ひもろぎ逍遥

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新羅の積石木槨墓―天馬塚古墳―


新羅の積石木槨墓
―天馬塚古墳―

福岡県の嘉麻市に弥生時代の「木槨墓」があると聞いた。
「土壙墓」なら糸島市の平原遺跡でよく知っている。
木槨墓とはどんなものだろうか。
木で枠組みを作ったのだろうか。

早く見たいと思っていたら、新羅にも木槨墓があると分かった。
それがあの天馬塚古墳だ。
その豪華な宝飾品は韓国歴史ドラマ、「善徳女王」で再現された。
善徳女王は斉明天皇と近い時代を生きた人なので、この宝飾品は200年ほど古い時代のものになる。
(韓国の歴史ドラマの時代考証は当てにならない…)
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この副葬品が埋納された古墳が「木槨墓」だというのだ。
今回は木槨墓を追って、ネットサーフィン。

12の小国をまとめた斯蘆国(さろ・しろ)。これが新羅(しるら)へと発展する。
都は金城。今の慶州市。
その頃の墓はどれもが木槨墓で、4世紀から6世紀初めごろの間に造られた。

平地を少し掘って石を並べて床のようにして、木枠を置いて、そこに木棺を安置。
そして石や土で塚を作って円墳にする。

積み石で木槨を覆うと「積石木槨墓」となる。
積石といえば高句麗の墓制だが、それとは系譜は異なるそうだ。

木槨墓を見たいと思ってネットをサーフィン。
新羅・慶州市の天馬塚は積石木槨墓で見学できるように保存されているので、
圧倒的に映像が出ている。
この黄金の塚は、もともと、隣にある更に大きな古墳を掘る前の事前準備として、
保存方法などを研究するために試し掘りしたのが、大発見につながったという。
副葬品は1万点に及ぶ。

「天馬塚」の名は副葬された馬具の所に書かれた「天馬」の絵から付けられた。
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馬具の一部(白樺)に描かれた天馬
(画像出典)
http://www.busantabi.com/content/basic.asp?m_idx=12&s_idx=64

もともと新羅の古墳は日本人の考古学者によって調査研究が始められた。
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これが木槨墓。
画像出典 http://www.lieto.co.kr/?document_srl=170581

中央に王か女王が安置され、身に着けたアクセサリーがそのままの位置に残された。
この木槨墓を覆って石が積まれた。

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画像出典「忘れへんうちに」より
http://avantdoublier.blogspot.jp/2009/01/blog-post_27.html
(考古学的なアプローチがされている、お勧めのページ。)

石の重みでさすがに木槨墓はつぶされていた。
土を取り除いて出現したのが下のような宝冠のたぐい。
メッキでなく、純金。これには勾玉が沢山ぶら下がっている。

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副葬品の画像出典
http://www.lifeinkorea.com/cgi-bin/travel2j.cfm?TravelID=217

これは5世紀後半のものだ。日本ではこんな時代。
451 倭王済が遣宋使
462 倭王子興が遣宋使
478 倭王武が遣宋使
479 雄略帝が末多王を百済王に任ず
479 倭国は高句麗を攻撃
480~ 装飾古墳が出現


外観はこのような円墳。
c0222861_8562618.jpg

画像出典
http://www.pusannavi.com/miru/1069/
内部は見学出来るようになっていて、その様子は最初に挙げたサイトが詳しい。

副葬品の豪華さに目を奪われるが、
これが「積石木槨墓」だというのを記憶しておきたい。
その後、新羅では「横穴式石室」が作られるようになる。

今コメントで話題になった嘉麻市の木槨墓はどのようになっているのだろうか。
保存されているのだろうか。
新羅の木槨墓と比較出来る日が楽しみだ。
嘉麻市の方は弥生時代だから、もっと時代が遡るのだ。

さて、新羅にこだわるのには訳がある。
日本書紀のこの一文の真実が知りたいのだ。
秋9月5日に、仲哀天皇は群臣たちを召して、熊襲攻撃について協議させました。その時、皇后に神が懸かって神託がありました。
「天皇よ、どうして熊襲が服従しないのを憂うのか。そこは例えれば、肉のついていない背中のように痩せた国であるぞ。兵を挙げて討つほどの国であろうか。
この国より宝がある国がある。例えれば、乙女の眉のように弧を描いた国で、我が国の津に向き合った所にある。眼もくらむ金・銀、美しい色が沢山その国にはある。その名をタクブスマ(タクの木の繊維で作った布団が白い、その白色の名を持つ)新羅の国という。
もし、われを良く祭れば、刃に血を塗る事なく、その国はおのずと降服するであろう。また熊襲も服従するであろう。われを祭るには、天皇の御船と穴門の直(あたい)ホムタチの献上した大田水田を供えよ。」
と言いました。天皇は神託を聞いて、疑いました。
(日本書紀 仲哀紀)

