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綾羅木郷遺跡(1)若宮古墳は鬼が城山を見ている?


綾羅木郷遺跡(1)

若宮古墳は鬼が城山を見ている?


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この古墳の前に立った時の強烈な印象を忘れないうちに書き留めておきましょう。
下関市立考古博物館で見学したあと立ち寄りました。
もしかしたら、うっかりと見過ごして帰ったかもしれなかった。(冷汗)

いかにも清浄な地に営まれた前方後円墳。
環境の素晴らしさに興奮しながら正面に立つと、思いがけない景色が展開しました。

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古墳の向こう側に山がある!
この古墳はあの山から気脈を取っている。

古墳を建造する時、中心線は山や祖先の古墳など、何かを基準にして決めていると思われますが、
これほど分かりやすいものを初めて見ました。


この古墳は「若宮古墳」といいます。
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この説明板を見ると、中心線は真北を向いていず、
やや東にブレています。
このブレは北でなく山の頂上を
意識したからではないだろうか…。















次は説明板の記事です。

若宮古墳 年代5世紀中頃

古墳の長さ39.7m
前方部の高さ2.3m、先端の幅15.1m
後円部の高さ 4.0m直径21.0m
周濠の幅4.3m

この古墳は、綾羅木郷遺跡北西隅近くに位置を占める南西向きの前方後円墳です。
墳丘は、後円部が3段、前方部が2段に築かれています。

墳丘は表面は葺石で覆われ、墳頂や段には円筒埴輪や壺形埴輪が並べられていました。
後円部中央には白色の粘土で密封された組合式箱式石棺が納められ、南には墓道の痕跡がありました。

この石棺の大きさは長さ2.85m、幅1.11m内外。中には2体以上の人骨が埋葬され、勾玉・管玉などの装身具、鉄製の刀や剣なとの武器、斧などの工具が副葬されていました。
墳丘の裾には、幅4.3mの濠がめぐらされていました。

この古墳は昭和33年から5回にわたる発掘調査の結果に基づき、昭和60年度に大きく復原し、斜面に芝を植え、周濠には砂利を敷いて整備しました。埴輪列の復元については、資料が少ないため今の調査をまつことにしました。

文化庁・山口県・下関市 昭和62年3月
古墳の周りの白い囲いがそのまま周濠だったようです。
水をたたえていたとしたら、さぞかし美しい古墳だったことでしょう。
やや小振りのサイズなので前方後円墳の形状を把握しやすくて魅力的です。

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これが「下関市立考古博物館」の中にあった復元レプリカ。
美しいな。
石棺の大きさは「長さ2.85m、幅1.11m」で、2体以上が埋葬されていたので、
ぎゅうぎゅう詰めだったみたいです。

(ぎゅうぎゅう詰めで思い出すのは久留米市の祇園山古墳。
男女の遺体が埋葬されていたはずなのに、報告書から消えているという謎の古墳。
しかも石棺は墳丘の上にあった。
くじらさんが、普通は石棺は墳丘の下にあるのではと言われた。
頂上部にある石棺は二次使用ではないか。
そんな事をこの数日思い出していたが、
この若宮古墳を見ていると、やはり祇園山古墳は変だと分かる)

おっと、話が逸れて来た。
もとい。

この若宮古墳がある古墳公園の中には他にも古墳や弥生住居などがあって、
見学していると、移動して復元したものもあったので、
もしかしたら、若宮古墳も移動したのかも知れない。
(そうすると、私の仮説はもろくも崩れ去る。)

そんな疑問が湧いたので、博物館に戻って確認しました。
学芸員が不在で分からないとのことでしたが、何としても確認したかったので
無理を言って、分かったら教えてくださいとお願いして博物館を後にしました。

ラーメン屋さんに寄った時、電話がなりました。
「若宮古墳は発掘当時から全く移動していません。そこにあったものです。」
(わざわざ連絡していただいてありがとうございます。)

この古墳は全く移動していませんでした。

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地図を見てみると、鬼が城山と竜王山のピークが見えているようだけど。
これは地元の人にしか分からない。
(Massyさん、まだ訪問してくれてるかな)

私の頭の中はまたぐるぐると廻りはじめました。
この古墳が5世紀半ばだって?
百済の前方後円墳は5世紀後半から6世紀前半だったよ。
周防灘沿岸の人たちも関連していると書いていたはず。

それに、豊浦宮の近くじゃないの。

(つづく)

地図 下関市立考古博物館

山口県下関市大字綾羅木字岡454
083-254-3061








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by lunabura | 2013-05-30 22:33 | 響灘の遺跡めぐり | Trackback | Comments(10)

「とひ」と「かひ」(2)纒向遺跡の場合


「とひ」と「かひ」(2)

纒向遺跡の場合


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(復元想像図 『邪馬台国 九州と近畿』より)

