ひもろぎ逍遥

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砥上神社・とがみ・皇后軍はここで武器を研いだ


砥上神社(中津屋神社)
とがみじんじゃ
福岡県朝倉郡筑前町砥上
皇后軍はここで武器を研いだ
「やす」はここ
 

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広い平野の向こうに見える山々が美しくて、地図を見ると
神社が麓にあるので時間が出来た時に行ってみました。

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途中、神社の気配はするけど見つからなくて、道に居た人に尋ねると、
目の前だった…。
そして案内板を見て、オドロキ。ここもまた神功皇后の史跡でした。

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ここは砥上岳の登山口にもなっていました。

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暑い夏の日に訪れたのですが、山里のお宮は涼しくてとても心地よい空間でした。

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開放的な拝殿です。雨の日はこのまま雨が降り込むのですね。
そんな当たり前の事が現代に生きる自分の中から消えています。
お参りするために拝殿にあがりました。

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振り返った景色です。日本ってなんて美しいんだろう。

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境内にひときわ大きくそびえる御神木はイチイカシ。
由緒書きを読んでみます。(一部現代語に変更)
郷社 中津屋神社
御祭神 神功皇后 八幡大神 住吉大神
この逍遥でもう何度も登場した神々です。
八幡大神は皇后の御子の応神天皇ですね。
由緒
当社は夜須(やす)郡の祖社であって、宮所は古くから社伝に
「神功皇后が新羅を征討しようして、まず諸国の軍衆をこの地に召集され、
中宿(なかやど・屯営)とした事により「中つ屋」と呼ぶ。
ここに集まった軍衆に命じ、兵器を砥ぎ磨かせたので、砥上の地名を残した。

征討進発に当たり、軍議を催し、武神なる武甕槌神(たけみかづち)を勧請して
皇軍の武運を祈り、三韓平定が成功するように奏上されたと伝える。
現在、砥上嶽の山上に武宮(たけみや)があるのはこれである。(以下略)
由緒には「新羅を征討しようとして」と書いてありますが、
流れからは「新羅」でなく「熊襲」を討つのが正しいでしょう。

兵器を砥いで磨かせたというので、敵は目前です。
弥生時代の甕棺の骨に刺さっているのは石の武器だそうで、
ここも一般の兵士は石戈や石剣を磨いたのでしょう。

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境内の裏手に2本の木があって注連縄がかけてあります。

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その奥に砥上山の山頂にある「武宮」の遥拝所の石碑がありました。
左は道になっていて、砥上山の連山が見えました。

町の案内板の一部。
町名の「やす」は神功皇后がまつろわぬ在地の豪族・羽白熊鷲を滅ぼして
「わが心すなわち安し」と語ったことに由来する。平成7年3月
と書いてあります。「夜須町」は平成の合併で「筑前町」に変わっています。
これに該当する日本書紀の部分は
3月20日にソソキ野に着いて、すぐに兵を挙げて羽白熊鷲を討って滅ぼした。
側近に「熊襲を討ち取った。これで私の心は安らかだ。」と言った。
それから、そこを名付けて安(やす)と言うようになった。
「ソソキ野」と「安」はここになります。
ここもまた歴史のある地名が消えました。

上の文をじっくりと読むと、「羽白熊鷲」を「熊襲」と呼んでますね。
ここではいわゆる熊本や鹿児島の熊襲ではないのが分かります。

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それにしても山際のお宮は本当に気持ちがいいです。
戦いの前の武人たちの緊張した記憶なんか遥かかなたに掻き消えていました。

地図 砥上神社







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by lunabura | 2011-10-31 13:46 | (タ行)神社 | Trackback | Comments(4)

御笠の森・神功皇后の笠が飛んだ


御笠の森
みかさのもり
福岡県大野城市山田2丁目 
神功皇后の笠が飛んだ

お待たせしました。
今回から羽白熊鷲との戦いのルートを歩いて行きます。

下関市の忌宮神社(いみのみや)に行って分かったのは
そこが仲哀天皇が宮室をたてた穴戸(あなと)の豊浦宮であって、
新羅の塵輪(じんりん)から都を襲撃されていた事でした。
すでに新羅との戦いは始まっていたのです。

実は仲哀天皇は塵輪に攻撃される前に
下関市から北九州市、豊前市、宇佐市にかけて、
木を切り出して、船を48隻も作らせているのも分かりました。
これらは日本書紀には書かれていない部分でした。

これらの事から分かった流れは、
仲哀天皇は船を48隻造らせて、新羅攻撃の準備に取り掛かっていた。
ところが新羅の塵輪と熊襲の連合軍が豊浦宮を先制攻撃。
かろうじて仲哀天皇が塵輪を射殺して勝利を収めたが、
護衛の阿部高麿、助麿の兄弟は戦死してしまう。

そのために天皇一行は防府市の佐波に避難していたが、
ついに香椎宮に遷宮して、本格的に戦闘の準備に取り掛かった。

軍事訓練をする中、会議で武人たちは先に新羅を攻撃する作戦を勧めたのに、
仲哀天皇は熊襲攻撃に執着した。
仲哀天皇の意向に従い、皇軍は御勢大霊石神社で布陣をして、
宝満川を挟んで羽白熊鷲に対峙したが、天皇が矢で討たれて崩御してしまった。

仲哀天皇の突然の崩御の理由を知るために、皇后が小山田斎宮で神託を聞くと、
神々は熊襲より新羅を討てと勧めた。
しかし神功皇后もまた神々の意見を聞かずに羽白熊鷲攻撃を決意する。
(田油津姫がこの場にいて、皇后を暗殺しようとして失敗している。)

