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百済の前方後円墳(6)『旧唐書』日本伝・日本国の成り立ちと不思議な白亀年号


百済の前方後円墳(6)

『旧唐書』日本伝
日本国の成り立ちと不思議な白亀年号
 

『旧唐書』の倭国伝について、現代語訳をしましたが、
冒頭の部分について、多くのアドバイスをいただきました。
問題の箇所は「倭國者古倭奴國也。」というところ。
「倭国はいにしえの倭の奴国である。」と参考本に従って余り考えずに訳したのですが、
「倭国はいにしえの倭奴国である。」というのが妥当ではないかという内容です。

「倭」について「奴」について「倭奴」について、古代言語の解説などもいただいて、
興味深く拝読しました。
これを消化するには古代の中国史や朝鮮史そして、肝心の古代九州史の知識が必要で、
奥の深い世界です。
ブログという性格上、自分の思考の変化の過程を残すのも醍醐味だと思ったので、
前回の文は訂正しないでおく事にしました。
みなさんのコメントによって私の気づきが深まる過程を残したいと思います。

さあ、それでは「ぶらぶら歩き」の精神にのっとって『旧唐書』の訳を続けましょう。
『旧唐書』にある不思議な二つの国「倭国」と「日本」。
今回は「日本伝」です。
これまた唐の制度の知識が必要なのですが、またみなさんのアドバイスに期待して、
訳をしていきましょう。
日本国は倭国の別種である。その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた。」ともいう。またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した。」とも。

その日本人で唐に入朝する使者の多くは尊大で、誠実に答えない。それで中国ではこれを疑っている。

彼らは「我が国の国境は東西南北、それぞれ数千里あって西や南の境はみな大海に接している。東や北の境は大きな山があってそれを境としている。山の向こうは毛人の国である。」と言っている。

長安3年(703)、その大臣の粟田真人が来朝して国の特産物を献上した。朝臣真人の身分は中国の戸部尚書(租庸内務をつかさどる長官)のようなものだ。彼は進徳冠をかぶって、その頂は花のように分かれて四方に垂れている。(進徳冠…唐の制度の冠の一つで九つの球と金飾りがついている)紫の衣を身に付けて白絹を腰帯にしていた。

真人は経書や史書を読むのが好きで、文章を創る事ができ、ものごしは温雅だ。則天武后は真人を鱗徳殿の宴に招いて司膳卿(しぜんけい・食膳を司る官)を授けて、本国に帰還させた。

開元の初め(玄宗の時代・713~741)また使者が来朝してきた。その使者は儒学者に経典を教授してほしいと請願した。玄宗皇帝は四門助教(教育機関の副教官)の趙玄黙に命じて鴻盧寺で教授させた。

日本の使者は玄黙に広幅の布を贈って、入門の謝礼とした。その布には「白亀元年の調布(税金として納めたもの)」と書かれているが、中国では偽りでないかと疑った。

日本の使者は唐でもらった贈り物を全部、書籍を購入する費用に充てて、海路で帰還していった。

その副使の朝臣仲満(阿倍仲麻呂)は中国の風習を慕って留まって去らず、姓名を朝衡(ちょうこう)と変えて朝廷に仕え、左補闕(さほけつ・天子への諫言役)、儀王(第12王子)の学友となった。朝衡(仲麻呂)は京師に50年留まって書籍を愛好し、職を解いて帰国させようとしたが、留まって帰らなかった。

天宝12年(753)。日本国はふたたび使者を送って朝貢してきた。
(※藤原清河・大伴古麻呂・吉備真備ら)

上元年間(760~762)に朝衡を左散騎常侍(天子の顧問)・鎮南都護(インドシナ半島北部の軍政長官)に抜擢した。

貞元20年(804)。日本国は使者を送って朝貢してきた。学生の橘逸勢(はやなり)・学問僧の空海が留まった。

元和元年(806)。日本国使判官の高階真人は「前回渡唐した学生の学業もほぼ終えたので帰国させようと思います。わたくしと共に帰国するように請願します。」と上奏したのでその通りにさせた。
開成4年(839)。日本国は再び使者を送って朝貢してきた。
後半には煌めく大スターたちがどんどん登場して、目を奪われそうです。
教科書でよく知っている名前なので、うれしいですね。
日本からの遣唐使について、唐からみた姿が伺えます。

則天武后と粟田真人
則天武后(在位690-705)の生まれが623年なので、
粟田真人が則天武后に会った時は80歳だったという事になります。

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写真の則天武后の後の官人たちの服装や冠を見て下さい。
これに対して真人は戸部尚書(租庸内務をつかさどる長官)ほどで、あまり高い身分でないのに、
高い位のものを身に付けていたようなニュアンスを受けました。
紫を着られるのはどんな身分だったのでしょう。

これは進徳冠。
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(画像出典 昭陵博物館)
http://kohkosai.com/chinaphoto/syouryou/syouryou/page/005.htm
進徳冠を調べて行くと中国では 次代の天子になるべき太子の専用帽子だったという記事もありました。

どうやら国内なら厳罰に処せられそうな格好です。
異国の風習だからと朝廷は寛大に接したのでしょう。
倭国に比べて日本国から来た人たちへの疑いのまなざしはこうして続いたけれど、
新たに来朝した真人の人柄のよさに則天武后は別れの宴を開くほど、
真人を信任したと思われます。

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これは則天武后が若いころ。(ドラマより)


おっと、美人に見とれている場合じゃなかった。
テーマは「倭国と日本国」なんです。

日本国の成り立ち
もう一度最初の部分を読み直すと、
日本国は倭国の別種である。その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた。」ともいう。
またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した。」とも。

その日本人で唐に入朝する使者の多くは尊大で、誠実に答えない。それで中国ではこれを疑っている。
彼らは「我が国の国境は東西南北、それぞれ数千里あって西や南の境はみな大海に接している。東や北の境は大きな山があってそれを境としている。山の向こうは毛人の国である。」と言っている。
倭人に比べて日本人は態度が大きかった?
「多自矜大、不以實對、故中國疑焉」が原文です。
答え方にも誠実さが見られず、これまでの倭人のひたむきな印象と比べると、
「倭国が日本国になったのか?いったいどうなっているのだ?」
と中国側も「日本国」の存在を疑ったように見えます。

日本国の成り立ちは、
「倭国が日本国と名前を変えた」
「古くは倭国の東にあった小国が、いつのまにか倭国の地を併合した」
の二つが考えられた事が分かります。

後者は近畿の小国が大きくなって九州に勢力の中心があった倭国を併合して、
日本国と名乗った事を意味します。
百済の前方後円墳の副葬品の状況からは後者の説が正しいと思われます。

いったい、この時代はどうなっているのでしょうか。
サイドバーの年表に『旧唐書』から得られた年を赤字で入れ込んでみました。
630 遣唐使はじまる
632 新羅・善徳女王 即位
642 皇極天皇・35代 即位
645 中大兄皇子乙巳の変
645 孝徳天皇・36代 即位
648 倭国は新羅にことづけて上表文を送る。
655 斉明天皇・37代 即位
660 百済滅亡
661 斉明天皇が崩御
662 天智天皇38代那国で即位 
663 白村江で大敗する
667 大津へ遷都する
703 日本国は粟田真人を使者とする。

倭国に関する記事は648年が最後です。
中大兄皇子の乙巳の変の頃に
倭国は新羅に仲立ちを頼んで中国との交渉を取り付けようとしています。

一方日本国の朝貢は630年の遣唐使から始まって、
703年の粟田真人から交流が深まります。
その間にあの663年の白村江の戦いが存在します。
それまでは倭国と日本国が併存していたと考えられます。

