ひもろぎ逍遥

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<   2013年 06月 ( 13 )   > この月の画像一覧

たはれ島と住吉神社・清少納言の父は肥前に赴任していた


たはれ島と住吉神社
清少納言の父は肥前に赴任していた
伊勢物語や枕草子に出て来る島

馬門から船に乗せられた阿蘇ピンク石は川をここまで下ったのでしょうか。
次に訪れたのは住吉神社でした。距離は約2キロです。

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かつては岬か島のような地形に近づいてワクワク。
その突端に立つと、面白い島がありました。

風流島と書いて「たはれしま」と読みます。
なんとも風情のある岩島です。
ここは住吉自然公園。

この島が伊勢物語や枕草子で取り上げられているそうです。
掲示板を写しましょう。

枕草子を書いた清少納言の父親・清原元輔は肥後国司として派遣されております。
島の大きさは東西65メートル、南北約40メートルで、高さは9.4メートルです。頂上には高さ1.3メートルの小さな鳥居が建っております。

平安時代につくられた伊勢物語の枕詞として「たはれ島」が使われています。
男女の色恋に関する話に用いられたもので、女の返しことばの中に「たはれ島」が出ています。

昔、男、筑紫まで行きたりけるに、
「これは色好むといふすきもの」とすだれの内なる人(女)の言ひけるを聞きて、
男、返し、
     染川を わたらむ人の いかでかは
     色になるてふ ことのなからん
女、返し、
     名にしおはば あだにぞあるべき たはれ島
     浪の濡れ衣 着るといふなり

へえ。伊勢物語のマメ男も筑紫に来たんだ。
なんてこったい。ちっとも知らなんだ。

彼は筑紫でも色好みで有名だったんですね。恋多き中将。

簾の外から口説いてきた男があの有名な方と知って、女は
「あなたは色好みで有名なあの方ね」と言ったので、男は
「染川という名前の川を渡る人は どうして色(恋)に染まらないでいられましょうか。
私も、あなたにすっかり恋してしまった」と詠んだ。

女は返した。
「まあ、(恋多い女と浮き名が立って)たはれ島のように有名だって言われても、それは嘘よ。
『たはれ島』に立つと波が寄せて濡れてしまって濡れ衣になるという「濡れ衣」よ、そんな噂。」

例のごとくハチャメチャのるな的口語訳でした。

たはれ島はあまりに小さくて、波が寄せると濡れてしまうっていう感じなんでしょうね。
でも、全国規模で有名だったらしい。
この島は平安時代からあまり浸食されていないらしく、
この面白い形はさほど変化ないのでしょう。
鳥居の高さが1.3mなんで、島が却って大きく見えるという錯覚を生み出していました。

清少納言は父親に付いてきたのかなあ。
土佐日記の紀貫之は、留守の間の家の世話を隣人に頼んだりしているので、
昔は単身赴任だったとは思われず、
清原元輔も一家を連れての赴任かも知れませんね。
そうすると、清少納言も付いて行ったということになります。
枕草紙の話題のジャンルの広さは、こういう旅から来てるのかも。



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さあ、鳥居と石段があれば行かずにはいられない。

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しばらく上るとフラットな場所に出て、海が見渡せました。
灯台があったらしいです。
るなの目はあれ?磐座のありそうな石組に釘付け…。

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お。
磐だ。左はいくつもの巨岩が。

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石段を登り切ると神門。
これは古い。

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頂上部はフラットで思ったより広い境内になっていました。
御祭神は住吉三神と神功皇后です。

延久3年(1221年)に肥後国司菊地隆公が西国鎮護、海上安全の守護神として天皇の勅許を得て、摂津大阪の住吉大社の御分霊を親奉し、海路を経て、当時海上の孤島であったこの小島に奉斎したといわれる。
ということです。

意外に歴史が新しいです。
ここにはもともと磐座があって、古代祭祀場があったんでは?
それを整地して神社を建てたのではと想像は膨らむのでした。

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これがかつては島だったんですね。

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それに向き合うように「たはれ島」がありました。
海の向こうに山がうっすらと見えます。
右の方は金峰山です。
あそこにも磐座が沢山あるんですよね。
懐かしいなあ。
また、巨石巡りをしたくなっちゃった。

たはれ島




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by lunabura | 2013-06-29 21:42 | (サ行)神社 | Trackback | Comments(0)

馬門 阿蘇ピンク石が切り出された所に行って来ました


馬門
まかど
阿蘇ピンク石が切り出された所に行って来ました

久しぶりに天草トレッキングの報告の続きです。

行ったのが昨年の秋 \(◎o◎)/!
すっかり記憶が薄れています。
でもずっと心に残っていた所でした。

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大歳神社を後にして、山の方に向かって歩いて行きました。
斜度は緩やかで、登っているという感覚はありませんでした。

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そして、人家が途絶え始め、最後の人家が…。
とてもとても大きな屋敷です。
しかし、荒廃し始めていました。
こんな山の中にこれほどの大きな屋敷があったのですから、よほど栄えた場所だったのでしょう。
そこから右に曲がり一車線の舗装道路を進むと並行して川が流れています。

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そして、まもなく岩が散乱しているような場所が見え始めました。
ピンク?

