ひもろぎ逍遥

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永尾剱神社(1)不知火が現代でも見える宮


永尾剱神社(1)
えいのおつるぎ
熊本県宇城市不知火町永尾
不知火が現代でも見える宮 

今回から、熊本県の天草北部の旅です。
久留米地名研究会主催の、
観光旅行では味わえないマニアックな古代の旅に参加しました。

最初は永尾剱神社です。「エイノオツルギ」と読みます。
「魚のエイの尾」を思い浮かべますが、
まさしく地形がエイの尻尾のように細長くなっています。

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これが神社の杜で、右の方から撮りました。
左端に一の鳥居があります。

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国道266号線沿いです。
しかし、社殿は海の方を向いているので、ここから登ると神殿の裏側に出ます。
そこで右脇の路地から杜の麓に沿って歩いて、裏というか、正面に廻って行きました。

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突端付近です。神社はこの崖の左奥に建っています。
地層を見ると波が岬を侵食しているのがよく分かります。
よほど激しい波が立ったのでしょう。上の方も侵食しています。
でも、ここは入り海です。八代海です。
津波でも入って来たのでしょうか。
津波は奥に入るにつれて巨大化するという話を思い出しました。
もう海のそばです。

海の中の鳥居が目に飛び込んできました。
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社殿が海の方を向いているので、こちらの方が一の鳥居かも知れません。
海から参拝するようになっています。
海の向こうに見えるのは九州島です。熊本県が見えています。

後ろを振り向くと
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海からまっすぐ上る急な石段がありました。

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石段を登りつめると、二つ目の鳥居がありました。

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境内に出ました。

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拝殿です。
御祭神は海童神(わだつみのかみ)(神武天皇の御母様)
    菅原道真公外三柱
です。

なんと道真公の名前がここにも。
前回まで飯塚市や嘉麻市の神社を書いたのですが、
そちらでも道真公がよく祀られていました。
「道真公信仰」は古代筑紫を見て行くのに、これまたキーポイントなんですね。

さて、何よりも主祭神の名前に驚きました。
「海童神(神武天皇の御母様)」です。
「海童神」(わだつみのかみ)といえば志賀三神・綿津見神でした。
なのに、「神武天皇の母」となっています。
母といえば玉依姫ですよね。むむ。
どうしてこうなっているのだろう。

玉依姫の父神は豊玉彦。豊玉彦といえば海神です。
その童だから海童神というのでしょうか。
これは興味深い名称に出会いました。

さてぐるりと境内を見回すと説明板がありました。

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神秘の火 不知火(しらぬい)
不知火は、今から千数百年前、景行天皇九州に御巡幸のとき、暗夜の八代海上に天皇を導き、無事火の国の海岸へお誘いした怪火がそのはじまりで、以来この主知らずの火を不知火と呼ぶようになった。(日本書紀)
不知火は毎年八朔(旧暦8月1日)の未明、干潮時に現れる。
今年の八朔は9月15・16日です。
不知火がここから見える!!しかも現代でも!
予備知識なしに来たので、驚きました。
ここはビューポイントなんだ。

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あいにくの曇天ですが、ここから不知火が見えるのでしょう。
しかも日本書紀の景行天皇紀に描かれた不知火です。
拝殿には不知火の写真がたくさん奉納されていました。

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景行天皇と不知火について、
取り敢えず、日本書紀から該当部分を読んでみましょう。
5月1日に葦北から船を出して火の国に着いたのですが、日が暮れてしまい、暗くて岸部が分かりませんでした。遥かに火の光が見えました。

天皇は舵取りに、
「まっすぐ火を目指せ」と言いました。
そこでその火を目指して行って、岸に着く事が出来ました。天皇はその火の場所を尋ね、
「何というムラか。」と言いました。国の人が
「ここは八代の県の豊村です。」と言いました。
またその火について、
「これは誰が焚いた火か。」
と聞きましたが、誰なのか分かりませんでした。
結局、人が焚いた火ではないことが分かりました。こうして、その国を火の国と言うようになりました。

6月3日に高来の県から玉杵名のムラに渡りました。その時、土蜘蛛・津頬(つつら)を殺しました。

16日に阿蘇の国に着きました。その国は野が広く遠大で、人家がありませんでした。天皇は
「この国に人はいるのか。」
と言いました。その時、二柱の神が出て来ました。
阿蘇都彦・阿蘇都姫と言いました。たちまちに人間の姿を取って現れて、
「吾ら二人がいる。どうして人がいないことがあろうか。」
と言いました。この事から、その国を阿蘇と名付けました。

「人が焚いたのではない火」
これが不知火(しらぬい)ですが、文面では5月1日になっています。
現代では8月1日です。
不知火の現象を伝承に取り込んだのでしょうか。
あるいは暦の計算の違いなのか、時代の差か、昔は毎月1日には出現したのか、
いろいろ想像すると、また謎だらけになりました。

(つづく)









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by lunabura | 2012-10-31 13:27 | 神社(エ) | Trackback | Comments(0)

ウチ考(8)内野宿から馬敷まで・「酒は飲め飲め」の黒田武士が建設した宿場だった

ウチ考(8)
内野宿から馬敷まで
 
「酒は飲め飲め」の黒田武士が建設した宿場だった


さて前回の、この内野宿の物差しの基準は唐制の一里760mだったという話。
これを聞いて邪馬台国九州派はワクワクしないかな。
これって「短里」ではないですか?
最近、二人から「760m」とか「770m」とか聞いたばかりだよ。

『魏志倭人伝』に使われる「一里の長さ」が今でも論争の争点になっていて、
九州説はこの短里で説明がつくらしい。

その短里がなんと江戸時代の宿場造りの基準になっていたというのだから驚き。
一里が4キロという時代に短里も併用されたという緩やかさにカルチャーショック。

邪馬台国畿内派の人も九州派の人も、この内野宿を歩いてみると
魏志倭人伝時代の距離感が楽しめるかも。
と思って宿場の長さを調べたら700mとか。なんと狭い地域だったんだろう。

