ひもろぎ逍遥

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荒船神社(1)阿志岐山城の麓の宮


荒船神社(1)
福岡県筑紫野市阿志岐手原1051
阿志岐山城の麓の宮

♪ 思いすごしも恋 それでもいい 今のうち~ ♫
そんなサザンの歌ではないけど、今回は勘違いからスタート。

この荒船神社の存在はくるま座さんから聞いたのですが、
私は彼の話を聞いて、これは船着場だと勝手に思い込んだのです。

そして行ってみてびっくり。
国道35号線を曲がると私があれほど撮りたかった宝満山のビューポイントがありました。
宝満山が見事な神奈備山に見える所だったのです。
車を止めて見回すと360度の展望に興奮。まずはご覧あれ。
ここは阿志岐(あしき)なのです。

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中央が宝満山(829m)。
宝満山御笠山とも呼ばれるので、「御笠の山に昇る月かな」と洒落てみたいけど、
残念ながら真北なので、月は昇りません。

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これは西~南西の方向。夕陽が沈む方向です。
左から基山?中央の奥が背振山。右手前が天拝山?
(地図を見ながら当てはめました。違ってたら教えてね。)

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そして、これが東。宮地岳です。
そう。最近ニュースになった阿志岐山城がある山です。
かつてはこの山も御笠山と呼ばれていた証拠がくるま座さんの地道な研究で3つほど見つかりました。

この山は場所によっては三角錐の神奈備型に見えるのですが、現地ではそうは見えませんでした。

そして今日、目指す荒船神社はこの宮地岳の右端です。
銀色の三角屋根がキラキラと見えているのが分かりますか。

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車に戻って道なりに進むと橋に出ました。宝満川です。
ここで散歩している人に神社を教えて貰いました。
ここからも銀色の三角屋根が見えています。
橋を渡って右折してすぐのはずですが、鳥居が道沿いに無いので、
行き過ぎてしまい、往復するうちに、ある角度から鳥居が見えて、やっと行き着きました。
民家の庭を通って行きます。これしか道はありません。

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正面に廻り込むと、いかにも古社の風情。

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扁額に荒船神社と書いてありました。明治時代の築造です。

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石段は急です。

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石畳がいい味を醸し出しています。

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拝殿に上がって参拝しました。
ところが御祭神が分かりません。

いつもの『福岡県神社誌』を見るけど、掲載されていません。
こんなの初めて…。
資料館に行って、筑紫野市史を見たのですが、不明神だと言う事が分かりました。
荒船社(阿志岐)
阿志岐の宝満川沿いの小高い丘の上にある。『続風土記付録』によれば、この社があるところはヤクジンモリ(疫神森)と呼ばれていた。側を流れる川を当時は「あら舟川」といい、そこから荒船社と名付けられたようであるが、地名から推測するに本来疫神を祀った社であったと思われる。

もともと疫神は治病、あるいは災害防除の神として祀られる例が多く、はやり病などに効く神として信仰されている。現在地元では牛馬の神として信仰されており、疫神としての性格は伝えられていないが、明治時代には雨乞いに効く神とされ祈願に訪れる参詣者が多かったそうであり、災害防除としての疫神の性格を窺い知ることが出来る。

念の為にくるま座さんにもう一度確認。
1月15日近くのどんと焼きの祭の時に氏子さんに尋ねたそうです。
今の若いもんは信じないだろうが、唐の船が行ったり来たりした。
江戸時代まで疫神社だったが明治になって本来の荒船神社に戻った。
下を流れる宝満川をエキジンフチと呼んでいた。

この時点で、船着場だというのは私の勘違いだと判明しました。

それにしても…「唐の船が通った」とは。
赤司八幡神社でも全く同じ言葉を聞いた事を思い出したのです。

もっと具体的に何か分からないだろうか。
そう思うのですが、行き止まりです。

それでも、シンクロニシティーの神は私に微笑んでくれました。
(つづく)


地図 阿志岐 荒船神社








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by lunabura | 2012-08-30 23:54 | 神社(ア) | Trackback | Comments(11)

審神者神社(2)磐境神籬の跡だろうか


審神者神社(2)
さにわ
磐境神籬の跡だろうか

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仲哀天皇の死を知る少数の側近の一人だった中臣烏賊津使主
審神者のようすや祭祀の具体的な話を書紀や神社伝承で前回確認しましたが、
彼が久山町にどうして祀られているのかというと、
すぐ近くに斎宮(いつきのみや)があるからです。

旧糟屋郡には二つの斎宮がありますが、
小山田の斎宮(古賀市)で、天皇に死をもたらした神々の神託を受け、
この山田の斎宮(久山町)でその神々を祭祀したのだろうと私は結論付けています。

この久山町は香椎宮からは山を越えた所にあります。
ここに行くには川を遡るか、山を登っていくしか道がありません。
海に面した香椎宮と比較すると外敵に対して安全な場所です。
斎宮を中心として強固な守りをした事が黒男神社などに伝わっています。

新羅や熊襲、羽白熊鷲、夏羽の残党から守るのにふさわしい地形を選んで
皇宮の機能を移し、斎宮、聖母屋敷と呼ばれるようになったのではないかと考えています。
そしてここで盛大な払いと勝利祈願の祭祀が行われたとも。

この審神者神社はその斎宮から南西わずか200mの所にあります。
ですから烏賊津使主(いかつおみ)の祭祀場跡ではないかと考えました。
烏賊津使主が祀ったのはあの祟った神々のはず。

神殿の左の地面を見ると石積がありました。
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祠の周囲、後ろ半分、3~4メートル四方に見られます。
この石のサイズを見て、北九州市の一の宮神社の磐境神籬を思い出しました。
それは神武天皇の祭祀あとの神籬で、丸と四角で出来ていました。
仲哀天皇と神功皇后もその神籬(ひもろぎ)を訪れています。

もしかしたら烏賊津使主もそれに倣って、同じような磐境を作ったのではないか。
ふとそんな想像もしたのですが、
いや、地元に石を積んで祈る風習でもあったのではないかと思い直したりもしました。
あるいは宇美八幡宮のように、安産を祈って石を奉納したのか。

大正時代までは勝負の神として子供たちがリレーの必勝を祈願したという事なので、
安産の祈願ではないようです。

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小さな境内ですが、植物相が大変豊かで、木漏れ日が神秘的です。


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これは審神者神社の前の景色ですが、この田んぼは神田だと地元の方に教えて貰いました。
今話題にしている斎宮(いつきのみや)は伊勢の外宮と呼ばれています。
ですから豊受大神が祀られています。この神田はその神のためのものでしょうか。
ちなみに内宮は伊野天照皇大神宮です。


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稲の花が咲いていました。9月の初めには収穫されて祭典があるそうです。

