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吉武高木遺跡(2)ここは平群らしい・近東の月の民・ササン系・へぐり


吉武高木遺跡(2)
ここは平群らしい

近東の月の民・ササン系・へぐり

前回、ボロ地図を見直して見つけた「平群」の文字。
それは、この吉武高木遺跡の付近に鉛筆で書き込まれていました。
パズルが一つハマった。

かつて『古事記の神々』で葛城襲津彦(かつらぎそつひこ)を訳したのですが、
右も左も分からない頃でした。
また、真鍋大覚の本にこの遺跡付近の事が出ていたので、理解出来ぬまま書き写していました。

和名類聚抄に平群が書かれていて、現在の早良区羽根戸から金武付近、と推定されています。
そこで、作成した地図がこれです。
吉武高木遺跡がすっぽりと入ってしまいます。

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そこで改めて、葛城襲津彦を読み直してみました。
次の(8)は私になりに考察した部分です。
メモ代わりに書いておいたもので、同じものをコピぺします。

* * *

葛城襲津彦(8)
福岡県の葛城・平群・曽我

(今回は、福岡県の古代の地名の資料です。)

※簡単に朝鮮半島と往来していた
訳をしていて思ったのは、ソツビコたちに大変機動性がある事です。
軍はもちろん、弓月の君や王の妹なども日韓を簡単に往来しています。
ですから、この話の舞台は、福岡市の早良区や西区を中心とした話ではないかと
思うようになりました。
当時の朝鮮半島への航路は唐津経由か志賀島経由でした。

『和名類聚抄』によると、福岡市西部を中心に
平群や曾我、額田、田部などがあった事が書いてあります。
大和地方と似た構成です。
ですから、渡来人たちは福岡市にまず、拠点を置いて、それから大和地方に移動したと
考えるのがナチュラルです。そうすると、どちらにも平群などがある理由が分かります。


※『和名類聚抄』に早良郡に平群や曽我があった事が書いてあった。
「早良郡」ウィキペディアより (早良郡で検索すると出て来ます。)
『和名類聚抄』によれば、毘伊(ひい、現在の城南区樋井川付近)、能解(のけ、現在の福岡市早良区野芥付近)、額田(ぬかだ、現在の西区野方付近)、早良(さわら、現在の城南区鳥飼付近)、平群(へぐり、現在の早良区羽根戸から金武付近)、田部(たべ、現在の早良区小田部付近)、曽我の7郷があったとされる。


※真鍋大覚氏による伝承

『儺の国の星・拾遺』
p244
筑紫で孝元帝(前214~158)から清寧帝(480~484)の間に玄界灘の交易を掌握していた平群は近東系の出であって、月氏のササンの子孫であったと思われる。筑前早良の由来は「ささのあまのはら」で、平群氏が百済人をここに租界させた。


p245
昔、祖先に「かひ」と「とひ」の二つの氏族があった。「かひ」とは夏至を元日とする氏族であり、「とひ」は冬至を元日とする氏族であった。かすかな口伝ではあるが、平群氏は望旦夏至に固執し、曾我氏は朔旦冬至に改革したと説かれる。

皇極帝(645)年はまさに暦法の採否をめぐって中大江皇子の激烈な論争と対決が背景にあったことを心得なければならない。
「そが」は素娥と書き、月の東洋的異称であった。これに対して、「へぐり」は平群と書き、月の西洋的異称であった。

和名抄には筑前国早良郡の条に、まだ平群、蘇我の郷名が記録されているが、今はない。
所は脇山であって、改名の由来は文書にはない。月を女人に事寄せる泰西の民族の伝統に「わき」なる異邦人の租界の古称を重ねて作り上げたものと古老は語っていた。
賀茂の氏族は日本の開拓者であった。刀剣の類を作り上げるよりも、むしろ百姓の鋤鍬の方を主としていた。北方系の胡人であった。


『儺の国の星』
p155 
早良戸栗(さわらへぐり)は、かつての平群氏の故郷であった


p196
大和の笠置の山々の名は、筑紫の葛城から神功皇后(201~269)の御宇に遷したものと伝えられる。葛城の峰は香椎宮から太宰府の東の空に連なる。

葛城氏が竈門山系と水縄山系を領有して南方貿易を独占していたのに対し、平群氏は背振山系と志摩山系を治めて北方貿易を掌握していました。せふりの語源は「へぐり」に在ったと語られますが、日繰(ひぐり)すなわち天文暦法の家系を示す古語であります。


香椎宮から太宰府の東の峰とは犬鳴連峰の事でしょうか。
水縄=耳納
なお、「賀茂」が野芥の北にあります。

大和にこれと重なる構成の地名があるのは教科書で学びます。
葛城襲津彦は筑紫の出身で、大和に移住したものと考えると、うまくいきそうです。
それに前後して、多くの氏族の移住もあったのでしょう。
父親の「竹内(つくしうち)の宿禰」は「筑紫の内の宿禰」と考えました。

※日本書紀中の的(いくは)臣について
ソツビコの子孫が的(いくは)臣です。阿藝那臣も子孫です。
藝の字は曇の写し間違いだと思いました。安曇那臣が正しいと思います。
的臣は福岡の筑後川流域・浮羽(うきは)で、阿曇那臣は福岡市です。

* * *
以上が、『古事記の神々』に記載した内容です。

う~ん。
今、読み直すと、
弓月の民が来たのと、百済の民が租界したのと、私はゴッチャにしてる?
読解するには、まだ知識が足りないな。
誰か教えてください。

真鍋の伝える平群氏についてまとめてみると、
  「月」を意味する「フェンガル」から変化したのが「へぐり」で、
  近東の月氏のササン系の子孫。
  平群氏は筑前国早良平群郷を故郷とし、百済人を疎開させた。
  平群氏は「かひ」族で、夏至を元日として、天文暦法の家系だった。
  平群氏は背振山系と志摩山系を治めて北方貿易を掌握していた。

となります。
ふと思い出したのですが、
糸島の宇美八幡宮の宮司家武内家平群のヅクの子孫だと言われました。
竹内宿禰の四男の家系だということです。
聞いたときには平群と糸島の繋がりが唐突に思われたのですが、
真鍋の話からは、平群がここを掌握していたということなので、辻妻があうことになります。

この平群氏と天孫族の関係は紀元前に深いものとなっていた?
しかも、平群のツクは竹内宿禰の子孫。
弓月の君って、秦氏じゃなかったっけ。
あ、織幡神社(宗像市)の近くの波津で宿禰は幡を作らせた。

複雑すぎ!