さて、この内野宿を造った人は誰かな。
展示館の資料によると
長崎街道・筑前六宿(むしゅく)の一つ内野宿は、その建設について福岡藩記録に「慶長17年(1612年)毛利但馬被命内野被建」とある。

毛利但馬(もりたじま)は日本一の槍を飲みとった黒田武士で有名な母里但馬で、黒田公の命で代官として内野建設に当たった。

但馬が大隈城主となった後、内野太郎左衛門がその任に当たった。内野氏が軽輩ながら、かかる藩の大事業に起用されたのは長政公の厚い信任を受けたからにほかならない。

あの黒田節で有名な母里但馬友信が代官となって内野建設に当たったんだ。
(墓所は嘉麻市鱗翁寺)
知っている人が出て来ると急に身近になりますね。

その後「内野太郎左衛門」が引き継いでいる。
この内野氏について、のらさんから情報が。

るなさん、こんばんはです。
何処に書こうか迷ったんですが、その内容に合った所に書きます(>_<)
地元民として何か調べられないかなぁ?と思い持っている『長崎街道 1』を開いた所、衝撃的な事が!!(泣)

飯塚の「内野宿」という名前ですが、貝原益軒の『筑前国続風土記』に「内野邑昔は無し」とあり、それ以前に人は住んでいても内野の地名は無かったそうです(T_T)
ただ水田も少なく一帯は良い狩場であったと『黒田家譜』に見えるそうです。

ではいつ『内野』になったか。
黒田長政の筑前入国に伴い多数の家臣を採用し、その中に秋月家浪人の大庭内蔵助の孫に当たる内野太郎左衛門が居たと。この太郎左衛門が内野宿を開き、自分の出身地の地名をとって付けたとあります。

ん?じゃあ秋月にも「内野」があるって事ですかね?
一寸衝撃的だったので私的に大人しくしてましたが、「内住・大野」は別もんかもと思い書いてみました。


わお。すごい情報。
大変な事に。
江戸時代に出来た地名だとすると、「たまきはる内野」の飯塚説は消えて行く!
江戸時代のお狩場があったという話は私も資料で見ましたが、あの辺りが現地だったのですね。
のらさん。大収穫ですね。
取り敢えず、候補地の一つは消えました。
新たに浮上した高良内の内野が俄然、クローズアップですね。
早良の内野も誰か調査してくれないかなあ。

さて、「内野村がなかった」という衝撃情報はここに書いてありました。

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赤い点線の部分です。

内野宿の名前も「内野太郎左衛門」が出身地の名を付けたとあります。
そこで、思い出したのが、藤俊さんとの会話。

ブログで那珂川町の話題からこの内野の話題になった話をすると、
「内野は那珂川町と関係があります。太郎左衛門の出身地は那珂川町でした。」
確かこんな話でした。
「大庭(おおば)は饗庭(あえば)と書いた」という話もありました。
(饗庭と言えば「神に捧げ物をする神聖な場所」という意味です。(WIKI))
軽輩ではなかったのかも。

「内野」は秋月でなく、那珂川町みたいですね。


さて、話題は変わりますが、

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ここは長崎街道ですから、こんなラクダや

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こんな参勤交代の行列が通過して行きました。

なんと、偶然にも、10月30日から「長崎街道展」があるそうで。
場所は九州歴史資料館です。(小郡市)
上の三枚の写真はそのパンフレットからです。

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伊能忠敬の地図も見られるとか。
内野宿を調べたばかりだったから、俄然楽しみになりました。

そして、最後の話題になりますが、ここは黒田藩のお狩場だったそう。

内野宿を出ると、「馬敷」の地形を確認するために、再び出雲を通って北上。
馬敷は写真が撮れませんでしたが、その先に見晴らせる地形があったので車を止めました。
が、そこは既に隣の「大分」(だいぶ)という所でした。

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これがその大分。
この写真の右側には大分宮があり、左には「馬敷」があります。
馬敷は猪鹿が多かったそうで、村の中の池に中島があって、
昔、天馬が死んだのをそこに埋めたそうです。(筑前国続風土記)

江戸時代にお狩場があるなら、古代にもあった可能性はありますが、
「内野」の古い地名が明らかになるまで、
「たまきはる内野」に該当するかどうかの結論はお預けになりました。

地図 内野宿 馬敷




ウチ考はひとまずここまで。
「タグ」の<ウチ考>に(1)~(8)まで入れておきます。
連続して読む時はそちらを利用して下さい。








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by lunabura | 2012-10-28 00:33 | ウチ考 | Trackback | Comments(4)

ウチ考(7)内野宿・日本で屈指の貴重な宿場だった

ウチ考(7)
内野宿
日本で屈指の貴重な宿場だった

老松神社を出ると再び雨が激しくなりました。
ここに来るには江戸時代の街並みを通らねばなりません。
参勤交代があった道で、くねくねとして狭く、両脇には古い家屋。
車ではもったいないような風情のある道です。

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行きがけに撮った写真が数枚ありました。撮っておいてよかったな。

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先を歩く人の様子から道幅が分かると思います。
左の角の家の二階の窓がおしゃれで気になって、近寄ると展示館でした。

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「長崎街道 内野宿展示館」です。
走って飛び込むと、中は新しく改築されていて、心地よい空間になっていました。

そこに展示されていた絵地図を見て、老松神社を発見。
大根地神社も描かれていました。

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中央の☆マークが現在地の「内野宿展示館」。左の赤丸が老松神社。左上が大根地神社。
あれ?大根地神社はこちらの文化圏なんだ。
これは驚き!

