ひもろぎ逍遥

lunabura.exblog.jp ブログトップ

<   2012年 11月 ( 10 )   > この月の画像一覧

アイルランドのロッホクルー ・奥壁に描かれた太陽光の足跡


ロッホクルー

アイルランド
奥壁に描かれた太陽光の足跡 

前回の砥上観音塚古墳の中の*や◎のマークを見て、思い出したのが、
テレビで放送されたアイルランドのマウンドの中の装飾壁画。

2010年の9月のNHKの放送を見ながら撮影したもので、
タイトルも説明も記憶にないのですが、百聞は一見にしかず。
見てみましょう。

c0222861_2152351.jpg

イギリス北部にはレイラインがあって、その線上にあるのがこのロッホクルーの遺跡。

c0222861_2154243.jpg

まるで天井石が無くなった古墳そっくりのもの。

c0222861_2161437.jpg

その向こうにマウンドが。積石塚と見まがう。
マウンドの右端に二人が立っていますが、そこに入口らしき突起。

c0222861_21632100.jpg

羨道に当たる部分はすでに線刻画。

c0222861_216462.jpg

ライトアップされた奥壁。右にある丸に花のようなマークが太陽のしるし。
それが複数ある。

c0222861_217413.jpg

上部の太陽のペトログリフに光が当たっていくようす。
周囲のばらばらの線刻画は、山口県の彦島のペトログリフと似てない!?

c0222861_2171963.jpg

「すべて太陽のしるしをなぞっていくんですか?」
「そうです。」

c0222861_2174443.jpg

右下の太陽のしるしにも当たった。
(しかし、どうして光がスポットのように当たるのかは不明。
懐中電灯を当てただけかもしれない…。)

c0222861_2175933.jpg

これは奥の部屋から外を見た様子かな…。
小口の積石が見えます。
これって、日本の古墳と比べてどうなんだろう。

筑後国造さん、蕨手さんは沢山の古墳を見ているから、どんな印象かな。

砥上観音塚古墳の壁画を見て、こんな番組があったのを思い出しました。
さて、砥上観音塚古墳のマークに太陽光は当たるのかな?

砥上観音塚古墳の壁画はコチラ 
「山歩き古墳巡り」
http://riki82.blog78.fc2.com/blog-entry-423.html#more

追記
ロッホクルーは紀元前4000年、ダーナ神族の遺跡。
春分と秋分の朝日が最奥の奥壁まで届くという。






ときどき、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2012-11-28 21:12 | 太陽祭祀線 覚え書き | Trackback | Comments(2)

太陽祭祀線 覚え書き


ずっとブログ更新が御無沙汰ですが、訪問して下さっている皆様ありがとうございます。

ガイドブックの読者層のターゲットを変えたので、全面的に書き換えています。
大変ですが、あらたに気づく事が多くて、勉強になっています。

今回は私のブログの弱点(・.・;)である「山の上の神社や古墳」をレポートされている
筑後国造さんの、「砥上観音塚古墳」でのアイデアに触発されて
思い出話をつらつらと。

「山歩き古墳巡り」
砥上観音塚古墳
http://riki82.blog78.fc2.com/blog-entry-423.html#more

これは神功皇后が羽白熊鷲攻撃の前に登った山と言われていている砥上山にある
装飾古墳です。
ちょうど西日が古墳の奥に入り込んで来た時、
中の太陽か星を表している*や◎のマークの上に
夏至や春分の日に、太陽光線が当たるような仕組みになっているのではないかと
ひらめいたという事です。

このように*や◎のマークが、正面でなく、ずれた位置に描いてあるという点で
アイルランドの遺跡がまさしくそっくりなんです。
太陽光線が移動しながらそのマークをなぞって行く。
そんなテレビ番組があったので、見た方も多いと思います。
(例の如く、名前も忘れてすんまっせん)

私はスコットランドの方に行ったのですが、
円墳そっくりのマウンド中に入ったことがあります。
中は竹原古墳のようにドーム型になっていました。
そして、やはり夏至か冬至の光が差し込むように設計されていました。

スコットランドは緯度が高いので、夏は夜中の10時過ぎでも明るいのですが、
逆に冬は早くから日が暮れるので、冬至の日の到来を心待ちにしたようです。

遺跡に太陽観測の仕掛けをしたものがざらにありました。
ストーンヘンジもまた夏至に関わるものでした。
(石のサークルと木のサークルのツインサークルだと放送されていました。)

実は日本でもそのような仕掛けのある神社があります。
一つは大分県の八所神社(?これもまた名前を覚えていない…)でしたか、
洞窟の神社を探し廻って三つ目の神社。
そこに辿りついて中に入った時、入り日がすうっと差し込んで、奥壁を照らしました。
その日は春分の日でした。

また、福岡県の宝珠山の神社。
岸壁に彫り込まれた穴。それは「大日社」と書かれていたと思います。
そこに立つと東に三角形の山が見えました。
春分の日はきっとその左から太陽が昇るだろうと思われる地形でした。
古代の太陽祭祀の遺跡に仏教が入っ来て大日如来を祀る事になったのだろうと
話し合ったものです。

吉野ヶ里遺跡があれほど綿密な夏至冬至ラインを祭祀する仕組みを作っていたのは
私にとってはかなりの衝撃でした。
そして、その夏至ラインを観測しようとすると、日本では梅雨に引っ掛かって、
なかなか出来ないのです。
これは日本にやって来た夏至族(と勝手に呼んでますが)の不幸でした。

纒向遺跡を祭祀した人たちは春分ラインを祭祀しているので、全く別民族です。

砥上観音塚古墳の記事を見て、そんな事を思い出しました。

今回は備忘の為に書きましたが、いずれはこれらを紹介したいと思います。

さて、御心配のマカフィーは上手くいってます。
最初は一ページ開くのに7秒から2分ほどかかってましたが、今は数秒で開きます。
(これが重いという現象なんですね。)








ときどき、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2012-11-27 23:11 | 太陽祭祀線 覚え書き | Trackback | Comments(4)

王たちのピンクの石棺と古代船・海王


王たちのピンクの石棺と古代船・海王

熊本県 宇土マリーナ

まだまだ時間が採れずにいますが、記事も書きたいよ!
と言う事で、天草北部の古代の旅の続きです。

この旅のメインイベントは近畿の王たちの憧れの
ピンク色の棺の採掘現場・馬門(まかど)への旅です。
今回はその搬出港に置かれていた、復元された古代船と石棺とのご対面です。

『大王のひつぎ海をゆく―謎に挑んだ古代船』という本をサイドバーで紹介していますが、
近畿地方に出土するピンク色の石棺がなんと熊本県でしか採れない石だという事で、
どうやって運んだのか実験が行われました。
1000キロの海を船で運ぶのですが、この宇土マリーナが実験船の搬出港だそうです。

c0222861_2040656.jpg

いかにも南国という印象のマリーナの一角に石棺と船が置かれていました。

c0222861_20402573.jpg

雨で汚れているようですが、ピンクが全体に残っています。

c0222861_20404450.jpg

近づいて見ました。削ったらピンク色が出て来そうです。
この後、採掘場に行きますが、本当にきれいなピンクなんですよ。

なんでこんな遠くの石が近畿まで運ばれたんだ、という謎を解き明かそうと、
実際に石棺が作られて古代船が造られました。

現場の説明板を書き写します。
実験航海
およそ1500年前、熊本県の宇土半島で造られた石棺が「大王のひつぎ」として畿内に運ばれました。どのような方法で重い石の棺が、有明海から大阪湾まで波濤を超えて運ばれたのか。

