況が読み取れます。

一方神夏磯媛や鼻垂、耳垂、麻剝、土折猪折、羽白熊鷲たちは
山の方に住み分けして金や銅を生産し、
あるいは買い付けた鉄原料などを鍛冶生産していました。

川が陸地化して行く事が両者のバランスを崩し、
軋轢が大きくなって行った原因の一つになったと思われます。

しかも、韓半島ではすでに鉄鋼石を製鉄する時代に入っていて、
どんどん鉄製品が流通していきます。
庶民の農機具まで鉄製品になって行きます。
その人たちの一部が筑紫に入って来る時代です。

その韓半島では、紀元1世紀の首長の中には、
古墳の床に鉄の延べ板をびっしりと並べる者まで現れました。
(慶尚北道 舎羅里(さらり)130号古墳)

鉄は貨幣の代わりを成すようになり、
あらたな経済の枠組みが生まれようとしていました。
神功皇后が奉納して廻った青銅の武器は時代遅れになろうとしていました。

そんな時代の変化のうねりの中で、夏羽と田油津姫は殺されました。
倭国が香春岳の支配権を新羅から完全に断絶したとなると、
新羅本国との戦いは避けられない状況が生まれて来ます。
それまでにも豊浦宮では、仲哀天皇が新羅の襲撃を受けている事も
忘れてはなりません。

夏羽が妹を助けるために軍を起こした事は
物部軍に夏羽討伐の格好の口実を作ってしまいました。
そして夏羽軍が滅びた事は、天皇家の筑紫~筑豊の金属生産の
完全制圧という結果をもたらしました。
そして視線は海を越えて鉄の豊かな韓半島へと向けられました。

仲哀天皇を亡くして暴走する物部軍をもう制する事は出来ない。
神功皇后は新羅攻撃を拒否できない状況に立たされました。
このあと、神功皇后は筑紫の西の方の那珂川町へと連れられて行きます。
(現人神社、裂田神社・伏見神社)

(注。仲哀天皇9年を西暦200年として考えています。新羅がまだ辰韓だった時代です。
新羅は「社局」が母胎だと言われています。)

参考
舎羅里(さらり)130号古墳 紀元1~2世紀
新羅の母胎「社局」の近くで発掘された慶尚北道「舎羅里(さらり)130号古墳」
の記事と副葬品(韓国のサイトです。)
鉄の延べ板が63枚敷き詰められている。
 http://translate.google.co.jp/translate?hl=ja&langpair=ko%7Cja&u=http://www.yeongnam.com/yeongnam/html/yeongnamdaily/culture/article.shtml%3Fid%3D20100526.010200807020001
(つづく)




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by lunabura | 2011-07-25 16:22 | 若八幡神社・わか・田川市 | Trackback | Comments(22)

若八幡神社(3)夏羽と田油津姫は


若八幡神社(3)

夏羽と田油津姫は

さて、神社の由緒に戻りましょう。

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後に、夏羽の亡霊の祟りを鎮める為に、宇佐より八幡宮が勧請されましたが、(光仁年中1173~4年前)今の大宮司屋敷から現在地に鎮座されたのは慶長13年2月3日(375年前)の事です。

う~。夏羽は亡霊になったんだ。宇佐から八幡宮を勧請か…。
夏羽、納得したんだろうか…。八幡って、仇だよ。

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これは別の所から見つけた由緒書き。
この田川郡誌の中に、夏焼村は夏羽及び田油津姫の霊が崇りを成すので、最澄が香春宮参籠の折、八幡大神ニ座及び若宮を創造して神夏磯姫と合祀し奉り、六ヶ寺(慈光寺、竹林寺、恵光寺、当光寺、本台寺、安明寺)を置き、祭祀を司からしめたところ、怨霊が鎮まったと言うことである。

田油津姫も一緒…。
最澄がこの二人を鎮めたんだ。ここの近くの香春宮で参籠してる。
祖先の神夏磯媛と合祀して、六つもの寺で供養されて、鎮まったんだ。

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神社の由来書に戻ります。
現在は仁徳天皇(応神天皇の若宮)を合わせ祭る為に「若八幡」と、となえますが、これは平清盛が香春岳鬼ケ城の守護神として平家の氏神、仁徳天皇の神霊を京都の平野神社より香春岳の中腹に祭り、その後、いかなる理由でか当社に鎮座されたのです。

