ひもろぎ逍遥

lunabura.exblog.jp ブログトップ

<   2012年 01月 ( 18 )   > この月の画像一覧

魚鳥池神社・熊鰐があわてた皇后の船の座礁


魚鳥池神社
ぎょちょうがいけ
北九州市若松区払川
熊鰐があわてた皇后の船の座礁

日本書紀の神功紀でも印象深いのが、洞(くき)の海で皇后の船が立ち往生して、
熊鰐(くまわに)があわてて池を掘ったというお話です。
調べて行くと、なんとその現場が伝わっているではないですか!

そこで閃いてクミリンに案内を頼んだら、ばっちり彼女がよく知っている所でした!
ふふふ。彼女の案内なしには決してたどり着けやしなかった。誰もね。
だって、こんな所だもん。

c0222861_13531861.jpg

見渡す限り、田んぼです!ここは海だったのですが、江戸時代に干拓されました。
かつての岬は丘になっています。ここで皇后の船が立ち往生したと伝えています。
鳥が飛んでいる下辺りの黄色い田んぼの先にちょっと茂みがある所に石碑があります。

田んぼの真ん中への道案内をいったいどうしたらいいのだ…。

まずは県道26号線で快適に車を走らせると、福岡からだったら、
払川(はらいかわ)の信号から左折して、札幌ラーメン「えぞっ子」の横の道を右折。
(周りには人家がないからラーメン屋さんはすぐ分かる)
次に出て来る一軒家の隣に改良の記念碑が出て来ます。
その横に魚鳥池(ぎょちょうがいけ)の説明板があります。

c0222861_13535435.jpg

ここです。この石碑は関係なく、右にある小さな看板が説明板です。

c0222861_13541255.jpg

ガードレールの切れ目から奥に進むと井戸の跡がありました。
説明板から。
(前略)後の人は、この池を魚鳥池と呼び、石を組んで井戸にしました。
かつてこの付近は汐(しお)の入口でしたが、貞享年間(1684~1688)に干拓され、新田となりました。この池からはどんな日照りでもかれることなくおいしい水が湧き出、人々は飲料水としました。そのためこの池は、皇后の遺徳の賜(たまもの)と敬われました。(後略)
この海を江戸時代に干拓したけれども、湧水地が残って井戸になったようです。
皇后の遺徳の賜と敬ったという事なので、ここで起こった出来事を
江戸時代までは忘れられずにいたようです。

c0222861_1355283.jpg

さて、井戸から振り返って田んぼの向こうを見ると、遠くに石碑が見えます。
分かりますか?
目印として、すぐ隣に倉庫があります。この写真は入口になる道を撮ったものです。
これじゃあ分からない?
確かにね。でも幸いな事にこんな道は一本だけです。

c0222861_13552484.jpg

石碑に近づきました。
さきほどの説明板から。
この魚鳥池には次のような伝説があります。
むかし、仲哀天皇が熊襲征伐のため神功皇后と長門より筑紫へ向かいました。皇后は別の船で洞海(くきのうみ・洞海湾)から入りましたが、この辺りで潮が引いて船が進む事ができませんでした。

水先案内の熊鰐(崗県主・おかのあがたぬしの祖)は、恐れおののき、すぐさま魚沼(うおいけ)・鳥池を造り、魚や鳥をことごとく集めました。皇后はここに魚鳥のたくさん遊ぶさまをみられ、怒りの心もようやく和らぎました。(日本書紀)
まさに、ここのお話なんですね。
この何もない所に、よくぞ伝承が伝わっていました。
熊鰐たちが浅瀬に入って穴を掘ったのを、当時の人は遠くから見ていて、はらはらしたでしょうね。

説明板のつづき。(前掲の井戸の文が間に入る)
(中略)
このことを長く世に伝えるために明治35年、この池の西側に「魚鳥池の碑」が建立されました。

碑の中に「この魚鳥池は皇后の御心を慰め奉りし霊池なり。御休憩の間、御輿を掛けられたという御輿掛松の左側に魚鳥池神社あり、神功皇后を祀り奉れり。」と記されています。
この「魚鳥池神社」は、ここから北西の小高い松林の中にあります。
  北九州市教育委員会
そうか。皇后は船から降りて輿で岬の所に移動したんだ。
これじゃあ、ますます熊鰐は冷や汗もの。

c0222861_13575032.jpg

石碑から魚鳥池神社へと向かう道です。丘の右の方に鳥居があるのが見えますか?
この道をまっすぐ行くと三叉路になっています。
右に曲がってくねくねと丘を目指すと辿り着きました。道幅は車が一台通る程度です。

c0222861_1358998.jpg

魚鳥池神社です。この右に御輿掛の松があったそうですが、確認していません。

c0222861_13582857.jpg

石段を上るとけっこう広い境内です。両脇は斜面で、岬の地形です。
ご祭神は神功皇后 素盞鳴尊ほかです。

c0222861_135848100.jpg

拝殿から魚鳥池の方を見ました。緑の田が青い海だったんですね。
正面の山の向こうでは仲哀天皇が待っています。
次の満潮を待っていたら日が暮れそう…。何せ1月です。
日暮れは早いし、寒い事この上ない。

熊鰐が池を掘って慰めたというのがどうも気になるのですが。
大人の女性が鳥や魚で長時間楽しめる?

本当は脱出路を掘ろうとして間に合わず、
あきらめて満ち潮を待ったのだろうなと考えているのですが、
今では潮が引いた時に船が傾かないように、掘ったのかもしれないとも考えています。

それというのも大善寺玉垂宮の伝承に、新羅で津波の潮が引いて敵の船がひっくり返り、
皇后の船もひっくり返りそうになったという伝承があるのを知ったからです。
確かに潮が引けば船は傾くんだ。
だから熊鰐は必死で掘った。う~ん。軍配はどっちかな。

それにしても、日本書紀に書かれた現場がこうしそのまま残っている事に
けっこう感動したんですよ。
この近くを走る時、「ここは海だっただろう」といつも話していたのですが、
神功皇后の伝承地とは思ってもいませんでした。

さて、近くの神社伝承を調べていると、皇后の足跡がもう一つありました。
貴船神社です。次回はそちらに行きましょう。

地図 魚鳥池神社







ときどき、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2012-01-31 14:03 | (カ行)神社 | Trackback | Comments(4)

若松恵比須神社・竹内宿禰は海の底に光る石を祀った


若松恵比須神社
北九州市若松区浜町
竹内宿禰は海の底に光る石を祀った 

洞海湾の入口に若松南海岸というレトロな港の風景が残る通りがあり、
そこから区役所の裏手に向かうと若松恵比須神社があります。

神社は境内の三方向から入ることが出来て、
車は右側から入って許可を受けて境内に止める事が出来ます。
ここへ向かう目印は赤い若戸大橋です。

c0222861_1794747.jpg

「若戸」の名は「若松と畑」の文字を組み合わせたもので、
前回の戸畑から若松に行くにはこの橋を通らずにはいられず、
こうして境内に立つと、神社の境内を削って出来たのかなあ、
お世話になってるんだなあと思いました。

c0222861_17102870.jpg

これは正面のようす。橋の下から撮っています。

c0222861_1710464.jpg

これは左側にある一の鳥居です。

c0222861_1711670.jpg

かつてはすぐ近くまで波が打ち寄せていたそうです。
埋め立てが進んでいますが、それでも海のそばに来た開放感があります。
砂利の色が蜜色で、海の砂のように丸いです。

c0222861_17113024.jpg

恵比須神社の名の通り、拝殿には恵比須様の絵が。
本来の名前は事代主(ことしろぬし)です。

「若松」と言う地名は竹内宿禰がかつての美しい松林を愛でた事から付いた名だそうです。
あるいは手植えしたとも言われます。
そう、竹内宿禰は仲哀天皇一行と一緒に来ているのですね。