その謎に挑み、2005年夏、「大王のひつぎ実験航海」が行われました。復元した古代船は伴走の現代船の支援を受けながら34日間、22の寄港地をつないで有明海、東シナ海、玄界灘、瀬戸内海、播磨灘、大阪湾の1006kmの海路をたどりました。
大王のひつぎ実験航海実行委員会

これについて書かれた本に出会ったのは、図書館ですが、
ちょうど、香椎宮で崩御された仲哀天皇を竹内宿禰が下関市の豊浦宮まで
搬送する話が日本書紀に書かれていて、日付まで書かれていたのを見て、
疑問に思っていた時でした。

本に描かれた寄港地を辿ってみて、
香椎宮~豊浦宮の間が実際にその日数で航海できるのを知って、
日本書紀に真剣に向き合う気持ちが生まれました。

本の中で印象深かったのは、航海の旅程を組む時に停泊港を探すと、
ちょうどぴったりの所に必ず港があったという内容の一文でした。
ここからだと、22の港があって、一日漕げばちゃんと陸地に着岸出来たと言う訳です。

それぞれの海の条件を知り尽くした海人族や水軍たちのネットワークが
古代に既に成立していたんだと思うとワクワクします。

マリーナには古代船も展示してありましたよ。

c0222861_2041557.jpg

船底を見て下さい。丸木船が基本で、その上に波よけの舷側板が立っています。
これを準構造船というそうです。
「準構造船」とは良く聞く言葉ですが、現物を見てようやく理解出来ました。

c0222861_20421046.jpg

上から見られるようになっています。
オールとかその大きさに驚き。
二人乗りのボートか大きなフェリーしか知らないので、
この大きさは妙に人間臭くて、身に迫ってくるものがあります。

ロープがあります。
古代にロープがあったんだろうかと考えたりしますが、
ヨーロッパ辺りで、新石器時代(日本では縄文時代)だったでしょうか、
紀元前のロープが発見されたのを読んだことがあります。
写真で見る限り、現代と同じ編み方でした。
(場所も時代もきちんと覚えてなくて済まんです。)

c0222861_20422953.jpg

右にある臼の形をした大きな飾りは伊都国歴史博物館で現物を見たぞ。
調べると、「石見型木製品」(いわみがた)と言うもので、
糸島の釜塚古墳の周溝から出土したと書いてあります。
他には畿内と韓国月桂洞1古墳で出土。ふむふむ。

この船の材料はベイマツ。
それが書いてある説明文を読んでみましょう。

古代船「海王」
わが国では縄文から中世にいたるまで、自然の木を船形にくりぬいた丸木船が主流だったとされていますが、弥生時代以降、玄界灘をわたるような「新しい船」が登場します。

丸木船を船底として、両舷に波よけの舷側板を立てた準構造船です。
「海王」は五世紀後半の古墳出土の船型埴輪をモデルに出土船材の大きさや
当時の造船技術推定により設計・建造されました。

構造:樹齢500年のベイマツの原木を接合した木造準構造船
規模:長11.9m 最大幅2.05m 自重5トン
航行:舷側支点櫂18本による糟行、速度4~5ノット、乗組可能要員30人
基本設計:松木哲神戸商船大学名誉教授
建造:藤田造船所(福岡・志賀島)

そうか、「海王」は古墳の埴輪がモデルなんだ。

c0222861_2043105.jpg

これは当時の写真です。

どうして古墳時代には帆を使わなくなったんだろう。
神功皇后の時代は帆柱を使って帆を布で作ったという伝承が各地にある。
ところがずっと後の時代、遣唐船は帆を竹で編んだりしたもんだから、
バランスが悪くて遭難しやすかった。

c0222861_2044896.jpg

レッドクリフでは帆船が主体だ。
この映画は時代考証が間違っているのだろうか。
西暦208年という時代だ。
倭国からはいくつもの国が使者を送っていた。

彼らは帆船の技術を知らなかったのだろうか。
手漕ぎで玄界灘を渡ったのだろうか。
徐福たちも手漕ぎ船でやって来たのだろうか。

最近の私は通説の古代像に「?」ばかりになってしまった (+_+)



地図 宇土アリーナ
熊本県宇土市下網田町3084−5






ときどき、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2012-11-19 20:46 | ピンクの石棺と馬門 | Trackback | Comments(4)

困ったマカフィー


サーバーって言うんでしょうか。
ネットをつないでいる所がマイシールドからマカフィーに変えると言う。

実はこのパソコンは最初にマカフィーを入れて、めちゃめちゃになったことがあって、
原因がマカフィーだと分かるまで、メーカーに何十回も電話し、
ついにパソコンを送って調べて貰ったりして、大変だった。

メーカーに電話している間、電話の向こうの声が聞こえて来て、
あちこちでマカフィーという単語が飛び交っていた。
他の人も困っていたんだろう。

当時、ネットにいつもつないでいた訳ではなかったので、
マカフィーは仕事がなくて、どうやら本体の方を壊し始めたという印象。

あちこちに電話して、それが分かって、削除したけど、
残党が生き残っていて、まだ悪さをするので、
今度はマカフィーの方に電話して、完全削除のプログラムを送ってもらった経緯がある。

そうそう。
それから、パソコンを二度初期化。

パソコン初心者には厳しい経験だったので、
サーバーを選ぶのに、マカフィーでないのを条件で、現在の所に契約。
それなのに、マカフィーに変えるなんて…。(涙)

サーバーにその事情を話したら、
「とりあえず、導入してみて、駄目だったら何か考えたら?」
という有り得ない返事。

データが壊れたらどうするんだい。

バックアップのための外付けを買って来て、取り敢えずバックアップ。
私、恐怖なんです。










ときどき、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2012-11-17 09:08 | にっき | Trackback | Comments(7)

大宰府考2、白村江の戦いの遠因 、遣隋使・きりんコメント


大宰府考2、白村江の戦いの遠因 、遣隋使
きりんコメント
 
● これに対して聖徳太子は、裴清
「私は、なにぶん田舎者で国際儀礼を知らず、失礼な国書を送って申し訳ありませんでした。」
と素直に謝罪します。(時系列⑧)倭国と比べたら日本国は確かにその通りだったのですから
仕方ありません。

しかし一方で日本国は、近年は仏教にも力を入れており、
倭国よりは隋の理念に近いものを持っていることを伝え、対・倭国の隋-日本秘密同盟を呼び掛けます。
(秘密にしておかねば、倭国が日本国にどう出てくるか分かりませんので)

これで裴清は、倭国に対しては「日本国との密約」という保険を手に入れて帰国することができました。


●(時系列⑨)日本国から隋への返書には

「東の天皇 西の皇帝に敬まひて白す(もうす)」

と「倭皇」を「天皇」と書き直して聖徳太子が送ったという記事が日本書紀にのみ記されてあります。

日本国に対して国書を送ってもいなかった隋の歴史書には記されていなかったとしても
これはしかたありません。
こうして同盟の密約は伏せられ、日本国についての積極的な記述を隋は残さないまま
10年後に隋帝国は滅びてしまいました。


● 「日本の天皇 隋の皇帝に 敬まひて白す」と国名で書けばよいものを、わざわざ
「東の天皇 西の皇帝に敬まひて白す」と方位で記しています。

この
「東の~、西の~」は、以前の国書の
「日出ず処の~、日没する処の~ 」に相当し、
やはり、倭国を基準にした方位にこだわって書き表すことで、
軍事同盟を再度呼びかけているのだと私は考えます。