これは8世紀の日本人の新羅観に過ぎないのだろうと思っていたが、本当に金銀財宝の国だった。(・.・;)
そして、この仲哀紀の辺りは読みこむと矛盾に満ちている。

それを解くヒントが吉野ヶ里の近くに一つある。早く行きたいのに時間がない。
まだまだ仲哀紀の謎解きの旅の目的地は遠い。

るな探偵は気が多過ぎて、二兎以上を追っている…。チョーやばい。

古墳(王陵)公園・天馬塚 -伽耶・新羅の旅-
http://inoues.net/korea/korea_tenma.html







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by lunabura | 2012-06-29 08:59 | 新羅 | Trackback | Comments(6)

「乱」のロケ地



筑後川沿いの土手道を走っていると、黒い旗が何竿も立っていた。
黒い大型車も止まっている。
近づくと「乱」と書いてあった。
今、黒沢明監督が映画を作っているというが、そのロケ地のようだ。
ここは福岡県 旧浮羽町。
車を止めてみると、なるほど、見えるのは土手と川の水平線だけ。
そして向こう岸に一本だけ枝を広げた大木がある。
まさに絵にかいたような光景だ。
私は撮影現場を見物することにした。
周りには誰もいない。

土手の上から見ていると、二人の歩兵が川に走っていくシーンだった。
黒い笠が印象的だ。
戦いの後なのだろう、水を求めてザブザブと入っていく。
すぐにカット。
二人が戻ってくると、美容班なのか、すぐに化粧の手直しをしているようすだ。

ただ一瞬を撮っただけでカットされるのを見て、映画作りは大変だ。
と思いながら帰路についた。

今思えば、どこかにあの黒沢監督が座っていたはずで、
もっと近くに行っても良かったのにと残念だ。


映画が出来てすぐに観た。
あのシーンがどうなったのかずっと見ていたが、一瞬だけ上映された。
土手から見たイメージとはずいぶん違っていた。
あの数秒を撮るために、あの場所を探し、そして設営して役者に歩兵の衣裳を着せて、
そしてカメラを回す。

その労力を惜しまぬ所に超一流の証しがあるのだ。



(-。-)y-゜゜゜

なんちゃって、今日は随筆風に。
いったい何年前の事だろう。
この監督と同時代を生きたなんて、フ・シ・ギ。


地図 このあたり








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by lunabura | 2012-06-24 21:58 | にっき | Trackback | Comments(2)

馬見山・コメントまとめ


馬見山は「うまみやま」と読みます。
神武天皇の馬の足が白かったとか、馬に逃げられて見送ったとかいう伝承がある所です。
こんな山の中に神武天皇が何故?
それは御先祖さんが祀られているのでわざわざ足を運んだのです。

唐突に思われた伝承も、この2年半の逍遥で、
遠賀川流域にはその足跡を伝える伝承が沢山ある事が分かりました。

神武天皇の遠賀川流域の行動は、
一宮神社でひもろぎ盤境を作って祈り、滞在した。
神武天皇社の近くの泉で祈った。
日若神社の裏の山越えに難渋した。
物部氏が馬を連れて神武天皇を迎えに来て自宅に案内した。
そして、馬見山で馬に逃げられた。

今のところ、こんな流れです。
物部氏が早くからこの地にいたのがよく分かります。

さて、あらたなメールをいただいたので、
馬見山についてのコメントをピックアップしてみました。
馬見山への歴史の道は古い古い歴史の地層へ下りて行くような印象です。
順番などは、アトランダムです。



「初めて馬見山の嘉麻の扇状地をみた瞬間、どこか大変懐かしく、山裾に抱かれる感覚がしました。
また北斗宮の上階段の途中でデジャブーを見ました。
(といっても私は特殊な能力はない、ただの中年おじさんと思っています(笑))
それとはじめて冷水峠(旧道の大根地山あたりから)をとおり
飯塚方面へドライブした際も、同じような感覚でとても気持ちが良かったことを覚えています。
秋月あたりから福岡・大分県境の山地(宝珠山~英彦山、求菩提など)づたいも
心がつよく惹かれています(笑)
羽白熊鷲、磐井氏、秦氏、土蜘蛛(サンカ)
スクナヒコナノミコト、たけうちすくね、猿田彦、応神天皇
不思議と気になるんですよ(笑)」


実は前から地図を見ては馬見山や古処山を囲うように211号線322号線、500号線が歪ながらも三角形を造っているのが気になっていました。他のどの区域も三角形にも丸にも四角にもなっていないからです。

某本で物部の結界は三角形と記憶していたのですが、そういえばルナさんのブログの中に馬見山と物部氏の名前を見たな~と思い出しました。でも馬見山ってニニギさん降臨の地で物部氏の祖先はニギハヤヒさん?繋がったようで繋がらない(ーー;)

三角はただの偶然なんでしょうか?こんなに三角なのに。東京魔方陣とかある位だから現代でも内緒で結界作ってそうなんだけどなぁと思ったわけです。



今地図を確認しました。物部の結界が三角形とは初めて知りました。
この古処山・屏山・馬見山の三山は私もとても関心があって、筑前からも筑後からも神の山になっていて、すごく古くから祀られているなと思っている所です。
オンガーオオガと追って行くと、七支刀を持つ神像のある、旧ヤマト郡までたどり着きます。
だから、言われるとおり、結界がある可能性はあると思います。
結界を張るなら盤座かと思うのですが。
なんだか面白いですね。また後続を楽しみにしています。

