ひもろぎ逍遥

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<   2013年 11月 ( 14 )   > この月の画像一覧

明日までだけど 行った?


「倭国創生」展

明日までだけど 行った?


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ビフォア。志賀島から見た糸島半島。

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アフター。糸島で見た雷山。

前回までは志賀島から眺めた糸島半島を紹介しましたが、
昨日はその伊都国へ行っちゃいました。
雷山には雪がうっすらと積もり、いよいよ冬化粧の始まり。
コスモス畑と冠雪というシュールな季節感は福岡ならではの風景。

伊都国歴史博物館で「倭国創生展」を見て来ました。

神功皇后の実年代を考えるとき、いろんなアプローチ法が考えられるですが、
皇后が祭祀する時に鏡や剣、銅剣、太刀を奉納した記録が数か所で見られるので、
青銅器を少し勉強したいと思っていました。

そんな時、卑弥呼の時代の銅剣は90センチほどの大きさだと聞いて仰天。
歴史資料館に尋ねると、古墳時代にはもう銅剣はないとのこと。

そこで剣の歴史を知りたいと、関係資料を教えていただいていると、
机の上に重なった本の下に銅剣の冊子が。
「こ、これは?」

開くと、福岡で出土した銅剣が沢山載っているではありませんか。
そのタイトルには「倭国創生」と書かれていました。


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伊都国歴史博物館で開催中。
え?
12月1日まで?
まだ間に合う!!!

ということで、早速行って来ました。
この展示はとても良かったです。
紀元前の物に絞ってあった点がとても理解の助けになりました。
邪馬台国より、数百年前のもの。
銅剣も鉄剣も紀元前にあったんですね。
エリアも唐津市から宗像市にかけてと、南は筑後川流域。

魏志倭人伝よりずっと古い時代のイメージ作りの助けになりました。

銅剣は時代が経つと、だんだん薄くなっていくようすが分かりました。
鉄剣でさえ、実用的でないものもありました。
銅鏡も、三角縁とか関係ない時代なので、論争がなくてすっきり。

小郡では銅戈が9本も埋納されていたとか知らんかった。
寺福童遺跡。
まるで出雲の銅剣出土地みたいじゃないの。
どうして、これが話題になっていない?
とか、楽しめました。

吉野ヶ里遺跡の銅鐸もこちらで見られましたよ。

何と言っても欲しかったのは、そのカタログ。
明日、12月1日に行けない方も、カタログは通販で買えるのでお勧めです。(^-^)






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by lunabura | 2013-11-30 13:02 | <歴史資料館・博物館> | Trackback | Comments(0)

安曇族と志賀島(11)安曇連の城さがし 3 ついに来た


安曇族と志賀島(11)
安曇連の城さがし 3
ついに来た


前回の天神社から移動すると、思いがけない平地がありました。

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正面のピークが二つある丘の左のピークに天神社があります。

写真を撮って振り返ると、鹿さんがじっと立っていました。

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「ここに割れた土器が沢山出て来たんです。畑を作るのに邪魔だったらしいです。」
電柱がある辺りを指し示しながら、「祭祀があっていたんじゃないですかね」とも。

言われて見回せばフラットな地形で、何らかの施設と集落があってもよい広さでした。

当然ながら、壱岐対馬や朝鮮半島に向かう船は志賀島を通っていきます。
そして、ここは船を出せるかどうか、最終判断をする場所なので、
航海の安全を祈る施設があって当然です。
海を見ながら綿津見の神々に祈った後、土器を割った情景が目に浮かびそうです。
現在は家があって、ここからは海は見えません。

浪が高ければ何日も日和待ちをしたでしょう。
のちの時代には、その人たちの為の宿泊施設があったかもしれません。
というのは、空海の伝承がここにあるからです。

「向こうの山の右手には空海が休んだという瀧があります」
写真の正面の三角形の山の右手にその瀧があり、川となって脇を流れていました。

遣唐船もまた、ここで出港のタイミングを計り、その間、空海たちも下船して過ごしたのでしょう。
空海はこの時、31歳。
体力気力ともに充実した年代だったんですね。

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空海のゆかりの滝は砂防ダムとなっていました。
そばに御堂があり、4月29日には参拝客で賑わうそうです。