●聖徳太子は、「倭皇」を改め「天皇」と記し、倭皇から倭という漢字を抹消することにより
別国であることを強調したという推測を私はしています。

「隋の皇帝」に対しての「日本の天皇」というよりも、
「倭の倭皇」に対しての「日本の天皇」という考え方です。

なんといっても、 倭国は「天を以て兄と為し、日を以て弟と為す 」という国ですから。
日本国が倭国に今後対抗していこうと志すならば、
「日皇」では弟のままで従属関係を脱することが叶いそうにありません。
そこで倭国の兄である「天」を冠した「天皇」と称するべきだと聖徳太子が考えたとしても
不思議ではありません。

裴清が持ってきた国書には「 皇帝 倭皇に問ふ」と書かれてあったことを小野妹子は知っていましたから、
倭国王が倭皇ならば、日本国王も「王」ではなく「皇」の字を使わねば、釣り合いがとれないので、
日本は「天皇」と称するのが相応しいと考えたものと推測します。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以上、遣隋使から読みとく白村江の戦いの遠因を私なりの仮説で推測してみました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


隋の高句麗への遠征政策は、次の唐王朝でも継承され、
隋と日本国の密約は、最後の遣隋使と最初の遣唐使どちらの使者でもあった 犬上 御田鍬(いぬがみ の みたすき)によって
唐にも説明され、密約同盟政策が引き継がれていったものと考えます。

通常、遣唐使は毎年出さねばならないものですが、日本が遠国ということもあるでしょうが、
日本国と唐の間には倭国があるため頻繁な使者の往来は倭国を刺激する恐れもあるため
20年に一度の遣唐使派遣という特別な措置がとられたのだと思います。

また、日本国は密約によって唐の冊封国となることを回避し独立を担保することにも成功しました。
日本国があからさまに唐の臣下となる冊封国になれば、倭国がそれを警戒するに違いないからです。
あくまで密約であることに双方に利があるのです。

643年に高句麗と百済が同盟した時点で、水面下で唐日本国同盟の密約が発動し、
百済→倭国→高句麗の滅亡のカウントダウンがスタートしたというのが、私の見解です。

最後に
参考までに今回の仮説に関連のある事件を年表順に列挙しておきます。


581、隋 建国 【仏教を厚く尊ぶ】
587、日本 蘇我馬子(仏教受容派)が物部守屋(仏教反対派)を暗殺。崇峻天皇即位
589、隋 中国を300年ぶりに統一【中国大陸での仏教の勢いが一気に増す】
590、唐 東突厥と相互不可侵条約【西の兵を東の高句麗へ向ける準備?】
592、蘇我馬子が 崇峻天皇を暗殺。推古天皇 即位【日本の仏教勢力拡大】
593、聖徳太子 摂政に就任
594、聖徳太子 仏教興隆の詔
598、隋 高句麗遠征(第一次)

600、遣隋使(第一回)※日本書紀に記載なし。おそらく倭国が派遣するも、隋の冊封国となる意志が倭国王になくその後は隋に朝貢せず。
600、倭国 新羅へ遠征
603、日本、小墾田宮造営し遷都、 冠位十二階 制定
604、隋初代皇帝 崩御、煬堅即位
604、日本、十七条憲法 制定
607、遣隋使(第二回) ※小野妹子 派遣
608、遣隋使(第三回) ※小野妹子 派遣

610、遣隋使(第四回)
612、隋 高句麗遠征(第二次) ※将兵100万人を失う
613、隋 高句麗遠征(第三次)
614、遣隋使(第五回) ※ 犬上 御田鍬(いぬがみ の みたすき)派遣
614、隋 高句麗遠征(第四次)
615、隋 農民反乱激化
618、隋滅亡、煬堅 崩御、唐 建国 高祖 即位

622、聖徳太子 没
625、唐の高祖が、「道教が先、儒教が次、仏教が末」という詔で道教を尊ぶ国策を宣布する。これ以降、唐では基本的に道教を上位に置き奨励し、仏教を下位に置いて抑圧する政策が採用された。【例外は則天武后や韋后の治世の仏教奨励策】
626、唐 高祖 崩御 太宗 即位
628、推古天皇 崩御

630、遣唐使 (第一回) ※ 犬上 御田鍬(いぬがみ の みたすき)派遣
643、高句麗と百済が同盟し、新羅が唐へ救援依頼
644、唐 高句麗遠征(第一次)
645、大化の改新、蘇我馬子 没【唐の仏教抑圧政策も影響あり?】
646、唐 高句麗遠征(第二次)
649、唐 太宗 崩御 高宗 即位
653、遣唐使 (第二回)
654、遣唐使 (第三回)
656、飛鳥岡本宮 遷都
658、日本、蝦夷討伐
659、遣唐使 (第四回)

660、百済滅亡、唐・新羅が勝利
661、斉明天皇 崩御
663、白村江の戦い、(倭国 滅亡?日本 密約を果たし漁夫の利) 唐・新羅が勝利
664、大宰府 水城を造営
665、大野城と基肄城を築城
665、遣唐使 (第五回)
667、遣唐使 (第六回) ※入唐せず
667、近江 大津宮へ遷都
668、高句麗滅亡、 唐・新羅が勝利
668、天智天皇 即位(高句麗が滅亡したタイミングというのが意味深)
669、遣唐使 (第七回)
669、中臣鎌足 没

670、羅唐戦争 (676年まで)
671、天智天皇 没
672、壬申の乱( 羅唐戦争継続中に乱を治める必要あり )
673、天武天皇 即位
676、新羅が半島統一(唐の勢力低下。ただし、新羅は羅唐戦争の戦前・戦中・戦後を通して一貫して唐との朝貢冊封関係を維持し続け、年号も唐の年号を使用し続けた。また、日本としては唐に対して新羅という緩衝国を失わずに済む最上の結果となった)





きりんさん。ありがとうございます。
すごくすっきりとしました。 






ときどき、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2012-11-14 13:03 | コメントまとめ | Trackback | Comments(0)

大宰府考1、白村江の戦いの遠因 、遣隋使 きりんコメント 


大宰府考1、白村江の戦いの遠因 、遣隋使
きりんコメント

以前のメールで、
倭国日本は7世紀半ばまで(正確には白村江の敗戦まで)日本列島に両立した別国だ
という仮説を立てたことがありましたが、その仮説を前提に、
遣隋使聖徳太子の事例を考えると、また新しい仮説へと発展させることが出来ます。

それは、
聖徳太子はなぜ、隋の煬帝にあれほど強気な国書を送りつけることができたのか? 」
という謎についてです。

【※仮説の前提として、次の二点を大前提とします。
●聖徳太子は実在した。
●遣隋使の小野妹子は聖徳太子が派遣した。】

①607年の遣隋使について隋書によると、聖徳太子は遣隋使を派遣した際に 使者を通じて以下のように奏上しています。

「 聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。
故に遣して朝拝せしめ、兼ねて沙門数十人、来りて仏法を学ぶ」

意訳すると、
「海西の菩薩のように慈悲深い天子が、重ねて仏教を興隆させているとお聞きしております。
それゆえに使者を遣わせて朝拝いたしました。
同行させた僧侶数十人に仏教を学ばせたいと存じます」


②そして、あの有名な国書の一文が続きます。

「 日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々」

中華思想的には無礼この上ない国書を携えて来た小野妹子は、隋の皇帝の逆鱗に触れることとなります。
しかし、
これは通説では、当時、高句麗と戦争状態にあった隋の煬帝の足元をみた聖徳太子の優れた国際感覚と計算しつくされた外交手腕によるものとされています。