へえ~。平清盛も香春岳を重視してたんだ。
仁徳天皇を祀ったのが、合祀されたんだ。
「いかなる理由でか」という気持ちもわかるな。仇同士だもんね。
郡誌の方では、合祀したのは最澄だったみたいだけど…。

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江戸時代、小笠原藩祖・忠真公の巡国の折り、当社に参詣され、困窮のどん底にあった村民を救うため、色々の施政をされると共に、不吉な夏焼の村名を夏吉と、改称されました。

この夏焼の人々は首長が殺されてから、困窮してたんだ。
忠真公が施政をして、名前も夏吉と改称してる。
なるほど。名前は大事だよね。

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村民は以後の繁栄を感謝し、公の逝去の後、若八幡宮の相殿に公の神霊をお祭りして来ましたが、享和元年(182年前)朝廷に願い出て、輝徳霊神の神号と霊璽とを頂いたのです。当社の神紋が小笠原家の家紋と同じ三階菱であるのは以上の理由によります。   宮司 原田丈路  謹識

よかった。
政治をするって、こんな風にありたいものだな。

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鳥居の向こうには豊かな水田が広がっていました。



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by lunabura | 2011-07-24 19:55 | 若八幡神社・わか・田川市 | Trackback | Comments(2)

風治八幡宮・暴風雨を止めた神さま


風治八幡宮
ふうじはちまんぐう
福岡県田川市魚町
筑豊一之宮
暴風雨を止めた神さま
 


ナビに従って行くと、彦山川を渡って商店街に。
キョロキョロすると、左手に杜が見えるので、とにかく行って見ました。
アプローチが難しい神社は、お宮を中心に町が発展した印象があります。

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神社の入口は道路の角にありました。

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ひ、広い!
境内の写真はハレーションを起こして、真っ白です。

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拝殿です。
筑豊一之宮という事で、その風格は堂々たるものです。

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参拝を済ませて神殿の方にまわると、伊勢の神殿がありました!
当神社御神殿は、伊勢神宮より、第61回式年遷宮による、別宮「土宮」の古殿舎一棟を賜り、このたびの御造営に当たり、復元建築を致したものです。
平成8年9月 竣功 風治八幡宮(一部変更)

と立札に書いてありました。
この「風の宮」に「土の宮」が置かれたとは、陰陽バランスを取ったご配慮でしょうか。

広い境内にはいくつもの摂社もあり、ぐるりと廻ることができます。

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高台にあるので周囲の眺めがよく、香春岳が見えるスポットもありました!
香春(かわら)岳の一の岳は削られて台形になっていますが、
その向こうの二の岳と三の岳は三角形の姿を留めています。
香春岳と言えば古代から神が宿る三連山として、信仰を集めた神山です。
しかも古代には採銅所があり、奈良の大仏を作る時には、ここからも運ばれて行きました。

さて、この神社を参拝したのは、神功皇后の伝承があったからでした。
風治八幡宮由来
御祭神 応神天皇 仲哀天皇 神功皇后
    海津見神 豊玉姫命 玉依姫命

御祭神の初めの三柱は、親子三人が揃ってますョ!
親子三柱の組み合わせは案外珍しいかも知れませんね。

そして、残りの三柱は海の神と女神たち。
豊玉姫と玉依姫の姉妹が一緒に祀られているというのも珍しいです。
(すると、海津見神とは、二人の父の豊玉彦命かも…。)

さて、つづきを読みましょう。現代語訳します。
風治八幡宮は古くは伊田大神と言って、海津見神(わたつみのかみ)を祀っていた地主神だったが、神功皇后が征韓する時に、筑紫から穴門(山口県下関)の豊浦に戻る途中、にわかに暴風雨が起こったため、この神社の前の大石に腰を掛けて、身につけていた太刀を献上して、天神地祇と伊田大神に祈った所、暴風雨がたちまち治まって、つつがなく穴門に着いた。

それから後、弘仁5年6月、大旱魃(かんばつ)になって、五穀がすべて枯れようとした沖に、郡司が伝教大師に伊田大神に祈願してもらうと、雨が降って五穀が豊かに実った。

弘仁8年、伊田宮山の地に社殿を造営し、霊験あらたかな奇瑞を後世に伝える為に、風の一字を加えて「風宮」とし、蓮台寺・長松寿院の両院を開いて神宮寺とした。
のち「風治」と改称した。 (略)