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神田の右横に斎宮の御旅所がありました。
この神田には六所神社があったのですが、今は斎宮の方に合祀されています。
それについて案内版があるので書き写します。
六所宮跡(ろくしょぐうあと)
六所宮は慶長年間(16世紀末)までこの地に鎮座し、立派な社殿があったと伝えられています。

「筑前国続風土記拾遺」によると祭神は「伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冊尊(おざなみのみこと)・速玉男命(はやたまお)・豊受大神(とようけ)・瓊瓊杵尊(ににぎ)・カグツチ命。
現在、六所宮は六所大明神として斎宮の境内に祀られています。

斎宮に移された理由としては、天正年間に兵火に焼かれたからだとも、川のそばに立地し、洪水の心配があったからだともいわれています。六所宮が移された後のこの地は神田とされ、今でも六所(ろくしゅう)という地名が残っています。

江戸時代、黒田家は天照皇太神宮(伊野皇大神宮)を内宮と呼び、豊受大神を祀った六所宮を外宮として尊びました。

六代藩主・黒田継高(つぐたか)の時には、田虫除(たのむしよけ)として糟屋郡に一本だけ下賜(かし)された伊勢御田扇(いせおたおうぎ)が納められ、今も斎宮に大切に保管されています。
久山町誌によると、「祭神は
   熊野三所大神(イザナギ・イザナミ・スサノオ)・
   伊勢外宮皇大神(豊受大神)
   愛宕二座大権現(彦火出見尊・火緒神)
を祀る壮大な社殿で、天正14年、薩摩兵の兵火にかかって焼失」とあります。

祭神が微妙に変化しているようですが、
ここで気になるのは六所宮と審神者神社は向かい合っていて、
この間に建物を造ることが禁じられたという事です。
二社の間は100mほど。

審神者神社に祭祀者の烏賊津使主が祀られているなら、
六所宮の方にはその対象の神々が祀られているのではないかと期待したのですが
違っていました。

斎宮~審神者神社は当時から場所が変わっていないという点でも貴重な史跡で
古代の祭祀や皇宮の様子がもっと具体的に再現できる可能性があるなと思いました。

さて、烏賊津使主の姓は「中臣」です。
中臣氏は那珂郡にいて、北の星を観測していたと真鍋家では伝えています。
那珂の臣。ナカの臣。
烏賊津使主は那珂川町の出身なのでしょうか。

那珂川町の裂田溝の工事などを竹内宿禰に依頼したのはこの烏賊津使主だったのか。
そうすると、現人神社の住吉族とはどう関わるのだろう。
烏賊津使主は仲介者なのだろうか。

一つ知るたびに一つ謎が生まれます。



神功皇后は無事出産した後、短い期間、この斎宮に滞在します。

年が明けた2月に皇后の一行は百官百寮と共にショウケ越えをして
大分(だいぶ)宮(飯塚市)へ大移動します。
積雪の厳しい時の山越えです。
私は最初、ここで皇子が歩ける一歳になるまで滞在したのではないかと考えたのですが、
初めて立ったのは生立神社(おいたつ・みやこ郡)だと分かったので、
その考えを訂正しました。

さて、このブログもショウケ越えをして飯塚市へ移動したいのですが、
どうしても行ってみたい神社があります。
荒船神社です。次回はそちらへ。




地図 審神者神社 六所宮跡 斎宮 黒男神社




黒男神社(1)くろどんじんじゃ福岡県粕屋郡久山町
武渟川別命の子孫・阿部氏が武内宿禰を祀る宮 ここは古代の陣営あと
黒男神社(2)武内宿禰がすべてをかけて守ったもの
http://lunabura.exblog.jp/i69/


一宮神社 北九州市八幡西区山寺町
神武天皇の磐境神籬が現存していた ここは岡田の宮あと
http://lunabura.exblog.jp/17333319/


生立八幡神社 おいたつ・はちまんじんじゃ
福岡県京都郡みやこ町犀川生立7
皇子が皇后の膝に手をかけて立ち上がった
http://lunabura.exblog.jp/16756865/









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by lunabura | 2012-08-29 11:10 | (サ行)神社 | Trackback | Comments(8)

審神者神社(1)中臣烏賊津使主を祀る宮


審神者神社(1)
さにわ
福岡県粕屋郡久山町
中臣烏賊津使主を祀る宮 

あれ?夢だった?
審神者神社の映像が突然浮かびました。
ネットで探索したはずはないので、夢で見た映像だったのだろうか?
それは石の祠でした。「審神者神社」とくっきりと書かれています。
夢で見たとすると、これまでの経験上、現実とは微妙に違っています。
これは「行け」と言うサインだ。
という事で、グーグルで場所を確認して、出かけました。

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上山田公民館の裏側に廻り込むと細い参道の奥に在りました。
ここはかつて久山町主催のウォーキングで訪れた神社でした。
清らかな水が流れているのが印象深かった事を思い出しました。
今日も音を立てて豊かにきらきらと流れています。

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数坪の杜ですが、ここだけ木々がよく茂っています。
これで審神者神社のほぼ全体です。

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正面です。

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杜の中に入るとすぐに神殿です。
「審神者神社」と書いてあります。石祠ではありません。
しかし、あとで久山町誌を見ると、社殿は石祠と書いてありました。
木の扉の奥にあるのかも知れませんね。

御祭神は中臣烏賊津使主(なかとみのいかつおみ)です。
このブログでも何度か出て来たのですが、覚えていますか?

説明板があったので、書き写します。
審神者(さにわ)神社
『日本書紀』の神功(じんぐう)皇后紀には「皇后の祈願に際して中臣烏賊津使主(なかとみのいかつおみ)を喚(め)して審神者とす」とあります。

審神者とは神の神託を受けて、その意を伝える人のことです。中臣烏賊津使主をお祀(まつ)りしているため審神者神社の名がついています。おやしろさまともよばれています。

この神社は、慶長3年(1589)まで六所に社殿のあった六所大明神と向かいあっていました。両者の間に建物を建てることが禁じられていたと伝えられ、その言い伝えは現在も守られています。

中臣烏賊津使主(いかつおみ)。懐かしいですね。
彼の名前は仲哀天皇の崩御後に登場し始めます。
日本書紀を読んでみましょう。
仲哀9年春2月5日に、天皇は急に具合が悪くなり、翌日に崩御しました。おん年52歳でした。神の言葉を信じなかったために早く崩御したのでした。
(ある本には、天皇はみずから熊襲を攻撃して、敵の矢に当たって、亡くなったともいう。)