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これは前回作成した地図。
「『ミヤカタ』『ブクデン』は志賀海神社の神田だったそうです」と鹿さんが調べていてくれました。
そうすると、漢字は「宮方」「奉供田」でしょうか。


そして、滝に向かう山野が るなが想定する安曇城。

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崖の上に出ると、フラットな地形がありました。海が見えます!
位置的には大濱の砦の上あたりでしょうか。

「ここは『城山』ともいったそうです」
「そうですか!」
「あの二階建ての家がある所はかつて小山があったんです。
それを崩して地盤を整えるのに使っています」
「それじゃあ、きっとその丘の上に見晴らし台があったんでしょうね!」

この写真の右奥に病院の施設がありました。
かつてはコカコーラの施設だったそうです。
グーグルで見て、城を想定した場所です。
そこはいかにも城を作るのにふさわしい地形でした。

崖の下の弘の漁港は古代から使われていて、
もともと安曇族のプライベート湊だったのではないかと思っています。

船から上がれば少し高台の所に集落があって祭祀施設が造られ、
さらに高くなった所に安曇の長の城。
そして、もう一つ、高くなった所に見晴らし台と砦がある。
そんな想像をしました。
城として理想的な場所です。
ここを発掘すれば、倭奴国~奴国の古い時代の安曇城跡が発見されるのではないでしょうか。

それに対して、もう一つの湊は金印公園辺り。
外敵や病気から城を守るために国際港とし、そこで荷を検査して金印で封泥をした。
だから、金印はそこにあっても不思議ではない。

そんな思いをいだきました。
鹿さん、お世話になりました。ありがとうございます。

安曇族と志賀島 過去記事はこちら
http://lunabura.exblog.jp/i214/







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by lunabura | 2013-11-29 20:55 | 安曇族と志賀島 | Trackback | Comments(0)

安曇族と志賀島(10)安曇連の城さがし 2


安曇族と志賀島(10)

安曇連の城さがし 2
天神社

懸案の「安曇連の城」さがしの続きです。

猛暑が終わるのを待つうちに初冬になっていました。
おだやかな小春日和の日に、ふたたび鹿さんにお願いして現地を歩きました。

その前にある所へ。

「ここにはどうも古墳らしいものがあるんです」
と、案内された崖には穴がぽっかり。
横穴墓のように土を掘り込んだ穴でした。
防空壕や野菜保管所にしては場所が変なのですが、
ブッシュに遮られて近づくことはできず、何の穴か分かりませんでした。

つづけて、
「ここも古墳みたいなんです」
と示された地面を見ると、石棺墓の蓋石が並べられているように見えます。
このようなものが複数あるそうです。
(盗掘されたらいけないので写真は控えますね)

ほかに「金の蔵」と呼ばれる場所がありました。
ブッシュ化していて近寄れないのですが、何故そう呼ぶのかは誰も分からないとか。
名前からして、安曇族の財宝の在り処(か)か…。
これを聞けば、いよいよ城は近いぞ、と思われるのでした。

考古学的には、志賀島は金印発見後、「全島調査された」という話を
何度か聞いたのですが、実態は違うようですね。
調査されたのは金印公園付近だけ?
もしかしたら、志賀島は古来の聖地と国際港としての認識が足りなくて、
一部だけの発掘で全島という言葉が使われてしまったのではないかと思われました。




そして次に案内されたのは天神社でした。

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鳥居の右側が欠けているのは、先の福岡西部沖地震のせいだそうです。
鹿さんもパソコンが壊れてしまったそうです。
石段は急です。

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拝殿です。

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御祭神はイザナギ・イザナミ神だそうです。
これは別の所から遷宮したそうです。

志賀島にはイザナギが禊をした大戸・小戸の伝承地がありましたね。
また、志賀島から見える二上山(立花山)はイザナギとイザナミの夫婦の宮という伝承がありました。
その二点を結ぶエリア内に夫婦神を祀る宮があるのには、深い意味があるように思われます。


