ひもろぎ逍遥

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旗頭神社・ 竹内宿禰の陣営地だった


旗頭神社
はたがしら
北九州市八幡西区陣原
 竹内宿禰の陣営地だった

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北九州市を通る国道三号線は大変交通量が多いのですが、
その道沿いに旗頭神社はありました。

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地名が陣原(じんのはる)という事で、戦国時代の頃の陣営だろうかと思っていたのですが、
これがなんと竹内宿禰の陣営跡というので、とても驚きました。
珍しく石段が無く、平地に建っています。車の喧噪は全く聞こえません。

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御祭神は武内宿禰 志賀三神 住吉三神 大国主命 事代主命 麻生興春神霊です。

この宮は主祭神が竹内宿禰でした。加えて志賀・住吉・出雲の神々。
ずっと共に戦ってきた海人族たちの神々が祀られていました。
これで内の大臣(うちのおとど・竹内宿禰)を総大将とした
水軍の一大拠点がここにあった事が伺えます。

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それほどの大軍勢が駐屯できるのだろうかと境内の裏に廻るとけっこう広いです。
由緒書きを読んでみましょう。(一部改変)
旗頭神社由緒 
創建 大永2年(1523)
祭神 武内宿禰
志賀三神 住吉三神 大国主命 事代主命 
麻生興春神霊

二千余年の昔、応神天皇は武内宿禰に筑紫路の人民視察を命ぜられた。命を奏した武内宿禰が洞(くき)の海を過ぎるとき、西北の方に怪しい声がするのでこの地に陣を構え警戒を厳にした。陣原(じんのはる)の地名はこれによると言い伝えられている。

明応・永正の頃(1492~1520)黒崎花尾の城主として遠賀一円を領有していた麻生興春が花尾城から山鹿城に移るとき陣原の里でしばし憩い、この亀山の地は殊の外眺めがよく花尾の本城も望むことができる。没後はこの地に葬るよう家臣に言い遺して旗を指し立てて標(しるし)とした。大永2年(1523)興春の遺志によって旗指社が創建された。

慶長11年(1606)黒崎城山の城主井上之房は敬神の念が篤く特に武内宿禰の徳を敬慕していたので社殿の再興が行われ、之房が住いを陣原に移す頃、旗頭社と呼ばれ、陣原の産土の社として広く尊崇された。

その後、長年の風雪と共に老朽も加わったので幾度か加修改築が行われたが文久2年(1862)の社殿造営で今日に至った。
この由緒書きでは竹内宿禰が陣営を構えたのは応神天皇の時代になっています。
応神天皇は神功皇后の皇子です。
前回の熊野神社で皇子としばらく別れる決意をした神功皇后ですが、
その皇子を預けたのが竹内宿禰でした。

皇后の亡きあとも竹内宿禰は生き続け、筑紫の国々の視察を命ぜられて、
再び筑紫に戻って来た時に、ここに陣営が継続していたとすると
ストーリーがつながってきます。
武内宿禰はこの時、若松恵比須神社でも松を植えたと伝えられています。
伝承をつなぐと古代の交通の要衝や陣営地などがだんだん姿を表して来ました。

さらにこの陣営に関する別の伝承が『福岡県神社誌』に書かれています。
社伝にいわく、神功皇后が西夷を討とうと武内大臣を施主にして新羅に至った。新羅の王は戦わないで降伏した。高句麗・百済の二王も畏れて和平を申し入れた。

皇后は凱旋の時にここで陣を構えた武内宿禰の軍令が厳整としていたので、「いくさばる」と称した。その後、社廟を建てて旗頭神社と名が付いたのが当社の起源である。
これを見ると神功皇后の時代に既にここに陣営を構えていたのが分かります。
ここは軍事的に重要な所でした。

それから1000年以上も経って城主・麻生興春がここに来た時
その眺望のよさに自分の墓所として選び旗指社となりました。
最初に石段がなくて平地だと書きましたが、
全体が高地にあって眺望が確保された立地だったのがこれで分かります。

江戸時代になって城主・井上之房が武内宿禰を敬慕していて
住いをここに移して旗頭社となりました。
武内宿禰の活躍は武将たちの崇敬の的だったのですね。

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神殿です。こんな身近に武内宿禰が祀られていたとは。

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周囲に古木が残っていて、とても大きいです。

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梅の木かなあと思ったけど、何の木かなあ。

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裏の方に出るとタギツ宮の鳥居がありました。宗像の姫神です。
奥津神社(タギツ島比売命、伊須岐依姫命、大己貴命)です。
これはかなり古い組み合わせのようですね。
タギツ姫と大己貴命は楯崎神社によると夫婦神です。