皇后と大臣の武内宿禰は天皇の崩御を隠して、天下に知らせませんでした。
皇后は大臣の武内宿禰と中臣の烏賊津の連(むらじ)、大三輪の大友主の君、物部のイクヒの連、大伴の武以(たけもつ)の連を召して、
「今、天下はまだ天皇の崩御を知らない。もし人民が知ったら、気を抜くのではないか。」
と言って、すぐに四人の大夫(たいふ)に命じて百寮を統率して、宮中を守らせました。

そして、ひそかに天皇の遺体を船に収めて、武内宿禰に海路を穴門まで送らせました。こうして、豊浦宮でモガリをしました。秘密にするために、火を灯しませんでした。これをホナシアガリと言います。

22日に大臣の武内宿禰は穴門から戻って来て、皇后に報告しました。この年は新羅の役のために天皇の葬儀は出来ませんでした。

天皇崩御後、中臣烏賊津使主は側近の会議のメンバーに入っています。
場所は福岡市の香椎宮です。現在地からは山を越えた所にあります。

戦意喪失を恐れた皇后たちは天皇の崩御を隠す事にしました。
そして、亡骸を下関市の忌宮神社の近くに仮埋葬します。
忌宮神社に行って見ると、その場所も残っていました。
(ただし、仲哀天皇の殯斂地(ひんれんち)は数カ所伝わっています。)

竹内宿禰が戻って来ると、天皇に祟った神を明らかにする事にしました。

仲哀天皇の生存中は天皇自身が琴を弾いて、神功皇后が神懸かりをして、
懸かった神がどんな神なのかを竹内宿禰が審神者していました。

しかし、琴を弾く天皇が崩御したので、その役目は竹内宿禰が代わり、
竹内宿禰の審神者役は中臣烏賊津使主がする事になりました。
烏賊津使主が審神者をする場面が日本書紀に書いてあるので、読みましょう。

仲哀9年、春2月に、仲哀天皇が筑紫の香椎宮で崩御された時、皇后は、天皇が神託に従わなかったために早く崩御された事に心を痛めて、考えました。祟っている神を明らかにして、神の勧める財宝の国を求めようと。

そこで群臣や百寮たちに命じて、国中の罪を払い清め、過ちを改めて、さらに斎宮を小山田の邑に作らせました。

3月の1日に皇后は吉日を選んで、斎宮に入って自ら神主となりました。その時には武内宿禰に命じて御琴を弾かせました。中臣の烏賊津(いかつ)の使主(おみ)を召して審神者(さにわ)としました。

そしてお供えの織り物をたくさん、御琴の頭と尾のところに供えて尋ねて言いました。
「先の日に天皇に教えられたのはどちらの神でしょうか。願わくは、その御名を教えて下さい。」と。
七日七夜経って、ようやくお答えになりました。

 神風の伊勢の国の度逢県(わたらいのあがた)の五十鈴の宮にまします神、名は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかき・いつのみたま・あまさかる・むかつひめのみこと)。」と。

烏賊津の使主がまた尋ねました。
「この神以外に他の神はいらっしゃいますか。」
お答えがありました。
「旗のように靡くススキの穂が出るように出た吾は、尾田の吾田節(あがたふし)の淡郡(あはのこほり)にいる神である。」と。

「他におられますか。」
「天事代虚事代玉櫛入彦厳之事代神(あめにことしろ・そらにことしろ・たまくしいりびこ・いつのことしろのかみ)有り。」

「他におられますか。」
「いるかいないか分からぬ。」
そこで、審神者が言うには、
「今答えずに、また後に出て来られることが有りますでしょうか。」
すると答えがあった。
「日向国の橘の小門の水底にいて、海草のように若やかに出てくる神、名は表筒男(うわつつのを)、中筒男(なかつつのを)、底筒男(そこつつのを)の神がおる。」と。

「他におられますか。」
「いるかいないか分からぬ。」
ついに他に神がいるとも言いませんでした。その時に神の言葉を得て、教えの通りにお祭りをしました。

それから後、皇后は吉備の臣の祖・鴨別(かものわけ)を遣わして、熊襲の国を攻撃させました。それほど経たない内に、熊襲はおのずから降服しました。

神功皇后の口を借りて神々が次々に名乗りを挙げます。
それを明らかにしたのが烏賊津使主です。

彼の名は福岡市の三苫の綿津見神社にも出て来ます。
昔、香椎宮の神幸のあった所である。神功皇后のご西征の時に神が助けたのを奉賛する風習が残ったのである。

中臣の鳥賊津臣命(いかつおみ)が西征に供奉して龍船が対馬府中を離れると、風雨がひどく風波が強くなった。その時に、鳥賊津臣命は海神に誓い、苫を三枚とって海底に沈めたところ、その霊験のおかげで風波が穏やかになった。

のちにその苫が流れついたところに社を建てた。これが三苫綿津見神社である。
(『ふる里のむかし』和白郷土史研究会)

この三枚の苫(ワラの敷物)にはそれぞれお供え物が載せられて、
祈願をしたのち、苫に包んで海に捧げたものが、福岡市の東区の海に流れ着いた事から三苫(みとま)という地名が生まれたという話です。

烏賊津使主が皇后の側近として祭祀を司ったようすがよく分かります。
(つづく)


仲哀天皇殯斂地 ちゅうあいてんのう・ひんれんち
山口県下関市長府侍町 隠した場所は太陽観測点だった?
http://lunabura.exblog.jp/16981055/


香椎宮(Ⅲ)天皇の崩御をどうやって隠す?
http://lunabura.exblog.jp/13196975/


綿津見神社(1)わたつみじんじゃ 福岡市東区三苫(みとま)
嵐を鎮めた海神たちを祀る宮
http://lunabura.exblog.jp/i89








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by lunabura | 2012-08-28 00:47 | (サ行)神社 | Trackback | Comments(10)

御手洗八幡宮・神功皇后は手を洗った


御手洗八幡宮
みたらい
福岡県糟屋郡志免町御手洗
神功皇后は手を洗った 

さて、前回の阿恵の日守八幡神社から御手洗八幡宮にやって来て驚きました。
そこはほんの一週間前に所用でこの傍を何度も往復した場所だったからです。
川に貼り付いたように鎮座するお宮の鳥居に見えていた「八幡宮」の字。
まさか、こうして参拝する事になろうとは。

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細い参道の左は道路です。フェンスの右側は川です。

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車から見えていたのはこの鳥居でした。

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縁とは不思議です。ここもまた神功皇后の足跡を伝える宮だとは。
細長い境内でも緑陰があると空気が違います。
拝殿の奥が窓になっていて、向こうの石祠を拝するようになっています。