だれかすっきりと整理してくださいな!


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吉武高木遺跡 日向峠の方向を見る


(つづく)
このはなさくや姫の里 14 ( 下の ♯ から入るとずらりと見れます)






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by lunabura | 2013-12-30 22:42 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(4)

吉武高木遺跡(1)魏志倭人伝から消えた王国


吉武高木遺跡(1)
魏志倭人伝から消えた王国


「ねえ、マーサ。吉武高木遺跡、行ったことある?」
「あるよ。行く?」
「簡単に行けるなら行きたいんだけど」
「帰り道よ。行きましょ」

ということで、伊都国歴史博物館を後にして日向峠を越えて福岡市に出ました。
その途中で見かけたのが、例の破壊中の金武古墳群です。

この日向峠は意外に急勾配で、道も折れ曲がっています。
峠を降りて、まもなくして左折、町中を走って右折すると
広い田園地帯のど真ん中に出ました。
「この辺なんだけど」と記憶を探るマーサ。

ナビをずっと見ていた私は
「あれ?ここ、もう遺跡のど真ん中にいるよ。確かに何もないわ」
と言いながら見まわしました。
教育委員会に尋ねた時の話通りだ。

「前ね、どうしてもここが分からなくて、思いあまって教育委員会に電話したの。
そうしたら、行っても何もないですよって言われたのよ。
でも、何もなくても地形が見たかったから、
で、出土物はどこで見られますかって聞いたら、福岡市の博物館にあるって。
でも、改装中なので今は見られませんって言われた」
その時は縁がなかったんですね。

(るなさん、平気であちこち電話しているようですが、実は何日も調べて、
どうにもならなくなったときに、電話してるんですよ)
一応、シャイなんです ( ´艸`)



で、現地で見えたのが衝撃的な山!

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ガガ~ン。今立っている所は、飯盛山の真東だったんです。
あれは、この遺跡の人たちには神の山です。
朝な夕なこの山を見て暮らしたはずです。
夕陽が毎日位置を変えながら沈み、やがては星々が輝き出すのを見た。

この山の向こうに糸島があります。
右の方に行くと海があり、周船寺に行く事ができます。
前回の神武天皇の家族たちが祀られている宮々はすぐ向こうなのです。

ここは消えた王国。
日本で最古の三種の神器がセットで出土したクニなのですが、
何故か、魏志倭人伝にはその名が出て来ないのです。

魏氏倭人伝では伊都国の隣は奴国。
その間にあって、これほど栄えていたのに名前が消失している。
遺跡もその時代のものは見つかっていない。

「伊都国から陸行1日」と書かれてもよいはずの弥生集落。
卑弥呼の時代には既に国が滅亡していた?
奴国に吸収されたという説もあります。

時代は2200年~2100年前と説明板に書かれていたので、紀元前1~2世紀。
弥生時代前期末から中期初頭だそうです。

現地説明板に写真がありました。

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出土品です。
剣も矛も銅製。これは実用品ですよね、
鏡は銅鏡でつまみが二つもある多鈕細文鏡。朝鮮半島でよく見られます。
勾玉は北陸産。

気をつけなければならない点は、これらが一つの墓から出たのではない事。

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一つだけ三種の神器のセットを持ったリーダー的な人物がいて、
他は一人に一本ずつ添えられていたという点です。
るなとしては、厳格な家父長的な、男性社会を想像してしまいました。
古代日本って母系制なんで、ちょっと雰囲気が違うように見えます。


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福岡市埋蔵文化センターで、撮っていた復元模型。
これが、この吉武高木遺跡のものだとは。ようやく繋がりましたよ。
こんな大型の建物があったんですね。(こんな高床式ではないと言う説もあるとか)
紀元前の話です。」

いったいどんな人たちが住んでいたのでしょうか。

思い出すのは、志賀島で聞いた鹿さんの言葉。
志賀島から見える糸島~福岡を指さして、

「天孫族は武器を持って来たといいます。
彼らは吉武高木遺跡で国を作り、それから東征して行ったと思います。
だから、空っぽになったんです」
そうか、そんな発想もあるのだ。

武器だらけの吉武高木遺跡。
ここに天孫族のクニがあったとすれば、山を越えて伊都国の姫たちと、
あるいは海人族の姫たちと結ばれたと考えることも可能だ。

ニニギの命は糸島の西に上陸して、こちらに拡大したのか。
あるいはここを拠点として西に拡大したのか。

なにしろ、周船寺の湊はどうしても手に入れたい湊だったろう。
戦って侵略しようとしたり、縁結びで平和に和合したり。
そんな事があったかもしれない。

そして、もう一つのアイデアがKさんからメールで。
  「伊都・伊親・伊蘇・五十・イソ・イト
  製鉄するための燃料
  この国に樹木を植えた者
  五十猛
  スサノウノの子
  日向峠
  飯盛神社
  早良の王
  いい流れですね。」
この暗号めいた文を並べて行くと、吉武高木遺跡には五十猛がからんでいる?