伊須岐依姫はイスケヨリ姫でしょうか。
そうだとすると神武天皇の大后で、三輪と三島の通婚で生まれた姫です。
鉄の民の姫です。

周囲の地名を眺めると、穴生に鉄竜、鉄王。これはすごい。
考古学的にたたら跡の出土を調べる必要がありますね。
(誰か八幡の古代製鉄を調べていないかな…。)

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境内にある稲荷神社と椋の木です。物部氏の鉄の暗号です。

う~む。このタギツ姫の宗像族が加わると、志賀安曇族・住吉族・出雲族+宗像族という
そうそうたる海人族たちの顔ぶれとなります。
これに前回の熊野神社の熊野族を加えると五大海人族になる。
(あれ?熊鰐さんの熊族が熊野族だ…。)
武内宿禰はこの倭国の水軍をすべて掌握していたんだ。なかなかのものだ。

考えるに、この近くに古代製鉄所があって、
それを守る陣営がもともと、ここにあったのではないでしょうか。
神功皇后と朝廷の百官が北九州に滞在中に海軍はここに拠点を置いた訳です。

皇后の滞在が長引いたのは、香坂王との戦いの為の準備に加えて、
皇后の乗る船の帆柱が折れて、修理をしなくてはならなくなったという事情が絡んでいました。
その修理所が中宿八幡宮(なかやど)です。次回はそこへ行きましょう。


地図 旗頭神社








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by lunabura | 2012-03-30 14:49 | (ハ行)神社 | Trackback | Comments(2)

熊野神社・人々が総出で神功皇后を迎えた・香坂王謀叛


熊野神社
北九州市八幡西区下上津役元町
人々が総出で神功皇后を迎えた
香坂王謀叛
 

熊野神社へのナビは急な坂道を登らせ、狭い狭い道をぐるぐると廻らせて
神社の境内横の公園に導きました。

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後で確認すると、写真の「下上津役2丁目」(しもこうじゃく)信号の先から
二度右折すると、もっと楽に駐車場に辿りつけるのが分かりました。

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一の鳥居からの参道はこのように、車では進入できません。

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参道を歩くと、この御神木から空気が変わりました。

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いくつか鳥居をくぐって境内に辿り着きます。

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落ち葉を急ぐ木々と緑の葉をつけた木々が混在する季節の変わり目です。
植物相がとても豊かな境内です。

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御祭神は伊弉冊尊(いざなみ)・速玉男命(はやたまお)・事解男命(ことさかお)
です。
神功皇后の足跡で熊野神社は初めてですね。
速玉男命はイザナミ神とセットの時にはイザナギ尊とするようです。

前にもちょっと書いたのですが、友人が和歌山県の熊野神社に参拝した時、
「英彦山が元宮ですよ。御苦労さまです。」と言われたという事なので、
神功皇后の時代はその下流の遠賀川流域の各地に伝わる
イザナギ・イザナミ祭祀について考える時に参考になる興味深い神社だと思いました。
熊野もまた海人族なので、ここにも拠点を持っていたのかも知れません。

神社に張られていた由緒書きにはここに来ないと分からない伝承が書かれていました。
熊野神社鎮座跡(下上津役1丁目15番1号)
伝説によればこの地は、神功皇后が三韓を征伐し、帰朝の途中、群臣を率いて当駅に入られたとき、郡首をはじめ庶民まで迎えたので、お迎いと名付けたという。

時に、皇后は二皇子謀反の事を聞き、応神天皇を紀伊の国に潜行させ、この地に祭壇を設けて紀伊国鎮座の熊野の大神を祭り、皇子の安泰を祈った。

昔は社殿を建てて祭り、神田20町余あって、神事も最も厳重であったが、多くの星霜と数度の兵火にかかって、祭事もいつしか怠り神田もなく現在に至る。

この鎮座跡より上上津役字馬場の熊野神社は天正年中(1573~1591)に竹尾の城主左衛門太夫鎮里が遷座させた。
下上津役字上方の熊野神社は延宝4年(1675)人民により遷座された。
この伝承にはいくつかの情報が書かれています。
まずこの神社は遷座していて、もともと下上津役(しもこうじゃく)にあったという事です。
そしてそこはがあり、神功皇后がやって来ると、郡首も庶民も出迎えたという事です。

