ひもろぎ逍遥

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船原古墳(4)「ふなばる」を考えた


船原古墳(4)

 「ふなばる」を考えた


古墳の名前「ふなばる」がどういう経緯で付けられたのかは分かりませんが、
「ふね」「ふな」について、今回は考察したいと思います。

「船原」の字で最初に連想したのは、
「船が泊まるような湊でもあった」のかなという事でした。

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地形を見ると古墳時代に海が迫っていたとは思えませんね。

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これは古墳の近くの川。
この上流にある愛鷹神社の伝承に「社前に川あり。古賀村にて海に入る」とあるので、
この川を小舟で下って海に出たのでしょうね。
という事で湊説はさっさと棄却。


次に考えたのは、造船でもしていたのだろうかということでした。
でも工房を作るには、もっと海のそばがいいのでは?
和船を作る時、完成したら一度海水に沈没させて、隙間を防ぐと聞いたことがあります。
この場所ではやはり不便ですね。
と言う事でこれもまた却下。

さて、この日、古墳を後にして小山田斎宮に行ったのですが、
その摂社を見てちょっと驚きました。

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本殿の裏に並んでいたのですが、
左から鳴瀧神社、志賀三神社、菅原神社、猿田彦神社があったのです。

鳴滝神社は山の上にあるものを合祀したとのことですが、
志賀三神という綿津見の三神が祀られている事から、
この小山田斎宮を守っているは、安曇族と関連した人たちなのだろうかと
ちょっと思ったのです。

そして、菅原神と言えば、冶金の神です。(サイドバー 出目袴着八幡神社)
次に猿田彦の神は道案内の神ですが、
冶金の関係では「猿」を祀るという話を思い出しました。


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それから古賀市歴史資料館で貰った地図を広げていると、
東の谷の薬王寺の裏に銅山と書いてあるのを見つけました。

その南の大目配山には神功皇后が登ったという伝承があります。
そして、ここが愛鷹神社の古宮です。

さらに南に行くと、伊野天照皇大神宮に出てしまうのです。
その途中に遠見岳があります。

伊野天照皇大神宮の方ではこの遠見岳に
神功皇后と仲哀天皇が登ったという伝承があります。

遠見岳と大目配山の距離は2キロほど。
同じ山域に登ったのを西と東でそれぞれに伝えているということになります。
この稜線は現代も歩いて行けるそうです。

伊野天照皇大神宮の社伝の中に
山の上に銅山があって水が汚染された話が載っていました。

そうすると、この山域には銅山があり、
神功皇后の時代から知られていたのではないか。
そんな仮説を立てるようになりました。
さらに、東に行くと犬鳴山です。そこは砂鉄で製鉄をしていました。

銅山や製鉄所に関わる人たちが菅原神や猿田彦の神を祀り、
その運搬などに安曇族が関わったのかも。
と妄想は止まりません。

でも、これと「ふね」と関係ないよなあ。

ちょうどそんな時、牛島さんから荒船神社の所にコメントが入りました。
そう「あらふね神社」。
読み返してみると、「ふね」について延々と書いているではありませんか。
いったい誰がこんなに長々と。
(すっかり忘れていた…。
これからこのブログは「るなの知らなかったあ」から
「るなの忘れとったあ」に変更しなきゃ…)

ということで、同じ記事ですが、再掲します。

(イイボとは蹈鞴の産物のことです。)
『儺の国の星・拾遺』p168 イイボ星 オリオン座 IC 434

陸奥出羽で砂鉄が地下に埋蔵されている地帯を船山(ふなやま)と言い、これを採掘する長者を船木という。

古事記神武紀には神八伊耳命(かむやいみみのみこと)の子孫に、陸奥(みちのく)の石城(いわき)の国造(くにのみやつこ)、伊勢の船木直(ふなきあたえ)の名がみえる。

「ふね」とは斧土(ふなつち)の略で、褐鉄鉱リモナイト(2Fe2O3・3H2O)の風化地層である。「き」とは技術者の古称であった。造る人と掘る人では別の氏族になっていた。

昔は「ふつぬち」といった。なお燃料になる亜炭泥炭を「ふるまき」といった。

陸奥北、下野結城(ゆうき)に「古間木」の名がみえる。「まき」とは薪木即ち燃料で、昔は「もえぎ」といった。わずかな火で長い時間をかけて、酸化鉄の粉末を還元するには最良の炭となった。

「ふる」とは星の古語で流星隕石のごとく、天から降る意に流用されている。隕石には年輪のごとき層を重ねた組織が多い。これが地に落ちて古間木(ふるまき)即ち石炭(いしずみ)を作ったものと祖先は信じていた。

「ふつぬち」とは神代紀には
  次に木の神名は久久能智神(くくのち)を生みたまひき。

即ち「くくぬち」であり、中世あたりから櫟(くぬぎ)、即ち窯の薪木の名となったが、筑紫では歴木(ふみき)とも書いて年輪が識別できる石炭の意に通ってきた。「櫟」の右のつくりの「楽」は銘(らく)、即ち熔鉄のことであった。

タクロを三河で設楽(しだら)という。いかにも銘を作る施設をよく表現している。戦国(1467~1568)の世に南蛮渡りの鉄砲が武器としての勢力をのばしたところは尾張春日井小牧があった。

