ひもろぎ逍遥

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三女神社2 ミッシングリングがつながった?

宇佐・安心院トレッキング(21)

三女神社2
ミッシングリングがつながった?

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(神殿)

拝殿にはもう一つの由緒書がありました。
三女神社由緒
神代の昔、高天原に於て天照大神は素盞嗚尊と盟約の結果
   田心姫の命 一の御殿
   湍津姫の命 二の御殿
   市杵島姫の命 三の御殿
の三女神を生み給い、葦原の中国の宇佐嶋に降し給うた。

宇佐嶋とはこの地宇佐郡安心院邑にして、豪族筑紫君等がこれを祀る。爾来一貫してこの地に鎮座して今日に至ると伝えられる。

境域には現にこれに関する幾多の史跡と伝説とを有している。

江戸時代に至り、島原藩主累代これを崇敬し、社領十石を奉納し、或は宮殿を造営し、或は矢壺提灯ならびに釣灯篭等を奉納した。 (略)

「豪族筑紫君等がこれを祀る」
なんと、筑紫の君が祀っていたというのです。
ここは九州の東。すると、かなりの広範囲を治めていたのでしょうか。

筑紫の君と言えば「磐井」がいます。ウィキペディアから抜粋しましょう。
528年8月、継体天皇は物部麁鹿火(あらかひ)を将軍に任命して、筑紫へ派遣した。磐井軍と麁鹿火軍の決戦が行われたのは528年11月。筑紫三井郡での激しい戦闘の後に磐井は捕らえられ、麁鹿火に斬られたとされている(『日本書紀』)。 
『筑後国風土記』逸文には、磐井王が豊前の上膳県へ逃亡して、その山中で死んだ(ただしヤマト軍はその跡を見失った)と記している。


磐井が物部麁鹿火に負けたあと、殺された、或いは豊前の上膳県(かみつみけのあがた)に逃げたとも言われています。
磐井の乱を知った頃はどうして豊前なんかに逃げたんだろうと、地理的に不思議でした。
筑後と豊前のつながりを知らなかったからです。

ここは豊後ですが、筑紫君がこの三女神社を直接祭祀していたということなので、
磐井の勢力範囲はとても広く、安心院(あじむ)にも届いていたということになりますね。


また、筑紫君といえばもう一つ、
「水沼」が後に筑紫君となることを大善寺玉垂宮で紹介しました。

古代の筑後の大豪族として日本書紀に現れる水沼君はいったい何かというと、こういう神のミソギを介添えする巫女を出す家柄である。地方君主の家である。

古代の水沼の伝統は大善寺の玉垂宮の鬼夜と高良大社の朝妻に至る神幸祭に姿を変えて残っているといわねばなならない。

これが後に筑紫君となる。  「高良山をめぐる古代信仰」古賀寿著

水沼女という巫女を出す家柄が水沼君であり、のちに筑紫君となったといいます。

この問題をずっと考えているのですが、
筑紫君の家系は水沼から磐井へと変わったのでしょうか。(政治的な変化)
それとも、磐井とは水沼の末裔だったということでしょうか。
(磐井という字も泉と関係があります)
この辺り、御存じの方教えてください。

九州王朝の場所について志賀島で言い伝えていたのは八女でした。
安曇族は八女まで物資を運んでいたといいます。
八女こそ磐井の地なのですね。

の民である安曇族 ― 橋と大善寺(宇佐)-傘橋と大善寺玉垂宮(久留米)
これは「呉」でつながる勅使道の可能性を示していました。

水沼君 ― 筑紫君 ― 磐井君
水沼の君と磐井の君は「筑紫の君」でつながっています。

そして、この三女神社における、
水沼君 ― 筑紫君 ― 三女神 のつながり。
安心院で筑紫君が三女神を祀っていたとは…。


「ひもろぎさん、井戸に気が付いた?」
「え?」
「ダメだなあ。これを見逃したらここに来た意味がないじゃない」

このトレッキングを企画した古川さんが後からやってきました。

「何ですか。何があるんですか?」
そうして教えられたのは境内から出た時にだけ見える説明板でした。
「水沼井」!!

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水沼井(おみず)
当社東南五百メートルの盆地内に根宮(もとみや)があり、神池として清水が湧出する。伝説によれば三女神天降り(あまくだり)の際の産水(うぶみず)とされ、雨や旱(ひでり)に増減混濁することなし。また手足の不ずいにも著効ありという。

奉仕の社家は水沼氏と称し、お供えや炊事の水にも用いられたといわれる。
この水沼井も安心院七不思議の一つである。

水沼氏が直接ここに携わっていたのです。
ああ、ついにミッシングリングはつながった!!!

水沼 - 三女神 - 宗像

当社の三女神を祀るのは宗像族と誰もが想像するのではないでしょうか。
ここは水沼氏が祀っていました。
まだ水沼の名が残る古い時代の祭祀場だったのです。

500メートルか。
「近かったですか?」
「まあ、そう遠くなかったですよ。下りになる前の所にありますよ」
5分ぐらいか。まだ時間がある。
現地に行ってみよう。
ついに水沼の泉が見られる!