「この境内が前方後円墳の地形をしているんですよ」
と言われて見回すと確かに円になっていて、廻りは崖になっています。
拝殿に向かって右手の裏の方に前方部と思われる地形が続いているそうです。


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振り返ると稲荷社がありました。
「あ、稲荷だ」
「これは最近、遷してきたものです」
「そうですか」
そう答えながらも、るなは「イナリ」を思い出していました。
  この地形は神功皇后伝承でよく出会った地形。
  イナリだ。
  製鉄か、武器保管庫の可能性があるのでは。
そんな場所に前方後円墳を造る可能性は十分にあります。
古墳時代って、高地の見晴らしのいいポイントを選んでいるケースがあるもんね。

  ここは岬状に張り出した地形で、防衛上重要な所だし、
  イナリがあり、のちに前方後円墳が出来たと考えても無理はない。
あとは、考古学的な調査が明らかにしてくれるでしょう。

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帰りには糸島半島がまっすぐ見えました。
その一番高い所に造られた高祖城から逃れて来た某が故郷の山の見える所にこの神社を建てたそうです。


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弘地域にいると、糸島が大きく迫ってくる不思議な感覚を覚えました。


海から見て、初めて糸島半島の古代の全体像を想像できるようになりました。



(つづく)


安曇族と志賀島 過去記事はこちら
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志賀島 天神社







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by lunabura | 2013-11-28 23:30 | 安曇族と志賀島 | Trackback | Comments(0)

解禁


ようやく書き換えの目途がついてほっとしています。

ブログ更新をずいぶんしなかったのですが、
途中で記事を書こうとすると、パソコンの液晶画面が点滅。
こりゃあ駄目だと、画面がピカピカする間、点灯の一瞬を狙ってファイルを閉じたりしました。
う~ん。
この症状、以前も何度か出てきて治まっていたんだけど、寿命かなあ。

今日は正常に動作しています。

一週間以上の間、いろいろとありましたね。
その中でも、船原古墳から金の歩揺が出たのはワクワク。
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船原古墳の近くに小山田斎宮愛鷹神社があることから、
安曇族の活躍したエリアと考えていた所です。

この古墳は宮地嶽古墳との関わりが深いので、
磐井の君の次世代~三世代の人たちの活躍した時期と考えています。

倭王朝は磐井の君が亡くなったことで、
拠点が八女から粕屋(船原古墳もかつては粕屋にあった)に。
そして、津屋崎(福津市)へと移動。

その仮説を補強するのが、古墳群の金メッキの馬具たち。
そして、古墳を形成した石材の採取地。
これらが、少しずつ明らかになっていくことでしょう。


私事では、ガイドブックのデザインがメールで届きました。
とても素敵な感じになっていました。(*^_^*)

カラー!
次のページも。
本によっては、カラーと白黒が交互になるものもあり、
どうなるかな、と思っていたので、ありがたいです。

写真が沢山あって、青空がアクセントカラーになっていました。
神社によって、古木の色合いや、社殿の華やかな朱色、エンジや紫など、
個性があって、多彩なので、どのように仕上がるか楽しみです。

内容は字数制限なしだったので、書きたいだけ書きました。
でも、旅の通過点なんかは、書く事が無くて400字ぐらいで済ませました。
でも、それはさすがに、せめて800字くらいは、と言われて追加したりしましたけど。

字数を考えずに書いたので、構成するのは大変だろうなと思いつつ。

このあと、ドーンと校正が待ってるんでしょうね。



これからはブログの方の書きかけの記事に取り組みますが、
あまりに多分野を放置しているので、どれから書くか迷い気味。

例の如く、好き勝手な順で記事を書いて行きましょう。

いろんな方から応援メッセージをいただきました。
まさか、あの松原照子さんが磐井の君に注目したとは驚き。
でも、周囲の人に尋ねてみると、磐井の乱を知っている人がいなかったのにさらに驚き。