立札があったので、由緒を読みましょう。
由緒
当社は約1650年前の創建と伝えられ、往古、仲哀天皇・神功皇后が熊襲征伐のため、筑紫の国へ行幸啓された折、洞の海へと向かう皇后の船が進まず、武将・武内宿禰が漁夫に海中を調べさせたところ、「海底に光る石」が見つかり、「是は海童(えびす)神の心なり」という天皇の仰せによって、神祠に祀ったことに由来する。

武内宿禰はその後、再び当社近くの美しい海浜を訪れ、若々しい松が連なる姿を愛でたことから、この地を「若松」と呼ぶようになったと伝えられています。
この由緒をもし3年前に読んだとしたら、あまりよく分からなかったのだろうなと思います。
今では、御馴染みの三人組という感じで、な~るほどという印象です。

前回の飛幡八幡宮で、
戸畑の北の海にあった千曳(ちえい)の岩を仲哀天皇が祀った話が出て来ましたが、
そこで天皇と皇后は別の船に乗り換えて、広い洞海湾の入口を渡ったのでしょうか。
皇后の船が進まなくなって、船を寄せると、海の底に光る石を見つけて、
それを恵比寿神(事代主神)として祀りました。それが御神体となっているそうです。
他にも伝承がいくつかありますが、海の中の石を祀ったという骨子は同じです。

このような由来から御祭神は
事代主命(ゑびす様)、武内宿禰命
大山咋神、大物主神(だいこく様)
天照大神、豊受大神、素盞鳴大神
となっています。
恵比須神社に日吉神社が合祀されたそうです。

c0222861_17133076.jpg

拝殿横には「若松」の名にちなんで松が植えられていました。

c0222861_17134789.jpg

これは境内社「笠森稲荷神社」。
御祭神は宇賀魂神、イザナギ、イザナミ神、椎根津彦神、猿田彦神

c0222861_1714687.jpg

もう一つの境内社「天満神社」
御祭神は菅原道真公、応神天皇、恵比寿幸魂
ここは交通の要衝だったのでしょう。
菅原道真公の伝承もちらほらと出て来ます。

c0222861_17142849.jpg

厳しい環境の中で御神木は命をつないでいます。

c0222861_17144519.jpg

珍しい方位石がありました。
境内の一角の波打ち際に置かれていたものを移設したそうです。
江戸時代末期のものと推定されています。

さてさて日本書紀によると、不思議にもここから天皇と皇后は別行動を取ります。
仲哀天皇は外海を通り、皇后は洞の海(くきのうみ)を通ります。
これについては、女性は波の穏やかな内海を通ったのではないかという説がありますが、
別の事情が見えて来ました。
さあ、次回からその航路を辿って行きましょう。
 

地図 若松恵比須神社









ときどき、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2012-01-29 17:19 | (ヤ・ラ・ワ行)神社 | Trackback | Comments(2)

飛幡八幡宮・仲哀天皇は危険を察知して千曳の岩を祀った


飛幡八幡宮
とびはたはちまんぐう
北九州市戸畑区浅生
仲哀天皇は危険を察知して千曳の岩を祀った 

飛幡八幡宮は戸畑区の区役所や図書館、浅生球場に囲まれた丘陵地帯にありました。
区役所前の広い道から図書館に向かって坂を上り、
さらに上の駐車場を目指していくと、境内に出ました。

c0222861_2240132.jpg

広々とした境内と空です。

c0222861_22402993.jpg

菊の紋が目に入ります。
神社の由来が書かれていました。
飛幡八幡宮御由来
御祭神 右殿 須賀大神(須佐之男命)
     中殿 八幡大神(神功皇后・応神天皇・比売大神)
     左殿 名護屋大神(道祖大神)
後鳥羽天皇建久5年、遠賀郡花尾山城主・上野介重業(のち麻生と称す)は武を重んじ、敬神の志篤く城の鬼門に当たる枝光村宮田山に、八幡大神を崇敬、枝光―戸畑―中原の三村人の産土神として恭敬す。

天正年間、戸畑汐井崎より戸畑お坂(現鳥幡)に遷座せられ村人ことごとく崇敬の誠を尽くせり。

かくては戸畑は長足に進歩し、大正6年より現在の浅生を宮地と定め、御社殿の御造営に着手し、大正9年10月13日竣工並び同日御遷座を執行せられ現在に至る。
これによると、花尾山城鬼門を守るために八幡神を祀ったのが由来のようですね。
何カ所か遷座して現在地に至ったのでしょうか、これは地元の人でないと、よく分かりません。

さて、私がここに来たのは仲哀天皇の伝承があるからなんです。
神功皇后の名は各地に残っているけど、仲哀天皇の名は珍しい。
しかし由緒書きの祭神を見ても仲哀天皇の名前は出ていませんでした。

c0222861_22424187.jpg

陽光あふれる境内が丘の上にあるのは分かったけど、
古代の地形を想像するよすがもなく、手掛かりなく帰らないといけないのだろうか、
と思った時、石碑に気づきました。

c0222861_22435224.jpg

「霊厳」と彫られています。そして、説明板がありました!(訳します)
「千曳ノ岩」(ちえいのいわ)
日本書紀
名護屋大済(なごやのおおわたり)を西の門とし、(中略)皇后は別の船で洞の海(くきのうみ)より、ここに入る。」
ここには千曳の岩というものがあった。(仲哀天皇は)海路の妨げとなって危険だという事を配慮して、その岩を(岐)の明神として崇められて、海路の安全を祈られた。
名護屋の当社の縁起の写しに書いてある。また里の古老も言い伝えていた。

江戸寛文年間(霊元天皇1660年頃)、「お坂」に御遷座した時、名護屋社殿の下からこの岩が出てきた。
昔神霊の岩として、発見された御代にちなみ、「霊厳」と刻字された。
太古から幾多の年暦を積んだ野座の御神体として今に伝えられる慶事である。

泰山木 咲かせ千曳の 岩祀る  涼二
北九州文化連盟 戸畑郷土史会
 (日本書紀・仲哀天皇紀・筑前風土記・福岡県地理全誌・筑前名所書・古老伝記)
おお。これこれ。私が探していたのはこれです。
名護屋とは熊鰐が自分の領地を説明するシーンに出て来るんですね。

c0222861_22452222.gif

これは「ゆふま」という郷土雑誌に載っていた竹中岩夫氏の絵図に色を付けたものです。
右端に名護屋があります。
その南に戸畑がありますね。この神社はその付近のようです。
(この神功皇后のルートが少し違っていた事を、のちに紹介します。)