纒向遺跡に大型建物があった痕跡を示す柱穴があり、その中心線が東西を向いているという話があるので、
今回はその中心軸を確認してみたいと思います。

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図を見ると、東西線が右肩上がりでした。
春分秋分ラインは完全に東西でなくてはならないので、
この纒向の建物群の中心線は春分秋分の太陽祭祀線ではないことになります。
意外でした。
やはり自分の目で確かめないといけませんね。
この斜めのラインは夏至冬至の角度でもありません。

う~ん。
この傾きは「日拝塚古墳」と似ているな~。

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と思って日拝塚古墳を見ると、こちらの傾斜は意外に小さいですね。
纒向遺跡の方が傾斜が大きいのが分かりました。

次は西日本新聞の記事です。(2011.4.28)

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左下の図をみてください。
日拝塚古墳の東西線が右肩上がりなのは地殻変動によるズレかもしれないと思ったので、
纒向遺跡もその可能性があるかなと思って新聞の図を見ると、
四棟の建物のさらに東側に柱列があって、それが南北をきちんと意識しています。
ということは、このラインは地殻変動によるズレでもなく、太陽祭祀線でもないと思われます。

太陽祭祀線でなければ何でしょうか。
ラインの延長上に山の頂でもあれば山から気脈を引いたと解釈できるけど、
これは現地の人に観察をお願いするしかありません。

星かもしれない
もし山でもなく、やはり天体を意識したのではないかとこだわると、
あとは星の信仰の可能性が残っています。
一年の特定の日に東から姿を見せる守護星があったのでしょうか。

例えば、エジプトではシリウスの星の出がナイルの洪水を知らせるというように、
何かの星のイベントがあって、それを祀ったのかも知れません。

真鍋大覚は、「天皇は太陽を祭祀して、皇后は星を祭祀した」と伝えています。
香椎宮の場合、その星はスピカでした。

ベガという星があります。織姫星のことです。
古名で榧星(かやのほし)と呼んでいたそうです。
「カヤ」。

「カヤ」について「韓人倭人は織女を祈る天壇を伽耶と唱えた」と真鍋は伝えています。
                             (『儺の国の星』p158)

「伽耶」というのは朝鮮半島の南部の古代の国の名と思っていましたが、
「ベガを祀る天壇」もまた「伽耶」と呼んでいたというのです。
ベガはかつては北極星だった時代があるんですよね。
ざっと1万2000年前のことです。
今の北極星より強烈な光を発していました。
ベガが北極星の座を譲っても、その信仰は残ったかもしれません。

一方、神功皇后は背振山頂で双子座のカストルとポルックスを祀りました。
http://lunabura.exblog.jp/18632955/

このようなケースがあることから、何らかの星信仰を考えてもよいのかも知れません。
年に一回~数回、特定の日に、ま東より北にずれた方角から昇ってくる星。
1700年ほど前の星。
丹念にステラナビゲータなどを見て行けば分かるかもしれませんね。

「とひ」か「かひ」か、という点では現在の出土だけで判断すると、
槇向の人たちは「どちらでもない」ということになります。
でも南北の柱列があるのですから、その先に東西線が見つかるかも知れません。
もし別の建物が出てきたら、また推理を楽しみましょう。


ところで、槇向に景行天皇の伝承があり、都があったとしたら、
東征した神功皇后は最初にこの宮殿を目指したかもしれないな~。

亡き夫君・仲哀天皇の祖父の宮なのですから、縁故を頼るとしたらここしかないでしょう。
まずは祖先たちを祀るのが彼女のやり方ですから。
そう考えると、纒向遺跡の楽しみが新たに加わりました。
神功皇后はそののち、吉方を選んで稚桜宮に遷宮したのかもしれませんね。


※「かひ」とは夏至を元旦とする氏族であり、「とひ」とは冬至を元旦とする氏族です。


「とひ」と「かひ」(1) 吉野ヶ里は「かひ」族
http://lunabura.exblog.jp/20267331/

で説明しています。






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by lunabura | 2013-05-27 21:18 | 太陽祭祀線 覚え書き | Trackback | Comments(14)

「とひ」と「かひ」(1)・吉野ヶ里は「かひ」族


「とひ」と「かひ」(1)

吉野ヶ里は「かひ」族

久し振りに古代祭祀線のお話です。
各地から流入した渡来人たちが日本で融合していくなかで、
それぞれのルーツを辿るのに、神社の祭神は大きな指標になりますが、
祭祀線もまた指標になると思っています。

元旦をいつにする?
現在の日本は冬至から一週間ほどして、ですかね。
太陽や月のイベントはあまり関係ないみたい。
旧暦だったら、朔月つまり新月が目安だから、月の観測がメインですね。

インドネシア辺りでは今でも各民族ごとに暦が違うので、
何十というカレンダーがあるとラジオで聞いたけど、
古代日本もそんな感じだろうなと思っています。

で、いつもお世話になっている真鍋大覚の本に、
「かひ」と「とひ」の二つの氏族がいたということが書かれていたので、
今回はそれで吉野ヶ里遺跡を調べたいと思います。
(『儺の国の星・拾遺』p245)