ここも昔は流木が野原の下に埋没していた所であった。「ふるぬち」とは隕石が風化分解した赤土であった。


福岡県の南の大牟田市に「歴木」という地名があって「くぬぎ」と読みます。
この大牟田市はかつて炭坑で賑わった街なので、
この地名が「石炭」に由来するというのは大変納得です。

今回必要な情報だけ抜き出すと、
「ふね」は葦から生まれた褐鉄鉱(スズ鉄)の風化地層のこと。
「き」は技術者の古称で、「ふなき」とはスズ鉄の採掘長者をさす。
「まき」とは流木が積み重なって風化して野となった所で、
その薪はタタラ製鉄に最良のマキとなった。

最近の水害では倒木が川をふさいで氾濫するケースを目の当たりにします。
そこに土砂が流れ込んで平地を形成すると、倒木が良い燃料に変化する訳です。

山の中で出くわす思いがけない平地には、こんな成り立ちの野もあるのでしょう。
馬を放牧する平地を「牧場」というのも語源は同じなのかもしれません。

「ふね」は古くは「ふなつち」「ふつぬち」とも言った。
________________________________________


以上、一部ですが、自分でもよう調べたなあと…。
(うん、だからこうして日記に書いとかないと忘れるんじゃわい)
(ベンガラはFe2O3)

安曇族についてもこの時触れていて、
この「ふね」を求めて長野に行ったのではないかと仮説を立てているのですが、
長野の安曇では安曇族が土木工事をして現代の礎になって感謝しているといった話が
志賀島の冊子に載っていました。

さて、現場に戻りましょう。
この地形から、かつては広大な葦原があったのかも知れないなと思いました。
それが「ふな原」。
そしてこの船原古墳の被葬者は銅山や葦の製鉄で財力を蓄えていた。
その財力で新羅攻撃の為の軍事援助をしたので、
亡くなったあと、その功績を讃えて最高級の馬具が贈られた。
古墳の蓋をしてしまったあとなので、手前に追葬した。

今日の妄想はこんな感じです。

でも、来目皇子のように客死した人の可能性もあるな
とも思ったりするのでした。

全体が掘り上げられたら、また推理を楽しみましょ。






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by lunabura | 2013-04-25 22:19 | 船原古墳・古賀市 | Trackback | Comments(13)

船原古墳(3)被葬者の生きた時代


船原古墳(3)

被葬者の生きた時代

さて、この古墳の成立時代について現地説明会では聖徳太子の名前が出たけど、
その前か後か忘れちゃった…。(-_-;)

西日本新聞には馬具の時代が「6世紀末~7世紀初め」と書いてあるので、
今回はこの時代の筑紫ってどんな時代なのか、復習してみることにしました。
ターゲットは550年から650年の100年間。

まずは右のサイドバーから該当する時代を抜き出します。

552 蘇我稲目vs物部尾輿
562 伽耶諸国が滅亡570 蘇我稲目死去
572 敏達天皇・30代 即位
585 用明天皇・31代 即位
587 崇峻天皇・32代 即位
589 隋興る
592 推古天皇・33代 即位
5×× 手光南古墳 蛇行鉄器
5×× 王塚古墳 装飾古墳 馬具
5×× 竹原古墳 装飾古墳 馬具
5×× 仙道古墳 装飾古墳
--------------------------------------------------------------------
602 来目皇子対新羅で筑紫へ
603 来目皇子死去
603 当麻皇子対新羅で筑紫へ
603 鞍作止利造仏工に任命
603 高句麗建造費を倭に贈る
607 聖徳太子遣隋使を派遣
618 唐興る
621 聖徳太子薨去
623 法隆寺の釈迦三尊像できる
629 舒明天皇・34代 即位
630 遣唐使はじまる
632 新羅・善徳女王 即位
642 皇極天皇・35代 即位
645 中大兄皇子乙巳の変

教科書に出て来るビッグネームがずらり。
日本では天皇が次々に交代。
対外的には加耶が滅亡。
つまり任那を失ったこと。
これは筑紫に大きな影響を与えたことでしょう。

聖徳太子の兄弟の来目皇子や当麻皇子が次々に派遣されたけど
来目皇子は糸島で亡くなり、当麻皇子は妻が亡くなった。

次はウィキペディア。
日本書紀によれば、飛鳥時代にも朝鮮半島への軍事行動が計画された。西暦562年、任那日本府が新羅によって滅ばされた。これを回復するための「征討軍」が推古朝に三度、計画され、一度目は新羅へ侵攻し、新羅は降伏している。

この戦いはきっと筑紫全体を巻き込んで、
この船山古墳の被葬者もその嵐の中で生きたことでしょう。

次は、小郡市にある「黄泉の道」シリーズの古墳巡りを一人で巡って考えた過去記事の一部です。
五つの古墳の中で、「井の浦一号墳」が同じような時代だったので、再掲します。

(前略)
古墳の資料はこれ以上は無いのですが、「6世紀後半」だというのが分かったので、
その時代の筑紫を調べてみることにしました。

被葬者が500年代の後半に亡くなっているという事から
550年前後~末にここで何が起こったかという事を調べれば、
被葬者が生きた時代が分かる。
という事で、小郡市史を読んでにわか勉強をしました。


被葬者が見た時代とは
朝鮮半島では、6世紀半ば以降、百済・新羅・高句麗による天下取り合戦が激化。
538年、倭人が鉄を運び出していた南加羅が新羅に奪われ、
562年には大伽耶も新羅の保護下に入ってしまう。
日本書紀ではこの事を「新羅は任那の官家を滅ぼした」と書いている。
倭国が任那を失ったことを意味している。