伊田の神様は暴風雨を止め、また慈雨をもたらして人々を守っているのですね。

ところで伝教大師って最澄のことだよね。最澄も陸路を通って帰っていったのかな。
昔はいくつもルートがある訳ではないので、
神功皇后と同じ道を通った可能性があります。


腰掛石
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一の鳥居のすぐ左に「神功皇后御腰掛石」があります。

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近寄って見ると、座るのにほどよい石です!
昔は地面って、雨が降れば泥んこ道だったでしょうから、
このように石があると、ほっとして座った事でしょうね。

それにしても、こんな平べったい岩を見ると、
ついついドルメン石か古墳の石かと思ってしまうのは私くらいかなあ?

川渡り神幸祭
リーフレットを見ていたら、「川渡り神幸祭」の写真が!

c0222861_1111377.jpg

この神社の祭りだったんですね!
これは熱いぞ!
5月第3土・日曜日のお祭りだから、彦山川の水はまだ冷たい。
熱気がすごいですね。

祭の写真は[公式サイト]と[歴史散歩]から。
写真を見るだけでも熱くなります。

風治八幡宮 公式サイト
http://fuuji.net/

九州あちこち歴史散歩★風治八幡宮・川渡り神幸祭(1)
http://www.kyushu-sanpo.jp/matsuri/fukuoka/kawawatari-a/kawawatari-a.html


地図 風治八幡宮


さて、筑豊の逍遥は香春岳の近くの若八幡宮へ向かいます。




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by lunabura | 2011-07-21 11:15 | 風治八幡宮・ふうじ・田川市 | Trackback | Comments(2)

地震雲教室(第6回)のお知らせ


地震雲教室(第6回)のお知らせ 

真鍋大覚氏の「日本地震雲研究会」を受け継ぐ「新地震雲研究会」会員による「地震雲教室」です。

日時 第5回 7月23日(土) 午後6時~9時
       内容 近年に起こった福岡と九州の地震の前兆   

会場 自然食と喫茶 くるま座 (人数が多い時は変更があります。)
   福岡県春日市千歳町1-24 (JR春日駅から歩いて3分)

講師 中島 茂 (新地震雲研究会会員)
会費 500円

申し込み 電話で予約の上、お越しください。
 092-592-8903 (くるま座)

7月は1回だけです。
駐車場がないので、春日市 クローバープラザの駐車場や、
春日駅前100円パーキングを利用して下さい。

変更がある時には、当ブログに出します。最終確認をしてお越しください。
当ブログのカテゴリでは「地震雲教室」とします。

地図 くるま座












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by lunabura | 2011-07-19 20:32 | <地震雲教室> | Trackback | Comments(0)

正八幡神社・田原麿は仲哀天皇の熊襲征伐に馳せ参じた


正八幡神社
しょうはちまん
福岡県田川郡川崎町大字田原字宮山894
田原麿は仲哀天皇の熊襲征伐に馳せ参じた


飯塚から山越えをして田川へ。95号線を下って川崎町へ入りました。
正八幡宮は近いはずなのに、地図が上手く読めずに行ったり来たり。
川を見ると向こう岸にこんもりとした森があったので、
とにかくその森を目指して路地を入って行くと、突き当りに神社はありました。
一の鳥居は川に向いて立っていたので、
なるほど、車では見つけにくい位置にありました。

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一の鳥居を撮っている私の後は川です。

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ニの鳥居。広々とした境内に木陰が心地いい。

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その先にお城のように堂々とした社殿がありました。

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石段を上ると、大きな拝殿に出ました。

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参拝を済ませて振り返ると楠の巨木。
ほんの少し高台にあるだけで、とても視界がいいです。

田原麿
この神社に来た目的は「田原麻呂」ってどんな所に住んでたのか知りたかったから。
「タバラマロ」と読みます。
田原麿仲哀天皇が三韓征伐に向かうと聞いて
この遠賀川の奥まった地域から参戦したんです。
どんなつながりがあったのかも知りたかった。

川崎町誌から
祭神 応神天皇・仲哀天皇・神功皇后
由緒 社伝。神功皇后が三韓の遠征から都に帰る途中、穂波郡大分(だいぶ)で軍隊を解散して将士を郷里に帰らせたとき、その中に田原麿という人がいた。この人は正八幡近くの城山に居を構え、この一帯を領していた。

