ひもろぎ逍遥

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東郷神社・バルチック艦隊と戦った海を見下ろす


東郷神社と東郷公園
福岡県福津市渡
祭神は東郷平八郎命
バルチック艦隊との海戦が見える公園
 


NHKの「坂の上の雲」が最終回でした。
福津市の渡半島に日本海海戦がおこなわれた海域を見下ろす公園があり、
そのそばに東郷平八郎を祭神として祀る東郷神社があります。

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快適なドライブコースを走ると、一の鳥居が見えます。

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拝殿です。

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神殿です。奥の森の向こうは海です。

東郷神社の由来当神社は昭和10年5月に東郷平八郎元帥を祭神に創建されました。祭神は明治38年5月27日の日露戦争の日本海戦で我が国の連合艦隊司令長官として艦隊を指揮。

世界最強といわれたロシア・バルチック艦隊を海戦史上例のない戦法で完勝し、我が国を守りました。

そして昭和9年5月30日東郷元帥薨去と共に全国民の間から元帥を神として祀る気運が高まり、戦場を一望する元帥ゆかりのこの地に神社が創建されました。また春の例祭では海戦で戦没した日本とロシアの英霊を合わせてお祀りしています。
例祭日 春の例祭 5月27日 (旧海軍記念日)
    誕辰祭  12月22日 (祭神誕生の日)

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テレビでは渡哲也が東郷平八郎役をしていましたね。


4月、バルチック艦隊がシンガポール沖に達する。そこからウラジオストクまでの航路は二通り。対馬海峡を通る日本海コースと、太平洋を回って津軽海峡や宗谷海峡を経る公算も大きい。

日本は迎撃する艦隊を1セットしか持たないため、太平洋と日本海の2か所で待ち伏せすることはできない。しかし、この艦隊を全滅させなければ、日本は敗北する。

真之は対馬海峡を通ると想定して哨戒計画を立案するが、バルチック艦隊の行方は杳(よう)として知れない。なかなか対馬に現れないバルチック艦隊に業を煮やした真之は、東郷に艦隊の移動を進言する。

しかし「敵は対馬に来る」という東郷のひと言で移動を延期した翌日、「敵艦見ゆ」との電信が旗艦・三笠に届く。真之は大本営への電文に「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」と、日本が有利であることを象徴する一文を書き加える。 (NHKより)
この勝利が日本をロシアの植民地化から守ってくれました。
もし負けていたら、日本語を話す事も出来なくなっていたのですね。
改めて感謝したいと思います。


さて、主船の戦艦「三笠」を模した記念塔が建っています。
一の鳥居を出たら、お向かいの遊歩道を歩いて行きましょう。

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すぐに別れ道に出ます。どちらも頂上に着きますが、右は最後が急な石段です。
左は最初が少しきついけど、あとは緩やか。

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左を通ると芝生と桜の木が迎えてくれました。奥にあるのが目的の「三笠」。

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「日本海海戦記念碑」の文字は元帥伯爵東郷平八郎の書です。

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正面に廻り込むと砲台があります。
テレビでこれが戦艦「三笠」を模したと知って、この記念碑の意義が分かりました。

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さて肝心の海域ですが、
春や夏は桜が茂って海が見えるポイントが少ししかありません。

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海戦のようすがレリーフになっています。


今年になって、ロシアと日本の間にトンネルを作る話が飛び込んできました。
冗談だと思うけど…。
陸続きになるのは勘弁してね。


 
地図 東郷神社








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by lunabura | 2011-12-26 00:32 | (タ行)神社 | Trackback | Comments(2)

ドゴン族


ドゴン族
 

昨日、所ジョージの番組でドゴン族を訪問していた。
ドゴン族はシリウスが連星だという事を知っているという事を読んでから
とても興味を持っていた。
さっき、ネットで調べたら、それを書いた学者の捏造説が書かれていたが、
真実は分からない。

番組を見ていると、ドゴン族はアフリカの延々と続く断崖の麓に住んでいた。
明らかに造山活動による断層で、50mの高さがある。

町では彼らは凶暴な民族という噂を聞かされていたが、
真実は、彼らは多民族に奴隷にされそうになったが、
戦いを好まないので、水もない断崖に逃れて住むようになったという事だった。

土の家に住み、聖職者は一番高い所に、人に触れられぬようにして住んでいた。
彼らの神アモン(アマン?聞き忘れた)は一メートルほどの岩を御神体として祀られていた。(それに老人が寄りかかって座ってた…)
その傍で部族会議をするのだが、
会議所の屋根が低いのは立って喧嘩をしないようにという配慮だという。

たまたま祭があっていて、カラフルな衣装を着た女性たちが、
ぐるぐると一列になって廻っていた。
彼女たちの履物はちょうど竹馬のように、一本の棒になっていた。
その棒は50センチほどの長さだ。
「すべては旋回する」という事を象徴して、一列になってぐるぐると廻る。