欽明天皇556年、百済の王子・恵(けい)が帰国する時に筑紫の水軍がこれを護衛し、
また別に「筑紫火君」(つくしひのきみ)が勇士1千を率いて護送した。

「筑紫火君」の本拠地は鳥栖市の旧養父郡に推定されている。
その北の基肆郡を物部系国造が統治していたと推定されている。

崇峻天皇は591年、任那の再興を企てて、2万余りの大軍を筑紫に向かわせる。
「大将軍」には紀・巨勢・大伴・葛城の各氏から4人が選ばれた。
この大軍が大和を離れると、翌年に明日香の地で
蘇我馬子・額田部皇女・聖徳太子らにより、祟峻天皇が暗殺される。

新政権は「筑紫将軍所」に内乱のせいで「外事」を怠らぬよう早馬を出す。
祟峻天皇の命で朝鮮半島へ出兵するはずだった大軍は
3年9か月もの間、筑紫に滞在したままだった。

以上、市史から関係がある部分だけをまとめてみました。

被葬者が生きた時代には大きな事件として
556年に「百済王子を護送する。」事と
591年に「新羅攻撃軍が2万余り筑紫に滞在した。」
という事があったのが分かりました。

591年
井の浦古墳の被葬者は591年の2万の大軍を見ることが出来たでしょうか。
微妙ですね~。もう亡くなっていたかも知れませんね。

それにしても2万の大軍とか、どこに駐留させたのだろう。
「筑紫将軍所」って太宰府なんだろうか。
これだけの人数の兵糧をどうやって賄ったんだろう。
(いろいろと謎が生まれます…。)

ちなみに、603年には来目皇子が筑紫の志摩で亡くなってます。
聖徳太子は任那奪回は本気だったんですね。

556年
556年の百済王子の帰国の時には古墳の被葬者はきっと生きていたでしょう。
この時に百済王子を送ったのが、筑紫の水軍と筑紫火君たちです。
「筑紫の水軍」が養成された所として、この筑後地方は有力だったでしょう。
この被葬者も直接関わったかもしれません。

「筑紫火君」は筑紫の君と肥の君が通婚して出来たそうです。
本拠地がすぐ近くの養父郡(鳥栖市)なんですから、
被葬者は筑紫火君の動向を全神経を傾けて見守った事でしょう。

この6世紀後半の筑紫の風景って、
対新羅の緊張がずっと続いていたんですね。
古墳から武具がたくさん出てくるのもうなづけます。
この古墳の被葬者もこの高台から、
広い川の向こうに新羅を見据えていたのかも知れませんね。

今こうして読み直すと、すっかり忘れてた (+_+)
表現が少々変なところもあるけど、まあ良しとしよう。
以上は小郡市の古墳の話です。

古賀市の船原古墳の馬具が「6世紀末~7世紀初め」ということなら、
小郡市の井の浦古墳の被葬者と同時代を生きたのかも知れませんね。

556年に「百済王子を護送する。」に関わったかな、
それとも591年に「新羅攻撃軍が2万余り筑紫に滞在した。」に関わったかな。

2万余りという大部隊ですから、駐屯地はいきなりの人口増加で、
兵糧やら何やらで、筑紫の豪族たちは大変だったことでしょう。
そんな時代に船原古墳の被葬者は生きていた。
亡くなった後に、その功労を讃えられて金銅製の豪華な馬具が贈られた。
(今のところ、追葬ではないかと想像しています)

古墳の中からも金銅製のものが出土しているので、よほど身分がある人なんですね。


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左のブルーシートが掛かったのが船原古墳。右の盛土はただの盛り土。


井の浦古墳はこちら http://lunabura.exblog.jp/16684888/




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by lunabura | 2013-04-23 00:14 | 船原古墳・古賀市 | Trackback | Comments(5)

船原古墳(2)現地説明会に行って来ました


船原古墳(2)
現地説明会

今日は現地説明会に行って来ました。
古墳へ向かう道は平地から緩やかに上って、山並みが近くなったような所、
周囲よりいくらか高台になった所に古墳群はありました。
今回の古墳は3号墳です。

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正面のブルーシートがかかったのが3号墳。
円墳と決定した訳ではなく、前方後円墳の可能性も残っているそうです。
3号墳の入口が正面よりやや左手に白く見えています。
(玄室の中は立つことができるそうです。)


その左下、端にあるネットの下が発見された馬具埋納坑です。
古墳の入り口に対して正面ではなく、左寄りに埋納されていました。



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埋納坑の全体です。縦5.2m。横0.8m。穴の深さは0.7m。
長いですね!
手前にある二つの半円が金銅装鞍です。
半円の右にカップのように見えるのが壺鐙(つぼあぶみ)です。




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90度廻り込みました。
壺鐙が二つ見えています。これは鉄製だそうです。

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さらに180度反対から。
鞍の右側に白く光るのが金銅装辻金具と引手。
光るのは金だから。