(つづく)




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by lunabura | 2013-08-31 21:41 | (サ行)神社 | Trackback | Comments(0)

 三女神社 1 不思議な「二女神社」と 水沼の君

宇佐・安心院トレッキング(20) 

三女神社

 不思議な「二女神社」の扁額 と 水沼の君


今朝は夢の中で一枚の映像を見ていました。
高原の展望のよい所に二人の女性が向こうの山を見ています。
向こうの山は台形の形をした緑の美しい山でした。
二人はレギンスをはいたスレンダーな姿で伸び伸びと手を広げ、
とても気持ちよさそうでした。

二人の女性…。
夢の話をしながら、あれ?と思いました。
これは昨日記事にした二女神のシンボルでしょうか。
現代の女性だったのですが、何となくそう感じられました。
後ろ姿だったので、これから顔が見えたり、名乗りがあったりしたら、
逍遥の道程が一歩進んだということかも知れないな…

そんな事を考えたのですが、今回の三女神社の一の鳥居の扁額の
金色に縁取られた文字は何故か「二女神社」だったのです。

トマコさんからもコメントで指摘があったのですが、その通りなのです。
「三女」神社なのに「二女」と書かれた扁額。
これを掲げた人の強いメッセージを感じずにはいられません。


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ここは「家族旅行村 安心院」の隣にあります。
隣といっても、山ですから、10分ぐらいは歩いたかな。
舗装道路に面したいかにも古社の風情。

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これが一の鳥居の拡大です。「二女」神社と書かれています。謎めいた扁額です。


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石段を上ると、広い参道。
土の道で、とても心地よいのですが、るなの頭はまたもや何故?
どうして参道がこんなに広いのだろう。
土の道なのに草が生えていないのはよほど踏みしめたのか。
回りに人家のない所に、これほどの参道を作るのは何故?
るなの何故?なぜ?が始まります。

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次々と石段を上りながら、当然、扁額に意識が行きます。
これは「三女神社」。とてもがっしりとした鳥居です。
他の鳥居も全部「三女神社」でした。

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ようやく神門前に着きました。
ここもまた正面でなく、脇から参拝するようになっていました。

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神門の正面にまわりました。

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思いがけず大きな本殿でした。

祭神は 田心姫命 湍津姫命 市杵島姫命 他十柱です。
宇佐神宮の比売神、宗像三女神と同じです。

一の鳥居の所にあった由緒を写します。
由来 鎮座地 宇佐郡安心院町大字下毛字三柱

そもそも三柱山三女神は日本書紀神代巻に曰く
「即ち日神(天照大神)の生みませる三女神を以て、葦原の中国の宇佐島に降(あまくだ)り居さしむ云々…」とあり、即ち宇佐島とはこの地宇佐郡安心院邑、当三柱山一帯とされ、安心院盆地を一望する聖地で、宇佐都比古、宇佐都比売は三女神を祖神とするが故に、全国唯一の三女神の御名前をもつ社であるにして、水沼の君等がこれを祀る、爾来一貫してこの地に鎮座して今日に至ると伝えられる。(略)


ここは三柱山といって三女神の降臨地ということですね。
宇佐都比古、宇佐都比売三女神を祖神としています。
そして、驚きの名が…。
「水沼の君が祀る」とあるのです。
まさか、こんな所まで水沼の君の祭祀圏があるとは。

これって、まさか、るなの仮説「水沼―三女神―宗像のライン」をつなぐ証し?

(つづく)


地図 三女神社






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by lunabura | 2013-08-30 21:28 | (サ行)神社 | Trackback | Comments(4)

姫神の謎を追って 3 二女神とは

宇佐・安心院トレッキング(19)

姫神の謎を追って 3
二女神とは
 
5 大己貴命と二女神 婚姻

宗像三女神の田心姫、湍津姫、市杵島姫の三人とも結婚しています。
田心姫と湍津姫のお相手は大己貴命
市杵島姫のお相手は天照日孫(ニギハヤヒの子)です。

ですから、三女神の中の二女神といえば「田心姫と湍津姫」だと考えています。
二女神の新婚の宮は英彦山の北嶽だったのですが、
天忍穂耳命が鷹になって飛来したのでその山を譲ります。

一方、二女神と大己貴命が共に異敵と戦った話が福津市の楯崎神社に出て来ます。
この縁起に三人の間の子供の名前が出て来ます。
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系図を書いて見ましたが、二女神のうち、辺津宮は高津姫という名になっていますね。
系図も独特です。

事代主神とかは出雲出身かと思っていましたが、思い込みを捨てて、まっさらの頭で考える必要がありそうです。

人家も全くない半島の奥に鎮座するこの宮の縁起の意味する事は何でしょうか。

田心姫(たごりひめ)の御子たちはいずれも福岡に祀られていますね。
出雲の方ではどうなんでしょうか。
また新たな謎の登場です。


一方、市杵島姫は英彦山では中宮に鎮座していました。
市杵島姫の結婚について知ったのは鞍手郡誌からです。
お相手がニギハヤヒの子となると別の祭祀圏に所属することになります。

以上、二女神と市杵島姫が別々に語られている伝承をまとめてみました。

これらについては「三女神の伝承の宮々 4,5,6」に詳述しています。
http://lunabura.exblog.jp/i203/


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実は私は、「宗像氏」をウィキペディアで検索して、
「出雲神の嫡裔、大国主命の神裔として伝えられ、」という一文から、
宗像大社の祭神はもともと大国主命ではないかという仮説を持っています。
地主神が大国主命で、三女神が上書きではないかと。