それを見て思い出したのはずっと昔に見たドゴン族のビデオだ。
白黒で、映写樹が発明された頃に、
文化人類学者がドゴン族の祭りを撮影したものだ。

彼らは60年に一度、「シギの祭」をする。
1つの村が祭をすると、翌年、隣の村が祭を行う。
7つの村が順繰りにシギの祭を行うのだが、互いの村の内容は知らない。
一つ目の村が一列になってぐるぐる廻るダンスをする。
翌年、二つ目の村も同じように一列になって廻るが、衣裳の色が違った。
3年目だったろうか、黒一色の衣装になった。
4年目、記憶はあいまいだが、白一色になったと思う。
(人に貸したビデオが紛失して確認できない。)

この時、学者は気づいた。
これは「蛇の一生」を表す祭だ。
蛇が生れて成長し脱皮し(一時的な死)再生し、それを祝う。
これを一つずつの村が分担していたのだ。

これを見て私は衝撃を受けた。
60年に一度という、伝承する者が生存出来るぎりぎりの年ごとに、
この祭を行い、7つの村に分担させた。
いったいこの祭を演出したのは誰なのだ!

あの不毛のアフリカの大地に住むドゴン族の「シギの祭」。
自分たちはシリウスから来たと証言する映像も見た事がある。
ネットでは、捏造だと簡単に片づけているが、そうだろうか。

それはともかく、
所さんの番組はその60年に一度の祭に出くわしたのではないか、
と興奮した。
もしそうだったら、誰か7年間の祭を記録してくれていないか。

なんぞと思いながら目が覚めた。
私が福岡~熊本の有明海にかつて伝わっていた
「夜渡(よど)の祭」が「70年に一度の津波」を伝えるもので、
それを知らせるのがシリウスだという事を知って過剰に反応したのは、
このドゴン族の祭を知っていたからなのだ。

もちろん、有明海の場合は埋め立てが進んで、
そういう事はないだろうと祈っている。









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by lunabura | 2011-12-25 11:39 | にっき | Trackback | Comments(0)

「かに星雲」の和名と地震を知らせる白昼星見


「かに星雲」の和名と
地震を知らせる白昼星見
 

(牡牛座 M1、NGC1952) 
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かに星雲です。(http://www.wallpaperlink.comより)

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牡牛の右の角の先の赤丸の中、M1が「かに星雲」です。

超新星の残骸で、現在も膨張を続けています。
1054年の爆発が中国と日本で記録されている事で有名です。
またホピ・インディアンの岩刻画の星もこれではないかと言われています。
出現した時には白昼でも光り輝いていました。

眞鍋大覺は『儺の国の星・拾遺』でも、宋史と明月記の原文を引用して、
白昼に輝く新星が「かに星雲」だったと紹介しています。
九州ではこれにちなんで新しい名前が出来ました。
その一部をまとめて書き換えて紹介します。

中国の宋史の記事には1054~6年に新星が白昼の空にも見えていると書かれている。
藤原定家は明月記で、1230年に客星(見慣れぬ星)が出現したのを観察して、宋史にも1054年に客星が東南の空に数年出ていた事が書かれていると紹介している。これが今の世に知られた「かに星雲」である。

秋月の星
九州ではこの「かに星雲」を秋月の星と呼んだ。

古處の星(こしょのほし)

末法の世になって昔の聖人上人の諭すことが行われなくなった事を嘆いてついた名か。諸行無常の思いを月の明るさに託したと思われる。

筑前朝倉の「飽餐(きじき)」という地名、「姑狙(しそ)」という山名はこの時以来、
「秋月、古処」と改めたと語られている。

日本人は客星(見慣れぬ星)の出現にはほとんど無関心で、大陸の民族のように天下の大変を心配して戦々恐々とすることはなかった。来たるものは拒まず、去る者は追わずという大人的鷹揚さで眺め、秋の月の明るさと比較して鑑賞していた。

秋月の星は今も爆発した星雲が1年に0.40178秒の速度で拡散している。この星雲が満月の大きさに達するには3746年かかる。その頃になると少しずつ渦巻の模様が見えてくるかもしれない。

「あきつき」とは筑紫の古語で、「明日香舟(あすかふね)」即ち、有明の干潟を往来する「平舟(ひらはり)」の古語だった。
羽白熊鷲の根拠地である「秋月、古処山」は「飽餐、姑狙」と書かれていたのですね。
超新星がきっかけで美しい名に変わりました。

昼に星が見えることは重大な予兆です。
白昼星見と地震について
昼間に星が見えたことについて、西洋でも東洋でも枚挙にいとまのないほど、数多くの例が記録されている。人間が昼間に星影を見る事が出来ないのは、太陽が大気の分子を分散させて眩しい光の霞を厚くかけさせるからである。