これについて考えると、神功皇后が北九州に来たのはこれで3度目。
最初は皇祖の祭祀と造船の手配のためでした。
それから困難な戦いに全部勝利して皇子まで出産して戻って来たのですから、
人々の歓迎ぶりは相当のものだったと思われます。

そこが駅だったからでしょうか、香坂王と忍熊王の謀叛の情報がいち速く届き、
これからの戦略が練られたのかも知れません。
その後のようすを日本書紀はこう書いています。
この時、神功皇后は忍熊王が軍勢を起こして待っていると聞いて、武内宿禰に命じて皇子を抱かせ、迂回して南海に出て紀伊水門に停泊させました。皇后の船はまっすぐ難波を目指しました。
一歳ぐらいの皇子を竹内宿禰に預けて紀伊水門に潜行させたというのは、
この地の熊野水軍とよくよく話し合った結果の戦略だったのかも知れません。
練りに練って、正攻法を選んだ彼女は自分の命を懸けて戦って
皇子の命を守ろうとしました。
  可愛い盛りの皇子。
  この戦いに負けると一生、この子を抱く事はできない。
  乳母がいても、きっと皇子は自分を求めて泣くだろう。
  神さま。かならず皇子を守って下さい。
  必ず生きてこの腕に抱かせて下さい。
そう祈りながら祭壇を設けて、太母であるイザナミ神と熊野水軍の守護神たちを祀ったのでしょう。
  皇子の為ならどんな事も耐える。何でもする。
そんな決意が聞こえて来そうです。

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  境内の裏手から。

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地図 熊野神社





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by lunabura | 2012-03-28 21:02 | (カ行)神社 | Trackback | Comments(4)

この埴輪、山本太郎に似てない?


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王冠をかぶって入れ墨をした男性の埴輪。
山本太郎に似てる~。
古墳時代なのにヘアースタイルは美豆良じゃないし、冠も珍しい形。
これは会いたいと思って、出土地である福岡県筑紫郡那珂川町の
古墳の講演会に出掛けて来ました。

あいにく、この埴輪は出張中で、対面出来なかったのですが、
この那珂川町の古墳の集中ぶりは全国の10倍以上。
沢山の古墳を紹介されて、古墳の遍歴が少し分かるようになりました。

そのあと古墳見学に行ったので、後日レポートします。

そして、この那珂川町は何よりも眞鍋大覺の古里。
『儺の国の星』と『儺の国の星・拾遺』を出版した町です。
私にとってこの本は伝承や日本書紀を理解するためのバイブル。

眞鍋大覺は縄文杉の年代を測定し「縄文杉」という名称を作った人。
炭素測定による年代測定の先鞭を付けた人。
「地震雲」の存在を世に出した人。
「針摺の瀬戸」を伝えた人。

この本があいにく昨年完売になったので、
ミリカローデン那珂川の館長さんに再版をお願いしました。
その本の存在を御存じなかったのですが、前向きの回答が戴けそうです。

この本は古代日本の暦法を支えた物部氏の最後の伝承者による本です。
物部氏はハレー彗星の存在も既に知っていましたよ。
物部氏の暦法はトップシークレットだったために世に出ていませんでしたが、
現代の私たちにとって、古代史の謎を解く手がかりに満ちています。
この本が多くの古代史研究家に渡り、研究されるように願っています。




地図 那珂川町






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by lunabura | 2012-03-26 23:19 | にっき | Trackback | Comments(2)

篠崎八幡神社・「穴門は近し」の謎


篠崎八幡神社 
北九州市小倉北区篠崎
「穴門は近し」の謎

篠崎八幡神社は高速道路の紫川インターチェンジのすぐ近くにありました。

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けれども全く別世界。静かな山の頂に鎮座していました。

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とても広い境内です。

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神社の赤色は深い紅色。それに紫色の垂れ幕が美しい調和を見せています。
御祭神は応神天皇・神功皇后・仲哀天皇。
宗像三女神・玉依姫
です。

