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神功皇后伝承を追って


神功皇后伝承を追って


最近は神功(じんぐう)皇后の足跡を追っています。

飯塚市(いいづかし)から京都郡(みやこぐん)にかけては
お乳を飲んでいた皇子が両足で立つまでのようすが伝わっていて、
母としての神功皇后を見ることが出来ました。

撃鼓神社 ⇒ 日若八幡神社 ⇒ 位登八幡神社 ⇒ 生立八幡神社 

今回からは時間を遡って、戦う神功皇后の姿を見て行きます。

ずっと前に小郡市の老松(おいまつ)神社まで行った時、知ったのは
皇后軍が羽白熊鷲を討ったあと、
ただちに田油津姫(たぶらつひめ)攻撃のための陣営をそこに置いた事でした。

その時私は、神功皇后は陣に残って戦況を見守っただろうと想像しました。
物部軍は仲哀天皇を亡くしたあと、
まさか危険な戦地に皇后を連れては行くまいと。

どうやら私は甘かった。

筑後川流域の神社を調べて行くと、神功皇后の名前があちこちに出て来ました。
まさか、船に乗ってそこまで行く?
本気で戦っている…?

彼女がそうまでする理由を探しに、田川郡に行って見ると若八幡神社
「田油津姫が皇后を暗殺しようとして失敗した」という伝承がありました。
暗殺実行場所は古賀市の小山田斎宮ここは仲哀天皇の死後、極秘に少人数で神掛かりをした所で、護衛も手薄。

そこで事件が起こったとすると、皇后が激昂するのはよく分かる。
若八幡神社の伝承では「ここで直ちに田油津姫は殺された」となっているけど、
山門で戦ったとなると、彼女は密かに脱出に成功したという事になる。


田油津姫は香春岳を中心とする遠賀川流域と
羽白熊鷲の秋月と
筑後川流域の山門郡(やまとぐん)を挟む山岳地帯で
緩やかに連合する広大な国グニの頂点に立った姫神だったのかもしれない
と思うようになりました。

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田油津姫は何故に神功皇后を殺そうとしたのか。

筑紫の頂点にたつ姫神が小山田斎宮に連れて来られている事自体が
その手掛かりになる。
一種の人質だ。田油津姫は忠心を装った。屈辱に耐えた。

そして仲哀天皇が死んだ。
皇后も死ねば、ふたたび自分の国に帰れる。
護衛が少ない今がチャンスだ。

そんな事でも考えたのだろうか。

しかし暗殺は失敗し、羽白熊鷲は討たれ、
皇后軍は田油津姫を追って山門に進軍してきた。

これが今のところ考えられるストーリー。
でも行って見ないと分からない。

という事で、次回か筑後地方の五社を廻ります。
これまで通り、一社ずつ見て行くので、
小説を読むように、このストーリーの続きがある訳ではありません。







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by lunabura | 2011-08-26 16:35 | <神功皇后伝承を追って> | Trackback | Comments(2)

鏡山大神社・神功皇后は御霊を鏡に鎮めた


鏡山大神社
かがみやまだいじんじゃ
福岡県田川郡香春町鏡山南原705
神功皇后は御霊を鏡に鎮めた
 
福岡市と行橋市(ゆくはしし)を東西に結ぶ201号線。
今回は行橋市の方から福岡に向けて走りました。
途中、仲哀トンネルという長いトンネルを通って行きます。
この「仲哀」という名前が何故ここにあるのかずっと不思議でした。
仲哀天皇は香椎宮で亡くなっているので遠いのです。
しかし、このトンネルを抜けると香春岳が見えたことで、
謎が解決しました。
仲哀天皇と神功皇后は筑紫入りしてすぐに遠賀川を遡って、ここまで来ていたのです。
ですから、ここに仲哀天皇の名が残ってもおかしくなかったのでした。

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201号線沿いに銅の鳥居が立っています。さすが採銅所のそばです。銅製です。
正面の小さな丘の上に目指す鏡山大神社があります。
左に見える山裾が香春(かわら)岳です。

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丘の麓に着いてみると長い石段が待っていました。

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さあ、何回休憩したら着くのかな。
ところが、数歩登ったとたんに、あれ?この石段何だかすごい。
ちっとも疲れない!
見ると表面はデコボコのノミの跡を残してすべらないようにしています。
段差がちょうどよくて、スッスッと助けられるのです。
極上の登山靴を履いている感じ!もしかしたら、休憩なしで登れそう…。
そして、本当に楽々と一気に上ったのでした。
すごい。石工の技術がすごい。
これまで経験したことのない人体工学に基づくような石段だ!
日本中の石段がこうなると楽ちんだ!
と、感動しながら最後は小走りで境内に着きました。

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風雪に耐えるようにコンクリートでできた神拝殿です。

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これが正面。しめ縄が一直線で独特です。

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神殿を裏側から。
この広さでこの斜度はやっぱり製鉄か鍛冶のあと?

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ところが、もしかしたらと思って香春岳を探しました。
ここは香春岳の遥拝所じゃない?
樹木が茂っているので、このアングルだけ香春岳が見えました。
木がなかったら三山が見えて遥拝するのに最適の場所でした。

ここの神社の始まりは仲哀天皇と神功皇后でした。
石碑に書かれていた由緒書きです。現代語に直します。
仲哀天皇神功皇后と共に熊襲を御征伐になられたが、やがて陣中に崩ぜられた。皇后は熊襲が叛いて服従しないのは新羅の後援によるものであるとして、みずから男装して舟師(船長)をひきいて、新羅に向かわれた。

その途中で此の岡に天神地祇を祭り必勝を祈願し、皇后の御魂を鎮めた御鏡を祀り、崇めたのが御社の草創と伝えられる。祭神は神功皇后を主神とし、後に仲哀天皇を併祀された。

皇后御鎮座(西紀270年)より此の方1700余年を閲する御宮居である。
昭和63年1月吉日 宮司 鶴我盛仁

この鏡山大神社は神功皇后の御魂を鏡に鎮めて祀ったことが始まりでした。
私が驚いたのは、彼女が鏡に自らの御魂を鎮めたという点でした。

皇后はあちこちで天神地祇を祀っているのですが
奉納するのは剣や鉾、甲冑などの武器のたぐいです。
鏡を奉納したのは他に知っているのは唐津市の鏡山ぐらいかな。
唐津の方では神社の裏手の急坂の盤座群と稲荷社から鉄器製造の地と見ました。

そして、こちらの香春岳は銅山です。
新羅からの渡来人が採掘を始めました。
この話、前にも書いたのですがそれは若八幡神社の所でした。
夏磯姫と夏羽と田油津姫の神社です。
その若八幡神社こそ、香春岳の向こう側にあるのです。