そこで新たに立て直した作戦は陸路と水路の挟み打ちをする事だった。
神功皇后自ら本軍を率いて、陸路を進軍した。

その途中、皇后の笠が吹き飛んでしまう。
この笠が飛ぶ話は日本書紀に書かれているんですね。
仲哀9年2月6日。仲哀天皇は崩御。
3月17日に皇后は熊襲を討とうと思って、香椎宮(かしい)から松峡宮(まつお)に遷った。
その時、つむじ風が起こって御笠が吹き飛んだ。そこで人々はそこを御笠と呼ぶようになった。

それがこの森です。

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廻りは道路と住宅街ですが、見事に残されていました。
鳥居があればまるで神社のようです。

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古木がそのままに遺されていました。

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森の中に入る事が出来ます。森の中は異空間です。
この石は万葉歌碑。

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おもはぬを 思ふと言はば 大野なる 御笠の森ぞ 神し知らさむ

太宰大監 大伴宿禰百代作

読み方はこれでいいのかな…。
漢字は原典は万葉仮名だったので、適当でいいんですが、
ひらがなが上手く読めない…。意味もよう分からん…。
(hurutakaimasakiさんに読み方、教えていただきました。ありがとうございます。)

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何やら祠もありました。説明板があったので、書き写します。
笠が飛んだ話
武内の宿禰以下大勢の軍兵を率いて、香椎の宮から大野に出られ、
宝満山から流れ出て博多湾にそそぐ川(御笠川)のほとりを、
荷持田村(のとりのたふれ)をめざして南に向かわれた神功皇后が、
筒井村の辺りまで進まれた時に、
いたずらなつむじ風が皇后の笠を奪ってしまったのです。
そこで土地の人は笠がぬげたところに、「笠抜ぎ」という地名をつけました。
上筒井小字笠抜の地名は、こうして起こったということです。

空高く舞い上がった笠は風に乗ってくるくる廻りながら、
北へ北へと飛んで行って、一キロメートルはなれた山田村の森の
大きな楠の梢(こずえ)にかかってしましました。

お供の人はこの笠を取ろうとしますが、高すぎてなかなか取れません。
事情を聞いた村長(むらおさ)は森の神様にお願いするほかはないと思い、
お供の人たちと相談しました。そして、森の前で神様に奉納する舞がはじまりました。

すると枝にからまっていた笠のひもは、ひとりでにするするととけて、
笠はひらひらと舞い降りてきました。
大変喜んだ村人達はそこを「舞田」(まいでん)と呼ぶようになりました。

赤司岩雄著『大野城市の伝説とその背景』より抜粋

さすが地元には地名と共に詳しい話が残っていました。
こうして伝えられるとありがたいですね。

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しかし。るな的にはどうも納得できない。
笠が一キロも飛ぶ?
しかも笠が飛んだことが、神様に舞を奉納する騒ぎにまで発展する?
そして、日本書紀にわざわざ書くほどの事件だった?

きっと誰しもがこう思う事でしょう。
何らかの暗喩なのでしょうが、残念ながら謎は解けませんでした。
地元の神への挨拶が出来てなかったという事なのかな…。






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by lunabura | 2011-10-29 14:50 | <地名・地形・伝承> | Trackback | Comments(19)

和布刈神社(1)福岡の最果てに巨大な磐座があった

和布刈神社(1)
めかりじんじゃ
福岡県北九州市門司区
福岡の最果てに巨大な磐座があった 

高速道路のパーキングエリアに「めかり」があるので、そこは利用するけど、
その大元の和布刈神社(めかり)に行くのは初めてでした。
和布刈公園だって行ったことあるのに、神社は…。

その和布刈神社は門司の最奥にありました。
国道3号線と分かれて海岸寄りの道を走ると、巨大な鳥居があって
崖と海の間の道を走るようになります。

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神社入り口のようす。

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左は海。正面の山は海を隔てた本州の火の山です。

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関門橋が真上を通っていて、騒音が半端ではありません。
まさか神域の上をガタンガタンと音を立てて走っていたかと思うと…。
ちと背中が寒い。

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しかし境内はそんな事をものともせずに神秘性を保っていました。
社殿は壇ノ浦、下関港の方を向いて建っています。
もう絶壁と浜の隙間にいます。

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左に廻り込むと、火の山が美しい台形で見えています。
目の前の関門海峡は早鞆の瀬です。

そして、振り返って神殿を写そうとして、何これ?!
い、盤座(いわくら)!!!
し、しかも巨岩!!!
お懐かしや…。巨石にこんな所で会えるなんて…。
ここは海抜0mの所ですぞ。山の中ではないのに…。
まさか、まさかの御対面。

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よく見ると、神殿は盤座に食い込んで建てられています。

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全容が分からない。

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穴が刻まれているので、アップで撮ったら、
後の岩はまるで人面石みたいになってしまった…。

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右の方はどうなってる?
神殿の右側に廻って撮ってみると、おお、注連縄が張られている。

ここは盤座信仰の神社だ!
和布刈(めかり)神事が有名だけど、もともと盤座信仰の神社なんだ。

この岩は九州の岬の果てに置かれている。
楯崎神社と同じだ。(すんまっせん。まだ紹介していない。)

と想定外の盤座に、テンションが上がりっぱなしでした。
(つづく)


というところで。
カレンダーを見ると今日は2周年の記念の日です。
いくつかの神社の四季と祭事でも書こうと思って始めた『ひもろぎ逍遥』ですが、
いつのまにか福岡中を走り回っています。
神功皇后のおかげ?で知らない町にも沢山行きました。