そうすると、先程の楯崎神社での二女神との共闘も上手く説明できるかもしれないのです。
また、宗像大社の千木が外削ぎであるという件とも上手く照合するのです。

千木が外削ぎか上削ぎかで男女の神を示すと言うのは厳密ではない
ということを前に結論づけましたが、それでも、気になっていたのです。

故百嶋氏も大国主命説を出されていたことから、
るなの周辺では最近、この説がクローズアップされています。

大国主命と大己貴命が同神なのかも、ずっと気になっているのですが、
筑紫で観察している限りでは、同神として考えられているようです。
るな的には別神ではないかという思いが捨てきれません。



6 龍宮の二女神


龍宮といえば、志賀島の志賀海神社龍の都として古来認識されています。

龍宮の二女神とは豊玉姫と玉依姫です。
しかし、豊玉姫は志賀海神社には祀られていません。
志式神社や対馬に祀られています。

また、二女神の祭祀圏の傾向を見ると、
博多湾から宝満山までの三笠川流域を中心としたエリアには玉依姫が圧倒的に祀られていて、
豊玉姫はその両脇、西の糸島地域、また東の響灘から周防灘のエリアに祀られています。


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海神豊玉彦と二女神の父娘がセットで祭祀されているのは
みやま市や田川の風治八幡宮の古伝で見かけたぐらいです。

豊玉彦の名が筑紫では残っていないのを見ると、
何か大きな問題が潜んでいるなと考えています。

とりあえず、今回のテーマの二女神としては、この「豊玉姫と玉依姫」もまた挙げられます。

さあてっと、これで三女神と二女神についての整理が出来ました。

いよいよ、宇佐神宮を離れて安心院に行きましょう。


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宇佐神宮 祓所






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by lunabura | 2013-08-29 21:28 | 宇佐・安心院 | Trackback | Comments(7)

初テプラ



今日、ようやく磯良の原稿を仕上げました。
この数日、集中していましたが、昔のように頭の切り替えが出来なくなったので、
ブログはお預けでした。
本になるのは来年でしょうから、ゆっくりと待ってくださいませ。


もう一冊予定があるのですが、おいおい仕上げて行こうと思っています。

どれもこれも深いところで繋がっていて、毎日再発見なんです。
早く皆さんと分かち合いたいと思っています。


ところで、資料は皆さんどのように整理してありますか?
私は神社のパッフレットや郷土史のコピーなどを地域別に収納しています。
私にとっては「地域別」というのが、探しだす時に一番イメージしやすいです。

ファイルに名前を付けるのは、シールを使っていたのですが、取れやすいので、
テプラが欲しいなと思って、いざネットで調べると、種類の多さに呆然。

そのうち忘れていたのですが、安売りがあったので、買いました。
るなの購買基準って、機能より、安売り (・.・;)

でも、TEPRA PRO SR150 という、良いものが買えました。

これまでのシールを貼り替えるとなると、途方もない時間がかかるので、
そういう野望は持たないようにして、古代史の方を楽しもうと思っています。

今夜から、また姫神の謎を調べていきます。
投稿が減って心配されている方もいるでしょうから、今日は日記です。

いつも訪問して下さってありがとうございます。 (^-^)






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by lunabura | 2013-08-28 20:34 | にっき | Trackback | Comments(2)

