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儺の国の星・拾遺 4・天明3年 浅間山の噴火の年の暦づくり


儺の国の星・拾遺 4
序文を読む 4

天明3年 浅間山の噴火の年の暦づくり
 

さて、序文の残りの部分です。まずは読んで行きましょう。

祖先は陰暦12月13日に威儀を正して百姓家の一つ一つに、来る年の朔(さく)と望(ぼう)の干支をふりがな付きで一枚の和紙にしたためて直接届けておりました。

明治初年で戸数37でありましたから、少なくともこれだけの分を楷書でしたためておりました。百姓の日々の生活と行事がすべてこの方冊で仕切られて、農事歳時にいささかの支障も無いことを期待せねばならぬ所でありましたから、その編集にはまさに斎戒沐浴しての一月半余の厳粛な仕事が離れの一室で人気を避けて行われたと聞きます。

メトン周期をどうやって手計算したのか、未だに謎ですが、
斎戒沐浴してまで、一室にこもって暦造りをしたというのですから、
これは神々への祈りと同じレベルの取り組み方だった事が伺われます。

こうして出来た新しい暦は神前に供えられ、古い暦は焚き上げられました。
これを「お火焚き」と言い、那珂川町の裂田神社や伏見神社の神事となって、
現代に伝えられています。

この話の続きは
裂田神社(2)「おひたき」の語源はギリシア語の「キタヒ」?
http://lunabura.exblog.jp/16314603/

に書いています。
(この記事のイラストをペテルギウス流星群のHPに掲載したいという依頼があって、
こんなものでよければと快諾しましたが、HPは出来たのかな?)

話がずれそう。元に戻って続きを読みましょう。
光格帝 天明3(1783)年癸卯歳は、この昭和59(1984)年と同じく冬は寒く雪は稀(ま)れで、春から夏にかけて雨少なく気爽やかで、秋は白露(はくろ)の前から涼しくなりました。

この天気は例年通りの順調な日取りでありました所、7月7日(陽暦8月5日)に信濃浅間岳の大噴火がはじまり、ついに秋落ちの凶作が東国を襲ったのでありました。

今年は閏10月が陽暦11月23日から12月21日まで小月で挿入されております。翌天明4(1784)年甲辰歳は閏正月が陽暦2月21日から3月20日になっており、秋も冬も例年より長くなることを示しております。

祖先は連日の如く赤く燃える夕空に驚き、まず近い先例を手持ちの記録から繰り出しました。差し当たりの目安が201年2486月の差0.63692日でありまして、当時から現代にくだれば、今年になるのでありますが、前に遡れば正親町(おほぎまち)帝 天正10(1582)年、羅馬(ローマ)使節派遣と西洋新暦改制の年でありました。

翌年閏正月は陽暦2月23日から3月23日の間に挿入されております。

この暦制の革命に加えて、あの天正14年の乱世による史料の喪失がやむをえぬ時世とは言いながら編暦に多大の支障を来(きた)したのであります。

そこで1021年12628月、差0.00310日をもって淳仁帝 天平宝字6(762)年の先例に鑑(かんが)み、閏12月1日から来年度の暦をはじめました。即ち冬長く残りて春来ること晩(おそ)しと案じたのであります。

祖先は正月が一月先になり、一同を待たせたことになりましたので、取り敢えず晒木綿(さらしもめん)の袋に精白した糯米(もちごめ)一升を納めて戸別に持参し、己れの不徳不明を陳謝して廻ったとのことでありました。

地元の天気のことならばいざ知らず、遠い他国の山燃えのこと等、まことに不慮不則なりとして鄭重(ていちょう)な挨拶(あいさつ)に恐縮したとの後日談でありました。

夕陽の赤きことを年改まりても尽きることなく、気は冷涼でありましたが、水温はさしたることなく、例年通り、一月に籾種(もみだね)を水に浸けて苗代を起したおかげで幸いには飢饉に至ることなく、一同何とか平年作までに持ちこたえたことを喜び合ったと聞きます。

氷雪の解けること晩(おそ)きとも地水の上るは遅きことなしと諭(さと)して、里人の心を安んじたことは長く世の人の話になりました。
(一部、読みやすくするために変更しています)

読んで行くと、時系列がいくつかあって、よく分からなくなってしまいました。
そこで、まずは浅間山が噴火した天明3年について検索すると、
次のイラストがヒットしました。

c0222861_110644.jpg

浅間山の噴火 天明3年 (画像出典は下記より)
http://www.asamaen.tsumagoi.gunma.jp/eruption/index.html

江戸時代の噴火なので各地の史料に記録が残り、上記のサイトから引用すると、
噴火は旧暦4月9日(5月9日)にはじまりました。はげしい爆発が起こり、その後噴火が続いて灰が降り続きました。噴火はしだいに激しさをまし、7月1,2日(7月29,30日)より後は軽井沢から東の空が真っ暗になるほどでした。7月7日(8月4日)には軽井沢の宿の家々は赤熱した石が落ちて焼けたり、つもった軽石でつぶれたりしてしまいました。

となっています。
c0222861_1122697.jpg

旧暦7月7日は大噴火だったことがこれで確認できました。
遠く離れた福岡でも連日、夕焼けを観測したために、祖先が驚いて記録を調べました。
この祖先とは江戸時代の人だと分かります。

先例を調べる目安が201年と書いてありますが、理由は私には分かりません。

天明3年の201年前は天正10年で、すぐ後に西洋新暦改制が行われて
比較が難しくなった上に、天正14年の乱によって、史料が失われました。
豊臣秀吉による九州の役の時代ですね。
博多も炎上して、櫛田神社の御神体が那珂川町の伏見神社に避難した話が
伝わっているので、真鍋家もその騒乱に巻き込まれたのでしょう。

その櫛田神社の御神体については
伏見神社(2)櫛田神社から疎開した須佐之男社の御神体
http://lunabura.exblog.jp/16345830/

に書いています。

天正10年の史料が無いので、祖先は更に古い天平宝字6(762)年を調べて、
ようやく翌年の暦を決定しました。

その結果、なんと「閏12月1日から来年度の暦をはじめました」となっちゃいました。

これは、翌年のカレンダーを貰った方からすると、
年始が「12月」からスタートしているという驚きの暦だったのです。

♪もう幾つ寝るとお正月♪と待っていた「12月」のあとに
また「閏12月」が来るのですから、楽しみにしていた子供たちもがっかりですね。
あの世の御先祖さんたちもがっかりです。
(昔は盆と正月に先祖が帰って来てたんです。)