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阿蘇ピンク石の石切り場です。
思ったより近い所にありました。

名前通り、石がピンク色です。

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乾燥の具合によって、色が違っています。

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丸く加工された石。これは現代アート。

ここで石棺がある程度加工されて、近畿に運ばれて行ったそうです。
何せ古墳時代です。
この石を知っていたことも驚きだし、
あんな遠くまで運んでも、この石の中に眠りたかった情熱に驚かされます。

美しいものを求める欲望と、それに応えようとする人々の
不可思議な連携のようなものに思いは巡らされ、
それが文化を創りだす原動力になったという人間力のたくましさに
感動さえ覚えます。

いったいどうやって運ばれたのか、
平成の人々の心をも動かして実験考古学がなされました。

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当時の運搬器具の修羅で運んだそうです。


私の頭の中は、この道をどうやって運んだのだろうという事でいっぱい。


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これは大歳神社へ戻る道。
唯一の緩やかな登りの場所です。左側には川が流れています。
考えたら、川の中を引いて行った方が合理的かもと思ったりしました。

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歩いて戻ってくると、再び大歳神社のピンクの鳥居が見えて来ました。
ここまでの距離を地図で見てみると500mほど。意外に近いですね。
そして、大歳神社で最後の祈りをして、


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広い川に出て、海へと漕ぎだしたのでしょう。
長崎の西海岸を通って、玄界灘、関門海峡を通り、
瀬戸内海を越えてはるばると運ばれたピンクの石棺。

どれほどの愛着がこれにあったのか。
古代の王たちの思いは測り知れません。

「ひもろぎさん、さっきの所に牧神社があったのに。」
「え?牧?」
「ここには牧があったのですよ。」
そんなあ。
まさか、あの石切り場の奥に神社があったなんて。
あの地形で?
知ってたら絶対行ったのに。(くすん)

そうか。馬に引かせれば意外に簡単だな。

聞くところによると、ピンクの石を産する所は数ヵ所あるそうです。
ここは今も変わらず地形が残っているので素晴らしいですね。

さて、当地から運ばれた石棺が出土している現地のようすは

ちょっと考古学
熊本から琵琶湖まで運ばれた石棺
http://blogs.yahoo.co.jp/hirotak24/14054787.html

の写真で見る事ができます。
副葬品として、金糸が出たもの、冠が出たものなどがあって、
やはりかなりの身分の人たちのようですね。

羨道の傾斜などは、九州の形式だそうですが、如何でしょうか。
そうだとすると技術者も行ったことになります。
あまり古墳の中に入っていないから、一メートルも傾斜のある古墳って
どこにあるかなあと思ったりします。
熊本の方の事情は

装飾古墳今昔紀行
http://blog.livedoor.jp/warabite/tag/阿蘇ピンク石

が詳しいです。
何?牧神社はピンク石で出来てたって?
そんなあ。
もう再訪する元気はないよ…。


地図 馬門

写真でも、ご覧ください。

天草トレッキングの過去記事は下のタグの ♯天草トレッキングからどうぞ。



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by lunabura | 2013-06-27 20:45 | ピンクの石棺と馬門 | Trackback | Comments(8)

豊玉姫と玉依姫


豊玉姫と玉依姫


さて、と。
原稿が一つ片付き、ブログの響灘めぐりも一段落。
新たなスタートが切れる状態になりました。

記事の中で、いくつも中断したものがあり、
どこから再スタートしてもいいんですが、
何でも有りなので、かえって迷っています。

思えば、平戸トレッキングの大歳神社で豊玉姫のエネルギーに触れたのか、
話題は想定外の豊玉姫に移行したあと、志式神社に再び舞い戻って
中断しているのが一番の気がかり。

安曇族の姫である豊玉姫が幸薄い人生を送ったことが、
目の前にだんだんとクローズアップされていくのを日々感じています。

安曇磯良が神功皇后の要請になかなか応じなかった理由に、
豊玉姫の事が大きく絡んでいることが分かった今、
女神復活の願いの中に、豊玉姫の真実を解き明かしたいという思いが膨らんでいます。

日本全国、それこそ津々浦々に女神として祀られている神功皇后。
この女神もまた真実とは違った形で誤解されて伝わっていることが分かりました。

神功皇后という名はずっと後に付けられた名称。
息長足姫(おきながたらしひめ)という名も、出自を示す名前なので、
本当は何と言うのか、今だに分かりません。
古代では、自分の名前を他人に教える事がなかったから、仕方がありませんね。