何か手掛かりに近くに神社はないか。
そこで、はたと、飯盛山の飯盛神社はどうだ?
とHPから祭神を調べました。

「天孫降臨の砌に天太玉命(アマノフトタマノミコト)が伊弉冉尊(イザナミノミコト)を奉齋するを起源とします。
上宮に伊弉冉尊、中宮に五十猛尊を奉齋し飯盛三所権現宮と称し
上・中・下宮・神宮寺を設けていました」

なるほど、中宮に五十猛尊が祀られているんだ。

面白いことになってきました。

ここは地図を見ると、室見川の中上流域にあたります。
そこにこれほどの平原があった。
思うのは、あの破壊されている金武古墳群。

真砂土を採取しているという話でしたが、
真砂土というのは樹木が茂っている間は地盤がしっかりしているのですが、
伐採してしまうと、簡単に地崩れを起こしてしまうそうです。

今は青々と茂る山々も、製鉄の為に伐採された時代があるとすると、
山津波が起こってここは洪水原になったはず。
そんな災害があって、消滅した可能性もあるのかもしれない。

山でさえ簡単に消失するのは、古賀市の三上山が二山消えたり、
田川市の香春岳の一の岳が消えたりと、信じられない光景を見て来ました。
福岡市西区からは今は見えない地点ですが、興味を持って監視するべき場所だと思います。


そして、ボロボロの地図を見ていた時、思いがけない書き込みが。
「平群」
へぐり。
そう、ここは和名抄を調べていて「へぐり」と想定した地だったのです。

(つづく)

<このはなさくや姫の里 13>
シリーズは下の「♯」からどうぞ。


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by lunabura | 2013-12-29 22:19 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(6)

糸島の東に祀られている御毛沼命・神武天皇の家族が大集合



糸島の東に祀られている御毛沼命

神武天皇の家族が大集合



福岡市西区 周船寺



ヒコホホデミ命(山幸彦)は糸島の主要地に祀られ、
大神とも言える存在だったことが分かって来ました。

ヒコホホデミ命は天津神と国津神の縁結びで生まれたのですが、
悩みを抱えて海神・豊玉彦を訪ねました。そこで出会ったのが豊玉姫

二人はすぐに結ばれますが、ヒコホホデミ命は三年経つと自分の国に戻ってしまいます。
懐妊していたことに気づいた豊玉姫は夫の後を追いました。

しかし、何の事情があったのか、赤ん坊を残して自国へ戻って行きます。
その赤ん坊の名前がウガヤフキアエズ命

その事情を神話では、亀の姿に戻って産んだのを見られたからだとありますが、
妹の玉依姫は亀に戻らなかったらしく、何事も起こっていません。

この辺りに隠された裏事情があるのでしょうが、現代からそれを推し測ることは困難です。
(「ワニ」は一般に鰐やサメと訳されますが、るな的口語訳では亀と訳しています。
「ワニ」=バニ・マニ。太占・フトマニのマニ。例:亀の甲の占い)

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玉依姫は姉の子を育て、そして二人は結ばれます。

今日は玉依姫とウガヤフキアエズの命の間に生まれた四人の子の内の一人の話です。
その名は御毛沼命(みけぬのみこと)。

あれこれと書くより、『古事記』を読みましょうね。
(ヒコホホデミ命は古事記ではホオリノ命となっています
玉依姫
 玉依姫は海の神さま大綿津見(おおわたつみ)の神の娘です。
姉の豊玉姫(とよたまひめ)と共に綿津見の宮に住んでいました。

姉の豊玉姫が日の御子のホオリノミコトと結婚してから、三年でホオリノミコトが地上に戻りました。姉の豊玉姫も後を追って綿津見の宮を離れました。子供を出産するためです。

 ところが、子供を生み終えると、姉上は一人で綿津見の宮に戻って来ました。出産するときに本来の姿を見られてしまったために、帰って来てしまったのです。
 姉上はこちらに帰って来たものの、夫が恋しく、また残して来た子供が気がかりでした。そこで、妹の玉依姫が子供の養育係として、行く事になりました。

 こうして葦原の国に行った玉依姫は姉の子のウガヤフキアエズノミコトを育てました。そして、この子が成人すると、二人は結婚をしました。二人は伯母と甥にあたります。

 二人の間には四人の子供が生まれました。
子の名は五瀬命(いつせのみこと)。稲氷命(いなひのみこと)。御毛沼命(みけぬのみこと)。若御沼命(わかみけぬのみこと)です。

 長男のイツセノミコトは一番下のワカミヌノミコトと共に、この国を出て、東に新たな国を作るために出かけて、途中で戦死しました。
 二番目の子、イナヒノミコトは亡き母の国へと海原にお入りになりました。

三番目の子、ミケヌノミコトは波頭を踏んで常世(とこよ)の国に行きました。そこは不老長寿の国と言われています。

一番下のワカミケヌノミコトは別名、トヨミケヌノミコト、またカムヤマトイワレビコノミコトとも言います。イワレビコノミコトは兄のイツセノミコトと共に日向を出て、東に向い、大和を平定して初代の天皇になりました。神武天皇と言います。                 
(古事記 ウガヤフキアエズの命の巻より)

『古事記の神々』の方に掲載している分です。

玉依姫の四人の子。
長男の五瀬命と四男の若御沼命は日向を出て東征します。
二人の名は、遠賀郡芦屋町の神武天皇社に揃って出て来ます。

二男の稲氷命は亡き母の国へ行ったとあるので、壱岐対馬に行ったのかと、ふと思いました。

で、驚いたことに、三男の御毛沼命を祀る神社がかつての糸島に二社もあったのです。

飯石神社 周船寺村大字飯氏字大屋敷
    祭神 御食入沼命

三所神社 周船寺村大字千里字石仏
   祭神 天津日高彦火火出見命、豊玉姫、御毛入沼命

漢字表記が少し違っていますが、同じ神です。今回は御毛沼命で統一表記します。

二社の住所を見ると、どちらも周船寺です。
どうして、ここに御毛沼命が祀られているのでしょうか。

近くの神社を見回すと、飯石神社から約2キロの所に産宮神社があります。
そう、今回の糸島シリーズで最初に参拝した宮です。
そこに、祀られていたのは
奈留多姫命 玉依姫 ヒコナギサタケウガヤフキアエズ尊