それと、検索するなら、サイドバーの検索欄を利用すると、ブログ内のキーワードがずらりと出て来るようになってます。利用してみてください。^^



おお!!七支刀!!この刀も何気に物部関係ありましたよね?石上神宮。
調べると時間を忘れてしまいます!!
三角形の上部には日天宮がギリギリかからなかったり、三角の中央は屏山?屏って地名が載るのみなんですよ~。
でも今ルナさんのレスを読んでふと思いついたんですが…。
『屏』は隠す、被う、覆うに通じるんですよね。
その名を冠する山や地名には何かあるんでしょうか?何を隠し三角形の結界を張ったのだろう??うーん妄想が止まりません!!

検索機能!!その手がありましたね!!今度から利用させて貰います。

 


そうそう。屏山って何故かどこにも出て来ない。
そういえば、浮羽あたりにも屏山という地名がありました。
この辺り、妄想、頼みまする。




七支刀は奈良だけでなく、みやま市の神像も持っている。
ということは旧山門郡にも物部氏?
 



ルナさん、お久しぶりです。屏山の謎は解けないまま逆に少し深まりました(>_<)
ルナさんも読まれている『筑前国続風土記』に興味深くも難解な文章がありましたよ。屏山は昔『宇土浦山』と云われていて、誰が言ったのか馬見山が『二の山』で宇土浦山が『一の山』と書かれていました。ギャーー!!理由は?!うわー!!気になる!!でも書かれていないんですよね(ToT)

インターネットで調べるものの登山系で馬見山の立派な磐座の写真を見るにつけ、この山が『二の山』で通過点としか扱っていない屏山が『一の山』?
長くなりそうなのでメールしますね(>_<)
先日、この三角路をドライブしましたが、何も解りませんでした(爆)
なんとなくですが、キーポイントは『馬見物部氏』の気がしています。



屏山が「一の山」とは!やはり怪しいですね。
馬見を表に出す事で、屏山を隠してるのかも。

三角形の結界の話ですが、「三天法」と言って、天の気を降ろして「聖三角形」を使って地域の隅々まで届けるという方法が三橋一夫氏によって発見されています。
安曇法、住吉法など、聖三角形のつなぎ方が違います。
宗像地区だけ検証しました。
ブログで紹介したいけど、各自で読んでいただけたらと思います。
中央アートからは本も出ています。
それが物部の結界法と言えばそうかもしれないと思っています。




「物部氏が星信仰(正しくは三位一体=日・月・星)をしていたそうなんです。(物部守屋系列とは違うらしいんですが)
蜘蛛の糸なみに細い糸で繋がってくる感じです。
海人族、星信仰、物部…。
カルスト台地に残る石灰岩とは趣が違う石灰岩のある馬見山、屏山。
そして貝の化石が付いた磐座のある日天宮。(この磐が元々この地にあった物なのか、運ばれて来た物なのかは解りませんが)確実に海の底だった証拠!!(ムリヤリ)

海人族だけど津波とか洪水とかに恐怖した一族があってそれでも海の残像を残すこの地で暮らしたのではないだろうかと。それが馬見物部氏ではないかな?
馬見物部氏はもしかしたら静かに古からの三位一体信仰を大切にしてきた一族なのかもなぁと思ったわけです。」




何かの資料で、遠賀川の上流はリアス式海岸だったと読みました。
氷河が削って造った地形だそうです。だからあんなに山奥でも、海の物がある。
ニギハヤヒの穂掛神社辺りは貝の化石が見つかるそうですから、驚くばかりです、

物部氏は星の観測をしていたのですが、その具体的な観測方法と星の名前は
いつも紹介する眞鍋大覺氏が最後の語り部として残してくれています。るな



先日、あるきっかけで『そういえば旧嘉穂町(例の三角道路地帯)に遺跡ってあったなぁ』と調べましたらありましたよ。
約」2100年前の弥生時代中期と言われる「鎌田原弥生墳丘墓群」とか「原田遺跡」とか。
なかでもこの「鎌田原弥生墳丘墓群」は何でも国内最古級の木槨墓だそうで。年代などを考えると朝鮮半島より古くなってしまうらしいです。
出土品は地元や九州国立博物館にあるらしく一度は観てみたいなぁと。
専門の方、頑張って!!