神功皇后が安曇磯良から貰った「干珠と満珠」は「玉依姫と豊玉姫」の「聖なる力」でもありました。
玉依姫と豊玉姫の故郷たる宮、志賀海神社には玉依姫だけしか祀られていないようので、
先日、神社に行って確認してきました。
やはり、豊玉姫は志賀海神社には祀られていませんでした。

代わりに、すぐ近くの志式神社に祀られています。
しかし志賀海神社が志式神社の祭りに関連する事はないそうです。

豊玉姫の宮々を廻る事で、また一人の女神の真実が明らかになればいいなと思っています。
でも、スワッ豊玉姫シリーズか!って期待しないで下さいね。

歴史はぐるぐる回りながら、明らかになっていくもので、
遠回りや道草に謎を解くヒントがあるのがこれまでのパターンでしたから。

さて、ホントどれから取り掛かろうかな…。

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聖洲

このイラストの二人の女性が豊玉姫と玉依姫です。
名島神社の上にはこんな竜宮城があったという想定です。
金メッキのカワラも出土しているので、
綿津見のイロコの宮の一つでもあるのでしょうね。

記事にはしていませんが、二見が浦付近には龍宮に行った青年の伝承があります。
志賀海神社は龍の宮。

龍神の姫たち
豊玉姫と玉依姫が揃うことは、今、意義があることかもしれません。







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by lunabura | 2013-06-24 20:15 | 豊玉姫と玉依姫 | Trackback | Comments(2)

響灘を巡って 遺跡と伝承について考えた


響灘を巡って 
遺跡と伝承について考えた

駆け足で巡った響灘(ひびきなだ)沿岸の遺跡を振り返ると
思い出されるのは清らかな大気と打ち寄せる白波。
その波に乗って来た人々たちの営み。
力を合わせて暮らす豊饒の海。

そしてその暮らしの跡に堆積して行く美しい砂。

ここは日本人がどうやって形成されて行ったのかを教えてくれる重要な地でした。
考古学的に期待したいことは
一つ一つの遺跡の保護と研究。
遺跡同士の関係性。
そして、大陸や半島との比較。

土井ヶ浜・人類学ミュージアムはその中心核ですが、
山積する課題に対して、人手不足は明らかです。
もっと国が援助をしないと、これらの宝からのメッセージを
受け取るのは困難だと思われました。

望まれるのは、毎年行われているシンポジウムの成果をPDF化したり、冊子化して、
国民がいつでも最新情報を手に入れられるようにしてほしいということですが、
それも、多くの人手を要するものです。

国の予算が近畿に集中していると聞きました。予算をもっと分散して、
全国の研究の底上げにシフトする時期が来ているように思われます。


さて、ひもろぎを逍遥するはずなのに、古代人のお墓も逍遥する当ブログですが、
神社の御神体と遺跡の出土物が重なることから、
古代人の価値観を知るのに、遺跡を学ぶことは大切だと思っています。

言いかえれば遺跡の人々の信仰が神社に残されているのです。
人々は故郷の地名と神々を連れて移動します。
遺跡のそばにある神社には彼らの精神界を知る手掛かりがあります。
神社は世界的にも稀有なカタチで残されたタイムカプセルなんですね。


私は、各地の町おこしに、
歴史を学ぶという知的な分野を取り入れてほしいと思うようになりました。

自分の町の遺跡マップを作ることは、きっと町おこしの原動力になると思っています。
その時、遺跡マップと神社マップを共存させてほしい。

歴史――知っていたつもりで、何も知らなかった。
それに気づく喜び。

皆さんの町にはどんな遺跡と神社がありますか?
日本の始まりのころ、どんな暮らしがあったでしょうか?





響灘沿岸には、神功皇后伝承が重なったものがありました。

弥生時代から古墳時代にかけて、遺跡の人々が生きた時代に
下関市の豊浦宮は都として機能していた時期があるのです。

天皇がいる所が朝廷。
この時代の朝廷は「ヤマト朝廷」でなく
「穴門朝廷」あるいは「豊浦朝廷」とでもいうべきものです。
香椎宮に遷宮してからは「儺の朝廷」とか「筑紫朝廷」とか。

『日本書紀』や『古事記』は、「仲哀天皇は豊浦宮や香椎宮で天下を治めた」と
高らかに書いているのですから。

記紀によれば、豊浦宮があったのは西暦200年前後という弥生時代の後期。
考古学界では神功皇后は320年あたりらしいので、そうすると古墳時代です。
時代の捉え方は違っても、豊浦宮に朝廷があった。

仲哀天皇が穴門の豊浦宮で「天の下をしろしめした」時代、
蓋井島に辰韓(新羅)が上陸して占拠し、本土上陸を狙っていました。
神功皇后は吉見港から出向して戦ったのですね。