「武」とは「戈を止める」ことなり



「武」とは「戈を止める」ことなり


今日は合気道のあと、とても身体が軽くなって気持ちよい一日を過ごしました。
猛烈な暑さ38.5度を経験した後は、30度は「涼しいね」という世界でした。

「ガイアの森」を読んでくれた仲間が、本の中に合気道がいっぱい出て来て、
木刀を振る所が出て来たので、自分も振りたくなったので教えて、と言ってくれました。

「木刀を振るとどうなるの?」
これを一言で答えるのは無理ですね。  (・.・;)
人それぞれだし、成長のたびに変化していくものだし。

「体躯を作ってくれる?」
ご自分で答えを言っていましたよ。
「それもあるし、丹田も出来てくるみたいだし」
るな自身、そうそう振っている訳ではない…し。

「ガイアの森」に書いたように、人それぞれの向き合い方がある。

木刀を振ることは、神と向き合うことにもなるし。


合気道は武道なのですが、
「戈を止める心」を養う…という働きが大きいと常々思っています。

「武」の字を分解すると「戈」と「止」になります。
「戈を止める」と書いて「武」なのですね。

「武」とは戦う事ではないのです。
戦わない世界を作る事が武であり、合気道の目的でもあるわけです。

今、ヘイトなどが日本の中で行われているのがとても悲しいです。
この人たちは自分が生まれ変わる事を知っているのでしょうか。

私たちは生まれ変わります。
一番意識した対象に生まれ変わる可能性は高いです。

ヘイトスピーチをしている人は、対象を憎んでいるのかも知れませんが、
それは「意識する対象」ですから、それに生まれ変わる可能性が高いということです。

実は憎む対象は自分の中にあるんですね。
自分の中にあるものを相手に見つけ出しているだけなのです。

「憎しみ」自体も、自分の体験からではなく、
「刷り込み」によるものだと気付かねばなりません。

気高い魂はそれを教える為に「反対の立場」も経験しようとします。

何度も転生するなかに、その「反対の立場」も経験することでしょう。
これが私たちが転生する目的の一つなのです。

原発でお金を貰った人たちも、現世では潤うのでしょうが、
反対の立場も経験する事になるでしょう。

そんなシンプルな法則をそれぞれが思い出さねばなりません。


他国の島を奪おうとする人たちも、
今度は相手国に生れることも十分にあるのです。

私達の歴史の中に仏教が入って来て、輪廻転生が日本人の思想の一部にあるのですが、
仏教が通って来たシルクロードの国々の人たちはそれを忘れてしまったのでしょうか。

中国では道教が物質的な願望の道と変貌しましたが、本来はその対極にある思想です。
韓国はキリスト教の国になってしまいました。
キリスト教の中にもかつては輪廻転生の教えがあったのですが…。

日本人もその真の意味について思考を及ばすことが少なくなったようです。
生まれ変わる事を忘れたので、大地を汚染することが平気になっているのでしょう。
あるいは、隣人をヘイトする少女を作りだしたのでしょう。

私たち日本人がこれから作る国は、経済でなく、愛が基盤の国でなければなりません。
一人ひとりが森羅万象に感謝しながら、循環する社会を作る方向を目指すべきです。

経済を思考の基盤とすると、「他国」とは「略奪」の対象となってしまいます。
「関係」を「お金になるかどうか」だけで測ることになります。
TPPがそれの最たるものです。

私たち人類には課された仕事があります。
宇宙の仕事を手助けするという仕事です。

それは開祖の言葉を私なりに解釈したものなのですが、

「宇宙は森羅万象を生み出した。
人類はその森羅万象が使命を全うするのを手助けする立場にある」
という思想があります。

これが私の祈りの根幹にあります。

今度生まれ変わる時に、魂は何処を選ぶのでしょうか。
韓国でしょうか。
中国でしょうか。
エジプトでしょうか。
シリアでしょうか。

どこに生まれ変わっても喜ばしい人生が送れるように。
愛を寿(ことほ)ぐことができるように。
今度生まれ変わる時も地球が麗しい星でありますように。

「武」とは「戈を止めることなり」
「私たちは転生する」
「私たちは地球を清浄な地にして他の生物と分かち合わねばならない」

今、世界中に伝えたいこの願いが、「ガイアの森」になりました。


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               天照皇大神宮 福岡県粕屋郡久山町




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by lunabura | 2013-08-25 21:39 | ◆ガイアの森◆ | Trackback | Comments(0)

姫神の謎を追って 2

宇佐・安心院トレッキング(18)

 姫神の謎を追って 2
  
 

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宇佐神宮の祓所

3 水沼の君と三女神 水沼という巫女 
「水沼」というのは、「巫女」のことで、
月にある変若水(おちみず)を神から人へ取り次いだり、
人間の罪穢れを受けた神のミソギの介添えをしたりします。
巫女が神格化して女神となったのではないかと考えています。

それを祀るのが大善寺玉垂宮です。
当宮の鬼夜は火祭りで人の目を引き付けて置いてその間に神に禊を勧めるのが本義なのですね。

水沼の君はその巫女を出す家柄です。
その都は久留米市高三潴から大善寺玉垂宮を中心とした辺りで、
多くの古墳も残されています。

しかし、聖地はずっと北にある赤司八幡神社です。
それは景行天皇の動きから判断しました。

景行天皇は赤司八幡神社で祭壇を作って三女神に祈り、
自分の皇子、国乳別皇子を天皇代行の祭祀者として残しました。

当時の水沼の君は猿大海です。
猿大海が娘を皇子に差し出したことから、水沼の祖は国乳別皇子となりました。
しかし水沼は当然ながらもっと古くから居た訳で、その祖の中に物部の名が見えます。

赤司八幡神社は神功皇后も妹の豊姫を巫女として残しているので、よほどの聖地です。
その中心は潟の渟名井(蚊田の益影の井)だとおもわれます。


三女神はこの赤司八幡神社に降臨したと伝えられています。
道主の貴(みちぬしのむち)というのは水沼三女神に冠された言葉なのですね。
この道主の貴という言葉が宗像大社でも、使われています。

赤司八幡神社では田心姫が降臨されたと言われています。
これは八幡信仰の拡大の中で遠慮されて言われているのだろうと思っています。


一方、その南にある高良山の麓の味水御井神社(うましみずみい)の泉も
古くは神功皇后がミソギの女神として祀られていたそうです。
高良山の神々は山からその泉まで降りて来られて禊をされます。

久留米市の地域は三つの聖なる泉の信仰が中心をなしていたのでしょう。
(三大泉は諸説あるようです)
地図でこの三社を拾うと、とても広範囲ですね。



地図 大善寺玉垂宮 赤司八幡神社 味水御井神社




4 景行天皇と三女神 剣神

また、景行天皇は三女神を他の地にも祀っていました。
それが朝倉市の福成神社です。
ここには神功皇后も、また斉明天皇も祭祀に来ていますので、
剣神としての性格が残っていたと思われます。