例の調子で展示館の方をつかまえて質問攻め。
内野宿の町並みの展示館なのに、羽白熊鷲や大根地神社などオタクな質問ばかり。
大根地神社は神功皇后が熊鷲と戦う前に戦勝祈願をしたと伝える神社なのです。

展示館の方がついに歴史に詳しい藤俊さんを呼んで下さいました。
藤俊さんは最近、内野宿に残る1800年前頃の道、神功皇后の時代の道を発見した
という話をしてくれました。
それは上に掲載した地図の緑の点線で描いたルートです。

さらに話を伺うと、
この内野宿を調査するうちに、この宿場の貴重な価値を発見。
大学の先生たちを招いてシンポジウムを開く準備をしている所だそうです。

「こんな雰囲気の宿場は福岡にはまだ各地に残っていますが。」
そう伝えると、
「いえいえ、この内野宿は江戸時代の線引きが全く変化していないという、
極めて貴重なものなのです。
どこも、いくらかは変化しています。
ここは何度も大火に遭いながら、全く変化していない。
唐制一里760mを残しているのです。
こんな貴重な宿場は全国のどこにもありません。」

大江戸〇〇館からこちらに来られたという藤俊さん。
いろいろと面白い話を聞かせて貰いました。

その中で菅原道真公の話も出て来ました。
道真公についても研究されているのですが、ビッグスターはどうしても伝承が変化しやすいので、
その父や妻など、周囲を調べているのだそうです。

この研究法は私も同じ。
私はそれを密かに「ビッグスターと星座たち」と呼んでいるのですが、
周囲固めをすることで、揺るぎない世界を構築しようとしているのです。(一応ね。)

道真公に関しては、師匠の娘を妻にしたと言う事なので、
師匠の方を調べているということでした。
師匠の名は「島田忠臣」というそうです。
京都の天神さんにその忠臣公を祀る福部神社があるとか。
筑後市の水田天満宮にも祀られていて、それは母の縁だそうです。

伊賀の助という地位にあったという話も。
「あれ?私、それ知ってます。
泉河内に島田家の集落があって、そこは平家の落人で、伊賀の助の末裔です。
壇ノ浦で負けて山の中に逃げ込んだそうですが、
援助者がいないと決して入り込めないような山の中なのです。
畑仕事をする時でも、必ず矛を立てていたそうですよ。
反対側に逃げ込んだ平家一門は全滅しています。」

そんな話をすると、藤俊さんはまさにそこに調査に行ったばかりとか。
このタイミングに、こりゃあ、私が呼ばれたのかなと思いましたョ。
御縁とは不思議ですね。

このブログの訪問者の中にも二人ほど道真公を研究している人がいます。
みんな切り口が違うから、一度報告し合ったら面白そうだな。

で、肝心の大根地神社については、年に2回、4月8日と10月8日に
老松神社まで御神幸祭があるのだそうです。
のらさんが調べてくれたサイトによると、
老松神社の宮司さんが大根地神社の宮司も兼ねているとの事。
両社には深い縁がありました。

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館内でいただいた古地図を見ていると、老松神社が地図の中心になっています。
左に小根地、上に大根地と描かれています。
今でもこの神社はつながっています。

宿場は右下の方に描かれています。
位置関係から、両神社が宿場の精神的な中心地だったことがよく分かります。
(追記 あとからよくよく眺めると、この地図トリミングしてあるみたい (・.・;))
緑の点線は神功皇后時代の古道。
これは飯塚市の立岩遺跡の石包丁を求める道だろうとの事でした。
石包丁は100キロ離れた所からも出土しているそうです。

c0222861_1191162.jpg

この宿場から街道を下っていくと、すぐに山家宿です。
阿志岐の近くに出るんですね。
どんどん下ると、本当に長崎に出ます。
長崎街道だから当たり前と言えば当たり前ですが。

(つづく)







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by lunabura | 2012-10-27 01:25 | ウチ考 | Trackback | Comments(4)

筑紫舞


筑紫舞

福岡県福津市
宮地嶽神社
 
平成24年10月22日 宮地嶽神社の御遷座記念祭で筑紫舞が舞われました。

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これは筑紫宮神楽の「神無月の舞」という秘舞です。
(リハーサルの写真です)

これもまた時間が取れるようになったら、ゆっくりと紹介したいと思います。

校正の作業もゴールが見えて来ました。
もう少したら、古代の筑紫にどっぷりと浸かれるなあ。





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by lunabura | 2012-10-23 22:51 | 宮地嶽神社と古墳・福津市 | Trackback | Comments(2)

ウチ考(6)老松神社1・内野・羽白熊鷲のもう一つの終焉地を探して

ウチ考(6)
老松神社(1)
福岡県飯塚市内野
羽白熊鷲のもう一つの終焉地を探して

前回の土師の老松神社を通って王塚古墳方面に下り、「出雲」の交差点に向かいました。
山越えのルートが土砂災害の為に通れないので、
遠賀川方面から内野宿に向かうことになります。

土師の老松神社は泉河内川沿いにありましたが、
内野の老松神社は穂波川水系の奥にあります。
道は200号線。長崎街道が並行して走っています。

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「阿恵」の信号です。「阿恵」は「北」という意味ですが、朝鮮語だとも聞きました。
(本当かどうか知ってる方、教えてね。)

ここが「北」なら「南」があるだろうし、「中央」もあるのではないか。
そう考えて南を見ると弥山岳(377m)があり、さらに南には前々回の天神社のある内山田があります。
「中央」にふさわしい所は見当たらないなあ。

これから向かう「内野宿」は、南西方面になります。
大まかに見て、この「内野宿」あたりが「中央」になるのかも…。

c0222861_0393831.jpg

「阿恵」を過ぎて「内野宿」方面へ。穂波川を遡って行く形になります。
この地の標高は200m弱で、正面の山々は400m級。
穂波川沿いに発達した穏やかな平野の奥に、目指す内野宿があります。