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仲哀天皇と皇后は地図の左の方から船でやって来て、
一の岳を南を廻ってこの鏡山大神社まで来たという事になります。

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これは東から見える香春岳の三山のようす。
山の向こうは古遠賀湾。左の方に神夏磯姫の若八幡神社があります。
(この神社は後に現在地に移動しています。)
神夏磯姫がこの一帯を治めていました。その子孫が夏羽や田油津姫です。

仲哀天皇がここに来た時に出迎えたのはこの二人でしょう。
この時天皇側は出兵や武器の提供などを要請したと思われます。
そして田油津姫が神功皇后を暗殺したいと思うようになった
何らかの事件があったのだと思われます。

三の岳から銅が産出されました。
銅を溶かすのに必要な坩堝(るつぼ)の産地は
松浦郡と久留米市の高良山にあるのが分かりました。
どちらも皇后の伝承が残る所です。
戦うためには武器や船が必要なので、
その生産地を巡るあらそいが更に戦いを呼ぶのでした。

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知れば知るほど古代史の闇の部分も見えてくる哀しい気分の時に、
遭遇した狛犬くん。元気だな~。曲芸してる?

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一の岳を背景にこちらはポーズ。
癒してくれますね~。

地図 鏡山大神社 若八幡神社





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by lunabura | 2011-08-24 22:53 | (カ行)神社 | Trackback | Comments(4)

生立八幡神社・おいたつ・皇子が皇后の膝に手をかけて立ち上がった


生立八幡神社
おいたつ・はちまんじんじゃ
福岡県京都郡みやこ町犀川生立7
皇子が皇后の膝に手をかけて立ち上がった

位登八幡宮から生立八幡神社まで20キロとナビに出た。

車は東へ東へと山を越え、川を越えて行った。
古代の川越えは苦労しただろう。
下流は川幅が広いので、出来るだけ上流を歩いて渡った方が楽だ。
だから、古代の街道は思いがけないほど山の方にある。

ナビが途中で左に曲がれと指示するが、示された道路が狭くて
「まさかここで曲がる?」と思ううちに何度も曲がりそびれた。
山の中を走り続け、ついに開けた平野に出た。

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正面のこんもりとした杜の中に神社はありました。

神社の前の橋が赤かったので、すぐに分かりました。
こうして知らない町に行くと赤い橋が旅人の目印になっているのがよく分かります。
素直に嬉しいんだな、これが。

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平地に神社がありました。

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緑陰の中は別世界。

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拝殿が大きいです。ここはもう豊の国かな。

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拝殿前に立つと八咫鏡に自分の姿が映し出されました。
神道って奥が深い。

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拝殿を斜めから。瀟洒なつくりです。

この宮が神功皇后の皇子が初めて立った所です。
福岡県神社誌を見てみましょう。

古老の言い伝えである。
息長足姫命(おきながたらしひめー神功皇后)が筑紫の蚊田で誉田(ほむた)皇子を生んで、翌春大和国へ行く時、仲哀天皇の別の后の二皇子が反逆を企てていると聞いて、
「穴門は早戸の狭い門である。どんな密謀があるか分からない」
と言って、豊の国のこの地にやって来て船路で出立しようとした。

その時、皇子が誰から貰ったのか、転がして遊んでいた美しい石があって、その石を持って母君の膝に手をかけて初めてお立ちになった。

母君はとても喜んで「もう生い立ったよ。」と言った事から、ここを生立(おいたつ)と言うようになった。
後に、三柱をお祭りする。これが神社の起源である。
また霊石を置いた所が二子大神である。(祭神は応神天皇、神功皇后、比賣大神)

初めて立ったんですね!という事は一歳になった頃かな?
きれいな石で遊んでいた皇子が、母君に見せたかったのでしょうか、
膝に手をかけて、そのまま立ち上がったんですね。
何と嬉しい瞬間でしょうか。
片手に石を持って、しっかりと両足で大地に立った。

今から船に乗ろうという時です。
お供の者たちの嬉しいどよめきの事が聞こえそうです。
皇子は一歩踏み出そうとしたけど倒れ込みそうなのを、
両の手でしっかりと抱きあげる神功皇后。
「立てるようになったね。」
と、皇子を抱き締めました。

皇子は12月生まれだから、
この時は再び木枯らしが吹き、雪が降る季節がやって来ていました。

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これは目の前の川。
当時はもっと川幅が広かった事でしょう。真冬の冷たい風を受けながらの船旅です。

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境内の左手にある二児神社です。今でも石は残っているでしょうか。

神社の説明板にもう一つの伝承がありました。
この大楠はここ生立八幡宮の社叢中最大の樹木で、神社第一の「御神木」として長い歴史を誇ります。一説に樹齢約800年といい、町内でもトップクラスの長寿の古木です。それだけに、この木には次のような伝説や逸話が残されており、町を代表する巨樹・古木にふさわしい情報に満ちています。

その一つはこの木の由来に関するもので、当宮の祭神でもある神功皇后が三韓出兵から凱旋の途中この地に立ち寄り、軍船に貼りついて皇后軍を守った蜷貝(にながい)を自らこの楠に放し、木の守り神としたというものです。


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楠はこんなに大きくて、きらきらとしていました。
この軍船に貼りついていた蜷貝については、他の地方にも語り継がれています。
場所によって少しずつ話が変化します。何だか気になる貝です。
ここでは、こんな風に語られています。
以来、この木は神社第一の神木とされる一方、蜷貝(キセルガイ)は先の逸話と共に皇后自ら携えた霊験あらたかな貝として尊ばれ、とりわけ歯の痛みをとる「まじないの物実(ものざねー神さまの力が宿る事物)」として大切にされるようになりました。

へ~。歯の鎮痛剤なんだ。
昔は歯医者さんがいなかったから大変だったでしょうね。

地図 生立八幡神社






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by lunabura | 2011-08-22 11:11 | 神社(オ) | Trackback | Comments(0)

位登八幡神社・神功皇后は田原麿の城に半年も滞在した


位登八幡神社
いとうはちまんじんじゃ
福岡県田川市位登681
神功皇后は田原麿の城に半年も滞在した

ここにはナビに電話番号を入力して行きました。
何と簡単なのだ。古墳探しとは別世界。
県道458号沿いに一の鳥居があって、灯籠などがあります。
そこから鳥居の示す方向へ進むとすぐに神社に着きました。
福岡県神社誌を見ていたら
社記に曰く、
「太古から豊日別神社があるのに、神功皇后は三韓凱旋からこの神社に年の半分も滞在された。」