昔、祖先に「かひ」と「とひ」の二つの氏族があった。「かひ」とは夏至を元旦とする氏族であり、「とひ」とは冬至を元旦とする氏族であった。

春秋の世は朔旦冬至をもって暦を正し、この儀式は日本においても明治3(1870)年まで宮中で受け継がれてきた。しかし望旦夏至は、舒明帝(631)あたりまでは何とか維持されていたものとみえるが、敏達帝12(583)年に百済の暦書を太宰府が編輯する頃から、万邦世界に普遍な暦法も必要になってくるところから、次第に両方併用の時代に移り変わってきた。
「かひ」と「とひ」。
「かひ」族は夏至が元旦となるので、東の空を観察して、
一番北から朝日が昇る日からカレンダーが始まります。蒸し暑い季節ですね。

「とひ」族は冬至が元旦になるので、一番南から朝日が昇る日がカレンダーの始まりとなります。
真冬の観測になります。

日本では「朔旦冬至」が元旦だったということなので、
冬至の寒い季節、新月が昇る日を観測していたことになります。
新月の月の出と日の出は同じ時間ごろなので、
夜明け前、雪が降るような季節に三日月より細い月が昇るのですから、
凍りつくような光景が目に浮かびます。

しかし、舒明天皇のころまでは「望旦夏至」が維持されていたということです。
「望」は満月、「旦」は朝だから、夏至の頃の満月の朝が一年の始まりになります。
一晩中夜空を旅する満月が西に沈むとき、
振り返ると東から朝日が昇るのを観測したということになりますね。
梅雨どきだから、なかなか観測しづらかったと思います。

満月と朝日の間に立つ、何とも美しき宇宙の計らいの時。
私も二度ほどその時を経験したのですが、心が壮大になった記憶があります。

ひんがしの 野にかぎろいの 立つ見えて かえり見すれば 月傾きぬ
(東の野に曙の光が薄紫の光をすっと立てた。
振り返ると、一晩中煌々と照らしていた満月が沈もうとしている。)

この歌はそんな満月の入りと日の出の時をうたったものなんですね。

あれ、そういえば今夜は満月?
日の出は5:12
月の入りは5:02
だね。

で、今日調べたいのは吉野ヶ里遺跡。

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このロケットを斜めにしたような超現代的なデザインの外周を見ていると、前方後円墳を思い出してしまう。

ロケットの先端が祭祀方向かと思いきや、こちらは「冬至日没」
ロケットの足元の方が「夏至の日の出」

(この赤いラインが正しいかどうかは、あるプラネタリウムに行って確認済み。)

吉野ヶ里族は夏至の日の出を観測しているので、「かひ」族としていいのかな。

さて、真鍋大覚の続き。
かすかな口伝ではあるが、平群氏は望旦夏至に固執し、曽我氏は朔旦冬至に改革したと説かれる。皇極帝4(645)年はまさに暦法の賛否を巡って中大兄皇子(619~672)の激烈な論争と対決が背景にあったことを心がけなければならない。

「そが」は素娥と書き、月の東洋的異称であった。これに対して「へぐり」は平群と書き、月の西洋的異称であった。

和名抄には筑前国早良郡の条に、まだ平群、蘇我の郷名が記録されているが今はない。所は脇山であって、改名の由来は文書にはない。

月に女人を事寄せる泰西の民族の伝統に「わき」なる異邦人の租界の古称を重ねて作り上げたものと古老は語っていた。


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これは以前に作った地図。

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これも、真鍋伝承を描いたもの。
『儺の国の星』
p155 
早良戸栗(へぐり)は、かつての平群氏の故郷であった。
p196
大和の笠置の山々の名は、筑紫の葛城から神功皇后(201~269)の御宇に遷したものと伝えられる。葛城の峰は香椎宮から太宰府の東の空に連なる。

葛城氏竈門山系と水縄山系を領有して南方貿易を独占していたのに対し、平群氏背振山系と志摩山系を治めて北方貿易を掌握していました。せふりの語源は「へぐり」に在ったと語られますが、日繰(ひぐり)すなわち天文暦法の家系を示す古語であります。

平群氏は「かひ」族。曽我氏は「とひ族」
吉野ヶ里は「かひ」族。そして吉野ヶ里遺跡は平群の南にある。

そういえば、糸島の宇美八幡宮は平群のツクの末裔だったな…。
小倉北区の篠崎八幡神社は葛城襲津彦の末裔だった。
どっちも竹内宿禰の子。

何かつながらないかな~。

満月の夜は妄想もぼんやり。




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by lunabura | 2013-05-25 21:11 | 太陽祭祀線 覚え書き | Trackback | Comments(0)

謎の「15代神功天皇」


謎の「15代神功天皇」


神功(じんぐう)皇后の伝承の宮々を訪ねる中、
「15代神功皇后」「15代神功天皇」という表現があるのをいくつか見ました。

始めは、あまり気にしていなかったのですが、
中国の歴史書に神功皇后が天皇として書かれているのを見つけてびっくり。
(私が知らなかっただけ、なんだけど…)