玉依姫の四男は奈留多姫と結ばれて、綏靖天皇を生んでいます。
綏靖天皇の母にはホトタタライススキ姫という好ましくない名前がついていますが、
これは製鉄の暗号が込められていました。

ふと、ホトタタライススキ姫の名が奈留多姫かもと思ったのですが、
思いつきにすぎません。

産宮神社で推定した系図に神武四兄弟を加えてみます。

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こうして見ると、周船寺を中心に家族が入り乱れるように祀られているのが分かります。

近くには豊玉姫の上陸地と思われる志登神社があり、
歩いて行ける範囲に祀られている妹、夫、子供、孫たち。

このように濃密に祀られているとしたら、
ここに神武天皇の家族のクニがあったと想定できるかもしれません。
それを「日向」と言うのでしょうか。

三男の御毛沼命が糸島に残り、長男が四男と共に東征。
二男は母方の国の跡を継ぐ。

そんなストーリが考えられます。
全く想定外の話が生れてしまいました。

当地はもう少し、時間をかけて調べる必要がありますね。
結論を急がず、じっくりと調べて行こうと思います。



<このはなさくや姫の里>シリーズ 12
シリーズで読む場合は下の♯から入るとズラリと出て来ます。



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by lunabura | 2013-12-28 20:00 | 咲くやひめの里 | Trackback | Comments(5)

自称 弥生人ですが…




自称・弥生人 るな も、ついに永い眠りから覚めて、見回すと、平成時代の年末だった!
さすがに大掃除なんぞを…。

今年のマイブームは「重曹」

これまでは「廃油せっけん」を購入して使っていたのですが、
時にはショウガの匂いが残るものに当たったりして、ちょいと悩んでいました。

今回は、重曹スプレーを片手に仕上がり感を追跡。
(スタンスは古代史の探究と同じじゃん…)

捨てられなかった古いバスタオルをハンディサイズにカットして、
右手でスプレーをシュッシュッ、左手のタオルでサッサッ。
両面使ったら洗わずにポイ。
これで、もったいないという罪悪感ともバイバイ。

ふと見ると、知らずに重曹がかかったガスコンロのビニールホースがピッカピカ。
これに味をしめて、水道の蛇口やガス元栓など、
これまであきらめていた所をシュッシュ。サッサ。
という快感を知って、弥生人は現代で頑張っております。

現代には年賀状という物もあるそうな。 (´・ω・`)




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by lunabura | 2013-12-27 23:13 | にっき | Trackback | Comments(8)

チラシが届きました


チラシが届きました

このブログから生まれたガイドブック。
チラシが届きました。


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(クリックすると、ほんの少し大きくなります)

どんなチラシが出来るのかワクワクしていたのですが、
一番上に、糸島市の宇美八幡宮の写真が…。
大好きなショットとして先日紹介したものが、取り上げられていて嬉しいです。

他の写真も、高良山神籠石、大己貴神社、魚鳥池石碑、と並ぶと、
自分とは違う目線のものが並んでいて、新鮮な印象です。

そうそう、タイトルは
『神功皇后伝承を歩く』上巻 福岡県の神社ガイドブック

100社のうち、51社がずらりと並んでいて壮観ですが、
本書では各神社にサブタイトルがついていて、それを見るだけで、
ストーリーが分かるようになっています。

時系列に並べているので、物語としても読めるようになっています。

地図もナチュラルな色合いで、とても分かりやすいでしょ。
すべての神社に地図を描いてもらっています!


「ミッシングリングが繋がった」
って、夢でキャッチコピーを教えられたんで、伝えたんですが、不採用ですね。
これは出版社さんが、最初に言われた言葉そのものでしたが ( ´艸`)

来年1月20日発行予定です。
皆さま、是非とも、手に取って、美しいフクオカを歩いて下さいませ (^-^)

2月には、久留米地名研究会と玄海地名研究会でお話をさせていただきます。




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by lunabura | 2013-12-24 20:24 | 神功皇后伝承を歩く ガイド | Trackback | Comments(14)

糸島 国津神と天津神の戦いと融合


糸島
国津神と天津神の戦いと融合

ニニギノ命と木花開耶姫の分布
一刻も早く結論が見たくて、福岡市広域図に四色の付箋を張り付けることにしました。
付箋を貼ろうとすると、地図には既に神社の祭神がびっしりと。
かつて、自分で沢山書き込んでいました。 (*_*;
地図は折り目が切れてしまい、何度もテープで補修した跡が茶色に変色。
そのテープがはがれたので、今回、また貼り直しました。

   私、いったいいつ、どうやって調べたんだろ。
   かつて、糸島を調べようとしていた頃があったんだ。
   日付を見ると二か月の間に四回も行っている。
   またもや、忘れとったあ…だ。

当時の私は神々の名が覚えられなかったけど、どうしても知りたかったんですね。
でも、何を知りたかったんだろう。
それから、十年以上経って、再び糸島を調べています。

地名がどんどん変わるので、昔の地図は捨てられません。

『福岡県神社誌』には「今宿村」がありました。
今は福岡市になっていますが、かつては糸島郡だったんですね。
糸島郡として考えると、位置関係がようやく理解できるようになりました。