子と母と父。
八幡神社なのでおなじみの組み合わせですが、仲哀天皇が祀られているのが珍しいです。

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この拝殿の左右には大きな岩が置いてあります。今回は左にある岩に注目しましょう。
力石由来記から
神功皇后が三韓から凱旋の時、筑前の宇美で皇子(後の応神天皇)を御安産され、翌年穴門(長門)の豊浦宮にお向かいになる途中、鷹尾(高尾)山の山頂にあった大石(力石)の上に皇子をお立たさせ、遥かに菊の長浜や文字ヶ関を望み群臣を顧みて、「穴門は近し」と御懐かしみなさいました。
ということで、これが皇子が立った大石だそうです。
生立八幡で初めて母の膝をつたって立ち上がった皇子を
この石に立たせたという事ですから、群臣はハラハラしながらも、
幼子のたくましい成長ぶりに感動した事でしょう。
亡き父帝の忘れ形見として、これから倭国を引っ張って行く天皇にしなくてはならないと、
深く心に誓った事でしょう。
そう、これから皇子を天皇にするためにはもう一つの戦いが待っていたのですから。

ところで、この石は拝殿前にあるので、菊の長浜や門司ヶ関は見えません。
御由緒の続きを読んでみましょう。
敏達天皇12年(584年)勅命により、この故事に基づき鷹尾山の麓に神社を建て、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇を祀り、葛城小藤丸を祭祀に当たらせ『篠崎神社』とし、天平2年(730年)宇佐八幡宮から分霊を勧請、『篠崎八幡神社』としました。

現在地には、嘉祥3年(836年)祇園社が祀られている宮尾山を美しき神域と御遷座になり、明治以前においては、源義基、平康盛、足利尊氏、細川忠興、小笠原忠真、小笠原忠総等が社殿造営をなさり、昭和46年の造営を含め、合計7回あったといわれ今日に至っております。
現在地は宮尾山です。神社はもともと鷹尾山の麓にあった事が分かりました。
神社にお尋ねしたら、この大石もその時移動させたものだそうです。

鷹尾山からはどんな景色が見えたのでしょうか。

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場所は違っていても、雰囲気を味わいたいと思って楼門からさらに正面に
山門があったので立って見ると、長い石段がありました。
そしてそこから見えた景色は急峻な山と高速道路。
かつてはここも海だったのでしょうか。

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皇子とともに皇后が登った鷹尾山を探してみると、高尾という地名がありました。
元宮は現在地から西に一キロだそうですからこの付近だったのでしょう。

そして、神功皇后の一行が生立神社からどのルートで北九州市に出て来たのか、
手掛かりを探していた時、『神功皇后の戦略』(永井功)の本に、
由緒書きに省略されていた部分を発見しました。
豊前国葛城藤丸規矩(きく)県主(あがたぬし)耳熊彦が皇后を筑豊の界に迎えに行った。菊長池に沿って亀甲の丘を越え、逢坂を経て二の熊に到る。吹上川を渡り、車駕を鷹尾山の麓に留めて山勢が丸い形をしていて他の山と違っているのを仰ぎ見た。

頂上に登り、東に菊花の浜、文字(門司)関を眺めて、北に没利阿閉諸島(六連・藍島)を見て、群臣を顧みて言った。「穴門は近い。」人々はそれからはこの山を近見という。この時、皇子が初めて立った石が今なおそこにある。」
規矩の県主(あがたぬし)耳熊彦が直々に葛城藤丸と一緒に迎えに行っています。
葛城藤丸と小藤丸は葛城襲津彦の末裔だと伝えられています。
これまでもそうでしたが、船の旅は現地の人でないととても案内出来ません。

位登八幡神社で半年も滞在したのは、この迎えを待っていたのでしょう。
それは香椎宮からの百官百寮を連れての大人数の遷宮のために、
豊浦宮へ帰還するための旅路の手配に時間が必要だったと考えていましたが、
「穴門は近し」という神功皇后の言葉に、
そう単純な事情ではないな、と思うようになりました。

大集団の移動なら空っぽの豊浦宮に最短距離で帰るのが合理的です。
それを一旦、その前で留まるというのですから。
皇子を天皇に付かせえる為にどうしても戦わねばならぬ異母兄弟。
香坂(かごさか)王と忍熊(おしくま)王
その動向が気になる所です。

記紀では香坂王たちは近畿に戻っているように書いてありますが、
地元の伝承からはそれが不自然に見えて来ました。
途中までは日本書紀には日付まで書かれていたのが、
まるでワープしたように省略されていた秘密は
この豊浦宮と香坂王たちの問題が絡んでいるのだなと推測されるのでした。


地図 篠崎八幡神社




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by lunabura | 2012-03-25 20:06 | (サ行)神社 | Trackback | Comments(0)

発見された遺跡は大宰府政庁の客館?