そうすると白村江の戦いの「倭国・百済の連合軍 対  唐・新羅連合軍」の前者は
厳密には「倭国・日本国・百済の連合軍」という事になりそうです。

白亀という年号
開元の初め(713~)に日本の使者が持って来た布には
「白亀元年の調布」と、日本史にない年号が書かれていました。

これについて九州王朝には「二中歴」という別系統の年号が存在する事が研究されているので、
探してみましたが、その中にも白亀はありませんでした。

参考にした本では「写し違いだ」と簡単に片づけてありましたが、
中国側はわざわざ「疑った」と話題にしているのです。
日本国は現在伝わる年号と違う年号を持っていたと考える方が合理的でしょう。
そう簡単に写し違いにするのはもったいないですね。

つづきは<百済から倭国へ>
日拝塚古墳へ



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by lunabura | 2012-05-31 11:04 | 百済の前方後円墳 | Trackback | Comments(4)

古代あさくらツアー・卑弥呼・神功皇后・斉明天皇の足跡を巡る


古代あさくらツアー
卑弥呼・神功皇后・斉明天皇の足跡を巡る

嬉しいな!
ついに古代史ツアーが出た。
これまでの逍遥で、歴史や産物の豊かな所に沢山出会っていました。
そんな魅力的な市町村の観光と古代史を組み合わせたプランが出来たらいいなと
ずっと思っていたので、この古代朝倉のツアーにうれし涙。

タイトルは

「古代あさくらを駆け抜けた 卑弥呼・神功皇后・斉明天皇
ゆかりの地を巡る歴史探訪モニターバスツアー」


―原鶴温泉、農家レストラン、直売所で買い物、夜は郷土史家と歴史談義
2012年5月31日(木)~6月1日(金)
ときたもんだ。

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行程表を見ると、無理なく廻れるコースを組んである。



神功皇后が仲哀天皇の仇討ちをするために羽白熊鷲を攻略するルート。
卑弥呼の里の候補地―平塚川添遺跡。
斉明天皇が突然亡くなって、天智天皇が殯をした恵蘇八幡宮。
そして橘広庭宮の候補地。

そんな場所を巡るんですよ~。
朝倉と言えば三連水車。
夜は原鶴温泉だ。
筑後川流域は今は小麦が黄金色。
果物もおいしい所です。

私も各神社をリンクして応援します (^o^)/
下調べに利用してね。

砥上神社とがみ 朝倉郡 皇后軍が駐屯して砥石で武器を磨いた
栗田八幡宮(松峡八幡宮) まつお 朝倉郡 羽白熊鷲攻撃の大本営を築いた
大己貴神社 おおなむち 朝倉郡 神功皇后は大三輪の神を祭った
恵蘇八幡宮
恵蘇八幡宮と木の丸殿(1)筑紫で亡くなった斉明天皇のモガリの宮
恵蘇八幡宮(2)なんと縁起に斉明天皇陵の所在地が書かれていた。
恵蘇八幡宮(3)一筋縄では行かない地名の特定・明日香村の地名の変遷が分からない
恵蘇八幡宮(4)こんな所に漏刻(水時計)があったよ


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問い合わせ・申し込み
朝倉広域観光協会 歴史探訪モニターツアー事務局
TEL 0946-24-6758 FAX 0946-24-9015
e-mail:aakankou@apricot.ocn.ne.jp

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途中であの埴輪くんに会えるかも!

仙道古墳
http://lunabura.exblog.jp/15708317/

















朝倉市










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by lunabura | 2012-05-26 20:42 | にっき | Trackback | Comments(6)

百済の前方後円墳(5)中国正史に「倭国」と「日本」 二つの王朝が書いてある…


百済の前方後円墳(5)

中国正史に「倭国」と「日本」 二つの王朝が書いてある…
まずは『旧唐書』倭国伝を読んでみよう

日本書紀を気ままに訳していました。
我が国の事を古い時代は「倭国」と書いていたはずなのに
継体天皇の時代には「日本」という表記が出て来ました。
いったいいつの間に「倭国」から「日本」になったんだろう。

そう思いながら『旧唐書』(くとうじょ)をパラパラとめくっていると、あれあれ?
目次に「倭国」「日本」と二種類書いてあるのです。
これはいったい何だ!
日本が二種類だって?
二つ並んでいるという事は、唐は明らかに「日本列島に『二つの王朝』がある」
と認識していることを示しています。

「倭国」と「日本」は別なのか?
読み始めるといきなり「倭国」の場所が書いてありました。
目が点 (@_@;) 何じゃあ、これは!
それは良く良く知っている所でした。
それはこのブログでずっと歩きまわった所―奴国だと書いてあるではないですか。

それじゃあ、「日本」は、ど、何処?
と驚いたのですが、訳して読まないと、どうしようもない…。
と、ぼちぼちとチャレンジするのでありました。
という事で今回は『旧唐書』倭国伝です。

倭国
倭国はいにしえの倭の奴国(倭奴国)のことである。唐の都の長安を去ること1万4千里。新羅の東南の大海の中にある。倭人は山ばかりの島に依り付いて住んでいる。倭国の広さは東西は5か月の旅程で、南北は3か月の旅程であり、代々中国と通じていた。

その国の町などには城郭が無く、木で柵を作り、家の屋根は草で葺いている。

四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。小島の諸国はこれを畏怖している。制定する官位は12等級ある。訴訟する者は匍匐(ほふく)して前に出る。

倭国には女が多く、男は少ない。かなりの漢字が通用している。俗人は仏法を敬っている。人々は裸足で、ひと幅の布で身体の前後を覆っている。

貴人は錦織の帽子をかぶり、一般人は椎髷(さいづちのようなマゲ)で、冠や帯は付けていない。

婦人は単色のスカートに丈の長い襦袢を着て、髪の毛は後ろで束ねて、25センチほどの銀の花を左右に数枝ずつ挿して、その数で貴賤が分かるようにしている。衣服の制(つくり)は新羅にとても似ている。

貞観5年(631)。倭国は使いを送って来て、地方の産物を献上した。太宗は道のりが遠いのをあわれんで、所司(=役人)に命じて毎年朝貢しなくてよいように取りはからわせ、さらに新州の刺史(しし=長官)高表仁に使者のしるしを持たせて倭国に派遣して、てなずけることにした。ところが表仁には外交手腕がなく、倭国の王子と礼儀の事で争いを起こして、国書を述べずに帰国した。

貞観22年(648)になって、倭国王は再び新羅の遣唐使に上表文をことづけて太祖へ安否を伺うあいさつをしてきた。

(※のちに「倭の奴国」は「倭奴国」と換える事になります。)
以上が「倭国伝」です。この『旧唐書』は945年に成立しています。

唐の太祖(在位626年 - 649年)の時代のエピソードが書かれているので、
皇極天皇の642年の即位、白村江の戦いの663年と比較すると、
「倭国の王朝」がまだ存在して、「日本」と併存している事になります。
しかし、この後の『新唐書』ではもう「倭国」についての記述は消えてしまいます。

やはり白村江の戦いで倭国の兵士たちが海の藻くずとなった事が
倭国の滅亡へとつながったのでしょうか。

「倭国とはいにしえの倭の奴国だ。」という事は福岡県の北部を指しています。
奴国(なこく)。那の国。儺の国。表記がいろいろとあります。
そう。そこはこのブログでずっと歩いてきた所なのです。

奴国は現在の福岡市を中心にして、もう少し広い領域が相当します。
これまでの聞き取りでは東は福津市の東郷川まで、あるいは宮地嶽古墳あたりまで分かっています。
西は那珂川町が『儺の国の星』のタイトルが示すように奴国に入ります。
北は志賀島あたりまでかな?南限は未調査です。

倭国(奴国)の王の姓は代々アマ・アメと書いてあります。
これを見てちょっとショックでした。だって日本の神話によく出て来る名前ですから。

どこに住んでいたのでしょうか。
候補地の一つに聞き取りでは粕屋郡の志免町があります。
また、仲哀天皇の時代はもちろん儺の県―福岡市東区香椎ですね。
(ただし仲哀天皇が倭国の王のアマ氏かどうかはよく分からない。)

中国正史の他の本をパラパラとめくると都は
『新唐書』には筑紫城。
『隋書』には邪靡堆。即ち邪馬台だと書いてあります。
邪馬台も奴国にある事になってしまいます。
まだ一部しか読んでいないので、結論は出せませんが、これはいったいどういう事なのでしょうか。
都というものは時代の変化に合わせて転々とするけど、奴国の中でという事になります。

これがいわゆる「九州王朝」を指すのは明らかです。
こりゃあ「九州王朝説」とは、説ではなく、「事実だ」よ。だって中国の歴史書にそう書いてあるんだもん。

朴天秀氏が明らかにした百済の前方後円墳から割り出される「古代九州勢力」が
この「倭国」であるというhurutakaimasakiさんの指摘もまちがいありません。

中国史の部分しか読んでないので、全容を早く知りたいなあ。
誰か既に論文書いてないかなあ…。ズボラしたいよ。
公開日記に書くには問題が大きすぎますよね。


さてさて、話は全く変わりますが、ここに描かれた倭人のファッションが気になります。
人々は裸足で、ひと幅の布で身体の前後を覆っている

これは庶民の格好の話ですが、いったいどんな格好?