しかし大地の底の異変がこの霞をあたかも科学的に溶解するような作用をする時には、昼間に光の霞が晴れて、星夜が幻のように一瞬のうちに現れる。

昭和20(1945)年1月13日の三河大地震の時には、11日に無数の星が散見した と語られる。日本の国運を支える最後の3年間分の特攻機三千機の発動機が一挙に壊滅し、もはや生産復旧の見込みは全く立つことなく、ついに米軍の琉球上陸占領を傍観せざるを得なかった悲痛な運命へと続いた。

景行帝9年(79年)のポンペイのベスビオス火山の大噴火の時には、シリウスが緑にいつまでも光を変えなかったことはローマ帝国に永く語り継がれた。

白昼星見の現象は稀だが、これから先の子孫に語り継ぐべき教訓である。
地震雲の研究の先駆けだった眞鍋大覚氏は
白昼に星が見える事を「地震や噴火の予兆」として警告しています。

地震雲については3.11以来、多くの人が関心を寄せるようになりました。
この「白昼星見」も多くの人に知らせていただけたらと思います。






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by lunabura | 2011-12-23 11:02 | <星の和名・天文> | Trackback | Comments(2)

弩(ど)弥生の出雲に弩が出土していた


弩(ど)
弥生の出雲に弩が出土していた
出雲・姫原西遺跡
 

平成23年の吉野ヶ里での「よみがえる邪馬台国―吉野ヶ里と出雲王国」で見たのは
弩(ど)の復元品でした。「おおゆみ」とも言い、
ボーガンとかクロスボウとかいうタイプの弓でした。
まさか、弥生時代の日本にこのような武器が…。
かなりショックでした。

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これは現代で販売されているクロスボウ。

出雲の姫原西遺跡から出土した弩の写真はこちら。
http://www.web-sanin.co.jp/orig/news2/9-0512a.htm

復元品はこちらです。
リンクに入ったら50音図が出てくるので、
「ド」だけを入力→リストを表示する→弩の復元品
島根県立古代出雲歴史資料館
http://www.izm.ed.jp/db/search50.php

比較すると基本構造は同じです。
臂(ひ)という木製品が銃の形をしているのも驚き。
人が持ちやすい形を追求すると時代を越えて同じものが使われるんですね。

ネットで調べると、出土のようすが分かって来ました。
場所 出雲市姫原町の姫原西遺跡 川跡とみられる堆積層
時代 弥生時代終末期(3世紀前期)の木製品
出土部位 ライフル銃の形をした臂(ひ)と呼ばれる弩の本体で全長91センチ
所蔵 島根県立古代出雲歴史博物館

この弩の出土により、弥生時代の戦争観がくつがえっていました。
(知らなかったよ。)
「3世紀前期」-これは仲哀~神功皇后の時代そのものです。
(4世紀説だと、さらに弩を使っていた可能性が高まります)

銅鐸や、その鋳型が吉野ヶ里と出雲の間で移動したように、
この弩が移動した可能性は高く、弥生時代の王たちが欲しがって、
神功皇后軍も所持していた可能性が出て来ました。

弩について中国では
戦国時代(紀元前5世紀~)斉の孫臏が弩兵1万を運用していた。
秦の始皇帝陵の兵馬俑坑から出土した。
唐の軍隊の約二割が弩を装備していた。

日本では
弥生時代 島根県 姫原西遺跡から臂(ひ)が出土した。
推古天皇紀 高句麗の使者が隋からの戦利品として弩を献上した。
奈良時代から各地を守る軍団の武器として二名に弩が配備された。

貞観8年(866)肥前国の一部郡司らが日本の国家機密である造弩法を新羅の一部軍勢に洩らして合同して対馬を奪取するという企てが事前に発覚して阻止された。
この流れから面白い推測ができます。

まず、徐福が佐賀県に上陸した時に弩を持って来た可能性がある。
徐福は秦の始皇帝から逃れて来たのだから、弩は当然知っているはず。
多くの技術を持って来たので、弩の製造法も含まれて、日本に伝えた?

貞観8年の「造弩法漏えい事件」を考えると
肥前国(佐賀県~長崎県あたり)では伝統的に弩を作っていた可能性がある。
(新羅と聞くと、磐井の君をついつい思い出す…)

弩の発射装置は青銅で作られるそうですが、
吉野ヶ里遺跡では鉄刀に青銅の持ち手を付けるような技術もありましたが、
この弩に関しては吉野ヶ里と限定せずに、肥前国全体に
弩を製作していた工房の存在を探してよさそうに思えて来ました。

弩は作るのも管理するのも難しいので、高度な技術集団がいたことでしょう。

実は弓矢については
忌宮(いみのみや)の仲哀天皇の話がずっと心に引っ掛かっていました。

新羅の塵輪たちが皇居を襲撃したときに、    
仲哀天皇はみずから矢で新羅の塵輪を倒した。

それを知って実は「え?」と思ってたんです。
仲哀天皇は弓矢が上手かった?
天皇は祭祀をする存在なのに、矢を射る訓練をしていたの?
弓矢なんかは簡単には射られないし、当たらないもの。
(まぐれ当たりか…。)