その先は「冷水峠」。トンネルが出来る前は急カーブの連続で、
冷や汗をかくから着いた名前かなと幼な心に思っていましたが、
冷水が湧く事から付いた名前だと『筑前国続風土記』に書かれていました。

上の写真では長崎街道は道の右を走っていて、左の方に穂波川が流れています。
古代人が住むとしたら、山あり川ありで、出入口の防衛もしやすい良地です。

合併前の地図を見ると、穂波・筑穂・嘉穂・稲築(ほなみ・ちくほ・かほ・いなつき)
と古代鉄に関するかもしれない名前がずらりと並びます。
「ホの一族」と名付けた一族をふと思い出しました。
あの頃は暗闇の古代史を手探りで歩く状態で、却って大胆な事を書いていたなあ。(汗)
サイドバー → 馬見神社 (うまみじんじゃ)

さて、今回、目指すのは「内野の老松神社」です。
それはここに羽白熊鷲の終焉地があるという話をネットで見かけたからです。

「羽白熊鷲の墓」が「甘木の寺内ダムの施設内」にあって、伝承も残っているのは紹介済みですが、
この老松神社に逃げ込んだ話を見かけたのです。
記憶が曖昧なので確認したくてネットでもう一度探しましたが、見つかりませんでした。
(なんと私のブログばかりがヒットする…。(大汗)検索の得意な方、情報をお願いします。)

老松神社は内野宿の近くなので、まずは内野宿を目指したのですが、
どこかな、とキョロキョロするうちにあっという間に通り過ぎて、冷水峠にたどり着きそうになりました。
慌てて、Uターン。
あ、大根地神社の鳥居がある!!
でも、今日はパス。行ったら、満足して、そのまま帰ってしまいそう。
今日は老松神社なのだ。

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内野宿の奥まった位置に老松神社はありました。
この左には天満神社の鳥居もあって、

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どちらから入っても、境内は一緒です。

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老松神社といえば道真公ゆかりと聞くし、天満宮もまた道真公ゆかり。
いったいどうして二つの宮が共存している?
合祀したのかな…・


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こちらは老松神社。やはり祭神は菅原神。

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右脇には珍しい子を抱いた狛犬。

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左脇の狛犬。ユニークな表情ですな。元祖ゆるキャラ?

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その左に鎮座する天満神社の拝殿。祭神は同じく菅原神。

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一番右に鎮座する大神社。祭神は大日靈命。(おおひるめ)
天照大御神の別名と言われています。

さて「福岡県神社誌」を訳しながら写しましょう。
村社 老松神社 嘉穂郡内野村大字内野字関屋
祭神 菅原神
由緒 不詳 明治5年11月3日に被定。
社説に曰く、後深草天皇・宝治2年の創建で、昔太宰府の神領だった事からここに勧請されたと伝えている。
元字古宮という所に鎮座されていたのを、天正元年現在地にお遷しした。神宝に古鏡が8面ある。また宝永2年、藩主黒田綱政公が寄進した絵馬が1扁、及び天保8年藤原義実公が奉納した額が一面ある。
後深草天皇(1243-1304)は鎌倉時代の天皇。
この時代に大宰府の領地だったという縁で勧請されたのが、現在地に遷宮したという事です。

これを見ると比較的新しい時代の創建だけど、これまでの逍遥から考えると、
創建とは、縁もゆかりもない所に唐突に神社が造られたのではなく、
もともと古代からの祠などの祭祀があったのにかぶせて、
正式に神社として建築したというニュアンスがあるように感じています。

ここもまた羽白熊鷲の伝承があるとしたら、
ずっと古代の土蜘蛛たち?の史跡の上に建ったのかも知れないという気持ちが拭いきれず、
とにかく宮司さんに話を聞きたいと、やって来たのに、
出会った氏子さんが何かただならぬ様子。

お話を伺うと宮司さんの初盆だと…。
一年、いや半年遅かった…。

氏子さんに熊鷲伝承がないか尋ねましたが、やはり耳にした事はないようす。
もう羽白熊鷲の飯塚側での伝承はこれで永遠に消えてしまうかも知れない。
そんな後悔の念を抱きながら、墓か石があるかも知れないと境内を廻りました。

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これは宮中で行われる新嘗祭の斎田として穂波町が指定されて、
奉仕した記念碑です。

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道真公ゆかりらしい狛牛。

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屋根が作られて大事にされている石。
一番左には梵字らしき跡。

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拝殿前から見た境内の様子。しっとりとした美しい山里です。
羽白熊鷲の事はあきらめました。

最後に通りかかった内野宿の資料館を訪ねる事にしました。
雨がまた降り出しました。
もう一つ、心に残ったのは大根地神社の鳥居。
思いがけず、ここから近い所にあったけど…。   (つづく)








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by lunabura | 2012-10-22 00:48 | 老松神社(各地) | Trackback | Comments(7)

ゲラ籠り



今日は御縁を頂いて、久留米市の高良大社神幸祭の大名行列で御奉仕させていただきました。
そして、向かったのは「高良内」(こうらうち)。
これもまた「内」ということで、ずっと行きたかった所です。
報告はずっと先になると思います。

というのも、小説の方のゲラ刷りが届いたからです。

お籠りします。(ぺこり)
早く「内野」の続きが投稿できるように、頑張ります。








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by lunabura | 2012-10-14 19:47 | にっき | Trackback | Comments(13)

ウチ考(5)老松神社・大己貴神と少彦名神がやって来た


ウチ考(5)
老松神社
おいまつ・福岡県嘉穂郡桂川町土師
大己貴神と少彦名神がやって来た

既に3年前に参拝した宮ですが、ようやく記事にする時が出来ました。
写真のストックを見ると、撮った枚数の少なさに唖然。
鳥居さえも撮ってない…(・.・;)
ずいぶん意識が違ってたんですね。
はじめの頃は神社の縁起や伝承の重要性に気づいていなかったのが自分でもよく分かります。