お正月が一か月先になったのは自分の不徳の致すところと言って、
祖先は貴重品だったもち米を配って回ったという事ですから、
その気構えに驚かされます。

しかし、この暦のお蔭で稲作は順調な結果をもたらしました。
もし「閏12月」を年始に入れなかったら、寒すぎて稲が育たずに凶作になった事でしょう。
暦が村の農事に大影響を与えるのですから、責任ある厳しい作業だったのですね。

こうして暦は農事に活かされたのですが、
本来の目的は祭祀の日取りを決定するためのものでした。

この千年以上の観測の記録と智恵は真鍋氏が「地震雲」を世に出す礎となりました。
気象庁では今でも地震雲は認めていないそうですが、
311の前後の地震雲がネットに多く寄せられて、いろんな方が自分で検証する時代になりました。






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by lunabura | 2012-07-30 11:05 | <真鍋大覚儺の国の星> | Trackback | Comments(0)

儺の国の星・拾遺 5・物部氏の星の観測法


儺の国の星・拾遺 5
緒言を読む

物部氏の星の観測法
 

それにしても、代々、どうやって星々の名前を覚え、
その星から年号が分かるのでしょうか。
虎の巻はあったのでしょうか。
今回は、「緒言」からその原本と星の観測法を紹介します。

原本
本書の原本は「石位資正」(せきいしせい)の名で藤原隆家(979~1044)が後朱雀帝 長暦(1039)年に大宰権帥(ごんのそち)に再任された時、九州に在って星暦についての古今の見聞録を編纂したものでありました。

執筆の契機は、三條帝長和(1014)年から後一條帝寛仁3(1019)年に大宰権帥の任期中に刀伊(とい)の入寇に遭い、大陸の夷狄(いてき)の偉大なる天文知識に感銘してからのことと伝えられます。

逸話ではありますが、この頃から南辰(なんしん・ここでは南十字星)が有明海の彼方に沈み行く光景が都府楼から遠望されたのが、今にして大宰府の暦書を収録しておかねば永久に世人の関心が星空から離れて行く気配を憂慮しての企画でありました。

「石」とは「星」の事です。
この本は大宰府に赴任した藤原隆家が九州に残っている星暦を書き留めたものなんですね。

この時代に刀伊が襲ってくる大事件が起こっていますが、
よく知らないので、wiki からあらすじを抜いて見ました。
対馬への襲撃
寛仁3年(1019年)3月27日、刀伊は賊船約50隻(約3000人)の船団を組んで突如として対馬に来襲し、島の各地で殺人や放火を繰り返した。この時、国司の対馬守遠晴は島からの脱出に成功し大宰府に逃れている。

壱岐への襲撃
賊徒は続いて、壱岐を襲撃。老人・子供を殺害し、壮年の男女を船にさらい、人家を焼いて牛馬家畜を食い荒らした。賊徒来襲の急報を聞いた、国司の壱岐守藤原理忠は、ただちに147人の兵を率いて賊徒の征伐に向かうが、3000人という大集団には敵わず玉砕してしまう。

理忠の軍を打ち破った賊徒は次に壱岐嶋分寺を焼こうとした。これに対し、嶋分寺側は、常覚(島内の寺の総括責任者)の指揮の元、僧侶や地元住民たちが抵抗、応戦した。

そして賊徒を3度まで撃退するが、その後も続いた賊徒の猛攻に耐えきれず、常覚は1人で島を脱出し、事の次第を大宰府に報告へと向かった。その後寺に残った僧侶たちは全滅してしまい嶋分寺は陥落した。この時、嶋分寺は全焼した。

筑前国怡土郡への襲撃
その後、筑前国怡土の郡に襲来、寛仁3年(1019年)4月8日から12日にかけて現在の博多周辺まで侵入し、周辺地域を荒らし回った。

これに対し、大宰権帥藤原隆家は九州の豪族や武士を率いて撃退した。たまたま風波が厳しく、博多近辺で留まったために用意を整えた日本軍の狙い撃ちに遭い、逃亡したと記されている。

刀伊の入寇は単語だけ教科書に載っていたような記憶がありますが、
この福岡では大変な戦いだったのですね。

長崎の原爆を描いた小説に、当時一番恐れられていたのが
「ムクリ・コウクリ」だという一文があったのですが、
これは「蒙古・高句麗」つまり「元寇と刀伊の入寇」を指していたんだと
今頃つながりました。
それにしても敵が福岡に上陸したとは…。

敵を撃破した隆家はその後、異国の天文知識に感銘して、
自国の天文の見聞録を見直してこの本が成立したというのも、不思議な縁です。

この時代は南十字星が都府楼から見えていて、
有明海に沈んで行くのが観測されたというのですから
想像もつかない古代の静けさと光景です。

歳差運動によって、星の小さな変動が1000年も積み重なった今では
もう見えないのでしょうが、
明治時代には脊振山から南十字星の一番上の星γ星が観測されたそうです。

南十字星については
南十字星の和名 古代の呼び方
http://lunabura.exblog.jp/16129802/

に書いています。

「緒言」に戻りましょう。
「石位資正」の内容でありましたが、源順(みなもとのしたごう)(911~983)が朱雀帝 承平7(937)年に上梓しました倭名類聚鈔に則した記述であったらしく、漢名の星宿に項目を分けて、これに日本の星の古名を列挙し、要すれば由来の説明を摘記略述したものでありましたから、星座を拾って夜毎に見上げておれば、幼少といえども星名を暗記するには容易であったと思います。

中国の星と日本の星の対照表ですね。それに解説のメモが付けられた。
日本独自の星の名があったんだ。
「幼少といえども星名を暗記するには容易」と書いてあるけど、
子供だからこそ覚えられるんだよね。
(小学校の先生が子供は記憶力がいいと何度も言ったのが今頃立証されている…)

それでは星をどうやって覚えたのでしょうか。
続きを読みましょう。
父親は筆者(※大覚)を田の畔(あぜ)か石の上に立たせて、後ろから肩越しに右手の甲を手で握って星の名を教えました。夜の8時か朝の4時に時間を定め、しかも子午線の上にある星だけを繰り返して説くだけで、その他は一切言及しませんでした。

これが昭和7年(1932)年から同15(1940)まで続きました。

考えてみれば、頭上の天頂を通過する南北の方位から東へ15度外れた星は1時間後には子午線に必ず乗ってくるものであり、西へ15度外れている文は15日前には必ず見たものでありましたから、まさに季節の移り変わりについての予習復習が8年間も続けられたのであります。