そののち貞観18(876)年のこと、田原麿の子孫、田麿という人が、神託によって宇佐宮から神霊を勧請した。その神託は次のようなものである。

田川郡位登郷の楠の森は、我が母・香椎明神(神功皇后)が三韓に出兵したときに従ったときに田原麿が住んでいるところである。我はこれにちなんで、穂波の本宮(筑穂町大分八幡宮)に行き通うたびに休息し、また宿るところであった。なんじ田麿、我のために宮を造ってまつれば、我はそこに鎮まって領民の安穏を願うものである。

神殿の梁の下に弘和年(南朝年号、1383)にこの地に移して再建したと記している。古宮の地は村の東にあった。

この社伝には「田原麿と田麿」という、時代が違う二人が出て来ます。
時間順に並べ直してみると、
田原麿は近くの城山(もしくは位登郷の楠の森)に住んでこの地を治めていたが、神功皇后の三韓遠征の時に遠征軍に従って行って,(2年後には)戻ってきた。

それから600年以上経ってから、子孫の田麿に神託があった。それは応神天皇の神霊からのもので、「神霊は宇佐八幡宮から本宮の大分八幡宮に行き通うたびに、母と田原麿の縁にちなんで、旅の途中に位登郷の楠の森で休息していたが、自分のために神殿を建ててくれたら、領民を守護しよう」という内容だった。

そこで宮を建てて、のち1383年に現在地に遷宮した。

という事になりました。なるほどですね。

田原麿は「神功皇后の三韓征伐」に参戦となっていますが、
そもそもは「仲哀天皇の熊襲征伐」なんですね。
最近思うのは、神功皇后の人気の高さに、仲哀天皇は影に隠れてるなってこと。

美人のお妃さまが人気なのは昔も今も同じで、
英国王室なんか、チャールズ皇太子より、亡きダイアナ妃の方が
多く語られてる。

この仲哀天皇の熊襲征伐も、仲哀天皇の崩御ののちは、
神功皇后の新羅攻撃に実態が変わってしまって、
後世の人は皇后の三韓討伐にしときましょというムードになったみたい。

新羅だって時代からすると違うみたいだし。ホントややこしい。

大分八幡宮って何なのだ?
さてこの社伝で興味を持ったのは、宇佐八幡宮の祭神の応神天皇の神霊が、
大分八幡宮へ通っていたという事。

大分八幡宮は筥崎八幡宮の元宮であり、宇佐八幡宮の本宮でもある」

とても重要なお宮だという事が次第に分かってきたのですが、
大分八幡宮って遠賀川流域の奥まった所で、
地形的に何が有利だったのか、今だに分からない。

奥まり過ぎて、中国や韓半島などの海外との交流から取り残されて、
時代の発展の流れから、はずれそうな印象なのです。
しかし筥崎宮の古地図を見ると、そこから大分宮への道が示されていたりする。
いろんな所から大分宮に視線が集まっている。何でだろう。

神功皇后の軍勢はその大分宮で解散しています。
この正八幡宮は、この時解散したメンバーの一人の名前が
具体的に残っているという点で、とても驚きかつ喜んだ神社でした。

川崎の杖楽
案内板を見ると、この正八幡宮には有名な杖楽がありました。
県指定無形民俗文化財
川崎の杖楽(つえがく)

鎮西八郎為朝が久寿元年(1154年)に豊後臼杵から田川郡勾金の南大原に遷り、鎮西原城を築き、豊前の国に君臨した当時、正八幡宮の御神徳に感じ、杖、神通鎌四十八手の技を正八幡宮の社前に奉納し、武運長久と源家の興隆を祈念したのが田原正八幡宮杖楽の起源であるという。

毎年の神幸祭に当り、お庭借り神事の後、男子数十名が白鉢巻、白たすきの勇壮な姿で四十八手を次々に奉納する。神通鎌は久安年間に鎮西八郎の寄進したものという。
杖楽殿は鎮西八郎が武門の技を神前に奉納した時、建立したもので、その後、幾変遷かあって今日に至るものである。
    昭和55年10月吉日
福岡県教育委員会 川崎町教育委員会 杖楽保存会