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これは鉄製品の塊。小さな鉄板が集中しています。
馬の鎧や甲の可能性が高く、掘り上げが期待されているものです。

c0222861_20593476.jpg

左の盛り上がった部分が鉄の輪あぶみ。 その上に白く丸く見えるのが鈴。
右にあるのは金メッキの辻金具類。

これらの下の方には漆の板があるそうです。

この埋納坑が貴重な理由として、
馬具が一式出ているという点。
金銅製が含まれている点。
古墳の外に埋納された点。
などが挙げられます。これだけでも、素晴らしいのですが、
何よりも、埋納された状態のまま出土したことが私にとってはイチバン!
だって、埋納した人の気持ちが伝わって来るんですもん。

これから全容が明らかになるのが楽しみです。

c0222861_20595877.jpg

振り返ると3号墳が迫っていました。
正面は右の白い土嚢の辺りですから、正中線からはずれています。

この埋納坑からさらに右手にもう一つの穴があって、
鉄の矢じりが出土しました。

c0222861_2103221.jpg

いえいえ、矢じりだけではありませんでした。
竹に矢じりが嵌め込まれて、桜らしき木の皮で巻いてありました。
とても丁寧な仕事です!

古墳の正面近くに矢があって、左に馬具が埋納されたなら、
右手には弓や鎧なんかが埋納されていてもよさそうだなあ。
と欲張ってしまうのでありました。


c0222861_211078.jpg

これは平成8年に調査した時に、墳丘の所に置かれていたもの。
透かした器台がおしゃれですな。
器の大きさは18センチ程度。現代の食卓に使うサイズと同じです!


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見学を終えて50mほど歩くとこんな綺麗な川縁りに出ました。
向こうの山の左の方に小山田斎宮があって、歩いて7分でした。

この古墳は宮地嶽不動古墳より古いそうです。
古賀市からは他の所で金銅製の頭椎の太刀が出土していますが、
川筋が違うので、その人たちとは別の集団だそうです。
この古墳の被葬者が住んでいそうな集落遺跡は発見されていないそうです。


地図 福岡県古賀市谷山北地区遺跡群





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by lunabura | 2013-04-21 21:08 | 船原古墳・古賀市 | Trackback | Comments(2)

船原古墳(1)金メッキの馬具一式が発見された・その環境 小山田斎宮と愛鷹神社が近い


船原古墳(1)
金メッキの馬具一式が発見された

その環境 小山田斎宮と愛鷹神社が近い

古賀市谷山で国宝級と言われる金銅製の馬具が出土しました。
これは西日本新聞の記事。

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地名が古賀市谷山ということで、地図を広げると、
あれれ?
小山田斎宮のすぐ近くではないの。
小山田斎宮のある谷と谷山は別の谷だったので、
頭の中では別々にインプットされていた。(+_+)

船原古墳は田んぼの中にあって駐車場がないとの事なので、
車を遠くに止めて歩いて行く方法を探していたら、
なあんだ、小山田斎宮と古墳の間は徒歩で7分。
直線距離では500m。

それなら歩いて土地勘を作ろうとオリジナルの地図を作製。
張り切って出掛けたら、途中で雨が降り出した。
ということで、室内で予習をすることにしました。

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これは世に知られていない小山田斎宮。
『日本書紀』に書かれた「小山田邑の斎宮」が小山田村に現存している。
(ただし、元宮からは少し移動している)

仲哀天皇の崩御後、直ちに
安全が保障された所に斎宮を設けることが出来たということは、
天皇家を支援する豪族がここにいたからに他ならない。

ここには日本書紀に書かれた、香椎宮の古宮で秘密の会議に出た
物部の胆咋(いくひ)や竹内宿禰のような側近のメンバーだけが
一緒に滞在できたと思っている。

ところが、驚く話が田川市に残っていた。
ここで田油津姫が神功皇后を暗殺しようとして失敗したという。
(サイドバー 若八幡神社 田川市)

大変なミステリーだけど、この狭い宮所から考えると、
田油津姫は神功皇后の傍にいて問題ない関係にあったことになる。
神夏磯姫の末裔はこの時点までは信頼されていた。

これが西暦200年頃の小山田斎宮で起こった出来事。


そこから歩いて数分で話題になっている船原古墳に辿り着く。

c0222861_043673.jpg

6世紀末から7世紀初めのものだというので
時代は400年近く経っているけど、
被葬者はこの斎宮について知っているはずだ。
祭祀に関わっている可能性だってある。

この古墳は盗掘されていたが、金銅製の飾りの一部が石室内に残っていた。
石室の壁にはベンガラの赤色が残っていて、
装飾古墳だったのではないかと言われている。

今回、金銅製の馬具が一式15点も出土したのは、
それらが石室でなく、5メートル離れた土壙に埋納されていたからだ。
そのお蔭で盗掘者の目から逃れることができた。

この近郊で金銅製の馬具が出たので思い出すのは、
手光波切不動古墳宮地嶽不動古墳。(サイドバー 宮地嶽神社と古墳)

この二つの古墳はかつてはセットで参拝されていて、
祭祀し続けたのは武内家だという。
今は宮地嶽神社によって修復がなされ、不動神社として祀られて、
三階松の紋が九州王朝の存在を主張している。
神社では被葬者は磐井の君の末裔としている。