この国書以降、日本は中国の冊封を受けた属国とはならない意思を示しつづけ、西の隋の皇帝に対しての東の日本の天皇として、対等外交を模索し、やがては独立国日本を確立する道のりの最初の一歩となったとされています。


③国書を見た煬帝は立腹し、外交担当官に「蕃夷の書に無礼あらば、また以て聞するなかれ」と命じたといいます。無礼な蕃夷の書は、今後自分に見せるな、というとこです。

この聖徳太子からの国書の文面は、中国の皇帝と日本国の王が同格であつかわれており、中華的思想では周辺民族は中国より下であり、中華文明を慕ってやってくるものでなければならないという外交常識から外れた、はなはだ無礼なものでした。

また、日本は「日出ずる処の天子」であるのに対して、隋の煬帝は「日没する処の天子」と記されており、書面上では隋が斜陽し没落してゆく印象を与え、傾国の皇帝呼ばわりされた煬帝は、ひどく立腹したとも言われています。

【もっとも、この国書の日没=没落は予言めいており、現実に隋は5年後の612年に高句麗遠征で100万人の将兵を失い、11年後の618年には煬帝が部下の近衛兵から殺害されて隋帝国は崩壊している】


④しかし、その一方で煬帝は、 翌年に自らの使者である裴清(日本側記録では裴世清)を遣隋使の帰国に同行させて状況確認の任務に当たらせ、倭国が高句麗と同盟を結ばないように懐柔策をとります。

これは、
高句麗との戦争を有利に運ぶ為に、隋は日本を味方にしておきたいはずだと予想し(中国の王朝はいつも遠くの国を味方にして近くの国を攻めるという鉄則に従っているので)、日本に友好の使者を遣わす筈だと聖徳太子が読みきった外交成果だったと言われています。


⑤ちなみに隋の記録では「男の王 、后妃多数」とあり、女帝(推古天皇)の時代と異なるため、男の王とは聖徳太子のことか、誤って他の時代の男性天皇を表しているのではないかといわれています。


⑥日本の無礼に怒った煬帝も一応は返礼の使者を出したことは隋書、日本書紀ともに書かれています。
また、日本書紀にのみ 隋の皇帝から授かった返書の国書を小野妹子が帰国途中に誤って紛失したとされています。
裴清が持ってきた国書には「 皇帝 倭皇に問ふ」と書かれており、倭王を倭皇と記しなおしてあり、隋としては最大限の譲歩がなされた表現が国書の中からも感じられます。


⑦裴清は
「 隋皇帝の徳(人民への教え)は二儀(天と地、主と従)である。沢がいずれも四海に流れ下るように、隋の政治体制や理念を手本として見習うようにと教えるために、私が遣わされてきたのです、よって天子自らが諭し命じた事と同じである」
と聖徳太子に伝えます。


⑧これに対して聖徳太子は、裴清に
「私は夷人であり、海隅に僻在して礼儀を知らない」
と謝罪したといわれます。
これは「私は、なにぶん田舎者で国際儀礼を知らず、失礼な書を送って申し訳ありませんでした。」という謝罪ですが、太子が震え上がって言っているのか、とぼけているのか、見方によって判断がわかれるところです。


⑨更に隋への返書には「東の天皇 西の皇帝に敬まひて白す」と倭皇を天皇と書き直して聖徳太子が送ったという記事が日本書紀にのみ記されてあります。


・・・さて、ここまでは通説を時系列で列挙していったのですが、ここからは私なりの推理や仮説を加味していきたいと思います。


私の仮説としては、 次の通りです

●倭国(九州)と日本国(近畿)は、日本列島の東西に両立した別国である。

●東の日本国に聖徳太子がいた時代に、西の倭国には 阿毎 多利思北孤 王がいた。

● 倭国と日本国の勢力比較をすると倭国の方が力が上であった。また、倭国は百済に対しても強い影響力をもっていた。

●西暦600年の遣隋使は倭国の阿毎 多利思北孤が派遣した。(よって日本書記に記述がなく隋書のみ記載)

●西暦607年の遣隋使は日本国の聖徳太子が派遣した。(日本書記によると最初の遣隋使派遣)

● 倭国は純粋な神道の国であり、日本国は神道に仏教を融合させようと努力した国であった。(結果、蘇我氏の影響力が増大)

●時系列①にあった西暦607年遣隋使の奏上では、 「海西の菩薩天子と誉れ高い隋の皇帝と同じく、我が国も仏教をもって国を治めようとしております。

同じ仏教の価値観を共有する我が国の僧侶を遣わしますので、どうぞ仏の教えをお教えください。」と伝えることで、 隋と日本は同じ仏教国であることを強調しつつ、 神道の倭国と、仏教の日本国の宗教面の違いをアピールしたかったのではないか。

一方、
西暦600年の倭国の遣隋使では、神道に則って夜に星を見て占いをしながら政治判断していた(結果、夜に天を兄とし星見をするために起きていて、昼の日を弟として日中寝ていた)という倭国の政治手法を、隋の初代皇帝の楊堅(= 煬帝の父)が耳にし倭国の政治のあり方が納得できず、また、道理に反したものに思えこれを改めるよう訓令した、という話とは極めて対照的です。

一種の宗教戦争の色を帯びてきますが、神道国家の倭国を、仏教国の隋と日本国で東西から挟み撃ちにしようという戦略が聖徳太子にはあったのかもしれません。

また、
昔から領土拡大に遠交近攻を策に用いる中国ならば必ずや同盟話に乗ってくると踏んでいたのかもしれません。


● ②そして、あの有名な国書の一文
「 日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々」
が登場するのですが、
「日出ずる処の~、日没する処の~」というのは、倭国を基準とした方位ではないのかと私は考えています。

軍事同盟の呼び掛けなら対等な表現でも差しつかえなかろうと思ったのかもしれませんし、倭国のように古代中国の南朝に国書を出した経験も全く無い日本国としては、初めての国書作成で中華思想的な礼儀作法をただ単に知らなかっただけのようにも思えます。

そして、もし通説どおり聖徳太子が無礼を承知で書いた国書だったとしても、日本国としては隋に対して、倭国を緩衝国とした絶対的なリーチの長さがあり、それが心の余裕を生んでいたのかもしれません。

いくら隋の皇帝でも倭国を飛び越えて一気に日本国を攻めることは不可能ですから。
隋に対しては直接に国境を接していないという地理的条件と安心感から、遣隋使を派遣する際に、あの強気な国書を書き記すことが可能だったのではないかと考えるのです。


●③国書を見た皇帝は立腹し、無礼な蕃夷の書は今後自分に見せるなと命令します。普通ならこれで国交断絶か戦争で話は終わりです。
返書の使者など、まず立てません。
しかし、 煬帝は思います。「日本列島から来たというあの使者は本当に倭国の人間だったのだろうか?」と。

煬帝をはじめ隋の宮中の人々は皆、日本列島と倭国の名は7年前に聞いたことがあっても日本国は知りません。

日本国の聖徳太子による軍事同盟の呼び掛けなど、礼儀を欠いた国書の為にまったく聞く耳も持たれず、同盟話はおろか日本国の存在をきりだす事すらできていません。
ですから煬帝は激怒した後に気が鎮まってから思うのです。

「7年前の倭国からの使者は国書も持たず外交儀礼にも疎かったが、こちらを怒らせるような物言いはしていなかった。夜に起きて星に政を聴き、朝に日が昇ると眠るなど、神道は謎めいていたから

政治を改めるように先帝の文帝(= 楊堅 )が倭国の使者に訓令し促してはいたが、いくら大国・隋から指摘されたからといって国の政や宗教を神道から仏教へたった数年で改めることができるだろうか?」と。