2年目は思いがけず、人さまの前でお話をする機会を与えていただいて、
古代の福岡が博多湾から有明海まで海でつながっていた話や、
神功皇后の移動ルートのようすなどをお話ししました。

多くの方との出会いもあって、
ブログで発信して本当によかったなと思っています。
マイペースでぼちぼちと書いて行きます。
これからもよろしくお願いします。 (^-^)/
                            綾杉るな





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by lunabura | 2011-10-25 09:23 | 和布刈神社・めかり・北九州 | Trackback | Comments(7)

和布刈神社(2)和布刈神事と干珠満珠の秘法


和布刈神社(2)
和布刈神事と干珠満珠の秘法


和布刈神社では毎年、旧暦の元旦早朝3時ごろに、神官が松明を灯しながら
海に入ってワカメを刈りとる和布刈神事(めかりしんじ)を行っています。
これについて調べて行くと、安曇の磯良神功皇后に起源がありました。
今日は福岡県神社誌から該当部分を抜き出して訳して行きます。

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神功皇后は角鹿(つぬが)から豊浦に来た時、
海の中で如意(にょい)の珠を手に入れて、とても喜んだ。

一方潮干珠潮満珠の法を得た神人がいて、安曇磯良と言った。
常に海の事を業とするので、神功皇后はお迎えしようと
琴、鼓、笛で演奏しながら海辺に船を浮かべた。
すると磯良が海底から浮かんで出て来て船までやって来た。
そして潮の満干の珠の法を授けた。(志式神社参照のこと)

これが宝珠を得たという事で、皇后は大いに軍船をととのえて、
三韓を征伐し、穴明の沖都嘉利島に凱旋し、
豊浦宮に斎の宮を建てて天神地祇を祭った。
また山田邑に三筒男神の荒魂を祭った。(穴門住吉荒魂神社がこれである。)

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速戸には比売大神と安曇磯良神ほか三柱の神を祭った。
(和布刈神社速戸大神がこれである。)
また安曇磯良の神が捧げた満干の珠は
皇后の考えで和布刈の北の海上一里の所にある奥津島辺津島(今の満珠干珠島)
に納め、和布刈神社にも満珠干珠のしるしが伝えられた。
今は金銀白銀で包んで秘封してみだりに見る事は出来ない。

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毎年12月晦日の夜中(元旦の早朝)にワカメを刈り、
元旦の朝の神供として奉る。(旧暦)

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これは安曇磯良神が海底に入り、潮干珠潮満珠の法を
息長足姫尊(おきながたらし姫・神功皇后)に授けた遺風である。
それ以降西門鎮護の神として歴代の将軍や領主の崇敬があつい。

最後に書かれている文からは、このワカメを刈るという動作が
海中にある満珠干珠を手に入れるようすを模写したものだと
考えられていた事がわかります。

福津市の宮地嶽神社では大晦日の松明を消す時にワカメを使って消します。
ワカメは海人族の大切なアイテムで、この大晦日から元旦にかけて、
各地の海人族の宮で色んな形で使われている可能性があります。

そして基盤には安曇の磯良への信仰があります。
ワカメの生命力を得ることを願うのに加え、
潮の満ち引きが誕生と死を司る事への畏敬、
そして津波の制御への願いが込められています。

この和布刈神事は対岸の住吉神社の方でも行われていて、
そちらは秘儀が保たれて、人知れずになされているそうです。

比売大神について
コメントで少し話題になったので、この神社の比売大神について
確認しておきましょう。
神社誌では祭神は
タギリヒメ命、イチキシマヒメ命、タギツヒメ命、ヒコホホデミ命、
ヒコナギサタケウガヤフキアエズ命、豊玉姫命、安曇磯良神
となっています。

和布刈神社の方では
比売大神、ヒコホホデミ命、
ウガヤフキアエズ命、豊玉比売命、安曇磯良神

です。これを単純に付き合わせると「比売大神=宗像三女神」となります。
しかし和布刈神社のHPでは「比売大神=天照大神」となっています。
HPの写真を見ると盤座に丸い浮彫があるのが見えます。
太陽だと思われます。
一時期、修験僧が入って大日如来を彫った可能性を考えました。
その時、比売大神が天照大神と習合したのではないかと想像しました。

比売大神についてはここでは確認だけして置きましょう。

まとめ
さて、この目の前の関門海峡、早鞆の瀬は一日に4回流れが変わります。
現代でも通行する船には潮流の変化を知る水先案内人が乗る事が
義務付けられているとか。
日々刻々変化していく潮汐の時間や地形が分かる人でないと通れない難所です。

古代ではこの潮を知り尽くしていたのが熊鰐の一族です。
熊鰐一族は洞海湾を中心に住んでいたのが分かって来ました。
彼らは神武天皇より前に住みついていました。
これについては、また後日、探索して行きましょう。

今回、和布刈神社に来て驚いたのは巨大な盤座だけではありませんでした。
安曇磯良を神功皇后が祀った事に大いに驚きました。
だって先月、風浪宮でも安曇磯良が祀られていたのを知ったばかりでしたから。
福岡の北と南に彼を祭ったのです。

これが意味する事を整理してみましょう。

干珠満珠の珠は潮の満ち引きや生死、津波を意のままにする宝珠であり、
アントン・イソラがその秘法を神功皇后に授けました。

安曇はアントン、アンドンと読んでいました。

イソラとはシリウス星の事です。
津波の到来を知るために筑紫で観測されていたのがシリウスでした。

水平線から昇るシリウスが天変地異を教えてくれたことから
安曇磯良は海底からフジツボだらけになって上って来る神という形になりました。
白い布で顔を隠すのは、夜空の中で一番輝いていて、
凝視すると眩しく感じるからだそうです。