でも、この弥生の弩なら天皇でも射る事が出来ます。
忌宮の話がこれで納得出来ました。
秦の始皇帝の末裔の功満王が手土産に持って来たのかもしれませんね。

そして、羽白熊鷲が射られたのもこの弩ではなかったかと。

弥生時代についての認識が甘かったな~。とも思うのでありました。








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by lunabura | 2011-12-22 11:11 | 弩(ど) | Trackback | Comments(0)

羽白熊鷲塚・熊鷲は矢で倒された


羽白熊鷲塚
 

福岡県朝倉市矢野竹
羽白熊鷲は矢で倒された 

ついに羽白熊鷲の墓にやって来ました。
そこは前回の矢埜竹神社からわずか400mの所でした。
墓は寺内ダムの付属施設「あまぎ水の文化村」の敷地内にあります。

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「あまぎ水の文化村」は広大な公園。その中にある「せせらぎ館」に向かいます。

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流れる水をデザインした広大な長い階段を上って行きます。
ゲート前で既にテンションが上がったのに、この壮大さに感激。

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次々に現れる水のモニュメントを楽しみながら高みに登って行きます。

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そしてラストのゲートに入ると円墳らしき塚がありました。
これが「羽白熊鷲塚」です。
ただし、これは最近、移転されて造られたものです
説明書きがあるので読んでみましょう。(一部 変更)
羽白熊鷲の碑
仲哀天皇御代、木免(きづ)の国(筑紫の国)に未だ皇命を奏ぜぬ部族あり。その長(おさ)を羽白熊鷲(はじろくまわし)という。荷持田(のとりだ)に盤拠し権力遥かに想像を絶す。
 
神功皇后 新羅征討の途次、橿日宮(かしいのみや・香椎宮)に出陣中なりしが、かかる形勢を関知し、まず内患を断つ事の急務なるを悟り、従駕の臣・武内宿禰(たけうちのすくね)等と審議の末、巨魁羽白熊鷲を征討する事に決せり。

神功皇后ただちに軍容を整え、仲哀天皇9年(西暦391年)3月橿日宮を経て松峡宮に至り、激戦死闘の結果、ついに層増岐野において強敵羽白熊鷲の軍勢を殲滅(せんめつ)、この時聡明かつ沈着な神功皇后、左右を頼み「熊鷲を収得し我が心即ち安し」とのたまう。

羽白熊鷲の覇権の強大さここに歴然たり。
おもうに古代、我が郷土に一世を風靡せし人物を知らず。いま彷彿として羽白熊鷲の勇姿脳裏に去来す。われらはここに永遠に不滅の羽白熊鷲をねんごろに顕彰し碑を建立して辞となす。
平成14年12月  山本辰雄 謹選

引用文献
「日本書紀」「太宰管内志」「第二本時代志」「古事記」「延喜式」「筑前志」「筑前国続風土記」「考証三代実録」「筑後志」「朝倉風土記」など
香り高い文語体で書かれていました。
そう、羽白熊鷲は郷土の誇りなのです。
日本書紀なんかに、さんざんに書かれているのは、負けた者の宿命。
この矢野竹の地に散った弥生の王を愛さずにはいられません。

このクニは二度と立ち上がれないよう徹底的に滅ぼされたのでしょう。
地元の神社の伝承にわずか名を残しただけで、
日本書紀にも書かれた強大な王が居たということも忘れ去られていました。

この「あまぎ水の文化村」建設にあったってその墓が再発見され、
世に出て来たのも、不思議な流れです。
説明板の裏に由来が書かれていました。(一部変更)

羽白熊鷲の塚 由来記
「水の文化村」建設時、ここに羽白熊鷲の遺跡あり。
せせらぎ館の建設地と重なりし為に70m南に移転せり。
平成14年4月 甘木商工会議所施設運営の委託を受けし後、羽白熊鷲の存在を知る。
仲哀天皇の御代、領土を統治せし豪族 羽白熊鷲の塚とは余りに貧弱、不敬に亘るとし、ここに再度移転せるものである。
これを読むと「せせらぎ館」を建設する時に熊鷲の墓が見つかって南に移転したが、
郷土の皆さんが羽白熊鷲の存在を知って、郷土の豪族として改めて認識し、
移転した墓を問題視して、この目立つ場所に再度移転したのが分かります。

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彼の墓は、もともと何処にあったのだろう?
スタッフや地元の方々に伺ってその様子が分かりました。
写真に「せせらぎ館」と熊鷲塚を同時に撮りました。
本来の場所はプールの下辺りだという事なので、この写真の範囲内かも知れません。

もともと、ここは畑だったそうです。
墓は丸い石が置かれているだけだったそうです。
塚はなく、発掘した時も何も出て来なかったそうです。

建物の下になるので墓は一旦、上の写真の右奥の方に移転されました。

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この写真は塚の奥を撮ったもので、遊歩道があってアズマヤがあります。
その裏手に枯山水があって、さらにその裏側に廻り込み
榊が2本植えられた所に移されました。