この書き方がおかしくて、どんな所か見に来ました。

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真夏の昼下がり、緑陰を見てほっとしました。

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おおお。狛獅子の何と大きいこと!ライオンそのもの。
なんだかギリシアの宮殿みたい。
行った事もないのにそんな感想を持ったのは、
この石段の幅広さとゆったりとした勾配のせいでした。
そして日向から緑濃き杜の中を通って

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まぶしい本殿前に出ました。
茅の輪くぐりの祭りがあったばかりのようです。

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迫力のある注連縄です。
参拝すると自分の姿を巨大な鏡が写し出します。
平原遺跡の巨大な八咫鏡を思い出しました。
手を合わせるのは自分自身へ、なのですね。
参拝を済ませると、頭上の巨木がさわさわと音を立てました。
気持ちがいいな。
神功皇后が半年もここに滞在した気持ちが分かる感じがしました。

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周囲の森です。

さらに
欽明天皇31年誉田天皇(ほむた)の神霊宇佐の里に降りられた。その翌年8月25日、この位登(いとう)の里神瑞を顕わされた。時の官吏がその事を奏上した所、敏達帝3年に命令があって、八幡大神を位登宮に合わせて祭り、宮殿を新たに造った。

とあります。要約すると、
宇佐の神である誉田天皇がここに神のしるしを表わしたので、祀るようになったという事です。誉田天皇こそ神功皇后の皇子で、後の応神天皇です。

皇后は皇子が生まれてしばらくして移動を始めたので
この頃は皇子はハイハイを始めたでしょうか。可愛いさかりですね。
確かに子育てにはいい感じの場所です。
神社誌を書いた人が、
「なんでこんな所に半年もいたんだ。もっと由緒がある神社があるのに」、
と言っているのがおかしいんだけど、滞在した理由は
以前に記事にした川崎町の正八幡神社の伝承と組み合わせると見えて来ましたョ。

正八幡神社と言えば田原麿です。
仲哀天皇が遠賀川にやって来たのを聞いて馳せ参じた武将です。
天皇亡きあとも神功皇后と共に闘い、ここまでお伴をして帰国しています。

正八幡神社の方の伝承をまとめたものを再び書いてみます。
田原麿は近くの城山(もしくは位登郷の楠の森)に住んでこの地を治めていたが、神功皇后の三韓遠征の時に遠征軍に従って行って、(2年後には)戻ってきた。

それから600年以上経ってから、子孫の田麿に神託があった。それは応神天皇(誉田天皇)の神霊からのもので、
「私は宇佐八幡宮から本宮の大分八幡宮に行き通うたびに、母と田原麿の縁にちなんで、旅の途中に位登郷の楠の森で休息していたが、自分のために神殿を建ててくれたら、領民を守護しよう」
という内容だった。
そこで宮を建てて、のち1383年に現在地に遷宮した。

ここは田原麿の屋敷でした!
物資ともに豊かな屋敷で、共に戦ってきた戦友とも言える田原麿に
皇后は絶対の信頼を置いていたのがよく分かります。
だから安心してここで子育てして、心休まる時を過ごしました。

ここは宇佐八幡宮にずいぶん近い場所です。
誉田天皇(応神天皇)を八幡神として信奉する勢力が
こんな神霊降臨の神話をつくって、
地主神の神社を八幡神社に変えていくようすが具体的に分かる所でもありました。

そして、皇后がここに半年も居たのは、
豊浦宮へ帰るための旅程の手配の為だったろうと思いました。
何しろ遷都です。香椎宮へ向かう時も大人数だったので、海路は取れませんでした。
この帰り道はさらに大人数になりました。
兵糧、宿泊地の設定など、多くの準備が必要です。

ここまで来るために野営につぐ野営。
ここでゆっくりと休養して、次なる政治的課題への準備もした事でしょう。
一番の課題は、仲哀天皇の崩御の布告のタイミングです。
いとし子を皇位に付けなければならない。
仲哀天皇にはすでに皇位継承権のある皇子たちがいる。
彼らとの次なる戦いの準備も並行して行われたことでしょう。

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帰り道、二の鳥居からの眺めです。

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これは参道からの眺め。いいでしょ。空気も澄んでいます。
次は皇子が初めて立ったという生立神社へ行きましょう。

田原麿を祀る正八幡宮
http://lunabura.exblog.jp/16615951/


地図 位登神社 正八幡宮






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by lunabura | 2011-08-19 17:41 | 神社(イ) | Trackback | Comments(0)

曩祖八幡宮・連合軍はここで別れの酒宴を開いた


曩祖八幡宮
のうそはちまんぐう
福岡県飯塚市宮町2-3
連合軍はここで別れの酒宴を開いた


福岡県神社誌を見ていると、
神功皇后皇子を連れて大分宮から更に東の山々を越えて、
再び下関の豊浦宮へ向かう足取りが見えて来ました。
豊浦宮には仲哀天皇の亡骸が待っています。

今回は飯塚から行橋の間の4社の皇后の足跡を辿って行きます。

曩祖八幡宮能祖八幡宮とも書きます。
飯塚市の中心部なので付近地図を印刷し、ナビには電話番号も入れて準備万端。
ところが付近に着いてから入り口が分かりませんでした。
ついに美容院や駐車場に尋ねて、
ようやくローソンの傍の路地から入る事が分かりました。
皆さんニコニコと笑顔で、道路にまで出て教えて下さって
ありがとうございました。

入り口が分からなかったのは鳥居が無かったからでした。
その入り口は車で入るための脇の路地だったのです。
正面からだと大きな鳥居がありましたが石段の為に車は入れません。
神社のHPに入り口が詳しく載っています。
参拝する方は参考にしてください。

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歩いての参道は古くから信仰を集めたような風情で狛犬などが密集し、
さらに大きな楼門が迎えてくれます。
楼門の表には左右に将軍像があり、内では狛犬が守護していました。

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右側の獅子は彩色も見事に残っていました。
黒に赤の配色が粋で、筋肉の質感やタテガミや尾の燃え立つような造形は
座っているのに天を翔ける能力があるのをよく表現しています。
見れば見るほど素晴らしいですね。

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拝殿です。まるで江戸時代に入り込んだみたいです。

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境内は広く、巨大な石燈籠に巨大な楠。
この裏の足元に

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「曩祖の杜趾」と書かれた石碑がありました。
ここが神社の始まりの場所でしょうか。
神功皇后が三韓征伐からの帰途、納祖の森に祭壇を設けて天神地祇を祀り、長年つき従った九州の臣たちと別れを惜しんだと伝えられています。このとき、人々が「またいつか尊顔を拝し奉らん」と口々に言い、この「いつか」が「飯塚」の名の由来であるといわれております。

と神社のHPに説明があります。
ここは周囲より少し高度がある丘です。
大分宮で軍勢の解散をしたのですが、別れ難かったのでしょうか、
ここまで共に来て、皇后が天神地祇を祀ったあと酒宴を開いています。