この千曳の岩は海の中に暗礁としてあったのでしょうか、
それを見て仲哀天皇は祀る事でかえって海路の安全の神に変えたようです。
説明板には明神と書かれていますが、「岐」が省略されています。
「岐」とはイザナギ神かなと思ったのですが、如何でしょうか。
(翌日、洞(くき)の海のクキかも…とも思ったのですが。)

この伝説の岩が名護屋の社殿の下から出てきたという事ですが、
そこの神社は今はどうなっているのでしょうか。
やっぱり埋め立てられてしまっているのかな?
地元の方、御存知でしたら教えて下さいね。

地図 飛幡八幡宮 






ときどき、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2012-01-27 22:48 | (タ行)神社 | Trackback | Comments(0)

勝山勝田神社・大倉彦の領地で竹竿を切り出した


勝山勝田神社
かつやまかつた
北九州市八幡東区勝山
大倉彦の領地で竹竿を切り出した 

勝山勝田神社は大蔵という所の大蔵小学校の裏にありました。
地形を見ると、大蔵川から神社に向かう参道の上に小学校が建っています。
ですから、この神社に行くには小学校の壁に沿ってぐるりと廻って行きました。
小学校と神社の間の道は車が一台分通るだけで、車は止められません。

c0222861_13404087.jpg

鳥居の向こうにはうっそうとした杜が!

c0222861_13405732.jpg

石段をちょっと上れば境内で、社殿は横向きに建っていました。

c0222861_13412110.jpg

境内に入った途端、深山の中に入り込んだ趣です。
境内はさほど広くなく、振り返れば小学校の屋上が見えます。
その向こうは川ですから、一気に高度を上げた所に神社があるのが分かります。
ここには神功皇后の伝承が残っています。
向こうに山が見えますが、向こうにも神功皇后の伝承を伝える乳山神社があります。

ここは「大蔵谷」です。
そこに「勝山勝田」という名前が神社に付いた由来が書かれていました。
神社名 勝山勝田神社
御祭神 大山津見神・武御雷神(たけみかづち)・賦都主神(ふつぬし)
相殿 大倉主神社 大倉彦神 大久羅姫神
相殿 貴船神社 宇気持神・高龗神・闇龗神
相殿 疫神社 大禍津日神
相殿 大日神社 大日靈神 
相殿 恵比須神社 事代主神・伊古那姫神
  (神功皇后・武内大臣)

御由緒およそ1700年昔、神功皇后朝鮮出兵の折、洞海湾にて船団をつくり、「大蔵」の地名の由来と云われる大倉彦神の治めていたこの大蔵谷より、皇軍の御旗竿として竹を伐り出した。

その「めでたい」縁で、帰朝後「勝山」と名づけ、神功皇后みづからお社をまつられたと言われている。

筑前藩主、黒田守政公はこの勝山の名をめでて、藩主の旗竿とされ、代々の殿様の信仰あつく、祭礼の折、特に芝居や踊りの興行が許され、大蔵谷にとどまらず広く信仰された。

宝暦年中、(西暦1751年)には江戸幕府より「神社帳」に書きだすように幕命をうけ、また安永7年(1779年)御社殿建立の折、布目のついた古瓦が出たことが記録に残されています。その勝山のいわれによって勝運、武勇、海運の神様として信仰されています。
年中祭事
1月1日 歳旦祭、1月15日 どんど焼祭、2月3日 節分祭、10月12日 秋祭、12月31日除夜祭     (一部改変しました)
下関の豊浦宮(忌宮神社)に皇居があった時代、
仲哀天皇は船を造らせていて、各地に材木を調達した伝承があることを
前回、大元稲荷神社の所で書きましたが、
ここには皇軍の旗竿を切り出した所だという伝承がありました。

ざっと見た所では、多種多様の樹木が茂る山で、竹には気づきませんでしたが、
なるほど、考えてみると、竹というものは当時どれだけ有用な植物だったのか、
気づかされます。

これまででも、矢埜竹神社(朝倉市)では矢竹にふさわしい品種があって、
皇軍が必死で矢を作った話が残っていました。
風浪宮(ふうろうぐう・大川市)には神殿の裏に多種の竹が植わっている一角があって、笛に使えそうな品種を見かけました。
竹内宿禰の一族は特殊な竹を現在に至るまで伝えていると聞いています。

神功皇后の皇子である応神天皇八幡信仰の中心的存在になっていくのですが、
そのシンボルである「幡」。それも竹がないとサマにならないのですね。

「幡」は、織幡神社(宗像市)の近くの波津で織らせています。
そこで初めて紅白の幡というものが生まれたのですが、
その幡を取り付ける竹はこんな所から切り出されました。

造船の準備と一言で言えるけど、福岡の北部全体を巻き込んだ大掛かりなもので、
植生を知り尽くしていないと出来ないことでもありました。

神功皇后は新羅攻撃の凱旋後、撃鼓神社(げっこ・飯塚市)に白幡を八本奉納しています。
凱旋後の彼女の祭祀アイテムの中に「幡」が入って来ます。
「八本の幡」が勝利のシンボルとして大きな位置を占めるようになったのでしょう。

どうやら私たちは八幡信仰の始まりを目撃しているようです。
八幡信仰が広まるに連れて、神社の上に八幡(はちまん)の名が付けられて行きます。
北九州市に八幡区という名称が出来たのは八幡神社が沢山あったからだと
意外に単純な理由を神社で伺いました。

ここの祭神は剣神が中心です。
相殿に大倉彦の名があり、地名にもなっている事から、彼もまたこの土地の有力者で、
物部氏の一族だっただろうと思われます。

この由緒を見て嬉しかったのは、現地でないと分からない伝承が書いてあった事です。
1.洞海湾で船団が結成された事。
2・神功皇后がみずからここで祭祀をした事。
3.大倉彦神が当時ここを治めていた事。
です。
今回はこれらについて考えます。

1.洞海湾で船団が結成された事。
これについては、複数箇所に伝承があったのですが、
特に中宿八幡宮(八幡東区)では、熊鰐の末裔の宮司さんから直接、
熊鰐の館があり、船の修理をし、船団を結成した話を伺いました。
この勝山勝田神社にもその船団の話がさらりと書いてあって、
読んだ当時はその言葉に気づかなかったなあと思い返しています。

2・神功皇后がみずからここで祭祀をした事。
これは最初読んだ時は疑いました。ここに来るチャンスがあったのだろうかと。
その後、北九州での神功皇后の伝承を整理して行くうちに、
たっぶりと時間があったのが分かりました。

北九州の伝承は三つの時期に分けることができます。
  (ア)豊浦宮の時代 下関からやって来て神武天皇の祭祀跡に祭祀に来たり
               木材調達をしたりしています。

  (イ) 香椎宮への遷都の通り道 下関から香椎宮へ遷都する途中に通って、祭祀をしたりしています。
               洞海湾での立ち往生は日本書紀にも書かれていて有名です。
               この時には仲哀天皇と一緒です。

  (ウ)香椎宮から豊浦宮への帰還 日本書紀には省略されていたのですが、
               八幡(やはた)で軍船の修理をしていて、その間に各地にお礼参りや、
               新たな戦いへの祈りを各地でしています。
               この時には乳飲み子の皇子を連れています。