歴代天皇の名前が列記されているなか、
神功皇后だけが特別扱いされているので、とても変な感じを受けました。
以前、このことをメモしただけだったので、今回は具体的に資料を書きたいと思います。

1 普通の系譜
14代 仲哀天皇(ちゅうあい)  神功皇后の夫君
15代 応神天皇(おうじん)   神功皇后の御子
となっています。


2 筑紫の伝承

高良玉垂宮 皇代15代神功皇后の時、イルヰは日本にハタル。(攻める)その時、皇后は筑前国四皇寺の峯に登り、虚空に向かって祈られた。(高良玉垂宮神秘書)

甲宗八幡宮 人皇15代神功皇后は先皇(仲哀天皇)の志を受けて橿日宮(香椎宮)より軍勢を発し、熊襲国を従え、羽白熊鷲を滅ぼし、土蜘蛛(田油津姫)を誅し、国の西が治まると神託に従って新羅に遠征した。(略)

思うに、神功皇后は女皇として偉くも武勲をたて、応神天皇はその胎中天皇としておのずと威徳を備えられた。(福岡県神社誌)

このように、久留米市の高良玉垂宮と北九州市の甲宗八幡宮では
神功皇后に「15代」を付けて天皇としていました。

「高良玉垂宮神秘書」に関してはかなり無理な系図があるので、
絶対的に信用するという訳にはいかないのですが、
それでも重要な情報が紛れ込んでいると考えている書物です。

文中に出て来る「イルヰ」とは新羅国あるいは新羅人を指すと思われますが、
この時、神功皇后は「15代」天皇として書かれています

次に甲宗八幡宮の伝承ですが、神功皇后を「15代」としたり、「女皇」としたりして、
やはり天皇として扱っています。
ただし伝承中に「56代清和天皇」と出て来ているので、清和天皇を調べてみると、現代でも「56代清和天皇」となっていました。
神功皇后を追加すると「57代」となるはずなので、
甲宗八幡宮の伝承には矛盾があることになります。

3 中国の歴史書
『新唐書』日本伝 (略)次は景行、次は成務、次は仲哀。仲哀が死んで、開化の曾孫女の神功を王とした。次は応神、次は仁徳。(略)

『宋史』日本国伝 (略)次は景行天皇、次は成務天皇である。次は仲哀天皇で、今は鎮国香椎大神と国の人は言う。次は神功天皇。開化天皇の曾孫女で息長足姫天皇ともいう。今は太奈良姫大神とすると国の人は言う。

次は応神天皇。甲辰の年、初めて百済より中国の文字を得た。今、八蕃菩薩という。大臣に紀の武内と言う者がいて、年は三〇七歳。次は仁徳天皇。(略)

『新唐書』は「倭国と日本」の併存が終わって「日本」だけとなった時代ですが、
「天皇」はまだ「王」という名称で呼ばれているようです。
この時、神功皇后も「王」として紹介されて、「開化の曾孫女」とわざわざ書かれています。

次に『宗史』。
「日本」の名称が「日本国」となり、倭国の存在が消えた時代に、
「王」は「天皇」という名称に変わり、
神功皇后は「神功天皇」「息長足姫天皇」と表現されています。
これもまた紹介文がわざわざ付けられています。

どちらも他の天皇は名前の羅列だけなのに神功皇后のことだけは詳しく書かれています。
これがとても不自然に思われるのです。

以上から、「倭国と日本」の併存時代から「日本国」だけになった頃、
「日本国」は「倭国のものだった神功皇后までの系譜」(倭国の系譜)を
自国(日本国)に取り入れたかったのでは、と考えるようになりました。
だから、わざわざ神功皇后の説明だけ詳しいんではないかってね。

それから、千数百年後。
神功天皇の存在が明治前後に再び抹消されたのですから、
これまた不思議ですね。


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by lunabura | 2013-05-23 20:21 | <神功皇后伝承を追って> | Trackback | Comments(7)

七支刀 369年説と468年説(2)


七支刀 
369年説と468年説(2)

さて、石上神宮の七支刀の銘文の年号が欠字なのに、
どうやって369年と判読されたのか、どうしても分からない。

その銘文がこれ。

「泰■四年」

これを「太和四年」と読むそうだ。
わざわざ字画の多い字に変えたのは何故?
「泰」=「太」となった事情が知りたい。

そこで、るな探偵は思いついた。
そうだ! 年号に詳しい愛読者さんに教えてもらおう!

369年説について
(るな)
少し教えていただきたいのですが、七支刀の年代について、
その銘文の写しを見ると、肝心の年代の部分の一字が欠落しているのですね。
きっと多くの研究で369年となったと思うのですが、
実際は2、3年の誤差があるのでしょうか。

私は、日本書紀の年代に合わせて無理に年代が決められているのだろうかと、
不思議に思ったのです。
この年代によって、神功皇后が4世紀の人となっているように見受けられます。

年号については全く分からないので、この辺りがどうなっているのか教えていただけますか?