斉明天皇は朝倉の橘の広庭宮に着くと三日後には中大兄皇子を連れて参拝されたと伝えています。

すぐ近くに太刀神社があり、神功皇后が羽白熊鷲の討伐を終えて、
田油津姫攻撃に取り掛かる前に太刀を奉納しています。
太刀の名は乙王丸と伝わっています。

祭神に三女神の名があり、勧請したように書かれていますが、
神功皇后の時代には祀られていたと思われます。
あるいはこの時点から祀られ始めたのかもしれません。

この時には剣神としての三女神に勝利を祈ったことでしょう。
ここは軍事訓練地だったというので、
水沼の君のクニの範囲ではないかと推測しています。

今、こうして整理してみると、この時代に「剣神としての三女神の信仰」と
「神の取り次ぎをする水沼(巫女)」が習合していったのではないかと思われます。

天皇の祭祀の時には水沼が常におそばでお仕えしたことでしょう。

天皇自体も「まつりごと」をするのが本来の姿でした。
しかし、景行天皇から神功皇后にかけて戦乱が続き、勝利し続けたので、
「まつりごと」(祭)に「政」の性格が加わっていった過渡期でもあるかもしれませんね。

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宇佐神宮の祓所 
正面には瀧があり、涼しい風が吹いていました。とても心地よい場所です。

(出て来た神社はみなサイドバーから入ってくださいませ。
面倒でしたら、検索欄にコピぺするのも手です)


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by lunabura | 2013-08-24 20:59 | 宇佐・安心院 | Trackback | Comments(0)

姫神の謎を追って 1

 宇佐・安心院トレッキング(17) 

 姫神の謎を追って 1

    
比売神についてたくさんコメントをいただきました。
宇佐神宮の比売大神とは誰か。
人々の関心の高さを物語っているようです。
当宮では宗像三女神と同じ神々が比売大神となっています。

 比売大神[多岐津姫命・市杵嶋姫命・多紀理姫命]
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(宇佐神宮 下宮)

今回、理解を共有するために、逍遥しながら出会った筑紫の姫神たちについて
整理してみようと思い立ちました。

1 六嶽に降臨した三女神 物部氏と剣神
2 神武天皇と三女神 宗像は見えない
3 水沼の君と三女神 水沼という巫女
4 景行天皇と三女神 剣神
5 大己貴命と二女神 婚姻
6 龍宮の二女神 

こんな感じで書いて行きます。(書きながら少々変更するかも^^)


1 六ケ岳に降臨した三女神 物部氏と剣神

三女神と言えば、宗像大社が知られています。
辺津宮・大島・沖ノ島にそれぞれ祀られていますが、
どの神がどの島に祀られているのかを調べると、実は多種多様の組み合わせがありました。

現在、宗像大社では辺津宮は市杵島姫神、大島は湍津姫神、
沖ノ島は田心姫神となっています。(いちきしま姫・たぎつ姫・たごり姫)

この宗像市の南の山を越えると東南部に鞍手郡がありますが、そこに六ケ岳があります。
三女神がその崎門峰に降臨したという伝承があります。
紀元前700年と縁起に書かれています。

その麓に六嶽(むつがたけ)神社があります。
女神たちのしるしとして、奥宮に青い垂れ下がる玉、中宮に八坂瓊の紫玉、
辺宮に八咫鏡を置いたので、身形(みのかた)郡といい、
後に宗像となったとあります。(鞍手郡までかつては宗像だった)

鞍手郡は物部氏の本貫地とも言われています。
三女神はスサノヲ命の剣から生まれたので、もともと剣神の性格があり、
もののふであった物部氏の育んだ鞍手神話とも言われます。

ここから福津市の神興神社に三女神は遷宮したという縁起があります。
そののち宗像市の宗像大社の高宮へ降臨したのでしょうか。

高宮は古高宮と言って、宗像大社の境内のなかにあります。
三女神の祭祀は宮地岳にもあったという説も見られます。

六嶽神社 ⇒ 神興神社 ⇒ 宗像大社
これがひとまとまりの流れです。
(サイドバーから見てね)

地図 六ケ岳 神興神社 宗像大社




2 神武天皇と三女神

神武天皇社が遠賀川河口にありますが、
そこから自衛隊に入った敷地内の浜に、かつて小さな泉があって、
そこでイワレビコ命(神武天皇)と弟宮が禊(みそぎ)をしたと言われています。

仲哀天皇も神功皇后を伴って禊に来ています。
そこから三女神を遥拝したと言います。

ところが、そこからは宗像の四つ塚といわれる四つの山が視界を遮って、
宗像市は全く見えません。
遠賀川に架かる橋の上から上流を見ると、六ケ岳の山々が見えるので、
仲哀天皇は鞍手郡の方を遥拝したと思われます。

当時の三女神信仰は六ケ岳で、神武天皇や仲哀天皇も剣神として、
祭祀されたと思われます。いずれの天皇も戦いを前にしていました。

地図 神武天皇社 六ケ岳




(つづく)




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by lunabura | 2013-08-23 20:52 | 宇佐・安心院 | Trackback | Comments(2)

宇佐神宮6・呉橋と大善寺 暗号をどう解けというんじゃい

宇佐・安心院トレッキング(16)

宇佐神宮6 

 呉橋と大善寺 
暗号をどう解けというんじゃい
  

上宮参拝の後、下宮を参拝して、今回のテーマの一つ、呉橋へ行きました。

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よ~く見て下さい。これは社ではありません。橋です。
しかも開かずの橋。十年に一度、勅使を迎える時にだけ開くそうです。