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この曩祖の杜趾のすぐ前に稲荷神社がありました。
急な石段がありますよ!ここで製鉄してたかも。
となると、大きな氏族の居住地だったと思われます。

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石段を上ると、これまた赤と黒の色が珍しい稲荷社です。
楼門の獅子と同じ配色です。

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裏参道の眺めです。ここに来ると、さあっと風が吹き渡りました。
ここは丘の頂上部で、周囲から風が集まって来ます。
広さと言い、高さといい、那珂川町の風早神社とそっくりです。
やはり製鉄や鍛冶などをしていた所だな…。

さて、この曩祖八幡宮の由緒について、福岡県神社誌に詳しく書かれています。
漢文なのですが、頑張って現代語訳してみます。
神功皇后が征韓から戻って、粕屋郡の蚊田郷で皇太子の誉田別命(ほむだわけ)を産んだ。後の応神天皇である。産(うみ)から、その地を宇彌(うみ)と呼ぶ。

翌年、皇后は皇太子を抱えて穂波郡に遷り、行宮を営んで住んだ。そこで筑紫のまつりごとを行った。従軍の士を呼んで、大いに戦利品を分けて褒賞を与えた。そこでその地を「大分」(だいぶ)と言うようになった。

皇后はついに東に遷都しようとして、将士たちを召して自分の国に戻るように伝えた。将士たちは曩祖の林で酒宴を催した。皇后は祭壇を築いて、遠祖と天神地祇を祀った。故にその林を「曩祖の社」と言い、祭壇を「壇上」と言う。「遠祖、曩祖」というのは「祖先」という意味である。また「曩と納」は発音が同じなので、後世「納祖」と書くようになった。

皇后は別れに臨んで歌を詠んで「いづれの日にか逢おう。」と言った。「いづれ」がこの村の名前になった。「飯塚」(いいづか)となったのは発音が近いからである。

見ると川が流れていて、船の帆が風をはらんでいた。
「帆と波が競っているようだ。」
と皇后が言ったことから、地名を「帆波」というようになった。今「穂波」と書くのはここから来ている。

のちに応神天皇が昇天した後、なおもこの森が懐かしく、神霊が降りられたが、留まる所がなかったので、能祖郷の人たちが林の中に祠を建てて奉祭したことから、能祖八幡宮と呼ぶようになった。

みんなが別れを惜しんで最後の酒宴をした現場がここなのですね。
なんとなくしんみりとした、いい話です。
神功皇后が筑紫に来て2年が過ぎました。
初めて遠賀川流域に天皇とともにやって来た皇后が
天皇を亡くしながらも軍勢をまとめて、全ての戦いに勝利しました。
物部氏を中心とする軍勢はこれで敵がいなくなったのです。
これからの平和を約束された、喜びの宴でした。

曩祖八幡宮HP
http://nouso.or.jp/


地図 曩祖八幡宮、大分宮






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by lunabura | 2011-08-17 14:46 | 曩祖八幡宮・のうそ・飯塚市 | Trackback | Comments(0)

小郡「黄泉の道」の古墳巡り(1)横隈山古墳


小郡「黄泉の道」の古墳巡り(1)
⑤横隈山古墳

福岡県小郡市

小郡市内歴史の道マップを手にしながら「黄泉の道コース」を廻ってみました。
思い立った理由は夢の中に「生掛遺跡」という張り紙が出て来たから。
「生掛(しょうがけ)古墳」の事だとすぐに分かりました。
確か小郡市だったはず…と地図を見ると
「津古(つこ)」のすぐ傍ではないですか。

「津古」と言えば、老松神社の伝承に、
「神功皇后が津古から船に乗って老松神社に行って行在所とした。
武内宿禰に祀らせた。そこから田油津姫を攻撃した。」
とあって、気になっていた所です。
物部軍の拠点があった所になるからです。

「津古」―駅名としてはよく知っているけど、
古墳が集中して見つかってる所だとは知らなかった。
丘陵地帯の古墳群。御原国のエリア内です。

これが「黄泉の道」コースのマップです。
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①津古1号墳
②津古生掛古墳
③三国の鼻1号墳
④井の浦1号墳
⑤横隈山古墳


九州歴史資料館で手に入るこのマップは歩く人のためのものなので、車で古墳巡りをしようとすると信号機の名前などが載っていないために、2~3種類の地図を見比べながら走らないと分からないです。


神社と違って古墳は地図に載っていないので緊張の連続。
今回の目的は5つの古墳を完走して地形を掴むこと。
マップのお勧めとは反対に左回りで見学する事にしました。
出発地点は小郡埋蔵文化財センターです。


⑤横隈山古墳

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埋蔵文化財センターから東へ。並走する車道と電車路線を超えて宝満川方面へ。
整然と区画整理された坂道の住宅地へ入って行きました。
古墳なら自然林があるはずと見回すと早くもこんもりとした丘が見えました。
あわてて左折すると、入口がない。
人に尋ねて、反対側にありそうだと聞いて廻ってみると、ありました。
案内板がちゃんとありましたよ。

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石段までついているので、墳丘に登ってみましたが、樹木があるだけでした。
案内板を写しておきます。
横隈山遺跡
現在「みくに野東団地」の名で呼ばれる23万平方メートルに及ぶ範囲を横隈山遺跡という。

1973年3月より実施された発掘調査により、この遺跡が旧石器時代から縄文、弥生、古墳、歴史時代と、間断なく生活の場であったこと、特に弥生時代の遺構群はほぼ全域にわたって存在することが明らかにされた。

現在地は横隈山遺跡第一地点で、保存されているのは前方後円墳である。墳丘は全長約35.6m、後円部南側は盗掘などで原形をかなり壊されている。石室など、内部主体の確認はされていないが、円筒埴輪の破片は採集されている。墳丘の形態は帆立貝式前方後円墳に近い。5世紀から6世紀にかけての築造と考えられる。

横隈山遺跡は標高20~50mの丘陵地帯に位置しているが、この古墳が最高地である。見晴らせば、東に花立山、西北に津古遺跡、原田五郎山古墳と続き、筑後平野北部の古墳時代前~後期の変遷を知る上で重要なばかりか、筑前、肥前、筑後三国の境界として歴史的要所であり続けたことと併せ、この遺跡のもつ意義ははかりしれないものがある。

北部九州には稲作農耕を基盤とする国家の成立をうかがわせる有名な遺跡が多いが、福岡平野では新幹線、高速道、団地建設などの開発により、須玖岡本はじめ殆どは破壊され尽した。植物生態学的にも、シイ、カシ等を中心とする照葉樹林体の相をみせるこの一帯は、いわざ「弥生の森」そのものであり、これだけの歴史的環境を残している所は県内でもきわめて稀であるといえよう。