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これが拝殿の後の神祠です。

御祭神は
応神天皇 神功皇后 玉依姫命
です。

説明板があったので、書き写します。
御手洗八幡宮
由緒
御手洗八幡宮は『筑前名所図絵』の亀山八幡宮を説示する処に、「別府枝村に御手洗と言う所あり。神功皇后が御手を洗い給いし所といふ。其の所に鎮め祀る神を弐所に崇め奉るなり」とあり。

又、『筑前国続風土記拾遺』には「亀山八幡宮は別府・御手洗両村の産土神なり…」とある。これらから推察すると御手洗八幡宮と亀山八幡宮とは同じ頃奉祭されたものと思われる。  (志免町誌より)

神功皇后が三韓より御帰還の砌(みぎり)、宇美にて応神天皇をご誕生の際、御手を洗い給いし土地故、八幡宮をお祀りしと言ふ。  (粕屋郡神社誌より)

(句読点などを補いました)
ここは神功皇后が出産の地に向かう途中、手を洗った所という故事により、
八幡宮を祀ったようです。

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境内から見える川が宇美川です。
皇后はまだ船だったのでしょうか。それとも輿だったのでしょうか。
前回の阿恵日守八幡神社から約1.3キロの所です。
川も須恵川筋から宇美川筋に変わっています。
プロットしようとしてみても、まっすぐではありません。
古代の旅は川があると、大変だった事でしょうね。

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細長い境内はあっという間に裏に出ました。
裏から撮った境内の全体です。
宮が川の土手にあって、道路が境内を迂回して通っている珍しい光景です。


地図 御手洗八幡宮





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by lunabura | 2012-08-24 21:09 | (マ行)神社 | Trackback | Comments(0)

日守八幡神社・もう一つの日守伝承地


日守八幡神社
(阿恵日守八幡宮)
あえ・ひまもり
福岡県粕屋町大字阿恵天神森288
もう一つの日守伝承地

かつて「日守神社」を紹介しました。
神功皇后の伝承があるという事で紹介したのですが、
コメントでShrinePriestさんから、
もう一つ、日守八幡神社がある事を教えていただきました。
二つの日守神社があったんだ。 
早速出かけたのですが、記事にするのはずいぶん遅くなりました。

地図を見ると福岡篠栗線607号線から北に入った所で、簡単に見えましたが、
行ってみると道幅が狭く、くねっているような昔ながらの道沿いで、
キョロキョロしながら探しました。

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珍しく石段がない宮です。この角度から境内のほぼ全体が撮れました。
楠の巨木が歴史をしのばせます。

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鳥居の正面に対して、道路が斜めに走っています。

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扁額には「八幡宮」とだけ書かれています。

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拝殿です。御祭神は応神天皇と神功皇后と菅原神です。

由緒について、戴いたコメントから抜き出します。
追記となりますが、「日守八幡神社」の由緒ですが、
御祭神:応神天皇 神功皇后 菅原神
由緒:神功皇后三韓征伐の砌(みぎり)、宇美にて御生の際、此の地に暫く駐輦(ちゅうれん)、何事ならんかと日を守り給いしより、字(あざ)の名を「日守」(ひまもり)と云い、「日守石」もあり創建せられしお社にて、後篠栗線の横断に依り天神森に移築。天満宮と合祀す。(明治四十三年六月三日)
上記のデータは昭和四十一年に当時、糟屋郡篠栗町のとある神社の宮司さんによって編輯された「粕屋郡神社誌」よりの抜粋です。
(句読点、読み仮名を追加しました。)
内容をまとめると、
神功皇后の三韓征伐の時、宇美で出産する際、ここでしばらく乗り物が留まったので、「どうしたのだろうか」と日を見守られた事から、字(あざ)の名が「日守」(ひまもり)となった。「日守石」もある。この縁で創建されたお社だが、後にJR篠栗線が横断したので、この天神森に移築して天満宮と合祀した。

という事です。
この宮は移築されたものなのですね。
地図を見るとJR篠栗線はすぐそばなので、それほどの距離ではないと思われます。

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境内にあるこの石碑はその事情を書かれたものでした。


「日守石」を探しました。
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楠の根元に石があるのを見つけたぐらいで、他には見当たりませんでした。

石を観察すると、左の二つはドルメン石のようです。近くで出土したものでしょうか。
右の方の半分土に埋まっている石がそれらしいのですが、よく分かりません。
これまでの逍遥で各社で見た神功皇后の腰掛石とは違って、立っています。
石碑なのかな…。
ShrinePriestさんがまたブログ訪問してくれて、教えていただけたら嬉しいのですが。

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これは本殿の横にあった石祠です。
梅の紋なので、これが合祀される前からの道真公の神祠でしょうか。
不思議な事に、八幡神社の社殿と反対向きになっています。
しかも扉が開かないように固めてあります。
どうやって祭祀するのだろうと謎が残りました。

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これは神殿の後から撮ってみたものです。
社殿の右に楠があって、その根元に石があり、その手前に梅紋の石祠です。
位置関係が分かりますか?
移築した時に、それぞれの神社の方向を大事にした為に、
こうして互い違いなのかなとも思ったのですが、どうなのでしょうか。

日守神社と日守八幡神社は須恵川を挟んでいました。
その距離はわずか500mほど。
日守(ひまもり)には夷守(ひなもり)駅があり、万葉時代の交通の要衝でした。
(万葉歌人については日守神社の方に書いています。)
船着場があって、この一帯が「日守」と呼ばれていたのでしょうか。

神功皇后がここを通過したことを忘れずに人々が自分たちの村で祀ったために
こうして「日守八幡神社」「日守神社」の二か所に伝承が残ったのでしょうか。
「八幡」がついた当社が祭祀の中心だったと思われました。

ここに来た時は神功皇后はお産が間近で、急ぐ旅でした。
見知らぬ土地で、不安だったでしょう。
輿に乗っていました。
香椎宮からの女官たちも大勢いたはずで、通過地点の護衛も大変だった事でしょう。
地元の志免町(しめまち)のHPでは、
香椎宮で産所を占ったように書いてあります。
確かに、当時は吉の地を鹿の骨や亀の甲羅で占った可能性はありますね。

志免町公式hp
方ヶ島【ほうがしま】
http://www.town.shime.lg.jp/site/bunkazai/mukashi-hougashima.html


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Shrine priest さん、コメントありがとうございました。
訂正や補足があれば、是非コメントを寄せて下さい。

蛇足
それにしても、「阿恵」(あえ)という地名が気になります。
阿恵とは「北」という意味です。
そうすると、その南に中心部があるはずです。
地図を見るとすぐ南は別府でした。
別府があるなら、更に本府があるのではないでしょうか。