八幡さまという事で武門の信仰が厚く、今なお伝統が残されています。
杖楽 四十八手か。いいなあ。
川崎に生まれた少年たちはこんな素晴らしい武道を体験できるんですね。

お祭りの写真は
ふくおか民俗芸能ライブラリー
http://www.fsg.pref.fukuoka.jp/e_mingei/detail.asp?id=84-9

に出ています。

地図 正八幡宮 大分八幡宮 宇佐八幡宮 筥崎八幡宮






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by lunabura | 2011-07-18 22:40 | 正八幡神社・しょう・田川郡 | Trackback | Comments(6)

撃鼓神社(1)太鼓と笛の神さまと乳の池と神功皇后


撃鼓神社(1)下宮
げっこじんじゃ
福岡県飯塚市中
太鼓と笛の神さまと乳の池と神功皇后


九州自動車道、若宮インターから30号線で飯塚市に入り、
井の浦口バス停から山の方に入ると撃鼓神社の一の鳥居に出ます。
「中一獅子舞」と書かれた青い幟旗に導かれて神社の前に出ました。

「撃鼓」は「げっこ」と読みます。
「鼓を打つ」の字の通り、鼓や笛の神様が祀られています。
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石段を上ると、あれあれ。
正面と左に鳥居があって、どちらの扁額にも撃鼓宮と書かれています。
正面の方はさらに石段があって、古そうです。

左の方は境内全体が見えて、様子がわかったので、
とりあえず左の方から参拝する事にしました。

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山際にたくさんの祠があって、昔の姿を留めています。
かなりの古社で、しかも繁栄していたようすが伺えます。

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わずか2日前にこの神社の存在を知りました。

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いつか行ければいいなと思っていたのですが、
思いがけずこんなに早く参拝出来ました。

「福岡県神社誌」を見ていて、この神社を知りました。
関係ある所だけ書き抜くと
祭神 天太玉尊、天児屋根命、細女命(うずめのみこと) 
創立年代は太古で分からない。
神武天皇が東征する時、また神功皇后が三韓征討に行く時、祈願した事が旧記に載っている。
王谷郷(幸袋町の旧名)の産土神である。

三柱の祭神は天の岩戸の前で占ったり、祝詞をあげたり、踊ったりした神々です!
そのお蔭で天照大御神が再び岩戸から現れました。
その後、この三柱はニニギノ命の降臨に随伴しています。

神武天皇も神功皇后もここにやって来て祈願しているとは。
しかも、かつての地名は「王谷」という。
古代には天皇家が頼りにしているクニがあった事が想像されます。
それを納得させる風格を備えた神社です。

神功皇后の神楽部を指導した神々
「ふくおか民俗芸能ライブラリー」
http://www.fsg.pref.fukuoka.jp/e_mingei/detail.asp?id=6-1によると、
古い伝えによると、上宮は白旗山中腹にあり下宮が山裾にあって、古くは上宮を鼓打権現、下宮を笛吹権現とよんでいた。この両権現は神功皇后が三韓出兵の際の神楽奉納で、囃子の太鼓、笛を指導した神だといわれている。撃鼓神社の佐伯家文書には、「神楽」という文字が見られる。

とあります。かなり具体的に話が残っていました。

神功皇后は福岡の各地で神楽を奉納しているけど、
ここの神々が太鼓と笛を指導していたとは!
そりゃあ、仲哀天皇の周りに音楽奏者がいるのは
考えてみると当たり前の事だけど、盲点だったなァ。

クニが違えばリズムやメロディーは違うはずだけど、
撃鼓神社の神楽を聞いて、
神功皇后たちはいっぺんで好きになったんだろうな。
芸能が盛んだったと言う事は背景に豊かな経済力があったという事。
ここを「王谷郷」というのだから、よほど大きな王国があったんだろう。

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拝殿の中も神楽が奉納出来る構造になっていました。
これまでは神職によって神楽が伝えられていたのが、
老齢化により、氏子全体で伝えるようになったとか。
是非とも、後世にまで伝えてもらいたいものです。


乳の池 神功皇后が祈ったのは
境内の中には摂社がいっぱいあったのですが、
右側に廻ってみると、石に字が彫ってあるので読んでみて、びっくり。
乳の池
神功皇后が新羅征伐より御凱旋の後、筑紫のカダにて皇子(応神天皇)を御生みになって、大分宮を経て行く時、親しく当宮に白旗八流を納め、奉斎されて、また産衣  り、池の水を汲んで、授乳の祈願をされてから、この池を乳の池と呼んで、産婦の乳が少ない時、池の水を汲んで祈願をすれば直ちに霊験がある。いにしえより、遠近の祈願が絶えない。