● 煬帝は倭国に国書を記すことにしました。そして、 608年に自らの使者である裴清を小野妹子を長とする遣隋使の帰国に同行させて状況確認の任務に当たらせます。(時系列④⑥の内容)

裴清は、倭国に到着すると 「 皇帝 倭皇に問ふ」とあるように、隋皇帝からの国書を倭王の 阿毎 多利思北孤に渡し疑問をぶつけます。

※小野妹子はこの時点で日本国の聖徳太子(または推古天皇)宛の国書を紛失したことにしました。はじめからそのような隋から日本国宛の国書など存在していなかったからです


●裴清は、 倭王の阿毎 多利思北孤 と謁見し次のことを理解しました。

○倭王の阿毎 多利思北孤 は一目瞭然 男性の王であり、多くの后妃をもっていた。(時系列⑤の内容)

○日本列島から来た小野妹子は倭国からの使者ではなかった。

○倭国は600年の遣隋使派遣以来、一度も使節を派遣していなかった。

○今回の小野妹子を使者とする607年の遣隋使は、日本列島にある国ではあるが倭国とは別の日本国という国からの使者であり、日本国は倭国よりも更に東に位置する新興国であった。

○倭国は600年の初回の遣隋使で、隋の皇帝からの「政治を改めるように」との訓令に失望し、宗教と政治を改める気もなかった多利思北孤は、最初の遣隋使派遣以後は隋との国交を特に積極的に結ぼうとは考えていなかった。

○日本国は近年台頭してきた国ではあるが、倭国と日本国の勢力比較をすると倭国の方がまだまだ力が上であった。

また、倭国は百済に対しても強い影響力を有しており、百済が高句麗と国境を接していることを考えると日本が高句麗と同盟を結ばないように懐柔策をとることが隋にとって最良の策である。

○もし懐柔策が失敗し、将来 倭国が隋との同盟に消極的な姿勢を示したり敵対した場合には、倭国の東に位置するという日本国と連係することで多利思北孤に圧力をかけるという策も状況によってはありえるかもしれない。

○その意味では、中華思想的には無礼この上ない国書を携えて来た小野妹子ではあるが、彼の主である聖徳太子に会うために日本国まで足を運ぶこともやぶさかではない。

以上の状況認識と政治判断から 裴清は小野妹子と共に日本国へ赴き聖徳太子に面会することを決意しました。

●⑦裴清は小野妹子に連れられ日本国までやって来ると、聖徳太子に
「 隋皇帝の徳(人民への教え)は二儀(天と地、主と従)である。沢がいずれも四海に流れ下るように、隋の政治体制や理念を手本として見習うようにと教えるために、私が遣わされてきたのです、よって天子自らが諭し命じた事と同じである」
と高圧的に伝えます。

小野妹子は紛失したことにしていますが、隋から日本国宛の国書など存在しないのですから口頭で伝えるしかありません。

これと同じ内容を倭王の多利思北孤 にも裴清は伝えていましたが、倭王は隋の政治体制を見習うような返答は最後までしませんでした。結果、裴清は日本国行きを決意したのでした。








ときどき、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2012-11-11 23:23 | コメントまとめ | Trackback | Comments(2)

倭国の多利思北孤と、日本国の聖徳太子・コメント


ガイドブックを大きく手直しすることになりました。

忙しくなる事が予想されて、永尾剱神社を急いだのですが、
助っ人のようにキリンさんがコメントをくれました。
しばらくまた記事が書けないので、今回はそのコメントをUPします。

思えば、「倭国」と「日本国」が一時併存した事が分かってから、
日本の古代の見通しが随分よくなりました。

前回「そういえば倭国の王家もアマ氏でした ね…。」と書きながら、
北部九州に残る天原・高天原・天草という地名の数々に
何かヒントがないかなと考え始めています。

今回はキリンさんが
「日本と中国の記事の差」に注目した記事を送ってくれたので、ごゆるりと、どうぞ。



倭国の多利思北孤と、日本国の聖徳太子

 こんにちは。ルナさん。
>(そういえば倭国の王家もアマ氏でした ね…。)
の倭国の王の名で、思うところがあり、長すぎるコメントをお送りします。
以下、本文です。
・・・・・・・・・・・・・・・・


大宰府の成り立ちを考える時、白村江の敗戦は無視することのできない大戦争でしたが、
この戦いの20年くらい前の大事件として大化の改新があります。

かつて、神道(物部氏) vs 仏教(蘇我氏)の戦いに勝利していた蘇我氏が
没落するきっかけとなった事件です。

私はこの事件は通説にプラスして、仏教(蘇我氏)から神道(天皇)への
一種の宗教の揺り戻しだったとも考えているのですが、
その遠因の1つとして、仏教を国教とした隋帝国の滅亡があったものと思っています。

今回は、さらに大化の改新の45年前の遣隋使派遣についての出来事を調べながら、
倭国と日本国について関係を考察していきたいと思います。

まず、遣隋使の記録について、日本と中国では第一回目の派遣年数がいきなりズレています。
中国側の記録では西暦600年、日本側の記録では607年となっているのです。

西暦600年の遣隋使について隋書ではこのような記述となっています。

開皇二十年、倭王、姓は阿毎、字は多利思北孤、阿輩 弥と号(な)づく。
使いを遣わして闕(けつ)に詣(いた)る。上、所司(しょし)をしてその風俗を問わしむ。

使者言う、倭王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。
天未(いま)だ明けざる時、出でて政(まつりごと)を聴く跏趺(かふ)して座す。

日出ずれば、すなわち理務を停(とど)めて云う、我が弟に委(ゆだ)ぬと。
高祖曰く、此れ大いに義理なし。是に於て訓(おし)えて之を改めしむ。



西暦600年と607年に隋へ遣隋使を派遣した倭国の王の名を、
中国の歴史書「隋書」は、「 阿毎 多利思北孤 」と記しています。

倭王の姓は阿毎(あま)、字は多利思北孤、というわけです。
現在の日本の皇族には姓がありませんが、当時の 倭王には「阿毎」 という姓が
あった可能性があるということです。

このなかで、
「阿毎 多利思北孤」の 「阿毎」(あま)は「阿海」の落字ではないかという疑念が
私の中には以前からずっとあるのです。

「熱海」で「あたみ」と読むように「阿海」で「あづみ」と読めればずっとスッキリするのですが。
我が国では海神に「わたつみ」三神もおられますし、
「海」で「つみ」と呼ぶのもありなのかなと思ったのです。

「阿毎」=「阿海」で「あづみ」と読めれば、志賀海神社の現在の宮司さんの阿曇氏まで
系譜が一気に繋がるのですが。

古代中国王朝は ワ国を「倭国」あるいは「俀国 」と表記しているように、
異民族に対しての呼称はわりと大雑把で、侮蔑的な漢字をわざわざ選ぶ傾向があります。

邪馬台国には、邪(よこしま)なんて漢字があてられていますし、
卑弥呼なんて、卑(いやしい)という字がわざわざ当てられています。

卑弥呼は本当は「日巫女」か「日御子」「日皇子」あたりの字が
ワ国の当事者の感覚からすると適当な漢字だと思うのです。

「倭国」という漢字なども本当はワ国側としては「和国」と表記したかったのかなと
私などは空想してしまいます。

卑弥呼の後継者に、台与(壱与 )と歴史書に記された女性がいます。
彼女は「トヨ(イヨ)」と発音されていますが、これは、魏志倭人伝中の壹與のことであり、
後代の書である 『梁書』『北史』では「臺與」 と記述されています。
※(「台与」は「臺與」の簡略代字)