後年筆者が宇宙科学を志す素地がこの頃に出来上がりましたが、今でも星座表で前後左右の星の並びを聞くたびに、あの時その時の季節を思い出します。

これを初めて読んだ時は驚きました。
全く想定外だったんです。

子午線上の星の位置と名を覚えて行く。
これこそが物部氏の伝統的な伝授法です。
すごいですね。
子供に8年間毎晩教えるというのも合理的です。
そして、この伝授は大覚少年で終わりを告げました。
この本は高松宮宣仁殿下の五十余年に及ぶドイツ語訳古事記刊行の大事業の中のささやかな一環として世に出る運びとなりましたことは誠に感慨無量の一言に尽きるところであります。

この本は日本人への最後の贈り物です。
どうぞ再版されて皆様の手元に届きますように。

因みに今夜、2012年8月12日の夜8時。福岡はこんな星空です。

c0222861_12481540.jpg

天の川が正面に流れています。
これに星座を重ねてみましょう。

c0222861_12483024.jpg

福岡の夜空は明るくなり過ぎていますが
子午線の右に赤いアンタレスぐらいは見えるかなあ。
みなさんの所はこれと比較してどの位置に見えますか?






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by lunabura | 2012-07-28 12:49 | <真鍋大覚儺の国の星> | Trackback | Comments(14)

丸ノ口古墳公園(1)那の国を見晴らす装飾古墳たち


丸ノ口古墳公園(1)
福岡県筑紫郡那珂川町後野
那の国を見晴らす装飾古墳たち

丸ノ口古墳公園はJR博多南駅から車で約10分の所にあります。
(へえ。そんなに近い(驚))
「丸ノ口・北中入口」の信号から山の方に登って行くのですが、
ナビなら「那珂川町北中学校」で行くと、隣なので分かりやすいでしょう。

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手前の駐車場から遊歩道を上ると円墳が!いきなりテンションが上がります。
ところが、左の草むらがすでに古墳。しかも、こちらがメイン。

丸ノ口古墳群Ⅵ群2号墳

c0222861_22431791.jpg

正面に廻って遠景を撮るとこんな感じ。入口は防護されています。

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扉の隙間から撮ってみました。円文が写りましたよ!

c0222861_22435718.jpg

これがそのイラスト。
イラストは円文と波と舟です。う~む。舟はどうして空にあるのだ。
よくよく考えると、高い所から見た大海原を描こうとするとこうなるかな。
あるいは遥か彼方からやって来た?
それともあの舟に乗って旅立つ?
装飾古墳は妄想出来るので、やっぱり楽しい。

しかし、問題は中央にある円文。さらに上にもある。
かつて王塚古墳で円文を見て、何も考えず人の説を採用したけど、
あれは反省。最近は少し慎重になった。

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これが出土品。さて古墳の時代は?
6世紀の後半だそう。
すると、磐井の乱後、古墳が小さくなったというのがこれ?

さてさて、一か所にこだわるには古墳が多い。先を急ごう。

丸ノ口古墳群Ⅴ群5号墳

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これは一枚目の写真の中央に見えていた円墳。廻り込むと、石室が露出していた。
おお、入口から既に円文が見えている。

c0222861_22451927.jpg

あれれ。この強化ガラスみたいな保護板は蕨手さんがレポートしていた古墳だ。
そうか。この古墳だったのだ。これは装飾古墳なのだ。
c0222861_2247825.jpg

石を打って模様を刻みこんでいる。
いたずらしないように覆いをしているのだろうけど、
ここだけ湿気がひどくなって、却って石の劣化が早くなるかも。

c0222861_22454569.jpg

と心配したけど、この解放感からすると、保護板で済ませたい気持ちもよく分かる。
天井石がないので、よく観察できるのだ。
パンフレットを見ると、何々?これは移築復元したんだって。
そうか。そうなんだ。
直径14mの円墳で、「円文」が3つ描かれているのが特徴。
ふむふむ。

c0222861_22515254.jpg

説明板がすぐそばにあるのでありがたい。
いつの頃かな?
6世紀代。さっきの2号墳と時代は重なる。

c0222861_22474199.jpg

ここから出土したのは玉類。
他の所からは武器や馬具が出ているので、ここにも、かつてはあったかも。
それとも夫人?
この時代は女性も同等に埋葬されたのかな…。

さて、この二つの装飾法は敲打法というのだそうだ。
ここだけなのかなあと思うと、こんなイラストまであった。

c0222861_2248337.jpg

福岡中南部に多いんだ。技術が伝播したのか、技術者が移動したのか、
偶然の一致なのか。誰か研究してないかな。
この古墳群が町の史跡に指定されたのが平成11年という事で、
カラーの説明板がすぐ傍に在るのは理想的でした。
(あとは出土品の所在地があれば完璧かな。)

そして、ここから見た景色がこれ。
c0222861_22481920.jpg

那の国全体が見渡せた!

正面に見えるのが若杉~宝満山系。左のずっと奥は犬鳴山系かな。
宝満山系の手前の低くて丸い山が乙金山、その右が最近話題になった大城山(大野城)のようだ。
大城山の麓には大宰府がある。その左は水城で仕切られている。

さらに左の低地から今立っている所も、かつて「天の原」と言われたという。
ちょうど白い飛行機が降りて行くところが板付。那国の王墓がそちらにもある。

ここは北東部が開けているのだ。
古墳の被葬者の背景を知るのに大切なのは場所だと思う。

この見える範囲に磐瀬宮候補地の梶原があり、日拝塚古墳があり、
三笠の山の稜線を伝って月が昇る天体ショーを見られる「月の浦」もある。
ここは何だか凄い所だ。
こんな見晴らしのいい所に古墳を作れるのは、この地を熟知して那の国を愛した人だ。

と思って反対側を見たら、あれ?磐座じゃない?
(つづく)

丸ノ口古墳公園





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by lunabura | 2012-07-25 22:58 | 丸ノ口古墳公園・那珂川町 | Trackback | Comments(3)

丸ノ口古墳公園(2)これは磐座?


丸ノ口古墳公園(2)
これは磐座? 

広大な那国の景色を眺めたあと、後ろを振り向くと、山の上に岩がいくつも見えました。

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い、磐座(いわくら)じゃない?