発見された遺跡は大宰府政庁の客館?
太宰府市朱雀2~3丁目


今日は地図を広げていたら、どうにも止まらない。
国土地理院の5万分の1の「太宰府」「甘木」「福岡」「背振山」を
糊で貼り付けると1m以上の大きな地図になります。

気になる地名に印をつけてお遊び。
道路地図帳なんかは周辺が山で終わるけど、つないでみると
山越えルートがとても近くでびっくりする場所がいくつもある。

そんな今日は西日本新聞に最近発見された大宰府の客館らしき遺跡についての
解説が載っていたので、いったい何処にあるんだろと
太宰府のあたりをずっと眺めていました。

これは今日の新聞記事。

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それで客館をネットで検索すると、現地説明会用のPDF版を見つけたので、
印刷してお勉強する事にします。(^o^)/

大宰府条坊内の客館(8~9世紀)
http://www.city.dazaifu.lg.jp/data/open/cnt/3/5933/1/document_about_guest-house_in_ancient_Dazaifu.pdf

(リンクが効かない時は「大宰府条坊内の客館(8~9世紀)」で検索するとトップに出て来ます。)

下の西鉄操車場跡の部分が朱雀で遺跡の発掘現場です。
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(画像出典 上記PDFより)

これからも全国の遺跡の現地説明会の資料がこうして出されると有り難いですね!

九州王朝論とかよく聞くけど、都が見つかってないってホントですか?




地図 太宰府市朱雀




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by lunabura | 2012-03-23 21:11 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(4)

到津八幡神社・神功皇后の御座船が着いた


到津八幡神社
いとうづ
北九州市小倉北区上到津
神功皇后の御座船が着いた 

さて、神功皇后の足跡を辿るコースもいよいよ終盤です。
神功皇后は飯塚市の大分宮で倭国連合軍を解散すると、福岡県を横断して周防灘に出ます。
そして、再び北九州市に戻って来ますが、この経過は記紀には書かれていません。

今回の「到津」(いとうづ)という神社の名前は神功皇后が「津に到った」という事から付いた名でした。

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ここは内陸部にあるのですが、やはり当時は海が迫っていて、船を付ける事が出来たそうです。
神社のすぐ前には板櫃川が流れていて、そこから上陸すればこの坂が待っていただろうと思われます。
と言いながら、石段上りがだんだん快感に…。

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御祭神は
息長帯比売命(神功皇后)・品陀和気命(応神天皇)・宗像三女神・豊日別命(豊前国の守り神)
です。
豊日別命がついに出て来ました。ここは豊の国なのですね!
豊日別命は豊前国の国魂なので、ここが重要な津だった事が伺えます。

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神殿が少し見えます。
境内にあった由緒書きを写します。
御事跡
神功皇后は御征韓の後、宇美の里で応神天皇をご出産なさいました。長門豊浦宮に遷幸の際、御船をこの所の津(港)にお寄せになりました。これが到津(津に到る)という地名の起源であり、千古の霊跡を伝えるものでございます。

後に一祠を建て、皇后の和魂をお祀りいたしましたのが当社の始めでございます。
神功皇后は身重のまにまに戦場に赴かれましたが、その大いなる御神力にて胎中の応神天皇を守護され、お導きになられました。以来人々は安産を祈り、社前の川の水を産湯として汲み用いてきました。
因って川名は産川(ウブカワ)とも呼ばれています。(現在の板櫃川)

文治4年(1188年)宇佐神宮より宇佐八幡大神を勧請しました。
『豊前国誌』には次のように記されています。
「宇佐八幡宮御分社中においては第一の御社柄といひつべし」
また細川氏、小笠原氏の尊崇も厚く企救郡大社と称せられ、現在に至ります。
神功皇后の和魂(にぎみたま)を祀ったという宮なのですね。
ですから、安産を願う人々に篤く慕われました。

宇佐神宮の分社の中でも第一だと書いてありますが、『福岡県神社誌』の方にも、
天慶2年(939)の頃、藤原長光が宝鏡を宇佐宮と当社両方に奉納したとあるので、
両社は深いかかわりがあるのが分かります。

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境内社です。背景が空で、小高い所に立地しているのがよく分かると思います。