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この写真の中央の人は「貫頭衣に一枚の布を前後に覆った」格好です。
左の人は貫頭衣だけ。右の人は貫頭衣の上から一枚の布を肩で結んでいます。
「顔が濃い人たち」が着ると「弥生人の貫頭衣」とは全く違うように見えますが…。
どうみても貫頭衣です。

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阿部寛さん以外は現地のローマ人。似た人、ご近所にいませんか?

貴人は錦織の帽子をかぶり、一般人は椎髷(さいづちのようなマゲ)で、冠や帯は付けていない。

c0222861_23573033.jpg男子でも身分が高くなると帽子をかぶり、
一般人は「さいづちのようなマゲ」を結っています。
才槌は木の槌ですから、こんな感じかな?
これは『三国志』(180~280)の髪型です。日本では弥生時代ですね。
竹内宿禰が軍勢にこの髪型にさせて、弓の弦を隠させたのを思い出します。
ということは彼らは普段は違う髪型だった訳ですが。

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参考までに同じ『三国志』の冠や甲のようすです。
倭国の王族アマ氏は毎年、唐に朝貢していたというのですから、
このような服装の影響を受けていただろうとも思えるのですが。
いったいどんな格好をしていたんでしょうね。
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上は竹原古墳の壁画の武人。ブーツはいてるね。

婦人は単色のスカートに丈の長い襦袢を着て、髪の毛は後ろで束ねて、25センチほどの銀の花を左右に数枝ずつ挿して、その数で貴賤が分かるようにしている。衣服の制(つくり)は新羅にとても似ている。

c0222861_23584585.jpg身分の高い女性はスカートに襦袢です。
襦袢(じゅばん)の語源はアラビア語の「ジュッパ」がポルトガル語「ジヴァン」に変化して、漢字をあてたものだそうです。
高松塚古墳(700年前後)の壁画の女性たちは後ろで髪を束ねてスカートを履いて、襦袢を着ています。
壁画のスカートはカラフルですが、倭国の場合は単色でした。
ヘアースタイルはトップは少し逆毛を立てて、あとは後で束ねています。
銀の花の髪飾りを揺らすにはもう少し上の方で結った方が良さそう。




c0222861_2359730.jpg良く似ているという新羅の女性の服装です。
こっちの方が銀の花の髪飾りが似合いそう。
倭国の婦人たち。どんなファッションだったのでしょうね。

次は同じ『旧唐書』の「日本伝」を読んでみましょう。

(つづく)










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by lunabura | 2012-05-23 00:05 | 百済の前方後円墳 | Trackback | Comments(21)

百済の前方後円墳(4)中国から見た事情・『宋書』倭国伝―倭の五王


百済の前方後円墳(4)
中国から見た事情
『宋書』倭国伝―倭の五王
 

さて、hurutakaimasakiさんのコメントを理解するために、今日は中国の方を調べましょう。
コメントの順を入れ替えて行くのを了承してください。

――更に、5世紀は倭の五王の時代で、「倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」の称号の示す様に、半島南部の支配者だったのですから、彼らも又九州の王、倭国は九州となりますね。

ーーあの「倭の五王」の時代ですね!
というか名前だけよく知ってて内容は知らないんですが。
日本書紀には書かれていないのに、中国の正史に書かれている王たちです。
その正史とは『宋書』だそうです。
とりあえず何て書いてあるか、原典に当たりましょう!
例の調子で、へっぽこ訳で~す。

『宋書』倭国伝

倭国高句麗の東南の大海の中にあって、代々我が国に朝貢してきた。
高祖(南朝宋の武帝)永初2年(421)。高祖・武帝
倭の讃王は万里も離れている所から朝貢して来る。遠くからでも朝貢する誠意を考慮して官職を授けよう。」と言った。

太祖(宋の文帝)の元嘉2年(425)。讃王はまた司馬の曹達を派遣して上表文を奉り、特産品を献上した。

讃王が死んで弟の珍王が即位し、使者を送って朝貢してきた。みずから(都督の最高位である)使持節・都督・倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓・六国諸軍事・安東大将軍・倭国王と名乗り、上表文を奉って正式に任命されるよう要望してきた。

文帝は勅命を下して安東将軍・倭国王に任命した。珍王はまた倭の隋ら13人に平西・征虜・冠軍・輔国などの将軍の称号を授けるように要望した。文帝はこれらすべて許可した。

元嘉20年(443)。倭国王の済王(せいおう)が使者を送って朝貢してきた。そこで安東将軍・倭国王と任命した。

元嘉28年(451)。使持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・六国諸軍事の称号を加えて、安東将軍は元のままにした。ならびに上表された23人を将軍・郡長官に任命した。(※百済の名が消えていることに注意。)

済王が死んだ。世継ぎの興王(こうおう)が使者を遣わして朝貢してきた。世祖(孝武帝)の大明6年、(462)孝武帝
「倭王の世継ぎ興王はこれまでと変わらず忠心を示し、我が国を守る外海の垣根となり、我が国の文化に感化されて辺境を守り、うやうやしく朝貢してきた。興王は先代の任務を受け継いだのだから、爵号を授ける。安東将軍・倭国王と称号せよ。」と勅命を下した。

興王が死んで弟の武王が即位した。みずから使持節・都督・倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・七国諸軍事・安東大将軍・倭国王と称した。

順帝の昇明2年(478)倭国の武王は使者を送って上表文を献じて、
「封国である我が国は偏遠の地にあって、外の垣根の役割をしています。昔から祖先はみずから甲冑を身につけ、山川を跋渉し、ひとところに安んじて留まる暇はありませんでした。

東の方は毛人の55国を征し、西の方は衆夷(しゅうい)66国を征服し、海を渡って北の95国を平らげました。皇帝の王道は広く溶け込み、封土は広大です。

我が国は先祖代々宋国に入朝するのに時節を誤った事はありません。わたくしは愚か者ではありますが、かたじけなくも先祖の偉業を継いで、統治する人々を率いて天極である宋国に帰順しています。通う道は百済を通って船路です。

ところが高句麗は無道者で、百済を飲み込もうとして国境の人民を略奪し、殺害しています。常に朝貢の道は滞って、我が良風を失わせようとしています。貴国に行こうとしても通じたり、通じなかったりします。

臣下であるわたくしの父済王は実に高句麗が宋国へ通う道を塞ぐことを怒り、弓矢を持つ兵士100万、義憤の声を挙げて奮いたち、大挙して攻めようとしましたが、にわかに父王と兄王が亡くなって後一息で成功する時に、さいごの一撃が出来ませんでした。わたくしは国に居て喪に服しているので兵士たちを動かさないでいます。こうして戦いをやめて兵士を休めて、高句麗に勝たずにいます。