神功皇后は帰り道にも、ここに立ち寄ってる!
この小さな池の水を汲んで、お乳がよく出ますようにと祈ったんですね。
そして、白旗を八流奉納しています。
それでこの山を白旗山というんだ。
皇后は何カ所かで幡を八流奉納していますが、
実際にその神社に出会ったのは初めてです。

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御神木は大きな楠です。
高く高く伸びて枝葉を茂らせていました。

下宮を参拝した後、上宮へも行ってみました。  (つづく)






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by lunabura | 2011-07-14 13:48 | 撃鼓神社・げっこ・飯塚市 | Trackback | Comments(4)

撃鼓神社(2)上宮・白旗山の中腹にある上宮へ


撃鼓神社(2)上宮

 白旗山の中腹にある上宮へ
 

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こちらが撃鼓神社の正面の鳥居です。いかにも山に登っていく感じです。
木の生い茂る参道はどうなっているのでしょうか。

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石段の上に鳥居が見える!
長いけど、行かないと後で気になってしかたがないに違いない。

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しばらく開けた山道を歩くと、さらに長い石段。
これを上ったら上宮だろうか、また石段だろうか…。

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出た!上宮だ!
20m×30mほどの広さの、何もない境内の奥に祠がありました。

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参拝を済ませると一斉に蝉の声が頭上を覆ってドームのように鳴り響き始めました。
まさに撃鼓の名のごとく。
聞いたことのない蝉の声。そう言えば今年は蝉の声を初めて聞くみたい。

何もない境内。こんなシンプルさは大好きです。
白旗山の中腹とはいえ、ここは小さなピークになっていて、周りは絶壁でした。
あっ、おんなじだ。
そう、那珂川町の風早神社とおんなじ。規模が倍になっただけ。

木がなければ下から風が吹いてくる。
ここも製鉄か製銅が行われていたのかもしれない…。
その生産力が豊かさを生みだし、神楽の技能に取り組む余力を生み出した。

仲哀天皇と神功皇后はここの神楽を聞いて感動した。
「是非ともわが楽隊を指導してほしい。」
そんな会話があったのだろう。
撃鼓の王はこの誉れを喜んだ。
太鼓と笛の演奏者にその場で技術指導させたかもしれないし、
もしかしたら、楽隊に参加させて随行させたかもしれない。
だから、神功皇后は帰り道にもここに立ち寄った。
行きは夫と共に。帰りは皇子と共に。
たった2年の月日は彼女の運命を大きく変えていた。

そんな事を考えながら石段を下りて行くと、
下の鳥居の所でぴたりと蝉の声が止みました。
あれほどの数が一斉に鳴きやんだ不思議。
あとで山友達にその話をしたら「春蝉」ではないかと教えてくれました。
そうやって一斉に鳴き始めて、一斉に鳴き止む習性があるそうです。
なるほど。そんな春蝉を初めて聞いたんだ。
確かに、夏蝉とは違ってやさしい響きだった。

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最後に下宮の境内を振り返ると、金色に光る文字が見えました。
「主基斎田」(すきさいでん)に選ばれた栄誉を伝える昭和56年の記念碑でした。
天皇家に献上するための米を作る神田に選ばれたんですね。
この知らせには町中が湧きたっただろうな。
遠賀川の豊かな水は斎田を潤し、黄金の実りを与えてくれた。
豊穣の田を吹き渡る風が目に浮かびます。

さて家に戻って、撃鼓神社の場所を地図で改めて見直すと、
宮の北西3キロにニギハヤヒの笠置山があり、
南東3キロには膨大な量の鏡を誇る立岩遺跡がありました。
かなり気になる場所に位置していましたよ。

この王谷郷も丹念に歩けば王たちの古墳に出会えるかもしれない。
ここに伝わる神楽には王たちの記録は残っていないだろうか。
神武天皇や仲哀天皇を支えたクニの一つがここにある。
よほど大きなクニなのだ。その実態は明らかにされているのだろうか。

白旗山の古代に心を残しながら、次の神社に向かいました。

地図 撃鼓神社 立岩遺跡 笠置山(ニギハヤヒ)