昭和56年3月10日 小郡市教育委員会
          小郡市郷土史研究会

ここは横隈山遺跡というんですね。
23万平方メートルの広さがあるというけど、どの範囲なんだろう。
すごい広さみたい。住みやすさは旧石器時代から。
標高が20~50mあるので、宝満川の氾濫の心配がない所なんだ。

この古墳の長さが35.6mというのは結構大きいみたい。
帆立貝型の前方後円墳って、福津市の奴山古墳群にもあったよね。
縫殿神社の祠があった所。このブログでは2例目になるんだ。

円筒埴輪はなかなかお目にかからない。仙道古墳で見ただけ。
石室がまだ調査されてないから、未来の人のお楽しみ。
この周囲は全部団地になってしまったので、
この頂上の大型古墳だけ残されていた。
そして、目の前の森は照葉樹林体という。
そうそう、足元の落葉は雨に濡れるとつるつるすべるタイプ。
そして、これが「弥生の森」なんだ。

そして、時代は5~6世紀。
413~478 倭の五王が宋に使いを出した
479 雄略帝が末多王を百済王に任
479 倭国は高句麗を攻撃
507 継体天皇26代 即位
512 任那4県を百済へ
512 倭国は高句麗に勝利
515 倭国は伴跛国に敗北
527 磐井の乱
531 安閑天皇・27代 即位
538 百済聖明王が仏像献上
552 蘇我稲目vs物部尾輿
562 伽耶諸国が滅亡

こんな時代。ずいぶん韓半島や中国大陸との交流や戦いがあってる。
この横隈山古墳に眠る権力者も、行き交う武人や船を見たのかな。
さあ、基礎知識が出来たので、次の井の浦1号墳へ行きましょう。
       (つづく)








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by lunabura | 2011-08-05 21:33 | 小郡「黄泉の道」古墳巡り | Trackback | Comments(2)

「黄泉の道」の古墳巡り(2)井の浦1号墳


小郡「黄泉の道」の古墳巡り(2)
④井の浦1号墳
福岡県小郡市

「駅の前に古墳らしいものがある公園がありますよ。」
と、道行く人に教えられて地図を見ると、
どうやら目指す「井の浦古墳」と重なっています。
「それだあ。」
三国が丘駅前を目指して行くと、それらしき緑地がありました。

駐車場がなく、案内板も見当たらないのですが、
他に見当たらず、探索してみることにしました。

c0222861_1311847.jpg

堂々とした公園入り口です。

c0222861_1313680.jpg

石段を上がると美しい墳丘が。
一番高い所に、気品さえ感じられる円墳があるではないですか!
名前が分からないけど、「井の浦古墳」で間違いないでしょう。

自然環境も素晴らしく、案内板を求めて歩き始めると、
ミュールを履いているのに気づきました。
ミュール=「つっかけ」で古墳探しをするのは、無理無理。
こんなに明るくてきれいな森の公園は珍しいのに…。残念。
坂道を下って、道路にあった看板に辿り着くと、関係ないものでした。

案内板を探し回るのをあきらめて、次に移動しよう、と車で脇を通ると、
美しい湖に囲まれていた!
なんと恵まれた立地なのだ。
改めて、この古墳は特別な存在なんだと思いました。
上空からご覧あれ。


白くハレーションを起こしている所が湖で、空が写って白くなっています。
丸い円墳がよく分かります。
その東側にもなにやら墳丘らしいものがあるのが気になります。
写真を撮った円墳が1号墳なら、それらも古墳だったのかも。

そして、案内板が見つからないという事は資料がない!

ネットで「古代体験館おごおり」を調べると、説明がありました。
「この古墳は6世紀後半に造られて、横穴式石室で、直径23mの円墳。
石室やその周辺から、耳飾りや石製の玉類のような装飾品、
土器などが見つかっている。」
という事が分かりました。

出土物の写真は「古代体験館おごおり」のサイトに載っていました。
http://www.kodaitaiken-ogori.jp/historic_map/map01.htm
このページに入ったら、「収蔵資料検索 ⇒ 考古遺物 ⇒ 出土遺跡の▼をクリック ⇒ 横隈井の浦遺跡 ⇒ 入力項目から検索」
と進むと「出土した銅の腕環、金銀メッキのイアリング、甕棺」が見られます。
(文字入力は上手くいかないので「▼」を利用すると、いろんな写真が見られます。)

たった5点しかないので、盗掘されていたんでしょうね。

という事で、古墳の資料はこれ以上は無いのですが、
「6世紀後半」だというのが分かったので、
その時代の筑紫を調べてみることにしました。

被葬者が500年代の後半に亡くなっているという事から
550年前後~末にここで何が起こったかという事を調べれば、
被葬者が生きた時代が分かる。
という事で、小郡市史を読んでにわか勉強をしました。

被葬者が見た時代とは
朝鮮半島では、6世紀半ば以降、百済・新羅・高句麗による天下取り合戦が激化。
538年、倭人が鉄を運び出していた南加羅が新羅に奪われ、
562年には大伽耶も新羅の保護下に入ってしまう。
日本書紀ではこの事を「新羅は任那の官家を滅ぼした」と書いている。
倭国が任那を失ったことを意味している。

欽明天皇556年、百済の王子・恵(けい)が帰国する時に筑紫の水軍がこれを護衛し、
また別に「筑紫火君」(つくしひのきみ)が勇士1千を率いて護送した。

「筑紫火君」の本拠地は鳥栖市の旧養父郡に推定されている。
その北の基肆郡物部系国造が統治していたと推定されている。

崇峻天皇は591年、任那の再興を企てて、2万余りの大軍を筑紫に向かわせる。
「大将軍」には紀・巨勢・大伴・葛城の各氏から4人が選ばれた。
この大軍が大和を離れると、翌年に明日香の地で
蘇我馬子・額田部皇女・聖徳太子らにより、祟峻天皇が暗殺される。

新政権は「筑紫将軍所」に内乱のせいで「外事」を怠らぬよう早馬を出す。
祟峻天皇の命で朝鮮半島へ出兵するはずだった大軍は
3年9か月もの間、筑紫に滞在したままだった。

市史から関係がある部分だけをまとめてみました。

被葬者が生きた時代には大きな事件として
556年に「百済王子を護送する。」事と
591年に「新羅攻撃軍が2万余り筑紫に滞在した。」
という事があったのが分かりました。

591年
井の浦古墳の被葬者は591年の2万の大軍を見ることが出来たでしょうか。
微妙ですね~。もう亡くなっていたかも知れませんね。

それにしても2万の大軍とか、どこに駐留させたのだろう。
「筑紫将軍所」って太宰府なんだろうか。
これだけの人数の兵糧をどうやって賄ったんだろう。
(いろいろと謎が生まれます…。)