手光波切不動古墳は7世紀の頃のもの。

船原古墳の被葬者と手光や宮地嶽古墳の被葬者は時代的に近い。
もしかしたら、同じ時代を生きたのかも知れない。

船原古墳からは宮地嶽古墳と同じような「壺あぶみ」も出ているので、
きっと比較検討されて、詳しい時代が分かるだろう。


さて、この船原古墳の傍の川を遡ると、気になって仕方がない神社がある。
それは「愛鷹神社」。
山幸彦が鷹を愛したからついた社名だという。

どうして、ここに山幸彦の伝承があるのだ。

しかも豊玉姫も祀られている。
祭の日には鮭が上るという哀しい伝承と共に。
そして、その子、ウガヤフキアエズまでもが祀られている。
豊玉姫が夫と子供という一家族揃って祀られている神社をようやく見つけた。

この船原古墳は小山田斎宮の谷と愛鷹神社の谷が合流するような地点に、
位置していた。
海から上がってくる者に対しては、
二つの谷を守るような位置にあるようにも見える。
(地図では左上が海)

出土した国宝級の馬具はどんな古代の物語を語ってくれるのだろうか。




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by lunabura | 2013-04-21 00:11 | 船原古墳・古賀市 | Trackback | Comments(2)

綱分神社(2) 銅の道と青銅の中広銅戈


綱分神社(2)
銅の道と青銅の中広銅戈

さて、今週は弥生時代の飯塚市あたりをうろうろ逍遥しています。
今日は綱分神社の再考。

この神社には神功皇后が金石山を三面宝珠の神山だと言って、
金工に三振りの宝剣を新たに作らせて奉納したという伝承があり、
奈良時代になって、実際に三つの甕にそれぞれ青銅の銅戈が入っていたのが
発見されたという考古学的な興味も重なる聖地。

しかも、その銅戈は大正時代に考古学者によって確認されていて、
中広銅戈だと分かっている。

その現物は失われているけど、極似したケースが山塊の反対側にあって、
そちらでは九振りの銅戈が発見された。
それは糸田町宮山の大宮神社付近と庄内町史に書かれている。

青銅の中広銅戈。
どんなものだろう。
各資料館などが持って行って現地にはないので、
見る事が出来ずにがっかりしたけど、
今回ネットで検索すると、
所蔵している東京国立博物館が写真を公開していた (^o^)/

これがそれ。
c0222861_20291977.jpg

画像出典 東京国立博物館 http://www.tnm.jp/

中広形銅戈

画像番号: C0020912
列品番号: J-34799
出土・国: 福岡県田川郡糸田町下糸田字宮山出土
時代: 弥生時代_後期
形状: 長38.7_関幅11.8_身幅7.0_茎長2.9_茎幅2.9
備考: 重512g


弥生時代後期ということで、神功皇后の時代と重なっている。
きっと当時は白銀色をしていて、弥生の素焼きの甕に入れられたんだね。



しかし、まだ疑問は残る。
そう簡単に新たに青銅の銅戈って作れるのかいなという疑問。
これについて検索すると、夏休みの子供向けのイベントでも簡単に作れることが判明。

それは二日間のイベントで、一日目はデザインと鋳型づくり。
二日目は銅とハンダを七輪で溶かして流し込み。
溶かす時間はわずか20分。午後には磨き出し。

七輪で簡単に作れた…。
資材さえ揃えば簡単にできるんだ !(^^)!

これはそのイベントの要綱。
[PDF] 平成16年度 「古代の青銅鏡づくり」

https://docs.google.com/viewer?a=v&q=cache:cQH9vRKGnAsJ:www.mogurin.or.jp/museum/library/kyoshitsu/text.pdf+%E9%9D%92%E9%8A%85%E5%99%A8%E3%80%80%E6%9D%90%E6%96%99&hl=ja&gl=jp&pid=bl&srcid=ADGEESgBk1rCyK_AAdUBocVg1UZIkIX_OxwN8U621oCQlPkyGGo0wLBoPr_a5T-mIkZSkbVXxDhjDuzknHKAMtbys5iX-AkC6Rof8MhGRygZCvSg79mYL-9Q13-dTM_IFhvRFx7fT-kx&sig=AHIEtbTe-563E9miEs4ku96x4YtrVm2-8w

こうして、ずっと持っていた疑問が一気に解けました。

さて、
『庄内町史』によると、ここには弥生時代から人々が住み始めたという。
そして銅の伝播の道の中継点。

春日市で須玖遺跡の付近で大量の中広銅戈が出土している事から
銅の伝播の道が福岡平野から遠賀川上流域を通って、
ここに至り、豊前へ抜けて行くという。

それは神功皇后が百官百寮を連れて東へと向かう道とぴったり重なり合った。

そして、この山を越えれば、あの位登八幡宮に出る。
そう、神功皇后が半年滞在した所。
それを迎え入れたのは田原麻瑠

田原麻瑠のクニは
景行天皇が土折猪折を殺した所ではないかと先月、話が盛り上がったエリア。
そうすると、それまでは土折猪折たちは
この山の中で銅を生産していたのかもしれない。

銅戈は春日市で沢山出土したけど、
その原材料はこの金石山を含む関の山山塊から出たかもしれない。

しかし、景行天皇が土折猪折を殺した事は、生産技術者を殺した事になる。
銅生産は続行できたのだろうか。
いや、トップが変わっただけで継続されたか。
神功皇后が報恩の祈りを捧げたということは、ここは天皇家の支配下にあったのだろう。