この老松神社の縁起の重要性が理解出来るのに3年の逍遥が必要だったということでしょう。
そっか~。
このブログもそろそろ3年になるんだ。

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さて、今回はいきなり境内です。
ここは飯塚市から秋月に向かって緩やかに高度を上げていく県道66号線沿いにあって、
石段も数段ある程度の高さです。

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拝殿と神殿です。(斜め…。)
主祭神は大国主神。
祭神 大物主神 事代主神 菅原神 吉祥女

境内の入口に立派な由緒書きがあります。それを読んで行きましょう。
由緒の記 (現代語訳します)
創建年代ははっきりとしない。社の記録によれば、遠く神代の昔、大己貴命・少彦名命が心を同じくして力を合わせて天下を経営された時、この西海に下って、この土師の地にしばらく滞在されたという。

のち、人皇11代・垂仁天皇の御代に、出雲の国の造・野見宿禰が埴輪を造って殉死の者の代わりとしたという功を賞して、土師臣の姓を授け、また諸国で鍛地(かち・かじち)を授ける時、当庄をもその一つに加え、宿禰に与えられた。

出雲より土師連がやって来て当庄を領有し、出雲杵築の大社に鎮座されている大国主神(大己貴命)を、神代の時にしばらく滞在されたこの地に勧請して、土師宮と称して斎き祀ったのが当社の濫觴(らんしょう・始まり)である。

その後、大物主神・事代主神を合祀したが時代ははっきりとしないという。(後略)

驚く事に、大己貴(おおなむち)命と少彦名命がこの土師の地に滞在していました。

少彦名命の名は祭神から消えていますが、前回紹介した天神社の祭神は
「スクナヒコナノミコト・オオクニヌシノミコト・菅原道真」
となっていて、距離的にも2.5キロほどしか離れていません。
どうやらこの桂川町には大己貴命の足跡が色濃く残っているようです。

福津市の渡半島の楯崎神社には「大己貴命と宗像姫の連合軍が異敵と戦った」伝承が
あった事を考え併せると、遠賀川左岸の伝承を丹念に拾って行くと
大己貴命の全体像がもう少し明らかになるかも、という予感がします。

さて次の時代になって、野見宿禰がこの地を褒賞として貰っています。
野見宿禰は殉死者の代わりに埴輪を使う事を案出した人とされています。

この宮の伝承によると、彼は「土師の姓」を与えられ、「諸国の鍛地」を与えられています。
「鍛地」についてネットで調べると「かち・かじち」という姓がありましたが、
語意は出ていませんでした。
そのまま「鍛冶地」と考えていいのでしょうか。

そうだとすると、野見宿禰は「諸国の鍛冶地」を与えられたということなので大変な褒賞です。
しかもこの土師はその一つだったというのです。
ここは鍛冶地=冶金の地だったという事になります。

野見宿禰は天穂日(あめのほひ)神の末裔で
天穂日神 → 野見宿禰 → 土師氏 → 菅原氏
という流れがあるそうです。
天穂日神は熔鉄の神だと眞鍋氏が書いています。

思い出すと、菅原道真が久留米市の袴着天満宮で、袴に着替えてまでも神を祀ったのですが、
そこの御神体石はカップ&リングという杯状穴が彫られていて、
元宮の地は隕石落下点を示す椋の木がある所でした。

出目天満宮・袴着天満宮 久留米市御井町高良山 御神体は天体石 
菅原道真は太陰・星暦を守ろうとした?
http://lunabura.exblog.jp/16161071/


太宰府に左遷された道真公ですが、
この宮の伝承によって、ようやく「熔鉄神と菅原氏」の流れが理解出来ました。

道真公が左遷されたとはいえ、県内の老松神社の多さを見て、
こちらでは歓迎されたのではないかと、おぼろげに考えていたのですが、
土師氏 ⇒ 菅原氏という流れに「熔鉄神」というキーワードが存在するのが
この宮で確認出来て、このアイデアに期待が生まれました。

祭神に道真公と吉祥女の夫妻が祀られているのもその縁なのでしょう。
この夫妻が北と南に流された悲劇を土師の人たちは知っていて、
せめてここで一緒にと祀っているのでしょう。

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さて、この宮を参拝したきっかけは
くるま座さんが「変わったものがある」と言って案内してくれた事だったのですが、
何が変わっていたのかすっかり忘れていました。
最近、機会があって尋ねると、「羊」の像があるのが珍しいとの事でした。
上がその写真です。
道真公の関連の宮は「牛像」がよく奉納されているのですが、確かに「羊像」は初めてです。

追加
c0222861_22335978.jpg


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これは境内の左の祠。御神体が丸石です。

c0222861_23435595.jpg

その遠景。
広々とした境内が清々しくて、心地よかった事を覚えています。

この宮から北に3キロほど行くとあの王塚古墳があります。
赤い壁画や副葬品の馬具のヘビーな造りを思い出します。
その被葬者を支えて土器や鉄器作りをした人たちがこの宮を祀ったのでしょうか。

c0222861_23442680.jpg
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この桂川町の丘陵という丘陵は古墳群が沢山造られています。

王塚古墳(1)福岡県嘉穂郡桂川町寿命 感動の装飾壁画を知らなかったよ
http://lunabura.exblog.jp/15066125/


王塚古墳(2)武人は妻と共に星の下に眠るー激動の6世紀を生き抜いた男
http://lunabura.exblog.jp/15085334/


さて、次回はもう一つの老松神社へ。いよいよ内野です。






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by lunabura | 2012-10-10 23:49 | 老松神社(各地) | Trackback | Comments(4)