(愛読者)
ご指摘ごもっともです。
正確には「泰■四年」で■は読めていません。

「泰」に該当する年号としては東晋の「太(泰)和4年(369年)」か、西晋の「泰始4年(268)」または南宋の「泰始4年(468)」で、銘文からだけでは決定できません。

物理的に明らかにできない以上、文献や史的事実との整合性を検討し、論証する必要がありますが、神功皇后紀52年に七支刀記事があることから、

①神功・応神紀が2運120年ずれているのは、『三国史記』で405年乙巳の百済の阿花王死亡が、『書紀』では応神16年(『書紀』紀年285年乙巳)に書かれていること等から明らかであること、

②神功紀には半島での新羅・百済をめぐる戦闘が記されているが、新羅・百済の成立は4世紀後半で、3世紀では史実にあわないこと(ちなみに国名を明らかにして中国に朝貢した最初は百済が347年、新羅377年です)、

③逆に高句麗広開土王の碑の391年に倭が百済、新羅を破り臣民としたとの記述から、このころ倭国が半島で神功紀にある軍事行動を起こしていたことは疑えないこと、

などから、今は泰和でほぼ異論のないところとなっています。もっとも石上神社の七支刀が神功紀の七支刀とは違うと考えればこの考えは成立しませんが・・

この様ですので、単に『書紀』記事と合わせて解釈しているわけではないと思います。(一方、泰始との解釈は、あまり成功しているとは思えません。)

なお宮内庁は、『書紀』が神功皇后陵とする狭城盾列陵とは佐紀盾列古墳群のこととしていますが、調査では4世紀から5世紀初頭以降の築造となっているようです。

会報では中心的な論点ではなかったので、紙面の関係からその辺は省略し断定的に「泰和」と書きましたが(註)でも入れておいた方が良かったかなとも思います。

また、神功皇后紀52年(『書紀』紀年壬申252年)を120年ずらせば372年になり、369年とずれますが、百済の史書は干支で記述されていたと考えられるので、刀の鍛造が369年で献上が372年で神功紀の120年ずれで合っているとするのが合理的だと思います。

ただ369年という年に重要な意味があるはずで、
九州王朝説なら高良記の玉垂命三潴遷都とも一致し、
かつ新羅との戦闘に備え博多湾岸から筑後に都を移したということになり、
神功皇后の新羅との戦闘記事とも整合するときれいに説明できると思っています。

私は神功皇后のモデル前つ君・卑弥呼・壱予・玉垂命を含む
九州王朝の歴代女帝だと考えています。

海外史書に記す倭国女王は近畿天皇家には存在しなかったので、『書紀』編者は神功紀を作って「まとめて」近畿天皇家の人物に見せかけたというのが真実だと思います。

(るな)
(略)年号が読めないという点で、私は、この七支刀は神功皇后の年代特定の資料にはならないと思っています。その点も含めて、掲載を許可していただければと思っています。

(愛読者)
引用はいくらでもどうぞ。
ただ全体の論の主旨は「『書紀』編者は、大和朝廷の「気長足姫尊(実年代不明)」を「神功皇后」と命名して、そこに卑弥呼・壹予・玉垂命・橿日宮の女王など「筑紫の女王」の事績を入れ込んで「神功紀」を作った」というものです。

 従って、「神功の実年代」とは、より正確(厳密)に言うと「『書紀』に書かれた『神功皇后の三韓討伐』部分のモデルの実年代は玉垂命と一致する」というものですので誤解の無いように。この部分(三韓討伐)では七支刀は十分根拠資料となると考えます。

 卑弥呼はじめ複数の人物の事績を集めたのが『神功紀』であり、周防に遠征したり、魏に使者を送ったり、香坂皇子、忍熊皇子を討伐したという神功の事績のモデルの年代とは明確に違いますし、当然大和朝廷の「気長足姫尊(息長帯比売命)」や「仲哀天皇」の年代をさすものでもありませんから。

 以上よろしくお願いします。

以上、愛読者さんから丁寧な説明をいただきました。

「泰■四年」は「太和」と読んで369年説となる理由が網羅されていて
とても分かりやすい説明でした。ありがとうございます。


次にもう一つの説を紹介します。
468年説について
先週、本棚にあった本(まだ読んでいない(・.・;))をパラパラとめくると、
「泰■」について、別の見解が書いてありました。
グッドタイミング。
これも参考になるので書き写します。

泰□4年は468年

奈良県天理市の石上神宮に伝えられている七支刀の銘文は、鉄刀であるために錆びて不明な文字があり、解読には福山敏男ほか多くの異説がある。(略)

これまで、大多数の解読は「泰和4年5月16日丙午正陽」を
西晋の太和4年(369)としてきた。わたしも長い間それを疑わなかった。
泰和=太和なら、太和4年は、藤大臣が大善寺に玉垂宮を完成し、神功が貴国の統治を確立したという369年己巳にきれいにつながるからである。

神功=倭王旨でさえあれば、百滋王世子がその時点で倭王のために百錬の七支刀を造ったという想定はどこにも不自然がことがないと思われた。七支刀は百済と倭を結んだ友好のシンボルとも理解することができるだろう。