この、台与= 臺與 の呼び名は「とよ」ではなく、
普通に「たいよ」 と読むのではないかと私は考えてみました。

とすれば、「卑弥呼(ひみこ)=日巫女・日皇子」の後継者は、
「臺與(たいよ)=太陽」と呼ばれた女性だったのかもとの推測も立つのですが・・・。
(こんなことを思い付きで書いているのは多分わたしだけですね。)

ヒミコやタイヨを女性の個人名としてではなく、和国の祭祀職名として考えた場合、

【日皇子→太陽】

の流れで祭祀を司る者が継承されてゆき、綺麗な流れになると個人的には感じるのですが如何でしょう。


更に空想の翼を広げて、
倭国=和国とすると、あの聖徳太子の十七条憲法の第一条の

「和を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。
人みな党あり、また達(さと)れるもの少なし。

あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが)う。
しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、
事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。」

とある中の、冒頭部分の

「和を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。 」

の意味は、

「(日本にとって)和国は貴い国であり、決して逆らうことは無きようにせよ。」

と読み解くこともできます。
このように読むと、十七条憲法が日本国内向けに発布されたのはもちろんのこと、
倭=和国むけに発信された恭順を示唆する「政治的メッセージ」を含んでいると
見てとることも可能になります。


(こういう思考ゲームは、たいへん楽しいので、ドンドンいきますね。次のメールに続きます!)



ときどき、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2012-11-07 23:13 | コメントまとめ | Trackback | Comments(7)

永尾剱神社(4)ザビエルの前に筑紫に入っていた聖母マリアの信仰


永尾剱神社(4)
えいのおつるぎ
ザビエルの前に筑紫に入っていた聖母マリアの信仰

「聖母」を「しょうも」と読めば神功皇后ですが、「せいぼ」と読めば聖母マリアです。
この地方は天草四郎で有名なように、キリシタンの信仰が栄えた地。

キリスト教が簡単に受け入れられた背景として、
キリストの死後200年までには、その信仰の人たちが九州に入って来ていたために、
1000年以上経って再び耶蘇教が入ってきた時、
容易に受け入れられる文化的土壌があった事を真鍋氏は示唆しています。

それでは、続きを読みましょう。
遠く『山海経』の頃から「女を以て主となす」が倭人の家の習いとして大陸に知られていたところを見れば、神代の昔は(双子座は)二人の兄弟姉妹よりも、母が我が子を抱き、子を負う姿に託していたと思われる。妹背星(いもせほし)ともよばれていた。

聖母とは神功皇后で、応神天皇の生母であった。近世までは聖母様、あるいは聖母大明神として仏堂の観音像とならんで神祠の聖母像の女人の懐胎出産の祈りの対象であった。

聖母の字はキリスト(紀元前4~30)の母なるマリヤを直観させる。

聖書が倭人に伝えられたのはザビエル(1506~1552)に始まるが、当時の人に宣教師の説くマリヤがいかに映じていたかは不詳である。

しかし、西海でキリシタン禁令の出る慶長17(1612)年までに、あれだけの爆発的多数の信者を集めた背景には、古来の聖母信仰が潜在的基盤を形成していたのかもしれない。

基督(キリスト)教の信仰の自由は明治6年(1873)年から再開されたが、昭和16年(1941)年から同20(1945)年の大東亜戦争の間は、事実上の耶蘇教禁止にほかならなかった。

そして終戦の冬には神道仏教のいかんにかかわらず、九州はどこの僻地もありあわせの食膳でささやかながらも聖誕祭を祝ったことは、今なお記憶に新たなところである。

聖母の名は島原の乱以後の近世の神社からは聊(いささ)かも抹殺されなかった。
宗門改め(しゅうもんあらため)の認定尋問が年毎に行われていても、聖母様の祭日なる陰暦12月14日には神官氏子こぞっての団欒がお火焚祭(おひたきまつり)の形で続いていた事実は史家の気付かぬところでもある。

後半は「聖母」が神功皇后を指すのか、マリアを指すのか分からなくなりました。
これが口述筆記の難しい所です。

「聖母様の祭日なる陰暦12月14日」というのが問題の所です。
そこで調べてみると、陰暦12月14日は応神天皇の生誕日なんですね。
だから、この聖母様とは神功皇后の事でした。

筑紫の人々が双子座を見て、「仲の良い双子」を思い浮かべるのでなく、
「神功皇后が皇子を抱く姿」を思い浮かべるのは、
その潜在意識に「聖母マリアがイエスを抱く姿」があったからだと氏は示唆します。

そう言えば、キリストが生まれたクリスマスの12月25日に近い14日に
ホムダワケ皇子が生まれたという季節感も、
イメージを重ね合わせる助けになったのかもしれません。

イエスは紀元前4年生まれ。(と真鍋氏はベツレヘムの星から計算)。
応神天皇は紀元200年生まれ。
この間、200年の差しかない事に注目すると、聖書が編纂されるよりもずっと前に
「子を抱くマリアの姿」が筑紫に入っていたという計算になります。

中東からいろんな民族が日本にやって来たという事は分かっているのですが、
こうして具体的な祭や信仰の背景を教えて貰うと、
「物や人」と共に、「心」もまた伝わっていた事を肌で感じる事ができます。

これは弥生時代の話ですよね。
伊都国で発見されたビーズのネックレスがインドより西の方でしか
生産できないものだと言う事が科学的に証明されましたが、
「物と人と心」、
これらは分かち難いものだと改めて考えさせられます。

さて、その「心」はどのように根付いているのでしょうか。
氏はさらに詳しく述べています。

邪宗門は隠れキリシタンの形で西海の離島ならずとも、特に筑前肥前の山間僻地で人しれず占星術の形にごく醇朴に率直に守られてきていたところをみると、遠くはるかな悠久の昔に、中東で景教や回教の経典が完成する以前の姿が筑紫に根をはっていたものと推定される。

山里の人々はキリシタン禁令に対して宗教信仰にこりかたまった狂信的信徒によくある対抗的反抗的意識もなければ、諦観に似た寂莫の無表情もなく、ただ何事のあるかをしらず、何事のあるかをしらず、何事の坐(い)ますかを疑わず、星座に一心に合掌していた。

よく信仰の団結を誇張するあまり、いわゆる歴史家が殉教に生々しい描写を連ねるのを常識としているのは、度をはずれた波の飛沫の如き一瞬の描写にすぎないことを銘記せねばならぬ。

この「筑前肥前の山間僻地」というのは背振山系を指していると思われます。
ここには人知れず占星術が伝わっていて、
それは景教などの経典が完成する以前の姿だと氏はいいます。

背振山の北では中臣氏が北の星空を観測し、南では物部氏が南の空を観測し、
吉野ヶ里の人々は高度な青銅技術を花開かせていました。

ところで、景教についても確認しておきましょう。wikiから
ネストリウス派とは、古代キリスト教の教派の1つ。コンスタンティノポリス総主教ネストリオスにより説かれ、431年、エフェソス公会議において異端として排斥された。唐代の中国においては景教と呼ばれる。のちアッシリア東方教会が継承した。

異端とされたのが431年でした。景教と呼ばれた唐の時代は7世紀~。
背振山系の山里にはこれより以前の、教会組織化される前の素朴な信仰が
淡々と受け継がれていたようです。