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登って行くと、頂上付近の岩群れが怪しい。
さらに近づくと岩群れの頂上に方向を示す石が見える。
写真を撮ろうと尾根に出ると、だ、断崖絶壁 (@_@;)

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採石か採土の為に切り通された崖になっていました。
かろうじて頂上の方向石が残っている状態。
ここまで近づくのが限度…。

c0222861_22363368.jpg

船石というのかも知れないけど、組んだ石に違いありません。
どこか、方向を示す強固な意志を感じます。
本来はこれを中心に磐座があったのだろうけど、もう全容は分かりません。

そこで思い出したのは、この近くに[後野神ノ前遺跡]という磐境祭祀跡がある事です。

c0222861_22365926.jpg

これは町で貰える冊子『那珂川町の文化財』の一部。
左上の写真は何気ない岩の集まり見えるけど、祭祀場です。
左下の土器群は岩のすぐ近くで出土したもの。
右の写真には、先程と似た石があります。

町の話によると、ここは大宰府のための祭祀場ではないかという説があるそうです。
これは面白い。

現在地はこの後野神ノ前遺跡から、さほど離れていません。

だから、現在地の岩の集まりが磐座だという可能性は充分で、
発掘すれば何か出るのではないだろうかと思いました。

後野神ノ前遺跡が大宰府鎮護の磐座説は魅力的ですが、
磐瀬宮のための祭祀場の可能性がないかなとも考えました。
そうすると、北西部に当たり、いい感じなのです。
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(龍頭遺跡群の近くが磐瀬宮推定地)

那珂川町の磐瀬宮説についての検証はまだ手つかずですが、
その近くの龍頭遺跡群ではこんな掘立遺跡が出ています。

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(町で貰える『那珂川町の古代・中世遺跡』より)

う~む。那珂川町は面白い。

そうして、頂上から下り始めると、巨大な岩盤が見えました。

c0222861_22384321.jpg

で、でかい。
これは御神体だったのだろうかと思ったのですが、祠らしきものは見当たりません。

この岩盤がどうしてこんな所にそそり立つのか、
思い出したのは阿蘇山の9万年前の大噴火です。
阿蘇山の火砕流がこの町まで流れて来たのを知ったのは
裂田溝(さくたのうなで)の所です。
(⇒ 裂田神社)
安徳台の特異な地形はその火砕流によるものですが、
これも同様にして出来たものではないかと思いました。

すると九州の各地で見た同様の岩盤が思い浮かんで来ました。

三郡山登山ルートの途中、あるいは熊本の山の中や
鹿児島の慈眼という名のついた公園でも、同じようなものがありました。
その成り立ちが不思議で仕方がなかったのですが、
今私の記憶の中でつながりました。

阿蘇山の大噴火による火砕流は九州を覆い尽くしたのです。
そして、山容が崩壊する時の地震で津波が起こり、
北アメリカの東海岸まで届いたというホピ族の言い伝え。

想像するだけで、寒くなる…。
(つづく)






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by lunabura | 2012-07-23 22:42 | 丸ノ口古墳公園・那珂川町 | Trackback | Comments(2)

丸ノ口古墳公園(3)白石古墳群・磐座と古墳の謎


丸ノ口古墳公園(3)
 白石古墳群
磐座と古墳の謎
 

さて、巨岩を久し振りに見て、満足して下りて行くと、あれ?
ここにも古墳がある。
いったいどうなっているのだ。
しかも、入口に扉が付いている。きっと重要なのだろう。

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開口しているなら覗かねば。

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格子の隙間から写真を撮ると、こんな石室。


さらに、もう一つ古墳があった。
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暗くて見えないので、写真を撮る。

c0222861_23105822.jpg

この石室はさっきのよりずっと強固に造られている。日拝塚古墳と見た目も近い。

ここは「白石古墳群」という事が案内板で分かったが、
もうどれがどうなのか、各古墳の名前が分からなくなってしまった。
6世紀の後半のものだそうだ。
Ⅲ群1号墳は入口の前にテラスを作って、土器を供えて、
その中には皮袋の形をした水筒のような土器もあったという。

いったい、この丸ノ口古墳公園はどんな構造になっている?
改めてイラストマップを取り出した。

c0222861_23113940.jpg

このマップを見ると、私は一番右の⑩からスタートして、
③-④ そして地図では木が書いてある所に登って②-①と移動したらしい。
マップの中で、赤い丸は移築したものという事だ。

c0222861_2312343.jpg

そうすると先程、足元にあったこの露出した石室は移築した物だろうか?
その長さは90センチほどで、最小のものらしい。
この日はこうして珍しい古墳公園に満足して帰宅の途についた。


今、振り返りながら、古墳と磐座の関係を考えた。
古墳群がとても見晴らしの良い所に造られて、
すぐ上の磐座が祭祀遺跡だとすると、気になる事が一つある。

それは何故、祭祀地に古墳を隣接して造ったのだろうかという問題だ。
古代では祭祀点と埋葬地は別にするのではないかという考えを私は持っている。
(忌宮神社で、仲哀天皇の殯斂地(ひんれんち)が太陽観測点ではないかと推測したのは、
思想的に禁忌を侵す事になるので、逆に隠す所にもって来いだったと考えたからだ。)

だから、磐座と古墳が至近距離だという事に疑問が残る。
イヤシロチにケガレが置かれるのだ。
 
幸いに築造の時期が分かっている。
6世紀後半という時代を考えると、磐井の乱後の混乱期だったろうと思われる。
この町でも古墳は小型化した。
古来の祭祀形態が排除される対象になった可能性だってゼロではない。

考えるに、この古墳群の被葬者は磐座を守り続けた一族ではないだろうか。
一族というイメージは、90センチという石室のサイズから生まれた。
90センチとすると、埋葬された子は2歳未満だったと思われる。
幼い子供の為に丁寧に石室を造る余力があったのだ。
しかし、「神ノ前」を離れられない。
そこでタブーを侵して、聖地に埋葬した。

そんな妄想が生れて来た。

「神ノ前」とか「後野」とかいう地名から、
ここはもっと広い範囲の祭祀圏があったのではないかと想像された。


たった一つの古墳群でこんな妄想を書く事が出来るのはブログならではだ。
これから先、いろいろと見て行く中で、自分の妄想を礎として、時には反省して
古代世界の再構築に向かいたい。


この那珂川町は古代の十字路の中心点だという評価がある。

c0222861_2313020.jpg

(町で貰える、『なかがわまちエコミュージアム』より)

西に行けば伊都国や末廬国へ。東に行けば大宰府。
北は袖の湊。南は吉野ヶ里。
古代のキーポイントを結ぶ立地だ。
大宰府がまだ湿地だった頃は、こちらの方が重要な地点だったに違いない。






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by lunabura | 2012-07-21 23:16 | 丸ノ口古墳公園・那珂川町 | Trackback | Comments(13)