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昨夜、夜空を見たら、12時過ぎのシリウスは東の空にあり、
キラキラと色を変えながら輝いていました。赤や青、白銀などなど形容が出来ません。
シリウスはじっと見ていると、意識があってこちらに語りかけて来るような錯覚を起こします。

そして、その上の方を見るとオリオン座が天頂を目指していました。
オリオンの三ツ星が住吉大神です。
三ツ星はこの時間は縦に並んでいました。沈むころには横に並びます。
旅する者には時間と方向を教えてくれる守護神です。

シリウスの化身の安曇の磯良をここに祀ったことは、
シリウスを守護星とした安曇族が関門海峡の制海権を持つ事を皇后が宣言した事になります。
これで安曇族が筑紫の海のすべてを制覇しました。

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しかし霊的な意味を考えると、
筑紫に津波が来ないように祈りを込めた結界であり、
外敵から国を守るための結界でもありました。

このあと神功皇后は豊浦宮を経て、近畿を目指します。
関門海峡はその西の門として安曇族と住吉族に守らせたのでした。
比売大神が三女神だとすると、宗像族もこれに参加することになります。

地図 和布刈神社 住吉神社





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by lunabura | 2011-10-24 13:59 | 和布刈神社・めかり・北九州 | Trackback | Comments(14)

住吉神社(1)長府一の宮・今なお荒御魂のおわす宮


住吉神社(1)
下関市一の宮住吉1-11-1
長府一の宮 
今なお荒御魂のおわす宮

仲哀天皇殯斂地(ひんれんち)を後にして住吉神社に向かいました。
今回は古代の道の名残を残す山越えルートを選びました。
道は舗装はされているけど、細くてカーブだらけです。
ピークを越えて広い道と交差する所にようやく出たのですが、
信号のない斜め向こうに進むのは難しかったです。

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山越えした後に見たからか、この宮の広大さに驚きました。

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朱の色は旅人にとって安堵の色だと痛感します。

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そして希望の色でした。

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さらに高揚の色でした。

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見上げれば、ここもまた海の民のしるし。

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随神像はなんと鎌倉時代のもの。色も鮮やかです。
武士の活躍する時代に、このやわらかな表情が最高の美学だとすると、
鎌倉時代がいかに典雅な時代だったか、これまでの印象が覆ります。

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拝殿です。

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天文8年(1539)に毛利元就が寄進したものです。
その舞台は安芸の厳島神社の美しさに力強さを加えたものでした。

ここに立つと香椎宮を思い起こされずにはいられませんでした。
楼門から神殿までの距離感がよく似ていたのです。
それは歩いたものだけが分かる感覚でした。

そして、ここにはもちろん神功皇后が祀られていました。
ちょうど見えている奥の第四殿がその神殿です。

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神殿は五つの屋根を持ち、それぞれに神々が祀られていました。
第一殿 住吉大神(底・中・表筒男命)の荒御魂
第二殿 応神天皇(八幡大神)
第三殿 武内宿禰命(高良明神)
第四殿 神功皇后(息長帯比売神)
第五殿 建御名方命(諏訪明神)

この神々はこの『ひもろぎ逍遥』でずっと共にあった神々でした。
私はいったい何度、この神々の名を書き綴ったことでしょう。
感動したのは細い道を辿って来たからだけではありませんでした。

住吉神の荒御魂だけでなく、すべてが祀られていた。
そして今なお生き生きと躍動してこの国を守っていた。
(つづく)

住吉神社・長府




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by lunabura | 2011-10-23 17:44 | 住吉神社・下関市 | Trackback | Comments(12)

住吉神社(2)竹内宿禰の手植えのクスノキと木材加工


住吉神社(2)
竹内宿禰の手植えのクスノキと木材加工


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正面から右の方に行くと摂社がありました。
そこからさらに左の奥に行くとクスノキの大木か現れて来ます。

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さらに進むと武内宿禰命御手植えの楠がありました。
武内宿禰は孝元天皇(人皇第8代)の曽孫で、景行、成務、仲哀、応神、仁徳の五朝に仕えたといわれる。
仲哀天皇に従って熊襲を討ち、天皇が崩御になると、神功皇后をたすけて新羅をしたがえるなどの偉功(てがら)があった。
本社では第三殿に祀られている。その手植の楠の古株から新根が生え、根周りは60m余にも及ぶ大木となっている。
住吉神社々務所

境内の中でも一番のパワースポットと案内されていました。
まさかこんな古木に逢えるとは思っていなくて感動しました。
樹齢2000年の楠は風浪宮宇美八幡宮にありましたが風格は同じ。
そして同じように根元から二つに分かれて洞が出来ていました。
ここは手つかずの神域なので植生も昔のままです。

楠の自生の北限は福岡市東区の立花山だという事なので、
ここは手植えされたものという事になります。
その手植えした人が本当に竹内宿禰だとしたら、これもまた感慨深いものがあります。
もう白髪のおじいちゃんにしないでね。
彼だって若々しい躍動的な時代があったんですから。

楠は船の木材になります。だから各地の神社に残されているんだと思います。
洞が出来た楠はそのまま船になったそうです。
福岡の多くの山が杉林になってしまっているので、
こうした太古からの自然の森に入ると本当に感激します。

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クスノキのそばに稲荷神社がありました。

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境内全体から見ると右側、丘のピークにあります。
何故かどの神社の稲荷も向かって右側にありました。まだ例外に出会っていません。
かならず右側で、一段高いか、丘のピークにあります。
この稲荷社の右の方は崖でした。
吹き上げて来る風を利用して鉄の加工をしていた所だと思いました。