でも、応援コメントのお蔭で、やっぱり古代史は大切だと納得しました。

このほか、メールをくださった方にはすべて返事を書きましたが、
届かずに帰ってきたものがあります。

届かなかった方、あなたです。
グッドタイミングで情報をいただいたので、早速参ります。
ありがとうございます。

ということで、お籠り解禁です (^o^)/




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by lunabura | 2013-11-27 22:09 | にっき | Trackback | Comments(0)

古文書


執筆を終えて、もう一度読み直している段階ですが、
引用した文そのものに誤字があったのが分かりました。
このままでは引用できないので、原典を確認する事に。

各所に電話で尋ね、ついに原典を見る事ができました。
それが何とまあ筆書きの古文書。
一瞬ひるんだけど、後には引けぬ。
覚悟を決めてざっと読み流してみると、驚くべきことが書かれていました。

まだこれが活字化されていない?

学術論文にすべき内容ではないかと思うのに、まだ手つかずだとか。
許可なく、写真や全文を出す事はできないそうです。

一般人の私は一部だけ引用する事はできるとか。
この資料をなおざりには出来ないので、
しばらく古文書に取り組むことになりそうです。

本の書き換えも時間的に十分に間に合います。
このタイミングも見えない世界のはからい。
かならず形にしようと思います。

先日は膨大な歴史の海に、途方に暮れましたが、
コメントで暖かい応援メッセージを頂きました。
励みになりました。
ありがとうございます。

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宮司浜




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by lunabura | 2013-11-18 21:11 | にっき | Trackback | Comments(2)

女神たちの午後


「女神たちの午後」
ということばが浮かんだ。
何故だか、それは九州の各地に祀られる女神たちのことだろうと思った。

古代日本の女王や巫女たち。
神話と思われた女神たちが筑紫で生きていた女性たちだと少しずつ分かってきた。

そしてそれぞれのクニで祀られて女神となって人々を守っている。
この言葉はそんな女神たちの歴史の掘り起こしを暗示している。

私はある時期から、女神たちを同じ人間として捉えるようになった。
多くは紀元前数百年から紀元後数百年。
弥生時代と呼ばれる時代に重なっているように思われる。

しかし、女神たちの生涯が分かったとして、いったい何になるだろうか。
小さなブログで書き綴っても、何か意味があるだろうか。
そんな思いも何処かにあった。

真実が明らかになっても、世の中にとってはどうでもよい事だろう。
軍靴の足音が聞こえ始めた今、歴史の真実なんかどうでもいいことかもしれない。

いや、正しいということが政治の世界では邪魔になったりもする。
それは長い歴史が証明していた。

しかし、ひょっとしたら、書き替えられた歴史の真実を取り戻す事は、
雛型を正しい形にすることになるかもしれない。

自問自答する日がある。


こんな時、検索をしてこのブログを見つけ、探す女神たちの社に行けたという
話を見聞きすると、ブログを書いてよかったと思ったりもする。

――私は女神たちの真実を明らかにしようとしている。
そして誰かがこのブログを見て、代わりに祈ってくれるだろう。

そう思い直した日、出会ったのは、やはり検索して私のブログを知った人だった。
カナさんとしておこう。

カナさんは、祈る人だという。
瀬織津姫の縁で回っているという。
師に言われて六甲山まで出かけ、ムカツ姫に祈って来たとの事。
その帰りに広田神社に行って葉山姫に祈ったとも。

その葉山姫は志式神社に祀られている女神。

神功皇后が瀬戸内海を渡る時、天照大御神から荒魂をそばにおいては行けないと託宣され、
葉山姫をその祀り人にして置いて行った。

私は歴史から見て、葉山姫は仲哀天皇の兄弟王の后ではなかったかと想像している。
兄弟王たちは皇位継承権があるために、新羅戦の帰りに、
玄界灘の島々に警護の名目で留められた。
そのいずれかの后が葉山姫ではないかと。


志式神社で祀られている哀しき六祭神。
豊玉姫もまだ全容が分からないが、縁ある人がそれぞれに祈ってくれているだろう。


私の思考はこのように取りとめもなく、ぐるぐると回っては、
「仕方ない、目の前のことをやっていけば、点が線になって、形が現れるだろう」、
と自分に言い聞かせたりする。