ちなみに、603年には来目皇子が筑紫の志摩で亡くなってます。
聖徳太子は任那奪回は本気だったんですね。

556年
556年の百済王子の帰国の時には古墳の被葬者はきっと生きていたでしょう。
この時に百済王子を送ったのが、筑紫の水軍筑紫火君たちです。
「筑紫の水軍」が養成された所として、この筑後地方は有力だったでしょう。
この被葬者も直接関わったかもしれません。

「筑紫火君」は筑紫の君肥の君が通婚して出来たそうです。
本拠地がすぐ近くの養父郡(鳥栖市)なんですから、
被葬者は筑紫火君の動向を全神経を傾けて見守った事でしょう。

この6世紀後半の筑紫の風景って、
対新羅の緊張がずっと続いていたんですね。
古墳から武具がたくさん出てくるのもうなづけます。
この古墳の被葬者もこの高台から、
広い川の向こうに新羅を見据えていたのかも知れませんね。

それではで③の三国の鼻1号墳に向かいましょう。


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①津古1号墳
②津古生掛古墳
③三国の鼻1号墳
④井の浦1号墳
⑤横隈山古墳


















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by lunabura | 2011-08-04 13:15 | 小郡「黄泉の道」古墳巡り | Trackback | Comments(0)

「黄泉の道」の古墳巡り(3)三国の鼻1号墳


小郡「黄泉の道」の古墳巡り(3)
三国の鼻1号墳

福岡県小郡市

三国の鼻1号墳井の浦古墳の丘陵から水田の方に下って行く方向にあるようです。
それらしき森を見つけたのですが、墳丘が見当たりません。
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こうして写真で見ても、フラットですね。分かれ道を右の方に下りてみました。

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おおお。花立山が見える!あの隼鷹神社から見えていた花立山です。
この視野いっぱいの水田がかつては川でした。

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私が歩いてきた道を振り返るとほら。かつては汀(みぎわ)があったような自然のカーブ。
ここは「津古」(つこ)なんです。

老松神社の伝承に、神功皇后は「津古」から船に乗ったと書いてありました。
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この地図は再掲ですが、中央上部に「●津古」がありますね。
今私はこの●の所にいます。
その南に老松神社「神宮皇后行在所」があります。
津古に立つと、花立山の向こう側に老松神社があるのが分かります。
ここは1800年も変わらぬ風景を残していました。
そう、稲の緑が川の水に変わるだけ。

神功皇后竹内宿禰はこの近くから船に乗って移動した訳です。
もう、誰も彼もが忘れてしまった話です。

そうそう、古墳を探してたんだ。
通りがかりの人に尋ねると古墳の案内板が上の道にあったと教えてくれました。
そして、なんとその人はこのブログの愛読者の方でした。
(驚き!こんな所で、出会うなんて!)
不思議な巡り合わせに感動しながら、教えられた方向へ。

c0222861_2143771.jpg

行くと浄化センターの建物があって、門が閉まっています。
案内板はあったけど、古墳は消滅していました。
絵を見ると、きれいな前方後円墳だなあ。岬の一番いい所にあったんだ。

その事情を案内板で見てみましょう。
三国の鼻遺跡(みくにのはな)
三国の鼻遺跡は、現在の宝満川浄化センターから三国が丘周辺に広がっていました。遺跡は弥生時代と古墳時代を中心とする複合遺跡で、中でも注目されるのは弥生時代後期の環濠集落古墳時代前期の前方後円墳です。

環濠集落は、全長356mの巨大な環濠と竪穴住居群で構成されています。環濠は最大幅4.5m、深さ2.3mで、34軒の竪穴住居群を守るように取り囲んでいます。環濠や竪穴住居の内部からは大量の土器や石器が見つかりました。

前方後円墳「三国の鼻1号墳」は全長66mの市内最大の古墳で、現在の団地内にありました。造られたのは4世紀中ごろで、「津古生掛古墳」から始まる古墳時代前期の津古古墳群の最後を飾るにふさわしい巨大古墳です。

この古墳からは、二重口縁壺といわれる祭祀用の土器が焼く120個も出土したことが特筆されます。発掘調査により、この壺は古墳の墳丘上にきれいに配置されていたことが分かりました。その他にも管玉と鉄剣、そして珠文鏡といわれる鏡が見つかっています。

ここは背振山系から延びて来た丘陵の先端が宝満川沿いの沖積平野に突き出す通称「三国の鼻」と呼ばれることころで、筑紫平野を見渡せる素晴らしく見晴らしの良いところです。弥生時代や古墳時代の人々にとっても、非常に重要な場所だったことが分かります。  平成22年11月 小郡市教育委員会

福岡にも壺がずらりと並べられた古墳があったとは。初めての御対面です。
4世紀中ごろの造営で津古古墳群の最後を飾ったものです。
イラストを見ると立地が素晴らしい。
実際にこのイラストの左側の方に行くと、車を止めて写真を撮るには
危険だったのですが、大変見晴らしが良かったです。

古墳の内部主体は後円部に大小二つの割竹形木棺
前方部には一基の小型割竹形木棺が埋地されていました。
この「外形割竹形木棺二重口縁の壺」が畿内型古墳の葬礼そのものだそうです。
こんな見晴らしのいい所に造るのも、畿内型らしいですね。

ふと思ったんです。
この岬は防衛上大事な拠点で、ここに必要なのは見晴らし台なんだ。
そんな所に墓を造ってしまうんだから、平和になったんだろうか。
国防を考えない被葬者の示威行為に過ぎないのか。

弥生時代から環濠を営んで身を守った人たちが
この場所に古墳を造営したとは考えにくい。

また、ここで起こった仲哀軍皇后軍羽白熊鷲田油津姫などの戦いとは
どう結びつけたらいいのだろう。

小郡市誌を見てまとめてみました。
宝満川の中流域の中心地は現在の小郡市域で、旧三原郡だった。邪馬台国時代は弥生時代の後期後半に当たるが、そのころの遺跡は小郡市の各地に分布する。

この三国の鼻遺跡は集落が標高45m前後の丘陵の頂上部にあって、眼下に平地を見下ろせる眺望のきくところに立地している。

南西側の平らな場所に環濠が巡っていて、内部に34棟の竪穴式住居が営まれていた。
環濠は少しずつ変化して行った。

おそらく当時の水田面からの比高が20mという立地は、普通の農耕村落というよりも、いわゆる高地性の防御村落として、周辺を監視し、その動向を地域社会に通信・伝達する高地性集落であったと考える。