ところで、弥生時代に船の木材をどうやって加工したのか?疑問がありました。
それであちこち資料館も廻ったりもしたのですが、
もう鉄器が入って来て随分経つんですね。

特に新羅(辰韓)は鉄の産地だった。その資源を求めて戦いが起こっている訳です。
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この机を見て下さい。
福岡埋蔵文化センターで復元されたレプリカで紀元200年頃の机です。
本物は九州国立博物館にあります。
板が1センチ近い厚さに加工されています。
脚だってカーブに加工されています。これが弥生時代です。

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これは下関市豊浦町川棚の中ノ浜遺跡で出た弥生時代の小壺。
(山口県埋蔵文化センター所蔵 遺跡展は終了です。)
アートの心も抜群。

蚕(かいこ)も豊浦宮(忌宮神社)に献上されたし。
けっこう文化度の高い暮らしだったんですね。
(つづく)



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by lunabura | 2011-10-20 19:30 | 住吉神社・下関市 | Trackback | Comments(2)

住吉神社(3)住吉大神と神功皇后


住吉神社(3)
住吉大神と神功皇后

神功皇后住吉大神はどのような関わりがあったのでしょうか。
住吉大神は日本書紀でも意外にも沢山出て来ました。
これまでの逍遥で各話の現場が分かったので、
今回は神社名を紹介しながら、住吉大神が出てくるシーンを書いて行きます。

香椎宮 福岡市東区香椎
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仲哀8年秋9月5日に、仲哀天皇は群臣たちを召して、熊襲攻撃について協議させました。
その時、皇后に神が懸かって神託がありました。
「天皇よ、どうして熊襲が服従しないのを憂うのか。
そこは例えれば、肉のついていない背中のように痩せた国であるぞ。

兵を挙げて討つほどの国であろうか。この国より宝がある国がある。
例えれば、乙女の眉のように弧を描いた国で、
我が国の津に向き合った所にある。
眼もくらむ金・銀、美しい色が沢山その国にはある。
その名をタクブスマ(タクの木の繊維で作った布団が白い、
その白色の名を持つ)新羅の国という。

もし我を良く祭れば、刃に血を塗る事なく、その国はおのずと降服するであろう。
また熊襲も服従するであろう。
われを祭るには、天皇の御船穴門の直(あたい)ホムタチの献上した
大田水田
を供えよ。」
と言いました。

天皇は神託を聞いて、疑いました。
すぐに高い山に登って、はるかに大海を望みましたが、広々として国は見えません。
天皇は神に答えました。
「私が見渡すと、海ばかりで国は有りませんでした。
大空に国がある訳でもありますまい。
どこの神が私をだまそうとしているのですか。
もともと私の皇祖の諸天皇たちからずっと天地の神々を祭って来ました。
どうして、それに漏れた神があるのでしょうか。」と。

すると、再び神が皇后に懸かって、
「天にある水鏡をのぞくように、われが天から下界を見ている国であるのに、
どうして国が無いなぞと、私の言葉をそしるのだ。
そなた天皇がそんな事を言って、最後まで信じなければ、
そなたはその国を得る事は出来まい。
ただ、皇后がようやく身ごもったので、その子が手に入れることになるであろう。」
と言いました。
しかし天皇はやはり信じないで、強引に熊襲を攻撃しました。
勝つ事が出来ないで戻って来ました。   (日本書紀)


小山田斎宮 古賀市小山田
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仲哀9年、春2月に、仲哀天皇が筑紫の香椎宮で崩御された時、
皇后は、天皇がご神託に従わなかったために早く崩御された事に心を痛めて考えました。
祟っている神を明らかにして、神の勧める財宝の国を求めようと。
そこで、群臣や百寮たちに命じて、国中の罪を払い清め、過ちを改めて、
さらに斎宮を小山田の邑に作らせました。

3月の1日に、皇后は吉日を選んで、斎宮に入って、自ら神主となりました。
その時には武内宿禰に命じて御琴を弾かせました
中臣の烏賊津(いかつ)の使主(おみ)を召して
審神者(さにわ)としました。
そしてお供えの織り物をたくさん、御琴の頭と尾のところに供えて尋ねて言いました。

「先の日に天皇に教えられたのはどちらの神でしょうか。
願わくは、その御名を教えて下さい。」
と。七日七夜経って、ようやくお答えになりました。
「神風の伊勢の国の度逢県(わたらいのあがた)の五十鈴の宮にまします神、
名は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命
(つきさかき・いつのみたま・あまさかる・むかつひめのみこと)。」と。

烏賊津の使主がまた尋ねました。
「この神以外に他の神はいらっしゃいますか。」
お答えがありました。
「旗のように靡くススキの穂が出るように出た吾は、
尾田の吾田節(あがたふし)の淡郡(あはのこほり)にいる神である。」と。
「他におられますか。」
天事代虚事代玉櫛入彦厳之事代神
(あめにことしろ・そらにことしろ・たまくしいりびこ・いつのことしろのかみ)有り。」
「他におられますか。」
「いるかいないか分からぬ。」
そこで、審神者が言うには、
「今答えずに、また後に出て来られることが有りますでしょうか。」
すると答えがあった。
「日向国の橘の小門の水底にいて、海草のように若やかに出てくる神、
名は表筒男(うわつつのを)、中筒男(なかつつのを)、

底筒男(そこつつのを)
の神がおる。」と。
「他におられますか。」
「いるかいないか分からぬ。」
ついに他に神がいるとも言いませんでした。
その時に神の言葉を得て、教えの通りにお祭りをしました。
(日本書紀)