カナさんに私は言った。
「私は祈らないけど、誰か代わりに祈ってくれるだろうと思っていたけど、本当にいるのね。」
「そうです。古代の神々を知りなさいと言われました。それが地球を救済することだと」

カナさん以外にも、多くの人がこのように祈ってくれている。
それが「女神復活」でもあるのだろう。


その夜、ふとカナさんが言っていた「ムカツ姫」ってどこかで聞いた名だな、と思った。
そうだ。
撞賢木厳之御魂天疎向津媛の「向津(むかつ)」と同じだ。
「つきさかき・いつの・みたま・あまさかる・むかつひめ」と読む。

小山田斎宮(古賀市)で仲哀天皇に死をもたらした神々の名を問うた時に、
名乗りを挙げられた神々の一柱。

この女神が誰なのか、ガイドブックを書きながら気をつけていると、
斎宮や別の神社では「天照大御神」「天照皇大神」などとなっていたので、
やはりそうなのかと思っていた。

そして、この女神について記述するとき、うっかりとある単語を書いたとき、
パソコンが音を立ててシャットダウンした。

また、小山田斎宮で撮った写真を整理している時、急に画面が暗くなり、
復元した時、太陽の写真が勝手に壁紙になってしまった。

こんな物理現象を神は起こされるのだろうか。
それからは、ことばには一層気をつけるようになった。
あまりに眩しいので一応、削除したけど。

パソコンは幸いに壊れはしなかったけど、
私の行為を神々は見ておられるのかもしれないと思った瞬間だった。
もちろん、すべての人が見守られているように、という意味で。

この女神が瀬織津姫?
今日、また謎のミッシングリングがつながった思いがした。



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長野剛の女神のカレンダーもあと一枚で終わり。




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by lunabura | 2013-11-17 20:20 | にっき | Trackback | Comments(6)

高天原 ふりさけ見れば 月が見えるかも


高天原 ふりさけ見れば 月が見えるかも


「碇が見えるでしょ」
「あっ。ほんとだ!」
「昔はもっとあったのですが、砂に埋もれて少なくなりました」

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道路から下を覗くと渚の自然石の間に人工的な直方体が。
福岡の各地の神社でもよく見られる碇石です。

近くに蒙古塚があり、蒙古軍がここにも上陸しようとして全滅しています。
この碇石が元寇の時代のものと言う訳ではありません。
が、この一帯は船着場として昔は利用された渚だという証しです。

ここに来た目的は、実はかつて巨大なムクノキがあったという話を聞いたからでした。三人で手をつないでようやく届くような大きさだったそうです。

昭和になって志賀島を一周する道路が出来た時に伐採されたそうです。
そこには近づいてはならぬという磯良瀬と丸瀬があるといいます。

椋の木は隕石落下地点の目印でした。
近づいてはならぬ二つの瀬というのは、隕石のため?
そんな予想を立てて行ったのですが、ちょっと違ったようです。


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右は丸瀬。小さな岩に鳥が止まっています。

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左は磯良瀬。
現地を見て、どちらも暗礁があるので危険だから近づくなということだと思いました。

そして、その二つの瀬に挟まれた所に、古戸清水があるのです。
清水は山の中にあって、猪の足跡があり、登りませんでしたが、
水が小さな川となって流れていました。
古代の船乗りたちは、二つの瀬を門のように見て、最後の水を手に入れたことでしょう。


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そして、さらに左の方を見ると、福岡タワーが。
中央左よりに、宝満から三郡山が見えました。
宝満山やその横の宮地岳は御笠山(三笠山)とも呼ばれていました。

そして、今いる浜の北のほうには「高天原」という場所があるのです。
「高天原」は海岸近くの海域にあります。

そう。
思い出したのです。あの歌を。

天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも

今いる志賀島の高天原に船を漕ぎ出すと、
春日方面の三笠山の方角に月が出るのを見る事ができるんですね。

しかも、この志賀島にも三笠山があるのです。
志賀海神社は春日大社の元宮だね…。(これは関係ないか…)