遠賀川上流域にも弥生遺跡があるのですね。
前回の非公開さんのコメントは下流域の弥生遺跡の話でした。
古遠賀湾の周囲は早くから開けてたんですね。
それにしても、木槨墓とは!!
私も見てみたいです!
出土品もあるなら、すごいですよね。
やっぱり見たい。
う~ん。
遠賀川流域を全体から見た研究とかないのかなあ。




大根地山が出てきましたね。近くですが私も行った事ないです(爆)
興味はとてもあるのですが、いつも秋月へ行く時やや冷水峠方面を通る時に神社の鳥居だけ何度も見ます。

不思議だったのが、今回の記事に何度も『キツネ』が出てきた事です。
確か大根地神社(山?)にもキツネ伝説がありますし(鎌倉時代ですが)お稲荷さん祀ってた様な。
別の意味で古墳と山に何か不思議な縁を感じてしまいました。




大根地神社の参道って、冷水峠ルート沿いなんですね。
お稲荷さんを祀っていたという話から、
キツネの巻物は暦、宝珠は隕鉄という話を思い出しました。
あの急な山でも製鉄をしてたかも知れませんね。

それで、また連想したのが、オオネチ ー オオナムチ
同じ語源かな?
妄想は止まりません。(^-^)




う~む。
こうして並べると、どこを攻めて行けばいいのか見えて来たけど、時間が足りないよ。
みなさん、一緒に調べてね。





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by lunabura | 2012-06-19 13:44 | コメントまとめ | Trackback | Comments(11)

そういえば鞍馬寺のウエサク祭とか


KHさん。お返事ありがとうございます。
話を皆さんと共有したいので、またまたこちらから返事します。
(というか、記事を書く暇がないので、これを記事にしようという魂胆で…。)
差し支えのない部分だけ引用させて下さいね。



>宗像大社、楯崎神社以外は訪ねたことがありませんので、
ぜひ全箇所巡ってみたいと思っています。貴重な情報ありがとうございます。
(楯崎の見事な磐座は鳥肌が立ちました。あと断崖絶壁にも(汗))

――楯崎神社、行かれたのですね。盤座好きにはたまりませんね。
巨大な盤座は福岡には沢山あるので、別の機会に紹介しましょう。




>いろんな分野に関心があるのですが、
真実が知りたい、そのうえで宇宙の法理法則に沿った生き方、
在り方へと修正できれば、これが源の様です。

――全く同じです。私が書くより上手く書いてあるなあ。^^;
「真実」で思い出したのが、鞍馬寺のウエサク祭です。
これは鞍馬寺に伝わる5月の満月の祈りなのですが、
十数年前にアジアの各地に同じ名前の祭があるのが分かったので、
そのアジアの僧侶を招いてのお祭りがあった時に偶然参加したことがあります。

そのきっかけは、東京の友達に会いたくて電話をしたら、
京都のお祭りに行くというので、
ちょうど真ん中だと言って京都駅で合流したのですが、
やはり内なる衝動のお蔭でこの稀有な祭に参加出来ました。

日が暮れて夜中に3回、満月の下で瞑想するお祭りです。
一つだけ祈りが届けられるというので、その時に祈ったのが、
「真実を教えてください。」という祈りでした。
その日、2回目の瞑想から目を開けると月の周りに巨大な月暈が出て、
みんながどよめいたのが印象的です。

私は自分で過去世をいくつも思い出したので、
魂が転生する理由をずっと突き詰めて考えていた頃があります。
オーラが見え出すと、いったいどういう仕組みなのか、また考えました。
(今はどちらも見えません。)

そうして、すべての人が過去世を思い出せたら
良い世の中になるのではないかと思うようになって、
どうして私が思い出せたのか、誰でも思い出す方法はないのか、
そのメソッドを追求したのが「ガイアの森」です。



>昨年知人から嘉麻市、馬見山周辺はすごい処だから一緒に散策しようと誘われて、
たしか
・日天宮の巨石
・馬見神社
・鮭神社
・北斗宮
等を予習してましたら
るなさんのブログを発見し、日天宮への行き方を確認するため
くるま座さんのお店を訪ねた次第でございました。

――そうですか。御縁は不思議なものですね。
「馬見山」。私もここはとても重視しています。
何故かと聞かれると困るのですが、
古代の遠賀川流域の人も筑後川流域の人もみな馬見山を見ています。

オンガさま。オオガさま。
大己貴神社の鳥居の扁額やみやま市の七支刀を持った神像などから、
そういうヒントを得ました。

まだ、妄想の段階なので、これもいつかゆっくりと書きましょう。
ブロ友の、のらさんも別のルートから馬見山に辿り着きましたよね。

という訳で、HNさんと同様、あれやこれや欲張ってます。(*^_^*)

書き始めると、止まらないな~。
やばい。やばい。






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by lunabura | 2012-06-18 16:53 | にっき | Trackback | Comments(0)

お返事で~す


KHさん。メールありがとうございます。
今回はブログの方で返答させていただきます。^^

問1)
るなさんの原動力は何ですか?現在のご活動にワクワク・ドキドキするから…、
究極はそれだけだとも思いますが。

―私の原動力ですね…。う~む。何だろう。 すでにお答も書いてあるようですが…。
沢山記事を書いていますが、実はこの数年は出不精です。
あまり情報も集めていません。
お籠り状態に近いのですが、不思議な事に、必要な情報はちゃんと入ってくるので、
それだけを利用しています。