現人神社 筑紫郡那珂川町

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皇后はこうして神の教えの霊験がある事を確信して、
さらに天つ神、国つ神を祭って祈り、西の方を討とうと思いました。
そこで神田を定めました。その時、儺の川の水を引かせて、神田を潤そうと思って、
溝(うなで)を掘りました。

とどろきの岡に至ると、大岩がふさがって、溝を通す事が出来ません。
皇后武内宿禰を召して、
剣、鏡を捧げて天地の神に祈らせて、溝を通そうとしました。
すると雷が急に鳴り出して、その岩を踏み裂いて水を通しました。
そこで人々はその溝を裂田溝(さくたのうなで)と言いました。 (日本書紀)


唐ノ松神社 中間市垣生
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ここはかつて遠賀川の中の岩の島だった。
神功皇后は帰途にここで住吉大神を祭り、渡海安全の祈願をして剣と鉾を奉納した。
そしてそのしるしに自ら松を植えた。 
(神社誌)


住吉神社 遠賀郡若松
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神功皇后は再びこの崗の津に着いて、
この丘に登って海上に浮かんだり飛び交う水鳥を眺めた。
この時、神功皇后は群臣を召して
「このたびたやすく三韓を従える事が出来たのはひとえにこの神のお蔭である。
その恩をひとときも忘れない。」
と言って自らの手で一株の松を植え、その根元に白幣を納め
「この松は神ともに弥栄に栄えよ。」祈った。
こうしてここを若松と呼んで住吉大神を祭った。(神社誌)


住吉神社 下関市
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戦勝を収めると軍に従った神、表筒男、中筒男、底筒男の三柱の神々が
皇后に教えて言いました。 
「我が荒魂を穴門の山田の邑に祭りなさい。」
と。その時、穴門の直(あたい)の祖、ホムタチ
津守の連(むらじ)の祖のタモミの宿禰が皇后に言いました。
「神が鎮座したいと言われる所には必ず定めて祭られますように。」
そこで、ホムタチを荒魂を祭る神主にして、
祠を穴門の山田の邑に立てました。(日本書紀)

近年まで8月15日には忌宮神社と住吉神社の神輿が会う祭があっていたそうです。

るなは考えた
日本書紀と神社誌から6つの神社を紹介しました。
これらから分かるのは
住吉族は最初から仲哀天皇と行動を共にしていましたが、
香椎宮で天皇の船と穴門の大田水田を求めていたという事です。
戦うための水軍の兵を住吉族は供給出来たのでしょう。
船が48艘も作られたらそれぞれに船頭や指揮官、水兵が必要です。
これらの取引が行われたのでしょうか。

住吉族の拠点は那珂川町の現人神社にあって、水田を作ろうとしたけど、
潮水が上がって来るので稲作が出来ずに困っていたのが分かりました。
そこで神功皇后と武内宿禰は裂田の溝(さくたのうなで)を作って、
水田が作れるようにしました。それを神田として供えたのです。

このあと新羅攻撃に勝利して再び豊浦宮へ戻る訳ですが、
神功皇后は各地で住吉大神を祭っています。(住吉大神を祭った所はまだ他にもあります。)

住吉族の神々を祀ると言う事は、戦争の褒賞として
その地の制海権を宣言して与えていく事だと考えています。
遠賀川の唐ノ松神社や住吉神社は船がよく見える島や岬の上でした。

しかし住吉族はそれだけでは満足せず、やはり穴門の制海権と水田を再び求めて来ました。
そこでホムタチとタモミの宿禰が譲歩して皇后に穴門を住吉族に与えるように勧めています。
そしてホムタチは住吉大神の荒魂を祀る祭主になりました。

神々の話を人間のドラマとして読み変えると、このような状況になりました。

皇后と住吉族の深い関わりは大阪の住吉大社へと続きます。
大阪の住吉大社の由緒や高良玉垂宮の秘密書などからは、
二者の間についての深い謎がまだまだ残っています。






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by lunabura | 2011-10-18 20:34 | 住吉神社・下関市 | Trackback | Comments(6)

忌宮神社(1)仲哀天皇が7年間天下を治めた豊浦宮


忌宮神社(1)
いみのみやじんじゃ
山口県下関市長府宮の内
仲哀天皇が7年間天下を治めた豊浦宮


仲哀天皇が7年間治世した豊浦宮がこの忌宮です。
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日本書紀から。

足仲津彦(たらしなかつひこ)天皇(仲哀天皇)は日本武(やまとたける)尊の第二子である。
天皇の容姿は端正である。身長は170~80センチ。
稚足彦(わかたらしひこ)天皇(成務天皇)48年に皇太子となった。31歳だった。
叔父の稚足彦天皇には男の皇子がいなかったので、
足仲津彦が皇太子となったのである。

成務60年に成務天皇が崩御され、
仲哀元年1月11日に皇太子は天皇に即位した。
仲哀2年1月11日に息長足(おきながたらし)姫尊を皇后とした。
その前に、大中姫との間には麛坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子が生まれ、
また弟姫との間に誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)が生れていた。

2月6日に角鹿(つぬが)の行宮・ケヒ宮を建てて住んだ。
3月19日から南国を巡狩して徳勒津宮にいた時、熊襲がそむいて朝貢をしなかった。
天皇は熊襲を討とうと思って船で穴門に行幸した。
その時、使いを角鹿に送って皇后に
「すぐにその港を発ちたまえ。穴門で逢いましょう。」と伝えた。

6月10日に天皇は豊浦津に着いた。
7月5日に皇后も豊浦津に着いた。この日皇后は海の中から如意の珠を手に入れた。
9月に宮室を穴門に興した。これを穴門の豊浦宮という。

宮室とは天皇の宮殿の意味で、皇居の事です。

帯中日子(たらしなかつひこ)の天皇は穴門(あなど)の豊浦宮、
また筑紫の訶志比(かしひ)宮にましまして、天下を治めた。

これは古事記の仲哀天皇記の筆頭の一文です。

さあ、仲哀天皇の皇居あとです。
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広大な境内の中心に一段高く神門があります。

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菊の御紋が目に入ります。

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拝殿前に出ました。堂々と風格がある宮です。

豊浦宮が忌宮神社となっているのは何故?