されども、今こそ兵士を鍛錬して父と兄の志を全うしようと思います。我が義士も勇士も文官も武官も力を発揮して敵と刃を交えようとも命は惜しくはありません。

もし皇帝の徳によって、我らを援護していただければ、この強敵をくじき、地方の乱れを収め、祖先の業績にも劣ることはありません。

勝手ながら、わたくしに開府儀同三司を任命され、ほかの諸将にもみなそれぞれに任命されて、貴国に忠節をつくすように勧めて下さい。」と。

そこで順帝は武王を使持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・六国諸軍事・安東大将軍・倭国王に任命した。
これで『宋書』倭国伝はすべてです。
長~い役職名を書き写していると、百済の名前が出てきたり消えたりしています。
最後の方では武王が順帝に7国を望みますが、6国に減らされています。
百済は宋国に強力に政治活動をしたのでしょうか。
なんだか、気になりますね。

倭国の五王たちは遠い宋国にまで常に朝貢していたというのです。
そして朝鮮半島全体の大将軍に任命されていたというのですから、驚きです。
船で通っていたのですね。
途中、百済を通って、高句麗を通らねばならないのに、妨害されていた。
倭国は何としても高句麗をやっつけたかった。
そっか~。

c0222861_234055100.jpg

画像出典 Wikipedia より

さて、これで予習が出来ました。
Hurutakaimasakiさんのコメントを読んでみましょう。

――『宋書』「倭国伝」によれば、元嘉28年(451)に「済」が文帝から「使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東将軍」に、昇明2年(478)に 「武」が順帝から「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」任ぜられています。

武は昇明元年、これに「百済」を加え自称しますが、結局宋は百済を除外しています。これは倭国が百済の一部を支配したが、全体として百済は主権を保っている状況を示すものと考えます(前方後円墳の百済南西部集中はその表れです)。


――なるほどですね。百済の王の任命権を日本は握っていたけど、百済は主権を持っている。
その微妙な立場が宋国の与える称号からも伺えるわけです。

――その遺跡・遺物が九州と一致・類似するのは、半島南部を支配していた倭国とは九州を指す事になります。
更に、5世紀は倭の五王の時代で、「倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」の称号の示す様に、半島南部の支配者だったのですから、彼らも又九州の王、倭国は九州となりますね。

残念なのは、朴氏が埋葬された倭人を「百済王権に仕えた倭系百済官僚」で「百済王権に臣属」していたと「百済中心主義」で解釈している事です。
それなら、割譲後も倭人が残り墳墓も作って然るべきなのに消滅している。これは百済でなく倭国の支配を示すものです。
韓国の古墳と『書紀』は一致して「5世紀の九州なる倭国の半島支配と6世紀初頭の撤退」を証明しています。


――そうですね。前方後円墳の出土品が九州のもので、九州の倭国が韓半島を支配していた。考古学と文献学が一致するんですね。

さあ、せっかく『宋書』倭国伝を訳したので、
これは『古事記の神々』の方に、ストックしておきましょう。久々のUPだなあ。

(つづく)






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by lunabura | 2012-05-19 23:44 | 百済の前方後円墳 | Trackback | Comments(0)

百済の前方後円墳(3)そこは倭国の支配下だったー四県割譲事件


百済の前方後円墳(3)
そこは倭国の支配下だったー四県割譲事件

話は双方から聞いてみるもんだ。
この百済の地に出現した前方後円墳について(1)と(2)では
朴天秀氏の論文を参考にして、被葬者が北部九州の倭人である事が分かりましたが、
その身分について問題が出て来たので、
今回は予定を変更して、hurutakaimasakiさんの話を紹介します。

朴天秀氏は「百済における前方後円墳の被葬者」は
「倭人で、百済王権に臣属しながら倭王権と百済王間の外交で活躍した人物」
と書いていますが、「臣属」という表現についてhurutakaimasakiさんから
「栄山江流域の支配は百済でなく、倭国である」という指摘をコメントでいただきました。

Hurutakaimasakiさんはこの時代について大変詳しく研究されています。
「倭の五王」「磐井の君と継体天皇」という興味深い時代なので
今回はそのコメントを道しるべに、この時代を逍遥しましょう。

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Hurutakaimasakiさんのコメント(青い字)を少しずつ読みながら、
例の調子で、るなの感想などをつらつらと。

「韓国栄山江流域は、哆唎・牟婁と言われた地域で、
『書紀』では継体6年(513)に倭国から百済に割譲されています。
つまり割譲以前は倭国の支配地で、倭人が支配層として駐留して当然。
割譲後は百済人が支配し、倭人は姿を消す、朴氏の言う遺跡状況と一致します。
その遺跡・遺物が九州と一致・類似するのは、半島南部を支配していた倭国とは九州を指す事になります。」



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―むむ。現在テーマにしている、百済の前方後円墳の集中するエリアはもともと倭国で、百済に割譲されたのですか。

コメントにある哆唎(たり)と牟婁(むろ)という地名については左のような場所が推定されています。














それについて日本書紀に書いてあるので、さっそく訳してみましょう。
継体6年の夏、4月6日に穂積臣押山(ほづみのおみおしやま)を百済に派遣しました。その時、筑紫国の馬40頭を贈りました。

冬12月に百済は日本に使いを送って朝貢してきました。別に上表文を書いて、任那国の上哆唎(おこしたり)・下哆唎(あろしたり)・娑陀(さだ)・牟婁(むろ)の四県(こおり)を譲渡するように請願しました。

哆唎国守(みこともち)の穂積臣押山が
「この四県は百済に近く、日本からは遠く隔てています。哆唎と百済は近くて朝夕通い易く、鶏や犬がどちらの国のものか分からないほどです。今、哆唎を百済に与えて合併させるのは手堅い政策で、最良のものでしょう。しかし、たとえ百済と合併させても(他国からの侵略に対して)まだ危ういといえますが、それでも百済と切り離して置いたなら、数年も守りきれないでしょう。」と奏上しました。

大伴の大連金村も詳しくこの事情を知っていて同じ内容を奏上しました。そこで物部の大連・麁鹿火(あらかひ)を勅命を伝える使者としました。

物部の大連・麁鹿火は難波の客館に出立して、百済の使者に勅命を伝えようとしましたが、その妻が強くいさめて、
「そもそも住吉大神が初めて海の向こうの金銀の国、高句麗、百済、新羅、任那などを、胎中天皇と言われる誉田天皇に授けられました。だから大后の息長足(おきながたらし)姫の尊(神功皇后)が大臣の武内宿禰と国ごとに官家(みやけ)を初めて置いて、海外の属国として長年経っているのです。そのように由緒あるものです。

もしそれを裂いて他の国に与えたなら本来の区域と違ってしまいます。永く世のそしりを受けて人々から非難されるでしょう。」
と言いました。

大連(おおむらじ)は
「そなたが言うのも道理だが、勅命があった以上は、反対すれば天皇の命令に逆らう事になる。」
と言いました。妻は強く諫めていいました。
「病気だと言ってあなたが伝えなければいいのです。」
大連は妻の言葉に従いました。そのため、改めて使者が選ばれて、勅文に下賜の物を付けて、百済の上表文に応じて任那の四県を与えました。

勾大兄(まがりのおおえ)皇子はこの件に関して全く知らず、あとで勅命があった事を知りました。驚いて悔いて変更する命令を下しました。
誉田天皇の御代から官家(みやけ)を置いていた国を軽々しく隣国が乞うがままにたやすく与えられようか。」と。
すぐに日鷹吉士(ひたかのきし)を遣わして改めて百済の客人に伝えました。

百済の使者は言いました。
「父の天皇が便宜を図られて既に勅命を与えられたのです。子である皇子がどうして父帝の勅命を変えて、みだりに改めて言われるのですか。きっとこれは虚言でしょう。もしそれが真実ならば大きな頭の杖を持って打つのと小さな頭の杖を持って打つのとどっちが痛いでしょうか。(もちろん天皇の勅命が重く、皇子の命令は軽い。)」
と言って帰国しました。