ただ、スピリチュアルな人間なので、内なる衝動には従っています。
そうすると、すごく便利です。
例えば『ひもろぎ逍遥』のスタートが香椎宮と志式神社の神楽でした。
知りたい、行ってみたいという衝動が始まりでした。

これが思いがけず、筑紫の歴史の謎解きのヒントになりました。
だから、ある意味、内なる衝動に従うと楽ちんです。
そうして振り返ると道筋が出来ていたんだなといつも感心しています。
これに逆らうと逆にこわいです。
内なる衝動はあれこれとアイデアをくれますが、追い付かず、お手上げの状態です。
アイデアの源については『夢見力』に譲ります。 (^-^)

問2)
弁才天、イチキシマヒメ、アメノウズメ、スクナヒコナの縁起のある神社、史跡など
廻ってみようかと思って居ますが、お奨めのスポットをご存じであれば
ご教示頂ければとても嬉しいです。

―弁財天なら、佐賀県の天山に降臨してから奈良県の天河神社に移ったと記憶しています。
だから両者にはよく似た地名があります。
天河神社の宮司さんに尋ねたら、年に一度は佐賀県に参拝すると聞きました。
同じ佐賀県の七山村の湿原の中に弁財天が小さな祠に祀ってあります。
そこに行った時、天河神社で買った三環鈴がずっと鳴り続けたという不思議な事がありました。
誰も知らない神社だと思います。
今頃はサギ草が咲いているかも知れませんね。自生なのでとても貴重です。
弁財天はインドではサラスワティーですよね。

同じサラスワティーの化身、市杵島姫は宗像大社の辺津宮、そして広島の宮島の厳島神社が著名です。
宗像三女神として捉えるなら、鞍手郡の六ケ岳、六嶽神社が元宮です。
また、久留米市の赤司神社も歴史的に重要です。

アメノウズメは福岡では飯塚市の撃鼓神社に祀られています。
熊本県か宮崎県の荒立神社が猿田彦とアメノウズメの新婚の宮です。

スクナヒコナもあまり出会っていませんが、
近場では、福津市の楯崎神社に祭られています。ここは盤座が見事です。

以上ですが、福岡県内の神社はサイドバーから見て下さい。
また何かありましたら、コメントくださいね。 (^-^)V

取り急ぎお返事しました。




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by lunabura | 2012-06-17 00:09 | にっき | Trackback | Comments(2)

待っててね


只今、もう一つの原稿の推敲中です。
「ガイアの森」という小説で、すでに一度ブログで発表したものですが、
本の形にしようとしています。

大長編なので、少し時間がかかっています。

出版社は決まっていないのですが、見つからなかったらオンデマンドでもと考えています。

内容は私たちが輪廻する目的。
オーラの働き。
許し。
などなど、スピリチュアルな話で、すべての人の抱えるテーマに挑んだものです。

また続編の「大和編」を書きました。
これは全く未発表ですが、日本の結界、地震などがテーマでした。
作品が出来たあと、3.11が起こってしまい、間に合わなかったという思いで発表の意欲を失いました。



金星が太陽を通過したあと、この世界は流れが変わって行きますが、
私には小説を完成させるという、やり残した宿題が目の前に出て来ました。

ということで、ブログの更新が遅れています。<(_ _)>





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by lunabura | 2012-06-15 10:16 | にっき | Trackback | Comments(2)

ミリカローデン那珂川の前であれこれ考えた・倭国と日本国・仲遺跡・亀石


ミリカローデン那珂川の前であれこれ考えた

倭国と日本国・仲遺跡・亀石
 


ついに那珂川町に戻ってきました。
一年前だったでしょうか、裂田溝(さくたのうなで)を辿りながら
御中主神社、風早神社、伏見神社、裂田神社、現人神社などを逍遥しました。
(どれもサイドバーからどうぞ。)

人の営みと自然が調和した里で、日本書紀に書かれた水路を辿った古代散歩は
沢山残されていた伝承や祭りで豊かな色彩にいろどられていました。

そして今回は百済の前方後円墳の話から日拝塚古墳を経由して那珂川町へと
思いがけない歴史を辿ってやって来ました。

韓半島の南にある前方後円墳の被葬者は倭人で、九州の北部出身の人たちでした。
この時代についての中国側の記事を読むと、
倭国が毎年朝貢していたのに、その旅程を高句麗が邪魔するという状況でした。

そののち、いつの間にか日本国という存在が出現して、
これもまた中国に朝貢して来ました。
だから、一時期は倭国と日本国という二王朝が同時に存在しています。
その後、倭国の記述は消えて行きました。
韓半島の古墳もまたそれを裏付けるような状況でした。
その石室の構造が春日市の日拝塚古墳と似ているのを確かめに行ったのが
前々回の記事です。(サイドバー→日拝塚古墳)

百済と春日市と那珂川町。
この三つの地域が古墳でつながったのは偶然でした。
ある講座で百済と日拝塚古墳がつながるのを知り、
那珂川町の講座で日拝塚古墳と那珂川町の王墓級の古墳群がつながるのを知りました。