ウチ考(4)天神社・出雲神と道真公を祀る宮


ウチ考(4)
天神社
 福岡県嘉穂郡桂川町内山田
出雲神と道真公を祀る宮
 

漠然とした内野行き。
「たまきはる 内の大野に 馬並(な)めて」の場所探しだから、
広い狩場があるような地形があればいいけど、あんな山ん中にあるかなあ。
そうだ。ゴルフ場が怪しい。
もともと、ある程度は平地があったはずだ。

今回の目的地は、のらさんが教えてくれた「内野宿」。
そこに向かいながらゴルフ場の地形を見てみよう。

そう思ってルートを調べていると、以前から気になっていた
山の中の不思議な十字路を通れば行ける事が分かりました。
それは、一度も対向車に出会ったことのない山の中に忽然と現れる立派な十字路。
名前?そんなの無い。信号?それも無い。
あの十字路の先に行ける!
ワクワクして行ってみると、災害で通行止め。
それではと嘉麻市方面に下りて行って、人気のない交差点から入ろうとすると、ここもまた通行止め。
今夏の大雨の影響かな。

そう思って見上げると、交差点の地名が「内山田」。
おっと、もう「内」が出てきた。
その角には古いお宮が。「天神社」と書いてある。
寄ってみたい。

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「はい、ここですか?」
連れ合いが気を利かせて車を止めてくれました。
激しい雨も止んで、山際の神社はしっとりと潤っています。
カメラが濡れないように服の下に隠しながら参拝。

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人家があまりないような所に立派な拝殿が。
石の柱に彫り込まれた紋は梅。梅なら道真公だろうか。

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拝殿に上がって参拝。

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神殿のようす。

御祭神はスクナヒコナノミコト・オオクニヌシノミコト・菅原道真。

祭神は王塚古墳館で手に入れた「歩こう ふるさと桂川」(桂川町郷土史会 発行)で判明。
やはり道真公が含まれていたけど、
少彦名命と大国主命がこんな所に祀られていて、ちょっと驚き。
その縁起は分かりません。

この天神社がある桂川(けいせん)町は嘉穂(かほ)郡です。
隣の飯塚(いいづか)市とも、嘉麻(かま)市とも合併していません。

「合併」しなかったという事は、意外に大事な情報で、
地元の人に「どうして合併しなかったのですか」と尋ねると、
「いやあ、あそこは違うから。」
というニュアンスの言葉を何度か耳にしました。

それは古代からの国境(くにざかい)を現代に受け継いだもので、
古代においては、それぞれ独立したクニだったのではないかと推論しています。
これは、るな的、福岡の古代のクニの分布の探査法。

王塚古墳館で、すぐ近くの「出雲」について尋ねた時も同じニュアンスでした。
遠方の人間から見ると、同じ地域に見えるけど、
「王塚古墳を抱える桂川町」と、「内野宿や出雲を抱える飯塚市」は
古代は別の邑だったのではないかと考えてアプローチするわけです。

そして、この天神社は桂川町の奥の方に鎮座しています。
天神社はもとも出雲の二神を祀っていた所に、のちに道真公を祀ったのでしょう。
近郊にも天神社がいくつかあるのですが、その祭神は「埴安神」です。
この違いは興味深いですね。

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拝殿から境内を眺める。巨大な絵馬が沢山奉納されています。

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拝殿と神殿。

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御神木。

さて「歩こう ふるさと桂川」を読むと、この近辺には磐座が散見します。
中でも土師(はじ)の「こうご石」(皮籠石)は4~5メートルの巨岩。
列石の記事はないのですが、発音が同じで、漢字の表記が違うだけの
高良山の「神籠石」と同様、「神が籠る石」だった可能性がありますね。
この皮籠石は地元の人でも分かりにくい所にあるそうです。

さて、この日の山越えルートは二か所とも通行止めだったので、
正攻法で「出雲」から向かう事に決定。
次回はその途中にある「老松神社」(土師)に立ち寄りましょう。


ところで、「ウチ考」シリーズのカテゴリ分けに困ってしまいました。
各神社は神社のカテゴリに入れたいので、
タグの方に<ウチ考>という項目を立てて、
そちらでシリーズで見られるようにします。

この「天神社」。
読み方が確認できていないのですが、「テン神社」と考えて、
とりあえず「タ行 神社」に入れておきます。

地図 天神社









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by lunabura | 2012-10-08 10:42 | (タ行)神社 | Trackback | Comments(10)

ウチ考(3)内の一族


ウチ考(3)
内の一族
 

竹内宿禰が特別扱いされているなあと思われるのが『日本書紀』。
景行天皇の記事の中に、何故か竹内宿禰の出生話がさらりと挿入されています。

それがこの部分。
景行3年の春2月1日に景行天皇は紀伊の国に出かけて、もろもろの神祇を祭祀しようとして占いましたが、吉ではありませんでした。そこで行幸は中止になりました。

代わりに、ヤヌシ・オシオ・タケオ・ココロの命を遣わして祭祀をさせました。ヤヌシオシオタケオココロの命が詣でて、阿備(あび)の柏原で神祇を祭祀しました。

そこに9年間住みました。その時、紀の直(あたい)の遠祖ウヂヒコの娘の影姫を娶って、武内宿禰が生まれました。

この前後は普通の文脈です。
興味のある方はサイドバーの「景行天皇」で確認して下さい。

竹内宿禰はタケオココロ命が景行天皇の代わりに祭祀をした柏原で影姫との間に生まれました。
「柏原」の場所はまだ特定されていません。

「紀伊」の国での話となっていますが、同じ発音で「基肆」と書くと佐賀県です。
父親のタケオ・ココロ(武雄心)命はその佐賀県の武雄(たけお)市に祀られています。
母親の山下影姫は「基肆」の隣の小郡市に祀られています。
竈門神社と言って、影姫の墓所だと伝えられています。