別府の南を見ると、弥生銀座を抱える丘陵地帯があります。
奴国の王たちがいたと言われる所です。

あれ?
そう言えば、「地名から那国本宮の地が推定された」記事を書いたぞ。

王子八幡宮・竈門神社
福岡県粕屋郡志免町南里宝満山
地名から推測された那国本宮の地
応神天皇出生地であり、玉依姫の陵墓なのか? 
http://lunabura.exblog.jp/16413004/

そうそう、これこれ。

また、次の記事は、神功皇后の駕籠を担いだ人たちの伝承地です。

駕輿八幡神社
神功皇后が休息した宮
(駕輿丁―かよいちょうー宝輦を担いだ人たち)
http://lunabura.exblog.jp/13304380/


ここは神功皇后の伝承の密集地帯です。
次回は御手洗八幡宮に行ってみましょう。


地図 阿恵日守八幡宮






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by lunabura | 2012-08-22 21:13 | 日守神社・ひまもり・粕屋郡 | Trackback | Comments(14)

三階松紋・九州王朝の紋なら倭国の紋になるが


三階松紋
九州王朝の紋なら倭国の紋になるが


「三階松」は九州王朝の紋だと奈東さんから聞きました。
それ以来、気をつけて見るようになったのですが、今の所4社ほど出会いました。
そこで、今回は「三階松紋の神社」のリンク集です。

九州王朝と言うのは、『旧唐書』から「倭国」の事だと分かったので、
「三階松紋」が「九州王朝の紋」だとすると「倭国の紋」となります。
4社だけでも、その分布は広いぞ。

次の二つは「倭国」と「日本国」の併存にびっくりした記事です。

百済の前方後円墳(5)
中国正史に「倭国」と「日本」 二つの王朝が書いてある…
まずは『旧唐書』倭国伝を読んでみよう
http://lunabura.exblog.jp/18002412/


百済の前方後円墳(6)
『旧唐書』日本伝
日本国の成り立ちと不思議な白亀年号
http://lunabura.exblog.jp/18039316/


それでは神社へまいりましょう。

宮地嶽神社の三階松

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(奥の院の宮地嶽古墳に三階松の紋が。)
宮地嶽神社(5)福岡県福津市宮地嶽神社内 奥の宮不動神社(1)
地下の正倉院と呼ばれる巨大古墳
金メッキの頭椎の太刀は3m-どうやって持つのよ?
http://lunabura.exblog.jp/14559788/


その古墳の大きさは日本で第2位。出土した金銅製の頭椎の太刀は3m以上。
それらの副葬品が何故か古墳の外から出土したという謎があったのですが、
古墳か開口してから、修験者によって、丁寧に外に出されたのが分かりました。
出土が伏せられたのは治安維持法などの抵触を恐れての事だったようです。

宮地嶽古墳
副葬品が外にあったのは何故?出土状況が明らかに
http://lunabura.exblog.jp/16668863/


古墳の羨道を照らす提灯は三階松紋。
被葬者については神社側は磐井の君の一族として祭祀しています。
(通説の宗像徳善ではない。)

これと同じ構造で小規模な手光波切不動古墳が近くにあり、
最近金銅製馬具が出土したので発掘調査中です。
古墳内は祠があったので、やはり副葬品を横にどけていた可能性もあります。

昔はこの手光波切不動古墳を先に参拝してから
宮地嶽不動古墳に参拝するのが順だったという光さんの証言があります。

発掘前に撮った写真を次に載せています。

手光波切不動古墳 てびか・なみきり・ふどう福岡県福津市手光
ここからも金銅製の馬具が出土した
http://lunabura.exblog.jp/17700982/

この二つの古墳は地元の竹内家が祀り続けたそうです。


この近辺の丘陵地帯は古墳の大密集地帯で、蛇行鉄器が出土しています。

謎の蛇行鉄器
高句麗―伽耶―倭をつなぐもの
http://lunabura.exblog.jp/15011135/




高良下宮社の三階松

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(拝殿を見上げると三階松が)

高良下宮社(1)久留米市御井町 ここも御祭神に異伝あり
http://lunabura.exblog.jp/16198176/


高良下宮社(2)暗号に満ちた社殿 崩落し始めた屋根を守ってください
http://lunabura.exblog.jp/16206942/


祭神が変化していますが、竹内宿禰の名前もあります。


壱岐神社の三階松
竹内宿禰の身代りになって亡くなった壱岐真根子を祀る神社です。
生(いき)の松原の中にあります。

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壱岐神社 福岡市西区下山門1―9-3 壱岐真根子を祀る宮
九州王朝の三階松があった
http://lunabura.exblog.jp/17484337/






松崎天満稲荷神社の三階松

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小郡市飛鳥(ひちょう)の近くの宮です。
三階松と梅です。
梅は菅原道真の関係でしょうか。

まだブログでは記事にしていません。とんでもないものがあります。
もう一度取材に行ってきます。いずれじっくりと。

こうやって並べてみると、竹内宿禰の名前が3社に出て来ますね。
想定外だった。






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by lunabura | 2012-08-20 10:24 | 三階松紋(九州王朝) | Trackback | Comments(20)

安曇磯良・アントンイソラ・シリウスの化身


安曇磯良
アントンイソラ
シリウスの化身 

志賀海神社の御縁で再会した旧友に、今日ゆっくりと会って来ました。
御土産に御祭神の安曇磯良の記事を持って行きました。

安曇磯良(あずみのいそら)は、神功皇后を船に乗せた縁で福岡の各地に祀られています。

そこで安曇磯良の過去記事のリンク表を作りました。
既に読んだ方も多いと思いますが、時系列を追って読み直すと
筑紫の古代がまた違う角度で見えて来ると思います。

志賀海神社 (しかうみじんじゃ)
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元宮のある小戸―ここで神々が生まれた

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鞨鼓の舞 (かっこのまいー境内にあった御神幸祭の写真)


志賀海神社(7)安曇磯良・アントンイソラ
http://lunabura.exblog.jp/17635971/




志式神社(ししきじんじゃ)

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竹内宿禰に頼まれて干珠満珠を海神に貰いに行くが…
この宮だけに伝わる神楽の演目 磯良舞

志式神社 (Ⅲ) 夜神楽を見て来ました。
「早魚舞(はやままい)」―乙太夫の天神尋ね
http://lunabura.exblog.jp/13063172/





風浪宮 (ふうろうぐう)

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本殿にある磯良像

風浪宮(1)たらしーおきながたらし
http://lunabura.exblog.jp/16855625/


風浪宮(2)あずみー阿曇磯良ー安曇目
http://lunabura.exblog.jp/16860839/





大善寺玉垂宮 (だいぜんじたまたれぐう)

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本殿

大善寺玉垂宮(4)高良玉垂神とはアントンイソラか
http://lunabura.exblog.jp/16811279/







高良玉垂宮
(こうらたまたれぐう)
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縁起絵巻の中央に描かれる安曇磯良 亀に乗って顔は白布で覆って鼓を持っている