写真で見えている範囲は博多湾で、水深が浅く、小舟しか渡れなかったそうです。
アマ(船乗り)たちが小舟を漕ぐ光景からアマノハラと呼ばれたんですね。

ですから、阿倍仲麻呂もここまでは小舟で来て、いよいよ外洋船に乗り換えたのでしょうか。
あるいは、遣唐船に乗ったままだったのでしょうか。
志賀島には空海も立ち寄った記録があります。

以上から、この歌が志賀島の高天原付近で詠まれたとしても問題ないことが分かりました。

愛読者さん、いかがですか?
ここも、いい線行ってますよ。

そして、今日は何とまあ、くるま座さんにも会いまして。
「天拝山から見た、御笠山(宮地岳)に昇る月」を激写した写真をいただいたのでした。

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(これは春日の「月の浦」から見た光景とほぼ同じとか。
しかも、その麓に「宮地岳を昇る月とこの歌を書いた掛け軸」を伝える家を発見したとか。)

ということで、二つの説が出ました。

A「春日の月の浦」から見た「三笠山の月」。
B「志賀島の高天原」から見た「春日の方の三笠山の月」。
う~ん、悩むな…。
よし。
C B+C 志賀島で三笠山の月を見ながら、Aを思い出している。
これで行こう。

今日は「三笠山と月」のシンクロニシティの日でした。


高天原(1)福岡県東区志賀島弘
志賀島に高天原があった なぜ海の中に高天原がある?
2000年前の博多の姿
http://lunabura.exblog.jp/13654361/


月の浦 月の浦から見える天体ショーを発見
万葉歌「天の原 ふりさけみれば~」は禁忌の歌だったのか? 
http://lunabura.exblog.jp/17342596/


高天原と宝満山(御笠山)


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by lunabura | 2013-11-16 21:48 | 志賀島の各地 | Trackback | Comments(0)

志賀島から糸島半島がみえた


志賀島から糸島半島がみえた


今日は懸案だった安曇連の城探しに、急遽、志賀島へ。

鹿さんに再会して、地元を案内していただきました。

最後に、古戸清水の入口から海の向こうの山々の説明を受けました。

志賀島の西海岸―金印通りーを走ると、海の向こうにずっと山々が見えています。
向こうは糸島半島です。

島にいながら糸島と共に暮らしているような気になってきます。
それほど、糸島半島は近かったです。

実際、志賀島は那珂郡になったり、志摩郡になったりしたそうです。

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写真の中央の奥に見える薄い色の山が糸島富士、可也山。
左の端には高祖山、怡土城。 左手前は今津の端っこ。

そう、神功皇后が辿った道が一望できるのです。

鹿さんには、神武天皇の辿った道が見えているようです。

山の名前を教えて貰いながら、古代そのままの光景の中に私も溶け込みました。

ここは金印公園の近く。

いにしえ人も、この光景を見ながら船を漕ぎ出したのでした。


るなは、今日は、この光景から抜け出せられません。







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by lunabura | 2013-11-14 22:16 | 志賀島の各地 | Trackback | Comments(2)

ミウラ折とか、シルクロード展とか



「あの~。古墳の場所と地形が分かるような地図が欲しいんですけど」
カウンターで尋ねたら、
「これがあります」と手渡しながら「ミウラ折ですよ!」と言われた。
「あっ、知ってます、一発で開けられる」

それは大きめのトランプのような固めの表紙二枚に挟まれて折りたたまれた地図。
表紙と裏表紙を持って左右に開くと、パーっと、一枚の地図が広がる。
そのまま両表紙を合わせると一発で閉じた。(@_@)“

「知ってます」と言ったけど、それは言葉だけ。
その機能(?)の素晴らしさを実際に見て、よけいなこと言うんじゃなかったと後悔。

ジャバラに畳んでるだけと思ったけど、ネットで調べると、枡の角度が微妙に違う。
「ミウラ折りとは、宇宙科学研究所(現宇宙航空研究開発機構)の三浦 公亮 名誉教授が考案した面の折りたたみ方法」
宇宙でパネルを開いたり閉じたりするために開発された技術とか。