過去記事は以下。
   竈門神社(玉母宮)かまどじんじゃ 福岡県小郡市力武宮の脇
   竹内宿禰の母・山下影姫の墓所だった
   http://lunabura.exblog.jp/16421532/


父も母も有明海~筑後川流域に痕跡を残しています。
紀伊国は基肆国の書き換えの可能性があります。

「紀伊」で思い出すのは徐福伝説です。
有明海~筑後川流域もまた徐福伝説に満ちています。
「キイ」というのは徐福たちの拠点だったのではないかと最近考えています。
それと重なる竹内宿禰の両親たちの伝承。
ウチ家が徐福のもたらした先端技術に触れている可能性は高いです。

さて、『日本書紀』の中でもう一カ所竹内宿禰にこだわった所があります。
それは更に古い時代、孝元天皇の所です。
ここは系図だけが書かれている短い章なのですが、竹内宿禰へ導かれて行くような文脈です。
彼につながる事が当時のステイタスだったのでしょうか。

それらを組み合わせて書いた系図が次の図です。

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孝元天皇はウツシコメ命とイカガシコメ命の二人を后にしています。
二人はウツシコオ命からみると妹と娘です。
妹からは天皇たちが生まれ、娘の系統はは竹内宿禰へと繋がっていきます。

このウツの字は古事記では「内」・日本書紀では「欝」が当てられていて
「欝」は「ウチ」とも「ウツ」とも読めます。
私はこの一族をとりあえず「ウチ家」と秘かに呼んでいます。

孝元天皇は「ウチ家」に妻問いして、経済的基盤を得たようです。
兄妹の「ウツシコオ」と「ウツシコメ」という名前の付け方はいささかアバウトな感じがしますが、
その「ウチ」の名が竹内宿禰に引き継がれたのではないかと考えているのです。
(竹内宿禰の異母兄弟に味師内宿禰という名もみえる。)

系図を見ると竹内宿禰の先代までは「命」がついていますが、
彼の世代になって宿禰に降格しています。
古事記に至っては、タケオココロの命の名前が消滅しているのです。
何か異変が起こったのでしょうか。ちょっと気になりますね。

さて、上の系図に神功皇后の系譜を加えてみました。

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仲哀天皇と神功皇后は開化天皇から枝分かれしています。
さらに一世代上の孝元天皇で竹内宿禰の系譜と分かれています。
要するにこのブログで御馴染みの三人、仲哀天皇と神功皇后と竹内宿禰は同じルーツなのです。
三つの系譜はそれぞれ天皇・王・命という流れです。

仲哀天皇と神功皇后の婚姻によって、ウチ家の結束が強まっています。
竹内宿禰が仲哀天皇と皇后を支えたのは同族だからです。

この三者が一堂に会して戦ったのが新羅です。
新羅との戦いは「天皇家」というより「ウチ家」の事情と言った方がよいかも知れません。

「ウチ家」が天皇家の経済的基盤だとすると、当然ながら経済を支える産物があったはず。
当時の宝物は鉄と銅と金、水銀などの鉱物だと思っています。
ここに、先述の徐福の先端技術が関わっている可能性はないかな。

「ウチ家」の人が住んだ所には「ウチ」という「地名」が残っているかもしれない。
そこには何らかの金属鉱山などの痕跡があるのではないか。
弥生の集落もあるだろう。

「ウチ」と「鉱山」「弥生」が組み合わさったものが私の探す「内」の都かも知れませんね。

竹内宿禰にしか用例のなかった「たまきはる うち」が
古田武彦氏が言われるように飯塚市の内野で詠まれたものだとすると俄然、期待は大きくなります。
(つづく)


ウチ考(4)天神社 出雲神と道真公を祀る宮
http://lunabura.exblog.jp/18539365/





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by lunabura | 2012-10-04 23:14 | ウチ考 | Trackback | Comments(4)

ウチ考(2)「たまきはる 内の朝臣」とは竹内宿禰なんだけど

ウチ考(2)

 「たまきはる 内の朝臣」とは竹内宿禰なんだけど

神功皇后の神社巡りのガイドブックの地図を描いている内に、
文章の推敲をし始めて、すっかり夢中になっていました。
文章が下手なので、いったい何十回推敲したらいいのか…。

福岡県内に300以上伝わる伝承の中のわずか100社だけど、
彼女の存在感が生き生きと描き出せる上に、
約3年間という限られた古代の筑紫の状景が切り取られる奇跡。

そんな中で、まだ謎が多いのが竹内宿禰
彼の両親や、陣営地、出城、末裔たち、などはかなり具体的に分かったのですが、
何故か私は彼の全体像をつかんだという印象がないのです。

私が「竹内」という表記を選ぶようになったのは、
彼が「竹斯(筑紫)」の「内の朝臣」だから、というシンプルな理由から。
「武内」とか「建内」と書くのは、単にカッコよくするためですね。

「内の朝臣」が竹内宿禰だと書くのは、今回が初めてかな。
『日本書紀』なんかにそう書かれているんです。

そして、この「内」とは地名ではないか。
ずっとそんな思いがしていました。
それは「中臣の烏賊津使主」が那珂出身ではないかというのと同じ理由です。
(⇒ 審神者神社)

あれほど自由に物部軍を操るくせに、つかみどころのない竹内宿禰の事を
もっと知る決定打はないか。
そう思って「内」の地名を各地に見つける度に、心に掛けていたのだけど、
どうしても飯塚市の内野が気になる。