百済と倭の奴国の前方後円墳の流れ


百済と倭の奴国の前方後円墳の流れ

日拝塚古墳のさきがけ
福岡県那珂川町

百済にある前方後円墳と北部九州との関わりについて、再開です。
ずっと前に石室が似ている春日市の日拝塚古墳を紹介し、
筑紫郡那珂川町ミリカローデンに行った所で中断していました。

石室の構造が百済の海南長鼓山古墳と春日市の日拝塚古墳が似ていたのですが、
一方、九州の前方後円墳の学会に出掛けて知ったのは、
京都(みやこ)郡苅田(かんだ)町の番塚古墳の石室も似ているという事でした。

そうすると、この三つの古墳はこんな位置関係になります。
c0222861_2355136.jpg


番塚古墳については下記へ(九州大学文学部考古学研究室)
http://www2.lit.kyushu-u.ac.jp/~kouko/banduka.htm


これは前掲の二つの石室。
c0222861_23555996.jpg



そして那珂川町で聞いたのは、日拝塚古墳は那珂川町の大王たちの古墳群からつながる事でした。
それが下の地図です。

c0222861_23562589.jpg

安徳大塚古墳→老司古墳(福岡市)→貝徳寺古墳→日拝塚古墳(春日市)の順です。

さて、今回はこれらの大王たちの古墳を時代順に辿りましょう。

1 安徳大塚古墳
c0222861_23565324.jpg

一番古いとされる古墳で裂田神社の近くにあります。(気が付かなかった~)
全長64m。濠を含めると81m。4世紀の後半。
発掘調査は行われていないのですが、葺き石と埴輪が確認されているそうです。
前方部が細くてきれいな形をしていますね。(小郡市の古墳を思い出します)

2 老司古墳

それから老司古墳。これは福岡市老司にあります。5世紀初頭です。
竪穴系横口式石室で、初期の横穴式古墳だそうです。
c0222861_2357297.jpg

石の大きさが随分違いますね。

画像出典 福岡市の文化財より 詳しくは下記へ
http://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/property/detail.php?ID=101539
三角縁神獣鏡を含む10面の鏡などが出土したという事で、首長墓と呼べるものだそうです。

3 貝徳寺古墳

c0222861_2358469.jpg

あの貝徳寺君ハニワが出土した古墳です。(やっぱり山本太郎く~ん)
すでに墳丘が削り取られていたために、存在そのものが知られていなかったとか。
昭和56年に調査されて全長54mの前方後円墳だという事が分かりました。
5世紀後半。
いかにも前方後円墳と言えるバランスの良い形をしています。

4 日拝塚古墳

これは過去記事へどうぞ。
日拝塚古墳(1)百済と倭国を結ぶ古墳 http://lunabura.exblog.jp/18056441/  
   (2)「ひはい」の由来 http://lunabura.exblog.jp/18063037/

町の話によると、那珂川町の古墳は磐井の乱以後小さくなって行き、
日拝塚古墳のあとは小さな前方後円墳が乱立するようになったそうです。

やはり、磐井の乱は福岡では大事件だったのですね。

さて、こんな話を聞いたら、そりゃあ現場に行きたい!
と、場所を尋ねると、一つは消滅し、一つは個人の所有地という事で見学は無理。

しかし食い下がって、なんとか見学できる古墳はないかと尋ねると、
丸ノ口古墳群を紹介されました。
これは、ブログでもどんどん紹介して下さいとのことです。
それは心強い。
という事で、レッツゴー。






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by lunabura | 2012-07-19 00:05 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Trackback | Comments(1)

宮地嶽神社・よみがえる筑紫舞


宮地嶽神社 7月
 よみがえる筑紫舞




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緑陰の美しい梅雨の宮地嶽神社。
3年前までは、ここで誰に祈っているのか、分かっていなかった。
ここは神功皇后が主祭神の宮だ。
正月に参拝する数十万人の人たちも殆どが誰に祈っているのか知らないだろう。

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主殿の裏につづく木漏れ日の中の参道を辿ると特異な地形に気づく。
山の斜面にいくつもの平地があって道がある。
ここは多くの古代人が代々営んでいた聖地なのだ。

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参道の奥の神社は古墳だ。
開口しているこの古墳は日本でも二番目の巨大さを誇る。
そこには抱えられないほど巨大な金銅製の頭椎(かぶつち)の太刀が埋納されていた。

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この提灯の紋は三階松。九州王朝の紋だという。

数年前、私はたまたま主祭殿の前で奉納されている舞を拝観した。
その中にコサックダンスのような動きの舞があった。
それがルソン足という事を知ったのは二年後だ。
筑紫舞だ。

かつて、この古墳の中で、その筑紫舞が菊村検校によって奉納された。
筑紫舞には被葬者の蘇りを祈る舞いが含まれていたという。
それを「棺の舞」という。
それが天皇家の血を引き継ぐともいわれる検校とどうつながるのだろうか。
まだ謎のままだ。

そしてこの光寿斎を支えた人の中に、もと光少年の祖母がいたという。
光少年はこの古墳の周りでムーダンの舞が奉納されたのも目撃している。
ムーダンは韓国から、舞手が名取になる時に舞を奉納しに来るのだという。

キャンプをしながら宮地嶽で奉納した後、名島神社でも奉納する。
どうして、韓国人がこの古墳を知っているのだろうか。
それも謎のままだ。

そんな話をしてくれた、もと光少年は亡くなる前に、もう一度私に会ってくれた。
「長い夢を見た。3000年前の夢だった。」

それは縄文人と弥生人の出会いの夢だったと言う。

「縄文人は滑稽な踊りを披露してくれた。
それを弥生人たちは見て笑ったね。音曲が演奏された。
弥生人の足元はサンダルだった。3000年後にまた会おうと約束した。」
それが今の時代の事だったのだろうか。

私はその時、ムーダンの存在について尋ねた。
どうして韓国人が宮地嶽不動神社の存在を知っているのかと。
もと光少年は答えた。

「つい最近、ムーダンの協会の人がパーティーをするからと呼ばれたけど、
行かなかった。その人の名前はなんだったかな。電話帳に載っているんだが。」
福岡にその協会(教会?)があるそうだが、わからず仕舞いになった。

筑紫舞の事をもう一度尋ねた。
「弟子が『棺(かん)の舞』を『神(かん)の舞』と曲げて解釈したから、私は証言を止めた。
古田武彦さんも話を聞きに、2,3度、来られたね。」
往時の筑紫舞の伝承者は池に身を投げたという。

私はその時点で筑紫舞は消滅したのかと思っていたのだが、
幸いな事に宮地嶽神社で、その舞が継承されていた。
神社の方にもいくつか伝えられていて、認可された舞だけを舞っているそうだ。