高良大社(6)玉垂宮の縁起は志式神社の神楽とつながった
http://lunabura.exblog.jp/16218474/






和布刈神社 (めかり)

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(神殿と九州最北の磐座)

和布刈神社(2)和布刈神事と干珠満珠の秘法
http://lunabura.exblog.jp/17022180/




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by lunabura | 2012-08-16 21:19 | 安曇磯良 | Trackback | Comments(2)

儺の国の星・「発刊に当たって」を読む


儺の国の星
「発刊に当たって」を読む
 

那珂川町にせっかく来たので、この町に伝わる古来の星々の名が記された
『儺の国の星』を改めて手に取りました。

行間からこぼれ出す、さんざめく星々の光。
忘れ去られた古代の日本人の暮らし。
何度読んでも、その世界に引き込まれてしまいます。
しかも私の読解は遅々としています。

真摯に古代社会を追う人々にとってはヒントに満ちているこの本の再版を
町にお願いした事は前述しましたが、再版されるかどうかはまだ分かりません。

そこで、今回はその「発刊に当たって」という一文を書写する事にしました。
これで古代の那珂川町にアプローチしてみましょう。
発刊にあたって

那珂川町の歴史は、いつから始まったものか何の文献も、これを説明する資料は全く残っておりません。

しかし、日本書紀には儺縣(なのあがた)の記事がみえ、また有名な魏志倭人伝には奴国(なのくに)の記載がありますから、既にその頃は筑紫国の玄関として大陸の文化をまともに受け入れていた所と考えられます。

日本から大陸に渡るには、必ず玄界灘の上を通らなければなりません。従って昔の舟人が、必ず星の明りを看(み)て取って、船を行ききさせていたことを思い合わせますと、那珂川には、必ず古い星の名が無数に残っていて然るべきであります。

那珂川は中世の幾度となく打ち続いた戦乱の中にも、荘園だけは祖先の素朴にして誠意ある代々変わらぬ努力の致すところ、厳然として保存され、その上料(あがりりょう)の寄進が博多と太宰府の文化を支える偉大な基盤の形成に力あったことは、隠れた事実でありました。

思ふに、昔の殿上人でなければ、心得ているはずのない上品な星の名が口伝ながら旧家に残っていたことは、誠に不思議な奇蹟でもありました。

那珂川には上古は神功皇后(201~269)、下って皇極・斉明天皇(642~644、655~661)、天智天皇(662~671)並びに後の天武天皇(673~686)、持統天皇(687~696)そして安徳天皇(1181~1185)の行宮(あんぐう)がありました。

今から54年程前に、高松宮殿下の御下命を承りて古事記の独逸語翻訳に生涯を畢(つく)した香椎宮司木下祝夫博士が、斯くの如き由緒ある土地には必ずや日本の文化を支えてきた観星の古語が残存していることと思ふので、今のうちに寸暇を工面して後世に書物を残すことを進言しておかれたのが、執筆の動機であったと聞きます。

著者真鍋大覚氏の御先祖は遠く常陸(ひたち)石岡(いしおか)の出(で)で、永く鹿島神宮の神官を勤め、慶長のあと那珂川の肥前境に帰ってきて、近世は庄屋として百姓の農事に欠かせない歳時暦の編集を維新まで毎年つづけてこられました。

特に、名文として世に知られる常陸風土記の作者なる藤原宇合(うまかい)(694~737)及び今昔物語に豪勇を讃えられた藤原保昌(958~1036)の南家の末裔でありましたがために、荘園のころの公家だけがよくこころえていた優雅な星座の名前を口伝として保存しておられました。

幸い、著者は幼少の頃、父母とともに田仕事、畑仕事、山仕事を夜遅くまで手もと、足もとが見えなくなるまで手伝っておられました。

そのときに、両親からその季節の星の色や光を一つひとつ文字通り手に取るように教え込まれ、時刻の読み方と天気の見方を教えられました。

その時の記憶はもう今から数えて50年昔のことでありますから、もう既にご記憶はかなり淡くなったと語っておられますけれども、民族学的伝承を永久保存する目的で関係方面のご同意とご協力を得て、ここに出版の運びとなりました。

本書は、広報なかがわに昭和53年4月から昭和56年3月まで「那珂川町の星紀辰位」と題して連載した分と、未掲載の聞き書きを追加した分であります。

何分にも遠い昔の伝承の回想録だけに正確な年代や出典を考証するのに多大の事実を要したものと思われまして、九州大学工学部技術官佐藤洋子氏の並々ならぬ調査並びに校正及び索引作製の御助力がありましたことをここに改めて特記しておきます。

皆様方は、この小冊子をご覧になられまして、私達の遠い祖先が夜の間に眺め、祈ってきた美しい雅やかな星の名の数々がこんなにあったのかと驚かれることと思います。

どうか、皆様方のご家庭にもまた、いくつもの別の星の話題があるかと存じますから、何かご団欒のおりの思い出の引きての一つになればと幸に存じます。

昭和57年2月吉日  那珂川町長 大久保 福義

この序文で驚くのは、まずは神功、皇極・斉明・天智・天武・持統・安徳天皇の
歴代の行宮があった事がさらりと書かれている事です。

この中で安徳天皇の行宮については「安徳台」「お迎え」という地名に残されています。
お迎え
安徳天皇に因む地名です。九州へ下向した安徳天皇が外戚であり安徳台(迹驚岡―とどろきのおか)に居館を構えた原田種直を頼り那珂川町を遡上した際、ここで原田一門や村人に迎えられたと伝えられています。

安徳天皇は迹驚岡の仮御所で体を休め、後に壇ノ浦の戦いへ挑むべく各地を渡り歩きました。」(なかがわ見聞録~文化財散策ルート~よりー町で貰えるマップ)
原田種直はNHKの大河ドラマで大宰府の長官(?)として出て来ましたね。
彼のお家は那珂川町だったんだ~。
風早神社の近くなので、武器の生産もしていたかも。

これがそのエリアです。

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これは裂田神社から眺めた裂田溝(さくたのうなで)。
左の森が安徳台です。実際に室町時代の居館あとなどが発掘されています。

さて、さらに前の時代の皇極~持統天皇の行宮と言ったら磐瀬宮という事になります。
いったいそれはどこだと伝わっているのでしょうか。
手に入る那珂川町の沢山のパンフレット類には全くその記述が見られないので、
これからのお楽しみとなりました。

また著者の眞鍋大覺氏に関しては、先祖は鹿島神宮の神官だった事、
また常陸風土記の作者の末裔だった事が書かれています。
那珂川町では庄屋として暦を作った家系なんですね。