洞海湾にも賊がいて、仲哀天皇が軍船を率いて攻撃。
神功皇后が賊に追われて逃げたという事件があったという伝承も聞きました。

倭国はいったん、蓋井島で敵をせん滅したつもりが、
まさかの塵輪の豊浦宮攻撃という不測の事態に。


この時、仲哀天皇は自ら敵将を射殺したけど、
警護した武人たちには不名誉な事件となりました。
さらに香椎宮遷都の後、小郡市の仮陣(御勢大霊石神社)で天皇を戦死させてしまった不名誉。

この二つの大事件を記紀は記録しなかった。
でも、記紀は嘘をついてはいない。ただ、記録しなかっただけ。

そのやり方が功を奏したのか、
神功皇后の三韓攻撃が唐突なものとなった。

さらには
仲哀天皇や神功皇后などが存在しなかったという人が現れる事になった。

さあ、フィールドワークをしましょう。
机の前から離れて、筑紫の宮々を歩きましょう。

地形を知り、古代人の営みを知る時、
私たち現代人は古代人の智恵を授かり、
望ましい未来とはどういう社会なのか、それぞれが知る事になることでしょう。

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綾羅木郷遺跡 (あやらぎごう)
下関市立考古博物館



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by lunabura | 2013-06-22 22:15 | 響灘の遺跡めぐり | Trackback | Comments(4)

安曇族と高橋族



「おい、タカハシィー!!!」
目が覚めると、夫が言った。
「タカハシーーー て、男の声で寝言を言ってたぞ。
男の声だった。ウワウワア、とわめいていた。過去世じゃないか」

「え?タカハシ?そんな事いってたの?覚えていない。
友達に一人いるけど、そんな悪い関係じゃない。私が男の声で?」

朝、いきなり言われたけど、そんな夢を見たことも記憶にない。
ましてや、そんな過去世を思い出した事もない。



そして、次の日の夜、寝ながら自問自答してみた。
「タカハシ?」
その時、屋根がバチっと音を鳴らした。
ラップだ。
屋根があんな音を鳴らすのを聞いた事ない…。
私の心の中を内観しても、何もなかった。




翌日。お昼。
トシさんから電話があって、安曇族の話などを伺っていたら、こんな事を聞かれた。
「タカハシ族ってご存知ですか?」
「タ、タカハシ族ですか?」(ゴクリ)

「そうです。平安時代に高橋族と安曇族がいて、交代で都の料理番をしていたのです。
半年ごとに交代するのですが、ある時、高橋族が『安曇族が謀反を起こしている』と讒言して、信じられてしまい、安曇族は追放されたのです。阿曇ハマコと言いました。」
「初めて聞きました…。」
これだったのか…。

「ちょうど、道真と同じようにですね。」
「そんな事があったのですか。」

私の寝言というのは、これを指していたのだろうか。
裏切られて、絶叫する安曇族。

寝言のようすをよくよく聞くと、
「オイ、高橋。ヤイ、高橋」という言い方をして、まるでやくざのようだったとか。

思えば、私は、よくよく安曇族に縁があるのかもしれない。
初めて志賀海神社を訪れたのは20歳の頃。
地元の青年から祭りに連れて行ってもらった。
夏の夜祭だったから、磯良祭だったのかな。
その人は私がそんな祭を好きだろうと思ったからと言ったのを思い出した。


そして、この日、オファーがあった。
「アントンイソラを本にしましょう」と。


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大戸 志賀島






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by lunabura | 2013-06-20 22:05 | にっき | Trackback | Comments(2)

土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアム (2)


土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアム (2)


前回、パネルについて質問をいただいたので、写真を掲載します。

質問。ミュージアムの大きなパネルで、土井が浜、山口、北部九州から
筑後・熊本までを囲んだ青い線は何を意味するのでしょう?

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該当部分を拡大しました。北部九州に描かれた二つの青いラインについて
パネル全体を撮っていないので、推測になりますが、
西北九州と北部九州の違いを表わしたもののようですね。
土井ヶ浜から吉野ヶ里は渡来系の弥生人という意味でしょうか。

西北九州というのは長崎を中心とした弥生人ということでしょうか。
縄文が色濃く残っているということでしょう。
(あくまでも推測なので、ミュージアムに問い合わせる方が確実ですね(・.・;))

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前回、掲載した二体の人骨の説明に「西北九州」という言葉が出て来ます。
引用すると
「弥生時代の人骨を研究すると、現在の長崎県を中心とする西北九州は
縄文人の特徴をそのまま受け継いだ弥生人が住んでいたことがわかりました。
彼らの特徴は、鼻が高く、顔のホリが深いということでした。
また身長は土井ヶ浜の人々と比べて低いことがわかっています。」
と書かれています。

土井ヶ浜遺跡については最新情報が知りたかったのですが、
人骨の比較研究などの本やシンポジウムの資料など見当たらず、手ぶらで帰って来ました。

家に帰って、過去のチラシなどを見ていたら、こんな記事が。

今から半世紀前の1953年、土井ヶ浜遺跡で初めて学術的な発掘調査が行われ、1957年の5次調査に至るまで、200体を越える弥生人骨とともに、数多くの弥生土器も出土しました。