一方、神夏磯姫は香春岳の生産を開始していた。
それも春日市に届けられたのかもしれない。

銅の道とは、奴国からの銅戈製作技術の伝播であるとともに、
奴国への原材料の出荷という、双方向の道だったのではないだろうか。

地図を見ると山の所で切れるから、まるで別の所のようだったけど、
こんなに近距離。
ラセン階段を下って行くように、あちこちが繋がっていく。

今回もメモにて。



地図 綱脇神社 位登八幡宮 宮山



綱分(つなわき)神社はサイドバーからどうぞ。








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by lunabura | 2013-04-19 20:40 | 綱分神社・つなわき・飯塚市 | Trackback | Comments(14)

皇后の子


皇后の子


今、宇美八幡宮や筥崎宮、大分宮を見直しています。
神功皇后の皇子を『日本書紀』では何と書いているのか、
神功皇后紀をあらためて見てみると、
「誉田天皇を筑紫でお生みになった。」とあって、
他に何と書いてあるのか探すと、誉田別皇子というのが見つかりました。

応神天皇の名前がないなあ。

そこで応神天皇紀を見てみると、タイトルは「誉田天皇」となっている。
そして、後で付け加えたのか、小さな字で「応神天皇」と書かれている。
あれ?
どうなってる。
「誉田天皇  応神天皇」という書き方。

ざっと見ると、「応神天皇」の文字が他には見当たらない。

索引を持たないので、正しい事は分からないけど、
タイトルの「誉田天皇  応神天皇」という書き方は
「誉田天皇とは応神天皇の事だぞよ。分かっているな。」
そんなニュアンスが響いてくる。

こうなると、原典を見るしかないけど、
どうなってるの?

それに加えて、古事記と日本書紀では皇后の子供の数が違っている。

まだ変だなと思うのは、
皇后が皇太后となったあとに誉田別皇子が皇太子になっている。
順番がすごく変。

中国の史書には天皇のリストに神功皇后の名前が載っている。

いやあ、『日本書紀』と筑紫の神社伝承は皇后の出産までは対応しているけど、
その後はかなり違う。

年表を書いているけど、『日本書紀』自体の中も矛盾だらけ。
どうなってるんだろ。

今日も、メモです。

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宇美八幡宮 (糟屋郡)





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by lunabura | 2013-04-16 22:03 | <神功皇后伝承を追って> | Trackback | Comments(7)

八乙女


八乙女

るなさん、高良大社神幸祭の絵に、志賀海神社の山誉め祭りに出てくる
「八乙女」の姿がありましたが、何か繋がりがあるんでしょうか?

という質問があったので、今回は八乙女シリーズです。
答えはもちろんYESです。

まずは高良大社神幸祭の行列の絵

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右の方に八乙女が参列しています。赤い袴ですね。
その前の方には前回話題になった鷹鳶神人が鷹の羽を冠に挿しています。

この八乙女は高良山縁起絵巻にも描かれています。


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画像が鮮明でないなら掲載してよいとのことで、暗いままの写真です。
八乙女は右の方に同じ赤い袴で雅に舞っていますね!
海辺です!
八乙女たちの視線は左の赤い丸の中の磯良神に向けられています。
イソラ神は亀に乗って白布を顔につけています。

イソラ神の上に描かれているのが武内宿禰。
その左に海から上がっているのが豊姫です。緑の丸の中です。
海神・玉垂神から干珠満珠を貰って、武内宿禰に渡しているシーンです。



次に大善寺玉垂宮の絵巻。

c0222861_2136384.jpg


これはネットで公開されていますが、映像がぼかしてあります。
左の丸が磯良神でしょう。右の浜辺で舞っているのが八乙女。
赤い袴です。
豊姫と竹内宿禰は右下に描かれています。(緑の丸)

こうして比較すると高良玉垂宮と大善寺玉垂宮は同じ縁起を伝えています。




そして、その現場が志式神社の奈多の浜。

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ここです!
水も美しいですね!
この海から豊姫が戻って来て竹内宿禰に干珠満珠を渡します。



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これは志式神社の神楽「磯良舞」。
豊姫が海神・玉垂命から干珠満珠を授かるために舞を舞っているシーンです。




c0222861_2142914.jpg

そして、八乙女は志賀海神社で今も舞い続けています。


こうして
志賀海神社 - 志式神社 - 高良玉垂宮 - 大善寺玉垂宮は

海神・玉垂命、安曇磯良、八乙女、豊姫、竹内宿禰、神功皇后という
神や人を通して深く繋がっていました。

この『ひもろぎ逍遥』の旅はこれを知るためのものだったと
思い起こす度に不思議な気持ちになります。


さて、私にはまだ知りたい事があります。
それは「八乙女」は元々志賀島の人たちだったのだろうかという事です。

撃鼓神社(げっこ)にあるように、
仲哀天皇と神功皇后は神楽人を連れて豊浦宮から香椎宮に遷宮していて、
撃鼓神社の神々に神楽の指導を受けています。

私はこの八乙女は天皇家所属の神楽人であったのが、
この時、志賀島に残った可能性はないかとずっと考えているのです。

あるいは、その舞を八乙女に伝授したのか。
それは八乙女の八家に伝わる厳重なしきたりに手掛かりがあるかも知れません。

「山誉め神事」そのものは、神功皇后がこれを見て、
「波が途絶えるまで伝えよ」と言ったのですが、
八乙女の舞は神事とは別のものではないかと見ています。

誰か分かる方いないかな…。
氏子のリュースケさん、パソコン見ないと言ってたもんなあ。



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by lunabura | 2013-04-12 21:46 | 八乙女 | Trackback | Comments(3)