そこで、私の中で、那珂川町の古墳群→日拝塚古墳→百済の前方後円墳という
系譜があるのではないかという仮定が生まれました。
それは確かめないと分かりません。

時代は5~6世紀。磐井の乱は527年。
この磐井の乱は良い指標になります。
筑紫の君・磐井は筑紫の古代史ファンにとってはヒーロー。
(と、私だけが思ってる?いや、きっとみんなにとってもヒーロー。)
その子は葛子。他に鞍手の北磐津などがいるのが分かっています。
そして粕屋の屯倉。宮地嶽不動古墳。岩戸山古墳など。
筑前でも筑後でも、福岡の各地で彼らは深い歴史の奥から呼びかけて来ます。
そう、磐井の君の治めたエリアはとても広かったのです。

そのエリアは彼より300年前の人である神功皇后の移動したエリアにも
一部重なっていました。
皇后を支えた筑紫の古代人たちは、夏羽や羽白熊鷲、田油津姫たちという
旧勢力を滅ぼした後、新たな秩序を作り上げました。
それは連合国的なものだったように思われます。
これが倭国ではないかと思い始めました。

そして6世紀になって筑紫の君として記録に残ったのが磐井です。
彼はついに継体天皇と雌雄を決した。
それが倭国と日本国の戦いだったのではないでしょうか。
言いかえれば九州王朝VS近畿王朝という形なのでしょう。

「日本国は倭国の別種である。」
それは現代の「英国と米国」のような関係に近いと思います。
英国からの移民たちが独立して新国を作り、母国を凌駕して繁栄した。
伝統の国VS繁栄した新国。
それが「倭国と、東の方で繁栄した日本国」とそっくりだなと思うのです。

さて、日拝塚古墳が6世紀のものであり、
那珂川町の古墳群がそれより過去にまで遡れるらしいという事は
磐井と同時代に生きた人たちが埋葬されているという事になります。

那珂川町の古墳の分布は全国の10倍の密度だそうです。
乱開発から逃れ、系統だった古墳の変遷が見られる町です。
その古墳群の中に何が見つかるでしょうか。楽しみです。

今、私はミリカローデンという町の施設の玄関前にいます。
この真下にも古代の遺跡が眠っていました。
古代の人はどんな景色を眺めたのでしょうか。

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西の山々が見えます。片縄山や油山です。

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南には神奈備山がありました。城山というそうです。
ここに住む人々はこの山を神聖視したに違いありません。

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その人たちの遺した遺跡を仲遺跡(ちゅういせき)と呼びます。
縄文時代~古墳時代。
という事は仲遺跡の人たちは神功皇后や竹内宿禰を出迎えたかも知れません。
磐井の君とはどう関わったでしょうか。
ここもまた奴国(那の国)なのです。

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玄関口にぽつんと岩がありました。
どことなく怪しくて、ペトログリフでもないかと観察していたら、亀だ!

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自然石の一部だけを亀に見立てて彫っています。
どこから持って来たのだろう。
スタッフに尋ねたけど分かりませんでした。
亀は各地で神の使い、あるいは神そのものでした。

造成する時に現地から出たのでしょうか。それとも他所から持ち込んだ?
これは土器と同じように文化財としてどこから発掘されたか記録されるべきものです。
遺跡も石も神社も全部、ひっくるめて文化財だと思っています。

そして施設内には三角縁神獣鏡がありましたよ。
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そして例の山本太郎に似た貝徳寺くん。(と、古墳の名前からネーミング)
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さて、うまくつながるかな。さらに古代を歩いてみましょう。




ミリカローデン那珂川 福岡県筑紫郡那珂川町仲2丁目5-1
文化ホール 図書館 プールなどの総合施設






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by lunabura | 2012-06-09 18:29 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(3)

日拝塚古墳(1)百済と倭国を結ぶ古墳


日拝塚古墳(1)
ひはいづかこふん
福岡県春日市下白水南6丁目208番外
百済と倭国を結ぶ古墳

百済の前方後円墳から、ずいぶん寄り道をしました。
百済の地にあるこれらの古墳は倭人が作ったことが見えて来ましたが、
その中の海南長鼓山古墳が春日市の日拝塚古墳に近いという事を聞きました。
偶然にも、すぐにその古墳に行く事が出来たので今回はそのレポートです。

この古墳は住宅地が迫る丘陵のピークにあります。道案内なしでは難しい所ですぞ。
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墳丘の形が綺麗に残っています。
国指定になっていたので、この敷地だけは保護されています。

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後円部に石室の入り口が露出しています。

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近づくと、こんな感じ。
教育委員会に申し込めば石室に入る事が出来るそうです。

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今日は隙間からカメラでエイヤっと。結構見えますね。
この石室が百済の海南長鼓山古墳と似ているそうです。

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そこで、二つの写真を並べて見ました。
左が日拝塚古墳。右が海南長鼓山古墳です。
確かに似ていますね。
日拝塚古墳は人が立つことができそうです。竹原古墳王塚古墳を思い出しました。
(過去記事はサイドバーから)
百済の前方後円墳は平天井が特徴だそうですが、
この海南長鼓山古墳の天井がどうなのかは分かりません。