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by lunabura | 2011-07-13 23:26 | 撃鼓神社・げっこ・飯塚市 | Trackback | Comments(0)

若宮八幡宮・「三十六歌仙絵」


若宮八幡宮
福岡県宮若市水原395
岩佐又兵衛の「三十六歌仙絵」があった宮
古代の交通の要衝


宮若市は福岡~犬鳴峠~北九州の東西ラインと
宗像~見坂峠~飯塚の南北ラインの交差する所にあります。
古代からの交通の要衝です。
その交差する中央点近くに若宮八幡宮はあります。

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「若宮八幡宮」という小さな信号機からまっすぐ進むと、突き当りに神社は見えます。
如何にも古社らしい風情は遠くからでもすぐに分かりました。

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小さな池にかかる太鼓橋を渡ると、時を経た狛犬や手水舎などがあって、
次第に歴史の深い層に入っていくようです。

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神門があります。江戸時代だぁ。

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神門に掲げられた山笠の札を見ると祭りの熱気が伝わって来ます。

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拝殿の中を覗くと床几が沢山並べられていて、
祭りの神事で参拝する若衆たちの神妙な後姿が目に浮かぶようです。

参拝を済ませて、振り返ると案内板がありました。
若宮八幡宮の岩佐又兵衛筆の「三十六歌仙絵
岩佐又兵衛勝以(かつまさ)(1578~1650)は江戸時代初期に活躍した著名な画家で、浮世絵の祖といわれ、屏風絵や絵巻物などに優れた作品を残している。

この若宮八幡宮の「三十六歌仙絵」は豊頬長顎と呼ばれる又兵衛独特の人物表現がみられ、各画面に又兵衛の用いた印章が押されているところから、又兵衛真筆の作品であることがわかる。

彼は「三十六歌仙絵」を得意にしていたが、36人ともそろっている作品は仙波東照宮(埼玉)の扁額とこの作品の二組だけである。またこの作品に描かれた歌仙の組み合わせは非常にめずらしく、又兵衛の歌仙絵の中でも、代表作のひとつといえる貴重なものである。

この歌仙絵は役場の金庫に保管されていたものを改めて鑑定してみて、
作者が分かったそうです。昭和60年の事です。
新聞でもかなり大きく報道されたので印象に残っています。
その写真は拝殿の壁に展示されています。本物は福岡市美術館にあるそうです。
ここに何故この絵が来たのか、いろんな謎解きがされています。
調べるの、面白そうですね。
(でも江戸時代はパスしよう。るなは弥生人ではないかと最近思う。)

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これはいくつもあった古木の中でも群を抜いて長寿だったクスノキです。
いきいきと葉をつけていて、とても元気です。幾久しく栄えたまえ。


そうそう、肝腎の御祭神は
応神天皇、仁徳天皇、神功皇后、武内宿禰
です。
このブログで何度もお目に掛る顔ぶれですね。

祭神に関する縁起は残っていないようですが、
ここは仲哀天皇神功皇后遠賀川流域から香椎宮に向かう時に、
通ったルート上にあります。
だから祭神の内、神功皇后と武内宿禰はここに来たに違いないと思っています。

鞍手から白山嶺を超えてようやく平地に下りて来た所にこの宮があります。
ここから先は見坂峠という難所が待っています。

鞍手郡から香椎宮にかけて神功皇后伝説のある神社を載せてみました。
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見事に古代の道が浮かんできました。
鞍手郡は物部氏の本貫地と言われていますが、
鞍手郡誌によると、弥生時代から古墳時代にかけては
ニイギタ物部が中心だそうです。地名にも「新北」が残っています。

こうして仲哀天皇の遷宮のルートを整える準備は大変だったはずです。
言いかえれば、このルートは物部氏が抑えているルートなのですね。

日本書紀によると、一行は仲哀8年1月21日に香椎宮に着いているので、
真冬の山越えです。今でも雪が降ると通行止めになるような所です。
雪解けを待たずに移動したのは何でだろう。
福岡って夏は草木が生い茂るから、夏は大変だもんね。
古代の人には雪なんて大した事でもなかったのかな。
知れば知るほど、新たな謎が出て来ます。




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by lunabura | 2011-07-12 18:14 | 若宮八幡宮・わかみや・宮若市 | Trackback | Comments(2)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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