五十迹手はここから船を出して、仲哀天皇を迎えに北九州まで航行しているんです。
今宿村が糸島郡でないと、るなには古代世界が描けないのです。

天津神と国津神
さて、今回のテーマは、四神を色分けして地域的に隔たりがあるか調べることです。
四神とは ニニギノ命(黄色)ヒコホホデミ命(青色)<天津神>
木花開耶姫(ピンク)大山津見命(青の柄)<国津神>
です。

c0222861_18221313.jpg

これがボロボロの地図に付箋を貼ったもの。
どうですか?
黄色が明らかに北西部に集中しています。黄色はニニギの命です。17社。
ピンクがと柄物が東南部に広く分布しています。
木花開耶姫(5社)と大山津見命(4社)です。
大ざっぱに見ると、里と山に分かれています。
ニニギの命信仰の人たちは糸島水道の西側を中心にムラを形成しているのが分かります。
中心は一貴山(いきさん)。
明らかに船を操る人たちです。そこが天津神たちの里と考えられます。

それに対して、大山津見命と木花開耶姫は東と南の山に偏っています。
しかし、その分布がまばらなので、大山津見命の根拠地は
もっと東南の山にありそうな気配です。国津神の里です。

ブルーはヒコホホデミ命。8社。全体にまんべんなく分布しています。
これは『古事記』にあるように、天津神と国津神が縁結びをして、ムラが融合。
その結果、生まれた子が全体に祀られるようになったと解釈しました。

そこで、ブルーのヒコホホデミ命を外したら、天津神と国津神の融合する前の時代が
浮き上がるのではと思って、取ってみました。

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やはり、黄色 対、ピンク・柄が対立しています。
天津神 対 国津神 の構造です。
国津神が山を中心に住んでいて、のちに天津神が海から入って来ているように思われます。
これら四神は志摩半島の北部には全く分布していませんでした。

また糸島水道の南の中央部に分布していないのは、当時まだ干潟だったからと思われます。
そこにわずかにある微高地に弥生の遺跡が残っています。
邪馬台国の時代、糸島の水位は現代より1~1.5m高かったそうですから、
さらに古い時代、海水はかなり奥まで湾入していたと思われます。

細石神社で考察したように、「コノハナサクヤ」も、「イワナガ」も、
あるいは「土で塗り込めた産屋」も製鉄の暗号でした。

そこで、推測したのですが、
国津神はもともと干潟の葦でスズ鉄を生産していたのではないでしょうか。
そこに天津神が良質の砂鉄があるのを発見して入植した。
天津神の方が武力で勝っていて、一時は戦いもあったが、両族は縁結びする事で融合した。

そんなイメージが浮かびました。
宇美八幡宮の麓の縄文村を思うと、国津神とは縄文人のことではないでしょうか。
のちに支石墓の下に縄文人が埋葬されるのも、これなら話が上手く繋がります。


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ニニギの命を祀る神社は17社もあったのですが、木花開耶姫と一緒だったのは、
伊覩神社(いと)だけでした。
そこには、のちに五十迹手が近くの神社から合祀されています。
その場所は高祖山の山脈の北の端です。
東に行けば、もう海です。
この辺りが、二神の縁が結ばれた場所と想定してもいいのかも知れないなあと思いました。

新たな謎
さて、砂鉄の場合は森林を伐採しないと製鉄が出来ません。
志摩半島が一度は丸裸になってしまったのが、地名から分かっています。
Kさんのメールの指摘で気付いたんですが、森林伐採には五十猛の存在が絡んできます。
その神も糸島にはいくらか分布しています。


このほか、祭神の分布を調べていると、
ニニギノ命と菅原神がセットで祀られている神社が8社もありました。
菅原神が祖神の天穂日神と祀られている神社も弐2社ありました。

天穂日神が冶金の神で、道真公信仰の裏には鉄の存在が見え隠れする話は何度かしました。
しかし、この糸島でニニギノ命と強固に結びついているのを見て、
まだ知らない側面があるのだと新たな謎が生まれました。

また、神社の祭神の分布と支石墓や甕棺墓の分布がどう関わるのか、
興味深いテーマも生まれました。
誰か、地元の方、研究してくださいませ ( ´艸`)

そうそう、豊玉姫と玉依姫の分布とか。
スサノオとイソタケルの分布とか。
テーマが沢山ありますよ。

るなさん、さらに新たに気になる事があるので、次回考えます。
それは神武天皇の兄弟の件です。

<このはなさくや姫の里>シリーズ 11
シリーズで読む時は、すぐ下の#<このはなさくや姫の里>から入ると、
ずらりと出て来ます。




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by lunabura | 2013-12-23 18:26 | 咲くやひめの里 | Trackback | Comments(4)

さくや姫とニニギノ命さがし


さくや姫とニニギノ命さがし

前回、糸島のメインの山々にはヒコホホデミ命が祀られているのが分かりました。
今度は平地の神社を調べてみようと思います。
参考書は『福岡県神社誌』。
ターゲットを含む神社だけ、リストアップです。
地味ですね~。

ターゲットは大山津見命、木花開耶姫、ニニギノ命、ホホデミ命

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作業は時間がかかるけど、見るのは一瞬。
論文ではないので、漢字表記はテキトーに変えていきます。

なんと、この時代はまだ村があるんですよ。
人々の暮らしが浮かんできそうです。

( )に入っているのは、合祀したり、境内社だったりします。
ま、合祀したとはいえ、もともと近くにあったものですね。

***

可也村 
志登神社 豊玉姫神、和多津見神、ヒコホホデミ神、息長足姫神、竹内宿禰神
稲留神社 天照皇大神、ニニギ命
若宮神社 木花開耶姫命

元岡村
天降神社 ニニギノ命
太郎丸神社 イザナギ命、ニニギノ命、イザナミ命、埴安命

前原町
天降神社 ニニギノ命
神在神社 ホホデミ命、埴安命、菅原神

今宿村
八雲神社 スサノオ命、櫛稲田姫命、大己貴命、ウガヤフキアエズ命、玉依姫、豊玉姫、大山積神木花咲耶姫神、埴安神

怡土村
高祖神社 天津日高彦火々出見命、玉依姫命、息長足姫命、天照皇大御神、豊受神
細石神社 木花開耶姫命、磐長姫命
染井神社 熊野三柱大神、豊玉姫命、彦火火出見尊 息長足姫命、玉依姫
白木神社 五十猛命(大山祇命