さて、『儺の国の星』はこの後、白鳥座などの話になります。
今回はそれは省略して、その先を読んでおきます。
ウラルアルタイ民族は特に巫女の居室には鳥の首を象徴した彫刻を飾り付ける習慣があったから、その遺風にしたがって、天鳥船が往来を守る神として、あたかも鶴の頭と鵞(かも)の首に似た竿を立てたかの如き石塔を港や岬に安置した。この遺物が十字架の風波に削られた姿と見る学者が多い。

歴史は傜(かさみ)の長い柱をキリストの死に際の体を支えた十字架に置き換えたのであるが、この時代は近世のわずか200年の出来事にほかならなかったのである。

耶蘇教が神代の天原(あまのはら)、倭人伝の頃の末廬(まつりょ)今の松浦(まつら)の人々に支えられたのは、胡人の血液が西域の聖人の教えをすなおに吸収するだけの素質がまだ乾き切っていなかった証拠であったと思われる。「血は血を呼ぶ」なることわざがこれであった。

「天原」が久し振りに出て来ました。
古代の北部九州は「ありなれ川」(御笠川~筑後川)で左右の島に分かれていて、
左の方は島が多くて海人(あま)が多かったので、「アマノハラ」と呼んでいました。
(そういえば倭国の王家もアマ氏でしたね…。)

当然ながら沿岸には異国からの船が到達するので、
西域の人たちがそのまま残って倭人に混ざっていく歴史も有ったことでしょう。
日本に定着した人々の事を考えると、
西暦200年頃と言えば、キリスト死後、まだ数世代目なので言い伝えもあるだろうし、祖先の信仰を受け入れる血はまだまだ濃かったという事です。

「ゑいのを」(セントエルモの火)から、思いがけない古代の世界を垣間見ました。
「マリア信仰」と「神功皇后信仰」が「聖母の星」を通して繋がったのは驚きです。
いつかは、自分の目でこの聖地から不知火を見たいものです。

それでは、ゆるりと永尾剱神社の細長い参道「エイの尾」を歩いて帰りましょう。

c0222861_0553217.jpg


c0222861_055471.jpg


c0222861_056158.jpg

参道は両側が崖です。
「弥生の道」と私がこっそり呼んでいる地形です。





地図 永尾剱神社






ときどき、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2012-11-04 01:03 | 神社(エ) | Trackback | Comments(2)

永尾剱神社(3)「双子座」を筑紫では「聖母の星」と呼んでいた・背振山と神功皇后


永尾剱神社(3)

 「双子座」を筑紫では「聖母の星」と呼んでいた
背振山と神功皇后の祭祀
永尾剱神社に冬至ライン?
 
今日は前回省略した「二つのセントエルモの火」についてです。

「セント・エルモの火」の説明文をもう一度読み直しておきましょう。wikiから
悪天候時などに船のマストの先端が発光する現象。

大プリニウスによれば、古典期のギリシアでは、発光が一つの場合「ヘレナ」、二つの場合「カストルとポルックス」と呼んだ。

アルゴー船の神話によると、同船に乗り組んでいたカストルとポルックスの頭上に光が灯ったところ嵐が静まったので、この双子は航海の守護神とあがめられ、船乗りの間ではセントエルモの火が二つ出現すると嵐が収まると信じられたという。

ここに双子の「カストルとポルックス」が出て来ますが、
これは明らかに双子座の二つの星の名前です。

c0222861_2142743.jpg


この双子座は日本では「聖母の星」と呼ばれていました。
「聖母(しょうも)」とは誰?
それがこのブログでお馴染みの神功皇后の事なんです。
ホムダワケ皇子を抱いた神功皇后の姿を「聖母の星」に見立てていました。

今回はその辺りを『儺の国の星』で読んで行きましょう。p186
(読みやすくするために一部変更しています)
聖母の星(しょうものほし)
筑前国続風土記 巻21早良郡背振山の条に
山上の御社は、神功皇后三韓を攻めたまいし時、祈願のために是を立て祭り給いしという。神功皇后はこの国に七社を創立したまう。背振の社もその随一なり。

背振山は山岳信仰が盛んな山として、シンポジウムが最近行われたようですが、
そのずっと昔「神功皇后が三韓攻撃の勝利を祈願した」と貝原益軒が伝えています。
この山から玄界灘の航路を見定めたという話もありましたね。

真鍋氏は益軒の話を引用したあと、双子座について説明を始めます。
地中海民族はカストルとポルックスが一対をなす双子座ジェミニが船人の大きな目標であった。双子座は8月12日の暁に西に入り、6月26日の暁に東に上がる。

神功皇后元年の5月1日は陽暦6月18日であり、その前年、仲哀帝9年は5月1日は陽暦5月31日にあたる。歳差25日を以てすれば、月の3日に天を祈る儀式が西域の伝統に則して行われたことになる。

雲間の星影は一つだけではそれが何であるか判じ難いが、二つ相並ぶと、もはや疑う余地がなく、更には二つを結ぶ軸の方位で時と所を二つながら見定め得ることになる。

双子座の二つの星は、街の明かりで星影が薄くなった現代でも、
よく光っていて、色が微妙に違って並ぶので、すぐに分かります。

そんな双子座は地中海の船人の指針となりました。
双子座の特徴は6月26日には夜明け前に東から昇るのに対し、
8月18日の夜明け前になると西に入るという、大きな特徴があり、
時と所を教えてくれる大切な星座だったという訳です。

その後、神功皇后「元年」の説明になります。
???
「月の3日に天を祈る儀式が西域の伝統に則して行われた」という部分の
「月」は「何月」というのが欠落しているのでしょうか。

(歳差が25日ということなのですがよく分からない。誰か得意な方計算して下さい。)
文脈からは、神功皇后が背振山上で行った儀式は西域のやり方を採ったと解釈できます。

真鍋氏は続けて背振山の当時の夜明けを計算します。
航空自衛隊背振山基地の各位の測定によれば、社殿は南面して東寄りに17.0度となっている。これに磁石の偏差6.0度を加算すれば23.0度となる。

既に仲哀帝9(200)年より九州島の自転は5.31度に達しているから、当時の日の出は左手東より北に17.6度であった。

伝説によれば神功皇后は2月6日(3月8日)戊申の仲哀帝崩御から50日後の3月26日(4月26日)丁酉に御輿(みこし)を上げられたのであるが、双子座を西海(ここでは九州か)では聖母星と呼んでいた。

神功皇后(201~269)と応神帝(270~312)をみたてた名であるから、いつのころか八幡信仰が世人に守られて以来のことである。

真鍋氏は古社の向きは測量して決めていたと考えていて、
現代との角度の差を利用して創立年代がいつなのか、いくつかの神社で計算しています。
この背振山頂の古社についても、上記のように計算していますが、
私にはまだこの文の意味がよく分かりません。

それでも、この部分を読みこむと
双子座と地中海船人 ― 聖母の星と神功皇后・応神天皇 ― 八幡信仰
というラインが浮かび上がってきます。
これはいったい何でしょうか。
八幡様といえば応神天皇の事ぐらいは分かるのですが。
神功皇后は地中海の信仰を行った…?
う~む。
これを解き明かすにはまだまだ力不足だな…。

それはそれとして、これまでの神功皇后伝承から考えると、
神功皇后は竹内宿禰や中臣烏賊津使主・物部の胆咋たちと背振山頂に登って夜を明かし、
夜明け前に東に双子座が昇り出すと、航海の守護を祈る儀式をし、
次第に空が白んで太陽が昇るとその太陽を祭祀する。
そんな古代の情景が真鍋氏には見えていたのだろうと想像できます。

真鍋氏は計算に「磁石の偏差と九州島の自転角度」の要素を加えています。
九州島の回転は1800年間に5.31度に達しているのですね。
九州島は宮崎沖の日向灘に沈み込むようにして右に右にと傾いているので、
3.11以来さらに角度は大きくなっているかも知れないなと思ったりしています。

そして、この5・31度を知って、ハタと気づく事がありました。
それは、日拝塚古墳とか、平原遺跡とか、東西の祭祀線軸を意識した遺跡が
微妙にずれている理由が、
この「歳差運動と九州島の自転」によるものだったという事です。

この計算ができれば、いよいよ平原遺跡の年代とかが推定できるのになあ。
(私にはその技量がない…)
平原遺跡は既に約30日ほどのズレになってますよ。


そして、この永尾剱神社の岬からの眺望には冬至ラインが…?!。

c0222861_216778.jpg

これは拝殿に奉納されていた「冬至」です。
え?という事は、あの岬は冬至ラインを意識している?
写真を見ると鳥居が微妙に傾いています。
歳差運動で傾いてる?