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ちょいと横から。川面が見えます。この呉橋は県の重要文化財です。
宇佐神宮HPには
「鎌倉時代より以前からある西参道の屋根が着いた神橋です。
昔、呉の国の人が掛けたともいわれ、この名があります」
と書かれています。

出ました!「呉の国」の人が架けた?
呉の国といえば、二つあります。紀元前と紀元後。どっちだろう。

ちょっと、ウィキペディアで確認しておきましょう。

呉(春秋)
(ご、拼音:wú、紀元前585年頃 - 紀元前473年)は、中国の春秋時代に存在した君国の一つ。現在の蘇州周辺を支配した。君主の姓は姫。元の国号は句呉,勾吳。

呉の成立については詳しいことはわかっていないが、司馬遷の『史記』「呉太伯世家」によると、以下のような伝説が載っている。

周の古公亶父(ここうたんぽ)の末子・季歴は英明と評判が高く、この子に後を継がせると周は隆盛するだろうと予言されていた。長子・太伯(泰伯)と次子・虞仲(仲雍)は末弟の季歴に後継を譲り、呉の地にまで流れて行き、現地の有力者の推挙でその首長に推戴されたという。
後に季歴は兄の太白・虞仲らを呼び戻そうとしたが、太伯と虞仲はそれを拒み全身に刺青を施した。当時刺青は蛮族の証であり、それを自ら行ったということは文明地帯に戻るつもりがないと示す意味があったという。太伯と虞仲は自らの国を立て、国号を句呉(後に寿夢が呉と改称)と称し、その後、太伯が亡くなり、子がないために首長の座は虞仲が後を継いだという。


呉(三国)
(ご、拼音:Wú、222年 - 280年)は、中国の三国時代に孫権が長江流域に建てた王朝。姓は孫(そん)氏で、首都は建業(現在の南京付近)。孫呉、東呉とも呼ばれる。

222年というのは、それまで魏に対して称臣していた孫権が黄武と言う新しい元号を使い始め、魏からの独立を宣言した年である。正式には呉の建国としては孫権が皇帝に即位した229年を採る場合もある。しかし孫権が勢力を張ったのは父孫堅・兄孫策が築いたものを受け継いでのことであり、この項では孫堅の代から説明する。


紀元後の方は魏蜀の三国で、神功皇后や卑弥呼の時代です。
神功皇后の時代なら、竹内宿禰たちの土木工事の話などが伝わっている時代なので、
橋を作る事もできたでしょう。
これほどの装飾はなくても、当時の船を造る技術で作れたと思われます。

「呉の国」という表現は、まだ日本人に同化する時代の話なんでしょうね。

さて、呉の民といえば安曇族です。
安曇族が三国時代の呉人とすると時代が合いません。
紀元前の呉なのでしょう。そうすると太伯の時代となります。

紀元前の呉と紀元後の呉って同じなのでしょうか?
にわか勉強なので、わけが分かんない~。

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今回のポイントは「呉橋は勅使道に架かっていて、創建は倭の時代」ということです。
(のちに倭国と日本国の並立時代がやってくる)

呉橋(くれはし)には屋根がついていますね。勅使は右の鳥居から橋を渡るのでしょう。
私が建っている所は一般人の通れる橋で、神橋といいます。
川は寄藻川といいます。

で?何なのだ?これが何を意味する?

るなの頭はこの辺りで思考停止するのですが、
この呉橋の特殊性に気づいてツアーを組んだ古川清久氏はメンバーにどうしても見せたいものがありました。

それは呉橋のすぐ近くの大善寺です。
大善寺?
久留米市の人は「え?」て思うでしょ。
大善寺玉垂宮と同じ字のお寺が宇佐神宮の隣にあったのです。

私たちは迂回して川の上流に出ました。

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ここは「大善寺橋」の上です。
川の向こうに長い屋根の建造物が見えますが、それが先程の「呉橋」です。
この橋は白龍山大善寺の前に架かっています。

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これが白龍山大善寺の正面です。


古川氏は久留米市の「大善寺玉垂宮」の前に架かる橋「傘橋」も、
「傘」という字から、貴人しか通れない橋を意味していると言います。

宇佐と久留米の相似はいったい何を暗示している?

薦神社の呉橋と勅使道。
宇佐神宮の呉橋と勅使道と大善寺。
大善寺玉垂宮と傘橋。

この三つの橋は貴人しか通れない特別な橋。

U~NN.うまく書けない。
人の発見を、何で るなが苦労して解説しているんだい。 (-_-;)


勅使道というのは天皇の使いが通る道。
奈良・平安時代なら天皇の所在地は近畿なので出発点は近畿だけど、
呉の国の人が生きていた時代は倭の時代だから、勅使の出発点は近畿ではない。

そうすると、
出発点は同じキーワードを持つ大善寺玉垂宮だということでしょうか?
あるいは大善寺玉垂宮は通過点?
つまり、天皇あるいは王は筑紫の方にいた。

そんな理解でよろしいのでしょうか。

これについてしばらく考えていたのですが、まさか。
るなの仮説とつながってる?