ちょっと



ちょっとパニックを起こしています。

昨日は友人に久しぶりに会ったら、
「許斐山が見えたのは糸島の白髭神社だったもんね。」
「あ、そう?覚えてたの?」
「ここが何処と其処と繋がってるとか言ってたよ。」
「あ、そう?」
私は何も覚えていない。

さらに友人
「光岡神社は宗像大社の元宮というからね。」
「え?そうなの?その光岡神社の元宮が許斐山らしいよ。」
光岡神社は文字通り岡が光ったらしい。
光の写真が取れる事でスピ系の人に人気。

まさか、こうして
許斐山―光岡神社―宗像大社と繋がる?
三女神が神威を顕したという神興神社も近い。

ついでに宮地嶽神社の在自山も、江戸時代の人は三女神だと言っている。
楯崎神社は何度も書くけど大己貴と宗像姫が力を合わせて戦ったところ。

もっと、ついでを言うと、宗像大社は「大国主」だという人が何人かいる。
探究して行くとどうしてもそのような部分が見えて来る。

そんでもって、まだブログには書いていないけど、
神武天皇社がそのエリアにある。

英彦山の縁起を読んでからこの福津市~宗像市のエリアを見ると、
大己貴と三女神が濃厚な分布をしている。

地図に書くと分かりやすいでしょうけど、只今混乱中。

そして、志式神社の三良天神の火酢芹神を訳している途中だけど、
もう一柱の祭神火明神とセットで英彦山の高住神社に祀られているという。

タカスミ
鷹のつながりで、久留米市の高樹神社、星野村。
そこにある御良神社は、御霊神社の好字だという説を発見。
そう、この志式神社の三良天神も、三霊天神だった可能性がある。

星野村のハムヤ舞いの発祥は大和町の鷹尾神社の可能性が大きい。
やはり鷹。
ただし、ここの人たちは神功皇后ファン。
高良別宮として格別だったらしい。


そんなこんなで、英彦山を中心にバラバラなものが繋がり始めて、
パニック。
今日は余りに天気がいいから許斐山に行ってみようと思ったけど、
結局行かずじまい。

ネットで見ると、熊野神社に三女神の名前が残るが、
頂上はスサノヲらしい。大己貴は深層にあるのだろう。

まだまだ、つながる。
オオガ様 - 大己貴神社 - こうやの宮の住所は太神(七支刀)

という事で、分かりにくい内容となりました。

でも、忘れるから、メモしておきます。

地図 許斐山 英彦山 星野村




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志式神社 奈多の浜



カテゴリはどこに入れておこう。
やはり志式神社かな…。






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by lunabura | 2013-04-08 21:21 | 志式神社・ししき・福岡市 | Trackback | Comments(4)

志式神社(7)荒ぶる神 火酢芹神 大人になって読む海幸山幸


志式神社(7)荒ぶる神 火酢芹神

もう一人の海幸彦
大人になって読む「海幸山幸」

志式(ししき)神社に戻ってきました。

神功皇后の祭祀した神々を見て行くと、
天皇家の一員である皇后が畏れていた神々や、心の支えとした神々が分かり、
彼女の生きた時代より前の筑紫の神々の分布が浮き彫りになるという
思いがけない収穫がありました。

この志式(ししき)神社は、
神功皇后が神楽を舞って荒ぶる神々を御慰めした神社です。
   
当社の「三良天神」を改めて書いてみましょう。

 火明(ホアカリ)の神 (ニギハヤヒ)
 火酢芹(ホスセリ)の神 
 豊玉姫神

この「三良天神」(さぶろうてんじん)が荒ぶる神として祀られていたということです。
この神々は「天神」であり、しかも「良」という字が当てられています。
怒りを鎮めるためでしょうか。
この三柱は「まつろわぬ神」ではないのです。
「天神」なので天皇家の流れでもあるのです。

今回はその中の一柱、「火酢芹神」について調べて行きましょう。

3年以上前に「志式神社(5)哀しき神々たち」を書いたときは、
「火酢芹神」とは、山幸彦海幸彦の三兄弟の中の一人であり、
山幸彦と海幸彦の間で歴史に埋没した神だと認識していました。

「ホデリの命」だけを「海幸彦」と思っていたのです。
しかし今、改めて『日本書紀』を開くと、いくつもの異伝が載せてあり、
「火酢芹神」を「海幸彦」としたものも在るのが分かりました。
つまり、「海幸彦」は二人いたということです。

誰が誰だか、分かりませんよね。
ますは、久し振りに馬見神社に掲載した系図を引っ張り出しましょう。

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さて、この系図では「火酢芹命」は三人兄弟の次男として書いていますが、
これがオーソドックスな系図だと思います。

これはこれで間違いではないのですが、先程書いたように『日本書紀』の異伝には
「火酢芹命」を「海幸彦」とした話も記載されていました。

ですから「海幸彦」は記録によって、
「ホデリの命」だったり「ホスセリの命」だったりしていたのです。
どうやらこの志式神社では、この火酢芹神を「海幸彦」として祀ったようなのですね。

「山幸彦」と「海幸彦」の物語を大人になって読んでみましょう。
新しい発見があるかも。

では、別伝を訳してみます。 
ある本にはこう書いてあります。
兄の火酢芹命は海の幸をよく得ていました。
弟の彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)は山の幸を得ていました。