その舞を舞う浄見宮司から聞いた話では、
かつて春日大社で十年間奉職した時に担当したのが偶然にも舞だったと言う。
しかも舞っていたのは「細男(せいのう)の舞」で、これは白布を顔に付けて舞うものだ。
白布を顔に付けた神といえば、志賀海神社の神と同じだ。
それは安曇磯良(アントンイソラ)。

志賀海神社の阿曇宮司が数年前に急逝されたが、
宮地嶽神社は志賀海神社をお助けする立場にあるという。
海人族として深い縁があるのだ。

宮地嶽神社の浄見宮司は筑紫舞を舞うために
春日大社で舞をとことん身に付けさせられたのではないだろうか。
こうして神仕組みはまだ生きているのだと思った。

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名島神社でも筑紫舞が舞われたという。
それは二人で舞うものだったそうだ。
聖洲さんによると、衣裳を着せられると、神が乗り移ったかのように舞えるものだという。

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そして、恵蘇八幡宮でも筑紫舞を舞うように神示が降りたと電話があった。

それは伝承者がまだ他にもいたという事だ。
その人は引退していたのだが、子育ても終わって、時期が到来したという事らしい。
実際に舞われたのかどうかは分からない。

筑紫舞は蘇ろうとしている。
神仕組みが働いている。

これは私には救いだった。
私たちは神々に見捨てられていない。

今、日本は窮地に立っている。
私たちは国土を失うかもしれない。

かつて新羅と言われた浜にある古里原発と伊都国の横の玄海原発。
そして福島原発は危機に瀕しているのだ。

日本政府は原発を止めようとしない。
十数万人が首相官邸を取り囲んで大飯原発の再稼働を反対しても、
ニュース報道もされない日本になってしまった。

日本政府はガレキを拡散して、放射能で国土を汚染させる政策を取っている。
神々が造ったこの奇跡の列島を。

日本の神々はそれでも私たちを守ろうとしてくれている。
神々もまた私たちが必要なのだ。
人間の祈りと清らかな大地が。

筑紫舞が復活しようとしているのはその表れではないかと思った。
少なくとも私は勇気を得た。
まだ神々に見捨てられていない。

私たちは神々に応えられるだろうか。
私たちは大地なしには生きていけないのだ。






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※ コメント欄で、一時、西山村光寿斎を西村検校氏と間違えたと書いてしまいましたが、やはり西山村光寿斎氏でOKでした。
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by lunabura | 2012-07-15 12:09 | 宮地嶽神社と古墳・福津市 | Trackback | Comments(26)

大宰府コメント6 白村江の戦い

大宰府コメント6 白村江の戦い


さて、「倭国」と「日本国」について、白村江の戦い の話題になりました。


――ところでFさんが、
「白村江の戦いは、九州勢が戦ったのであって、近畿勢は九州勢を見殺しにした」と怒ってました。
これは倭国と日本国が連合軍だった事を示しているのではないかと思ったのですが。
いかがですか?


ここが一番わからないところです。
ハッキリ言って大和の軍勢は船いくさに不向きな印象が(遣唐使船の沈没率を見るにつけ) 私にはあるので、
筑紫の軍船で一緒に連れていってもらえたのかどうかが解らないのです。

白村江の戦い以降の航海術の未熟さを想うと
大和軍は自力で朝鮮半島まで軍勢を渡海させる能力がなかったと思うので。

白村江の戦いをwikiで調べると、
白村江の戦い
年月日:663年10月4日(天智天皇2年8月27日)-10月5日(8月28日)
場所:白村江(現: 錦江近郊)

結果:唐・新羅連合軍の勝利
交戦勢力:唐 新羅 vs倭国 百済遺民勢力

指揮官:劉仁軌、文武王
上毛野君稚子、阿倍比羅夫、扶余豊璋

戦力:唐軍 7,000人 唐船舶 170余隻 新羅軍 5,000人
倭国軍 :42,000人 倭国船舶 800余隻 百済軍 5,000人

損害: 唐・新羅連合 、不明(倭国・百済連合 軍の被害よりは小規模)
倭国・百済遺民軍 船舶 400隻、兵 10,000 人、馬 1,000頭

とあります。
後世に生きる私たちは歴史を知っているので
大唐帝国に倭国が負けて当たり前という印象を持ちやすいのですが、
戦略としては朝鮮戦争時にプサン近くまで攻められた韓国軍を救う為に
マッカーサーが北朝鮮軍を押し返すべく行った仁川上陸作戦と同じ発想です。
結果はコインの裏表でしたが・・・。

シビアに戦力を比較すれば、
唐と新羅の計12000人に対して、
倭と百済の計47000人の兵力です。

これだけの兵力差ですから、
倭国が4倍の兵力で唐・新羅連合軍に勝つ気満々だったことがうかがえます。
(結果は赤壁の戦いのように火計で大敗でした・・・)

上陸を無事に果たし、制海権さえ失わなければ、日清戦争のように
互角以上の戦いができたはずです。逆にいうと、これだけの兵力を失った訳ですから、
筑紫王朝が傾くのもうなずけます。

問題は、この倭軍の中にどれだけの大和軍が編入されていたのかが解らないのです。

c0222861_23451211.jpg


大和軍は船戦は不得手でも、上陸してしまえば帰国の船は筑紫水軍が乗船させないかぎり
死ぬまで半島で陸戦を続けるしかないでしょうから、
生殺与奪の権を握る筑紫勢としては、陸の戦働きとしての大和勢は(海上はともかく)
陸上戦力として十分期待できる存在となるのです。

ただ、下手をすれば海の向こうで見殺しもあり得ると解っている大和勢が、
帰路の保証のない渡海軍船にどれだけ乗ったかどうか。
大和勢として絶対に乗りたくない船でしょうから、
あとは、筑紫と大和の力関係で決まる筈です。

豊臣秀吉の朝鮮出兵の折に、渡海を拒んだ徳川家康ほどの力を
当時の大和政権が持っていたかどうかにかかってきます。

私は、おそらく大和の軍勢は筑紫の軍船に乗らなかったと考えます。

そして、白村江の戦い以後に、朝鮮半島に軍勢を送らなかった東軍・大和勢と、
半島侵攻に失敗した西軍・倭国との間に 古代の関ケ原的な戦いがあり
雌雄を決したものと推察します。