さて、カテゴリにある<星の和名・天体>はこの本を元に、
星ごとに分類していく試みをしているものです。
誰も伝えることのなかった古代日本の星の世界へのチャレンジです。

「真鍋大覚」というタグがありますが、エキサイトブログのタグ機能は
各記事に三つしか使えないので、中途半端な分類になっています。
頭の痛い所です。


次回は『儺の国の星・拾遺』の方を紹介します。




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by lunabura | 2012-08-12 22:13 | <真鍋大覚儺の国の星> | Trackback | Comments(1)

儺の国の星・拾遺 (1)序文を読む 1


儺の国の星・拾遺 1
序文を読む 1
 

前回、那の国の星々の名が那珂川町の旧家に伝わる事情が分かりましたが、
今回はさらに詳しく見て行きたいと思います。
『儺の国の星・拾遺』の序文ですが、長いので、少しずつ紹介して行きます。

序文
本書はさきに昭和57年3月31日に刊行されました『儺の国の星』の続編であります。

那珂川は太宰府の近郊に在ったことから、編暦の官人の草稿が旧家に保存されておりました。しかるに醍醐帝天慶2(939)年の藤原純友の乱と後陽成帝天正14(1586)年の島津義久(1533~1613)の乱により、多くの古書が散逸しました。

それでもなお明治38(1905)年7月26日の大風大水までは庄屋の土蔵の中の唐櫃(からひつ)や文庫の中には、太宰府からの疎開の書類写本が保存されていたのでありましたが、この時の水禍の災害があまりにも甚大であったがために、その復旧工事に盆を返上しての日夜の努力が彼岸まで続いたとのことでありました。

漸く秋分に入って土蔵の中に風を通した時に、意外な雨もりで書類は水気を吸い込んで、ついに開きも離しもかなわず、盥(たらい)に水をはって、これに浮かべて少しづつはがしては筵(むしろ)の上に広げて乾かしたのでありますが、何分にも九百年近い古書であったがために修理不能のやむなきにいたりました。

幸に真鍋勝次(文化14年4月8日~明治42年4月23日 1817~1909)に幼少の頃から侍して、よく家伝の古書を披見(ひけん)していた真鍋利市(明治4年8月12日、昭和22年8月16日、1891~1947)がその内容を記憶しておりましたので、

ここに何とか「晉書天文誌」と昭和39(1964)年、初版のA.Becvar(ベックバール)の『アトラス ボレアリス エクリプテイカリス アウストラリス』の星座図をもってその口伝を確かめることができました。

真鍋勝次は明治維新後もなお那珂郡の方冊(ほうさく)を作製して、百姓の歳時月令に資した最後の人でありました。

昔の國暦は現行の太陽暦ではなく、太陰暦に二十四節季、五十六節気、或いは七十三節期を配し、しかも気候の早晩を閏月の適所挿入によって調整するところの天文気象暦でありました。

餘日延年、即ち1年の太陽暦日と太陰暦日の差を秋分に定め、これと同じ日数が過去何年前にすでに存在していたかを付表から引き、その年の天気地気の記録を参照して立冬までに編纂を完了するのでありまして、真鍋利市は常に机辺(きへん)に正座して祖父真鍋勝次の仕事を見守り、自ら検算を助けました。

早くから窮理の術、即ち現在の球面三角法と天文力学を修め、祖父はその英才を嘱望して、孫ながら、真鍋勝三郎(文久2年12月15日~昭和25年3月26日、1862~1950)の養子に選びましたが、後、前町長真鍋勝次(明治43年2月11日~昭和53年7月28日 1910~1978)の出生におよび、これを独立させて大学卒業まで学費を送ることに定めました。

察するに肥前長崎の天文学者西川如見(1648~1724)に幾代か前の先祖が洋書を求めてこれを習っていたものとみえます。

西川如見は暦法に季節を入れることを主張して江戸幕府に抜擢されました。東山帝元禄2(1689)年に江戸本所深川に渾天儀を置き、渋川春海(1639~1715)は京都土御門に代って暦書編纂の事業を開始しました。

二百十日を入れるべき百姓漁師の上申をうけつけたのは、靈元帝寛文11(1671)年からのことと伝えられます。
(つづく)
那珂川町が太宰府市に近いという事で、大宰府で使われた文書の草稿が
旧家に保存されているような環境があった訳です。

藤原純友や島津義久の乱で多くの古書が散逸したと書いてありますが、
私が逍遥している間も、大宰府政庁跡では純友が建物を燃やした話を聞いたし、
志式神社や伊野天照皇大神宮辺りでは、
島津の兵隊たちが神社を焼いて古文書も焼失したり、
鐘を持ち去ろうとして具合が悪くなったという話に出会いました。

古文書を焼く事はその歴史を抹殺するに近い暴挙ですよね。

那珂川町ではそれでも残った写本などが、明治38年の水害で駄目になってしまった。
その日付が7月26日と言う事なので、今年の7月12日~14日前後の水害を思うと、
梅雨前線や台風の脅威はいつの時代も思いがけない地域を襲うのが分かります。

風水害のために真鍋家でも蔵書が修理不能になったのですが、
祖父の手伝いをしていた利市が内容を記憶していて、
昭和になって出版された星座図で口伝を確かめたという事です。

明治38年の水害から昭和39年の初版まで、よく途絶えずに伝わったものです。
(これって、すごい内容が日本に伝わっていたんだ。900年以上も前の情報なんです。)

毎年作成される暦は太陰暦で、気候の早晩を閏月の挿入で調整するという事です。

この閏月(うるうづき)で思い出す事があります。
10年ほど前に太陰暦のカレンダーを2年ほど使った事があります。

確か四国・土佐で作られ始めたカレンダーなのですが、
漁業の人の間で漁に役立つという事で、口コミで広がりました。

これが婦人服の生産や販売(バーゲンの時期の見極め)などにも役に立つので、
さらに広がって行ったそうです。
旧暦のカレンダーという物は、閏月の挿入場所が、寸前にならないと分からないものだと書いてありました。

夏の長さや短かさなどは、ここに反映されるのだそうです。

私はそれまで、閏月は4年に一度、定期的に挿入するものだと思っていたので、
目からウロコでした。

それにしても、球面三角法なんぞを何に使ったんでしょうか。
(ネットで調べると、天文や航海術、そして四柱推命などに必要らしい。)
やはり海を渡るには必要不可欠なんですね。

c0222861_0122493.jpg

江戸後期の渾天儀 画像出典
http://www.e-tmm.info/syuuzou/kontengi.htm
(つづく)

地図 那珂川町と太宰府市







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by lunabura | 2012-08-11 00:19 | <真鍋大覚儺の国の星> | Trackback | Comments(0)