ある時、兄弟は互いにその幸を取り替えようと思い立ちました。
そこで、兄は弟の幸弓(さちゆみ)を持って山に入って獣を狩りに行きましたが、
獣の乾いた足跡さえ見つける事ができませんでした。

弟は兄の幸鉤(さちち)を持って海に入って魚を釣りましたが少しも釣れませんでした。
ついにその幸鉤を失ってしまいました。

そのあと兄は弓矢を返して、貸した幸鉤を催促しました。
弟は悩んで佩いていた横刀(たち)で釣り針を作って
箕(み)一杯に盛って兄に差し出しました。
しかし、兄は受け取らずに「やっぱり私の幸鉤がいる」と言いました。

彦火火出見尊はどこを探せばいいか分からず、ただ嘆いていました。
そうしながら海辺に着いて、たたずんで嘆きました。

その時、長老(おきな)が現れて、塩土老翁(しおつちのをぢ)と名乗り、
「あなたは誰です。どうしてここで嘆いているのです。」と尋ねました。
彦火火出見尊はつぶさに事情を話しました。

老翁はすぐに袋の中の玄櫛(くろくし・縦長の櫛)を取って地面に投げると、
櫛は五百筒竹原(いほつたかはら)になりました。
そこで、その竹を刈り取って、大目麁籠(おおまあらこ)を作り、
彦火火出見尊を籠の中に入れて海に投げました。

そうして彦火火出見尊が海の底にある小汀(おはま)に着くと、
海神豊玉彦の宮がありました。
その宮は城門が高く、楼閣は麗しく壮大でした。
門の外に井戸があり、その傍に桂の木がありました。

その下に立っていると、しばらくして一人の美人がやって来ました。
美しい顔をしていて、従者たちが大勢従っていました。
玉の壺で水を汲むと顔をあげて、彦火火出見尊を見つけました。

驚いてすぐに宮に戻ると、父の神に言いました。
「門の前の井戸のほとりの木の下に貴い方が見えています。
骨格が ただびと ではありません。

もし、天から降られたのならそれらしいクモリがあるだろうし、
地から昇って来たならそれらしいクモリがあるでしょうが、
この方はとても美しい。
虚空彦(そらつひこ)という人でしょうか。」

そこで、豊玉彦は人を遣わして尋ねさせました。
「客人(まろうど)はどなたですか。どうしてここに来られたのですか。」
彦火火出見尊は「私は天神の子孫です。」と答え、訪ねた目的を伝えました。

そこで海神は丁重に迎え入れてねんごろに仕え、
娘の豊玉姫を妻として差し出しました。
こうして海宮に留まって三年が経ちました。

こののち、彦火火出見尊がしばしば嘆くようになりました。
豊玉姫は「天孫は、もしや故郷に還りたいのではありませんか?」と尋ねると、
「そうなんだ。」と答えました。

豊玉姫が父神に
「ここにおられる貴い客は上国(うわつくに)に帰りたいと思ってらっしゃいます。」
と言うと、海神は海の魚をすべて集めて、釣り針を探しました。

一匹の魚が「赤女(あかめ)(あるいは赤鯛)が長らく口が病気だと言っています。
これが呑んだのではないでしょうか。」と答えました。
すぐに赤女を召して口を見ると、釣り針が口に刺さったままでした。
すぐに取り出して彦火火出見尊に渡しました。

海神はその時、こう教えました。
「釣り針を兄上に渡すとき、呪って『貧窮のもと、飢餓の始め、困苦のもと』
と言ってから渡し給え。
また兄上が海を渡る時には私が必ず風波を起こして溺れて苦しめましょう」

それから彦火火出見尊を大亀に乗せて本国に送りました。
その別れの時、豊玉姫は
「懐妊しました。風波が強い日に海辺に出ます。
私のために産屋を造って待っていてください。」と言いました。



このあと、いくつか別伝が紹介されています。 

ひといき ^ ^


 (つづく)

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志式神社 奈多の浜




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by lunabura | 2013-04-06 19:24 | 志式神社・ししき・福岡市 | Trackback(1) | Comments(12)

宮地嶽神社 3月 古宮跡と桜と


宮地嶽神社 3月
古宮跡と桜と

今年の桜は例年より早いですね。
ずっと原稿に向かっていたので、リフレッシュしに桜を見に行きました。

古宮のことも、今まで認識していなかったので、改めて立ち寄ってみました。

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長い石段を上った正面に鎮座していました。

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近づくと「元御本殿跡」と書かれています。
ここだったんだ。
見えていて見ていなかった。
歴史を知ると、意味が分かって、豊かになりますね。

ここから奥にまっすぐ進むと宮地嶽古墳に行くようになっていました。
振り返ると海が見えますよ。
玄海灘に鎮座する神社の多くは海を向いています。

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この古宮跡から左に曲がると御神体山。



参拝を済ませて、桜の園へ。
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今日はしだれ桜が見ごろ。
つぼみがとても可愛らしい。


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八重だ。

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桜を見ると、一年が振り返られ、また頑張ろうという元気が生まれて来ます。
日本中で、桜は人々の心を癒して励ましてくれているんですね。


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世界中の人々にもこの喜びがあったら、
きっと、もっと穏やかな社会になるのだろうなあ。




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by lunabura | 2013-04-01 17:23 | 宮地嶽神社と古墳・福津市 | Trackback | Comments(4)
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