のちに「大伴の大連と哆唎国守の穂積臣押山は百済のワイロを貰ったのだ」という噂する者がいました。
やあ、思いがけず神功皇后が出て来ました。
ホムダワケ皇子を妊娠したまま韓半島に渡ったという事で、
皇子は母の腹の中にいる時に勝利したという意味で胎中天皇と呼ばれています。
それが誉田天皇であり、別名応神天皇です。
(やっぱり一人の天皇が二つも名前を持っているのは変だし、ややこしいゾ。)

あの神功皇后の新羅制圧の後はずっと韓半島は倭国の属国となっていたのですね。
ところが継体天皇の時代に、四県を百済が譲渡してほしいと言ってきて、
あっさりと承諾してしまいます。
こうして南韓半島の四県の支配権は日本から百済に移りました。

日本書紀からすると、確かに朴氏の表現は誤解を生みます。
「四県譲渡」について触れられる方が良いのではないかと思いました。

いや「四県譲渡事件」は常識なので、述べるほどの事もないとしたら、
るなの勉強不足でした。いやはや失礼しました。(汗)

「残念なのは、朴氏が埋葬された倭人を『百済王権に仕えた倭系百済官僚』で『百済王権に臣属』していたと
『百済中心主義』で解釈している事です。それなら、割譲後も倭人が残り墳墓も作って然るべきなのに消滅している。これは百済でなく倭国の支配を示すものです。」


―そう。これでやっと、このhurutakaimasakiさんのコメントの意味がよく分かりました。

(つづく)




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by lunabura | 2012-05-16 21:45 | 百済の前方後円墳 | Trackback | Comments(0)

百済の前方後円墳(2)・磐井の君VS継体天皇の背景


百済の前方後円墳(2)
磐井の君VS継体天皇の背景
 

前回は百済の南方に集中する前方後円墳や横穴墓が北部九州につながる事を書きました。
横穴墓については遠賀川流域のものと類似している事が分かったのですが、
前方後円墳の方は石室構造が北部九州系である事が指摘されています。
それが次の要約です。

3 579年、『日本書紀』雄略23年の記録によれば、百済の三斤王が死去した際、
東城王の帰国を筑紫国軍士500人が護衛したという。

この記録は栄山江流域の前方後円墳の石室構造が北部九州系である点、
北部九州地域における百済産の威身財、
栄山江流域の倭系古墳に甲冑や刀剣などの武器・武具が
顕著に副葬されるという考古学資料と符合する。

したがって護衛のため韓半島に渡った彼らが帰国せずに栄山江流域に配置され、
百済王権に仕えた と推定される。


―百済の王の帰国を護衛したのは筑紫の軍士たちなんですね。
同じような話を小郡市の「黄泉の道―古墳巡り」でも書きました。
筑後川や遠賀川で鍛錬した武人たちは軍船を並べて韓半島へと渡ったんだ。

小郡市「黄泉の道」古墳巡りはこちら
http://lunabura.exblog.jp/i190


百済は都から遠く離れた栄山江流域を支配するために、
息のかかった百済人を支配者に据えて現地の豪族たちを押さえ、
さらに牽制するために倭人の軍勢をそのまま駐屯させたようです。
倭人を外人部隊のように使ったという感じでしょうか。なかなかの政策だな。

倭人たちの中には百済の高級官僚になった者もいました。
彼らは当地で手に入った金細工の宝飾品などを自分の故郷の首長たちに送り届けた結果、
倭国の首長たちの死後に、それらが古墳に副葬される事になったと考えられます。
だから日本で百済系のものが出土するんですね。

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(熊本の江田船山古墳と百済の益山笠天里古墳の副葬品 画像出典は朴天秀氏のPDFより)
この金銅の靴は福岡や近畿でも出土しています。

さて一方で、百済の倭人たちは故郷から持ち込んだ須恵器やゴホウラの釧なんかを
死ぬまで手元に置いていました。そして亡骸と共に埋納されました。
だから、韓半島に倭の物が出土する訳です。

彼らは百済王を送り届けるという名誉ある任務のために選抜された、つわものたちで、
異国で死ぬ事も覚悟していたのでしょうが、
拙(つたな)い造りの現地制作の円筒埴輪を見ると、
倭国の美しい前方後円墳を作る事で、故郷への思いを込めたんだろうなと思われて
ちょっと切なくなります。
(写真はPDFにあります。)

百済に突然出現した前方後円墳は、短期間で作られなくなります。
その原因として磐井の乱が無関係ではなかった事が次の文からうかがえます。

4 継体王権の擁立には5世紀後半から
瀬戸内海沿岸と山陰・北陸などに広い関係網を持っていた九州勢力が
百済王権との仲介などの役割をしたと推定される。

その一方で栄山江流域の前方後円墳被葬者を含めた
北部九州の有力豪族の対外活動が頂点に達し、倭王権をおびやかすようになった。
その結果が527年に起きた磐井の乱と考えられる。

その後、当地での前方後円墳の造営は停止するようになり、
倭系百済官僚の出自は畿内周辺に集中するようになる。
 

―百済の倭人たちは百済と倭国を取り持つ仲介者として力を増大させていきます。
彼らは九州出身ですから、当然ながら筑紫の君たちを大切にします。
それが継体天皇との戦いの一因となって行ったようです。

思い出すのは、日本書紀のこんなシーンです。
継体天皇21年の夏、6月の壬辰(みづのえたつ)の3日に近江の毛野(けな)の臣は6万の軍勢を率いて、任那(みまな)に行って、新羅に占領された南加羅(から)・トクコトンを取り返して任那に合併しようとしました。

この時、筑紫の国の造(みやつこ)磐井(いわい)は密かに背く計画を立て、協力せずに、ぐずぐずして年月が経ちました。実行が難しいので、つねにチャンスを伺っていました。

新羅はこれを知って、密かにワイロを磐井のもとに送って、勧めました。
「毛野(けな)の臣の軍勢を防ぎ止めてほしい。」と。

ところが磐井は火の国、豊の国、二つの国に勢力を張りながら、朝廷の職務を遂行しませんでした。
外は海路を通って高麗(こま)・百済(くだら)・新羅・任那などの国からの、毎年の貢物(みつぎもの)を持ってくる船を自分の所に誘導し、内には任那に派遣した毛野臣の軍勢を遮って、無礼な言葉で、
「お前は、今は朝廷からの使者になっているが、昔は私の仲間として、肩を寄せ、肘をすり合わせて、同じ釜の飯を食ったではないか。どうして、急に使者になって、私にお前なんかに従えというのか。」
と言って、ついに戦って、受け入れませんでした。

磐井は奢り高ぶっていました。毛野の臣は前を遮られて、進軍できずに停滞しました。

青い部分を見て下さい。
これって、継体天皇のイチャモン・難癖じゃない?
と、訳しながら思ったんですが、やはりそのようですね。

九州の武人たちが身体を張って百済を守り、その対価として韓半島との交易権を握ったのに対して、
継体天皇が横やりを入れたというように見えて来ます…。



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それにしても百済もまた、したたか。
倭人の駐屯地を三か所に分けて、倭人同士が連絡しにくいようにする方策をとったことが、古墳の配置から推理されるそうです。

北の海岸には高句麗戦略の基地とした形跡が。

そして百済は倭国のの二大勢力である九州の勢力と近畿王権を両天秤にかけて上手くバランスを取っていたのです。



朴氏の論文には「九州勢力」とか「古代の九州」という言葉が出て来ます。
これって、いわゆる「九州王朝」のことかなぁと思いながら読みました。
いろいろと考えさせられる面白い論文でした。

さて、当初の謎―百済の前方後円墳の被葬者について
その答えが九州北部と繋がった手掛かりは石室構造でした。
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上の写真はそれをよく示す海南長鼓山古墳の石室です。
これも朴天秀氏のPDFによる写真ですが、赤いベンガラが塗ってあります。
いかにも倭国的です。

これが春日市の日拝塚古墳とかなり近いそうです。
数日後に、思いがけず私はその日拝塚古墳に行く事が出来ました。

という事で次回はその日拝塚(ひはいづか)古墳に行きましょう。

参考文献
「韓半島南部に倭人が造った前方後円墳」
―古代九州との国際交流― 朴天秀(慶北大学考古人類学科教授)
韓半島南部の栄山川流域の主な前方後円墳と 古代日本との交流を示す出土物
http://www.kiu.ac.jp/organization/library/memoir/img/pdf/kokusai5-1_2-001paku.pdf