しかし、この銘文の年号は、太和ではない。泰□である。銘文の研究の初期には四世紀太和説が有力であったが、近年は五世紀泰始説が説得力を増してきている。

 七支刀の製作年が西晋の太和4年(369)でないことは、百済が西晋に朝貢して余句がはじめて冊封されたのがカンアン2年(372)であることから明白である。宮崎市定が指摘するように、朝貢国が冊封される以前に宗主国の年号を使用することはあり得ないからである。 

 すると泰□4年は宋の泰始4年(468)で、その場合の七支刀の贈り主は仇台百済の余慶(455~475)ということになる。 (略)
(兼川 晋 『百済の王統と日本の古代』)

これによると、369年よりさらに100年後ということで、
るな的には未踏の分野になるのでした。

ということで、今回は石上神宮の七支刀の製作年代についての大まかな争点を学びました。
これですっきりです。 

う~む。歴史はやはり奥が深いな~。


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by lunabura | 2013-05-17 20:23 | 七支刀 | Trackback | Comments(3)

七支刀 369年説と468年説(1)


七支刀 

369年説と468年説(1)

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博多駅で旅人を迎える「卑弥呼像」です。
凛としたまなざしと、美しい色彩。

その左手に持つのは七支刀。
右手には銅鏡。(ちゃんと凸面になっている!)
三角縁神獣鏡なのか、裏を見てみたいな!
勾玉を下げ、貫頭衣を着て前後に布をまとう。
倭人伝そのまま。
しかも、その布の模様は王塚古墳の装飾文様。

作者がどれほど弥生時代に関する歴史書を読みこんだのか、よ~く伝わってきます。
そして冠はなんと新羅風。
これは卑弥呼といいながらも神功皇后のアイテムにも彩られているぞ。

卑弥呼。
人々の心をひきつけてやまない倭の女王。
本当に美しい博多人形です。



置かれている場所は改札口のちょっと手前の右の片隅なので、
気づく人はほとんどいない。
どうせなら中央のコンコースに置かれたら、
もっと多くの人の目に触れるだろうなと思うと、置き場所がもったいないなあ。


さて、今回はこの神功皇后のアイテム「七支刀の年代」についてです。

なんで七支刀が神功皇后のアイテムなのかというと、
『日本書紀』に、
神功摂政52年9月、百済のクテイらが千熊長彦に従って倭国にやってきて、
七支刀や七つ子の鏡などを献上した、と書いてあるからです。

たまたま現存する奈良県の石上神宮の七支刀の製作年から
神功皇后の時代は西暦200年+120年=320年という説が
現代では定説なのだそうです。

それを重々承知の上で、年表には200年と書いている私は
相当のへそ曲がりですな。

いろんな方が心配してコメントをくださっています。
でも、日本書紀のツギハギをチェックしないと、年代は確定できないよね。
まずは素の状態で古代の歴史を見たいというのが、るな流なんです。


製作年の不思議
奇跡的に現存する石上神宮の七支刀の銘文から、製作年は369年だと聞くけど、
模写を見たら、肝心の年号の部分は判読不明だった~ (@_@;)
かなりショックを受けたのは一年前。

年号の部分が欠字なのに369年と決まっているのは何故なんだあ?

それに加えて「神功皇后が貰った七支刀」=「石上神宮の七支刀」
と何故言えるんだ。その論理が理解できない…。

もしかしたら、七支刀が世界で一本だけしか作られなかったというのが前提になってる?
そんなの、どうやって証明できるんだろ。
鋳型で作られたと判明した以上は、銅鏡と同じように複数造られたのでは?

たまたま、奈良で一本発見されているだけかもしれないのに。
そんな思いを消すことができずにいました。


福岡県のみやま市の「こうやの宮」の神像は七支刀を持っている。
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ところが、これも石上神宮に奉納されたんだということになって、
「神功皇后が貰った七支刀」=「石上神社の七支刀」=「こうやの宮の神像の七支刀」
という論理もあったりする。
これがどうして成立するか、よく分からない。

以前書いたけど、吉田信弘氏によると、
みやま市には別の七支刀が存在していて、
戦争中に鍛冶屋が鋳直そうとしたけど、全く歯が立たなかった。
そして行方不明になった、という話を聞いていて、
七支刀というのは何本も製作されているのではないかと思ってます。
その失われた七支刀が見つからないかなあ。

でも、みやま市に鍛冶屋さんはあるだろうか、と思って確認したら、
こうやの宮のすぐ近くにあるそうで、
これから調査される可能性が出て来ました。

なにせ「こうやの宮」は「磯上物部神社」ともいうんですからね。
ずっと注目してるんです。


さて、判読不明の年号が基準になって、
神功皇后の七支刀が石上神宮に預けられた?という
仮説の上に仮説を載せて出来ている年代、369年。

いったい、どうする。
るな探偵は考えた。    (つづく)




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by lunabura | 2013-05-15 23:01 | 七支刀 | Trackback | Comments(9)