こりゃあ、すごいもんなんだ。

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で、その地図をいただいたのが「道の駅 むなかた館」(旧玄海アクシス)。
宗像大社の前にあった物産館が今は博物館になっている。

「宗像族はいったい何処にいた?」
何人に言われただろう。

私は、宗像族は宗像の丘陵地帯にいて、
その奥津城もそこにあるのではないかと思い始めている。
宗像族は宗像(市)にいたのではないか。

当たり前の事と思われるかもしれないが、何故か
宗像から見えない山の向こうの津屋崎(福津市)が宗像族の奥津城とされている。
しかし津屋崎を調べてみると、磐井の関係の地域ではないの。
(これまで津屋崎の記事に書いた宗像族の奥津城という言葉を
みんな訂正せにゃならん…(+_+))

宗像市には古墳群がないのだろうか。
そう思って、戴いた地図を見ると沢山あるではないの。
丘陵地帯はベッドタウンとして開発されて、多くの古墳が失われたようだけど、
残っている大きな古墳もあるみたい。

出土したビーズには金や銀が入っていた。
遠くシルクロードを旅してきたビーズで身を飾ったのはどなた?

これぞ宗像の姫君ならん。


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さてさて。
この地図を見ていると、神武天皇軍が騎馬隊で古賀、福間、赤間と、
駆け抜けて行ったルートが浮かんでくる。
いや、JRの快速電車が止まる駅の名前を書いたのではない。
古賀、福間、赤間には神武天皇の伝承が連なっているのだ。

やっぱり、地図は楽しい。

古墳は尋ね尋ねしながら、行くのは大変だけど、
見晴らしのいい所にあるから、行くと報われる。
桜京古墳への途中の道の面白さは今でも忘れられない。
そこから見た景色も今はどうなっているだろう。

原稿書きが終わったら、ぼちぼちと廻りますか。

秋の特別展
シルクロード ~オリエントの世界~
平成25年11月24日(日)まで

会場 福岡県宗像市深田588 海の道むなかた館
0940-62-2600

(宗像大社の駐車場のそば プチ展示です。参拝の帰りにどうぞ
行ったら、蛇行鉄器もお忘れなく )




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by lunabura | 2013-11-12 20:57 | にっき | Trackback | Comments(0)

地図は楽し



『神功皇后伝承を歩く』の地図の校正を二回しました。

オリジナルの地図を出版社が用意してくれました。
国道や県道と神社だけというシンプルな地図ですが、
近くの古墳や遺跡などがチョコっと入っています。

それが、すごくいい。

別々に行った所が、え?こんなに近かったの?
と、一人で感動している。

た・と・え・ば。
○御勢大霊石神社の近くに小郡郡衙跡!
歩いて行けるじゃん。

○高祖(たかす)神社の麓に細石(さざれ)神社。
ひょえー。
もう一度行きたかったんだけど、こんなに近かったんだ。

別々にインプットされていた地図がカチッ、カチッとはまる。
地図の校正は、これがすごく楽しかった。

考古学では神社のことには触れないみたいだけど、
古墳を作ったり、埋葬されたりした人は、必ず祭祀をしていたはず。
だから、神社の祭神はその人たちがどんな氏族だったのか、教えてくれる大事な情報。
地図には神社と史跡が一緒に欲しい!

るなの夢は
「古墳とその出土品」と「神社とその祭神」が両方とも描かれたものが、各地の郷土地図の定番になること。

出土品は豪華なものが大きく取り上げられるけど、全体像がつかめる方がいい。
古墳や支石墓などは、世紀別に色分けされているのがいい。

そして、山と平地と海がはっきりと識別できること。
それと、住所。
(意外にも欠けている地図があるよ。県名から書かないと、遠いところの人は分からないんだ)

そんなのが雛型となって、全国にいい地図が出来てほしいな。
それを見て旅のプランが立てられたら楽しいよね。


これは、福津市津屋崎町の地図。
最近、よく見てる地図。^^
あ、「福岡県」と書かないと分からないよね。


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by lunabura | 2013-11-11 19:50 | にっき | Trackback | Comments(0)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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