なるほど、環濠集落の中の家がわずか34棟とは少ないなと思ったけど、
やはりこの岬から周辺を監視する砦のような所だったんですね。
ここで得た情報は首都に当たる小郡・大板井遺跡に送られます。

邪馬台国時代の御原国と吉野ヶ里遺跡の場所を描いてみました。
c0222861_2183161.gif

御原国の広さは分かりません。
三国の鼻から首都の小郡までをとりあえずエリアとして描いています。

弥生時代には監視所だった三国の鼻に、畿内型古墳が造られた訳です。
「畿内の支配権が及んだことを示すものだ!」
という説もあるのですが、

「これらの前方後円墳を、久留米、八女方面に南下する前の
筑紫の君の奥津城と考える森貞次郎の説」もありました。
(「日本の古代遺跡 34 福岡県」保育社)

研究者によってずいぶん位置づけが違うんですね。
これまた興味深い古墳になりました。


出土物の写真は「古代体験館おごおり」のサイトにて。
http://www.kodaitaiken-ogori.jp/historic_map/map01.htm
このページに入ったら、「収蔵資料検索 ⇒ 考古遺物 ⇒ 出土遺跡の▼をクリック ⇒ 三国の鼻遺跡1 ⇒ 入力項目から検索」
(文字入力は上手くいかないので、「▼」を利用すると、いろんな写真が見られますよ。)


c0222861_21251530.jpg
①津古1号墳
②津古生掛古墳
③三国の鼻1号墳
④井の浦1号墳
⑤横隈山古墳














それでは②の生掛古墳に行きましょう。

地図 三国の鼻 伊の浦古墳 隼鷹神社





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by lunabura | 2011-08-03 21:21 | 小郡「黄泉の道」古墳巡り | Trackback | Comments(7)

「黄泉の道」の古墳巡り(4)津古生掛古墳


小郡「黄泉の道」の古墳巡り(4)
津古生掛古墳

つこしょうがけこふん
福岡県小郡市みくにが丘


  さて、夢に出て来たのがこの津古生掛古墳
  すでに完全消滅しているのは分かってる。
  だから、何で夢に出て来たのか、確かめに行くだけ。
  何が待っているのだろうか。

現場へ行く道は地図では読めない道でした。
大通りは車がスピードを出すような所で、
そこから脇道が並行して走っていたので、そちらに行って見ました。
左の団地の中なのだから、取り敢えず左へ左へと、
地図と見比べながら曲がってみると、分からなくなってしまいました。
  古墳探しは難しい。消滅している古墳をどうやって探すのだ。

T字の手前で困っていると、目の前でワンちゃんがウンチをし始めました。
道路の真ん中!終わるのを待っていると、飼い主さんが恐縮しています。
  こんなハプニングこそ私の味方にしなきゃ。

車まで謝りにこられる飼い主さんに、いいえ気にしないで下さい、と
ニコニコしながら、これ幸いと古墳を尋ねるのでありました。
地元の人でも分かりませんでした。
でも、近くで草取りをしている人にまで尋ねてくれました。
  ふふふ。これが狙い。
そして生掛公園というのがあって、そこに案内版がある事が判明。
曲がり角をしっかりと教えて貰って、着く事が出来ました。
聞かないと分からなかったなあ。

c0222861_2133798.jpg

そしてこれが生掛公園の一部。
けっこう広いんですが、他のアングルは人家ばかりになってしまうので、遠慮しました。

c0222861_213566.jpg

現場の案内版です。他に撮った写真はありません…。(さみしい。)
書き写します。
津古生掛古墳津古生掛古墳は、現在の「三国が丘団地」の生掛公園付近にありました。この古墳は昭和60年の団地造成に伴う発掘調査によって発見され、三国丘陵に存在する古墳時代前期(3世紀後半~4世紀後半)に属する津古古墳群の一つです。
調査の結果、東西方向に全長33m(後円部径29m、前方部長さ4m)で、後円部が高く、前方部が低い前方後円形になることがわかりました。

なになに。3世紀後半の古墳ですって!
となると、卑弥呼が死んだすぐ後の時代ではないの。
神功皇后ももう亡くなってる。
でも、4世紀後半も含まれるとなると、倭国が高句麗と戦ったりした時代。
倭国が高句麗と戦ったなんて、全く知らなかった。
高句麗の好太王碑文に書いてある話かな?
まいったなあ。分からない事ばかり。

ま、そこは置いといて、つづきを読もう。
古墳の周辺には方形周溝墓や土壙墓などが多数造られており、この地方の有力者とその家族や近親者たちを埋葬した墓と考えられています。

出土品には、鏡のほか鉄剣、鉄鏃(てつぞくーやじり)などの武器、ガラス玉などの装飾品など多くの副葬品(お供え物)が見つかりました。

鏡は中国で作られ、日本に持ち込まれたと考えられる方格規矩鳥文鏡です。

また銅の部分が中空の鶏形二重口縁壺形土器が3個体分見つかりました。その表情の豊かさや写実的な描写から考古学の世界だけでなく、美術史的にも注目されています。ほかの二重口縁壺などと共に、祭祀に使用されたものと考えられます。

これらの出土品から3世紀の終わり頃に造られたと考えられ、九州でも最古級の前方後円墳であることが分かりました。 

なんだ、結論は3世紀の終わりなんだ。
卑弥呼が亡くなって、再び戦乱が起こった頃の人だ。
この古墳は未盗掘だった?全く分からない。
3世紀の終わりと推定された要因は鏡と二重口縁壺の形なんだろうか。

副葬品があるなら写真が見たい。
家の中の図録を探すと結構あちこちで紹介されていました。
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これがニワトリ形二重口縁壺。どこかで見た事があるニワトリですね~。
まさか、小郡市で出土していたとは。
高さ約30センチで、この写真は複製品です。これが3個分出土しました。
しかも底には穴が開けてあるんですって。

二重口縁壺というのが、どうやらポイントらしいので、
奈良の箸墓古墳の二重口縁壺形埴輪(45センチ)を見てみると、こんな形。
箸墓古墳は3世紀の中頃。ニワトリより少し古い。