<追記>
この朴天秀氏の論文の下線部分について問題があるので次回はそのお話です。



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by lunabura | 2012-05-14 10:33 | 百済の前方後円墳 | Trackback | Comments(13)

百済の前方後円墳(1)北部九州から渡った倭人たち


百済の前方後円墳(1)
北部九州から渡った倭人たち

百済には前方後円墳が10基以上も存在します。
日本独自の形態の古墳だと言われているのに、何故韓国にあるのでしょうか。
被葬者はいったい誰なのでしょうか。

そんな謎が今回のテーマです。

前方後円墳は韓国の南西部に集中しています。赤い枠の中です。
九州に近いですね。そこは当時は百済の領土でした。

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枠の中に光州がありますが、そこから南西に流れるのが「栄山江」という川で、
この川の流域に前方後円墳は集中しています。またその南北の海辺にも見られて、
大まかに三つのエリアに分けられるようです。

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いったいいつの時代のものなのか?
疑問が起こりますが、既に日本で研究されている前方後円墳の緻密な系譜と
照合して割り出された結果は、5世紀後半から6世紀前半に限られたもので、
現地の墓制とは関係なく唐突に出現したものと判明しました。

被葬者については当然ながら、「百済人か倭人か」という論争があるのですが、
今では「倭人で、百済に仕えた高級官僚」だという説が主流となり、
現在の研究はその名前が日本書紀から具体的に考察される段階に来ています。

さて、5世紀後半から6世紀前半って、日本はどんな時代だったのでしょうか。
サイドバーから拾い出してざっと眺めましょう。
462 倭王子興が遣宋使
478 倭王武が遣宋使
479 雄略帝が末多王を百済王に任
479 倭国は高句麗を攻撃
480~ 装飾古墳が出現
507 継体天皇26代 即位
512 任那4県を百済へ
512 倭国は高句麗に勝利
515 倭国は伴跛国に敗北
527 磐井の乱
531 継体天皇崩御
531 安閑天皇・27代 即位
535 穂波・嘉麻屯倉設置
536 物部のアラカヒ死去
536 蘇我稲目が大臣になる
537 宣化天皇・28代 即位
538 百済聖明王が仏像献上
539 欽明天皇・29代 即位
むむ。「倭の五王」や「磐井の君VS継体天皇」という、論争の賑やかな時代ですぞ。
倭国は百済王の任命権を持っていたようだし、高句麗とも戦ってる。
なんだか、ダイナミックな時代です。

この時代に百済に行った倭人が活躍して、母国の墓制で埋葬されたというのです。
倭国の風習通りに円筒埴輪(現地で作製)をずらりと並べた古墳があったり、
倭国系の武器を副葬した古墳、
またゴホウラ貝の釧や仿製鏡、須恵器など、倭国ゆかり物が添えられた古墳があったりしています。
彼らは異国でも倭国の物を大切に使っていたのですね。

一方、倭国の方では装飾古墳が華やかで、伽耶製品や百済製品が副葬されたりしています。
これは何を意味するのでしょうか。

これらの謎解きをした朴天秀氏の論文がPDFで公開されていました。
日本と百済の考古学的発掘資料をつぶさに検討した論文で、
国外からの視点が得られる魅力的な論文です。しかも日本語!

「韓半島南部に倭人が造った前方後円墳」
―古代九州との国際交流― 朴天秀(慶北大学考古人類学科教授)
韓半島南部の栄山川流域の主な前方後円墳と 古代日本との交流を示す出土物
http://www.kiu.ac.jp/organization/library/memoir/img/pdf/kokusai5-1_2-001paku.pdf
今回はこれを道しるべに百済の熊津(ゆうしん)時代を辿りましょう。

c0222861_9521146.jpg

この画像はその第一ページに掲載された海南長鼓山古墳で、全長77m。
韓国最大の前方後円墳です。やっぱり前方後円墳って美しいですね~。
場所は韓国の最南端。日本に向かうような位置です。

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さて、栄山江流域はどうでしょうか。
るなが個人的に興味を持った部分を抜き出しながらあれこれと考えて行きます。

1 栄山江流域の前方後円墳の被葬者は副葬品から考えて「周防灘沿岸、佐賀平野東部、遠賀川流域、室見川流域、菊地川下流域などに出自をもつ複数の有力豪族と想定」される。
―おおお。知ってる地名ばかりです。
これらはこのブログでおなじみの地名です。
菊地川以外は神功皇后の辿った道と重なっています。

という事は、彼女や仲哀天皇を支えた物部氏や熊族、安曇族、水沼族、住吉族などが
その後も地域を守って、つねに軍備を整えていたんですね。
そして今度は百済を守るために海を渡り、骨を異国にうずめたというのです。

2 公州市丹芝里の横穴古墳群の被葬者は、その形態が周防灘沿岸と遠賀川流域のそれを類似する点から、北部九州地域の倭人であり、百済王都の防御と関連する集団と推定できる。
―百済には横穴古墳群もある!
しかもそれが周防灘沿岸や遠賀川流域と似ている!
このブログで訪問した中間市の垣生羅漢百穴や瀬戸第14号装飾横穴を思い出します。

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これは垣生羅漢百穴の線刻画。
船に乗って鉾や旗を振り上げた勇ましい姿が描かれています。

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これは瀬戸第14号装飾横穴のレプリカ。
馬の曲乗りが得意な人物が馬上から弓を射ています。
彼もまた船にも乗って遠賀川を自由に移動したのでしょう。

垣生羅漢百穴の方が1600年前のものだというので、
百済の前方後円墳から50~100年ほど後の時代の人々だという事になります。

この勇者たちの先祖が百済の王都を守るために出征して行った可能性があるというのです。
(すごいものが中間市に残っていたんだ。
これらの価値がもう少し見直されたらいいのにな。
せめて各墳墓の線画の写真だけでも資料館で閲覧できたらいいのに。
中間市の歴史資料館さん、お願いしますだ。)

(つづく)






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by lunabura | 2012-05-12 09:57 | 百済の前方後円墳 | Trackback | Comments(0)

新羅の初期・斯蘆国と倭人たち


新羅の初期
斯蘆国と倭人たち

新羅の始まりはどうなっているのかな。
資料を集めていくとだんだん分からなくなってきた…。人によって物の見方が随分違う。
まっ、自分が理解できる部分からまとめて行きまっしょ。

新羅(シルラ)は斯蘆(サロ・シロ)国から始まった。
慶州平野。
日本の弥生時代、現在の慶州市に斯蘆国(サロ・シロ)があり、6つの村があった。
そこに赫居世(ヒョッコセ)たちが北の方から動乱を逃れて鉄器を持ってやって来た。
紀元前57年のことだ。 
農耕社会の中に優れた鉄器を持って来たことから、赫居世がその支配者になったが、彼はその時13歳。

支配者とは6村の連合社会のリーダー的な形態だったようだ。
それはこの時代は支配者が世襲でなく、村間の持ち回りだった事から分かるという。
その称号は居西干・次次雄(コソガン・チャチャウン)と言った。

「居西干」とは君長、「次次雄」とは巫(シャーマン)を意味する事から、
支配者は政治を司り、かつシャーマンでもあった事になる。

紀元前37年。赫居世(ヒョッコセ)は慶州平野に京城を築き、金城と名付けた。
彼の重臣に瓢公(ひょうこう)がいた。彼は倭人だった。その役職名は大輔。
この時代に倭人が侵攻して来たが、赫居世の説得に応じて倭軍は撤退した。
(赫居世も倭人と言う説があった。)

二代目の支配者、南解次々雄の時代に倭人が100艘余りで侵攻した。

紀元前19年。四代目・脱解(タレ)が東海岸からやって来て支配層に加わる。
脱解は倭国の多婆那国の王の子といわれている。
この時代はリーダー会議で支配者を決めていて、その称号を尼師今(イサグム)と言った。