由緒書きから分かったことは
仲哀天皇が香椎宮で崩御されたのちここに神霊を祭った(豊浦宮)。
聖武天皇の御代に神功皇后を祀って「忌宮」(いみのみや)と称した。
さらに応神天皇を祀って「豊明宮」(とよあけのみや)と称した。
親子三人が並んでそれぞれ別殿に祀られていたが、中世時代に火災が起こったために、
合祀して一殿となり、総称して「忌宮」となった。
「忌」とは「斎」と同義語で、特に清浄にして神霊を奉斎する意味である。

ということでした。
もともと仲哀天皇の宮だったのが、合祀されていって、
火事に遭って再建された時には、神功皇后の忌宮が中心になってしまった訳ですね。
戦の途中で亡くなった天皇より、
戦勝の神として、また子安の神として女神様の方が人気が高かったのでしょうか。

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広い境内の片隅に神功皇后お手植えの「さかまつ」がありました。
必勝祈願して逆さまに松を植えたものが枯れて残っています。
皇后はあちこちに杉や松を逆さまに植えてましたよね。
逆さまなのはどういう事なんだろ。
つがるはずないのにと、現代人のるなはいつも不思議に思うんですよ。

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これは「宿祢の銀杏」(すくねのいちょう)。
当社の御祭神仲哀天皇、神功皇后、応神天皇に仕えた大臣竹内宿禰が植えたと伝えられる古木でその子孫が繁茂している。
銀杏は「生きた化石」ともいわれるほどに地球上で最も古くよりみられる植物で武内宿禰の長寿伝説と結びついている。

倒れんばかりの巨大な古木です。
竹内宿禰が植えた銀杏は織幡神社にもありました。
そこでは仲哀天皇をしのんで植えたと言います。
離れた所でこうして同じような伝承に出会うと、懐かしい気分になるので不思議です。

さて、日本書紀の「神功皇后」を『古事記の神々』に出していますが、
訳していてとても変だなと思う事がありました。
その謎がこの宮で解けたんです。
(つづく)
地図 忌宮





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by lunabura | 2011-10-10 21:10 | 忌宮神社・いみのみや・下関 | Trackback | Comments(18)

忌宮神社(2)新羅のジンリンと熊襲が皇居を襲撃していた


忌宮神社(2)

新羅のジンリンと熊襲が皇居を襲撃していた


忌宮神社の神門の正面に囲いがあります。

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「石鬼」と書かれていて、覗くと石があります。

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説明板を読んでみましょう。
数方庭(すほうてい)の由来と鬼石
第14代仲哀天皇は九州の熊襲の叛乱を平定のためご西下、ここ穴門(長門)豊浦(長府)に仮の皇居を興されたが、仲哀天皇7年旧暦の7月7日に朝鮮半島の新羅国の塵輪(じんりん)が熊襲を扇動し、豊浦宮に攻め寄せた。

皇軍は大いに奮戦したが宮内を守護する阿倍高麿、助麿の兄弟まで相次いで打ち死にしたので天皇は大いに憤らせ給い、遂に御自ら弓矢をとって塵輪を見事に射倒された。

賊軍は色を失って退散し、皇軍は歓喜のあまり矛をかざし旗を振りながら塵輪の屍(しかばね)のまわりを踊りまわったのが数方庭(すほうていー8月7日より13日まで毎夜行われる祭)の起源と伝えられ、塵輪の顔が鬼のようであったところからその首を埋めて覆った石を鬼石と呼んでいる。

新羅軍が直接上陸して皇室を襲撃!?敵将の名前はジンリン。
まさかの大事件です。この話は日本書紀には書いてありません。
さすがに書きたくなかったのでしょうね。

なるほど。これで神功皇后が海を渡ってまでも戦わないといけない理由が分かった。
日本書紀では仲哀天皇が筑紫に遷宮してまでも戦う理由を
「熊襲が朝貢しなかった」という事で済ませていました。
また新羅との戦いは金銀財宝の国を神が与えようと言ったのが始まりでした。

正直、この程度の事で戦う?と思っていたのですが、
皇居に熊襲と新羅の連合軍が襲撃したとなると話は違います。
国の存亡の問題です。

これなら再び襲撃されるのを防ぐために本国と戦うのは納得です。
これで謎が解けるゾ。

前回最後に書いた「訳していて変だと思ったこと」。
私が不思議に思ったのは、
「岡の県主(あがたぬし)の祖・熊鰐(くまわに)はどうして佐波まで迎えに行ったのか」
という事なのです。
都は下関市なのに、天皇たちは何故、防府市で待っていたのか。

その該当部分を日本書紀で確認すると、
仲哀天皇は紀伊の国に着いて、徳勒津宮(ところつのみや)に居ました。この時、熊襲が叛(そむ)いて貢ぎ物を献上しませんでした。天皇はそこで、熊襲の国を討とうと決意しました。(略)