この三つが北九州には混在しているので、伝承は多いのに、
整合性がなくて不自然だと思うのは仕方ないなと思いました。

それでは皇后はこの宮にいつ来たのでしょうか。
神社の名前のとおり、勝った後に、お礼参りに来たと思われます。
それというのも、川の対岸の山の乳山八幡宮では、
神功皇后が皇子に乳を飲ませたという伝承もあるからです。

船の修理をしている間、皇后は各地にお礼参りをし、
香坂王(かごさか)の反乱を聞いて、新たな戦いの準備をしています。

3.大倉彦神が当時ここを治めていた事。
大倉彦と言えばすぐに高倉神社高倉の神を思い出します。同じ「倉」が付きます。
高倉神社は嶋戸物部氏でした。
ここもその子供たちなどの一族が治めていたのかもしれないと思いましたが、まだ仮説の状態です。

c0222861_13475291.jpg

さて、この神社には相殿が多いのですが、その中に貴船神社があります。
境内には山からの湧水を祀るところがありました。
祭神の大倉彦と大久羅姫はここで水神を祀っていたのではないかと思いました。

c0222861_13482472.jpg

そして、たまたま旗竿にふさわしい竹があったのでしょう。
大倉彦は竹を伐り出して皇軍に奉仕し、
神功皇后はその恩に、わざわざ足を運んでお祀りした事から、
神社の名称が「勝山勝田」という凱旋の名前に変わったのだと思いました。

c0222861_13484958.jpg

境内の古木です。

c0222861_13491272.jpg

住宅が密集する北九州ですが、神社の緑は驚くほど深いです。

c0222861_13492759.jpg

参道からは印象深い山が。帆柱の木を切ったという帆柱山でしょうか。
帆柱山と皿倉山はどちらがどれか、よく分かりません。
地元の方教えてくださいね。

地図 勝山勝田神社






ときどき、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2012-01-26 13:53 | (カ行)神社 | Trackback | Comments(0)

大元稲荷神社と造化宮・物部胆咋と皇后の木材調達


大元稲荷神社と造化宮
北九州市小倉南区徳力
徳力の語源は「採り木」から
物部胆咋たちは木を伐採した
 

今回はタイトルに困りました。
探しているのは「西伏見稲荷神社」だったのですが、
そこにあったのは「大元稲荷と造化宮」だったからです。

小倉の「徳力(とくりき)」という地名は「採り木」から派生したそうです。
誰が木を採ったのかというと、神功皇后物部胆咋です。
物部胆咋(もののべのいくひ=膽咋)が護衛の阿部高麿助麿兄弟を
連れて皇后と共にやって来たといいます。
阿部の高麿と助麿は、その後、下関市の忌宮で戦死した人です。

何のために木を採りに来たのかと言うと、造船のためです。
木を伐採した話は北九州市から山口県まで各地に残っていました。
徳力はその中の一つです。

神功皇后と物部胆咋と阿倍高麿と助麿。
この顔ぶれがそのまま祭神として「宮司武神社」に祀られていると知って、
取材に行く事にしました。

しかし「宮司武神社」は貴布禰神社(水の神系)の中に祀られていたのが、
秋葉神社(火の神系)に合祀され、
その秋葉神社も西伏見稲荷神社と改称したということで、社号は消滅していました。

地図を見比べて、秋葉神社の名を小倉南区徳力5丁目に見つけたので、
出掛けて行って現地の地形を確認する事にしました。

行ってみると、いつのまにか神理教の境内に紛れ込んでしまいました。
ですから、今回は行った通りに順を追ってそのまま紹介する事にします。

もう日が暮れかかっていました。
現場に近づくと、すぐそばに高架道路が出来ていて、
ぐるぐると同じ所を廻ってしまって辿りつけません。

道の反対から目的地を見ると墓場があって、その中に鳥居が見えました。
探してもそれ以外に見当たらないので廻り込んで近づくと、
車道は狭く、途中からは人道になってしまい、車も止められませんでした。

稲荷なら小高い所にあるはずだからと考えて、山の反対側からアプローチすることにしました。
すると、とても大きな神社の敷地内に出てしまいました。
神理教と書いてあります。

そして目的の山を見ると稲荷の赤い鳥居がずらりと並んでいました。
あった。あった。
喜んで車を降りて扁額を見ると「大元稲荷神社」となっています。
名前は違うけどこの山に違いない。

c0222861_1740347.jpg

上り始めると、分かれ道がいくつも出て来てます。
どこかで合流するんだろうと適当に登って行くと、あれ?稲荷ではない。

c0222861_17405981.jpg

小峯のピークにあるのは「造化宮」という神社でした。
神紋は16弁の菊花?(正しくは日月五星紋)

由緒書きがあったので、読んで驚きました。(一部変更)
造化宮
造化宮は饒速日(にぎはやひ)命の12代物部伊美岐履中天皇の詔をうけて全国の疫病を平癒し、九州に下りこの地に神籬を建て、天在諸神を祀り、万民安全を祈念され信仰の大元を定められたと伝えられる。

雄略天皇の病を平癒した16代物部足奇はその功により天皇より巫部(かんなぎ)の姓と日月五星の御紋章を賜り、この地に居をおく。これが豊国巫部の始めであり、本教の発祥である。

以来、幾多の変遷があったが77代教祖経彦命本教を興すに際し、新たに社殿を設け本教の奥の宮として奉斎する。
祭神は造化三神を中心に天在諸神18柱を祀る。神理教本院
ここは物部氏の神社でした。ニギハヤヒから12代と具体的に書かれています。
履中天皇はwikiでは336年~405年。仁徳天皇の御子です。
この時代に物部の伊美岐がここに神籬を建てて祭祀したのが始まりでした。

物部氏が祭祀した場所だ。ここはもしかして企救(菊)物部の地?
ここは昔は企救郡(きくのこおり)のようなのです。

この縁起では物部伊美岐が初めて下って来たように受け取れますが、
そうではなく、ここはもともと企救物部氏の拠点であって、
伊美岐が先祖の地に戻ってきて、改めて造化の神々を祭祀したのではないかと思いました。

というのは、最初に書いたように、
神功皇后が徳力に来た時、物部胆咋が一緒に行動しているからです。
目的は先ほど書いたように造船のための木材伐採でした。
胆咋が自分の所領地を案内した可能性があるのではないかと思いました。

「木を伐採する」という事で思い出した事があります。

話はそれますが、久留米市の高良大社の「高良の神は
年に一度山の木を数える」という不思議な伝承の事です。
物部胆咋は高良下宮社の祭神になっています。

これまでの私の推論をまとめると、
謎の「高良玉垂神」とは「安曇の磯良と、その祖たる豊玉彦」であり、
「高良の神」とは「竹内宿禰」だと考えるようになりました。
(高良玉垂神と高良の神は別の神)

それから安曇の磯良が去り、竹内宿禰が去ったあと、
「物部胆咋」が高良山一帯を治めるようになったのではないかと推論しています。

胆咋と木材調達の伝承は他にもありました。
だから胆咋(いくひ)と高良山の「木を数える神」と繋がるかもしれない。
と思ったのです。
(ローカルでマニアックな話で済みません。これについては別項で改めて書きたいと思います。)