現場の写真も撮ったのですが、これは一時期に移転された場所なので、
後の混乱がないように、写真は掲載しません。
確かに裏の裏というさみしい場所でした。

だから今のような堂々とした場所に移されたのは本当に良かったと思います。
本来の墓は無くなったのですが、開発のために再発見されて世に出たのは
多くの遺跡と同じように不思議な運命を感じます。

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このロケーションこそ、熊鷲の墓にふさわしいものでしょう。
墓石は塚の上に置かれたそうですが、写ってませんね。

「熊鷲の最期の場所」というのも伝わっていました。
それは「せせらぎ館」の裏の階段あたりだそうです。
熊鷲は矢で射られたそうです。
「近くの雑木山から矢で射られたと言うが、あんなに離れていて、
はたして矢が届いたのだろうか」と地元では話したりしているそうです。

電話だったので、その雑木山がどれかは分かりません。

「はたして矢が届いたのだろうか」という言葉がずっと気になっていました。

そして先日、忙しい中に無理して行った吉野ヶ里の出雲展で、思いがけない矢を見たのです。
  (つづく)

地図 羽白熊鷲塚










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by lunabura | 2011-12-20 22:18 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Trackback | Comments(0)

矢埜竹神社・皇后軍は矢の竹を切った


矢埜竹神社(田神社)
やのたけじんじゃ
福岡県朝倉市矢野竹
皇后軍は矢の竹を切った

矢埜竹神社は喰那尾神社から900mほどしか離れていません。
喰那尾(くいなお)神社は山の頂上にありましたが、
矢埜竹(やのたけ)神社は谷に下って行く所にあります。

ケンポナシの古木があるので有名らしいのですが、どの木かな。
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ガードレールの切れ目から入って数軒で目に入るのがこの巨木。これが神社の目印です。
このまま道を進むとすぐに突き当たるので右に曲がると境内の駐車場に出ます。

正面が何処か、よく分からず、きょろきょろして鳥居を見つけて
扁額を見ると「…埜竹…」という字が辛うじて読めました。

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このように時を経た物が好みなのでついつい写真を沢山撮ってしまいます。

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参道の長さはわずか10mほど。

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石灯籠が残っています。
石灯籠ってずっと昔の時代は一つだけだったそうですね。

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参道を終えて振り返るとこのように「下がり宮」になっています。
ここが「下がり宮」だというのは地元の方に教えてもらいました。
この特殊な形に特別な宮の思いがします。

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本殿です。

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本殿正面です。御祭神を隣家に尋ねたりしましたが、分かりませんでした。

この神社は何故か、あれこれと尋ねるのがはばかられて、
踏み込む気持ちになれません。

そして本殿の裏手に廻って驚きました。石の祠が真裏にあったのです。
隠れキリシタンのように、本殿でお参りすると
この祠を参拝するようになっていました。

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これがその祠です。
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神紋を見ると2本の矢が彫られています。「並び矢」です。

後で、紹介していただいた方に電話で尋ねると、現在ここは田神社というそうです。

羽白熊鷲の伝承がないかと尋ねたのですが、それは分からないという事でした。
皇后軍が竹を切って矢竹にしたという伝承は伝わっていました。
その特殊な竹は川の方、少し登った遺跡の所に今も生えているという事です。
遺跡がある?!と思ったのですが、具体的には尋ねそびれました。

矢は消耗品です。
皇后軍の兵士たちは矢じりだけは沢山所持していて、
矢竹は現地調達だったのでしょう。
矢に使える特殊な竹をここに見つけて、必死で矢を造ったのを
村人は見ていて、今に言い伝えたのではないかと思いました。

地図 矢埜竹神社









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by lunabura | 2011-12-19 17:36 | (ヤ・ラ・ワ行)神社 | Trackback | Comments(0)

喰那尾神社・皇后軍の陣営地

喰那尾神社
くいなおじんじゃ
福岡県朝倉市三奈木
皇后軍の陣営地 

前回の粟島神社から直線で約3キロ。
山見川ぞいを走ると緩やかな勾配です。
秋月カントリークラブを目指して曲がるとゲートの正面に鳥居がありました。

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鳥居が無かったら神社がそこにあるとは、とても分かりません。
鉄の階段を上って草むらをかき分けると、

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山道を発見。

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その先は草むらですが、道はあります。

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すぐに人の手が入った参道になりました。
木に掛けられた竹が結界を示しています。

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神祠の脇から境内に入りました。

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美奈宜神社上宮と書いてあります。
ここは喰那尾(くいなお)神社であり、美奈宜(みなぎ)神社の上宮です。
祭神は天照皇太神宮 住吉大明神 春日大明神。