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前回の三国の鼻1号墳に飾られた壺とそっくりですね。
二重口縁って、なかなか凝ったデザインなんだ。
この津古生掛古墳から出た土器は地元のものがなくて、
ほとんどが畿内や中国地方のものがばかりだったんですって。
だから被葬者は畿内と関係が深い人だそうです。

c0222861_2174738.jpg

これが古墳の形。前方後円墳でも帆立貝のタイプに近いですね。
木棺が直葬してあったそうです。木棺なんだ~。
出土した当時は「日本最古の前方後円墳」と大騒ぎになったんですって。
今では九州から関東にかけて広く発見されているそうです。

c0222861_2182539.jpg

これが出土した鏡。方格規矩鳥文鏡。中の方に正方形が描いてあるんですね。
これの年代の決め方が書いてありました。
京都府の大田5号墳から出た鏡と似ていて、
そちらの方の鏡には魏の年号が書かれていたんですって。
魏の「青龍3年」は西暦235年。
だから、津古生掛古墳の鏡も同時期に中国で作られたたと考えられるんですって。
年代が具体的に出たなんてすごいな。
1700年以上も前の時代って、何と優れた技術の時代なんだ~。
う~む。恐るべし。青銅器文化。

以上の資料は「邪馬台国―九州と近畿」(大阪府立弥生文化博物館図録44)
の写真と進村氏の文を参考にしました。


現在、住宅が建ち並び、古墳そのものを見ることはできなくなりましたが、古墳時代前期の墳墓としての歴史的価値は高く、当地域のみならず全国的にも著名な遺跡となっています。   平成21年2月 小郡市教育委員会

高度成長期に発見された古墳はこうして多くのものが消滅してしまったけど、
これが平成時代に見つかったものなら、きっと保存されたんでしょうね。

調べて行くと重要な古墳だったのがよく分かりました。

地図 生掛公園


c0222861_21251530.jpg
①津古1号墳
②津古生掛古墳
③三国の鼻1号墳
④井の浦1号墳
⑤横隈山古墳








この土器や鏡について、訂正や補足説明がある方、是非コメントしてくださいね。

それではラストの津古1号墳へ。




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by lunabura | 2011-08-02 21:21 | 小郡「黄泉の道」古墳巡り | Trackback | Comments(2)

「黄泉の道」の古墳巡り(5)津古1号墳


小郡「黄泉の道」の古墳巡り(5)
 ①津古1号墳
つこ
福岡県小郡市津古永前641-34

今回はラストの津古1号墳です。
ここはナビをズーンと拡大して、目指す事が出来ました。
行き過ぎて戻ったりしながらも、団地内の急坂を上ると、
こんもりとした森が見えだしたので、エイヤっと目指します。
2軒分ずつ直角に曲がりながらも辿り着きました。
おお。きれいだ!古墳が残されてる!しかも案内板がある!これに違いない!

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団地内の史跡公園になって古墳が残っていました。

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前方後円墳なんですね。段差が見える位置から撮りました。
右の方が高いから後円部で、左が低くなって前方部です。

c0222861_15253213.jpg

後円部の一番高い所に立って、前方部を撮りました。
おおっ、くびれの部分がくっきりと見える!優美!
細長い点は三国の鼻1号墳のラインに近いですね。

案内板を読んでみましょう。
津古1号墳
西鉄大牟田線津古駅の西南方向の低丘陵上には古墳時代前期に属する前方後円墳2基と方墳1基からなる古墳群と、その北側にある舌状台地状の河岸段丘には弥生時代から古墳時代にかけての住居跡群が発見されており、これらを含めて津古遺跡と呼ぶ。

遺跡の調査は昭和43年8月から11月まで実施されており、現在ではこの「みくにの団地」内に津古1号墳が保存されている。
津古1号墳は未盗掘であるため内部主体は不明である。古墳は標高52mの丘陵頂部にあり、前方部を北側に向けた主軸長約35mの前方後円墳である。

この古墳は未盗掘なんだ。形も綺麗に残っています。
古墳時代前期だから、3世紀後半~4世紀後半というのは前回学習済み。
卑弥呼の死後でした。
これまで行った③三国の鼻1号墳と②津古生掛古墳と一緒に
「津古古墳群」と言われています。
この三つの古墳を古い順に並べると、

ニワトリの津古生掛古墳が3世紀後半でトップを飾り、
古墳が現存するここ、津古1号墳が二番手。35m。
そして、イラストだけが残る三国の鼻1号墳が4世紀中ごろで、66m。最後を飾る巨大古墳でした。

こうして時代順に見学するのもイメージが掴めていいかも。

さて、この津古1号墳は未盗掘だから中味が分からない。
でも、2~3号墳には出土品がありました。
この古墳のすぐ東側の丘陵上には津古2号墳、津古3号墳と称する古墳があった。
津古2号墳は主軸長約32m。前方部幅約10m、後円部径約19mの前方後円墳である。盗掘を受けていたが、内部主体は木棺であったことが確認されており、刀子3本、小玉2個が検出されている。

周溝からは小型丸底壺、小型器台、舟形文様の線刻を有する壺などの古式土師器が出土している。前方部は南に向いており、1号墳とは逆方向に位置する。

2号墳の内部主体は木棺です。津古生掛古墳と同じでした。
土師器って赤っぽい土器の方ですね。
津古3号墳は津古2号墳に南接して所在しており、一辺約13m、封土高1m弱の方墳である。周溝からは小形丸底壺、二重口縁壺などの古式土師器が出土しているが、内部主体は不明である。
ここに保存されている津古1号墳は古墳時代前期に属する数少ない前方後円墳として学術上にその価値は高く、また我々の祖先の生活を知るうえからも大切にしなければならない遺跡です。

方墳と前方後円墳が並んでる!どう解釈されているのだろう。
文献は見つかりませんでした。
出土物の写真も見つかりませんでした。
でも津古生掛古墳と同時代なら出土物の雰囲気は少し分かるようになりましたョ。

さて、これで「黄泉の道」の古墳巡りは終わりです。
振り返ると、それぞれが丘陵の頂上部にありました。
木棺が出たのが珍しいなと思ったんですが、この時代には周囲では
まだまだ在来の箱式石棺や石蓋土壙が盛行していたそうですから、
ここは特別な人たちの古墳群みたいですね。

そして、この津古から神功皇后が軍勢を率いて老松神社まで
船で行った事が神社の方では伝えられています。
羽白熊鷲田油津姫、夏羽などと戦っているのです。
時代は200年ですから、この古墳群よりずっと前の時代になります。

津古には港があり、この戦いにメリットがある人々が住んでいたはずです。
船や武器などを製造していた所があるはず。
西隣の佐賀県には青銅器のハイテクランドも控えています。
まだまだ手掛かりが眠っている小郡市でした。

文献と出土物が合体する日を夢見て、これからも歩いて行きまっしょ。
いつも一緒に旅して下さってる皆さん、ありがとうございます。

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①津古1号墳  3世紀後半から4世紀
②津古生掛古墳 3世紀後半
③三国の鼻1号墳 4世紀中ごろ
④井の浦1号墳 6世紀後半
⑤横隈山古墳 5~6世紀




















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by lunabura | 2011-08-01 15:39 | 小郡「黄泉の道」古墳巡り | Trackback | Comments(1)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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