話を戻しましょう。

とにかく物部氏の名がここに出て来て、仰天しました。
赤い鳥居の上にある造化宮に面食らって、さらに他の道を辿ってみると、
ついに稲荷社に出ました。

c0222861_17445218.jpg

見回すと視界は利かないけれど、もう一つの小ピークの上のようです。
最初に探していた西伏見稲荷神社へと下る道がないかと探しましたが、見つかりませんでした。
しかし、位置関係からすると、ここが元宮に違いないと思いました。

「稲荷=鉄器そして小峯のピーク」という「武器製作と保管庫のセオリー」
通りの社でした。(るなの勝手なセオリーですが)
ここは物部氏の武器庫だったのだろうと思いました。

そして、胆咋は神功皇后に武器の準備のようすを示すためにここに案内した。
これが本筋だと考えました。

由緒書きがありました。
大元稲荷神社
当社は古来豊国巫部家の邸内に鎮祭されたものでその勧請年代は定かでない。
文化年間(1804~1815年)教祖の父右七経勝翁が巫部の守護神として祭祀するべく御神託をうけ伊勢外宮より御分霊を奉載した。これを社の中興とする。

教祖幼少のころ小倉藩国学者西田直養翁のもとへ通学の毎夜、絶えず前後を守護するように随行する白狐あり。その後、神理を究めんと行する教え子に数々の神助霊応が絶えず、昭和6年秋境内よりこの地に遷座する。

本教に奉仕する人々の守護神であり、かつ農工商の広きにわたって霊験著しい。昭和47年春改築する。  神理教本院
由来書きを読むと、江戸時代ごろには忘れ去られた聖地になっていたようです。
神理教の教祖によって新たな形で再び稲荷社が出来たのも神縁でしょうか。

写真を撮り終えた頃は暗くなってしまいましたが、
山を降りて来るとまだ明るいので、神理教の方にも廻ってみました。

c0222861_17465217.jpg

これが本院です。
ここにも由緒書きが。
神理教のあらまし
神理教は我が国の古代神道を復活された教派であり、高祖饒速日命天照大神より番民救済のため天璽十種(とくさ)の神宝を授かった時にはじまり、その子孫が代々神示、神術を伝えて、77代教祖巫部佐野経彦命によって祖逑大成されたものであります。
(後略)
ここは物部氏の古神道が再び世に出てきた教会のようです。

こうして、目的の西伏見稲荷神社が大元稲荷神社に変わったのかどうか
分からないまま、日が暮れて帰途に着きました。

神功皇后の伝承のガイドブックに取り上げるには曖昧だったので、掲載をあきらめたのですが、
造船した場所や材木を調達した場所などが明らかになるにつれて、
新羅攻撃の計画がすでにあった事を確信するようになりました。
日本書紀とは様相が違っています。

蛇足ですが
帆柱山で神功皇后の船の帆柱を伐採したというのは地元で有名な話でした。

地図 大元稲荷神社と造化宮と神理教



う~む。この地図を見ると、やはりすぐ南に徳力秋葉神社がありますね~。
ここまで記事を書いたから、書き直しはやめにしようっと。

どなたか行ったら教えて下さいね。



ときどき、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2012-01-24 17:59 | 神社(オ) | Trackback | Comments(0)

月の浦・天体ショー・万葉歌「天の原~」は禁忌の歌?


月の浦

月の浦から見える天体ショーを発見
万葉歌「天の原 ふりさけみれば~」は禁忌の歌だったのか?
 

昨日、太宰府地名研究会でくるま座さんが急遽、研究発表。

その中に hurutakaimasakiさんからイラストの依頼があった万葉歌
「天の原、ふりさけみれば春日なる、三笠の山にいでし月かも」
に関わる発表があったので、途中経過を報告します。

まず、これまでの経緯です。(サイドバー<地名>→「御笠の森」)
Commented by hurutakaimasaki
添付の地図を見て改めて感じたことです。
宝満山の別名は三笠山ですよね。春日の真東。海抜は869m。
「天の原、ふりさけみれば春日なる、三笠の山にいでし月かも」
唐へ渡った阿部仲麻呂の歌です。出立地は当然博多那の大津。
春日から見た三笠山から昇る月はさぞ美しかったんでしょうね。

luna様「宝満山と月」の写真、心当たりがあれば教えて下さい。
一方、奈良の御蓋山は見かけの高さ200mほど。若草山に登るかしなければ月の出のいい写真は撮れないようです。
ちなみに「三笠の杜」の歌の「大野」は春日から見て宝満山の手前の大野山(四王寺山)ですよね。
なお「三笠社之 神思知三」は「三笠の杜の 神し知らさむ」と訓読されているようです。
三笠山も三笠川も三笠杜も元はみんな福岡だと思っています。
(イラストの山に月があれば・・などど欲張りな願望を・・)

Commented by lunabura
この歌が福岡で詠んだ歌だという話は何人かから聞きましたが、具体的に確認した人を知らないのですよ。
糸島市の松尾氏が精力的に各地から見える日の出を撮ってあるのですが、御笠山があったかどうかは、確認しないと分かりません。
幣の浜の月の出などは拝見しました。

また、御笠山が宝満山のま南にある宮地岳(あしきの近く)を指していたという話を先日くるまざさんが突き止めました。
このあたりは私もよく分からないのですが、分かったらまた報告します。
(あと延々と続くので省略します。「御笠の森」のコメント欄を参照して下さいね)
御笠山の月の出が見えるビューポイント探しという事で、
太宰府の研究家くるま座さんに相談すると、
ちょうどくるま座さんは基山の山頂にある案内石におかしい表示があるのに気づいた所でした。
それは頂上から見える山の名を示す丸い石盤なのですが、
宝満山の隣に三笠山が書かれていたのです。(三笠山=御笠山)

c0222861_134354100.jpg

普通は「宝満山をかつては御笠山と言っていた」という事ですが、
石盤からは「宝満山と御笠山とは別山である。」という事になり、
教育委員会などに尋ねたけれど、分からなかったという事でした。

神社考古学家の百嶋由一郎氏に尋ねると、
隣の宮地岳を御笠山と呼んでいた事を証明する資料が届けられました。

フィールドワーク家でもあるくるま座さんは
満月に実際に観測しますと言われたのですが、あいにく二回とも曇り空。
その間に地名の調査を続けて、「月の浦」という不思議な地名を発見。

そして今月の満月の夜にそこから見ると、宝満山と宮地岳の間から月が出て、
宮地岳の山稜をなぞるように月が昇っていく天体現象を確認しました。

さらに「日の浦」という地名も発見された事から、
そこからは日の出の天体ショーが確認される事と思われます。

「天の原」は福岡の南北を貫流する「ありなれ川(中つ海)」が隔てた
左の島「左佐島」の別名です。
(⇒「高天原」や「赤司八幡神社」「針摺の瀬戸」を参照)
(赤司八幡神社に書いた「中つ海」の範囲を訂正しています)

「月の浦」は「天の原」にあり、「中つ海」を挟んで対岸に三笠山(宮地岳)を見る位置にあります。
これが課題の万葉歌の場所と特定出来た訳ではないのですが、
思いがけず、古代筑紫にあった「月の出の天体ショーが見られる月の浦」という
特別な名所を発見しました。