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稲荷社もありました。これはまた華麗ですね。

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御神木です。

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地形図を見ると、神社の鎮座地は岬の上に当たるようです。
すぐ南の入江なら大きな船も入る良港のように見えますね。
さて、ここに神功皇后の御座船を招き入れたのはどんな氏族でしょうか。
その伝承は南西部の篠崎八幡神社に伝わっていました。
次回はそちらへ行きましょう。

地図 到津八幡神社









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by lunabura | 2012-03-22 20:18 | 神社(イ) | Trackback | Comments(0)

手光波切不動古墳・ここからも金銅製の馬具が出土した


手光波切不動古墳

てびか・なみきり・ふどう
福岡県福津市手光
ここからも金銅製の馬具が出土した

宮地嶽古墳の小型古墳と言われる手光波切不動古墳から
金銅製(金メッキ)の馬具が出土しました。

以前、このブログで簡単に触れた古墳ですが、
今回は在庫の写真で改めて見直したいと思います。

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この古墳は福津市の県道97号線沿いにあり、民家の間に参道があります。

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江戸時代以降に開口したそうです。

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石碑には「手光波切不動尊」と書かれていて、
入り口の左右には仏像などが安置出来るようになっていますが、現在は何もありません。

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腰をかがめて入ります。切石の一辺は1.5mほどです。
表面にはリズミカルなノミの跡が見られます。

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天井石のようす。きっちりと組まれています。

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祭壇がある所は両手を広げた位の横幅で、前室と後室に分かれていて、
後室の奥行きが2.1m。棺を置くのに丁度いい寸法です。

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前室と後室の境目のようすです。

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これが実測図です。

宮地嶽神社の古墳と基本構造が同じだそうで、
これを先に造ってから宮地嶽古墳を造ったという説と、
逆に後続の古墳で、小さく造らなくてはならなくなったという説があります。
龕(がん)はこちらにはありません。

今度「宗像・沖ノ島と関連遺産群」が世界遺産の暫定リスト入りした事を受けて、
この古墳を改めて発掘調査したところ、金銅製の馬具が出土したという事です。

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これを読むと宮地嶽古墳の被葬者が「胸形君徳善」と決まったような書きかたに
見えますが、如何でしょうか。
これを管理する宮地嶽神社はそれを否定していて、磐井の君の一族として祭祀しています。
近くには磐井の君の子の葛子以外の子供の古墳もあり、
全体の調査なしに「徳善」と決めてしまうのには私も疑問を感じています。

また手光波切不動尊-宮地嶽古墳を一緒に祭祀し続けた武内氏の一族もあります。
この手光波切不動尊を参拝してから宮地嶽古墳に参拝していたそうです。

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宮地嶽へは約1.5キロで、参拝道は現在とは違っていたそうです。

宮地嶽古墳には筑紫舞が奉納された記録もあり、多方面から総合的に調査した上で、
被葬者についてもっと論議を尽くして欲しいなと思っています。

いずれにしろ、これからの調査報告が楽しみです。




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地図 てびかなみきり不動神社

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by lunabura | 2012-03-21 20:14 | 宮地嶽神社と古墳・福津市 | Trackback | Comments(0)

宗像と出雲

宗像と出雲

宗像神社の辺津宮の千木は垂直だとコメントで教えていただいたので、在庫の写真で調べてみました。

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おおお。

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本当に垂直です。
と言う事は祭神は男神を示すという事になるのですが…。
三女神はどうなる?

前回の楯崎神社の祭神は大己貴命と少彦名神でしたが、
宗像神社とは直線で約7キロ。
大己貴命は宗像大神の姉妹と結婚したとなっているので、
ここにはその足跡が残っている可能性は十分にありますね。

それと関係あるのかどうか。
今日は朝から「出雲」が気になって写真を撮り直したいと思っていたんです。
「出雲」…福岡県の筑穂町にある地名です。

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これがその信号ですが、これだけではどこか分からないので、

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今日撮り直して来ました。
この信号は王塚古墳に近いので、王塚古墳館に地名の由来を尋ねに行ったのですが、今日は分からずじまい。

福岡の古代の出雲。
その姿は明らかになってくれるのでしょうか。






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by lunabura | 2012-03-20 23:24 | 宗像大社・むなかた・宗像市 | Trackback | Comments(27)