1世紀後半。舎羅里130号木槨墓が作られる。
(鉄の延べ板40枚を敷いていた。)

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(写真は慶州市 舎羅里古墳群)
画像出典は「2002年7月28日~8月3日
第4回友史会海外遺跡の旅「韓国中南部の古代文化に触れる旅」 案内 河上館長」より
http://www.kashikoken-yushikai.jp/reikai/reikai0307korea3.htm)

西暦101年婆裟尼師今(バサ・イサグム)が月城を築いて居城を金城から月城に移す。
(この王が日本書紀で神功皇后軍に降伏した波沙寢錦(ハサムキム)という説がある。
そうすると100年の誤差が出て来る。)

西暦100年以降、国力をつけた斯蘆国は周囲の国々に侵攻して拡大して行く。


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地図を逆さまにしてみました。
斯蘆国が拡大して行く流れの中で、九州や山口を侵攻したのでしょうか。
豊浦宮や楯崎宮、雷神社、高良玉垂宮などに伝わる異敵襲来伝承を重ね合わせると
福岡や山口は最初の上陸地点だというのが分かります。

さて、倭人の伝承を見てみましょう。
稲飯命
『新撰姓氏録』では新羅の祖は鵜草葺不合命の子の稲飯命(神武天皇の兄)だとする。

アメノヒボコ (ウィキペディアより)
アメノヒボコは新羅の王家、朴氏、昔氏、瓠公との関連の可能性があるとする説もある。
(新羅王族であった昔氏は、倭の但馬地域から新羅に渡り王となったとされており、新羅王族であるアメノヒボコは但馬・出石に定着した。ただし、昔氏のもともといた場所についてはこの他に日本の東北、丹波等が上げられている。)

大矢田宿禰 おおやだのすくね (コトバンクより)
仲哀天皇9年。神功皇后の新羅遠征にしたがう。新羅にとどまり、鎮守将軍となる。
国王・猶搨(ゆうとう)の娘と結婚し、佐久命と武義命をもうけた。
(王の名前がハサムキムではない事に注目)


三人ほど採り挙げて見ました。後世の創作が加わっているとしても、
新羅の王族に倭人の血が入っている可能性が出てきました。
新羅に対する倭国のこだわりの原因はこれが要因の一つかも。

『古事記の神々』で訳したアカル姫が新羅の王子アメノヒボコと結婚して愛想を尽かして、
さっさと倭国に帰って来たのもそれほど特異な話ではないんですね。

人々の暮らし
さて、彼らはどんな暮らしをしていたのでしょうか。
これと前後する時代の記録が「『三国志』魏書・韓伝」にあるので
その一部を抜粋してみましょう。
韓の人々の風俗は、法律規則は少なく、諸国の都に主帥(しゅすい)がいるけれども、村落は入り混じっていてなかなか統括できない。

人々の間に跪拝の礼はない。住居として、屋根を草で葺いた土の家をつくるが、その形は中国のはかのようである。家の戸口は上にあって家族は全部その中で暮らしている。年齢や男女による区別はない。

死んだ者を葬るときには、墓には槨はあるが棺はない。牛馬を乗用に使う事は知らない。牛馬はみな副葬に使用してしまう。

珠玉を財宝とし、衣服に縫いつけて飾りとしたり、首飾りとしたり、耳飾りとしたりする。金や銀や縫いとりのある綾絹などを珍重することはない。

韓の人々は性格は強く勇敢で、頭に何も被らずまげを見せていることろは、狼火(のろし)を扱う兵のようである。そして麻布の衣服を着、足に底の厚い革ぞうりを履いている。

毎年5月には作物の種を播き終え、そこで鬼神を祭る。多数が集まって歌い踊り酒を飲んで昼夜休まず遊ぶ。その踊りは、数十人が一緒に起ち上がってお互いに調子をあわせ、地を踏んで高く低く、手足はそれに応じて動き、リズムは中国の鐸舞(たくぶ)のようである。

10月に収穫が終わったときも、またこのようにする。鬼神を信じ、国の都ごとに一人を立てて天神を祭る司祭とし、天君と名づけている。

また国ごとにそれぞれ、蘇塗(そと)と呼ばれる特別な村がある。そこには大木を立て、鈴と鼓を懸けて、鬼神に仕えている。いろいろな理由をもった逃亡者がこの村に逃げ込めば、追っ手に彼を引き渡すことはしない。そのため盗賊が多くなっている。

辰韓の老人たちは代々こう言い伝えている。
「昔、中国の秦の代に、労役を避けて韓国に逃げてきたものがいて、馬韓が東部の地域を割(さ)いてその人々に与えた。それが我々である」

辰韓には砦がある。言葉は馬韓とは異なり、国を邦といい、弓を弧(こ)といい、賊を寇といい、酒を杯にそそいですすめることを行觴(こうしょう)という。お互いを呼び合うには徒(と)という。これらは秦人の言葉に似ているところがあり、ただ燕(えん)や斉(せい)の物の名称が伝わったのではないことを示している。

弁辰の国々は鉄を産出し、韓・濊(わい)・倭の人々はみなこの鉄を取っている。いろいろな商取引にはみな鉄を用い、中国で銅銭を用いるのと同じである。またこの鉄は帯方・楽浪の二郡にも供給されている。
『倭国伝』(藤堂明保ほか 講談社学術文庫)より

面白い内容が盛りだくさんです。蘇塗(ソッティ)も出て来ました。
秦から逃げて来た人たちの邑があるのが分かったのも収穫です。
この続きに有名な「倭人伝」が出て来ますよ。
(これ以上は話が逸れるのでまた別の機会に。)

以上、考え併せると、神功皇后軍が新羅攻撃をしたのは「唐突な」事件ではなく、
それまでに多くの交流や戦いの歴史があった事が分かりました。
その中の一つの戦いがたまたま日本書紀に採り上げられたようですね。

東アジアの事、もっともっと広い視野で学んで行くと面白そうです。




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by lunabura | 2012-05-07 22:29 | 新羅 | Trackback | Comments(2)

新羅の王城―月城


新羅の王城―月城


日本書紀を訳していて驚いたのは、朝鮮半島の地名が沢山出て来る事です。
王族も姫も兵士もどんどん行き来しているし、城の名前なども出て来ます。
書紀の編者は九州より朝鮮半島の地形に詳しいんじゃない?なんて思ったほど。

福岡の神功皇后伝承地を百社廻った後もまだまだ謎が残りました。

彼女が新羅まで行かされた目的は本当のところ、何だろう。
当時の新羅の国名は何だろう。
降参した新羅王ハサムキム(ミシコチハトリ)は向こうでは記録されているのだろうか。

津波が国の半ばまで上がったと解釈したが、地理的に整合するのだろうか。
塵輪(じんりん)が倭国の皇居を襲ったという事は、それ以前からの両国に交流があった事を示している。
それはどんな形だったのだろうか。

次々に謎が生まれます。
こりゃあ、朝鮮半島を勉強しなくちゃ…。
しかも1800年以上も前の事を…(とほほ)。

新羅と言っても1000年王国(実際は820年ほど)という長命国なので、
時代によって名称も国土の広さも変化しています。

途方もない長い歴史の海の中へ、えんやこら船を漕ぐ~♪
という訳で今回は新羅の都の場所を探してみましょう。

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はてさて、新羅の都は何処だ?
対馬からは夜になると朝鮮半島の光が見えるというけど、
目的地はいったいどこにあるのか、これじゃあ分かりません。
皇后軍は対馬から先は何処に向かって行ったのでしょうか。

答えはここ。
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こうして地図を見ると、海の道をしっかり把握出来ていないと
辿り付けないのがよく分かります。
戦う敵国の在り処(ありか)や敵の軍備状況ももちろんですが、
潮の道、暗礁などあらゆる情報が整わないと海を渡ってまでも戦えませんね~。