お墓に供えられたと考えられるこれらの土器は出土人骨が弥生時代の人々であることを確証付け、集団墓地である土井ヶ浜遺跡の変遷過程や埋葬習俗、さらには当時の地域間交流を紐解く重要資料として古くから注目されてきました。

しかし、残念ながらこれらの土器資料の多くは長らく本格的な資料整理が行われないまま、限られた研究者以外、その全体像を目にすることは困難な状況にありました。
(平成21年度小企画展3)

誰かが土器資料を占有してしまったために、研究が出来なかったようです。
中ノ浜遺跡の場合は出土物が離散していたし…。
パンフレットに時代などが書かれていないのは、これが原因だったようですね。

響灘の遺跡全体の資料としては、
下関市立考古博物館 平成25年企画展Ⅰ
「響灘沿岸の遺跡 -海に生きた人々―」
の展示解説資料が、8ページほどのコピー資料でしたが、
全容が見渡せて読みごたえがありました。(6月30日まで)

これは展示されていた土井ヶ浜の土器です。

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愛読者さん、以上分かる範囲ですがお役に立てたでしょうか。



山口県下関豊北町神田上891-8
土井ヶ浜遺跡 人類学ミュージアム





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by lunabura | 2013-06-19 22:11 | 響灘の遺跡めぐり | Trackback | Comments(4)

4土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアム・矢を浴びた英雄は持衰かシャーマン?


4 土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアム

矢を浴びた英雄は持衰かシャーマン?

「遺跡にも運、不運がある。」
遺跡関係の本に書いてあったなあ。
この大きなミュージアムを見て、そんな言葉を思い出しました。
ここはとても幸運な遺跡でした。

土井ヶ浜人類学ミュージアムは、展示の建物と、遺跡保存の建物の二つの構成になっています。

さあ、いきなり遺跡に行きましょう。

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正面の小山の下に遺跡があります。
200体以上の弥生人骨が出土した中でも密度が高い所を公開しているそうです。
約80体の人骨が発掘時の姿で復元されています。

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顔を西に向けているのが、特徴だそうです。

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一番確認したかったのは矢が刺さった人骨。「貝輪をした英雄」です。
友人が話してくれたとき、「敵が攻めてきた時、一人でムラを守った英雄だ」と言ったのですが、
写真を見て疑問が湧いたので、見に来たのです。

至近距離から射られています。
「これは処刑じゃない?」
「うん、死刑だね」
これは夫との会話です。
(持衰かシャーマンではないだろうか。この人は何か失敗したんではないか…)

持衰(じさい)とは魏志倭人伝に出て来る、倭人独特の風習です。

倭の者が船で海を渡る時は持衰(じさい)が選ばれる。持衰は人と接せず、虱は取らず、服は汚れ放題、肉は食べずに船の帰りを待つ。船が無事に帰ってくれば褒美が与えられる。船に災難があれば殺される。(ウィキペディア)

船を守るのに失敗した持衰。
あるいはムラの命運を握る占いに失敗したシャーマン。
そんな妄想を抱きました。

ただ、この人たちを倭人とすると、問題が起こります。
響灘の弥生人は渡来人だと言う説と矛盾するからです。

弥生人のルーツを朝鮮半島や中国大陸にだけ求めると、倭人が行方不明になります。
魏志倭人伝などを見ると、倭人と朝鮮半島の人たちとはかなり風習が違うんですね。

「ねえ、倭人って誰?」
「縄文人たい。」
これはTとの対話。
でも、これもピンとこない。
倭国と言ったとき、縄文人の国ということになってしまう。

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これは館内のパネル。
中央の青いイラストを見ると、土井ヶ浜の人たちは背が高く、縄文人は背が低い。
復元の顔は上が土井ヶ浜。左下が南九州・離島の弥生人。右下が関東の弥生人。
ずいぶん骨格が違うんだね。
この人たちみんなひっくるめて倭人というのだろうか。


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これもパネルから。
手前の熟年男性の顔つきや身長は他の土井ヶ浜の人々と変わらないけど、
奥の壮年男性の顔つきは鼻が高く、顔のホリが深く、身長も低く、
西北九州から来た弥生人ではないかということです。
長崎県を中心とする西北九州には縄文人の特徴を受け継いだ弥生人が住んでいたそうです。
あるいは、地元の縄文人の末裔かとも。

縄文系人の四隅には墓域を示すような石がありますね。
土井ヶ浜人はそれに沿って埋葬されているような感じもします。

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これは出土した丹塗の土器。
磨き込みがすごい。デザインも洗練されていて美しい暮らしが想像されます。
特に、右の土器は各地で出ているので注目している土器です。