この話は小山田斎宮から話が続いていました。
神社の伝承を写します。
創設
第14代仲哀天皇は山口県長門一の宮から筑紫方面へ軍を進めておられた。しかし、天皇は急に病気になって亡くなられました。神功皇后はこのことを秘めて武内宿禰等を従えて敵対する羽白熊鷲を討つために小山田邑を軍立ちされた。

当時熊鷲は、白髪山(古処山)を本城として良民を苦しめていました。皇后等は喰那尾山に陣を布き、武内宿禰の軍略を用いて之を討ちとられた。

そこで賊の大将を討つことが出来たのは、出発の時小山田邑でお告げをうけた「三神」のお助けによるものとして、三奈木川のほとり「池辺」の地に「ヒモロギ」を立て、神を招いて戦の勝利を奉告された。
美奈宜神社に尋ねたところ、
この池辺の宮(本宮・元宮)にあった神祠をここに遷したそうです。
池辺の元宮で神功皇后が祈ったのは羽白熊鷲を滅ぼしたあとの事で、
この喰那尾山はまだ戦争中の話です。
ここにヒモロギを立てて、神功皇后は神々に勝利を祈ったそうです。

ここに陣を敷いたという事で、辺りを見回すと、樹木が茂って視界は利かないけれど、
木が無かったら戦場が見渡せるような小峯のピークです。
しかし、かなり狭いので、
選(え)り抜きの親衛隊が少数で皇后を守っただろうと思われます。

元々ここは羽白軍の見張り台があったのではないでしょうか。
皇后軍はこの見張り台の存在を知っていたのでしょう。
ここを狙い、奪う事で有利に立つ作戦だったと思われます。

ここに至るまでに何度か戦いがあったようで、皇后軍は矢の補充をします。
それを伝えるのが次回訪れる矢埜竹神社です。

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帰りながら鉄の階段から一の鳥居と秋月ゴルフ場のゲートを写しました。
向こうの山々は戦ってきた秋月の方面です。

地図 喰那尾神社






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by lunabura | 2011-12-18 19:55 | (カ行)神社 | Trackback | Comments(0)

粟島神社・神功皇后の鎧かけの松


粟島神社
あわしまじんじゃ
福岡県朝倉市日向石
神功皇后の鎧かけの松の伝承があった 


私たちはいったん駐車場に戻り、秋月の城下町の中の道を通って移動しました。
秋月は「杉の馬場」から路地に入ると、江戸時代の空間が残っていて
武家屋敷などが店になったりしてとても面白い所ですが今回はパスです。
(皆さん是非探検してね。)

城下町を出ると秋月八幡宮のある山を廻り込みながら寺内ダム方面へ。
「秋月から寺内ダムに抜けられるの?」
「うん。もちろんよ。」
「そうなんだ!」
私が想像した羽白熊鷲の逃走ルートを車は走って行きました。

小石原川が緩やかに流れて、小さな盆地を形成しているような地形の中を走ります。
標高は高いまま、フラットな土地が開けていました。
右に左に、気になる形のいい山が。
「ほら、あそこ。」
「え?どこどこ?」
「山の所。」
示された左の丘を見ると石段が見えました。

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近づくと車道には大きな石碑もありました。

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舗装してあるけど農道みたいでそのまま畑に入り込む道です。
車で入ると、延々とバックで戻ることに。

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歴史ある石段!

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すぐに御堂があって、覗くと歩けないほどの急な石段が。
あれ?ここには何も祀られていない。
正面を上るのが、はばかられて見回すと左に石段があったので、そちらを上りました。

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振り返るとこんな景色です。
石段に手すりがついているのでここを上ってよかったんだ。
そして先を見るとまた御堂。そして左右にも石段。
どうなってる?

結局どれを通ってもよかったのです。
でも、地元の人にだけ分かる参拝の仕方があるんでしょうね。

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拝殿に出ました。
ここは神仏混淆の神社のようで、信仰が盛んなようすです。
由緒書きがありましたよ。
粟島神社の御神体である粟島大明神はその昔、神功皇后ゆかりの鎧かけの松の根元に祭られていたと言われ、寛政10年頃、石造りの神殿に納められ拝殿は嘉永年中に建立されたと言い伝えられ、霊験あらたかな神として今日まで永く信仰を集めてまいりました。
 近年拝殿の老朽化が激しくなりその左上方の土地を隣接者の御協力を得て造成を行い、又多くの方々の御寄附を頂き、ここに新しい神殿の建立に至ったところであります。

粟島大明神は女神にして腰より下の病に特に利玉有り子宝、安産の神と言われております。
又粟島神社は少彦名命大己貴命を共に祀り諸病平癒、商売繁盛を祈る神社であります。粟島神社の大祭は3月3日で毎月3、13、23日が成願日となっております。
この新しい神殿を期に御参拝の皆様がさらに大成願成就される事を祈ります。

 平成12年(西暦2000年)12月吉日

神功皇后の鎧かけの松の伝承が書かれていました。
場所は拝殿の下の古い境内のようです。

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少し探したのですが、場所は分かりませんでした。

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帰りながら境内から川の方を撮りました。日本の原風景のような光景です。
神功皇后もさすがに鎧を身に付けていたのですね。
同じ光景が見えたでしょうか。