石室の形や副葬品など、比較した研究があったら面白そうですね。

とりあえず、一般人が簡単に手に入る情報として、まずは春日市のHPから
 
6世紀に築造された前方後円墳で、周溝まで含めた規模は全長60メートルほどになります。墳丘の主軸がほぼ東西を向いており、彼岸の時期には東方約16キロメートルにある大根地山(おおねちやま)から昇る太陽を拝めることから、「日を拝む塚」として「日拝塚」と呼ばれるようになりました。

 主体部は、後円部中央に位置する単室の横穴式石室です。昭和4年に盗掘を受けた際、石室内から須恵器、鏡、装身具、武器、馬具などが多量に出土しており、大部分は回収され、東京国立博物館に収蔵されています。
主軸が東西を向いて大根地山を見ているのは興味深いので、次回検証します。
今回は百済のものと比較するのがテーマです。
何々?出土物はいったん盗掘されたものが取り戻されたって?
これは驚きですが、その出土品もみんな東京に行ってしまった?
これじゃあ出土品が見られないぞ。

看板の写真を見てみましょう。
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これはかなり洗練された副葬品ですね~。
これが、倭人たちが百済で手に入れて、故郷の首長に贈ったものだとすると、
面白いのですが、私にはよく分かりません。

妄想するのにはもっと資料が欲しいなと思って探すと文化庁のデータベースがありました。
日拝塚古墳は博多平野にあり、那珂川の右岸の低段丘上に立地する前方後円墳である。古墳は前方部を西に向けており、全長41.2メートル、後円部径22メートル、高さ5.9メートル、前方部幅34メートル、高さ5.4メートルを測る。墳丘は段築が明瞭で、葺石、埴輪は認められない。石室は後円部中央に設けられ、西南に開口する単室の横穴式石室である。玄室は長さ3.6メートル、幅2.6メートル、高さ4メートルである。羨道は長さ4.8メートルで玄室から2.5メートルは幅約1メートル、高さ1.5メートルを有する。

玄室奥壁寄りに屍床があったといわれるが現在は残っていない。昭和4年に開口したおり、多量の出土品が知られ、獣形鏡1面・金製垂飾付耳飾1・金環4をはじめとする装身具類、環頭柄頭をもつ太刀1をはじめとする武具類、鉄製輪鎧3組などの馬具類、須恵器等多数があり、現在東京国立博物館に保管されている。本古墳は前方部が発達した平面形を示しており、出土品の特色からもこの地域で6世紀に属する後期の古墳として典型的なものである。
むむ。これでも、よく分かりません。残念だなあ。

(つづく)

地図 日拝塚古墳





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by lunabura | 2012-06-05 10:06 | 日拝塚古墳 | Trackback | Comments(6)

日拝塚古墳(2)「ひはい」の由来


日拝塚古墳(2)
「ひはい」の由来
 

さて、今回のテーマは「日拝」という名前の由来です。
墳丘の主軸がほぼ東西を向いており、彼岸の時期には東方約16キロメートルにある大根地山(おおねちやま)から昇る太陽を拝めることから、「日を拝む塚」として「日拝塚」と呼ばれるようになりました。(春日市HPより)

さて実際はどうなっているでしょうか。

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測量なんて当然出来ないので、グーグルアースから切り取ってみました。
前方後円墳にしては円墳が丸くないですね。封土が崩れているのかな。
それともそんな設計?

いや、テーマは古墳の主軸でした。
グーグルアースが地図として正しく東西南北を指しているとすると、
切り取った輪郭が物差し代わりに使えます。
それと見比べると微妙に傾いているので、
主軸はHPにあるように「ほぼ東西」となるようです。
歳差運動で、東西がぶれたのでしょうか。

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円墳の上から東を見ると、遠くに三角形の山が見えました。
(写真では電柱のすぐ左。)これが大根地山(おおねち)です。

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拡大しました。三角形の独立峰です。
このブログでは初登場ですが、実はこの山はあちこちから見える、気になる山で、
神功皇后が登って祭祀したという伝承もあります。
私もかつて登ろうとしたけど、イノシシの噂を聞いて止めたことが…。(-_-;)

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日拝塚古墳から大根地山に向かって東にラインを引くと頂上にはつながりません。
少し北に届きます。
もしかしたら、日の出の場所は山の北の峠かもしれません。
日の出を観測するのに、山のピークを利用するのも有りですが、
二上山のように凹んだ所から出る太陽を観測する例もあるのです。

そこで、月の浦からの月の天体ショーを発見した、くるま座さんに尋ねると、
彼はここで日の出を観察したというではないですか。
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それによると、春分の日は大根地山の少し左側から、夏至は乙金山から太陽が昇ったそうです。
それを写真に書き込んで見ました。
夏至に乙金山(おとがねやま)から昇るとすると、春分の日についても
大根地山のピークではなく峠から出る事が前提だった可能性が出て来ました。