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三つともそっくりでしょ。
上の土器は朝鮮半島の金海市の池内洞遺跡から出土しています。
これは合わせ口甕棺のそばにそっと置かれていました。
朝鮮半島で出土したけど、倭人が持ち込んだと考えられるものです。
(逆にこの土器が倭国にもたらされたという意見もあるのでしょう。
この土器が半島から持ち込まれたとすると、この土器は弥生土器とは言えなくなります。
土井ヶ浜人が渡来人だとすると、やはり弥生土器とは言えなくなります)

ちなみに、金海市は狗邪韓国(くやかんこく)に比定されている所です。
倭人が最初に船を寄せる湊があり、帯方郡からの使者がここから倭国に向かう湊です。

何気なく使う言葉も、突き詰めると、人によって違う意味付けがされていたり、
矛盾していたりするんですね。

魏志倭人伝では、倭人像をくっきりと浮き出させているけど、
考古学的出土品を見ると、よく分からない。
う~ん。
どうなっているんだろうなあ。


山口県下関豊北町神田上891-8

土井ヶ浜遺跡 人類学ミュージアム






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by lunabura | 2013-06-18 22:47 | 響灘の遺跡めぐり | Trackback(1) | Comments(4)

3 中ノ浜遺跡・土井ヶ浜南遺跡より少し前の時代の長身の弥生人たちの墓地だった


3 中ノ浜遺跡

土井ヶ浜南遺跡より少し前の時代の
長身の弥生人たちの墓地だった

吉見港を後にして、再び191号線を北上。川棚温泉を目指します。
道の左手に中ノ浜遺跡の案内板が見つかりました。
県指定遺跡なので、ちょっと期待。HPも確認して、ナビにも入力したし♪
191号線から西に左折。海に向かって走って行きます。

地図通りに川に出て、小さな橋を渡り、再び左折。
ところが、人家の間の生活道に入り込みました。
道を間違えたかな?
車がようやく一台通る道で、左右は生垣の枝に当たりそう。

正面から来た男性はさっさと自転車を降りて、道を譲ってくれる。
こんな細い道だから、自転車が譲るのが当たり前のような感じ。
お礼を言いながら、中ノ浜遺跡を尋ねました。
「この先、すぐですよ。」
間違えていなかった、と、一安心。

人家もすぐに終わり、砂の目立つ道に、「中ノ浜遺跡」の大きな標識を発見。
右に曲がると、墓場の中に入り込んでいた。
昭和のお墓…。
目指すのは弥生時代のお墓…。

このギャップにしばし呆然。
道の先は農道っぽく、舗装も終わり、Uターンもできそうにもない。
取り敢えず車をバックさせて、徒歩で先の方を確認。
「あった、あった。」
こちらからは見えない位置に、最後の案内板。
結局、昭和の墓地の中の駐車スペースに車を止めて歩いて行く。

あのHPを書いた人は、現地に行ってないな…。
適当に書いている。
ここは詳しい地図を出さないと不親切だよ…。ぶつぶつ…。

ま、このブログが道案内になるか…。
中ノ浜遺跡を書く人なんて滅多にいないだろうし。

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右は昭和の墓地。左の野原が弥生の墓地です。
砂丘の上で、とてもさわやかな場所でした。^^

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この外周円は環濠なのか!と気になって確認しにきたのですが、これは歩道でした。
どうやら草原になっている所がすべてが墓地です。
殆どが埋め戻されてこの円の中だけが露出しているようです。

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なだらかな砂丘のピークにあります。
埋葬方法がさまざまです。

説明板がありました。
山口県指定史跡 中ノ浜遺跡

中ノ浜遺跡は、北の土井ヶ浜遺跡(下関市豊北町)、南の梶栗浜遺跡(下関市大字富任)とならんで、響灘に面した砂丘上に営まれた弥生時代(前期~中期)の集団墓地です。

響灘沿岸は北部九州とともに弥生文化を最初に大陸から受容した地であり、全国的にも有数の規模を誇る弥生人の埋葬地がつぎつぎに発見されています。

当遺跡では、昭和35年以来、9次にわたる調査がおこなわれ、100基余りの墓と104体の弥生人骨が発見されました。

これらの人骨からみると、土井が浜遺跡の人骨に似て、面長でかつ長身という特徴をもっています。顔が丸く、背の低いそれまでの縄文人とは大きくちがっていることから、ここに葬られた人々は、弥生文化をもたらした渡来系の人であったと考えられています。

墓地の構成は、土壙墓、箱式石棺墓、配石墓などの多様な墓からなっていて、それぞれにつくられた時期やグループの異なりを表しています。

青銅の剣の副葬や断体儀礼の習俗もみられ、それらは全体として弥生時代の社会を明らかにし、かつ日本の文化の起源を知る上で大変貴重な遺跡となっています。

指定年月日 昭和50年3月22日

もう一つ、説明板がありましたが、ほぼ同様の内容。
追加として、
今から2300年ほど前、大陸や朝鮮半島から海を越えて来た人々がムラを作った。
弥生時代前期から中期にかけて数百年間にわたって営まれた。
ということです。