仲哀8年春1月4日に仲哀天皇の一行は筑紫に行幸しました。その時、岡の県主(あがたぬし)の祖・熊鰐(わに)は天皇の行幸を聞いて、あらかじめ五百枝(いほえ)の賢木(さかき)を土から抜き取って、根の付いたまま九尋の船の舳先に立てて、上の枝には白銅鏡を掛け、中の枝には十握剣を掛け、下の枝には八坂瓊を掛けて、周防の沙麼(サバ)の浦に迎えに行きました。そして魚や塩の産地を献上しました。

この通り迎えに行ったのは豊浦宮でなく、佐波の浦です。

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地図を見るとよく分かりますね。

日本書紀は豊浦宮で起こった重大事件を伏せていました。
この戦いは、たまたま敵将を殺した為に勝利を治めましたが、
皇居直撃ですから、それまでの防衛線をすべて打ち破られていた事になります。

豊浦宮は対外的に危険な場所になったので周防(防府)まで避難したと考えられます。
だから、熊鰐が迎えに行ったのは佐波だった。
そして玄界灘を越えてまで戦う理由は攻撃こそ最大の防御だったから。
やっとすっきりです。

ちなみに弥生時代の戦いのようすが山口県の北西の海岸沿いに残っています。
土井が浜遺跡です。  http://inoues.net/ruins/doigahama.html(歴史倶楽部HP)
頭骨だけの埋葬とか、
至近距離から沢山の矢を打ち込まれた男とかが出土しています。
この一帯はかなり厳しい戦いがあった地域だったという事が分かります。

(つづく)


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by lunabura | 2011-10-09 14:36 | 忌宮神社・いみのみや・下関 | Trackback | Comments(11)

忌宮神社(3)斎宮・奉射祭・蚕種祭


忌宮神社(3)

斎宮・奉射祭・蚕種祭


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仲哀天皇神功皇后の当時の様子が伺える史跡や祭を集めて見ました。
(「忌宮」長府祭事記 宮崎善敬 などより)

忌宮はもともと斎宮だった
皇室では当時、宮に付属して「斎宮(いつきのみや)」を建てて神祇を祭るのだが、これが「忌宮(いみのみや)」の起こりである。

忌宮神社の南面の「壇ノ城」という所では神功皇后が三韓攻撃に際し、ここに祭壇を設け祭具を整え、忌籠り(いみごもり)して、ひたすら天神地祇の神助を祈願した。その祭壇と祭具を流した所を「壇具川」という。

近隣には皇后の足跡が他にも沢山ありました。

奉射祭(ぶしゃさい)1月16日
朝鮮半島の塵輪熊襲を扇動し、しばしば皇宮の付近を侵そうとしたので、仲哀天皇は筑紫の高麻呂、助麻呂という弓に秀でた兄弟を召して宮門の左右を守らせた。

塵輪は雲に乗って筑紫から長門に至り、衆賊を促して豊浦の海や陸を囲み、
空中から高麻呂、助麻呂を射殺したので、天皇はみずから弓矢を執って塵輪を射倒した。
奉射祭の「的」は塵輪の首を埋めた「鬼石」のそばに東に向けて置かれる。

「弓」は榊で作られて四王司山から刈り出す。
(四王司山は仲哀天皇2年に豊浦宮の守護神を祀った所。
筑紫にも四王寺山という重要な山がある…。)

「矢竹」は美祢市西厚保町の神功皇后神社の神苑より採る。
矢竹のまっすぐなものはほとんどない。試しに射ることなく神事に臨む。
「鋒」は昔は神功皇后の御神号を記した旗を付けていたが、今は紙垂(しで)を付ける。

この神事は秘められていたが、昭和56年から復元された。
石見神楽の系統の友信神楽には「塵輪」という演目が伝わっている。

おっ、塵輪の攻撃ルートは筑紫経由だ…。な、なんと、やすやすと…打ち破られたか…。

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(右端に見えるのが鬼石で、的はこの鬼石のそばに置かれる。)

蚕種(さんしゅ)祭
仁和3年7月、采女(うねめ)時原宿禰春風が言った。
「先祖は秦の始皇帝11世の孫、功徳王(功満王-こまおう)です。
仲哀天皇4年に帰化入朝し、珍宝蚕種などを献上しました。」
(「三代実録」巻53)
豊浦宮にて蚕が献上された。ここがシルク・ロードの東の入口である。

蚕は中国でも最高機密だった特産品です。
王女が髪の毛の中にしのばせて持ち出したエピソードが有るほど重要なものです。
皇帝の末裔が帰化するのに、これ以上の手土産はないですよね。

平成の現代でも、美智子皇后は蚕を飼って機織りをされています。
育てている蚕の中には古代の種そのままの貴重な種もあります。

先日の韓国ドラマ「トンイ」では朝鮮王朝の王妃が「蚕の祭事」をしていました。

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王妃は桑の葉をハサミで切り取り、

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蚕に桑の葉を与える。

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(蚕のアップ。王妃はその日は正装している!)


豊浦宮で最初に織られた絹はどんなものだったのでしょうね。

ところで、るな的には中国側の年代資料がついに出たのが気になる!
功満王の帰化年代はいつなんだ?

西暦195年となってる…!! ワオ。これって100%OKなの?↓

下関ブログ 蚕種祭
http://shimonoseki.tv/blog/blog/2009/03/%E8%9A%95%E7%A8%AE%E7%A5%AD/


(つづく)


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by lunabura | 2011-10-08 20:44 | 忌宮神社・いみのみや・下関 | Trackback | Comments(9)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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