ここから毎日、日の出を見た情景を想像しましょう。
春分の日に大根地山の峠から太陽が出ると、その後、日の出は日々左にずれて行き、
夏至の日に乙金山から出ると、Uターンして再び大根地山に戻ります。
その後はさらに右の方から出来ます。
冬至の日の出の目当ての山も家の向こうにきっとある事でしょう。
蛇足ですが、大根地山と古墳のほぼ中間点に大宰府があります。

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さて、振り返って古墳の反対側を見ると油山が見えました。
どんな日没が観測できるのでしょうか。

さてさて、この「日拝塚」の由来についてはあの真鍋大覚氏が書き残してくれていましたよ。

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写真が載っていたので、私が撮ったものと並べて見ました。
30年ほどで封土の形が変化しているようですね。
本文を引用してみます。
前方後円墳は門戸(かどのくち)の方位が夏至の日の出、冬至の日の入りを見通す様式になっているものもある。まさに居ながらにして太陽暦日を見取ることが出来る。

前方後円墳を「狐塚」とも言う。その形が狐の耳を立て腰を高くして休みおる姿に似ているからと説かれている。

昔は日契塚(ひけいづか)、後に日経塚(ひけいづか)と呼び、一種の日計塚の意であったが、これを「きつね」と略したのが由緒らしく、更に吉日を選び縁起を担ぎ出す江戸初期頃には暦書の普及も又百姓町民の手元に届くことになって、その由緒が失われた。

またの名を日回塚(ひかいづか)あるいは日向塚(ひけいづか)と言う。夏至冬至のこの日を限って日の出入りの方位が回転するからであるが、これが訛って日拝塚に変わり、春分秋分の日の出日の入りを正す渾天儀の役を勤めてきたのである。
なるほどですね。
すべての古墳が太陽の観測に使えるように造成した訳ではありませんでした。
ただ、この古墳は主軸が東西に造られたために、
さきほどのように山の稜線を観測する事で「日を計る」ことができたので
「日契」「日経」とも呼ばれ、「日回」「日向」とも書かれ、最終的に「日拝」となりました。

「あの古墳は何でヒケイち言うとかいな。」と人々が語源を考えて、
漢字を当てはめていったようすがよく分かります。
キツネの寝姿に似ているのも、面白いですね。
キツネが口にくわえている巻物とは暦のことなのですから。

つづき。
(前方後円墳は)元来は含墓(がんぼ)のちには観墓(かんぼ)と呼んだこともあった。その形が「含」(に似ていたからである。)

「含」とは即ち「王者の口に血統を刻した玉石」で、これを挟む葬式が遠く殷周時代に行われ、(その形は今の短冊あるいは紙雛、又は戯化されて、てるてるぼうずの形に似ていたが、)冥土で閻魔が鋏でこれを抜き、裏表の書面を確かめたうえで天国か地獄への配分を定めたと語られている。やがてこれが「大王の舌抜きの説話」に転じ、更には虚偽の申し立てを「二枚舌」と言うに及んだのである。
へえ。そうなんだ。
中国の殷などの被葬者の口に玉石をくわえさせるのは、
その血統の印刻を閻魔大王に見せるためなんですって。
閻魔大王はその玉石を引っこ抜いて、書面を確かめたなんて。
由来が分かるとなるほどだな~と思いますね。
その形は前方後円墳の形なんだ。ふふ。そうなんだ。

古墳の前と後は高さが不同であった。方位を見定める労を軽くする配慮であった。

衆人はこれを見て各々高さを競うゆえに「いがみあいづか」と称していたらしい。権力闘争を事とした王者を揶揄(やゆ)するかの如くに聞こえるが、元来は神前仏前に供える飯粥(いがい)の形を写した古語に他ならない。

飯はさらに高く盛り上げることができるが、粥(かゆ)は椀に入れて具を中に伏せてもほぼ平たくなる。百姓はかつて王者の資本で開拓した水田のお蔭を感謝する供物を日々忘れなかったのがこの発祥である。(中略)

里の女人が供物を捧げて立ち帰った後、人気のなくなったのを見済まして、母狐が子狐連れでそのまま一日草むらの日向で昼寝をしていたと聞く。古墳の尊厳は荘園が存続していた頃まであったらしい。

『儺の国の星』より(一部、るなが言葉を補いました。)
お供え物の「いがい」が「いがみあい」に変わるなんて、有り得る~。
そして暦のシンボルとなったキツネがそこで昼寝をするなんて、いい時代の話ですね。

古代は「王者の資本で開拓した水田」って、言われるとホントそうなんだ。
これに類する話は「裂田溝」(さくたのうなで)も該当しますよね。
あの裂田溝はここからはすぐ隣の那珂川町にあるんですよ。

そして、この日拝塚古墳の系譜はその那珂川町につながるという話を聞きました。
時代を遡ってその那珂川町に行きましょう。





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by lunabura | 2012-06-04 19:50 | 日拝塚古墳 | Trackback | Comments(2)
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