で、だね。
二つも立派な説明板があるのに、どこに行ったら人骨や出土物が見られるのか、
書いていない。これは各地の遺跡もそうだけどね。

写真だけでも掲載されていると、理解が深まるんですけどね。
(竹原古墳の悪夢を思い出す。悪夢とはオーバーだけど、あれほどの古墳なのに、
出土品の写真さえなく、尋ねてもどこに収蔵されているのかさえ分からなかった。

各地の出土品が現場から引き離されて、ただの美術品として資料館に陳列されている点が、
考古学と一般市民を引き離す原因の一つだと思ってます。

某館では、ずっと会いたかった石人像が故郷から引き離されて
デパートの陳列品のように、
その他大勢として並んでいたのを見た時のショックは今でも忘れられない…)

この中ノ浜遺跡から出土した土器については
たまたま下関市立考古博物館の企画展で見たので少し覚えています。
遺跡ごとに全く個性の違う土器群に驚いた中、
中ノ浜遺跡の土器は美しく、生活品でありながらも美的なものを求める日本人の
美しい手仕事の文化的ルーツかも!と思ったのです。
写真がないのでその印象も薄れつつあるのですが…。
(企画展は2013年6月30日まで。響灘沿岸の遺跡 -海に生きた人々)

写真がないかな~。
あ、そうだ。
チラシがあった、チラシ。
これこれ。
私はこのチラシを見て知ったのです。

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c0222861_21304062.jpg

これは裏。
細型銅剣の時代ですね。
小壺は上のカラーの分のようです。
凛としていますね…。
右下は壺でなく、土器棺。
こんなの初めて!大きさはどのくらいだろう。


そして現在の収蔵地を一つ一つ見て、なるほど…と思いました。
分散してしまっているんですね、この遺跡の出土品たちは…。


弥生遺跡として重要な位置を占める遺跡でありながら、これまであまり公開されていなかったそうです。
人々が関心を持たなかったら、研究されずに場所だけが残る運命のようですね。

墓があれば、生活遺跡もあるはずで、
きっと吉野ヶ里遺跡に匹敵する遺跡があるんだろうな…。

時代は弥生時代前期~中期のものだそうです。
北にある土井ヶ浜遺跡は弥生時代終末~古墳時代初頭となっています。
時代がちょうどずれていますね。
どちらも面長で高身長の人たちだそうです。

この遺跡が途絶えたのは、津波なんかがあったのかな…と思っていたら、
南にある梶栗浜遺跡では高さ4mを超える高潮もしくは津波の痕跡があったとか。
ここもまた海の傍なので、そんな事があったのかも知れませんね。

帰り道は、墓地を出て右に曲がり海岸の方に向かいました。
こちらの方は道も普通で、橋も広く、通りやすい道でした。

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地図 中ノ浜遺跡 山口県下関市豊浦町大字川棚字中ノ浜






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by lunabura | 2013-06-14 21:35 | 響灘の遺跡めぐり | Trackback | Comments(2)

2 吉見港 神功皇后が蓋井島の新羅兵討伐に向かった湊


2 吉見港

神功皇后が蓋井島の新羅兵討伐に向かった湊

さて、綾羅木郷遺跡を後にして、191号線を北上。
目指す吉見の手前のラーメン屋で腹ごしらえ。
思いがけず、そこから三つの島が見えました。

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海岸に下りて写真を撮りたかったけど、車の切れ目がなく断念。
波が荒くていい写真が撮れそうだったのにね。
右の島の向こうが目指す「吉見」で、
船を迎える三つの島はまさしく古代からのナビの島。


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さあ、再び車に乗って、吉見港に到着。
massyさんの二年前のコメントを見ると、あの三つ島は加茂島だと分かりました。
その向こうにうっすらと見える影は北九州市です。

では、コメントの一部から。
吉見、吉母の伝説について。
加茂島(帆柱瀬/古宿今昔記)古宿=こすく
海上自衛隊の敷地になっている。岩が三本並んだように見えます。船の帆柱が岩になったと伝えられています。
古宿の海岸で、皇后はこの地に船団を寄せて、宝をこの浜に埋めた。その後、この船の帆柱が岩になって残った。

この一帯の岩は、ピカピカ光る金属のようなものが見える。これは船釘であるといわれ、大正時代、岩をかき取って持ち帰り、神棚に供えている家があった。これを「神さん岩」と呼んだ。大正時代までの子供は、足をよく洗ってから、この岩の上を歩いた。