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下りて山の方を撮りました。この山のどこかに羽白熊鷲がいます。
そして、皇后軍の別動隊も佐田川を遡ってあの山に向かっているはずです。

古代は敵の居場所も味方の居場所もどうやって分かったのでしょうか。
ここに立つと、皇后軍には地理が分かる案内人がいただろうと思えました。

マーサに尋ねました。
「帰りは寺内ダムを取ってもいい?地理関係が知りたい。」
「いいよ。すぐそこよ。」
こうして、皇后軍のルートをそのまま走って行きました。

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これは境内にあった石。地名は日向石
古代祭祀線が気になる場所でした。





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by lunabura | 2011-12-16 11:13 | 神社(ア) | Trackback | Comments(0)

秋月八幡宮・ここは羽白熊鷲の聖地か


秋月八幡宮
あきづきはちまんぐう
福岡県朝倉市秋月
ここは羽白熊鷲の聖地か
 

秋月のメインストリート「杉の馬場」に下りて来て、さらに奥に進むと鳥居がありました。
山の中に入っていく車道があります。
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歩いて行くと、まもなく右の下の方に湖が見えて来ました。
山の上に水がある…。

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と思う間もなく神社に着きました。
私たちは裏手から入っていました。

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これが裏の入口のようす。神殿の裏側です。

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正面に廻って驚きました。
こんな山の中にこんな大きな神社が建っていようとは。
私は既に入り口で由来書きを読んでいました。
秋月八幡宮由来
秋月八幡宮の歴史は古く、平安時代中期の940年、朝廷に謀反を起こした藤原純友の追捕使としてこの地に来た大蔵春実が、神功皇后の旧地とされる宮の丘(現在の社のある周辺)で戦運を祈願したところ、たちまち純友の乱を平定することが出来たことから、946年、この地に武人の守護神として神社を建立したのが始まりだと記されています。(神布皇后と書いてあるのですが、神功皇后と思われます。るな)

その後、鎌倉時代に遷り、1203年、秋月氏の祖といわれる秋月種雄公(大蔵春美の八世孫)が秋月の地に移り住むようになり、現在の社の本宮を造営したとされています。
社は秋月氏によって400年にわたって代々修造が加えられて多くの信仰を集めて来ましたが、秋月氏の高鍋への移封によって久しく退廃していったとあります。
藤原純友については、時々伝承に出くわします。
昔は道が沢山あった訳ではないので、移動ルートが重なったりしています。
ここの場合は純友と戦う大蔵春実が神功皇后の旧跡という事で、
この場所にやって来て祈願したという訳です。

純友の乱を平定した後に神社を建立しているので、
大蔵春実が参拝した頃は石が祠かがあったのでしょう。

江戸時代に入り1624年、秋月藩初代藩主黒田長興公が就封されてからは、
15年ごとに数次にわたって社の本宮、拝殿の改修が行われて、
施設が完備されると共に、夏秋二度の祭事が賑やかに行われるなど、
近隣の住民の信仰が大変厚かったと記されています。
現在も7月の夏祭り、10月の御神幸の御降りなどが行われています。

歴史のある郷土秋月でも由緒ある建造物として800年にわたって現在まで受け継がれている八幡宮は数少ない歴史的建造物となっています。
黒田長興公は前回の垂裕(すいよう)神社の祭神として祭られていましたネ。
長興公はこの八幡宮を守護神として信仰し、何度も修復を重ねています。

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この拝殿は鎌倉時代の建物なのですね。
拝殿の正面には「武徳門」と書かれています。
「武」の字は「戈(ほこ)を止める」=「戦いを止める」という意味なので、
この宮には「戦いでなく徳で治世する祈り」が込められています。

気になったのは、ここは山上なのに、とても広い事です。

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本殿の前の方です。

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これは本殿の左にある敷地です。石碑は忠霊塔でした。
本殿より少し低くなっています。
ここは大きな屋敷があってもよい広さです。
かなりの人数が生活でき、水は裏にある湖から得られる。
そして神功皇后軍の陣営「宮園の森」があった。

羽白熊鷲の居城はここなのだろうか。
それとも、非常事態のために造られていた山城?
この広さは何だろう。

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神木は古く、巨大でひたすら美しい。
その左下に写った鳥居は別の方向を向いていました。

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これは廻り込んで撮ったものです。

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そして本殿の方に歩いて行くと、まるで城壁のような構えです。
正面に立って参道を見下ろすと、

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絶壁に石段が付けられていました。
写真でも分かるように途中の階段が見えないほどの急斜面です。
さすがにこの石段を下りて再び戻ってくる気にはなりませんでした。