周船寺村
伊覩神社 木花咲耶姫命ニニギノ命、(伊覩県主命) 
三所神社 天津日高彦火火出見命、豊玉姫、御食入沼命

雷山村
雷神社 火雷神、彦火火出見尊、香椎大神、住吉大神、応神天皇、(級戸辺命、住吉大神、志賀大神)
託杜神社 ニニギノ命、イザナミ命、イザナギ命、埴安命
     (ウガヤフキアエズ命)(ヒコホホデミ命)(木花開耶比売命

長糸村
宇美八幡宮 仲哀天皇、誉田別天皇、気長足姫尊、玉依姫尊、(ニニギノ尊)(大山祇命
熊野神社 イザナミ尊、速玉男命、事解男命、大山祇命
天降神社 ニニギノ命、菅原神、(気長足姫命)、(誉田別尊、菅原神)
川上六所神社 イザナギ命、イザナミ命、(ニニギノ命)、(玉依姫命)、菅原神、埴安天神

小富士村
引津神社 天津日高彦穂瓊瓊杵命、イザナギ命、イザナミ命

一貴山村
天満宮 ニニギノ命、菅原神、(イザナミ尊、速玉男命、事解男命)
宝満宮 玉依姫命、ヒコホホデミ命、(菊理姫命)
天降天神社 天日高彦火瓊瓊杵尊、菅原神
天降天神社 ニニギノ命、菅原神、(速玉男命、イザナミ尊、事解男命)(ニニギ尊、イザナギ孫、イザナミ尊)
八坂神社 スサノオ尊、天照大御神、誉田別天皇、(熊野三所大神)、イザナギ尊、ニニギ尊、イザナギ尊、菅原道真
十六天神社 ニニギ尊、イザナギ尊、イザナミ尊、菅原神

深江村 
天満宮 大日高日古火瓊瓊杵尊、菅原神

***

全部で103社を調べました。
ターゲットを祀る宮がとても多く、結構時間がかかりました。

他の地域をこのようにローラー式で調べていないので、比較が出来ないのですが、
第一印象として、天孫降臨の時代の神々がとても多いと思いました。

イザナギ・イザナミ神が多いですね。
また、菅原道真公を祭る神社も思いがけず、多かったです。
磐長姫は細石神社以外は全くありません。

ターゲットを色分けしました。
大山津見命木花開耶姫ニニギノ命ホホデミ命
色でざっと見渡すと、偏(かたよ)りがありそうですね!(これが狙い)

時代は違いますが、誉田別天皇が意外に多く祀られていて、
雷神社以外は応神天皇とは書かれていなかったんです。
(誉田別天皇と応神天皇は何故か同一人物となっています)

これを見て、糸島には八幡信仰が余り入り込んでいないのではないかと思いました。
言いかえれば、八幡信仰による上書きがされていない点で、
原初のままの祭神が伝えられている可能性が高いということです。

福岡でも東部はずいぶん書き換えられている印象が強かったので、
糸島は古代の姿をよく残しているのかもしれません。

豊玉姫・玉依姫も散見されます。
この女神たちは次世代になるので、今回はターゲットからはずしているのですが、
リスト以外にも数多く祀られていました。
別の機会に調べる事にしましょ。

今回はここまで (;一_一)

この後、地図に分布を色分けして載せてみようと思ってます。

ほら、見るのは一瞬でしたね。 (^-^)



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三坂神社から見える糸島の平野と高祖山

糸島市





<このはなさくや姫の里>シリーズ 10









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by lunabura | 2013-12-21 14:51 | 咲くやひめの里 | Trackback | Comments(0)

ヒコホホデミ命が糸島の山にはズラリと


ヒコホホデミ命が糸島の山にはズラリと


コノハナサクヤヒメの子を自分の子ではないだろうと疑ったニニギの命。
そして、二人の間に生まれたヒコホホデミの命

糸島市の中で、その三神の足跡はどうなっているのか、
神社の祭神の分布を調べる事にしました。

ニニギの命のムラがどこかにあるか、
それは神社の祭神の分布の偏りが教えてくれるかもしれないと思ったからです。

まず見つかったのは宇美八幡宮でした。(前回、前々回)


そして、再び高祖山を見ると、そこに祀られているのはヒコホホデミ命。
この写真のピークが高祖山です。


c0222861_21154226.jpg

ピークから左になだらかに稜線がくだっていきますが、この写真の中央辺りが紅葉していました。
赤や黄色と緑が混じり合って、これこそ錦織のようだと思ったんです。
光量が足らずに撮れてませんが (´・ω・`)


その色の美しさから、染井山付近ではないかと思いました!

この時、思い出したんです。あの万葉歌を。

「山辺の 五十師の御井は おのづから 成れる錦を 張れる山かも」(3235番)

(山の辺の 五十師(いそし)の 井戸は 自然と 赤く染まった錦を
張り巡らしたように 紅葉した山にあるよ)

まさに、ぴったりの光景なんですね。

そこには神功皇后がウケヒで鎧を紅く染めたという井戸の伝承がありましたが、
この一画だけ美しく紅葉しているようすを見ると、この万葉歌がオーバラップしてくるのです。

この歌が当地を詠み込んだものだと発見したのは正木裕氏です。
それまでは、伊勢国の歌と思われていたらしい。

この日、11月下旬、ようやく紅葉し始めた山を見て、ますます間違いないと思いました。

これには長歌が続き、糸島の美しい山や里の光景と重なり合ってきます。
それはコチラに。
染井の井戸 ウケヒで鎧が赤く染まった 万葉歌に詠まれた光景
http://lunabura.exblog.jp/17584678/



さて、本題に戻りましょう。

その染井神社の祭神は
熊野三柱大神、豊玉姫命、彦火火出見尊 息長足姫命、玉依姫
でした。ここにもヒコホホデミ命が祀られています。

高祖神社 
祭神 彦火々出見尊、玉依姫命、息長足姫。

で、もう一つ糸島で秀麗な山・雷山。
雷神社
祭神 火雷神、彦火々出見尊、香椎大神、住吉大神、応神天皇ほか

じゃ~ん。

糸島で目を引く山にはヒコホホデミ命がずらりと祀られていたことが分かりました。(@_@;)
これは如何なることじゃ?