その近くには「出雲」があるし、王塚古墳があるし、
羽白熊鷲が逃げ込んだという別伝を持つ老松神社までもある。
何よりも「大分宮」(だいぶぐう)がある。

大分宮は筥崎宮の元宮で、かつ宇佐八幡宮の本宮。
宇佐八幡宮の本宮となると、そのすごさは計り知れない。
宇佐は何せ、日本中にある八幡信仰の総本山なのだ。

応神天皇の神霊が毎年、大分宮に通っていたのが分かったのは
正八幡神社、位登八幡宮伝承から。

正八幡神社 田原麿は仲哀天皇軍に馳せ参じた

位登八幡神社 神功皇后は田原麿の城に半年も滞在した
http://lunabura.exblog.jp/16746001/


古代筑紫の地図を双六(すごろく)に例えると、
大分宮が分かれば「アガリ」だなと思えるほどで、
ここに迫るのには何故か勇気が要る。

「内」と大分宮が関わりがあるのかどうか、全く予想がつかないけど、
今回は「内の朝臣」という表現がある『日本書紀』の神功皇后紀を、
読んでみましょう。

この中に出て来る「たまきはる 内の朝臣」は「魂の極まる 竹内の朝臣」という意味で
「霊力の極まった」と訳しています。
敵が彼を謗って「腹は小石」と言っています。

腹の中の「たま」とは丹田(たんでん)力と言うイメージが近いでしょうか。
霊力がある人は それが大きいんです。
実際に目に見えるほど。

神功皇后は3月5日に、武内宿禰と和邇(わに)の臣の祖・武振熊(たけふるくま)に命じて、数万の軍勢を率いて、忍熊王を討たせました。

武内宿禰らは精兵を選んで、山背(やましろ)から出ました。菟道(うぢ)に着いて、川の北に駐屯しました。忍熊王は陣営を出て戦おうとしました。

その時、熊の凝(こり)という者が忍熊王の軍勢の先鋒となりました。(熊の凝は葛野城首(かづののきのおびと)の祖で,他の本には多呉吉師の遠祖という。)自分の軍勢を奮い立たせようと思って、声高に歌を詠みました。
  かなたの あれ、あの松原 
  松原に 進んで行って、
  槻弓(つくゆみ)に まり矢(音の出る矢)をつがえて、
  貴人は貴人どうし、 
  親友(いとこ)は親友どうし、さあ闘おう。
  我は 闘うぞ。
  霊力が極まっているという 内の朝臣と。
  やつの腹のは 小石だらけさ。
  さあ、闘うぞ、我は。

その時、武内宿禰は大軍に命じて、全員に髪を椎(つち)のように結わせました。そして号令をかけて、
「おのおの、控えの弦を髪の中に収めよ。また木刀を腰につけよ。」
と言いました。

そうして、皇后の仰せだと言って、忍熊王をだまして言いました。
「吾は天下を取ろうとは思っていない。ただ、幼い皇子を抱いて、君王(忍熊王)に従うだけだ。どうして、戦おうなどと思うだろうか。
願わくは、共に弦を絶って武器を捨て、ともに連合して和睦しようではないか。そうして、君王は皇位を継承して、その席に安心して座り、枕を高くして安んじて、よろずのまつりごとを専制なさるがよい。」と。

そう言うと、はっきりと分かるように、軍勢に命じて、全員に弓の弦を断ち切らせて、太刀をはずして、川に投げ入れさせました。忍熊王はその偽りを信じて、自分の軍勢に命じて、武器をはずして川に投げ入れて、弓の弦を切らせました。

そうすると、武内宿禰は大軍に号令をかけて、髪に隠した弦を出して、再び弓に張って、真剣を付けさせました。そうして、川を渡って進軍しました。

忍熊王は騙された事が分かって、倉見別(くらみわけ)・イサチの宿禰に言いました。
「謀られた。もう、代わりの武器はない。どうして戦えようか。」
といって、軍を連れて少し退却しました。

武内宿禰は精兵を出して、追いかけました。ついに逢阪で対戦して、討ち破りました。それで、その地を名づけて逢坂と言います。

忍熊王の軍勢は逃げました。武内宿禰はささなみの栗林(くるす)で追いついて、大勢を斬りました。そこに血が流れて、栗林にあふれました。それで、縁起が悪いと言って、今に至るまで、この栗林の木の実は御所に献上しません。

忍熊王は逃げて隠れる所が無くなりました。そこでイサチの宿禰を呼んで、歌を詠みました。
  さあ、我が君、イサチの宿禰よ。
  霊力が極まった 内の朝臣の 
  頭槌(くぶつち)の太刀にやられて 痛手を負わないとするなら、
  ニホ鳥のように 水に潜るしかない。

こうして二人共に、瀬田の渡し場で身を投げて死にました。その時竹内宿禰は歌を詠んで言いました。
  淡海の 瀬田の渡し場に 潜る鳥
  目には見えないので 本当に身を投げたかどうか分からなくて、
  溜息がでる。
そう言って、その遺体を探させたけれども、見つかりませんでした。

こうして数日して、ウヂ川に出ました。武内宿禰はまた歌を詠んで言いました。
  淡海の 瀬田の渡し場に 潜る鳥
  田上を過ぎて ウヂで捕まえた。

うむ。だまし討ちか。
この戦術。いただけませんな。
でも、戦いのシーンはこんなのばっかり。(;一_一)

ま、それはさておき、
歌謡を訳してみて、竹内宿禰が「たまきはる 内の朝臣」だという事が分かりましたが、
他に出て来る数例とも竹内宿禰を指しています。

そして、前回の(「ウチ考(1)に書いたように、万葉集の冒頭を飾る数種のなかに、
この「たまきはる ウチ」が出て来たのですね。

たまきはる 内の大野に 馬並(な)めて 朝踏ますらむ その草深野」

これは地名だけど、もしかしたら竹内宿禰と何らかの関わりがあるのかな?
と期待した訳です。
関係無かったら残念ですが、行ってみないと分からない。(つづく)

ところで私は近畿地方の地勢が全く分かりません。
この話はいったい何処の話なのか、誰か教えてくださいな。



飯塚市 内野


  






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by lunabura | 2012-10-01 14:33 | ウチ考 | Trackback | Comments(4)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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