この神社には太陽祭祀線が組み込まれているのだろうか?
あわてて、先ほどの岬に戻ってみました。

c0222861_2162317.jpg

観察すると、この岬に対して鳥居と参道ラインは微妙にずれていました。
あの鳥居は新しいけど、古代からあった位置に再建されたのだろうか。
もし、きちんと冬至ラインを意識した仕掛けがあるとしたら、
むむ。ますますこの聖地は面白い所となります。
(つづく)








ときどき、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2012-11-02 21:11 | 神社(エ) | Trackback | Comments(2)

永尾剱神社(2)「セント・エルモの火」を筑紫では「ゑいのを」と呼んでいた


永尾剱神社(2)
えいのおつるぎ
 「セント・エルモの火」を筑紫では「ゑいのを」と呼んでいた


「St.Elmo(セント・エルモ)の火のことを筑紫では昔から「ゑいのを」とよんでおります。まさに泰西の言葉の万葉仮名的描写であります。語源はまったく共通であります。
  (『儺の国の星』p189 真鍋大覚)

この一文を理解するのに、3年の筑紫の逍遥が必要でした。
この永尾(えいのお)に辿りついて、不知火が見える事を知って、
ようやくこの文の成す意味を知ることができました。

「泰西」とはヨーロッパの事で、同じ「光の現象」を
ヨーロッパでは「エルモの火」、古代筑紫では「ゑいのを」と呼んでいたという事です。

「セント・エルモの火」とは、どんな火なのでしょうか。Wikiより
悪天候時などに船のマストの先端が発光する現象。

大プリニウスによれば、古典期のギリシアでは、発光が一つの場合「ヘレナ」、二つの場合「カストルとポルックス」と呼んだ。

アルゴー船の神話によると、同船に乗り組んでいたカストルとポルックスの頭上に光が灯ったところ嵐が静まったので、この双子は航海の守護神とあがめられ、船乗りの間ではセントエルモの火が二つ出現すると嵐が収まると信じられたという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%88%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%A2%E3%81%AE%E7%81%AB

c0222861_0245651.jpg

画像もwikiからですが、マストの先端から何カ所も火が出ています。
悪天候時に発光すると言われるこの現象は、
火が二つ出現すると嵐が収まると信じられていたんですね。

それでは「ゑいのを」という名を持つ永尾剱神社の地形を見てみましょう。
c0222861_0251489.jpg


氷河が削ったのでしょうか、リアス式海岸のようになっています。
中央の岬の先端に永尾剱神社がありますが、その左右には大きな岬が控えています。
川によって土砂が運ばれて平地が出来ていますが、
かつては神社の両脇は海だった事でしょう。
神社の岬は本当にエイの尾のように尖っています。

c0222861_0253496.jpg

これは拝殿に掲げられたエイの絵。
この尾と同じ地形の岬と、その先に現れる不知火。
まさに「セント・エルモの火」を地上に降ろしたような奇跡的な地形が
この永尾剱神社の鎮座地でした。

この岬と不知火を発見した海人たちはどれほど驚き歓喜した事でしょうか。
航海を守る神が降臨した聖なる岬。そこにその光の現象の名を付けました。

c0222861_026599.jpg

これは参道の中腹の横からの眺望です。
岬の突端に立つと八代海が広がり、不知火の火が見える聖地です。

この神社の主祭神は「海童神(玉依姫)」でした。
この神への信仰が当初から変化無いものだとしたら、
この地を祀ったのは安曇族の可能性も出て来ました。

「海童神(玉依姫)」という不思議な名称も、発光が一つの時はヘレナという女神の名で呼ぶとしたら、
その女神信仰の残照が残ったのかもしれませんね。
(発光が二つの時の話は次回にまわします。)

それでは『儺の国の星』の続きを読んで行きましょう。

筑前国続風土記二十三 志摩郡燈台背の条に
八月以後、晴天にわかに雨雪ふる時に、あかりが下より12條或いは3條上る。上りて後下の方より消えて、細くちらちらと光る。ゑいの魚の尾の如し。故に海人はゑいの尾という。
(一部口語訳)

一條=一丈なら約3m。12×3=36mの事でしょうか?
急に天候が荒れた時、光が40mほどの長さに立ち昇り、下の方から消えて細くちらちらと光る現象が志摩郡でも見られて、「ゑいの尾」と海人は呼んでいたというのです。
まさしくセント・エルモの火と同じ現象です。

相の島から可也山にかけて白山火山山脈に沿う火口が連なっております。

セント・エルモの火は、特に地震津波の前にはよく光りました。海底から噴き上がる地気の微細な気泡が波を静める作用がありますから、近代人はこの現象を活用して圧搾空気を港の岸壁の下から吹き上げて、波を消す方法を案出しました。

玄界の舟人は聖炎が燃えるのは、大風の中心と信じておりました。昭和32(1957)年7月25日に、諫早の豪雨の中にこれが点(とも)りました。

昔の神話も今の人がすこし胸をひろげて心を開いて考えれば温故知新、あまねく到る処に有りと思われます。
(一部変更)

福岡の北沿岸に火口があるという話も、萩沖で火口が発見された事から、
充分に納得できる話となりました。
過去記事
萩沖海底火山 http://lunabura.exblog.jp/18452452/

そして、約一週間前の事ですが、今年の10月22日に白山で謎の火柱が観測されました。

c0222861_028644.jpg

 石川、岐阜県境の白山(二、七〇二メートル)で、二十七日夜から二十八日未明に群発地震が起きていたことが、気象庁の観測で分かった。いずれも揺れを感じない震度0の地震だったが、その数は約四時間で百回余りにも上る。識者らは「一過性の現象か、噴火に直接つながる可能性があるのか、注意深く監視する必要がある」と話す。

中日新聞 2012年10月29日 引用
http://www.chunichi.co.jp/hokuriku/article/news/CK2012102902000165.htm

白山の光の柱が観測されてから5日後に群発地震が起こりました。
真鍋氏はこのような事を伝えたかったのでしょう。

最近ようやく地震前の空模様や発光現象が地震の前兆として広く認識されてきましたが、
「地震雲」という存在を初めて世に発表した時、
真鍋氏に対する識者たちの偏狭な反応にどれほど心を痛めたか、
遠慮がちに書いては有りますが、その無念さがひしひしと伝わってきます。

気象庁は今でも地震雲を認めていないそうですが、
民間のツイッターなどでは、詳しい研究が進んでいます。
(つづく)






ときどき、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2012-11-01 00:31 | 神社(エ) | Trackback | Comments(0)
line

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


by lunabura
line
クリエイティビティを刺激するポータル homepage.excite
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30