るなの仮説は「三女神を祀っていた水沼の君が宗像の君となった」というもの。
つまり、水沼の君の三女神と宗像の三女神は同じ神。

大善寺玉垂宮は水沼の君の都にあります。
水沼の君の三女神と宇佐神宮の三女神もつながってる?

これ、やばくないっすか?


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地図 宇佐神宮の呉橋 大善寺


地図 久留米市大善寺玉垂宮と 傘橋




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by lunabura | 2013-08-21 22:24 | 神社(ウ) | Trackback | Comments(8)

宇佐神宮5・隋神 高良神と阿蘇神

宇佐・安心院トレッキング(15) 

宇佐神宮5

  隋神 高良神と阿蘇神


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上宮の正面です。この門は一般の人は通れません。
その華やかな建築は日本の美を堪能させてくれます。

誰かが質問しました。
「ところで、高良の神は当宮には祀られていますか」
「はい、こちらに祀られています」
そう言って案内されたのが右手の隋神像でした。

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威厳のある美しい神像です。
御顔を見ると、阿蘇の神に比べてずっと長老です。


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こちらが阿蘇の神。正しい名称は分かりません。

しかし、こうして守護神となられたということは、二神は宇佐の下になったことを意味しています。
どんな事情があったのでしょうか。

宝物殿で伺ったことばを思い出しました。
「高良山は第二の宗廟で、守る人がいなくなったので、こちらでお守りしました」
必死でメモをしただけなので、その内容は分かりません。
初耳で、時代もいつの事が分からず、驚くばかりでした。
何が起こったのでしょうか。

阿蘇の神と高良の神。
九州王朝を連想させます。
鷹居神社の「松と鷹のモチーフ」が再び出て来ます。
こうなると、金の鷹が鷹居神社に飛んで行ったという話にも深い謎かけがありそうですね。


黒男神社
高良の隋神像の御顔を見た時、長老だったので、竹内宿禰のことかと思ったのですが、
実は、竹内宿禰は鳥居の外に祀られています。

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黒男神社 御祭神 武内宿弥
武内宿弥は、景行天皇、成務天皇、仲哀天皇、応神天皇、仁徳天皇と、五代の天皇に二百四十余年もの間大臣として仕えたと伝えられます。数多くの功労があり、忠誠を尽くされたことをもってお祀りされています。
八幡大神にご奉仕された神であり、古くから大鳥居の外に鎮座になって大神をお護りされています。長寿、忠誠、奉仕などの高いご神徳を授けられます。
   (宇佐神宮Hpより)

大鳥居の外で大神を護っているという位置づけです。
この黒男神社の竹内宿禰と上宮の隋神は同神なのでしょうか。

さらに、その裏には仲哀天皇の祠があったそうですが、最近、神功皇后のおそばに祀られたそうです。
神功皇后の神殿の横には住吉神社があります。
これらの配置からは宇佐神宮の創建時の思想が伺えそうです。


ウィキペディアより
宗廟(そうびょう)とは、中国において、氏族が先祖に対する祭祀を行う廟のこと。中国の歴代王朝においては、廟号が宗廟での祭祀の際に使われる。台湾の台中にある林氏宗廟や、世界遺産に登録されている朝鮮王朝の李氏宗廟が有名。
または日本に適用して、伊勢神宮・石清水八幡宮のこと(二所宗廟)。



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by lunabura | 2013-08-19 22:19 | 神社(ウ) | Trackback | Comments(24)

宇佐神宮4・八頭の鍛冶の翁 宇佐と出雲 大神

宇佐・安心院トレッキング(14) 

宇佐神宮4

八頭の鍛冶の翁 宇佐と出雲 大神


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(菱形池への案内板―当日は行きませんでした (+_+))

今日は八幡神信仰の始まりについて縁起を見てみましょう。

欽明天皇の29(569)年、宇佐神宮境内の菱形(ひしがた)池のほとりの泉のわくところに、ひとつの身体に八つの頭という奇異な姿の鍛冶をする翁があらわれて、この姿を見た者はたちまち病気になったり死んだりしました。

大神比義(おおがのひぎ)が見に行くと老人の姿なく、かわりに金色の鷹(たか)が見えました。比義が『誰かによって鷹に変えられたのか、自分の意志で鷹になったのか』と問うと、鷹は金色の鳩(はと)となって比義の袂の上にとまりました。

神が人を救済されようとして自ら変身されたことを知った比義が、3年あまり断食をして祈り続けたところ、ついに欽明天皇32(571)年2月初卯の日に、この泉のかたわらの笹の上に光かがやく3才の童子があらわれ『われは誉田の天皇広幡八幡麿(ほんだのすめらみことひろはたのやはたまろ)なり。

わが名は護国霊験威力神通大自在王菩薩で、 神道として垂迹せし者なり』と告げられました。

そしてたちまち黄金の鷹になって駅館川(やっかんがわ)の東岸の松の上にとどまったといわれます。 そこに和銅元年(708)鷹居社をつくり八幡さまを祀り、のち霊亀2年(716)小山田の林に移られ、ここに小山田社を造営。

神亀2年(725)年に現在の社地、亀山(かめやま)(菱形山とも小椋(おぐら)山ともいう)に移されて八幡大神様が鎮座されたのが宇佐神宮の創立です。
(宇佐神宮HPより 一部変更)