月の浦と宮地岳




くるま座さんは一方で、この歌について調査をし、
これが太宰府における禁忌を詠んだ歌だという記事を発見。
それが太宰府の「うそ替え」という祭事の暗号と、
菅原道真の遺言の謎を解くカギとなることまで発表されました。

また太宰府の南に二つの巨大な盤座があるのですが、
そこから福岡県内の9つの神籠石まで、
東西や夏至線などの祭祀線が引かれる事を発見。

古代筑紫の結界と思われる壮大な祭祀線像が浮かび上がりました。

以上が概要ですが、くるま座さん。論文でも書いてくれたらいいのにな~。

話が聞きたい方は直接「自然食のくるま座」に行けば、話してくれると思います。
くるま座の場所は「地震雲教室」の所に書いてます。

ということでhurutakaimasakiさん、あの歌は思いがけない展開となりました。
イラストはもうしばらくお待ちください。




ときどき、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2012-01-22 13:50 | <地名・地形・伝承> | Trackback | Comments(10)

皇后崎・神功皇后の上陸地点


皇后崎
こうがさき
北九州市八幡西区皇后崎町2丁目
神功皇后の上陸地点

一宮神社で地図を書いて頂いて、早速そのまま皇后崎に向かいました。
国道3号線に皇后崎(こうがさき)町という信号があります。
通るたびに、何と読むのだろうと思い、
「皇后」が神功皇后を指すとは想像もしていなかったのですが、
地元ではここが神功皇后の旧跡だというのは当たり前の話のようでした。

史跡へ曲がる信号は3号線の「皇后崎町」か「桜ケ丘町」で、海の方面に向かいます。
私は教えていただいた桜ケ丘信号、「びっくりドンキー」レストランから曲がりました。
緩やかに左に曲がって行きます。左は高台、右は低地に鉄道という道でした。

c0222861_0161581.jpg

すぐに着きました。これが皇后崎史跡です。
地図をしっかり見ていないと通り過ぎてしまいそうです。石碑のお蔭で分かりました。
「史跡 皇后崎 神功皇后御西征之時 …(後は不明)」
と書かれています。
まるで方墳のような形をしています。横に階段があり、よっこらしょと入り込みます。

c0222861_0163973.jpg

これが上からの眺めです。高速道路が走り、その下には鉄道が走っています。

c0222861_017393.jpg

目の前は洞海湾のはずですが、想像する事も出来ません。
しかし、道路の橋げたの隙間から海?川?水面が見えました。
やはり昔は海が広がっていたのです。

ここに神功皇后が上陸した様子が当時の人々にはよほど印象強かったのでしょうね。
地名になったほどですから。

本当は仲哀天皇も一緒だったと思うのですが。
英国の皇太子夫妻が来日した時も、ダイアナ妃の報道ばかりがあったように、
人々は美人の后に魅かれるのは昔も今も同じようですね。

史跡の横にはアパート群が建っていて、道が急な登りになって、
一宮神社まで岬が続いていたのが想像できます。

仲哀天皇と神功皇后は戦いの準備に当たって、まずは皇祖の祭祀の為に、
神武天皇の旧跡(一宮神社)に向かったのだと思いました。

c0222861_018249.jpg

家が立ちこんで、地形も分かりませんが、点線あたりが岬だったのでしょうか。



地図 皇后崎





ときどき、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2012-01-21 00:21 | <地名・地形・伝承> | Trackback | Comments(7)

一宮神社・神武天皇の磐境神籬・岡田宮あと


一宮神社 
北九州市八幡西区山寺町
神武天皇の磐境神籬が現存していた
ここは岡田の宮あと

今日から北九州市を廻ります。
仲哀天皇は下関の忌宮神社に約6年も滞在して、いったい何をしていたのか。
記紀はその事情を語りませんが、その答えは北九州の各神社の伝承に残っていました。
その期間は軍船を造っていたのです。

その数は48隻というのが志式神社や他の神社に伝わっていますが、
北九州市では材木調達と造船をし、船団を整えていました。
山口県や大分県の海岸沿いなどでも船を造っています。
船の帆や幡など布製品は宗像市や福津市です。

これで分かるのは、最初から新羅との戦いを準備していた事です。
記紀では「熊襲よりも新羅を」と神々が託宣したように書かれていますが、
造船をしたと言う事は明らかに最初から新羅戦を前提としていた証拠になります。
何故なら戦った熊鷲たちは山に住んでいたからです。

戦争の準備のために要求された武器の朝貢の数は膨大になり、
羽白熊鷲や夏羽たちにとっては過酷なものになった事でしょう。
ここに熊鷲の反乱や田油津姫による暗殺事件などが生じる原因がありました。

造船に数年かかる間、神功皇后が木材調達に出掛けた伝承もありました。
(これは全く想定外だった)
また仲哀天皇は皇后を伴って神武天皇の足跡を辿って祭祀していました。
皇祖への祈願です。
神武天皇のゆかりの宮として、これまで紹介したのは神武天皇社でしたが、
今回参拝する一宮神社は日本書紀に出てくる「岡田の宮」跡でした。

北九州市にはもう一つ「岡田」の名を持つ岡田神社があります。
そちらに参拝すると「一宮神社が元宮です」と教えていただきました。
そこで日を改めて一宮神社に参拝しました。八幡西区にあります。
岡田神社はまた別の機会に報告するとして、今回は元宮の一宮神社です。

一の鳥居の右側に車道があって、上っていくと駐車場に出ます。
山の中腹に駐車場がある印象です。

c0222861_19463133.jpg

車を降りると、すでに拝殿の下の石段の所に来ていました。

c0222861_1946524.jpg

石段を上るとすぐに本殿です。
後ろには鬱蒼とした自然林が見え、空が広がっています。
ここは岬の上だったそうです。
案内板から(一部ひらがなに)
一宮神社
一 由緒
この地方の氏神、王子神社、大歳神社、諏訪神社の三社を昭和25年6月吉日に合祀し、社号を一宮神社と称します。

王子神社は神武天皇が日向の国より東征の途上、筑前のこのところにおいでになり一年間政務をみられた宮居の地で、境内には古代祭場など考古学的にも貴重な跡があります。

大歳神社は三代実録や続風土記にも表れている古くてかつ由緒深い神社であります。
諏訪神社は花尾城主麻生氏が信州の諏訪神社を御手洗池のほとりに分祀、厚く祭られた神社であります。

一 祭神
天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと) 神武天皇(じんむ)(元王子神社)
 大歳神(おおとし) 事代主命(ことしろぬし)(元大歳神社)
 建御名方神(たけみなかた) 仲哀天皇 神功皇后 応神天皇 (元諏訪神社)

一 祭礼
1月1日 元旦祭 4月17日 春季大祭 6月25日 道祖神祭 
7月21日 祇園祭 10月17日 秋季大祭 11月15日 七五三祭
この宮は三つの神社が集合したのが分かりましたが、
今回注目したいのは「王子神社」です。

これは神武天皇がまだ天皇に即位する前で、皇子だったのでその名が付いたそうです。
古事記には岡田宮に1年間滞在したと書かれていますが、それがこの一宮神社です。

祭神は天忍穂耳命神武天皇でした。
神武天皇が先祖を祀ったのだから、天忍穂耳命だというのは当然ですが、
ニニギの命ではない所にすごく興味を持ちました。またアマテラスでもありません。
天忍穂耳命って天孫降臨を遠慮した神です。