ですから、 白村江の戦いは九州勢のみが戦ったのであって、近畿勢が見殺しにしたというよりも、

①近畿勢は自分の身を守る為に渡海の船に乗らず(たぶん、断るだけの発言力はあった。※ちょっぴり自信がありませんが。)
②結果、筑紫勢が敗れた。
③近畿勢としては不敗の筑紫が敗れたことは予想外だったが、このチャンスを最大限に活かすことした。
④古代の関ケ原的な戦闘の後に、
⑤筑紫の国譲りが強制された。
⑥王城神社が大城山より移転し、
⑦恵比寿像を太宰府で見掛ける今に至る。

これが私の推察というか妄想ですが如何でしょうか。



いやあ、ダイナミックに戦況を説明して下さってありがとうございます。
この辺りは全く不得手だったので、有り難いです。

船の問題は謎解きの手掛かりになりそうですね。
瀬戸内海で活躍する住吉族の船は玄界灘を越えるようには出来ていなかったでしょうし、
玄海灘の海の道を知らないので、近畿勢が具体的にどう軍備をしたのか、
面白い課題ですね。

天武天皇が宗像徳善の娘を娶ったのも、手掛かりになりそうです。

以上、きりんさんと、るな のやりとりでした。
私信ではありますが公開して、皆さんのアドバイスを期待したいと思います。







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by lunabura | 2012-07-14 00:01 | コメントまとめ | Trackback | Comments(0)

大宰府コメント5 王城神社

大宰府コメント5 王城神社

前回は、那珂川町の磐瀬宮説を紹介しました。
磐瀬宮の捜索は福岡ではまだ本格的に成されていない印象を受けます。

時々見かける福岡市の高宮説は、理由は「高宮」という地名だからと聞きます。
伝承が見当たらないのでターゲットから、はずしています。

ところが最近、神社誌を見ていたら、中間市の岩瀬に磐瀬宮の伝承が出て来ました。
斉明天皇たちの名前もちらほら出て来ます。
さっそく調査にいったけど、まだ行き着いていません。
この場所は交通の要衝で、斉明天皇たちが通過した可能性があります。

というのも、仲哀天皇と神功皇后の移動ルートでもあるからです。
古代では安全に通れるルートがいくつもあった訳ではありません。
斉明天皇は物部氏の管理するルートを通った可能性が充分にあります。

この女帝は、かつて新羅に勝った神功皇后の業績にあやかろうとする周囲に
振り回されたんではないかと想像しています。
そして戦勝祈願のために神功皇后の旧跡を訪れて祈ったりしています。

神功皇后もまた仲哀軍に取り込まれて戦争に巻き込まれて行った皇后です。
そして彼女もまた神武天皇などの旧跡で戦勝祈願をしています。
困難に立ち向かう時、祖先の加護を祈らずにはいられなかったのは古今一緒です。

こうして、福岡には神武天皇と神功皇后、斉明天皇と、伝承が重なり合う所がいくつかあります。

中間市岩瀬の磐瀬宮は奴国ではないので、対象外かも知れませんが、
いずれは訪れたいと思っています。

そして、きりんさんとの次のやりとりは、まだ磐瀬宮について、
那珂川町なのか、中間市なのか迷っている時でした。



―― 中間市に岩瀬という地名があって、そこに磐瀬宮の伝承があります。
調査にいったけど、まだ行き当たっていません。
この場所は交通の要衝で、斉明天皇たちが留まった可能性は十分にあるのですが。

中間市に磐瀬宮があるとすると、きりんさんの説と矛盾する所がありますか?
それとも、補強する事になりますか?

また、物部の末裔の眞鍋氏は那珂川町の梶原に磐瀬宮があって、
新羅の地震で倒壊したと言っています。ここだと、大宰府を睨む事ができます。

今、私は二つの説の間でゆれているのです。


大宰府の周辺しか調べていないので外がよくわからないのですが、(筑紫城については)
太宰府市の榎社のいう神社の西200メートル隣り(太宰府市の通古賀地区の小字扇屋敷)に、
王城神社という神社があります。
「扇=王城」という地名で残っているようですが、キビシイですかね。



王城神社はマークしています。神武天皇の伝承がある所ですね。
そうか。地図でよく見てみます。

地図 王城神社



王城神社のある通古賀地区 ですが、
通古賀(とおのこが)の「古賀=国衙」ではないかという説を効いたことがあります。

と思ってwikiで見たらちゃんと載ってました。便利な時代ですね。
王城神社
王城神社(おうぎじんじゃ)は、福岡県太宰府市にある神社。
祭神は事代主神(ことしろぬしの みこと)。末社に早馬(はゆま)神社がある。
○歴史
王城神社縁起(江戸時代寛政年間)によれば、神武天皇四王寺山(王城山、大野山)に城を築いた際に、山中に武甕槌命(みかづちのみこと)と事代主命をまつったことに由来するとされる。

その後665年、大野城築城に際し、現在の太宰府市通古賀の地に遷されたとされる。
本社の所在地である太宰府市通古賀(※地元の人は「コッカ」と発音)に筑前国衙(コッカ)が 存在したとの説が古くからあり(筑前国続風土記 拾遺等)、国衙の存在を推定させるものとして、本社横の王城館の前に礎石が残されている。
これらのことから、本社は筑前国衙鎮守のような位置づけであったとも考えられている。

・・・というわけで、王城神社の伝承では、
天智天皇による大野城築城とある日本書紀の記述よりも遥かに古い神武天皇の御代から
大野城山には城があったとあります。

ここで、意味深なのが、王城神社の祭神が、事代主(ことしろぬし)だという点です。
日本神話に登場する事代主は、大国主の息子で、あの有名な出雲の国譲り神話で登場してきます。
葦原中国平定において、タケミカヅチらが大国主に対し国譲りを迫ると、大国主は美保ヶ崎で漁をしている息子の事代主が答えると言った。そこで タケミカヅチが美保ヶ崎へ行き事代主に国譲りを迫ると、事代主は「承知した」と答えた。

とあります。王城神社の伝承から、なんだか、大和政権から
筑紫の国譲りを強制させられたような香りがするのは私だけでしょうか。

事代主は国譲り神話において釣りをしていたことから釣り好きとされ、
海と関係の深い「えびす」と同一視され、海の神、商業の神としても信仰されました。
七福神の中のえびすが大鯛を小脇に抱え釣竿を持っているのは、
国譲り神話における このエピソードによるものです。

内陸部にあるわりには太宰府では道祖神のように、
ちょくちょく恵比寿さんを見かけて変だなぁと思っていたのですが、
王城神社の伝承を知ってからは恵比寿さんの石像を見掛けるにつけ、
かつてこの地で歴史書にも記されなかった国譲りがあり、
往時を偲び先君を慕う民草が、事代主に筑紫王を重ね合わせ崇め、
やがて恵比寿像を彫り敬い奉ったのかなぁと想うようになりました。