彦火々出見尊=山幸彦

糸島の山々は山幸彦に上書きされている?
天孫族の勝利宣言に見えてしまうのは邪推でしょうか。


c0222861_2118413.jpg

これは一枚目の高祖山の写真と同じ日、三十分前に撮ったもの。
雷山の頂上は雲の中。

(ヒコホホデミ命が祀られている高祖神社、染井神社、雷神社。
どれも、ガイドブックで紹介しています。
ということは、神功皇后も挨拶・祈願に行った山々なのですね。
案内したのは五十迹手(いとて)のはず)

伊都国が全く別の顔を見せてくれ始めました。


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雷神社、11月中旬のようす。(ガイドブックでボツになりそうなので、こちらに掲載 (+_+))


<このはなさくや姫の里>シリーズ 9





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by lunabura | 2013-12-19 21:19 | 咲くやひめの里 | Trackback | Comments(0)

宇美八幡宮(5)支石墓に埋葬された縄文系在地人から考えた


宇美八幡宮(5)

支石墓に埋葬された縄文系在地人から考えた

長野宮ノ前遺跡

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これは宇美八幡宮の一の鳥居からの眺め。大好きなショットです。

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この神社の参道は川から始まるのですが、支石墓はその近くに移設されています。

先日購入した「倭国創生」の図録を読んでいると、この遺跡のことが書かれていました。
「最古の戦死者たち」
(略)
さらに、長野宮ノ前遺跡では24基の木棺墓が主軸を合わせて整然と横並びに埋葬されていて、短期間に埋葬されたことをうかがわせる。その多くには頭部に赤い顔料が塗布され、二基の木棺墓から切先や茎が欠けた石鏃(せきぞく)が出土し、これらも副葬品ではなく体内に残存したまま葬られた可能性が高いと考えられる。
(略)

この遺跡の人たちは日本の歴史の中でも最古の戦死者たちだそうです。
武器は石器。
その切っ先が折れてしまっています。
12号からは刃渡り16.3cm近くの石鏃が出たのですが、
胸に2本、止めを刺すように交差していたそうです。

戦いが終わってムラに運ばれて、丁寧に葬送の儀式をされたのでしょうか、
頭に朱が塗られていたといいます。


c0222861_21583136.jpg

驚いたのは、彼らは木棺に埋葬されていたということです。
しかも、24基が野外墓地のように整然と並んでいます。
この多数の木棺はすでに準備されていたのでしょうか。
木棺って、急に作れるようなものではないですよね。24も。

大量の木棺を加工する技術があり、一般兵(?)にも使用したとなると、
かなり高度な文化があったということになります。

この長野宮ノ前遺跡の時代が書かれていなかったのですが、
前後に紀元前4~500年の遺跡の記述があったので、
これもその時代の物と評価されているのでしょう。
現地説明板では紀元前300年となっています。


この当時、宇美八幡宮は祭祀されていたのでしょうか。

竹内宿禰がここに香椎から棺を持って来て埋めたのが紀元200年ごろ。
その末裔がそのまま留まって祭祀していますが、
この支石墓の人たちはさらに500年以上も前の人たちです。

遡っていく弥生時代
弥生時代は研究が進むにつれて、だんだん古代に遡っています。
かつて弥生時代は紀元前3世紀頃(初期)から始まったと言われていたと思いますが、
もっと早くから稲作をしている遺跡が見つかり始めてから、
今では紀元前5世紀ごろから弥生時代と言われているのではないでしょうか。
(もちろん紀元前10世紀説もあり)

そこで、従来の「初期・中期・後期」という分け方に「早期」が追加され、
「早期・初期・中期・後期」と四時代に区分されているようです。
具体的に何世紀なのかは学者によって違うという問題があり、
一般人には弥生時代が理解しにくくなっています。

中国正史と比較して学びたいとき、このアバウトな分類が、私にとっては大きな壁となっています。
世界に通じるように、「何世紀」という表現をするようになってほしいなと願っています。
あるいは、本や案内板には必ず何世紀と書いてほしいなと思っています。


さて、「倭国創生」に戻りましょう。つづきを読みましょう。

支石墓の下に縄文人が!

このように、糸島地方の早・前期の墳墓では、戦いの痕跡をとどめた墓が多く発見されていることがわかる。糸島地方では、弥生時代初期の戦いの事例が集中していることは従来から指摘されていうところであり、弥生文化が、この地において様々な軋轢の中で根を張り、拡大していったことを物語っている。

しかし戦いの対決軸が、縄文的な旧勢力 対 渡来系新興勢力といった単純なものではなかったことは、先の新町遺跡の戦死者の墓が端的に物語る。

その戦死者は、支石墓に埋葬されていることから、稲作文化を将来した渡来系であるはずであったが、出土人骨から推定される人物は在地の縄文系であった。戦いの本質についての研究は、まだ緒に就いたばかりといえる。


これを読んで驚いたのが支石墓の被葬者の問題。
新町遺跡の支石墓に埋葬されていたのは渡来人ではなかった!
「縄文系の在地人」だったというのです。
この名称、「縄文人」と簡単に言っちゃいけないのかな?(どう違うんだろう)

実は、支石墓と言えば被葬者は渡来人、と当然のように言われることについて、
博物館でも疑問を投げかけたことがあります。
「どうして、支石墓の被葬者は渡来人と言えるのですか?」
「それは朝鮮半島に支石墓が沢山あるからです」
「???」