吉見は、皇后が良き眺めと云ったところから、吉見というようになった。船越からの眺めは、とくに夕焼けがきれいです。船越にも伝説がある。

龍王神社は、征韓前と後に立ち寄ってます。ここの楠で船を造ってます。

下関市綾羅木=神功皇后が三韓征伐之時、この地で「あやら」と掛け声をかけた。これも後世の捏造。「あやら」ってなに?意味不明。

ここは海上自衛隊の基地があるんですね。
古代も今も防衛に大事な所は同じなので、神功皇后や神武天皇の伝承地とよく重なります。
特に船の場合、大型船は湾の深さで入港が制限されるので、重なるのも納得。

新羅が占拠した蓋井島への渡航地ということで見に来たのですが、
皇后の伝承が色濃く残っていました。

この三つ山の島は加茂島と言い、帆柱が岩になったという伝承になっていました。
地名の「吉見」(よしみ)もまた、皇后が「良き眺め」と言ったことから付いたというのですね。
前回までの綾羅木もまた皇后が「あやら」と言ったということですから、ちょっと驚き。

セリフはともかく、豊浦宮から小舟で往来する道筋の手がかりとなると思います。
下関考古博物館の資料によると、弥生時代には小海進期があって、
2メートルほど水位が高かったということなので、島の間を小舟で移動して、
吉見から海洋船に乗り換えたと想定できます。
これなら関門海峡を通らずに済みますね。

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港の突先から陸地を撮りました。
神奈備の良い山があります!
地図を見ると、竜王山のようです。
そうすると麓に竜王神社があって、神功皇后は利用するたびに航海の安全を祈ったのでしょう。
この山からもクスノキを切り出して船を作ったんですね。

蓋井島はここからは見えなかったのですが、
新羅の兵がそこから本土上陸を狙っていたというのですから、
『日本書紀』では分からない状況が見えて来ました。
ここから倭国の軍船が何艘も島を目指して出港したんですね。

仲哀天皇は豊浦宮に7年ほど皇居を構えていたので、
もっと沢山の伝承があることと思います。
Massyさん、お元気かなあ。ようやく現地に立ちましたよ。

地図 吉見  蓋井島





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by lunabura | 2013-06-12 20:52 | 響灘の遺跡めぐり | Trackback | Comments(4)

綾羅木郷遺跡(2) ここも命懸けで守られたのか


綾羅木郷遺跡(2)
ここも命懸けで守られたのか


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下関市立考古博物館に入ったとたん面白い光景にぶつかりました。
あれ?
あれあれ?
良く見るとリアルな人形が、発掘をしている!
洗いざらしのシャツや、動きが本物そっくり。
と面白がっていると、左の方はナ、ナント、弥生人じゃないの。

そうか。
弥生人たちが貯蔵していたものを現代人が拾い上げているんだ。

一階と地下の高低差を巧みに利用した再現ドラマにしばし見入ってしまいました。


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目を引く大型壺。線画が繊細。
筑紫では資料館といえば甕棺のでかさに圧倒されるけど、当館では見当たりませんでした。


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陶笛。
手前中央は宗像市光岡の出土ですよ!その右が綾羅木郷遺跡出土。
どんな音が出るのか、レプリカがあったけど、上手く音は出なかった。


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おお、これなら筑紫でも出ているぞ。



そして、すごいものがあった!

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高さ数センチの人形です。
美豆良だ!
これこそ、一番知りたかった姿。
まさしく倭人のヘアースタイルです。
古墳時代より高い位置で結ってませんか?
意外に面長ですね。
これは貯蔵庫から発見されたそうです。

平成25年度 企画展 2013年6月30日まで
響灘沿岸の遺跡 -海に生きた人々―
観覧無料
この企画展は、各遺跡の出土品が展示されていましたが、
遺跡ごとにデザインや焼成温度などが違って、ここまで個性の差があるんだと驚きました。
土器に詳しい人はそれぞれの集落がどこから来た人たちなのか、分かるんだろうな…。
その中でもひときわ瀟洒で美意識が高い土器群があったのですが、
それが次の訪問地の中ノ浜遺跡のものでした。
企画展は撮影禁止だったので、残念。
(美術展のように、カタログがあればいいのに…)



私がこの綾羅木郷遺跡を知ったのは、銅鐸の鋳型に含まれる珪砂を検索していたとき。
下関に産地があって、その珪砂の下から遺跡が出て来たという話を見つけて、
ずっと気になっていたのです。

この遺跡はブルドーザーで破壊されようとするのを、必死で発掘したのですね。
最終日は11台のブルドーザーが集結して、一挙に破壊しようとする寸前、
ついに国指定がなされ、その破壊が止められたということです。
う~ん。飯塚市の王塚古墳を思い出す。
(なんで命を懸けないと先人の遺跡を残せないんだ)
関係者のみなさん、守ってくれてありがとう。

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(綾羅木郷遺跡への招待より)


地図 下関市立考古博物館





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by lunabura | 2013-06-08 19:27 | 響灘の遺跡めぐり | Trackback | Comments(2)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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