アントンイソラが舵取りする大きな船でも、やはり道先案内がいなければとても無理。
実は私は佐賀県に伝わる、神功皇后のダミーが渡海したという伝承を
まだ捨てられないでいます。
臨月の皇后が渡海するのは無理じゃないかなってね。
まあ、戦略的にもダミーを作って置くのは基本でしょ。

たとえ神功皇后本人が新羅に上陸して城の門に矛を立てたとしても、
弥生時代後期に城なんてあったのだろうか。

こりゃあ、新羅に行かなくちゃあ分からない?
しかし、さすがのるなさんも、これまでのように突進する訳には行かないので、
グーグル・アースで現代の新羅から入って行く事にしました。

新羅があるのはキョンジュ市です。慶州市と書く方が分かりますよね。
(なんで韓国の地図は漢字を使わないんだ…。)

幸いにも新羅は都の場所が変わっていません。ずっと同じ所に王宮があるのです。
その場所は?
慶州国立博物館という有名な博物館がありますが、
それこそ新羅の都に建設されていたのです。

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少し近づいて見ました。キョンジュ市の地形を見ると、盆地で、
海岸からは一山越えた安全な所に国が形成されたのが分かります。
新羅を攻撃するとしたら山越えでなく、
南のウルサンか北のポハンに上陸して川沿いに進軍するしか方法がないです。

『韓国歴史地図』(平凡社)によると、
北のポハンから倭人の侵入があった記録が書いてあります。
その年代は232、364,393年です。
またさらに北の浜からの倭人の侵入が233,292、294年。
(この年代がどうやって割り出されたかは分かりません。
著者は韓国教育大学歴史教育科ですが日本語で書かれた本です。)

神功皇后の侵攻はこれまでの推定で201年。むむ。誤差があるな。
しかし倭人が何度も侵攻した記録が向こうに残っていたとは。
こりゃあ、お互いに何度も侵攻しあってるぞ。

津波が起こって一気に国の半ばまで入ったと日本書紀を解釈した件
については妥当性はあるのかな。

ポハンから慶州まで直線距離で約22キロ。慶州の標高は約60m。
まあ、川の中流域までなら行けたかな…。微妙ですね。

それでは、日本書紀の新羅攻撃あたりを読んでみましょう。(るな訳)
冬10月3日、対馬の和珥(わに)の津を出発しました。その時、風の神は風を起こし、海の神は波を立て、海の中の大魚はみんな浮かび上がって船をたすけました。順風が大きく吹いて、帆船は波に乗りました。カジや櫂(かい)を使わずに新羅に着きました。その時、大波(津波)が起こって船は国の中に到達しました。まさしく天神地祇が助けたのを確信しました。

新羅の王は戦々恐々として、成す術もありませんでした。そこで諸人を集めて言いました。
「新羅の建国以来、いまだかつて海水が国に上って来た事を聞いたことがない。これは天運が尽きて、国が海中に没しようとするのであろうか。」
そう言い終わらないうちに軍船が海に満ちて、旗が日に輝いていました。

鼓や歓声が起こって、山や川に響き渡りました。新羅王はそれを遥かに望んで、想像以上の兵が我が国を滅ぼそうとしていると思い、恐ろしさに気を失いました。

目が覚めると、
「東の方に神の国があると聞いていた。日本と言う。聖王がいて天皇と言うとも。きっとその国の神兵たちだろう。挙兵して応戦することは無理だろう。」
と言って、白旗をあげて、首に降伏の印の白い縄を付けて降伏しました。

土地の図面と人民の戸籍を封印して支配権を放棄したことを示し、王船の前に降伏しました。頭を垂れて、
「今から後、長らく天地に従うように、貴国に従って馬飼部となります。船のカジが乾かないほど頻繁に春と秋には馬の櫛とムチを献上してお仕えします。また遠く海を越えるのを厭わず、毎年、男女を献上します。」と言いました。

そして重ねて誓って、
「東から出る太陽が西から昇ったり、天の川が逆さまに流れたり、川の石が昇って星となるような事が起こらないのに、春秋の朝貢や馬の櫛とムチの献上を止める事があったら、きっと天の神、地の神の罰があるでしょう。」
と言いました。

その時、日本側の或る人が「新羅の王を殺しましょう。」と言いました。すると皇后は
「もともと神の教えを受けて、金銀の国を授けられるのだ。全軍に『自ら降伏するものを殺してはならない』と命令したのだ。既にこうして財宝の国は手に入った。新羅の者は自ら降伏したのだ。殺すのは不条理だ。」
と言って、その縄をほどいて馬飼部としました。

ついに、その国の中枢に入って財宝の蔵を封印して、地図・戸籍・文書を没収しました。そして皇后の持っていた矛を新羅王城の門に立てて、後の世の印としました。この矛は今でも尚、新羅王城の門に立っています。

そこで新羅王ハサムキム、別名ミシコチハトリ干峡(かんき)を人質として、金銀・彩色・綾絹・うす絹・固く織った絹を八十隻の船に載せて、官軍に従わせました。これよりのち、新羅王が常に八十隻の朝貢を日本国にするのは、この戦いの所以からです。

高麗、百済の二国の王は新羅が地図・戸籍を取り収めて日本国に降伏したと聞いて、ひそかに日本の軍勢を伺い、勝つ事が出来ないのを悟ると、自ら営舎の外に出て、頭を下げて「これより後は、永く西蕃(せいばん)と称して、朝貢をし続けます。」と言いました。

こうして日本は内官家屯倉(うちつみやけ)を置きました。これがいわゆる三韓です。皇后は新羅から帰還しました。

日本書紀を読んでると、セリフが長い所は編者の創作がかなり入ってるのが
分かります。(その上、るなの解釈が加わってます…。)
指揮官のセリフは特に熱が入ってます。編者の好みが反映してるんですね。
文脈を追うと、矛盾があるのも分かります。
それはそれとして、描かれた情景を実際の地形に乗せられるのか、
地図を見るのは私の楽しみなのです。

それでは、新羅の王城がある所に空から近づいてみましょう。
慶州は、かつては「金城」、「東京」とも呼ばれていました。
(この過去の地名を押さえるの、ポイントです。)

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近づいて行くと、月の形をした丘が見えてきます。
西暦101年。この丘に王宮を築いて「月城」と名付けました。(三国史記)
「半月城」とか「新月城」とも言ったそうです。
王たちは代々、この月城に住みました。
だから、神功皇后が行ったとしたらこの「月城」だという事になります。
月の形をした丘に月城とは素敵なネーミングですね。

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これは自然に形成された丘陵で、周りに石垣を積んで山城にしています。
南には川が流れて自然の要塞になっていますが、
北側には3~40mの幅の堀を掘って守りを固めています。
この山城に入城するには南に架かった二本の橋しか通れません。

この月城の中のエリアは平坦ですが、まだ発掘されていません。
これからが楽しみなところです。

後に、この月城から北の方に「満月城」を造ったそうです。
満月城に向かう広い道がまっすぐについていて、周囲は役所が並んでいたそうです。

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その一角にあの瞻星台(たんせいだいー天文台)がありました。
善徳女王の時代に造ったものです。
斉明天皇と時代が重なります。(画像出典 グーグルアース)

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(ドラマ「善徳女王」より。
女王の王冠やベルト、宝飾品のデザインは古墳から出土したものがモデル。
月城が未発掘なので、ドラマの王宮は美術スタッフの創造と思われます。)

その王宮殿の北西には広大な庭園がありました。

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(画像出典 グーグルアース)
これが現在のようす。雁鴨池(月池)というそうです。
新羅の王たちは月を愛したのですね。

月城の右下には慶州国立博物館があります。
慶州の歴史探訪はこちらのサイトに詳しく載っています。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/kankounotabi/kannkokunotabi.3-2.html
さて、この新羅。弥生時代はどんなふうだったのでしょうか。
次回も新羅を辿りましょう。




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by lunabura | 2012-05-03 14:09 | 新羅 | Trackback | Comments(0)
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