楯崎神社(1)半島の絶壁に立つ巨大な磐座に神功皇后は祈った


楯崎神社(1)
たてざき
福岡県福津市渡
半島の絶壁に立つ巨大な磐座に神功皇后は祈った 

この神社に初めて訪れたのは、地図を見ていて、ここに磐座があるはずだと推測したからでした。
そして行ってみると、実際に巨大な磐座がありました。

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ここは渡半島の突先です。そこには神社がありました。駐車場は道路を隔てた所にあります。

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楯崎(たてざき)神社です。周囲には全く人家はありません。

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祭神 大己貴命 少彦名命
相殿 飛龍権現
由緒書きがあったのですが、その当時はその意味を理解出来ませんでした。
その時探していたのは盤座です。

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境内の右の方に踏み分け道があって奥へ奥へと進みました。
すると半島の崖ぞいに山道がついていました。
これは振り返って撮ったのですが、右は山。左は絶壁です。

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覗くとこんな感じ。

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数百メートルで、神社の参道になって来ました。

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これが楯崎神社の元宮(奥の院)だと後で分かりました。
現在は薬師神社といい、不動明王が祀られているといいます。
赤い鳥居の左上には、想像以上の巨岩がありました。

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木が生い茂っていて、その全体を撮ることが出来ません。

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この巨岩の根元は石が組み合わせられて、隙間があります。
最近祭壇が置かれたようですが、この中に入ると意外にゆとりがあって、
ゆっくりと座ることができます。
異空間です。
岩陰祭祀場です。

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周囲を調べると、このような80センチほどの岩が
不規則に並べられながら、これまた独特の静けさのある空間を作っています。

落石があったらしく、これ以上は入れません。
すごいスポットもありますが、危険なために紹介できません。

磐座の表面を見ると石と泥で出来たような組成です。
山道に転がっていた火成岩とは全く違っています。
このタイプの組成は熊本や鹿児島の巨石群でも見られるもので、
その姿もまた熊本や福岡の八女、鹿児島のものと近い姿でした。
これを巨石研究会では縄文セメントと呼んでいました。
このような岩は意外に簡単に作れる実験も本に出ていました。

何年かたって不思議な縁で再びここを訪れたのですが
その時は、ここで初めて人のオーラをカラーで見ました。
(二度とそのような事はありませんが…。)

それからまた数年たって、神功皇后の伝承地を調べていて、またもやここに訪れる事になったのでした。
ここに祀られている飛龍権現とは神功皇后の事でした。
皇后はここでも祭祀をしたそうです。
京泊(きょうどまり)から上陸してここに楯を奉納して神の助けを願いました。
別伝には、凱旋後に楯と弦を切った弓を奉納したともあります。

凱旋後にお礼参りをした話は各地に伝わっていて、皇后自身は産後、間もないので、
中臣の烏賊津使主(いかつおみ)などが代参したのだろうなと思っています。

さて、神功皇后がわざわざここまで祈願しに来たのは、さらに古い歴史があるからでした。

                       (つづく)

地図 楯崎神社 京泊




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by lunabura | 2012-03-17 10:40 | 楯崎神社・たてざき・福津市 | Trackback | Comments(2)

楯崎神社(2)大己貴と宗像姫の連合軍が異敵と戦った


楯崎神社(2)
大己貴と宗像姫の連合軍が異敵と戦った


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奥の院の小祠です。左が岩窟で、後ろに巨大な岩がそびえています。
昭和28年6月、未曾有の豪雨によって地滑りが起こり、境内に亀裂を生じ、
お社も傾いて鳥居も倒れたので道路沿いにお社を建て直したそうです。

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こちらは道路沿いの方の狛犬。
祭神は大己貴神、少彦名、飛龍権現ということですが、
調べて行くと祭神がいろいろと変化しています。
飛龍権現も神功皇后だったり、熊野権現だったりしているので、
今回は境内の説明板に従って行きます。
かなり長い文だったので、時代順にまとめた形で歴史の流れを見てみましょう。

異賊の襲来に大己貴・宗像姫軍が戦った

まだ草木が物を言うような昔、夷が上陸して人民を殺傷した。その時、大己貴神后の宗像姫大神が神軍を率いて戦った。を立て、鼓を鳴らして防御し、ついには敵を撃ち滅ぼした。

大己貴神は先に宗像奥津宮に座す田心姫を娶って一男一女児、味鉏高彦根神と下照姫命を生んだ。次に辺津宮に座す高津姫命を娶って一男一女児、味歯八重事代主神と高照光姫大神命を生んだ。
大己貴命とは大国主神の事で、沢山の妻がいますが、
この宗像の田心(タゴリ)姫を娶った話は古事記にも書かれていて有名です。
が、辺津宮の高津姫を娶ったという話はここで初めて知りました。