ここは山城だった?
水があり、広い敷地があり、二段になっている。
正面からはとても攻撃出来ない。
でも正面の石段は後世のものの可能性が高いし。

境内の端の変な向きの鳥居も気になって、一緒に行ったマーサに、
「さっきの鳥居の方が古いよね。」
「そう。もとの参道はそっちだったと私も思う。」
「今の拝殿はその後に造られた?だから祭祀線が違う。」
「そう。」
「ここが遥拝所ならどの山を遥拝する?」
「やっぱり古処山(こしょさん)でしょ。古い参道が古処を向いていると思う。」
「なるほどね。本殿あたりが聖域で、古処山を遥拝し、
左の敷地が祀り事をするための施設があった。
そして、いざと言う時の籠城用のものだった。」

ここは羽白熊鷲の祭祀場で、遥拝所だったのではないかという結論を出しました。
後談ですが家に帰って神社誌を読んでびっくり。
「社の南下向道の傍らの土中に、
古代の神供を盛る土器がいくらともなく今なお出てくる」と書いてありました。

やっぱりそうだ。祭祀用の土器が沢山出土している。
南下向道とは上の写真の石段の廻りだろう。
考古学的な調査資料が見たい。発掘調査されただろうか。

この土器を供えたのは羽白熊鷲の一族で、連綿として祭祀していた聖地だ。

敵の聖地を奪取することは、勝利を意味する。
この地を抑えた皇后軍は勝利宣言をしたに違いない。

しかし、戦いはここでは終わらなかった。
何故なら皇后軍の足跡はこの急な石段の向こうに続いている。
熊鷲たちはここを捨てて敗走して行った。
そして寺内ダムのそばで最期を迎える。

しかし、その間はどこを通って行ったのだろう。
もうこれ以上は分からない。

そう思いながら、
「マーサ。これで今日の予定は終わり。今日はありがとう。」
「そう?神功皇后の鎧掛けの神社なら、もう一つ知ってるけど。」
「え?鎧掛けの神社?そこ、そこ。
もう探せないとあきらめてたんだけど。近くにあるの?」
「うん。近いよ。行く?」
「行く。行く。連れてって。」
こうして、私たちはもう一か所の神社に廻りました。

地図 秋月八幡宮





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by lunabura | 2011-12-14 21:03 | 神社(ア) | Trackback | Comments(4)

垂裕神社(1)秋月のとりに皇后軍の駐屯地「梅園の森」


垂裕神社(1)
すいようじんじゃ
福岡県朝倉市秋月野鳥
筑前の小京都・秋月野鳥
のとりたのふれに皇后軍の駐屯地「梅園の森」がある


今日から再び神功皇后の話に戻りましょう。
羽白熊鷲を攻撃する皇后軍が
いよいよ敵地の見える老松神社まで進軍したところまでお話しました。

伝承はこの後、秋月の城下町で見つかりました。
秋月は小京都と呼ばれるように、しっとりとした城下町です。
大人の秘密のデートスポットにお勧めしようと思ったのですが、
久し振りに行くと観光客が多くてびっくり。
「大人のデートスポット」と変更しましょ。

この町が神功皇后の伝承を辿ると全く別の表情を見せてくれました。

何だったっけ?
そうそう、デートコースでなく、「荷持田村」(のとりたのふれ)探しでした。

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秋月は車でしか行けないのですが、近くに有料駐車場が沢山あります。
車を止めてからメインの「杉の馬場」の通りを歩きましょう。
入り口のバス停です。(あっ。なんだ、バスが通ってるんだ。)
ここは「郷土館前」です。「野鳥(のとり)」は次のバス停ですね。
でも、この場所の地名を調べると「秋月野鳥」(あきづきのとり)です。

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すぐ橋を渡ります。

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この橋の名前が「野鳥橋」。(のとりばし)

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この川の名前が「野鳥川」。(のとりがわ)
とても水質がよくて、染色家がここに引っ越して染め始めたら、
一際美しく染まるようになったと言っていました。

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ずっと桜並木が続きます。今は初冬なので、葉も散りました。

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ずっと歩いて行きましょう。

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武家屋敷が見えます。

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そうして桜並木が終る所に垂裕神社の鳥居が見えて来ました。

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石段を上ると黒門です。
人気スポットなので、人が写らないようにするためにずいぶん待ちましたぞ。

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この黒門あたりに皇后軍の駐屯地「梅園の森」があると伝えています。
秋月城からここまでがフラットな地形なので、
もともと羽白熊鷲もこの辺りに居城を構えていて、皇后軍と一線交え、
敗戦して逃走した後に、皇后軍が駐屯したのではないかと思いました。

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この地図で見ると、左から右に歩いてきたことになります。
野鳥橋、杉の馬場、秋月城趾、現在地です。
そして右下に秋月八幡宮と書いてありますが、
皇后軍の次の陣営がそこにあります。

その秋月八幡宮に行く前に、この垂裕神社も見て置きましょう。(つづく)








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by lunabura | 2011-12-13 14:02 | 垂裕神社・すいよう・朝倉 | Trackback | Comments(0)
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