儺の国の星・拾遺 2・物部氏の矜持 ― 遺言はハレー彗星の通過日の特定だった


儺の国の星・拾遺 2

序文を読む 2
物部氏の矜持 
遺言はハレー彗星の通過日の特定だった
 

前回のつづきです。
口述筆記のために、明らかな誤字は変えています。
明治43(1910)年4月19・679日Halley(ハリー)彗星は近日点を通過しました。

この時が69推の方冊(ほうさく)の家系を語る と、生前の真鍋勝次は信じて他界しておりました。即ち彗星到来を予見した上での遺言でありましたが、これはまさに的中いたしました。

ここに1推(いっすい)とはメトン周期のことで、太陰暦235月6939・68841日と19太陽年6939・60170日が差0・08761日をもって一致するところからきた名称でありました。

これから69推は1311年前、即ち推古帝7(599)年のことになるのでありますが、日本書紀巻22推古紀(603)年壬戌歳には、
   冬10月に百済の僧 観勒(ほうし くわんろく まうおもぶ)けり。
   仍(よ)りて暦の本(ためし)及び天文地理の書(ふみ)、併(あわせ)て
   遁甲方術(どんかふはうじゅち)の書(ふみ)を貢(たてまつ)る。

とありまして、祖先は物部氏の出身であり、異朝から大宰府の招請に応じて暦書を
上された時に、これが本朝の古来の式例に副うものであるか否かを検算する家系
であ
ったことが判明いたしました。

大宰府は異朝の入貢する船籍が多く入泊しますから、各国の暦制が船ごとに異なり、これを対応して数年先の次の入国の機会まで、日取りを正しく登録する必要がありました。

従って物部氏は代々、大宰府の暦官の職務を世襲して、もって天文学的計算の術を通じ、これに仕えていたのであります。

「69推の方冊(ほうさく)の家系を語る」
これはハレー彗星が地球に一番近づく日時を特定する事によって、
69推(1311年)続いた、真鍋家の歴史と実力を証明するという意味です。

トップシークレットだった為に、誰も理解する事のない、
物部氏の本来の仕事がこの天体観測であり、暦造りでした。
ハレー彗星はハレーが発見した事になっているが、
日本ではとっくに知られていたのだという思いが伝わって来ます。

この計算が、どれほど高度な科学的知識に裏付けられているのか、
明治時代には誰も理解出来なかった事でしょう。
現代でも、そんな家系が在ったと素直に信じる人は少ないかもしれません。
だからこそ、ハレー彗星の到来を予見したのですね。

ハレー彗星の近日点をどうやって計算したのか想像も出来ないけど、
「69推」ぐらいは理解してみましょう。

「メトン周期」か…。名前は知っていても、内容は知らないよ。
こんな時はWik頼り。
 メトン周期 19太陽年は235朔望月にほぼ等しいという周期のこと。
この周期は、太陰太陽暦で閏月を入れる回数を求めるのに用いられた。メトン周期に
従うと19年間に7回の閏月を入れれば太陽年とのずれが解消されることになる。

関係ある所だけ書き写しました。検算してみましょう。

1年は365日。1か月を30日とすると、30日×12か月は360日。
その差は5日。10年経つと50日も差が出て、季節感はめちゃめちゃ。
そこで時々閏月を入れて誤差を調整する必要が出てくるけど、
19年間で7回の閏月を入れると誤差は解消されるという事か…。

どうれ、計算してみよう。
365日×19年=6935日
30日×235ヵ月=7050日
7050-6935=115日
30日×7回=210日
あれ?うまくいかない。一か月30日が間違ってる? (@_@;)
29.5日ぐらいかな?
それとも、序に書いてあった、12桁でないと誤差がひどすぎる?
(どうやって計算するの~)

それじゃあ、12桁を使ってまじめに計算しようとしたけど、
桁が多過ぎて計算機に入力できない。とりあえず、下6桁までで計算してみよう。
365.693960日×19年=6948.1852日
30日×235.693968月=7070.8188日
これもダメ。検算でさえ私は出来ない(涙)
差0・08761日が出て来ないよ~ (・.・;) 
やはり、1か月30日が駄目なのか。誰か頼む…。(いや、お願いします。)

こんなメトン周期を日常で使う家系ってどんな家?
そして、計算機がないのに、どうやって計算したのだろう。
メトン周期はあきらめ!

気を取り直して、ハレー彗星を調べてみよう。
「ハレー彗星はエドモンド・ハレー(Edmund Halley 1656~1742)が
初めて76年ごとに地球に近づく彗星を発見した。」

なるほど。
真鍋勝次氏は日本の物部氏はすでに76年ごとに地球に近づく彗星の存在を知っていて、
その近日点を計算する事も可能だったという事を証明したかったんだ。
そして見事的中。

これは天文の歴史を塗り替えるような内容ですぞ。
だから、遺言にしてまでもその家系の存在を伝えたかったのでしょう。
う~む。これぞ物部氏。

真鍋家と大宰府
日本書紀では69推前=599年の3年後に百済の僧・観勒が暦を伝えたとなっていますが、
真鍋家の祖先は、この暦と日本古来の暦との付き合わせをしたという事を暗示しています。
(ひとひねりしていいるのは大覚氏の独特の表現法です。)

現代でも外国では西暦以外の各種の暦を使っています。
東南アジアの何処でしたか、一つの国で何十種類もの暦を民族ごとに使っている
という話をラジオで聞きました。
そのカレンダーはきっとすごい事になってるんでしょう。
でも、その国ではそれが当たり前。
古代の姿が残っているのですね。

古代、大宰府に入港した船も各国から来て自国の暦を使っているため、
倭国の暦との付き合わせが大宰府政庁で行われたんですね。

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これは大宰府の再現図。(パンフレットより)
どの建物でやったのかな。少し身近になりました。

さて、つづき。
真鍋勝次は明治20(1887)年3月28日をもって時の農商務省大臣 山縣有朋(1838~1922)から表彰を受けております。

埼玉県秩父郡の民生安定に多大の貢献を為したるをもって感謝の金一封を授与せられたのでありますが、東京帝国大学農科大学の教授博士をしても荒廃の極に達した田畑の土地改良の大事業を僅か2年の歳月で完成させた功績は天下一の篤農(とくのう)の郷士と称えられたとのことでありました。その語る処の祖先の逸話がこれであります。(つづく) 

勝次氏は那珂川町の元町長ですが、埼玉県では田畑の土地改良に尽力。
日本古来の智恵が余すところなく発揮されたのでしょうね。
どんな改良法だったか、これまた知りたいものです。
(つづく)








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by lunabura | 2012-08-09 10:31 | <真鍋大覚儺の国の星> | Trackback | Comments(6)
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