辺津宮の祭神は今は市杵島姫となっています。
高津姫と市杵島姫が同一神なのかどうかは調べてみなければなりません。

ただ古い文献に当たっていくと、この三女神は現在のように
「沖津島がタゴリ姫、中津宮がタギツ姫、辺津宮が市杵島姫」という形に
決まっていた訳ではなく、あらゆる組み合わせが存在して異説だらけでした。
神社の方もそれでは問題が多いので、
現在の組み合わせで統一されたのだろうと思っています。

大己貴命が宗像の姉妹と結婚した件については、
これまでもマレビトが来た時には、姉妹と結婚する例がいくつも見られたので、
かなり古くからの慣習だったのでしょう。
鞍手郡誌を見ると、市杵島姫も結婚していますよ。
(相手がよく分からないので調査中です。これらの研究は一生かかりそうですね。)

この縁起で見逃せないのは、大己貴の時代に敵の襲来があったという事です。
同じ話が遠く離れた糸島市の雷神社(いかづち)にも伝わっていたように、
神功皇后の前の時代には異賊の襲来と戦いが長年続いた事が分かります。

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これは神社のそばから見える「恋の浦」です。ここが戦場だったのでしょうか。
現在も密航の監視塔があり、朝鮮半島から潮に乗れば漂着出来る場所です。

神功皇后が祈願した
昔、息長足姫尊が将として西征の時、この山に登って神助を祈った。その時の御船が停泊した所を京泊という。社北、御手を●●した所を「御手水の瀑布」という。

その側に大岩があり、形が軍船のようで、「加羅船岩」という。また三岩瀬あり。その中間には「湯壺」という温泉があって湧き出している。潮が引くと今なお温泉が湧き出しているのが見られる。

ここを北の磯浜と言い、その中に「五色浜」がある。小石が五色で鮮明だ。また「楢葉浜」には化石があって楢葉の文が見られる。この岸の西二町ばかりに「鼓岩」があり、形は鼓にそっくりで、草木は生えていない。鼓島はおよそこの山海の奇勝、言葉に尽くせない。どれもこれもが神明の霊蹟である。(●●は不明)
神功皇后は大己貴の戦勝の縁起にあやかろうとしたのでしょうか。
ここまでやって来て楯を奉納し、その楯が石になったと伝えます。
縁起に書かれた奇岩は現存していて、滝も温泉も残っているそうです。
珪化木や葉の化石、地層なども観察できるところです。

「京泊」(きょうどまり)は古代の良港で、輸入した馬を上陸させて放牧していました。
(⇒渡の牧跡 神代に放ち給う馬の牧跡 http://lunabura.exblog.jp/16445440/

このような半島の牧場を管理し、大己貴の戦勝の盤座を知って案内したのは誰でしょうか。
よほど信頼関係のある長でないとノコノコと付いて行くのは危険な場所です。

ここに近いのは宮地嶽神社で、祭神は神功皇后と勝村、勝頼大神です。
勝村、勝頼の二神は神功皇后を助けて新羅へ遠征したと言いますから、
この二人が案内したのかも知れないなと考えています。

尚、神功皇后が新羅から帰着した場所という伝承が海岸沿いにいくつも残っています。

最澄が仏像を奉納した
桓武天皇の御世、最澄師、求法のために唐国に赴かんとしてここに詣で、宿願を達せんこと祈り、自ら薬師阿弥陀観音像を彫刻して安置し、楯崎寺という。今俗に楯崎薬師と称する所はすなわちこの新宮なり。誤って古宮を薬師となし、神山を称して薬師山という。かつて大神の本跡を知る者なし。
最澄までやって来たんですね。
この楯崎神社のご加護の大きさは数百年たっても語られ続け、
最澄もまたその御加護を祈願して仏像を彫刻して奉納したことから、
薬師寺、薬師神社という名称が重なっていったようです。

西行法師が歌を詠んだ
夫木集 西行法師
さかおろす 楯石崎の 白浪は あらきしほにも かかりけるかな

西行法師がこの楯石崎の海岸を歌に詠んでいました。

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バルチック艦隊と三笠の戦いもこの海です。



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by lunabura | 2012-03-16 16:14 | 楯崎神社・たてざき・福津市 | Trackback | Comments(5)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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