船原古墳群の周辺散歩ガイド


船原古墳群の周辺散歩ガイド


金銅製の馬具が一式発見された船原3号墳がこれから更に掘り下げられて、
出土物がクリーニングされたら、
きっともう一度現物を直接見学する事ができるでしょう。
その日が楽しみです。

これまでブログに書いた現地説明会から
被葬者の生活エリアにある神社までをまとめました。
周辺散策に利用して下さい。
遠方の方はブログ内散歩をどうぞ。



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船原古墳(1)金メッキの馬具一式が発見された 
その環境 小山田斎宮と愛鷹神社が近い
http://lunabura.exblog.jp/19872796/

船原古墳(2)現地説明会に行って来ました
http://lunabura.exblog.jp/19876646/

船原古墳(3)被葬者の生きた時代
http://lunabura.exblog.jp/19882667/

船原古墳(4)「ふなばる」を考えた
http://lunabura.exblog.jp/19898556/




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小山田斎宮(3)古宮を捜して
http://lunabura.exblog.jp/19970549/

小山田斎宮(1) オキナガタラシ姫の神懸かりの地を探して
http://lunabura.exblog.jp/12788885/

小山田斎宮(2) オキナガタラシ姫の神懸かりの地を探して
http://lunabura.exblog.jp/12810991/




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八幡宮 船原古墳のすぐ近くの宮・磐井の乱を見たのか
http://lunabura.exblog.jp/20001942/




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愛鷹神社 豊玉姫は山幸彦とウガヤフキアエズと共に
http://lunabura.exblog.jp/20118654/





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地図 古賀市谷山




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by lunabura | 2013-05-12 21:49 | 船原古墳・古賀市 | Trackback | Comments(6)

愛鷹神社・豊玉姫は山幸彦とウガヤフキアエズと共に


愛鷹神社

豊玉姫は山幸彦とウガヤフキアエズと共に

さて、再び古賀市の船原古墳の近くに戻ってきました。

船原古墳の被葬者の生活圏に入ると思われる愛鷹神社です。

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古墳の横の谷山川を遡って一キロほど。古墳から歩いても15分。
川と山の細長い境内に神社はありました。
『小野村史』には
「社前に川あり。古賀村にて海に入る。10月9日の祭礼に鮭魚上り来ることあり」
とあるので、この川にはかつては豊かな水量があったのでしょう。

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一の鳥居は川を向いていて、社殿の後は山です。

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祭神は彦火々出見尊。豊玉姫尊。鵜草葺不合(うがやふきあえず)命。
父と母と子です。
ようやく豊玉姫が家族揃って祀られている宮に出会いました。

社殿が二つ並んでいました。
右が愛鷹神社。左は大山祇(おおやまつみ)神社です。

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社殿を右側から撮りました。
境内の木立は大きくて、上空で緑の葉を広げていました。
左に道路があり、谷山川があります。

船原古墳のすぐそばの八幡宮から車で行ったのですが、
川沿いに発達した古い集落の中をくねくねと上っていきました。
道幅が大変狭く、側溝に蓋があるおかげで落ちないですむような道でした。
そして広い車道に出て、探すのをあきらめようとしたら、ナビに「愛鷹神社」の文字が。
すぐ近くに来ていました。

さて、由緒を見てみましょう。
昔は南方の須恵嶺にあったが、永享三年二月十五日、
今の地に移転され、古宮には礎石がなお残っている。

この嶺を大目配と言って、神功皇后が御登山、遠見された事を言い伝えている。
社説に、彦火火出見尊は山幸なので、鷹を愛されることにちなんで
社号としたとある。

社前に川があり、古賀村で海に入る。
十月九日の祭礼に鮭魚が上って来ることがある。
豊玉姫命は竜神の(娘なので)御神徳があるといって、
浦津の豊猟の祈願、体の痛みを取る祈願が多い。
奉賽に履物を供えるのも古来の慣例である。

※ このほか、薦野(こもの)清滝に砂鉄の中継所の旧跡もある。(小野村史)

永享年代は室町時代。ずいぶん昔に遷宮していたんですね。
元宮は大目配山にあって、神功皇后が登山したといいます。
この「大目配山」が地図に載っていなくて、
これまで手がつけられなかったのですが、
古賀市立歴史資料館の「新古賀風土記」のガイドマップに載っていたことから、
急に状況が開けてきました。

c0222861_20201092.jpg

大目配(スパイ山)409.7m。
何々?スパイ?こりゃ何だ?