「天の忍穂耳命は英彦山に祀ってある神ではないですか?」
「そうです。しかも王子宮が英彦山とこの宮の線上に幾つも並ぶのです。」
「そうなんですか!」
凄い話だ。祭祀ラインとなるとつい興奮。
(遠賀川流域の皆さん、王子宮を探して教えて下さい!)
そうそう。忘れる所だった。

「神武天皇が祀った磐境(いわさか)神籬(ひもろぎ)が残っているという事ですが。どこにあるのですか?」
その場所を伺うと、駐車場から下った所にあるとの事でした。
教えていただいた方角を見ると鳥居と参道があります。
そう、車は中腹に止めたので降りて行かねばなりません。

やった~。石段だ~。降りて、また上るぞ~。
一旦、一の鳥居まで降りて、最初からの参道を上って行きましょう。

c0222861_19484895.jpg

一の鳥居です。
周囲は町ですが、一瞬で杜の中に入りました。植物相が豊かです。
扁額には「一宮神社」と書かれていました。

c0222861_1949683.jpg

杜が深まって来ると二の鳥居です。扁額には「王子神社」と書かれていました。

c0222861_19493645.jpg

潜ってすぐ左を見ると「神蹟山 王子本宮」という石碑が目に入ります。
この「王子」というのが神武天皇の事です。イワレビコ命(みこと)です。
奥に低い玉垣があります。

c0222861_19495644.jpg

正面に立つと本物の磐境神籬がありました!
初めて見ます。
こぶしより少し大きい石を積み重ねて円を作っています。
半径は一メートルより少し大きいです。奥にもう一つ。形や高さが微妙に違います。

今思えば奥の磐境の形の観察をよくしなかったなと思うのですが、
写真で見ると四角に見えます。円と四角なら、天神と地祇だと、
確か奈良の神社に書いてあった記憶があります。(かなり昔の話です)
説明板がありました。
古代祭場跡 由緒
神籬(ひもろぎ) 神代時代、神霊の憑依する所として、清浄な土地を選び周囲に常磐木(ときわぎ)を植えて神座となしたもの。
磐境(いわさか) 神を祀るため磐石をもって築きめぐらした場所。

この磐境は古事記によれば神武天皇、御東征のみぎり、豊前の国宇佐よりこの筑前の国のこの地に御滞在された旧蹟と言われています。天皇が御滞在中、磐境を設けて天神地祇をご親祭された神座神処です。

昭和30年代の始め、伊勢神宮の造営局長で、神社建築史の大家、国学院大学教授角南博士が参詣され、この形式の遺跡は全国でも極めて数少ないもので考古学的にも貴重なものであり、当社がいかに古代からの社であるかを物語るものであります。

このたび、氏子崇敬者の人々の浄財により、一宮神社の御修築事業が執行されるに当り、磐境の復元に合わせ、玉垣などの新設がなされたものです。
   昭和62年5月吉日


c0222861_19513470.jpg

露天の祭祀は古代の祭祀場の特徴です。
二つの磐境を作って、神々が降りて来る聖なる形を作ったのですね。

磐境と言う言葉はよく聞きますが、このような姿をしていたとは!
これでまた古代祭祀のようすがまた分かりました。

時を越えて古代の姿を留めた古代祭祀場。

古代からの森も守られていて、私たちは神武天皇が立った地に立つ事が出来ます。
玉垣があるだけで、一般人が直接拝観出来るのも、とても珍しい事です。

神武天皇がここに滞在して、格別に清らかな場所を選んで祭祀しました。
それから数百年たって、仲哀天皇も神功皇后を伴って来て祭祀をしました。

こうしてその場に立つことの出来る奇蹟。
一宮神社に参拝の折は是非とも、この神籬(ひもろぎ)をその目で見て下さいね。

宮司さんは、ここまで来たなら「皇后崎」に立ち寄って下さいと、
アドバイスしてくれました。
「皇后崎」と書いて「こうがさき」と読みます。
神功皇后が上陸した岬で、地名になっています。

最初に上陸したのはいつなのか、各神社で尋ね、よく分からなかったのですが、
この宮ではじめて「豊浦宮の時代に船を作る為に来た時」だと教えていただきました。

仲哀天皇と神功皇后が豊浦宮の時代に北九州市に来たのは、
記紀では省略されていたのが分かりました。

それでは次回は皇后崎へ行ってみましょう。

(遠賀川流域のみなさ~ん、出番です。
王子宮が見つかったらコメントでもメールでも教えて下さいね。)

地図 一宮神社





ときどき、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2012-01-19 19:59 | 神社(イ) | Trackback | Comments(6)

良積遺跡・ペトログリフと銅鏡と甕棺・邪馬台国候補地


良積遺跡
よしづみ
福岡県久留米市北野町
ペトログリフと中国製の銅鏡と甕棺
邪馬台国久留米説はここ?
 
赤司八幡神社から北西500mの田園の中に良積遺跡があります。
弥生時代の環濠も出ているとの事で立ち寄ってみました。

c0222861_215373.jpg

田を作るための整備中に発見された遺跡で、田んぼの一枚分が遺跡になっていました。

c0222861_2155447.jpg

近づくと、おお、石が…。弥生遺跡に石?何だろう。
と近寄ると、「おおおお、ペトログリフだ!」

c0222861_2161736.jpg

真ん中には、見事に丸い線刻。周囲にもいろいろを見えます。
う、裏は?

c0222861_2163917.jpg

こっちもすごい。上にも右にも左にも。
特に右下の線刻は、山口県の彦島のペトログリフと似てない?

c0222861_217426.jpg

彦島のペトログリフはこれ。(ペトログラフ・ガイドブックより)

c0222861_2172221.jpg

これは現地にあった解釈。漢字に直していますが、ずいぶん無理してますね。
何せ、古代文字ですから。

この石について伝承が書かれていました。

良積石
元慶7年(882)筑後国司・都朝臣御酉(みやこあそんみとり)が暗殺されるという事件が起こります。この事態に朝廷は藤原良積を派遣、犯人逮捕の任務につかせました。伝承によると、その事件の舞台となったのがこの地であるということです。つまり、藤原良積の墓石ということで良積石と呼ばれるようになったようです。しかし、一説には事件の被害者、筑後国史都朝臣御酉の墓ともいわれています。(後略)
ここは国司の御酉の暗殺の舞台なんですか。
この石は良積の墓石、御酉の墓石、また供養石といろいろ説があるようですが、
ペトログリフ石として、古代の文字が書かれたものとして研究した方がよさそうですね。

さて、この敷地の下には縄文から鎌倉時代の遺跡があります。
良積遺跡の名前は良積石に由来します。県営圃場整備事業北野東部地区に先立ち実施された発掘調査は、1993年1月~1994年12月にわたる丸2年を費やして27,000㎡が調査されました。

調査の結果、縄文時代のおわり(約2500年前)~鎌倉時代(約800年前)の集落や墓地であることが分かりました。

住居跡160軒、井戸250基、甕棺墓40基などがみつかりました。弥生時代には集落のまわりを深い濠で囲んだ環濠集落であったこともわかっています。また、多くの石器や土器をはじめ、青銅器、鉄器、木器、陶磁器などが出土しました。