さて、このやりとりについてですが、
王城神社について、昨年2~3人の方から立て続けに、その名を聞きました。
神武天皇に関わる神社で、縁起が残っているそうです。
この研究は大宰府の原型を調べるのに興味深い資料なので、いずれじっくりと調べる予定です。

神武天皇の伝承も調査してほしいとコメントをいただきました。
先日、遠賀川流域の神武天皇の伝承のある神社を少しまとめて記事にしましたが、
西に向かうと、宗像市赤間の八所宮、福津市の神武神社、古賀市の熊野神社
と出て来ます。
(神社名が曖昧なので、こっそり訂正するかも。)

大宰府市に神武天皇の伝承があるのは、大変興味深いですね。

福岡における出雲も更に古い地層に眠っているので、少しずつ明らかになればと思っています。

(つづく)







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by lunabura | 2012-07-13 11:00 | コメントまとめ | Trackback | Comments(0)

大宰府コメント4 大宰別府・筑紫城・磐瀬宮・広庭宮

大宰府コメントまとめ4 大宰別府・筑紫城・磐瀬宮・広庭宮

きりんさんのコメントの中に、私が抱えていた疑問を解くヒントがありました。

それは「大宰別府」の存在の謎です。

久留米市の「赤司八幡宮大宰別府」だという伝承があります。
(⇒ サイドバー 赤司八幡宮・あかじ)
これは大宰府の研究に欠かせないものだと注目していました。

その場所は筑後川の中流域のど真ん中。
三方向の川の流れを掌握できる所にあります。
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高良山なども見渡せるので、狼煙を上げれば通信も容易です。

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(赤司宮の近くの筑後川から見える耳納連山~高良山)

大宰別府はどうしてここにあるのだろうかとずっと考えていました。
「大宰府」では北から入ってくる外国船を受け入れるので、
「大宰別府」の方は有明海方面からの船を受け入れる関門だったのだろうか
と考えていましたが、まだ漠然としていました。
二府の範囲がとても広いからです。

北の守りが大宰府で、南の守りが大宰別府だとすると、その間に守るべき重要な場所がある。
それが倭国の王城だろうか。

九州王朝の王城を大宰府の中に求める方もあるようですが、
鴻盧館がツイン館で異国からの病気の侵入を防ぐシステムになっている事を考えると、
大宰府は大型船の乗り入れを受け入れる行政区でありながら、
外敵の、王城への侵入を防ぐ防衛地でもあったのではないかと考えています。

それを裏付けるように、大宰府の中で一般に指摘される場所を王宮殿とするには
狭すぎるという論文をどこかで読みました。

私たちは平安京などを見て、王宮殿が中心の奥にあるイメージを持っていますが、
高句麗や百済・新羅などには山城の麓に
王宮殿と政治区画を分けて造ったものがあります。
このタイプが倭でも当てはまるのではないかと考えたのです。

それでは王城はどこか。
大宰府と大宰別府の間に探してみました。

c0222861_10253787.jpg

上図の赤い丸で囲んだのが大宰府大宰別府です。
年に何度も起こる洪水を考えると立地は丘陵地でないといけません。

一方で中国の『新唐書』を調べると「日本国」の使者は、
「国王は32代、筑紫城に住んでいて、神武から大和州に遷った」と言っています。

該当する場所に筑紫城を探すと、筑紫神社がありました。
その裏手には筑紫城という山城があるそうです。
そこで当然、これからのターゲットになるのですが、筑紫神社は「筑紫の国魂を祀る宮」です。

そこで思い出すのが「筑紫の国魂がおわす宮」で、それは高良玉垂宮です。
高良玉垂宮におわす国魂と、それを拝する筑紫神社という構図が出て来ます。

のちに菅原道真が大宰府に左遷されたのですが、その間に高良玉垂宮の下宮社の近くに参拝しています。
その時、わざわざ袴に着替えたという事から、そこは袴着天満宮と名前が付きました。
(⇒袴着天満宮・はかまぎ)
それほど、重要な聖地が高良玉垂宮なのです。

そうすると「大宰別府」の性格は高良玉垂宮の出先機関なのかもしれません。

「大宰府」が本府で「大宰別府」が別府だと思っていたのですが、
そうではなくて、「大宰別府」とは「特別府=本府」という可能性が出て来ました。

大宰府の陸地が安定するのが、大宰別府より後だという点からも、
古い時代の中枢は久留米市の高良玉垂宮と考えられます。
(先日大宰府で木簡が出土した所は、まだ川岸だった。)


さて、もう一つ謎があります。
それは朝倉橘広庭宮が朝倉にある必然性です。

斉明天皇の宮殿として突貫工事をしたという宮ですが、場所が特定されていません。
先程の地図に朝倉宮と書いてあるのが、朝倉の橘の広庭宮の推定地です。
ところが誰が見ても、唐・新羅と戦うには引っ込み過ぎです。

そこで「倭国対日本国」という二大勢力が福岡で対峙したと考えると、
倭国の中枢をはずした所に宮を造営している事になります。
(対峙すると言っても、微妙な住み分けの可能性がある)


この情景を理解するには、もう一つ謎の宮・磐瀬宮を抑える必要があります。

先程の地図の左上に紫で「磐瀬宮?」と書いたのは、那珂川町梶原の柱穴群跡です。
ここは真鍋大覚氏の説明による推定地です。

斉明天皇たちがやって来る直前に新羅で大地震があって、
那珂川町まで津波が襲って建物群が倒壊したそうです。
年代から考えて、この建物群の磐瀬宮だと推定しています。

この説に従うと、斉明天皇たちが一旦、那珂川町を目指してやって来たけど、
津波で崩壊していたので、どこかに仮宮を建造せねばならなくなった。
そこで朝倉に白羽の矢が当たったと考えられます。
しかし、二つの宮の離れ方が尋常ではないので不思議に思っていました。


そこで、これまで考察したように
高良玉垂宮~大宰別府~大宰府のあいだに倭国の中枢があるとなると、
倭国が日本国の天皇たちに仮宮の造営地を斡旋する時に、自国の中枢をはずして、
かつ目が届いて防衛しやすい朝倉を選んだという必然性が生まれて来ます。

倭国の王が唐に捉えられてしまったために、筑紫城は日本国に無血開城され、
対唐戦略として「大宰府」の方がメインになって行った。

今のところ、そんな流れを思い浮かべました。

(つづく)







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by lunabura | 2012-07-12 10:27 | コメントまとめ | Trackback | Comments(5)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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