「目配山」といえば、
松峡八幡宮の裏の山も神功皇后が目配りしたから付いた名前でしたね。
ここは「大目配山」で、やはり神功皇后の縁でした。

祭神の豊玉姫が祭礼の日にだけ鮭になって遡上するという話は鮭神社にもありました。
昔の人たちは豊玉姫が子を置いて帰って行ったことを忘れずに
ずっと思いを掛けていたんですね。

そんな豊玉姫を夫君と子と一緒に祀ったのは誰でしょうか。
神功皇后が登った時には既に祀られていたのでしょうか。
それとも神功皇后が初めて祀ったのでしょうか。

神功皇后は和布刈神社(めかり)では三人を一緒に祀っています。
筑紫を離れる寸前に、最果ての地に三人を一緒に祀っているんですね。
しかも一族の安曇磯良と一緒に。

皇后は、荒ぶる神となって志式神社に祀られていた豊玉姫の事を
ずっと忘れずにいたんですね。
志式神社で神楽を奉納しながら、
きっと豊玉姫と御子を一緒に祀って差し上げようと思ったんじゃないかな。

そうして、姫を祀るのにふさわしい地をずっと探していた。
だから、筑紫を離れる時に、海と山のせめぎ合う和布刈(めかり)の速戸の地こそ
龍神の娘・豊玉姫と山幸である彦火火出見尊の逢瀬の場としてふさわしい、
そう思ったのかも知れませんね。

そんな皇后ですから、この大目配山に最初に三柱を一緒に祀った人は
神功皇后かもしれないなと思ったりしています。

大目配山からは、志式神社のある奈多の海が手に取るように見えたはずで、
豊玉姫が家族と共に祀られるにふさわしい山だったと思われます。

この山へ案内したのは誰でしょうか。
小山田斎宮を提供した人でしょうか。

豊玉姫がいとしい人たちと祀られているとすると、安曇族関係の人かなとも思いました。

お礼として、その人の奉斎する神々を祀るというのが皇后のやり方でしたから。

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地図 愛鷹神社



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by lunabura | 2013-05-11 20:25 | 神社(ア) | Trackback | Comments(0)

ガイアの森 出版のお知らせ



ガイアの森


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お待たせしました。

「ガイアの森」が6月3日に出版されます。
出版社はヒカルランドです。


 私たちは何故、輪廻転生するのか。

 何のために地球に生まれてきたのか。

 人類の意識の進化に必要なこととは何か。


そんなテーマを小説にしました。

綾杉るな




太古の全記憶を抱えた巨大生命体
ガイアの森 2040年からのミッション
著者:綾杉るな

変型ハード 価格:1600円+税
超★きらきらシリーズ018
☆2013年5月下旬発売予定☆
ISBN:9784864711227

詳細は 
ヒカルランド 刊行予定 にて
http://www.hikaruland.co.jp/books/2013/05/08114717.html 


アマゾンで予約できます。
サイドバーからどうぞ。




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by lunabura | 2013-05-10 09:04 | ◆ガイアの森◆ | Trackback | Comments(6)

響灘の遺跡めぐり


響灘の遺跡めぐり


今日は山口県下関市の響灘(ひびきなだ)の海岸線に点在する遺跡を巡ってきました。

1 綾羅木郷遺跡
あやらぎごう

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下関考古博物館とセットで見られます。
前方後円墳だったとは思いも寄らず、その美しいフォルムと環境にうっとり。
緩やかな丘のピークにありました。
前方部から見ると、正面の山のピークに中心線を合わせていて、
山からの気脈を引いているのが理解しやすい、お手本のような古墳。

この古墳の被葬者の集落らしきものは全く周辺から見つかっていないとのこと。



2蓋井島への渡船場

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その手前に三つ並ぶ小島があった。

蓋井島(ふたおいしま)には

「神功皇后は二つの井戸を敵に見つからないように蓋をしたと」いう話があるのですが、
永井功の収集した和布刈神社の社伝に
その島には「新羅の鬼が来て、本土襲撃を計っていたのを神功皇后が退治した」
という伝承があったらしく、島へ出港した湊の地形を確認に行きました。

和布刈神社の社伝には、ほかに
「皇后は筑紫を後にして、沖津嘉利島に向かった」という伝承もあり、
それが蓋井島だという話がネットにあったので、それも確認したかったけど、
やはり、文献史料がないと無理。
現場に行って、吉見の湊から六連島や北九州市の山々がよく見えて驚きました。

3 中ノ浜遺跡

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海にそそぐ河口付近のなだらかな微高地に立地。
昭和のお墓のすぐ裏なので、情報がないと分からない所。

そこの土器は下関考古博物館の特別展示でたまたま見る事ができた。
赤いベンガラで磨き込んで、模様が描かれ、コンパクトで美しい土器群だったなあ。


4 土井ヶ浜遺跡

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人類学ミュージアム

ずっと前から行きたかったところ。
この人たちがどこから来たのか一番知りたかった。
一人は山西省の頭がい骨とほぼ一致したそう。
頭蓋骨がみな海を向いているというのが現場を見てよく分かったけど、
はてさて、海の方=中国と限定できるのか気になる所。

一人は佐賀~長崎の頭がい骨のタイプだそう。
現在の研究がどこまで進んでいるのかを一番知りたかったけど、
それはどこで尋ねればいいのかな。

ここも集落は見つかっていないそうです。

ほぼ1時間半の行程の中で、タイミングよく休憩しながらの遺跡めぐり。
詳しい記事はずっと先になると思います。
今日は備忘用のメモです。


地図



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by lunabura | 2013-05-06 21:40 | 響灘の遺跡めぐり | Trackback | Comments(2)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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