しかし、良積遺跡は全体のほんの一部を調査したにすぎず、未だ多くのものが多くの謎とともに眠っています。
住居跡が160軒とは多いですね。
甕棺墓があり、環濠集落だったというので、吉野ヶ里のような国があったと思われます。
ここに住んでいたのは誰か?
もちろん水沼(みぬま)の君です。
だって、赤司八幡宮から500mしか離れていないんですもん。
ここに住んでいた弥生人たちが三女神を祀り、景行天皇を迎え、神功皇后を迎えたはずです。
c0222861_21182249.jpg


甕棺墓
甕棺墓は北部九州にだけみられる特殊な埋葬方法ですが、それでも現在までに数千、数万という甕棺墓が発見されていて、筑後地方では特に珍しいことではありません。

それにもかかわらず、良積遺跡の甕棺墓は多くの謎を投げかけました。
良積遺跡の甕棺墓は弥生時代のおわり、倭国大乱のころ(約1800年前)です。
甕棺墓は倭国大乱以前に失われた埋葬方法です。

すでに失われたはずの古い風習が残っていたことがわかります。また多くの副葬品もみつかりました。青銅鏡、鉄製武器、管玉、勾玉など。大乱の後、各地に王が出現したといわれますが、良積の王の存在が想起されます。

しかし、なぜ王の墓が古い風習=甕棺墓なのでしょう? (説明板より)
それはですね。人間って先祖の墓制を簡単には変えられないからじゃないかな。
と、るなは思うのですが。
水沼の君はずっと甕棺だった…のかな。
それに対してここに景行天皇の形代として残った国乳別(くにちわけ)皇子は前方後円墳でしたね。
(⇒烏帽子塚古墳)
なんだか神社伝承と辻褄が合ってしまう。でも、専門家から見たら妄想と言われるかな。

c0222861_21105894.jpg


さて、出土した銅鏡は中国製だそうです。
斜縁式方格規矩鳥獣文というそうです。斜縁式は珍しいそうです。
断面は三角になっているそうですから、三角縁って何故言わないのかな?

製作年代は235年から265年の間と推定されています。
卑弥呼が魏に使者を派遣したのが239年。翌年銅鏡が100枚贈られています。
まさに、卑弥呼の時代と重なる銅鏡です。

有名な三角縁神獣鏡はすでに500枚を超えてしまったので、
邪馬台国を探す人は他の銅鏡にシフトしているのかなと思ったけど、まだまだ論は熱いようですね。

という事で、邪馬台国久留米説(御井郡)はここ、と言う事でよろしいでしょうか?
まだ他に久留米市内の候補地があったら教えてくださいませ。



地図 良積遺跡 






ときどき、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2012-01-17 21:19 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(6)

赤司八幡神社(1)筑紫道中のとよひめさん 記紀を補う縁起を紐解く


赤司八幡神社(1)
あかじはちまんじんじゃ
福岡県久留米市北野町赤司
筑紫道中のとよひめさん 記紀を補う縁起を紐解く 

c0222861_14241787.jpg

夏の陽が傾きかけた頃、赤司八幡神社に向かいました。
ここは筑後平野のど真ん中。
筑後川の向こうに耳納連山が見えています。連山の右端に高良山があります。

地図を見ると神社はすぐそこで、杜(もり)も見えるのに、道がそれて行きます。
たまたま三叉路にお巡りさんがいたので尋ねると、ニコニコして道を教えてくれました。
聞かなければ分からなかった。近づくと道は迷路のようになっています。
城跡だと後で聞いて納得しました。

c0222861_14365052.jpg

参道です。一の鳥居を過ぎた所です。

c0222861_14245139.jpg

筑後平野に沈む夕陽が長い影を作っています。

c0222861_14264527.jpg

拝殿前のソテツは珍しいです。

c0222861_1427146.jpg

拝殿です。参拝を済ませて境内を廻ると、
宮司さんが自ら境内を掃き清めてありました。
話が伺えた上に、古文献を集めた分厚い資料を知人がもらいました。

不思議にもその資料は三人の方から私の手元に形を変えて届けられていました。
その資料に目を通すと、これまでの多くの課題を解くヒントがありました。
そうだったのか。
こうしてブログで歩いて来たからこそ理解出来る内容でした。

c0222861_14272485.jpg

神殿に廻った時、「あれ?お伊勢さんと同じだ」と言うと、
宮司さんが「ここは八幡神社だけど、宗像三女神が祭神だからですよ。
天照大御神のお子神だからです。」
と教えてくれました。
「もとは、とよひめ神社でした。」とも。

「とよひめ」は豊比咩・止誉比咩・豊姫などと表記されます。
私はここでは止誉比咩と表記したいと思います。
豊姫と言えば、武内宿禰の妻、神功皇后の妹です。
ヨド姫はシリウスの化身であり、津波を教える女神。
それと区別つけるためです。

赤司八幡神社のいにしえの姿「止誉比咩神社」とはどのようなものでしょうか。
この筑後平野のど真ん中にどうして宗像三女神が祭られているのでしょうか。

ここに縁起があるので、「楢原猛夫本」を口語訳します。
筑後の国・止誉比咩神社の本跡の縁起の序をしるす。

筑後の国の御井郡(みいぐん)惣廟(そうびょう)である赤司八幡大神宮は太宰別府で、もともと三女神が降臨した本跡で、誉田(ほむだ)天皇が降誕された霊地であり、筑紫中津宮である。

いわゆる日の神から生まれた三女神を筑紫の洲(くに)に降臨させた時に、日の神が「そなたたち三神は道の中に降居して天孫を助けて天孫のために祭られなさい。」と教えられた。こうして今、河北の道の中にあって、道主貴(みちぬしのむち)と言う。これは筑紫の水沼の君らが祭る神である。

天孫が降臨する時、天の真名井の一元の水を降ろし、蚊田(かだ)の渟名井(ぬない)に遷して、その水を供えた。

大足彦(おおたらしひこ)天皇が来られて祭壇をたてて国乳別皇子(くにちわけのみこ)を天皇の代行者とした。この方が河北(こうこた)の惣大宮司・水沼の君の始祖である。

気長足姫(おきながたらしひめ)尊(神功皇后)は豊姫神形代(みかたしろ)に立てられた。このために後の人は止誉比咩神社と呼んだ。神名帳に官社として載っている。

醍醐天皇の御代に誉田の神霊と武内の神霊と住吉の神霊を相殿に遷座して御井郡の惣廟となって初めて放生会を執り行った。  (後略)
いかがですか?
「まさか?」と思いましたか?「なるほど!」と思いましたか?
私は最初「まさか?」と思い、何度も読むうちに「なるほど!」と
思うようになりました。
この縁起には古代の筑紫を知る手掛かりが沢山含まれています。
しかも、このブログではおなじみの人ばかりが登場しています。

次回は縁起の説く世界を紐解いて行こうと思います。
   (つづく)

地図 赤司八幡神社(止誉比咩神社)





ときどき、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2012-01-14 14:39 | 赤司八幡宮・あかじ・久留米 | Trackback | Comments(6)
line

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


by lunabura
line
クリエイティビティを刺激するポータル homepage.excite
カレンダー