この論法は一般人には、あまり説得力がないなと思いました。

定説では「文化は半島から日本列島に流れている。逆はない。」
というのですが、どうやって証明されたのだろうかと常々疑問を持っていました。

『日本書紀』を読むと、倭人が何度も何度も朝鮮半島に渡っているので、
だんだん違和感が出て来たのです。

どれもこれもが渡来人なら、倭人はどこにいる?
そんな疑問、土井ヶ浜ミュージアムでお話しましたね。
(土井が浜は中国の一地方とDNAが一致したらしい)

だから、支石墓の下には縄文系在地人が埋葬されていたという結果には得心が行きました。

天津神と国津神
コノハナサクヤ姫は国津神、ニニギの命は天津神。
そんな二人の出会い。
一夜を契っただけで、同居していなかったという状況からすると、この糸島に、
国津神のムラと天津神のムラがそれぞれあったと考えられます。

両族は戦いや通婚などいろんな形で融合して行った。
だから、本に書かれた、糸島での「戦いの対決軸が、
『縄文的な旧勢力』対『渡来系新興勢力』といった単純なものではなかった」
と書かれていた点にすごく納得しました。


あの細石神社三雲南小路遺跡を祭祀した施設で、その墓に埋葬された王と王妃が
地元で言われるようにコノハナサクヤ姫とニニギノ命の墓だとすると、時代はいつか。
墓の年代から割り出す事ができます。

それは前述の本では「弥生中期」となっていました。
いったい何世紀だろうか。
こうして るなの思考はストップするのです。
(一説では金印・西暦57年より少し前らしい)
キリストの時代?

大山津見一族はその時代に糸島にいたと仮定することになります。
(るなには、さくや姫とニニギノ命が一緒に埋葬されている気がしないので、
三雲南小路遺跡には大山津見命が祀られていると今のところ仮定しています。
しかし、大山津見命はもう少し古い時代の気がする…)

一方、天孫族は福岡の中だけで考えたら、南から北へ移動しているように見えます。
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というのは、系図を見ると、天孫族は最初に高木の神一族と通婚していますが、
高木の神といえば、高良山周辺や英彦山周辺が中心でした。
天の忍穂耳は英彦山や宝満川沿いに祀られています。

その後、糸島の大山津見一族、志賀島・壱岐島の綿津見の神一族となると、
北上しているように見えるのです。
これは、今までのイメージと正反対なので、とまどっています。
どうなることやら。

糸島の遺跡の中に、あるいは神社の伝承に、
コノハナサクヤ姫とニニギの命の時代を再現できるのでしょうか。

神話でなく歴史を求めて、この美しい伊都国をもう少しさまよいたいなと思うのでありました。


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(宇美八幡宮)

地図 宇美八幡宮 細石神社








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by lunabura | 2013-12-17 21:59 | 宇美八幡宮・うみ・糸島 | Trackback | Comments(2)

このはなさくや姫の里


このはなさくや姫の里


今、伊都国から木花開耶姫に関するものを調べ始めた所です。
記事を書く時間がとれませんが、少しずつ続きを書いて行きたいと思っています。

細石神社から始まったこのテーマですが、カテゴリ分けではたと困りました。
基本は神社の名前でさっとサイドバーから入れるようにしているのですが、
これから先、あちこちの神社を取り上げる事になるので、
シリーズとしてネーミングすることにしました。
先日、胸に浮かんだ言葉は「このはなさくや姫の里」。

伊都国とコノハナサクヤ姫の組み合わせは想像したこともなく、
今だに不思議でしかたがないのですが、
どんな伝承が育まれたのか、時間をかけて見て行きたいと思いました。

そんな折。
本日は、三人からこれに関する話があったので、びっくり。
イニシャルを使って紹介しようとしたら、三人ともKさん。 (+_+)
K1,K2,K3とすることにしました。

K1さん。
ニニギの命の神社をメールで教えて下さいました。
神社に呼ばれるという方で、先日もニニギの命の神社に呼ばれたとか。
私もチェックしていた神社なので、いずれ参拝したいと思います。

K2さん。
糸島の各地に巨大な磐座がいくつかあって、地元の人たちに忘れ去られていると
電話がありました。
私の方から「細石が砂鉄で、木花開耶姫の土の産屋がカマドを象徴している」
という話をしたら、宝満山の話になりました。
宝満山はもともと竈門神社というのですが、桜の紋だそうです。
玉依姫が天武天皇(?)によっ上書きされる前には大田姫が祀られていたらしい。
この辺り、少し調べる必要が出て来ました。
K2さんは木花開耶姫とニニギノ命が結婚した宮も知っていて、
案内して戴きたいと思っていた矢先の電話でした。いずれ探査してきます。

K3さん。
夢でニニギノ命と木花開耶姫の名前をそれぞれ別の日の夢で教えられていて、
その二神が夫婦と後で知ったそう。
るなに勧められて夢日記を付けるようになって、初期に見たのが木の太鼓橋のある神社。
あとで伊勢神宮と判明。念願かなって参拝。
その後、三輪山と出雲の夢を見せられているので、三輪山に行く予定だと。
「剣」と「みづち」の夢を見せられています。


この共時性をどう解くか。

思うに、筑紫の伝承は日本の始まりの歴史に関わるんだけど、
上書きされたりして、本来の神々の歴史が封じ込まれていて、
今、それが明らかになろうとしているのではと。

時間がかかっても、糸島の探査はやってこうと思います。

記事の分類は従来通り、神社名とか、遺跡とかに分けて行って、
<タグ>機能を利用して、
<このはなさくや姫の里>シリーズとか、
<欠史八代>シリーズとか、通して読めるようにしたいと思います。
(ただし、ぼちぼちと整理します …)

今日の記事は「にっき」に入るかな…。



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(細石神社の神木)


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by lunabura | 2013-12-14 23:52 | 咲くやひめの里 | Trackback | Comments(2)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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