鷹居神社で見た由緒が分かりやすく書かれていました。
金色の鷹は金色の鳩になり、三才の童子になり、再び金色の鷹になって
駅館川の松の上に留まりました。
それが鷹居神社の始まりになっています。

その前の存在は「一つの身体に八つの頭の鍛冶の翁」。
これを見ると、誰もがヤマタノオロチを思い浮かべます。
しかも「鍛冶の翁」なのですから、「鉄の出雲」を連想させます。

私はこれを書きながら、真鍋大覚の不思議な文を思い出しました。

神代の昔、出雲に大穴牟遅神、又の名を八千矛神と申す。
八幡の遠祖であったが、出雲と宇佐が別れ分かれになってからは、その由来をあえて語る人はなくなった。

祭祀は人の心の奥にはいつまでも続いていても、表面(おもて)立って儀式を行うことが遠慮せざるをえない時勢がある時は、いつか絶えはてることが多い。
神は人を護り給うも、人は神を守らぬのが世の常である。
『儺の国の星・拾遺』p200

いつかはこの文をものにしたいと思っていたのですが、今、この「鍛冶の翁」が解き明かしてくれました。

出雲と宇佐はもともと同祖だったというのです。

その証しとしては、両者が「二礼四拍手」という共通する作法を持っていることが
すぐに浮かびますが、それだけでは記事にはできませんでした。

しかし今、こうして宇佐の縁起に現れた「八頭の鍛冶の翁」を知って、
歴史の一部が謎のベールを開けた思いがします。

出雲と宇佐は土地が離れていたこともあって、別れ別れに祭祀していくうちに、
いつしか互いを語らなくなったのでしょうか。
何かはばかられる事情があったのかなとも思われます。


さて、その「鍛冶の翁」を見に行った大神比義とはどこの人でしょうか。

「大神」は「おおが」と読みますが、このブログでもたびたび出て来たので、
復習してみたいと思います。

朝倉市の大己貴神社は「おおがさま」とも呼ばれています。
七支刀を掲げた神像を祀る「こうやの宮」の地名は太神(おおが)です。
遠賀川の「おんが」「おが」「おか」は同じ言葉が音韻変化したもので、
「おおが」に通ずるのではないかと考えています。

「おおが」を辿ると、古代の鉄の文化が重なって見えて来るのですが、
あくまで直観の域を過ぎませんでした。

当ブログによく登場した岡の縣主の祖・熊鰐。
この熊鰐もまた「おか」「おんが」の人です。

岡田神社(北九州市)に行くと、熊鰐は出雲神と共に祀られています。

(熊手宮)大国主命(オオクニヌシノミコト)
          少彦名命(スクナヒコナノミコト)
          県主熊鰐命(アガタヌシクマワニノミコト)

ご覧の通り、大国主神と少彦名命です。
神社では結びつきは定かではないとのことですが、地主神として祀られています。
この岡田神社のブログ名が「八咫烏の声」というので、その縁も尋ねたのですが、
はっきりとは答えられませんでした。

神代の昔、出雲に大穴牟遅神、又の名を八千矛神と申す。
八幡の遠祖であったが、出雲と宇佐が別れ分かれになってからは、その由来をあえて語る人はなくなった。   『儺の国の星・拾遺』p200


神代に八百万神、八岐大蛇そして八千矛神が出る。賀茂の氏人の祖先であった。
『儺の国の星・拾遺』p170


これらから熊鰐は八咫烏をトーテムとする賀茂氏と考えて大丈夫のようです。
賀茂氏は鉄器を作るけど、主に農具や大工道具の類だったと真鍋は書いています。

だから、熊鰐の館・仲宿神社では造船や修理が出来るほど鉄器を持っているのです。
未確認ですが、北九州市は古代の大工道具がかなり出土するそうです。

神武天皇がこの熊鰐の祖を頼りにしたのもうなずけます。
(サイドバー 岡田神社・仲宿神社・一宮神社)

熊鰐一族は遠賀水軍でもある訳ですが、
豊富な葦原を元にしたスズ鉄の製鉄を行っていたと思っています。
のちに砂鉄の製鉄が導入されて行ったことでしょう。

大己貴の伝承や出雲(飯塚市)という地名から
古代の遠賀川流域の出雲を探究している最中ですが、
大神比義は「おおが」という姓であることから、
遠賀(おか)の製鉄の民の祭祀者ではないかと思いました。

出雲のトーテムを持つ「八頭の鍛冶の翁」を祀るために同族の祭祀者が招かれた。
そんな気がしてきました。
そう考えると、縁起に、
鍛冶の翁の姿を見た者がたちまち病気になったり死んだりした、というのは、
冶金時に起こる中毒事故などを表しているのかもしれないとも妄想は広がって行きます。

縁起の一部だけで推定するのは危険なので、メモとしておきましょう。


八幡の道は銅の道と書きましたが、宇佐神宮へ来てみると、
思いがけず鉄の道が続いていたのでした。

前回ちょっと書いた国東の奈多宮近くの古代遺跡とは縄文製鉄遺跡のことなのです。
また、安心院には高度な製鉄技術が近代に伝わっていました。
のちほど紹介する予定です。



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by lunabura | 2013-08-18 00:01 | 神社(ウ) | Trackback | Comments(10)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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